AETHEREAL - 三人の魔女と最後の哲人王   作:筒原 燎

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ハルト Ⅰ - ⑥

 *

 

  夕方、ハルトは一人、家に帰った。

 少なくとも、線路沿いにある昭和時代に建てられた木造アパートの一室の他にハルトが

夜眠ることのできる場所はなかった。

 鍵のかかっていない扉をそっと開けて、中の様子を伺った。

 ゴミ袋が積み上げられた狭い靴置き場に、脱いだものと思しき靴は見当たらなかった。

 部屋の奥にも人の動く気配は感じられず、ハルトはいつものように意気消沈した。

 父親という人や母親という人なら泥酔して戻ってきて、靴も履いたまま眠り込んでいるということなら何度もあった。

 それに気付かないまま誰もいないと思って部屋に入ったハルトを、目を覚ました大人たちが「どこに行ってたんだ」とか「コソコソするな」などと言って怒り出して、ハルトが蹲り、泣く事もできなくなるまで殴り続けてきた。

 だから、ハルトは音を立てないように細心の注意を払いながら、ゴミ袋を除けて靴を脱ぐと、足の踏み場もない手狭なキッチンを慎重に抜けて、その奥にある六畳に満たない部屋をそっと覗き込んだ。それはほとんど習性だった。

 部屋には誰もいなかった。いつものように、大量のゴミが散乱して大して広くもない居住スペースを余計に狭めているだけだった。ゴキブリもネズミも姿を見せていないだけ、今日は少し運が良い日だった。恐る恐るトイレの中も確認したハルトはようやく、この西陽の差し込む蒸し風呂のような「家」には今、自分一人しかいないということを理解した。

 それは安堵というよりも、毎日繰り返される落胆だった。

 ハルトは仕方なく日中ずっと堪えてきた空腹を和らげてしまう事にした。

 油汚れがこびりついたままのキッチンには、昔ゴミ捨て場から拾ってきてしまった大鍋が一つ鎮座していて、昨夜沸かした湯がまだ残っていた。ハルトは水の匂いを嗅いで、極端に変な匂いはしないかったから大丈夫だろうと考えた。

 流し場の蛇口もハンドルを倒せば、ちゃんと水が出てきた。

 ハルトは一滴も無駄にしないように鍋に注ぐと、それを苦労してガスコンロの上に置いた。水の量が1ℓも超えてくると、鍋自体の重みもあって非力なハルトでは能力なしには、持っていることができなくなってしまうのだった。

 痛む腕をさすりつつ、不安に駆られながらハルトはコンロのつまみを捻った。

 チチチと音がした後、しばしの間を置いて鍋の下に、橙の混じった青い炎が見えた。

 コンロが古いせいなのか、火がなかなか点かない時があって、そういう時はガスが停まってしまったのでないかと思ってしまい、息が詰まりそうになった。

 姉が〝学園〞 に行く代わりに幾ばくかのお金を遺してくれてからは殆どそういう事もなくなってはいた。だが、幼い頃からある種の習慣としてハルトに染み付いてきた強迫観念は容易に彼から離れようとはしてくれなかった。

 鍋の中の水が沸騰するまでの間、ハルトは何もしないで、その場に立ったまま、泡が浮かんできては消えていく濁った温水面をじっと見つめていた。

 何も考えてはいなかった。

 何かを考えたら、つらくなるだけだから、できるだけ何も考えないようにしていた。

 良いことなど何もなかった。姉がいなくなってからは尚更だった。

 やがて湯が沸騰して、白い泡が鍋の縁まで 盛り上がって来たので、ハルトは急いで火を弱めた。吹きこぼれると、余計にコンロの火が点きづらくなってしまうからだった。

 すぐにシンク下の棚から1㎏で200円に届かない価格のパスタ袋を取り出したハルトは、そこから一握りもないくらいの乾麺を取り出して鍋に投じた。

  焦げつかない内に、箸を使って麺を湯に浸した。そこまでしてから、ハルトは少し考えて、色々と匂いのこびりついた冷蔵庫を開いた。中には殆ど何もなく、あったとしても生ゴミとさして変わらないようなものだったが、その中で唯一食べられそうなものはハルトが八月の頭に買ってきた1㎏で500円程度のウインナーソーセージだけだった。

 ハルトはそれを取り出して残りのウインナーの数と今月の残り日数を勘案しながら、一本だけ袋からつまみ出して鍋の中に入れ、残りを気にしながら湯に塩を振った。

 麺とウインナーが茹で上がると、ハルトはそれを箸ですくって食べた。もう皿に取り分ける必要はなかったし、そもそも拾ってきたきれいな皿は全部割られてしまった。

 食事には時間がかかった。

 ハルトは元々器用ではなかったが、それ以前に右手の指が満足に動かなかった。特に薬指は手についているだけと言っても良かった。それに、左手にある箸の持ち方もおぼついてはいなかった。  度々箸から零れ落ちる麺やウインナーが濁った湯を撥ね上げて、辺りや服を濡らした。

 食べ終わる頃には全身が汗びっしょりになっていた。

 大した事もしていないのに、重い疲労感に襲われていた。

 ハルトは深く息を吐いた。

 もう他にする事はなかった。できる事もなかった。

 毎日水を浴びる事は考えられず、ハルトは寝てしまう事にした。

 六畳にも満たない部屋の片隅に、丸くした自分の身を横たえた。

 時折アパートのすぐ脇を電車が通過して、轟音と共に部屋が地震のように揺れた。

 日によっては、ビニール袋の合間をカサカサとゴキブリが蠢く事もあった。

 寝ている時に突然お腹を蹴り上げられて、「こっちはイライラしてんのに悠々と寝てやがって」と怒鳴られた事もあったし、パチンコやガチャで負けたからといって、その腹いせに一晩中叩かれ続けたこともあった。

 かといって、ずっと起きていても誰かが帰ってくることはきっとなかった。

 眠ってしまわなければ、ただ空腹がつらくなってくるだけだった。

 ハルトは神経が昂ぶっている事を自覚しながら、懸命に目を閉じた。

 夢の中で、せめて姉と一緒にいられたら良いと願った。

 それが叶えられたことは一度としてなかったが。

 

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