◇
これ以上僕らは何かを話すことも、することもなかった。
どれだけの時間、こういしていただろうか。
やがて、彼女は静かに……少しだけ名残惜しそうに僕から離れて、腰を上げた。
無音が僕たちを包み込んだ。
この後どうしようかと頭を悩ませていた時、もう一つ、足音が後ろから響いた。
猛烈な悪寒。
それは、きっと殺気と呼ばれるものなのだろう。
あと数秒もこの場に立ち尽くしていれば、きっと僕は無残に転がる肉塊になっていたのだろう。
動かなかったのは、気づかなかったからじゃない。別に、それでもいいかな、と考えていたからだ。
しかし、その刃が僕を貫くことはなかった。
「殺すわよ。」
気付けば、ルシャは僕の後ろにいた。
そして、その先に、真っ黒の神父服のようなものを身に包んだ、鬼。
いつの日かすれ違った、亡霊のような男。人の慣れの果て。
ルシャはその男の手首を掴んでいた。
「久しぶりですね、先生。」
目ぶかに被っているコート越しでも、わかりやすいほどに動きを止める。
やがて、ゆっくりとコートを外した。
「気づいていたんだね、シヲリくん。」
「そりゃあ、もちろん。」
「いつの日か、忠告をしたはずなんだけどね。」
「そうですね。」
「……申し訳ないとは思ってるよ、でも君を殺さなければいけなくなった。」
そういって、先生はゆっくりと僕に歩み寄る。
その間に立つ、ルシャ。
僕は言外に、大丈夫とルシャの方に触れるも、ルシャは微動だにしない。
「させると思う?」
「それほどまでに、大事かね。」
「えぇ、私が生きた証よ。」
190にも届こうかという巨体に、服の上からでもわかる鍛え上げられた筋肉。
だというのに、頬はやせこけ、くまは酷く、肌は病的に青白い。
ルシャの前に佇む彼からはおよそ生気という物を感じなかった。
「ならば、余計消さないと」
「駄目よ。失敗したら失敗したでしょ?それにもし仮にシヲリに手を出したらここで私は自害するわよ、勿論存在だって残してあげない。」
早口に喋るルシャを男は漫然と見つめるのみ。
「もうどうしようもないわ。もう、条件は揃った、時間も無い、貴方はこれで儀式をやる他ないのよ。」
「それでも、不穏因子は消すに限る――」
それは不意打ちにつもりだったのだろう。
事実、ルシャは動くことはできていなかった。
ただ、立ち尽くすだけの僕に、いつの間にか握られていた氷のナイフが迫る。しかし、それはやはり、僕の皮膚を食い破ることはない。
ナイフは僕の目の先で停止する。
鬼の瞳に僕が映る。
ただ、僕を見つめている。
「そうか、シヲリ君、君――既に壊れているのか」
「先生に言われたくないですね。」
静粛な風が僕たちを包む。
興味をなくしたみたいに先生は、ルシャを引き連れて、踵を返す。
途端に、抗いようのない眠気が僕を襲う。
「え?」
ぐらり、視界が揺れる。
堪えようとするも、意識は自由落下を止めてはくれない。
自分が倒れていることに気付き、衝撃に備えるも、ふわり、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
「ごめんなさい。こんな別れになってしまって。」
「る、しゃ。君、は」
言葉を紡ぐこともままならない。
僕に彼女の決定に介入する権利はない。また意味もなく、理由もない。だってそれは彼女の選択だから。
それでも、最期に一つだけ、聞いておきたいことがあったことを思い出した。
君は――。
しかし、それも叶わない。
意識は、すぐに黒くそこへ。
その最後に、声が聞こえた気がした。
「さようなら。私の全てだった人。あなたと過ごしたこの2週間が私の人生でした。」
さいごに見た彼女は笑っていた。
本当に憎たらしいくらいに、花が咲くように綺麗に。
それがどうしても理解ができなくて、自分がどうすれば良いのか分からなくて、ぼくはもうすでに動けなかった。
動く気力も、もはやなかった。
ただ、一言
「ごめんなさい。だけどありがとう。……またね、シヲリ。」
それだけを残して彼女は去っていった。
◆
ひんやりと、地面の冷たさが今は妙に心地がいい。
薄れゆく意識の中、かすむ視界の端に彼女の姿を最後まで捉える。
しかし、それもやがて消えた。
沈む意識に身をゆだねる。
何をする気にもなれない。元より今の僕には何もない。
考えることは、これで良かったのだ。ということだけ。
彼女は、誰かの代わりに生きてきた。
……私はね、依り代なの。
彼女の生きる意味。
生れてすぐに、彼女は生きる理由を見出されたのだ。20年。これが彼女に許された、時間だった。その間、誰の記憶に残ることも許されず、ただ人形として生きてきた。
彼女もそれを良しとした。
20で死ぬのは、短いだろうか。それを決めるのは僕では決してないし、ましてやほかの誰でもない。
それは、彼女が死ぬことを受け入れていることも同じだ。
彼女は別に、助けなんて求めていない。死ぬことが彼女の生存理由で、むしろ最後に抱いたわがままに付き合えただけで、彼女にとっては嬉しかったのだろう。
記憶の中の彼女は、いつも笑っていた。
いつも楽しそうに僕を引っ張って、嬉しそうに何かを話していた。
……だから、これでいい。
僕に彼女を助ける理由は、何もない。
そもそも助けるという言葉すら、成り立たない。
目を瞑る。
「だから、これでいい、はずなんだ。」
僅かに残された意識の最後に、呟かれたその言葉は自分に言い聞かせるように。
抗いようのない、睡魔に僕は体をゆだねる。
今はもう、ただ泥のように眠ってしまいたい。
もう何も、考えたくない。
――遠くの方で聞こえる足音。
僕の意識は、ここで途切れた。
◆
右手に感じる重りを、傘を傾けて下ろす。
「はぁ、全く。こんなところにいたら風邪ひくよ――シヲリ君。」
そんなに時間は経っていないのだろうに、彼の背中や頭には雪が既に積もっている。
それを払うついでに起こそうかとこころみるも、一向に起きる気配はない。
「随分とこった魔術をかけたね。はぁ、仕方ない。」
倒れ伏しているシヲリの左手を自分の肩にかけ、なんとか起こし、背中に背負う。
脱力している人間というのは、かくも扱いずらいが、こんな状況下においてあまりない事は言ってられない。
「ふむ。重くなったね、シヲリ君」
帰路。
背中に感じる重みに思わず哀愁の念を感じる。
こうしてシヲリ君をおんぶしたのは、久しぶりな気がする。
そして、これが恐らく最後なのだろう。
10年前、私が拾ったこの男の子は、どうやら知らない間に随分と大人に近付いていたらしい。
しかし、まぁ。
いつかは、こうなるのではとは思っていた。
普通に生きていたい、という彼の願い。その願いを後押しはした。
それが私の義務だとも思っていたから。
しかし、こうなることはある程度必然であったのだろう。
普通を求めるにはいささか、シヲリ君は度を過ぎて異常だったもの。
「ま、また選ぶといいさ。私は何も手伝わないし、力も貸さない。しかし、私は腐っても君の親代わりだからね。そのための、選択肢くらいは用意しておくよ。」
届くことはないだろうが、背中に眠るシヲリ君にむけて私は言う。
恐らく、私も日が昇る頃には彼女に関する記憶を消されていることだろう。
これはそういう術式だ。全くもって腹が立つ。
「まったく、人の領土にずけずけと入って、かき乱して、私をおちょくるのもいい加減したまえよ。」
しかし、私からは手が出せない。
憎たらしいことに、私自身に実害がないと、正当防衛はなりたたない。
そういう約束だから。
そして私は今現在、何も害をこうむっていない。
だから、わたしが力を貸すことはできない。
が、しかし、シヲリ君がどうこうしたところで、それもまた、私の知ったことではない。
「さぁ、選びたまえよシヲリ君。
私としてはどっちでもいいんだ。
君がこのまま日常に戻ろうが、ひとたびこちら側に足を踏み入れてしまおうが。
私は心底どうでもいい。」
帰り道、シヲリ君を背負いながら一歩一歩歩いていく。
久しぶりに見る雪景色は、酷く幻想的で、そしてやはり気持ちが悪かった。
やっと帰ってきた我が家の戸を開き、彼自身の部屋に彼を寝かす。
穏やかな寝息をたてているシヲリ君。
私はそっと頭に手を添える。
「それは、君の選択だからね。」
それを最後に私は準備のために部屋をでた。
さて、この一連の騒動はどういう結末を辿るのか、これからのことを考えると少しだけ頭を抱えたくなり、ポケットから一本煙草を取り出し、火をつける。
大きく、深呼吸をする。
煙草の煙は陽炎のように揺れて、鼻孔をくすぐる。
「魔術士と言うのもまた、難儀な生き物だねぇ。」
先程出会った同郷の共に、思いを馳せる。
しかし、自分もまたその魔術士っであるのだから、救われない。
◆
12日目、終了です。
次回より最終日です。
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