STEINS; GATE ~抗い続けた者たちの執念のエピグラフ~ 作:明治アル蜜柑
「昔はね、今みたいに空気が汚れていなかったから、みんな雨に濡れても気にしなかったんだよ。ママが、かがりちゃんくらいの年の頃はね、雨が降るのは楽しみだったんだ。オカリンと一緒にね、雨の中を走り回ったの。雨の中を走るとね、まるで海の中を泳いでるみたいなんだぁ。オカリンとママはね、その中を泳ぐ魚なの。世界でたった2匹だけの。楽しかったなぁ…」
それはいつの頃だっただろう。1998年に鈴羽おねーちゃんと別れてから、長い事閉じ込められていた施設。私がそこから逃げ出したのは、いつの事だっただろう。
逃げ出した理由は……急にママに会いたくなったから。それだけだった。
その施設で、いつものように“教授”が来るのを待っていた時、かがりは小さな窓越しに、雨が降っている事に気付いた。窓から伝わって来る水の匂いを感じた時、ママの言葉を思い出した。
気付くと、かがりは頭に被せられたヘッドセットを脱いでいた。誰もその行動を予想していなかったから、かがりが逃げ出すのは簡単だった。
両腕に張り付けられていたコードを剥がして、小さな窓から外に出た。
そしてちょうど、駐車場から出発しようとしていたトラックの荷台に忍び込んだのだ。
施設は山奥にあったらしく、何時間も揺られた後、トラックはどこかの街に辿り着いた。
「…………」
トラックが停止している間に外に飛び出し、かがりは雨に濡れながら、あてもなく歩いた。
どこに行きたいとも思っていなかった。ママには会いたいけど、どこにいるのかわからなかったから。もし会えたとしても、その時点でのママはかがりより何歳も下だし、そもそもかがりの事を知らないのだ。
衝動的に施設を飛び出してしまったが、お金を持っているわけでもなく、彼女に出来る事は何もなかった。“教授”が捜しに来るのを待つくらいだ。
それまでは——。
それまでは雨に濡れていたかった。
雨はずっと、しとしとと降り続けていた。服が濡れてしまっていたが、全然気にならなかった。
(雨が痛くないなんて、変な感じ)
この時代の雨は、肌に触れても刺激を感じたりしなくて、むしろ、温かかった。自然というのは、単に人間を苦しめるためだけの存在ではないのだと、かがりは知った。この時代の雨には、命が宿っている、そう思った。
どれだけ歩いただろう。さすがに足が疲れて来た頃、屋根があるベンチを見つけた。
そこは路面電車のホームだった。無人で、改札もなかった。椅子に腰掛け、ぼんやりと空を見上げた。雨はまだ止みそうになかった。
(……きっと、神様はこの雨も嫌いなんだろうな。生きている雨より、死んでいる雨の方が、好きなんだろうな。そうじゃなきゃ、未来の雨が死んでいる理由を説明できないもの)
かがりには、未来で降っていた“死んでいる雨”が、今降っている“生きている雨”よりも良いものだとは、とても思えなかった。
けれど、ひとつだけ確かな事があった。
ママがいる未来に降っている雨は、“死んでいる雨”なのだ。
ママともう一度会う時、降っている雨は“死んでいる雨”なのだ。
だから、神様には特に文句はなかった。
「…………迷子ですか?」
ベンチの横に、男の子が立っていた。
かがりと同じか、少し下くらいの年齢に見えた。
傘を持ってはいるが、ズボンの膝から下が見てわかるほど濡れていた。きっと長い間、この雨の中を歩いていたのだろう。
かがりが黙っていると、男の子は隣に座った。疲れたような、苦しいような、そんな顔をしていた。
「………僕も」
男の子は呟くように話をしてくれた。それがどんな話だったのかは、かがりには思い出せない。けれど、少年はとても辛そうで、まるで世界の悲しみ全てを抱えているように見えた。
どうして彼は、見ず知らずのかがりに話しかけたのだろう。何故、かがりにその話を打ち明けようと思ったのだろう。不思議とかがりは嫌な気持ちはしなかった。
同じなのだ。私とこの子は同じ。なぜだか、不思議とかがりには、その時それが分かった。
自分の力ではどうしようもないもの、というのがこの世界にはある。
指の間からこぼれていくのを、ただ見つめる事しか出来ないようなものが。
諦めるわけにいかないのに、諦める事しか出来ない。
そういう絶望を抱えていた。
もしかしたら、この雨が2人を出会わせてくれたのかもしれない。こんなにたくさんの人が生きているこの世界で。
にもかかわらず誰にも気持ちを打ち明けられない2人を、この雨が結び付けてくれたのかもしれない。
生きている雨が。
温かい雨が。
優しい雨が。
その中を泳ぐ魚。世界でたった2匹だけの。
その話を、かがりはとても寂しい話だと感じていた。こんなに世界は広いのに、泳いでいるのがたった2匹だけだなんて。そう思っていた。
でも、今なら少しだけ、ママの気持ちが分かったような気がする。
2匹だけ。でも、1匹ではないのだ。自分と同じことを思っている人が、少なくとも、もうひとり、そばにいる。
それは寂しいけど、きっと、寂しくない。
生きている雨の海の底で、そういう事だとわかった。
「探し物 ひとつ」
「星の 笑う声」
「風に またたいて」
「手を伸ばせば 掴めるよ」
少年のために、何をしてあげる事も出来ない。けれど、この歌が、少年のために必要だと、その時は思ったのだ。
「…………素敵な、歌ですね」
「…………」
「僕にも、掴めるかな…」
「がんばれ……まっどさいえんてぃすと」
少年は静かに立ち去って行った。
それを見送った後も、かがりはじっと、雨を眺めていた。
「雨……やまないな」
「探したよ」
“教授”が来た。
「ほら、行こう」
「………」
「どうしたんだい?」
「………私、行かなきゃ」
かがりは“教授”の手をふりほどいて、道路に飛び出し、雨の中を走り出した。
その時、前方からトラックが水たまりの水を飛び散らしながら、こちらに進んできていた。