ミユキ   作:松村順

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Part 1ー1

         Ⅰ

 

 その子はちょっとオドオドした雰囲気で診察室に入ってきた。ホットパンツからはスラリとした脚が伸び,ノースリーブのTシャツからは無駄な肉のないしなやかな腕が伸びている。いかにも夏らしい服装。夏休みの平日の診療日,ふだんの平日には受診できない中学生,高校生くらいの女の子が来院することがある。この子もそうなのだろうと思って目を向けたその顔立ちに,わたしの視線は固まった。《ミユキ……》心の中でつぶやいた。どれくらいそうやって見つめていたのか,わたしはあわてて首を振る。《ミユキのはずはない。ミユキは5年前に死んだんだから……》

 その子は,わたしに見つめられたせいか固まったように立ちすくんでいる。わたしはなるべく優しい声と表情で話しかける。

「ごめんね。見つめてしまったりして。その椅子に腰掛けて」

 その子はぎこちない仕草で腰掛け,顔を伏せた。緊張しているみたい。Tシャツから見える体のライン。胸がほとんど膨らんでいない。背格好から中学生か高校生くらいと思ったけど,まだ小学生なのかな? 問診票には「女性ホルモンについて相談したい」と書いてある。生理のこと? それとも胸が育たない悩み? そんなことを予想しながら問いかける。

「女性ホルモンのことで相談したいのね。具体的に,どんな相談なのかしら」

 その子は顔を上げてわたしを見る。心なしか目が潤んでいる。

「女性ホルモンを使うと二次性徴が止められるって,ほんとうですか?」

 その声は,かわいい顔立ちに似合わず意外にハスキー。でも,言ってることがおかしい。

「それは逆でしょう。女性ホルモンは女の子の二次性徴を促進するのよ」

 その子はわたしをじっと見つめる。そして,つぶやいた。

「ボク,男の子なんです」

「えっ!……」

 わたしはまたマジマジとその子を見つめる。その可愛くて優しい顔立ち,華奢な体つき,この子が男の子?……。そんなわたしの驚いた様子に,その子はちょっと微笑んだ。

「よく間違えられます」

「そうでしょうね。並の女の子よりずっと可愛くて,きれいだもの」

「ありがとうございます」

 その子は素直に礼を言う。

「可愛いって言われて,うれしいの? 男の子の中には,そう言われると気を悪くする子もいるけど」

「ボクはうれしいです」

「ああ,それはとても良いことだわ。せっかく可愛い顔立ちに生まれついたんだから,それを恥じたり嫌がったりせずに,よろこんで受け取ってほしい。『男だから』なんてくだらない理由で自分の宝物をないがしろにしないでほしいわ」

「先生にそう言ってもらえて,うれしいです。それで……」

 その子はちょっと口ごもる。わたしは「話を続けて」と言うようにうなずいてみせる。

「二次性徴を止めたいんです。男っぽくなりたくないんです。声変わりはしてしまったけど,体格や顔立ちが男っぽくなるのはいやなんです。今のまま,『女の子みたい』と言われるままでいたいんです」

 その切なそうな表情に,もう一人の顔,少女の面影がダブる。《ミユキ》と心の中でつぶやく。5年前に死んだ子の名前……。

「今,いくつなの?」

「15歳です。高校1年だけど,まだ誕生日が来ていないから」

 わたしは黙ってうなずく。ミユキが生きていれば15歳。同じ歳なのね。ミユキが5年前に死なず,小学校を卒業し,中学校を卒業し,高校生になっていたら,きっとこんな美少女になっていただろう,そんなわたしの叶わぬ夢,妄想をそのまま形にしたような子が眼の前にいる。男の子だけど,本人が「男になりたくない」と願っている。それなら,わたしのできる範囲でその願いを叶えてあげよう。それは,わたし自身の願いでもあるから。でも,医者として必要な説明,情報提供はしておかないといけない。

「女性ホルモンは男性ホルモンの働きを抑えるから,女性ホルモンを使えば男っぽくなる変化を止めることができる。ただ,2つのリスクがあるわ。

1つは,女性ホルモンの作用が不十分な場合。女性ホルモンを使っても男性化を抑えきれないかもしれないというリスク。

もう1つは,それと逆みたいになるけど,女性ホルモンを何年も使い続けると,男性化が徹底的に抑制されて,仮に『やっぱり男っぽくなりたい』と思って女性ホルモンをやめても,元に戻らないかもしれないというリスク。特に,精子が作れなくなって,将来子供を持ちたいと思っても子供を作れなくなるというリスク。

この2つのリスクを分かっていてね」

「分かってます」

 その子は即答した。わたしは考え込む。不妊症のリスクも含む重大な決断。そんな決断を15歳の子供にさせていいのか。でも,18歳とか20歳になるまで待っていたら,その間に男性化が進んでしまう。それは,この子にとって取り返しのつかないことだろう。この子の今の気持ちがこれからもずっと揺るぎないものなら,今すぐ始める方がいい。でも,5年後,10年後,20年後に気が変わって,今の選択を後悔したら? その時,考えの未熟な15歳の少年の軽はずみな願いを引き止めもせずに受け入れたわたしが責任を問われることは?……ある。その危険はもちろんある……。

「だめですか?」

という声。考え込んだわたしの迷いを感じ取ったようなその子の声。不安げにわたしを見つめるその子の眼差し。わたしはその眼差しを受け止める。

「だめですか?」

 その子はもう一度問いかける。

「だめなわけ,ないわ」

 わたしはきっぱり答えた。その子は花開くような明るい笑顔を浮かべた。ああ,よかった。この美しい笑顔,わたしの決断がこの笑顔を引き出したのなら,それはきっと正しい決断のはず。そう信じよう。わたしは女性ホルモン剤について簡単に説明する。

「女性ホルモンと一口に言っても,大きく分けて卵胞ホルモンと黄体ホルモンがあるけど,キミの目的には卵胞ホルモンだけでいい。剤形として,注射,塗り薬,貼り薬,のみ薬があるけど,副作用の点からもバイオアベイラビリティの点からも注射がお勧めかな」

「痛いですか?」

と尋ねる心配そうな顔がおかしい。

「そんなに痛くはないわ」

と答えて,注射の準備をする。

「針が細いほうが痛くないって,ほんとうですか?」

 その子がおずおずと尋ねる。

「よく知ってるね。その通りよ」

「なら,なるべく細い針でお願いします」

 ちょっとおかしくて笑みが漏れる。

「粘性のある油性のデポ剤だから,あまり針が細いと入っていかないのよ」

と言いながら,手にした21ゲージの針を置いて23ゲージの針を取り,シリンジに付ける。アンプルを折り,注射液を吸う。思ったとおり,引きが悪い。まあ仕方ない。ゆっくりピストンを引き上げる。1mlの液だから,さほど時間はかからない。

「どこに打つ?」

「ふつうはどこに打つんですか?」

「筋注だから肩かお尻だわ,ふつうは」

「お尻の方が痛くいないんですよね?」

「そうでもないわ。どっちもそんなに違わない」

「それじゃ,肩にお願いします」

 ノースリーブだから,袖をまくる必要もない。露出した肩をアルコール綿で拭くと目を閉じた。

「大丈夫よ。そんなに痛い注射じゃなから」

と言って,針を刺す。ピストンをゆっくり押していき,注射液を入れ終わり,針を抜いてアルコール綿で拭き,絆創膏を貼って揉んであげる。

「思ってたほど痛くないんですね」

「だから言ったでしょう。そんなに痛い注射じゃないって。まあ,たまに痛点を刺してしまうと痛いけど」

「そんなこともあるんですか?」

「まあ,ごくたまにね」

 ちょっと脅かしておく。覚悟を決めるようなその子の表情がおかしい。注射したところを揉み終わって

「はい,おしまい」

と声を掛ける。

「ありがとうございました」

 その子はお礼を言って立ち上がる。

「代金なんですけど,高校生なのであまり……」

「要らないわ」

「えっ?」

「要らないわ。高校生からお金を取ろうと思ってないわ」

「でもそれじゃあ……」

「いいと言ってるから,いいの。それより,ちゃんと定期的に打ちに来なさい。1回だけじゃ意味がないからね」

「はい……それで,どれくらいの頻度で?」

「まあ,2週間に1回くらい。今度は再来週」

「はい」

 その子が出ていくと,次の患者を呼ぶ。その患者が終われば,また次の患者……。忙しさに紛れているうちに診療が終わり,夕食に出かける。馴染の喫茶店でサンドイッチをつまみながら,コーヒーを飲みながら,ふと今日のことを思い出す。

「ミユキ……」

小さな声でつぶやいた。

 

 その子はきっちり2週間後にまたやってきた。わたしは淡々と注射をする。

「はい,おしまい」

「ありがとうございます」

と言ってちょっと間をおいて

「ちょっとご相談があるんですが」

と,その子は切り出した。

「今日から2週間後はもう2学期が始まってます」

「ああ,そうね」

「放課後に来れなくはないんですが,男子の制服を着て婦人科のクリニックに入るのは……」

 わたしが思わず笑う。確かに,それは本人も恥ずかしいだろうし,わたしとしてもちょっと迷惑。

「じゃあ,日曜日においで。今日は木曜日だから2週間と3日あくけど,それくらいのズレはかまわない」

「日曜日に来て,いいんですか?」

「いいわよ。あっ,クリニックの入口は閉まってるから,脇の自宅のドアのドアホンを鳴らしてね」

「ありがとうございます……それと……」

「まだあるの?」

「代金は要らないと言っていただけるのはとても助かります。でも,申し訳ない気がして」

「わたしが要らないって言ってるんだから,気にしなくていいのに」

「そうなんだとは思うけど……」

「その話も,今度の日曜日にしましょう。今日は次の患者が待ってるから」

「あっ,すみません」

と答えて,その子はいそいそと診察室を出ようとする。その背中に声をかけた。

「時間は,お昼過ぎがいいわね。15時は?」

「はい」

 その子は振り返りながら,はっきりした声で答えた。

 

 日曜日の14時45分。そろそろかな,と思いながら,苦笑いする。わたしは何を期待しているんだろう。そうツッコミを入れながら,14時半頃から読書が手につかないのは事実。今日は休診日。他の患者はいない。天使にようだったミユキを高校生にしたような子とゆっくり語り合う時間はある。いや,わたしが勝手にそう期待しているだけで,あの子はこの後に用事を入れているのかも……こんな心配をしている自分にまたツッコミを入れてみる。そうしているうちにドアホンが鳴った。時計を見ると14時50分だった。

 ドアを開けると,ベルボトムのジーンズに半袖のTシャツを着たその子が立っている。中に通し,リビングルームを通り抜け,診察室に連れて行く。クリニックと自宅と,入口は別だけど,中ではつながっている。注射はリビングルームでなく診察室でしたい。

 これまでと同じように,23ゲージの針を刺し,ゆっくり注射液を三角筋に押し入れる。その子も,もう怖がりはしない。

 注射が済むと,リビングルームに戻る。ダイニングテーブルに椅子が2つ。1つで足りるのに,捨てる機会もないまま置いている。そのうちの1つにその子を座らせ,わたしは向き合って座る。

「注射の代金のことを気にしてるのね」

「はい。お金は要らないと言ってくれるのはありがたいんですけど,なんだか申し訳なくて」

「それじゃあ」

と言って,ちょっと間を置く。してほしいことは,ただ一緒に居てくれること,それだけ。

「茶飲み話の相手をしてちょうだい」

「えっ?」

「ひょっとして,これから何か用事があるの?」

「いえ,何もありませんけど」

「じゃあ,1時間くらい,一緒にお茶を飲んでましょう」

 わたしはキッチンで紅茶を淹れる。

「ミルクかレモン,入れる?」

「ミルクをお願いします」

 ティーポットに淹れた紅茶を2つのティーカップに注ぎ,1つのカップにミルクを足して,テーブルに置く。

「いただきます」

 その子はカップに口を付ける。わたしもカップを手に持つ。手に持ったまま,その子がお茶を飲む顔を見つめる。その子は一口飲み終え,カップを置くと,わたしの視線に気づいた。

「どうなさいました?」

「どうもしないわ」

 わたしはカップを口に持っていく。一口飲み,カップを置き,またその子を見る。その子は気まずそうに下を向く。

「下を向かないで,こっちを向いて」

「はい」

 顔を上げながら,戸惑うような表情を浮かべる。確かに,母親くらいの年頃の女からまじまじと見つめられると,気味が悪いかもしれない。

「キミは似てるのよ……わたしの死んだ娘に」

 その子は驚いたような表情を浮かべる。そりゃあ,驚くわね。そんなこと言われたら。

「5年前のことだけど……ほんとうに,天使のように可愛い子だった」

と言って,またその子を見つめる。その子もわたしをじっと見る。

「10歳だった……生きてたら15歳。キミと同じ歳」

 ここでちょっと沈黙。そしてその子がわたしに尋ねる。

「先生は,つまり,ボクを娘さんの身代わりにしたいということ?」

「物わかりがいいわね。そのとおりよ」

 その子はわたしをじっと見つめる。その表情に嫌悪感はない。ひょっとして,よろこんでる?……いや,それは希望的観測かも。黙ってわたしを見つめるその子に,わたしから探りを入れる。

「女の子扱いされるのはいや?」

 その子は首を振る。

「きっとそうよね。男になりたくなくて女性ホルモンを注射してるんだから,女の子扱いされていやなわけないよね」

 その子はゆっくりうなずく。うん。素直ないい子。

「娘はミユキという名前だった。キミをミユキと呼んでいい?」

「はい」

 という返事を受けて,わたしは呼びかける。

「ミユキ」

「はい」

 と答えるその子の表情。恥ずかしげな,でもどこかうれしそうな。

「女の子の名前で呼ばれて,うれしい?」

「はい」

「女の子になりたいの?」

「……たぶん」

「たぶん?」

「自分でもはっきり分からないんです。男になりたくないという気持ちは確かです。でも,女になりたいとまで思っているのかどうか,自分でもよく分からない」

「ふーん……」

 わたしの中で医者としての興味が芽生えてくる。性同一性障害とかトランスジェンダーとか,言葉は知っているけど,当事者に出会ったのはこれが初めて。本人はどんな気持ちで生きているのか,詳しく具体的に知りたい。そんなわたしの気持ちを分かっているのか,その子は語り続ける。

「ボク,男の世界になじめないんです。子供の頃から……今でも子供だけど,幼い頃から,きれいなもの,上品なもの,優雅なもの,洗練されたものが好きで,自分もそうありたいと願っていました。でも,こんな気持,男子たちからはバカにされるんです」

 ああ,それはよく分かる。

「無理して野蛮な男たちと付き合わなくてもいいわよ」

「はい。そう割り切ることにしました。自分でも,上品で優雅で洗練された人でありたいと願っているし,そういう人が好きです。顔立ちや体つきも女らしい方が好きです」

「じゃあ,女たちと付き合いなさい。女たちはキミを……ミユキをかわいがってくれるでしょう。こんなに可愛いんだから」

「……」

 ミユキはしばし沈黙する。それから口を開いた。

「女子たちはボクを『異性』として見るんです。『男』として見るんです」

「ああ……」

 その事情は想像できる。どれほどかわいくても,いやむしろ,かわいいからこそ,男子として意識し,男子として恋の対象にする。女子はそうかもしれない。とりわけ高校生の年頃は,そうかもしれない。

「わたしはミユキを女として愛してあげる。だって,娘なんだもの」

 わたしの言葉を受けて,ミユキの顔に浮かんだ表情。まず,驚き,戸惑い,それから喜び。

「ありがとうございます」

 わたしはミユキの隣に椅子を移して座り直す。そして,ミユキを抱き寄せる。ミユキは安心したように体をわたしに預ける。わたしはミユキの髪をゆっくり優しく撫でながら語りかける。

「ミユキは……娘は,わたしを『ママ』と呼んでた。ミユキもそう呼んでくれる?」

「はい」

 ミユキは顔を離し,わたしを見つめながら答えた。そしてまた,わたし胸にそっと顔を当てるように体を寄せる。そうやって互いの体の温もりを感じあう。5分くらい,それとも10分くらい?……わたしは席を立ち,母が形見に残した時代物のステレオセットの電源を入れ,これもまた時代物のアナログLPレコードをターンテーブルに載せ,針を落とす。聞き慣れたチェロの音色が流れてくる。そして,ミユキの隣に戻る。ミユキがわたしに顔を向ける。

「バッハの『無伴奏チェロ組曲』よ」

 ミユキはうなずく。

「初めて聴く曲だけど,いいですね」

「ミユキもいいと思ってくれる? 良かった,趣味が合って」

 ミユキの肩を抱くように腕を回して抱き寄せ,一緒にチェロの音色に聞き入る。

 時間はゆったり流れ,LPレコードの片面,無伴奏チェロ組曲の1番と2番が終わる。無音の部屋で余韻にひたるようにそっとミユキの髪を撫でる。耳を覆い,顎まで伸びた髪。

「これくらい長く伸ばしても,大丈夫なの? 校則とか」

「ボクの高校はそういう点は自由なんです」

「それは良かったね。高校はどこ?」

 ミユキが答えたのは県内でも指折りの名門校。

「頭いいのね」

「本を読むのが好きなんです。小学生の頃から。男子たちと元気に遊ぶのが苦手で,いつも本を読んでました。それで,いつの間にか物知りになってて……」

「あら,うちにもそこそこに本はあるわ。医学の本が多いけど,他の自然科学系の本もあるし,文系,歴史や文学の本も少しはあるわ。こっちにおいで」

 わたしは席を立ち,ミユキの手を取ってをわたしの部屋に入る。壁に本棚が2つ。それをほぼ埋めるように本が並んでいる。ミユキはうれしそうにそれらの本の背表紙のタイトルを目で追う。

「分子生物学って,どんなもの?」

「その名のとおり,生命現象を分子レベルで解明しようという学問よ」

「ふーん,おもしろそう」

 ミユキはその本を手に取り,ページをめくる。そして,まじめに読み始めた。

「立って読まなくてもいいのに。リビングルームに戻りましょう」

 リビングルームのテーブルでミユキは分子生物学の本を真剣に読んでいる。わたしはLPレコードを裏返し,針を落とす。ミユキの隣に座り,本を読むミユキを見ている。それで心が満たされる……いや,それはウソ。見てるだけでは満足できない。そっと抱き寄せたい。頬をすり合わせたい。体のぬくもりを感じたい……。ああ,その前に,きれいなドレスを着せたい。あの子が生きていた頃,夢見ていたように,きれいなドレスを着せて,お化粧して,美しい素材をさらに磨き上げてから,それから,優しく抱き寄せたい。そんな思いを胸に秘めて,ミユキを眺める。チェロの音色と,時おりページをめくる音が聞こえるだけの静かな部屋で。

 ふと,ミユキが本から目を上げる。わたしと目が合う。ミユキはニコッと笑って,また本に目を落とし,読書に没頭する。そう,それでいいの。ミユキは無心に好きなだけ本を読んでなさい。

 やげてレコードのB面も終わった。

「ミユキ,そろそろおうちに帰る方がいいんじゃない?」

「ああ,もうこんな時間……」

 ミユキは本に目を落とす。

「もっと読みたいのなら,貸してあげる」

「よろしいのですか?」

「いいわよ。いつも手元に置いておかないといけない本ではないから。再来週返してくれればいい」

「ありがとうございます」

 ミユキは本をバッグに入れて席を立つ。わたしは大事なことを尋ねる。

「ミユキの着てるものはみな女物よね。9号?」

「9号も着るけど,7号の方が多いです」

「ああ,そう。ほんとに華奢なのね」

 ミユキはちょっと恥ずかしそうに,でも嬉しそうにうつむく。

「じゃあ,再来週もこれくらいの時間にね」

「はい」

 

 翌週の日曜日,わたしは駅ビルのショッピングモールに出かけた。このモールの4階にドレスを売る店があったはず。ます,この店で探そう。気に入ったものが見つからなければ,都心に出てもいい。電車で1時間はかからないから。

 その店で,わたしはドレスを1つ1つ見ていく。《あっ,これ!》と思うものが見つかった。シフォンの下布にスパンコールが縫い付けられていて,その上にレースの上布がかぶさっている。バーミリオンレッドのドレス。丈はミモレ。ミユキが着れば膝下20センチくらいか。

「これは9号だけど,7号もある? あと,色違いも」

と店員さん尋ねる。

「はい,ございます。すぐにお持ちします」

という言葉どおり店員はすぐに7号のドレスをいくつか持ってきた。赤のほかに,黒とマリンブルー。3着まとめて買おうとして,思い返す。同じ7号という寸法表示でもメーカーによって違いがある。ひょっとしてミユキに小さすぎたり大きすぎたりするかもしれない。とりあえず1着だけ買って着せてみよう。どれにしようか……。結局,マリンブルーを選んだ。

 

 翌週の日曜日の14時50分。ドアホンが鳴り,わたしはミユキを迎え入れる。診察室に通して注射して,リビングルームに戻り,椅子に座らせて,ミユキの前にマリンブルーのドレスを差し出す。ミユキは一瞬驚き,それから明るい笑みを浮かべた。

「きれい」

「ミユキにお似合いよ」

「ありがとうございます……ママ」

 ためらいがちの「ママ」という言葉の響きが心地よい。

「ヨーロッパ絵画の『青衣の聖母』が着てる衣装はこんな青色ですよね」

「ミユキはずいぶん物知りね」

「えっ,いえ,そんな……」

 はにかむ表情もかわいい。ミユキはドレスを手に取る。そして,襟元のラベルを見る。

「“Soirée mondaine”ソワレ・モンデーヌ,『社交界の夕べ』というような意味?」

とつぶやいた。

 わたしもそのラベルを見る。

「何語かしら? 英語でもドイツ語でもないわね」

「フランス語です」

「ミユキ,フランス語ができるの?」

「ええ,まあ……」

「高校でフランス語の授業があるの?」

「いえ。ボクが好きで,独学で勉強してるんです。中学生の頃から」

「ふーん,それはまた,どうして? フランス文学に興味があるの,それともフランス映画?」

「文学も映画も興味あるけど,一番は『花の都パリ』への憧れです。ミーハーなんです」

「ミーハーでも何でも,ちゃんと外国語を勉強するのは偉いよ」

 ミユキはちょっとはにかむように顔を伏せる。

「それとね,『ボク』じゃなくて『わたし』と言いなさい。今どきの女子高生には『ボク』を自称に使う子もいることは知ってるけど,ミユキには似合わないわ。ミユキは『わたし』と言うほうが似合ってる」

「はい」

 ミユキは素直に答える。

「じゃあ,着替えなさい」

 ミユキは立ち上がり,向こう向きになり,着てきた服を脱ぐ。9月とはいえまだ暑い。Tシャツを脱ぐと素肌が現れる。ミユキはわたしの方を振り返える。

「直接着ていいんですか?」

「いいわよ。今度,ランジェリーも買っておくわ」

 ミユキはちょっとためらってからジーンズを脱ぎ,ドレスを着る。背中のファスナーを上げようとして途中で手が止まる。困ったようにこちらを振り向く。わたしは笑いながら,途中で止まったファスナーを引き上げる。バストやウェストをつまんでみる。サイズはぴったしみたい。布地が余ってもいないし,きつすぎもしない。それを確認して,ミユキの肩に手をかけ,こちらを向かせる。普段着のミユキは「かわいい」けど,ドレスを着たミユキは「美しい」。フッと見つめてから,ミユキの手を取る。

「こっちにおいで。お化粧してあげる」

 ミユキを化粧台のスツールに座らせる。

「ミユキは素顔のままでも十分きれいだけど,ちょっと薄化粧してみたいの。わたしがね」

 さっと下地を塗って,ファンデーションを刷毛で広げる。アイシャドーを入れ,口紅を塗る。これくらいでいいわね。ミユキはじっと鏡の中の自分の顔を見ている。

「どう? お化粧した自分の顔は」

 ミユキは何も答えず,鏡に映る自分の顔と,その隣のわたしを見つめる。わたしはミユキの髪にそっと唇を付ける。そして,ミユキをダイニングテーブルに戻す。

「紅茶を淹れるから,待っててね」

 お湯を沸かし,紅茶を用意し,2つのカップに注いでテーブルに置く。わたしはミユキの隣に座り,ミユキをそっと抱き寄せる。

「ミユキは,ふだんの日曜日はどんなことをしてるの? フランス語のお勉強?」

「フランス語の勉強もするけど,たいてい本を読んでます」

「ああ,そう話してたね。どんな本を読むの? 文科系,理科系? それとも,芸術系とか?」

「どの分野も好きですよ。理系も文系も」

「あら,興味の範囲が広いのね」

「雑学,濫読とも言いますけど」

 おどけた口調で答えてから,ミユキはふと真顔に戻る。

「みんなと一緒に遊ぶのが苦手だったんです。男の子たちの遊びの輪に入ることができなくて,いつも本を読んでいたんです。一人で本を読んでるのが一番楽しかったんです。今もそうだけど」

 わたしは深くうなずく。それはそうでしょう。こんな優雅で上品な子,小学校や中学校の悪ガキたちと一緒に遊ぶなんて無理。そんなこと,しなくていい。ミユキは一人で自分の世界を作っていればいいの。世間の下品さから隔離されて。

 わたしは黙ってお茶を飲む。それから,ステレオセットの電源を入れ,レコードをかける。ピアノの音が流れ始める。隣の椅子に戻ったわたしにミユキが話しかける。

「これは,わたしも聴いたことがあります。曲名は分からないけど」

「バッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻』。読書もいいけど,たまには音楽をゆっくり聴くのもいいでしょう?」

「はい」

 わたしはミユキを抱き寄せる。ミユキはわたしにそっと体を預ける。時間はゆっくり流れる。ピアノの音とミユキの体のぬくもり。ミユキの顔を眺めると,目を閉じている。濃くて長いまつげにそっと触れると,目を開いた。

「ごめんなさい。起こしちゃった?」

 ミユキはゆるく首を振る。

「寝てはいませんでした。ママの体のぬくもりが気持ちよくて……」

 ああ,わたしと同じことを思っていたのね。うれしい。わたしはミユキを強く抱き寄せた。

 レコードのA面が終わり,裏返し,B面をかけ,ミユキと一緒に聴く。そういえば,娘のミユキが7歳か8歳の頃,「バッハをピアノで演奏したら世界一」と評判を取っていたロシアの女流ピアニストの演奏会に一緒に出かけたことがある。あの時のプログラムも『平均律クラヴィーア曲集第1巻』だった。

 やがてB面も終わる。両面あわせて1時間くらい。そろそろミユキを帰してあげよう。

「ミユキ,そろそろお着替えして帰りましょう」

「はい」

 席を立ったミユキ。

「でも,着替える前に」

 わたしはドレス姿のミユキを抱きしめる。薄化粧した顔を見つめる。ミユキもわたしを見つめる。澄んだ黒い瞳。そっと唇を近づける。つまさき立って額に唇を触れる。驚いたようなミユキの顔。唇を離し,ミユキの耳元でつぶやく。

「ミユキ,わたしの愛娘[まなむすめ]」

 そして,腕をほどく。

「さあ,お化粧を落としてあげる。そしてお着替えしなさい」

「はい」

 普段着に着替え,ドアをでようとするミユキに声をかける。

「再来週はもっと長い時間一緒にいたいけど,いいかしら?」

「何時くらいまで?」

「7時くらいまで。夕食を一緒にしましょう」

「はい」

 

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