Ⅱ
翌週の日曜日,駅ビルのドレスショップにまた出かけた。サイズは7号でちょうどいいことを確かめたので,黒と赤のドレスも買う。そして,ビスティエ。店員は白とピンクと黒を見せる。どれもミユキに似合いそうだけど,わたしは黒を選んだ。
その翌週,わたしもそれなりにおしゃれする。ドレスは着ない。パンタロンスーツ。そして,ふだんしない化粧もして,ミユキを待ち受ける。14時50分,いつものようにドアホンが鳴る。ドアを開けてミユキを迎え入れる。わたしを見てびっくりした様子。
「ママ,今日はきれい……今日もきれい」
わたしは思わず吹き出した。
「お世辞はいいわよ」
「お世辞じゃありません」
ちょっと口をとがらせて反論する顔もかわいい。
ともかく,まずは診察室で注射してから,リビングルームに戻る。そして,黒と赤のドレスを見せる。
「どっちがいい?」
「うーん……」
ミユキはちょっと迷ってから,黒を選んだ。うん。いい色ね。サテンのような光沢のある黒は決して地味ではない,むしろ華やかな色。
「今日は下着も着るのよ」
そう言って黒のビスティエを渡す。ミユキはこの前と同じように向こう向きになって着てきたシャツとジーンズを脱ぐ。向こう向きになるのは,恥ずかしいから?
「恥ずかしがらなくてもいいのに。母と娘なんだから」
「恥ずかしいんです」
振り向いたミユキの表情が切なげ。
「こんなグロテスクなもの,見てほしくない」
「ああ……」
そうだった。ミユキの体のあの部分は男なんだった。つい忘れてた。
「切り落としてしまいたい。ママは,この手術はできないの?」
それは……できない。残念だけど,この手でミユキの願いを叶えてあげられない。医者になって初めて,外科を選ばなかったことを後悔した。
ミユキは気を取り直したように手際よく着替えを済ます。そして,この前と同じように背中のファスナーをわたしが引き上げる。そして,この前と同じように化粧してあげる。
「今日は一緒にお出かけするのよ」
「どこに?」
「それは秘密。ミユキはわたしについて来ればいいの」
そう言って連れ出す。
ミユキと並んで歩くと,時おりすれ違う人が振り返る。そりゃあ,そうでしょう。こんなきれいな子がエレガントなドレスを着て街を歩いていれば。10分ほどして,お目当ての場所に着く。ドアを開けて中に入る。エントランスを抜け,ホールに入る。広いフロアに男女のペアが踊っている。ステージでバンドが演奏している。
「ここは?……」
「ダンスホールよ」
「わたし,ダンスなんて……」
「わたしが教えてあげる」
まず,リズムの取り方,リズムにあわせて体を動かすコツ。
「最初は,手拍子,足拍子でリズムを取るの。それに慣れてきたら,肩と腰でリズムを取るようにするの」
ミユキは素直に体を動かす。飲み込みが早い。リズム感があるのかな。
「じゃあ,マンボの動きを覚えよう」
ダンスの中でいちばん簡単なステップ。向き合って二人でステップを踏む。1時間もしないうちにミユキはマンボの動きを覚えた。
「これだけじゃ,面白くないでしょう。もっと自由に体を動かしていいの。手を伸ばしたり挙げたり,脚を前や横に挙げたり,クルクル回転したり」
わたしはお手本を示すけど,ミユキは戸惑っている。まあ,初めてなら無理もない。
「ミユキはマンボの動きをしてなさい。わたしがそれにあわせて自由にアレンジして動くから」
ミユキは習ったとおりの動きをする。わたしはその動きにあわせながら手足を自由に伸ばしたり,ターンしたり,背をのけぞらせたり,ミユキの腰に腕を回したりする。そしてミユキを見つめながら《やってごらん》と促す。少しずつ,ミユキも決まり切った動きから自由にアレンジし始める。《うん,いい感じ》。
その合間にスローな曲がかかるとチークダンスを踊る。
「抱き合ってリズムにあわせて体を揺すってればいいの」
チークダンスだから頬を寄せ合うのが基本だけど,正面から向き合うこともある。上気してほんのり赤みを帯びたミユキの顔。色っぽい。きっと周りの男たちの視線を集めているんだろう。確かめようとは思わないけど。
さすがに踊り疲れて椅子に座って休む。どこの誰とも知らぬ男が「ご一緒にいかがですか」と声をかけてくる。ああ,ダンスホールはこれが面倒なんだ。首を振って拒絶する。誤解の余地を与えないよう,きっぱりと。誰が,こんなぶさいくな男と踊るものか。これほど優雅で美しいパートナーがいるのに。
「ミユキ,もうちょっと踊れる? それとも,疲れた?」
ミユキは思案げにちょっと首を傾げる。
「疲れてるけど,もうちょっと踊りたい気もする。楽しいの,ママと踊るのが」
うれしいことを言ってくれる。
「じゃあ,もうちょっと踊りましょう」
わたしはミユキの手を取ってホールに出た。
それからどれくらい踊ったのか。30分くらい? さすがに疲れてきた。
「今日はこれくらいにしておきましょう」
「はい」
外に出ると,もう夕暮れ時だった。10月,秋分も過ぎ,日の入りは早くなっている。暗くなりかけた街,ミユキと手をつないで歩く。そう,幼い娘のミユキを見ながら,《この子が高校生くらいになったら一緒にダンスに行こう》と思っていた。一度は諦めた夢。それが思いがけなく,こんなふうにして叶っている。
「ミユキ,ありがとう」
思わずつぶやいた。ミユキが《どうしたの?》と言いたげな顔でわたしを見る。
「なんでもないの」
と答えて,ミユキの手を強く握った。
「ミユキ,ダンスは楽しかった?」
「はい。とっても」
「ああ,それはよかった。また行きたい?」
「はい」
「じゃあ,再来週もね」
ミユキはわたしの方を向いてにこやかに微笑む。花がこぼれるような微笑み。二人,しばらく黙って歩く。
「これから行きつけの喫茶店で軽く夕食を摂るの。ミユキも一緒にね」
「はい」
行きつけのレトロな喫茶店。30年以上やっている。わたしが通いだしたのは大学生になってからだけど。中に入ると,コーヒーの匂いとタバコの匂いがする。
「ミユキ,タバコの匂いは大丈夫?」
「大丈夫です。ママは?」
「わたしは好きよ。真正面から煙を吹きかけられるのは嫌だけど,周りからほのかに匂いが漂ってくるのは好き。医者としては禁煙を勧めないといけないのかもしれないけどね」
と言って笑いながら,メニューをミユキに見せる。
「喫茶店の軽食と言えば,ナポリタンスパゲティが定番だけどね。ほかにもいろいろあるよ」
「じゃあ,ナポリタンスパゲティにします」
「わたしはピザトーストにしようかな」
「えっ,ママも同じじゃないの?」
「半分ずつ食べましょう」
「ああ,それもいいです」
ミユキは素直によろこぶ。エレガントなドレスを身にまとっているけど,まだ15歳の少女なのね。
ウェイトレスさん,と言うか,マスターの奥さんに注文を伝える。コールスローサラダの小鉢も一緒に。そして,わたしはコーヒー。
「ミユキ,コーヒー飲める?」
「わたしは紅茶,ミルクティーがいい」
奥さんは注文を確認して奥にさがる。
「ママ,コーヒーも飲むんですね?」
「うん。ここではコーヒーを飲むの」
「うちでは飲まないね」
「うん……こういう事をいうと紅茶通に怒られるかもしれないけど,紅茶はわたしが淹れてもプロに淹れてもらっても,あまり違いが分からないの。コーヒーは明らかに違いがわかる。自分で淹れるよりプロに淹れてもらうほうがずっとおいしい。だから,ここではコーヒーを頼むの」
「ふーん……」
ここで話が途切れた。わたしは向かいに座るミユキを見つめる。
「ママ……」
「なあに?」
「そんなに見つめられると……」
そんなミユキの言葉にフッと笑みが漏れる。
「見つめていたい。ミユキは可愛いから……いや,今日のミユキは可愛いんじゃなくて,エレガントで美しい。だから,見つめられるのに慣れなさい」
こんなわたしの身勝手な言い分に,ミユキは言い返すこともなく,困ったような顔でうつむく。こんなことをしているうちに,料理が運ばれてきた。
二人,それぞれの料理を食べる。半分食べたところでお皿を交換する。
「ピザトーストもおいしいですね」
「うん。なかなかいいでしょう。マスターはバリスタとしても一流だけど,料理もそれなりにじょうずなの。それと……」
ちょっと間を置く。
「料理そのものだけじゃなくて,誰と一緒に食べるかも,大事な要素ね。ミユキと一緒だから,なおさらおいしい」
ミユキはちょっとはにかんでから,わたしに視線をあわせ,
「わたしも」
と答えた。
食事を終え,ゆっくりコーヒーと紅茶を飲む。ミユキが飲み終えたのを確認して席を立つ。
部屋に戻れば,ミユキの化粧を落とし,着替えさせ,家に帰すだけ。ミユキの手を取って化粧台の前に立つ。スツールに座ろうとするミユキの動きを止める。抱き寄せ,抱きしめ,見つめ合い,唇に触れた。キス。舌を絡ませはしないけど,髪の毛や額でなく,ミユキの唇に自分の唇を重ねるキス。そんなに長い時間ではない。ほんの5秒くらい。顔を離し,体を離し,スツールに座らせ,黙ってミユキの化粧を落とす。そして着替えさせる。
普段着のジーンズにセーターを羽織ったミユキが部屋を出ようとする。ドアに手をかけたところで,わたしはもう一度抱き寄せる。今度は優しいハグ。頬と頬を寄せ,耳元でささやく。
「また,再来週ね」
「はい」
ミユキを見送った後,わたしは唇に残る感触を味わう。死んだ娘の生き写しのようであっても,ミユキは娘じゃない。わたしはミユキを娘の身代わりとして愛してるんじゃない。きっかけはそうであったかもしれないけど,それから何度も会って一緒に時を過ごす中で育ってきた気持ちは,母が娘を思う気持ちとは違う。《じゃあ,何なの? 恋人?》わたしはフッと笑う。恋人という言葉はふさわしくない。わたしが若い頃に何度か経験した男との付き合い,結局のところ性欲に支配された関係を「恋」と呼ぶなら,ミユキとの関係はそれとはぜんぜん違う。あの男たちに感じた気持ちと,ミユキに寄せる気持ちは似ても似つかぬもの。じゃあ,何なの? しばらく考えて,考えるのをやめた。名付ける必要はない。ミユキに寄せる思いに名前はない。それはこの世界でただ一つのものだから。