Ⅲ
2週間に1度のミユキの訪問がわたしの生活に組み込まれた。ミユキが来て,まずホルモン注射。それからドレスに着替えさせる。それからリビングルームでお茶を飲む。ミユキは読書。わたしはそんなミユキの姿を眺めながらゆったり音楽を聴く。1時間くらい。
それから,ダンスに出かける。初めのうちは,ミユキは型通りのマンボを踊っていたけど,やがて自由にアレンジするようになった。互いに向き合い,相手の動きにあわせながら,音楽に合わせて自由に体を動かす。わたしはミユキの動きのパターンが分かってきたし,ミユキもわたしの動きのパターンを把握している。自由に踊りながら互いの息があってる。久しぶりの心地よい感覚。
ダンスの後は喫茶店で夕食を摂って,うちに戻り,ミユキの化粧を落とし,着替えさせ,家に帰す。2週間ごとのわたしの生活のアクセント。季節は秋から冬に向かう。カレンダーを確かめると,12月にミユキが来るのは12日と26日。クリスマス。これまでわたしは世間の喧騒を冷ややかに眺めていた。でも今年は,1日遅れのクリスマス・プレゼントを贈ろう。ドレスはあの3着をローテーションしてるけど,もう1着買ってあげよう。
ミユキが来ない日曜日,あのドレスショップに出向き,いろんなドレスを見て回る。そして,チャイナドレスに目が留まった。ああ,ミユキのスレンダーな体にチャイナドレスは似合いそう。 何十着かあるチャイナドレスから選んでいく。そのうちの1着を手に取る。光沢のある黒の生地に白の縁取り,裾に銀糸で花柄が刺繍してある。ミモレ丈,スリットはたぶん膝上20センチくらい。これがいい。
そして,12月26日。注射を終えてリビングルームに戻る。
「今日は1日遅れのクリスマス・プレゼントを用意しておいたわ」
「わー,きれい」
差し出されたチャイナドレスをミユキは目を輝かせてみつめる。そして,すぐに着替え始めた。着替えを終え,ミユキが尋ねる。
「今日も読書の後にダンスに行くの?」
「そのつもりよ」
「踊りにくくない?」
ミユキは自分の着ているチャイナドレスを指さしながら尋ねる。
「そんなことないよ。スリットが入ってるから,意外に動きやすいの」
「そうなんですね」
1時間ほど読書して,出かける。外はもう冬の寒さ。ミユキにフェイクファーのコートを着せる。わたしはジャケットの上にトレンチコートを羽織る。
ダンスホールで,細い体のラインを強調するチャイナドレス姿のミユキはいつも以上に周りの視線を集める。優雅で美しいだけでなく,今日のミユキはセクシー。でも,声を掛ける無作法者はいない。これまで2ヶ月あまり,男たちからのダンスの誘いをすべて拒否することは知れ渡っている。スローな曲がかかれば,わたしが抱いて踊る。セクシーなミユキの姿に誘われて,今日はふだん以上にきつく抱きしめながら踊る。ふだんは肩に腕を回すか,背中を抱き寄せるくらいだけど,今日は腰に手を回して抱き寄せてみる。すると,いつもは素直に身を任せるミユキがちょっと嫌そうな顔をする。
「どうしたの?」
「……」
ミユキは何か言いたげな表情でわたしを見るけど,言葉が出てこない。心配になってもう一度声をかける。
「どうしたの?」
「……あまり腰をくっつけられると……あれが触れてしまいそうで……」
わたしは一瞬,何を言っているのか分からなかった。《「あれ」って,何?》そして思い至る。ああ,ミユキの体に取り付いたあのグロテスクな異物。あの部分は男なんだった。それがわたしの体に触れるのをいやがっているんだ。わたしは腰に触れた手を背中に引き上げ,胸と胸を軽く触れあう。
「これならいいでしょう?」
「はい」
やがてスローな曲が終わり,テンポの良い音楽が流れる。わたしたちは体を離し,音楽に身を任せて自由に踊りあう。そして心地よい疲れを感じる頃,ホールを出る。ダンスでほてった体に,外の寒気が心地よい。いつもの喫茶店への慣れた道。並んで歩くミユキの腰に腕を回す。横に並んでいるなら,「あれ」が触れる心配はない。そんなことを考えていて,ふと思い至る。ミユキはドレスに着替える時,いつも向こう向きになる。前の膨らみを見せないため。分かっていたはずなのに,軽はずみなことをした。
いつもの喫茶店でいつもような夕食。いつもように楽しく屈託なく食事を進める。そして家に戻ってミユキの化粧を落とし,着替えさせる。後ろ向きで着替えるミユキに話しかける。
「ミユキは,できることなら切り取ってしまいたいの? 手術したいの?」
ミユキは顔だけこちらを向け,黙ってうなずいた。
次の日から,わたしは医学文献を探し始めた。クリニックは年末年始の休みに入るけど,母校の図書館は開いていた。朝からこもって文献を探し,読み込む。精巣切除術,いわゆる去勢手術,そして陰茎切除術。それぞれ,セミノーマや陰茎ガンの治療法として存在している。その手技についても,丹念に探せば文献がいくつか見つかる。最近は性別適合手術についての文献もいくつか公開されている。
去勢手術は,さほど難しくはない。局所麻酔で,慣れた医者なら30分くらいで終わるらしい。それに比べ陰茎切除は手間がかかる。それ自体も面倒だし,その後の尿道の処理に手間取るけど,それをしないと術後の排尿に支障をきたす。そして,ただ切り取っただけだと外見が見苦しいので,女性の外陰部に似せて形を整える。そのためには陰嚢の皮膚を使う。全身麻酔か少なくとも腰痛麻酔が必要で,所要時間は2〜3時間ほど。手術の具体的な進め方を頭の中でシミュレーションするけど,自分でやるのは危険すぎる。ミユキを危ない目にあわせたくはない。誰か,この手術を引き受けてくれる医者を探そう。性同一性障害への治療法として性別適合手術が公認されてから3〜4年が過ぎ,この手術を施行する病院についての情報も少しずつ出回るようになっている。
年が明けてから,本格的に情報を集め始めた。腕の良い医者を探さないと。とりわけ外陰部の形成がじょうずな医者。華のように美しいミユキに無様な外陰部を与えたくはない。《この人なら》という医者を見つけたのは2月になってから。膣を作らないのなら,精巣切除と陰茎切除と外陰形成だけなら,日帰り手術も可能らしい。
日曜日,いつものように注射の後にリビングルームに戻って本を読み始めようとしたミユキに手術の話をする。こんな話,予想もしていなかったみたいで,びっくりしている。
「……お金がかかるでしょう」
「わたしが出してあげる」
「それは,いくらなんでも,申し訳ないです」
「遠慮しなくていいの。わたしが手術させたいの。ミユキの体からグロテクスな邪魔物を取り去って,汚れない美しい体にしたいの。それとも,手術はいや?」
「いやなわけありません」
「そうよね。それなら,遠慮しないで」
わたしはミユキをじっと見つめる。その視線を受け止めて,ミユキはゆっくりうなずいた。翌日,わたしはすぐにその病院に手術を申し込んだ。日程は3月下旬。高校の春休みの最初の日。
その日,手術は朝から始まり,お昼過ぎに終わる。ちょうどわたしの診療の昼休み時間にミユキが戻ってきた。
「ぐあいはどう?」
「全身麻酔の副作用でちょっと吐き気がするけど,大丈夫」
「ゆっくり休んでなさい」
「はい」
と返事したミユキの手を取って椅子から立たせる。
「こっちにおいで」
と,自分の部屋に入れる。
「わたしのベッドで横になってなさい」
「いいんですか?」
「いいわよ。わたしはこれから午後の診療があるけど,終わったら戻ってくるから,それまでゆっくり休んでなさい。お腹が空いたら冷蔵庫にあるものを適当に食べていいからね」
「ママ,ありがとう」
午後の診療が終わるとすぐにリビングルームに戻った。ミユキが座って本を読んでいる。
「もう,起きてて大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ」
元気な声で答える。
「じゃあ,一緒に夕食にしましょう」
いつもの喫茶店に入ると,マスターがミユキを見て
「おや,今日はずいぶんボーイッシュな格好だね」
と,声をかけた。
ああ,そうだった。ミユキはいつもドレスを着て化粧してここに着てた。今日は素顔でジーンズにセーター。
「こんな格好も,可愛いでしょう」
「うん。美人は何を着ても可愛いよ」
こんな軽口を叩きあう。ミユキは笑って眺めている。「可愛い」とか「きれい」と言われることにすっかり慣れている。
向かい合って座り,食べ物を注文すると,ミユキがためらいがちに口を開く。
「わたし,前から思っていたんだけど,ママのパンタロンスーツ姿,かっこいいね。わたしも着てみたい。いつか,わたしに着せて」
「あら,そんなことなら,もっと早く言いなさい。今度の日曜日にでも買いに行きましょう。ドレスと違ってパンタロンは裾の長さをきちんとあわせないといけないから,本人がいないとまずいのよ」
「いや,買ってくれなくても,ママのスーツを貸してくれればいいの」
「遠慮しないでいいの」
「でも……ドレスも4着も買ってもらって,さらにパンタロンスーツなんて」
「ミユキを着飾るのはわたしの趣味なの。それに,ミユキが生まれ変わったお祝いにね」
そう言われて,ミユキははにかむような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。スーツを着るなら,ママと同じ黒のパンタロンスーツがいいな」
「ああ,いいわね」
わたしもミユキのスーツ姿を想像する。
「スーツは黒ね。シャツは,白でもいいけど,色物の方がいいかな。ピンク? スカイブルー?」
「紫は?」
「紫?……黒のスーツに紫のシャツ……悪くないけど,ちょっと派手すぎるかも。もうちょっと,上品な感じに仕上げたいわ……そうね,薄いラベンダーはいいかも。スタンドカラーでフリルの付いた小公女っぽいラベンダーのシャツブラウス。スタンドカラーならネクタイは要らないかもしれないけど,リボンタイを結んでもいいわね。色は……濃いめの臙脂がいいかな」
こんな話をしているうちに,スーツ姿のミユキのイメージができあがっていく。そんな,「自分だけの世界」に入り込みかけたわたしにミユキが話しかける。
「実は,もっと現実的な相談もあるんです」
「なあに?」
現実に引き戻されて返事する。
「1ヶ月くらいは激しい運動は避けなさいと言われてます」
「うん。そうかもしれないね」
「2週間後には新学期が始まるから,それから2週間くらい,学校の体育を休まないといけません。そのためには診断書が要るんだけど……」
ああ,そういうことね。確かに性別適合手術の診断書は学校に出しにくい。
「わたしが適当に書いてあげる」
「いいんですか?」
「まあ,厳しく言えば何かの法律に引っかかるのかもしれないけど,大丈夫よ。バレないから」
「ママ,何から何まで,ありがとうございます」
「いいの。わたしがやりたくてやっていることなんだから」
運動は1ヶ月控えるという話から,もう1つのことを連想した。
「お風呂はなんて言われてるの? しばらくは入れないでしょう?」
「2週間は控えるようにと言われてます」
「2週間ね……」
ちょっと考えてから,話を続ける。
「2週間したら,一緒に温泉にいきましょう。一緒に女湯に入れるわ」
「ママ……」
ミユキの表情がパッと明るくなる。
「土曜日と日曜日,一泊二日の旅行をしよう。近場の温泉でいいから」
「ああ,それはうれしい……」
と明るい声で語ってから,急に顔を伏せた。
「どうしたの?」
「親になんて言おうかと……」
「あっ,それは……」
しばらく考え込んで,ミユキはまた明るい表情を取り戻す。
「ありのままを言えばいいんですね。子供をなくしたお医者様と知り合って,死んだ子供と同じ歳なので気に入られている。そう話せばいいですね」
「うん。それがいい。まさにその通りなんだから。ミユキにわたしの寂しさを慰めてもらってるんだから。親子水いらずの旅行の真似事をしたがっていると親に話しなさい」
2週間後の土曜日,駅でミユキと待ち合わせる。ミユキはその前の週の日曜日に一緒に買いに出かけたパンタロンスーツを着てきた。ちゃんとリボンタイも結んでいる。ドレスとはまた違う美しさ,優雅さ。
「スーツも似合ってるわ。もっと早く買ってあげればよかった」
こんな話をしながら新幹線に乗り込む。2人掛けシートに並んで座り,ミユキの肩を抱き寄せる。ミユキは安心しきったようにわたしに体を預けて目をつむる。わたしは布地越しにミユキの体の温もりを感じる。何かを語り合うこともないけど,退屈なんかしない。こうしているだけで心が満たされる。
40分ほどで目的地の駅に着く。そこからタクシーで20分ほどの山の中に鄙びた温泉宿がある。以前何度か来たことがある。騒々しい観光客の少ない静かな温泉。地味な和装の女将さんが迎えてくれる。部屋に通され,浴衣に着替える。ミユキはこれまでと同じように,背中を向ける。
「もう向こう向きにならなくていいのよ。こっちを向いて着替えても,何も恥ずかしくはないでしょう」
わたしの声に振り返る。そしてちょっとためらってからこちらを向いた。わたしはもう一度話しかける。
「恥じることはないわ。前を向いていいの」
ミユキはわたしを見つめる。その瞳から戸惑いが消え去る。そしてジャケットを脱ぐ。わたしはそれを手にとってハンガーに掛ける。次にブラウス。そしてパンタロン。
「アンダーシャツも脱ぎなさい」
言われるままにミユキはシャツを脱ぐ。華奢な肩。緩やかなカーブを描く細い鎖骨。わずかに肋骨の浮いた胸。ゆるくくびれたウェスト。形の良いお臍。その下のショーツに,不細工な突起はない。わたしは浴衣を手に取り,ミユキの背後に周り,羽織らせ,袖を通す。それから,わたしも着替えた。
部屋を出て,中庭をめぐるように作られた廊下を通って浴場に行く。脱衣所でミユキはためらいもなく裸になる。
「さあ,行きましょう」
ミユキの手を取って浴室に入り,湯船につかる。肌と肌がそっと触れあうくらいに体を寄せあって。
「女性ホルモンを注射してても胸は大きくならないんですね」
ミユキが残念そうな口ぶりで語る。
「まだよ。1年くらいしたら,つまりこの夏くらいには膨らみ始めると思うわ」
「そうなんですね」
「とは言っても,Aカップくらいだけどね」
「それくらいでいいです。大きなバストに憧れてるわけではないから」
「うん。わたしもその方がいいな。大人になりきらない少女のような,中性的な体形がいいわ」
ミユキはうれしそうにわたしを見る。そんなミユキが可愛くてつい微笑んでしまう。それから,あまり話したくないこと,でも医者として話しておくべき事を話す。
「去勢手術して男性ホルモンがほとんど分泌されなくなった。男性ホルモンの働きを抑える必要がなくなったから,女性ホルモンも減らしていい。つまり,これまで2週間に1回だったのを,3週間か4週間に1回にしてもいい。その方が体の負担は少ないはず」
ここまで話して,わたしは言葉が途切れる。ミユキはうつむいている。しばしの沈黙の後,わたしはまた話し始める。
「わたしとしては残念だけどね。ミユキに会う回数が減るのは」
「わたしもです。わたしもママに会える回数が減るのは残念です」
「そうなの?」
わたしたちは互いを見つめあう。
「ミユキもそう思ってくれているの?」
「もちろんです」
「それじゃあ……」
わたしは笑みが漏れる。
「これまでどおり2週間ごとでもいいのよ。うちに来て,注射しなければいいだけのこと」
「注射じゃなくても,来ていいんですね?」
「いいわよ」
ミユキはちょっとためらいを見せ,それから勢い込んで尋ねた。
「毎週来てもいい?」
「もちろん」
わたしはミユキを抱き寄せた。
湯船から出て体を洗う。お互いの背中を流してあげる。娘が幼い頃,わたしが背中を流してあげてた。5〜6歳になると,娘が「ママにしてあげる」と言って小さな手でわたしの背中を流してくれた。そんな事を思い出して,涙ぐみそうになる。お湯で顔が濡れてるから,ミユキには気付かれずに済んだけど。
お風呂から上がって夕食。山間の旅館らしい川魚の焼き物や山菜の小鉢が並んでいる。ミユキはお箸をじょうずに使って焼き魚を食べる。
「ミユキは育ちがいいのね」
「えっ?……そんなことありません」
「そうなの? でも,お箸の使い方がとてもきれい」
「それは……自分で練習したんです。はしたない食べ方はしたくないので」
ああ,そうだったね。ミユキは,優雅で上品で美しいものが好きなのよね。そして,自分もそうありたいと願って,自分を磨き上げているのね。
食後,中庭に降りてみる。小さな泉水があり,灯籠に明かりが灯されている。見上げると星がきれい。ミユキと手を繋いで星を眺める。そのうちに体が冷えてきた。山間の4月上旬の夜だからね。
「冷えてきたね。もう一度お風呂に入ろうか?」
「はい」
2度目の入浴から部屋に戻り,お布団を敷く。押し入れには3組揃えてある。
「ミユキ,一緒に寝よう」
1つだけ敷き,体を寄せ合って寝る。ミユキは持ってきたパジャマを着ている。わたしはふだんからそうしているように裸で寝る。できれば,ミユキの肌に触れ合って眠りたかったけど,我儘を言うのはやめておく。
翌朝,目が覚めて,隣に好きな子の温もりを感じる幸せ。ミユキの頬にそっと唇を付ける。そうしているうちに,ミユキも目を覚ました。
連れ立って朝風呂を浴び,朝食。そしてチェックアウト。
帰りの新幹線の車内でミユキが遠慮がちに問いかける。
「これからは毎週来てもいいと言われたけど,土曜日に来てもいい? お泊りしてもいい?」
わたしは思わずミユキを抱きしめる。
「もちろん,いいわよ」
いいに決まってるでしょう。
次の土曜日の午後,午前だけの診療が終わって軽い昼食を終えた頃,ミユキがやってきた。注射はしないですぐに着替えさせる。コソコソ後ろ向きにならず,わたしの方を向いて,エレガントなショーツ,ビスチェ,ガーター,ストッキング,そしてドレスを身につける。そう,恥ずかしがることはないの。その華奢でしなやかな体を誇りなさい。
ミユキは静かに本を読む。わたしは医学文献に目を通す。その合間に,紅茶を淹れ,音楽を聴く。やがて日が暮れる頃,いつもの喫茶店に夕食に出かける。
「おや,土曜日にいらっしゃるとは,珍しい」
マスターが声を掛ける。
「これからは日曜じゃなくて土曜に来るようになるわ」
と答えて,席につく。メニューを見ているミユキに
「これから踊るから,あまりたくさん食べると苦しくなるわよ」
「はい,分かってます」
と答えてから,ちょっと口をとがらせて
「ふだんから大食ではないでしょう」
と言い足す。
「うん。分かってる」
土曜日にダンスホールに出かけるのは初めて。ミユキを初めて見る客も多いはず。また「ご一緒にいかが?」という誘いを受けることになるだろう。まあ,きっぱり拒否するだけのこと。
土曜の夜のダンスホールは日曜の午後よりも混んでいる。それでも,二人自由に踊るスペースはある。踊り疲れて休んでいると,思った通り,男たちが声をかけてくる。わたしだけでなくミユキにも。ミユキはきっぱり断っている。はっきりした口調で,冷ややかな眼差しで。そう,曖昧な態度だと男たちは引き下がらないからね。わたしが教えたわけではないけど,わたしのやり方を見ていたのね。
2時間ほど踊って,満たされた気分でダンスホールを出て家に戻る。
「一緒にお風呂に入ろう」
「はい……お化粧は落とさなくていいの?」
「お風呂場にクレンジングがあるわ」
温泉と違って家のお風呂は二人で入るにはちょっと窮屈だけど,それは仕方ない。向き合って湯船に浸かる。足がミユキのお尻に触れる。もちろん,ミユキの足はわたしのお尻に触れている。くすぐったい感触。それから,お化粧を落とし,顔を洗い,体を洗う。髪は互いに洗い合う。まず,ミユキを座らせ,わたしが背後から髪を洗う。
「髪を洗ってもらうって,とても気持ちいいですよね」
「そうでしょう。気持ちよくて,眠くならない?」
「大丈夫」
ミユキの笑顔が鏡の向こうに見える。
次に,わたしがミユキに髪を洗ってもらう。お風呂から上がると,バスタオルを巻いただけの姿で互いにドライヤーをかけ合う。二人ともショートヘアだからさほど時間はかからない。
髪を乾かし終え,ミユキの手を取る。
「こっちよ」
わたしの部屋に入る。バスタオルを外し,ベッドに入る。
「ミユキもおいで」
「パジャマは?」
「要らないわ。もう春だから,裸で寝ても寒くはないわよ」
ミユキはちょっと驚いたようだけど,素直にわたしの言葉に従った。ベッドの中で肌と肌が触れ合う。ミユキの肌は滑らかで,触れてて心地よい。
明かりを消した部屋。人肌の温もり。ミユキは去勢しているから,男性ホルモンに駆動される野蛮な性欲はないはずだけど,そんな動物的な欲求とは別に,もっと密に体と体を触れ合いたいと願うなら,その願いを受け入れるつもりだった。でも,ミユキはダンスの快い疲れに引き込まれるように眠りに落ちた。それならそれでいい。ミユキの静かな寝息を聞きながら,わたしもいつしか眠っていた。
翌朝,目が覚めると,眼の前にミユキの顔がある。
「ママ,おはようございます」
「あら,ミユキ,起きてたの?」
「ちょっと前に……ママ,寝顔もきれいね」
はにかむように語るミユキの顔が可愛すぎて,両手でその頬を挟み,近づけ,口づけた。ほんの2〜3秒。そして顔を離す。
「ミユキ,おはよう」
ミユキは目を細めて,うれしそうな笑みを見せる。そして起き出そうとする。
「もっと寝ててもいいのに。日曜日なんだから」
ミユキはわたしに微笑みかける。
「朝ご飯,作ってあげる。まあ,トーストと目玉焼きとサラダくらいだけど」
そう言ってベッドから出てから,尋ねる。
「材料はあるよね? パンと卵と野菜」
「それくらいはあるわ」
ミユキはにっこり笑って部屋を出ていった。そして,開けたままの部屋のドアからキッチンの物音が聞こえ始めた。やがて,匂いも。そして,ミユキがわたしを呼びに来る。
「ママ,朝ご飯ができたよ。起きて」
起き出してダイニングテーブルに座ると,目の前に朝食が用意されている。バターを塗ったトーストと,目玉焼き。それにレタスとトマトとキュウリを盛り合わせたサラダ。
「わー,うれしい」
「そんなに大げさに喜ばないで。ごく簡単なブレイクファーストです」
「簡単でもなんでも,朝起きたら朝ご飯ができているということが感激なの」
「そうなの?」
「そうよ。実家にいた時はお母さんが作ってくれたけど,高校卒業して実家を離れてからは,朝ご飯を誰かに作ってもらうなんて,そんな贅沢には縁がなかったから」
ミユキは怪訝そうな顔をする。
「ママ,娘がいたってことは,結婚してたんですよね?」
「もちろん,そうよ」
「たまには,ご主人が作ってくれたりしなかったの?」
その問いかけに,わたしは笑う。苦笑いかも。
「家事なんて,やったことなかったよ。朝食を作るどころか,チリ一つ拾おうとしなかった。男医者の辞書に『家事』という言葉はないの。家事は女房がやるものと信じ込んでた」
「そんな……ママだってお仕事してたんでしょう」
「もちろん,そうよ」
「それなのに,ママだけに家事を押し付けるなんて」
ミユキは憤慨した口調。
「ありがとう。わたしのために怒ってくれて。まあ,いいの,済んだことだから……それも,別れる理由の一つではあったけどね」
「ママ,これからわたしが毎週日曜日の朝ご飯作ります。土曜日に泊まって,日曜日の朝に朝ご飯を作って,ママを起こします」
その言葉どおり,それからミユキは毎週日曜日の朝ご飯を作ってくれるようになった。冷蔵庫にハムやベーコンを入れておくと,それを使ってハムエッグやベーコンエッグを作ってくれる。前の晩からパンを溶いた卵に漬け込んでフレンチトーストを作ってくれたこともある。
毎週,日曜日の朝,「ママ,起きて」というミユキの声で起き上がる。その前から目は覚めているのだけど,せっかくミユキが起こしに来てくれるのだから,それを待っている。朝食が用意されたテーブルに着き,
「ありがとう」
とお礼を言う。それは欠かさない。自分で決めたルール。朝ごはんを作ってもらうのが当たり前という慢心が生じないよう,きちんとお礼を言う。わたしの言葉に,ミユキはうれしそうな笑みを浮かべる。愛しい存在が作ってくれた朝食を囲む休日の朝。ミユキがわたしにくれた幸せ。
土曜日の夜,ベッドの中で肌を触れあう。わたしが抱き寄せると素直に体を預ける。その滑らかな肌を撫でる。肩,腕,胸,腰,腿……。目をつむってされるままになっているミユキに問いかける。
「こんなことされるの,いや?」
ミユキは口角を上げて首を振る。いつだったか,ミユキがおずおずと尋ねた。
「おっぱいに触ってもいい?」
わたしは思わず微笑んだ。そんなかわいいお願い,もちろんいいわよ。ミユキはそっと手を触れ,そして頬をくっつける。
「わたしの胸も膨らむといいな」
「焦らなくていい。少しずつ膨らむから」
そんな会話をしたのは5月か6月の頃。やがて夏休み。女性ホルモン注射を始めて1年になろうとする7月末の土曜日の夜,一緒にお風呂に入っていて気がついた。
「ミユキ,胸が少し膨れてない?」
「そうなんです。ママも気がついた? どれくらいになるんでしょう?」
「いつかも話したと思うけど,Aカップくらいよ。DカップとかEカップにはならないと思うわ」
「それくらいでいいの。巨乳に憧れてはいないから」
「Aカップくらいなら,ゆるめのシャツを着ていれば目立たないわ。もし,何か言われたら,『女性化乳房』って答えなさい」
「女性化乳房?」
「そう。思春期の頃,ちょうどミユキくらいの年頃の男の子にたまに生じる現象なの。男性ホルモンと女性ホルモンのバランスが乱れて胸が大きくなるの」
お風呂から上がって,婦人科の本に載っている女性化乳房の症例写真を見せる。
「ふーん,これくらいなんですね」
ミユキは納得した表情を浮かべる。
やがて,8月,9月,10月と時が過ぎ,クリスマスの頃にはAカップくらいの胸になった。片手で包み込めるくらいのミユキの乳房の軟らかな感触。わたしが作ってあげたと思えば,なおさら愛おしい。クリスマス・プレゼントに黒のレースのブラジャーを贈ることにした。
年が明け,3学期はあっという間に過ぎ去り,ミユキは3年生になった。