Ⅳ
3年生の1学期が始まった最初の土曜日,ミユキが話し始める。
「昨日,1回目の進路調査があったんです」
「ああ,もうそういう時期ね」
「わたしはY大学と書いて提出しました」
「Y大学?」
東京を通り抜けた向こうにある大学。電車で通うなら片道2時間くらいかかる。毎日通うのは大変だろう。
「実家を離れるの?」
「そのつもりです。でも,週1回くらいなら戻って来れます。だから,ママにはこれまでどおり会いに来れます」
「ありがとう」
「お礼はいいんです。わたしが会いたいんだから」
「ありがとう」
お礼の言葉を繰り返した。そう言ってくれるのは心からうれしい。
ちょっと間を置いてミユキが話を続ける。
「今のところ,親はわたしの体の変化に気付いていません。でも,これからずっと隠し続けるのは……」
ああ,そういうこと。ミユキの考えが読めた。でも,
「都内にも,実家から通える範囲に,大学はたくさんあるでしょう。わざわざY大学にするには,それなりの理由が要るんじゃない?」
「それは,なんとか説得します。東大はわたしの学力では無理だし,都内の私立大学よりY大学は公立だから授業料は安いでしょう。そうやって説得しようと思います」
なるほど,いろいろ考えてるんだ。
「それと,Y大学を選んだのはもう1つ理由があるんです。Y大学には医学部があります……もちろん,わたしが医学部に行くわけではないけど,教養課程の間は医学部の授業に出席する機会があるかもしれないから」
「医学に興味があるの?」
「医学にも興味があるけど,医学部に興味があるんです……ママが青春を過ごした世界に触れてみたいんです」
ああ,それは四半世紀も昔のこと。わたしが医学部の学生だったのは遠い昔の話。それ以来,医学部の雰囲気も医学部生の気質もずいぶん変わっているだろう。でも,そんなミユキの気持ちはうれしい。
「医学部を目指してもいいと思うけど,ミユキは何学部を志望なの?」
「外国語学部です。わたし,普通の会社勤めはぜったい無理と思ってます。それで,外国語には自信があるから,特にフランス語は好きだから,それを仕事にしたいと思ってるんです。具体的には翻訳の仕事」
「ああ,それはいいかも」
それから,ふと思いついたことを語る。
「わたしは翻訳の仕事については何も知らない。ただ,医学も含めて理系の論文を世界的に有名な雑誌に投稿するには,当然英語に翻訳しないといけない。さらに,英語とフランス語とドイツ語と3ヶ国語くらいの要旨,論文の内容を短くまとめた文章ね,その要旨を3ヶ国語で付けておくことが求められる。どの雑誌でもそうだとは断言できないけど,世界レベルの雑誌はたぶんそうなの。ところが理系の人間は外国語があまり得意じゃない。自分の専門分野の論文を読むことはできるけど,書くのは無理。だから,できる人に翻訳を頼む。そういう仕事があるはずよ」
「そうなんですね」
「更に付け加えれば,外国語の専門家はたいてい文系で,理科のことがよく分からない。だから,あまりそういう仕事はしたがらないし,引き受けても,内容がわからないために初歩的な誤訳をする危険がある」
「じゃあ,理科のことが分かっていて外国語ができるなら……」
わたしはうなずく。
「ママ,ありがとう。いいこと教えてくれて」
いいのよ。お礼なんか。ミユキの未来のために役立てるなら,それはわたしにとって一番うれしいこと。
3年生になっても,ミユキは毎週土曜日にうちを訪れる。1学期が過ぎ,夏休み,そして2学期。
「受験勉強はいいの?」
「週1回くらいママと一緒に過ごす程度の時間の余裕はあります」
「それは良かった。わたしもうれしい」
多少の変化はある。これまで,ダンスに行く以外はうちで本を読んでいた。理系,文系を問わず興味のおもむくままにいろんな本を読んでいた。最近は問題集を広げるようになった。
12月,校外模試でY大学外国語学部はA判定だったと,うれしそうにミユキが語る。
「親もなんとか説得できました」
年が明けるとすぐにセンター試験。自己採点の結果は手応え十分のよう。学校は自主登校になり,ミユキはほとんど家で勉強しているらしい。それでも毎週土曜日にやってくる。
「さすがに,親から何か言われない?」
「お医者様に勉強を教えてもらってるって話してます」
ミユキはお茶目な口調で語る。わたしはおかしくなる。世間では医者はみな頭が良くて物知りということになっているらしい。
「わたしは何も教えていないのにね」
「でも,ママのおうちの方が落ち着いて勉強できるのは事実なんです。それに,週1回くらい息抜きも必要です」
という言葉に安心して,わたしは結局,土曜日の夜はこれまでどおりミユキをダンスに連れて行く。そして日曜日の朝は朝食を作ってもらう。
「へたに生活リズムを変えると,調子が狂いそうだから」
言い訳のように語るミユキの言葉にわたしは甘えている。もちろん,感謝の気持は忘れないけど。
2月下旬に二次試験。3月初めに合格発表。ちゃんと合格していた。わたしは駅ビルのショッピングモールに連れて行く。
「合格祝いのプレゼントを買いたいから」
「何をプレゼントしてくれるの?」
「それは,行ってからのお楽しみ」
わたしたちは婦人服のブティックに入る。
「ドレス?」
わたしは首を振る。
「スーツよ。パンタロンスーツ」
前々から考えていた。以前買ってあげた黒のスーツと同じようなスタイルで色違いのものをプレゼントしたい。
「一緒に選びましょう」
二人で見ていく。
「ママ,これは?」
ミユキが手にしたのはモカブラウンのスーツ。
「ああ,いいわね。試着してごらん」
7号のスーツを試着させる。思ったとおり,よく似合う。体型にもフィットしている。それを着たままブラウスを探す。ピンク,ライトブルー,ブルーグレイ。モカブラウンにも黒にも組み合わせられる色。
「わたしの好みでスタンドカラーばかり選んでるけど,普通の折襟の方がいい?」
「わたしもスタンドカラーの方が好きです」
スーツとブラウスを包んでもらう。
「Y市の住まいが決まったら教えて。スーツを送るから。大学に着て行くといいわ。みんなの注目の的になるよ」
「えっ?……別に,注目されなくても……」
「わたしが自慢したいのよ。こんな素敵な子」
そう。わたしが自慢したい。容姿も気立ても知性も素晴らしい子。わたしが磨き上げた,というのは言い過ぎかもしれない。何より素材が良かった。でも,わたしの働きも少しは加わっているとうぬぼれるのも許してほしい。
4月初旬,ミユキはY市に引っ越したけど,今までどおり毎週土曜日の夕方にやってくる。今までどおり,わたしはミユキを着替えさせ,化粧し,連れ出す。喫茶店での軽い夕食と,その後のダンス。帰宅してから,一緒にお風呂に入り,一緒に寝る。ミユキを抱き寄せ,その肌の柔らかさと体の温かさを感じながら,寝入る。
翌朝,キッチンからの音と匂いを感じながら目を覚まし,
「ママ,起きて。朝ご飯ができてます」
というミユキの言葉で起こされる。
いつまで続くのか? そんなことは分からない。分からないことに思い悩む必要はない。この幸せが続く間は,この幸せを享受していればいい。
やがて大学1年生の夏休みになる。ミユキと出会って3年。疑似親子で始まったミユキとの関係。今は,親子とは思っていない。娘のように愛おしいけど,娘ではない。それなら恋人?……でもない。「じゃあ,何?」と考え込みはしない。ミユキはこの世でただ一人の存在。ミユキとわたしの関係はこの世でたった一つの関係。この世でただ一つのものは名付けようがない。