Ⅲ
夏休みも半ばを過ぎた頃,夜,ベッドの中でオナニーしながら,ふとミユキの姿が思い浮んだ。オナニーは中学生の頃からしている。変な罪悪感などは抱いていない。クリトリスを自分の指でゆっくり優しく刺激して,その快感に身を委ねる。エクスタシーに達することもあるし,達しないこともある。達しなくても,それなりの快感に包まれて眠りに落ちていく。それは,わたしにとって幸せな時間。
でもこの日,ミユキの面影が浮かんだ時,思わずそれを消し去ろうとした。だけど,そういうものは,消し去ろうとすればするほど意識してしまう。夏休みの最初のデートで触れたミユキの胸の柔らかさが手のひらによみがえる。それから,保健体操の時間にジャージを通して感じたミユキの体の温もりも。わたしはふだんより激しいエクスタシーに達した。
エクスタシーの後の気だるさ。いつもならそのまま眠りに落ちるけど,この日は頭が冴えてしまった。いろんな思いが頭に渦巻く。恥ずかしさ,申し訳ない気持ち,罪悪感……それだけじゃなくて,ミユキへの熱い思い。《……受け入れよう,受け止めよう》と決めた。この種の感情は抑圧すれば逆に暴発,暴走してしまいそうだから,ありのままの自分を受け入れよう。ミユキのことを思いながらオナニーしてしまう自分。わたしだって,健康な女子の性欲は持ち合わせているんだもの。ましてミユキはこの世の誰より魅力的なんだもの。そして,はっきり自覚した。わたしはミユキに恋してる。
わたしはミユキが「ママ」と呼ぶ女医さんのようにミユキを愛することはできない。ママのような大きな愛情でミユキを包み込むことはできない。わたしはミユキに恋してしまったから。だからわたしは,ママとは違う,わたしなりのやり方でミユキを愛するよ。そして守るよ。全力で。全力と言っても今はまだ微力だけど,これから少しずつ力をつけていく。その力をすべてミユキのために使う。約束するよ,ミユキ……。
その次のデート。ミユキに会う時どんな気持ちになるか,いろいろシミュレーションしていたけど,実際に会うと意外なほど冷静な自分がいた。これまでと同じように語り合う。ただ,時おりふと隣りにいるミユキの気配が濃くなるのを感じる。恋愛小説などを読むと,髪の匂いとか,服に残った柔軟剤の匂いとかを感じるシーンがあるけど,そんな具体的なものではない。ふとした気配。それがなにかの拍子に濃く感じ取られる。
会話の狭間のちょっとした沈黙の時間。わたしは隣に座るミユキの髪の毛をいじる。これまでも何度もしたことのある仕草。ミユキの髪はサラサラで,いじっていて心地よい。ミユキの髪にからめたわたしの指。でも今日はそれだけじゃなくて,指をゆっくり動かす。指は絡めていた髪から離れ,そっと頬を撫でる。
「ユカリさん,どうしたの?」
わたしの方を向いて問いかけるミユキを黙って見つめる。そしてポツリとつぶやいた。
「わたし,ミユキに恋したみたい」
何気ない,自然な口調で言葉が出た。ミユキはちょっと驚いたような,不思議なような,表情を見せる。
「ミユキは以前話してくれたね。これまでミユキを愛した女たちはミユキを『異性』と見なして愛したって。それはミユキにとって不本意だったって。わたしはミユキを,性別なんか意識しないで愛するよ」
わたしはミユキを見つめる。ミユキもわたしを見つめる。
「もちろん,わたしだって分からない。性別を意識しないで愛するって,どうすればいいのか。手探りなんだ。ただ,ミユキに居心地の悪い思いはさせたくない。わたしと一緒にいる時が一番くつろげる,安らげる,そんなふうにしたいの。だから,ちょっとでも違和感を覚えるようなことがあったら,遠慮しないで言って。やり方を修正するから」
ミユキはゆっくりうなずいた。わたしはまた問いかける。
「ねえ,正直に答えてほしい。抱かれたことはある?」
「ママと一緒に寝ている時,ママはわたしを優しく抱いてくれます」
ああ,ママに抱かれるんだ。
「他の人に抱かれたことは?」
「ありません」
「キスされたことは?」
「ママは時々優しくキスしてくれます。髪の毛や頬や,唇にも」
ああ,さっきと同じ答え。わたしはさっきと同じ質問をする。
「他の人とは?」
「ありません」
と答えて,ミユキはわたしを見つめる。そして問いかける。
「ユカリさんは,わたしを抱きたいの? キスしたいの?」
わたしはミユキの瞳を見つめながらうなずく。ミユキも,わたしにあわせるようにうなずく。そして,
「それだけでいいの?」
と,問いかけた。
「それだけって……」
ミユキが何を問おうとしているのか,理解はできる。でも,それにどう答えればいいのか。問いに答えないわたしに,ミユキが言葉をつなぐ。
「つまり,恋愛って,たいていはその延長線上に性愛があるでしょう。それが普通ですよね。わたしはもちろん男としてユカリさんの気持ちに答えることはできないし,女としても,わたしには膣がないし,女の性感もなさそうだから,レズビアンの関係で悦びを分かち合うこともできないと思う。それでもいいの?」
問いの意味はよく分かる。分かりすぎるくらい分かる。でも,答えを思い付かない。だから,正直に気持ちを伝えることしかできない。
「そんなこと,何も考えてなかった。ただ,ミユキが好き,それだけ」
そんな答えしか返せないわたしにミユキは優しく微笑みかける。
「さっきのユカリさんの言葉,そのまま繰り返します。女の人を愛するってどうすればいいのか,女の人の愛に応えるってどうすればいいのか,分からない。手探りです。ただ,ユカリさんにいやな思いはさせたくない。わたしと一緒にいて楽しい,うれしい,幸せって思ってほしい。だから,『こうしてほしい』とか,『こんなことはしないでほしい』ということがあれば,遠慮しないで言ってください」
「その言葉だけで幸せだよ。ほんとうに」
ここで話が途切れた。二人ともしばらく黙っている。それから,わたしがおずおずと口を開く。
「ミユキはママに抱かれて,キスされて,うれしかったよね。わたしに抱かれて,キスされても,うれしいと思ってくれる?」
「はい。もちろん」
「よかった」
ミユキはわたしをじっと見つめる。そして語りかける。
「体のぬくもりを感じるのはうれしいです。その人がわたしを愛していくれているのなら。肌と肌が触れ合うのもうれしいし,そっと撫でられるのもうれしいし,唇を合わせるのもうれしいです」
わたしはその言葉の意味を噛みしめる。「その人がわたしを愛していくれているのなら……」もちろん,わたしはミユキを愛しているよ。ミユキもそれを分かってくれているよね。
じっとミユキを見つめるわたしにミユキが問いかける。
「ユカリさん,ママのこと,どう思ってる?」
「えっ……どう思ってるって……」
「ママはわたしを恋人とは思っていないはずだけど,でもわたしを愛してくれてます。そして,わたしを抱き,キスすることもあります。ユカリさん,嫉妬しない?」
問いかけるミユキをわたしはじっと見つめる。「嫉妬なんかしない」と答えたいけど,でも……自分の心の中を見つめると,そんなかっこいい返事はできない。だからといって,「嫉妬してる」と答えるのも,それはそれでわたしの気持ちと食い違っている。嫉妬しないでいたいと願ってるから。迷いながら見つめ返すわたしに向けられたミユキの眼差し。真剣だけど,厳しくも鋭くもない,むしろ優しい眼差し。わたしはフッと視線をそらしてうつむく。
「嫉妬なんかしない,と返事できればいいけどね。それはウソになるよ。嫉妬してしまいそうになる。でも,そんなことしたくないと思ってる。ほんとうだよ。だって……嫉妬なんて,優雅でも上品でもないもの」
こんな返事を聞いて,ミユキはかすかな笑みを浮かべる。
「わたしはミユキのためになりたいの。ミユキが幸せでいてほしい。ミユキを困らせたり,苦しめたりするのはいや……ママがミユキにとってとても大切は人であることは分かってる。そんな人にわたしが嫉妬したら,ミユキが困り,苦しむだけだということも分かる。それくらいのこと,わたしだって分かってるよ」
これだけ語り終えて,わたしはミユキを見つめる。ミユキは黙ってうなずいた。そしてわたしの肩を抱き寄せる。二人とも黙っている。触れあう肩と肩。ミユキの温もりが伝わってくる。どれくらいそうしていたのだろう,ミユキがゆっくりと体を離し,雰囲気を変えるようにふだんの口調で話し始める。何日か前に読んだ言語学の本の話。それにつられるようにわたしも今読んでる本のことを話す。ミユキのアドバイスに従って読んでいる比較解剖学の本。いつものような時間。そんな時間も心地よい。語り合う相手がミユキだから? わたしが気持ちを打ち明け,わたしの気持ちを受け入れてくれたミユキだから?
こんなふうに時間を過ごしているうちに“Cherry blossom”が少しずつ混み合ってくる。会社が終わる時間帯。仕事を終えた常連客たちがやって来るんだろう。わたしたちは席を立つ。割り勘で会計を済まし,お店を出る。ふだんはここで「さよなら」と言って別れるのだけど,
「ミユキ,抱いていい?」
ミユキは一瞬驚いたようだけど,すぐに優しくうなずいた。わたしはミユキを抱く。優しくハグ。それから少しずつ力を込めていく。最後はぎゅっと抱きしめる。背丈はほぼ同じ。頬と頬が触れ合う。それから,頬を離し,顔を向き合う。そして唇を近づけ,キスする。どれくらい,そうしていたのかな。息が上がって顔を離す。でも,体は離さない。抱きしめたまま見つめあう。
「ユカリさん,暑い」
というミユキの言葉に笑ってしまった。
「ミユキ,そういう時は『暑い』じゃなくて『温かい』でしょう」
「だって,暑いんです。真夏に外で抱き合ってたら暑いでしょう」
その論理的な話し方がおかしい。
「もう,ミユキはこんなところは理系なんだから」
二人は笑い合い,「さよなら」と言って別れた。
翌週の“Cherry blossom”の店内。いつものように勉強のこととか,そのほか他愛もないことを語り合った後,ミユキがまじめな口調で話しかける。
「今度,ママに会ってくれませんか。夏休みが終わらないうちに」
「えっ?……」
突然そんな事を言われて,戸惑う。ママには会いたい。いつかは会うべきだと思っている。でも,今すぐにというのは気後れする。だからといって,断るのはまずい。しばし考えて,決心した。
「うん。会いに行くよ。会わせてほしい」
と答えて,でもつい弱気になってしまう。
「ママはわたしのことを受け入れてくれるかしら」
「もちろん,歓迎してくれるよ」
「そう?」
「そうじゃないと思うの?」
「だって……」
「ユカリさんはわたしを愛してくれている。わたしを愛してくれている人のことをママが悪く思うはずはないよ」
わたしはうなずく。そうね。ママはわたしに嫉妬したり,意地悪したりしない。そんな下劣な人じゃない。そうではなくて……
「わたし,自分のことを心配してるの。ママに会って,わたしが平静でいられるかどうか……」
「大丈夫。ママとわたしがユカリさんを支えます」