Ⅳ
その週の土曜日の午後,わたしはミユキとY駅で待ち合わせて電車に乗った。ミユキは夏休みの定番みたいなホットパンツとタンクトップを着ている。わたしは,「普段通りの服装でいいよ」と言われてたけど,それでもママに会うのにジーンズは気が引けるので,夏用のノースリーブのワンピースを着ている。土曜日の午後,電車はすいていて,二人並んで座れた。いつもなら,“Cherry blossom”でのデートなら,いろんなことを語り合うんだけど,今日は緊張して黙っている。ミユキは,
「緊張しなくていいのに」
と語りかけるけど,緊張しないわけにはいかない。
向かいの窓の向こうを流れる外の景色を見ている。多摩川を渡り,東京を通り抜け,荒川を越える。2時間近い道のり。
「ミユキは毎週この往復をしてるんだね。電車の中で退屈しない?」
「普段はフランス語の語学テープを聴いてます」
「今日は?」
「今日は,ユカリさんと一緒なのに一人で語学テープを聴いてるなんて失礼なこと,できませんよ」
「気を使わなくていいのに」
と言いながら,わたしに気を使ってくれてることがうれしい。
やがて,電車は駅に着く。わたしたちは電車を降り,改札を抜け,駅からママの家に向かう通りを歩く。「ミユキは,ママのうちに着くとドレスに着替えて化粧するんだよね」
「はい」
「それは楽しみなの。ママに会うのは緊張するけど,普段着で素顔のままでもきれいなミユキがどれほどきれいになるか,楽しみなの」
ミユキは照れたように笑う。
10分ちょっとくらい歩いて到着。クリニックの脇の自宅のドアのドアホンを鳴らすと,すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい。ユカリさん。お待ちしてました」
40代中頃の女医さん。知性と気品を感じさせる整っった顔立ち。黒の薄手のパンタロンに同じ素材の半袖ジャケット,その下にはブルーグレイのタンクトップ。スレンダーな体つきに似合っている。いい意味で「医者らしくない」。じゃあ,どんな職業が似合っているかと考えても,何も思い浮かばないけど……。彼女に案内されてリビングルームに入る。
「ミユキは着替える前にシャワーで汗を洗うといいわ。ユカリさんもシャワーを浴びる?」
「えっ……いえ,わたしは……」
ドギマギして答えるわたしを彼女は優しく見つめる。それから,
「じゃあ,ドレスを選んでもらいましょうか。ミユキにどれを着せるか,選んで」
そう言って,彼女はクローゼットから何着かドレスを取り出してわたしに見せる。赤,青,黒のワンピースドレスと黒のチャイナドレス。どれも素敵。どれもミユキに似合いそう。どれにするか迷っていると,背後から
「ユカリさんの好きなものを選んでください」
と声がして,びっくりして振り向くとミユキが立っている。シャワーから出て,バスタオルを巻いただけの姿。わたしは思わず見つめてしまった。ミユキは一瞬,怪訝そうな顔をし,それからわたしの気持ちを理解したように微笑んだ。
「気にしなくていいんですよ。女どうしなんだから。それより,ユカリさんの好きなドレス,わたしに着せたいと思うドレスを選んでください」
そう,女どうしだよね。気にしなくていいんだよね。と思いながら,どうしても気になってしまう。でも,ともかくもドレスを選ばないと……わたしはその瞬間の思いつきでチャイナドレスを選んだ。ミユキとママがほとんど同時にうなずいた。
ミユキは何のためらいもなくバスタオルをはずし,黒のビスチェをまとい,黒のストッキングを履き,黒のガーターで留め,そしてチャイナドレスを着る。ごく自然な,慣れた動作。そしてミユキが化粧台の前のスツールに座ると,ママがやはり慣れた手つきでお化粧を始める。きれいなミユキがますますきれいになるのを鏡越しに見つめる。念入りな化粧ではない。下地を塗り,ファンデーションを伸ばし,アイシャドーを付け,口紅を引いただけ。10分か15分くらいで出来上がり。ミユキは体を回し,わたしの方を見てにっこり笑う。わたしもつられて笑う。
「日もだいぶ傾いてきたから,出かけましょうか?」
と,ママが話しかける。
「あっ,はい……これからダンスですか?」
「そのつもりよ。まだ夕食にはちょっと早いでしょう。でも,ユカリさんがお腹が空いてるなら……」
「いえ,大丈夫です」
ダンスホールで二人は踊る。音楽に合わせて自由にアドリブで踊っているけど,ちゃんと息があってる。ミユキがターンすると,チャイナドレスがスリットのところからふわりと宙に浮く。真横にすっと脚を上げると,しなやかな美脚がスリットの間から現われる。華麗で,ほのかにセクシー。わたしは見とれている。ふと周りを見ると,わたしの他にも何人か二人のダンスを見つめている。そうだよね。大人の魅力溢れる美女と優雅で可憐な美少女の息のあったペアダンス,見とれるよね。この状況で,ママに嫉妬は感じない。むしろ,こんな素敵な二人の知り合いであることが誇らしく思える。いや,ママとは今日知り合ったばかりだけど。
4〜5曲踊って,スローな曲がかかる。二人はわたしの方に歩み寄る。そしてミユキが声を掛ける。
「ユカリさん,一緒にチークダンスを踊りましょう」
「えっ,わたし踊れない……」
「チークダンスなんて,抱き合って適当に体を揺らしてればいいの」
とママが語りかけ,わたしの背中を押す。
「さあ,行ってらっしゃい」
ミユキに手を取られ,わたしはフロアに出る。ミユキはわたしを抱く。片手をわたしの腰に回し,もう片手は肩甲骨のあたりに軽く乗せ,わたしを抱き寄せ,わたしと向き合う。きれいに化粧し,美しいチャイナドレスを纏ったミユキ。ミユキであって,ミユキでないような。
「ママと踊らなくていいの?」
「ママとはずっと踊ってたから,今度はユカリさんの番です。ママも望んでるんです。ユカリさんがわたしと踊ることを」
と言って微笑むミユキ。その笑みにふだんと違う妖艶さを感じてしまう。そしてミユキは頬をわたしの頬に軽く触れさせ,わたしの肩と腰に当てた腕で緩やかに音楽に合わせてわたしをリードする。わたしはリードに任せて体を揺する。ボーっとしているうちに,曲が終わった。ミユキはわたしの手を取ってママの隣に座らせる。
「こんなことになるんなら,もっとおしゃれな服を着てくるんでした。と言っても,そんなにおしゃれな服は持ってないけど」
「じゃあ,わたしのドレスを着ればいいじゃない」
「えっ,ミユキのドレス?」
「うん。ユカリさんは凛々しい顔立ちだから黒のドレスとか,似合いそう」
「そうね。あるいは,パンタロンスーツも似合いそうじゃない」
「うん,それもいい」
「ちょっと,二人で勝手に盛り上がらないで」
というわたしの言葉で三人して笑った。
やがて軽快な曲が始まると,ミユキとママはフロアに出てまたペアダンスを始める。スローな曲になると,ミユキはわたしとフロアに連れ出してチークダンスを踊る。そうやって時が過ぎていく。1時間半くらい。
「今日はこれくらいにしておきましょうか」
というママの言葉でわたしたちはダンスホールを出る。
「ふだんは,行きつけの喫茶店で軽い食事にするんだけど,ユカリさんがお腹が空いててしっかり食べたいのなら,レストランでちゃんとしたディナーにしてもいいわよ」
「いえ,喫茶店でいいです」
ちゃんとしたディナーなんて,もっと緊張しそう。
喫茶店の4人がけのテーブル。ママはミユキとわたしを隣り合って座らせ,自分は向かいに座る。軽い夕食を摂り,食後の飲み物を味わう。ミユキはミルクティー,ママはコーヒー,わたしはカフェオレ。わたしは意を決してママに話しかける。
「ママ,とお呼びしていいですか?」
「もちろん,いいわ。そう呼んでくれるのはとてもうれしい」
わたしは一息入れる。
「ママ,わたしのこと,邪魔じゃないですか?」
ミユキとママの視線がわたしに集まる。
「以前からお話を聞いていて,ミユキとママとの間にはとても深い絆,実の親子のような……いや,実の親子以上に深い絆があると思ってました。今日,お会いして,本当にそのとおりだと認識しました。そんな深い絆で結ばれた二人の世界にわたしが入り込むのは,邪魔じゃないですか?」
ママはわたしをじっと見る。その視線にどんな思いが込められているのか,わたしには想像できない。
「邪魔なわけないでしょう,と言い切ると,ちょっとばかりウソがまじるかも」
ママはわたしに真剣な眼差しで語りかける。
「邪魔に思う気持ちが心の片隅にあるかもしれない。でも,それは何としてでも乗り越えたいと思う。だって,わたしがユカリさんを邪魔に思ったら,それで一番悩み苦しむのはミユキなの。ユカリさんはミユキを愛している。ミユキだってユカリさんを好きなはず。それなのに,わたしがユカリさんを邪険にしたら,ミユキを苦しませ,ミユキを不幸にするだけ。でも,そんなことは絶対にしたくない。ミユキを苦しませ,不幸にするなんて,そんなこと絶対にしたくない。わたしはミユキを幸せにしたいの。それがわたしの願い。それがわたしの何より大切な願い。だから……」
ママはフッと息を次ぐ。
「だから,わたしはユカリさんを愛したい。ミユキを愛するのとは違う愛し方になるかもしれないけど,ユカリさんも愛せるようになりたい」
「ママ……」
と言って,それから言葉が続かない。しばしの沈黙を破ったのはミユキの声。
「二人の世界を三人の世界にしたいと思ってるよ」
わたしはミユキを見つめる。見つめながら,いろんな思いが浮かぶ。大丈夫かな? こんな優雅で上品で美しい二人の世界にわたしが入り込めるかな? その世界にわたしはふさわしいのかな?……
「がんばるよ」
思わずつぶやいた。ミユキは一瞬,不思議そうな顔をし,それからおかしそうに笑う。
「ユカリさん,何をがんばるの?」
「つまり,二人みたいに優雅で上品な人になるようがんばるということ」
わたしの答えに,ママが微笑む。
「ユカリさんはユカリさんの良いところがあるわ。わたしを真似ようとしなくていいのよ」
「真似るというのじゃありません。お二人のような優雅さと上品さを身に着けたいということです」
「知り合ったばかりの頃にも同じようなことを話してたね。それにわたしが答えた言葉,覚えてる?」
と問いかけるミユキ。覚えているけど,自分で言うのは恥ずかしい。口ごもっていると,ミユキが代わりに語りだす。
「ユカリさんは勝気で凜々しいけど,そんな人が優雅さと上品さを身に着けたら完璧になるね,って答えたよ」
「それは確かに」
ママが微笑みながら相づちを打つ。そしてわたしに手を伸べた。
「ようこそ,わたしたちの世界に」
「ママ……」
伸べられた手を握ってもいいのかな。わたしはおずおずと腕を伸ばし,指をからめた。ママも指をからめる。その優しい眼差し。
「夏休みはあと1週間くらいあるのね?」
「はい」
「夏休みの最後の週末に,三人で温泉に行きましょう」
週の半ばに届いた手紙。新幹線の乗車券と指定席券が同封されている。乗車券は東京駅から。座席は3人掛けのシートの窓側のようだった。
夏休み最後の土曜日の午後,指定の車両の指定の席に行くと,真ん中のシートにミユキがいた。
「ユカリさん,こんにちわ」
「ママは?」
「ママはO駅から乗ります」
ああ,確かにママのうちからはその方が便利。1泊分の荷物を詰めたバッグを棚に上げ,シートに座って5分ほどで発車した。三人での旅行。ワクワクするような,ドキドキするような。そんな奇妙な緊張感がミユキに伝わったのか,わたしの手をそっと握ってくれる。
「ミユキはこの温泉に行ったことがあるの?」
「はい。2年半くらい前,ママが連れて行ってくれました。わたしが生まれ変わったお祝いに」
「生まれ変わったお祝い?」
「手術をして2週間ほど後でした」
ああ,そういう意味。
「もう,グロテスクな邪魔物は切り取ったから,裸になっても恥ずかしくないでしょうって……ほんとうは,ちょっと恥ずかしかった。でも,恥ずかしがるべきじゃないって自分に言い聞かせました。実際,一緒にお風呂に入ってしまえば,恥ずかしくはなかったです。むしろ,うれしかった」
「うれしかった?」
「はい。堂々と自分の体をママに見せられるのが,うれしかった」
わたしはその時のミユキの気持ちを想像する。女らしさに憧れながら男の体に生まれてしまった人が,自分の望む体に生まれ変わった時の気持ち。生まれた時から女であるわたしに実感はできないけど,想像を巡らすことはできるはず。
「それって,解放感みたいなもの?」
「解放感……そうとも言えます。邪魔物が消え去った……爽快感とも言えるかな……そして何より,『これがわたしのあるべき姿なんだ』という思い,そしてもちろん,幸福感も」
うん,もちろん,幸せだったよね。
こんな話をしているうちに列車は荒川を渡り,ほどなくO駅に着いた。車両に入ってきたママをミユキが目ざとく見つけ,手を振る。そんなミユキとわたしにママは微笑みかけ,通路側のシートに座る。
「わたしが窓側でいいんですか?」
「もちろんいいわ。遠慮しないで」
わたしは話題を思いつかないので,窓から景色を眺めている。そうしているうちに,浅い眠りに落ちた。電車が止まったのを感じて目を覚ます。
「次の駅で降りますよ」
ミユキが説明してくれる。わたしはうなずいた。
新幹線を降り,タクシーで20分くらいの山中にある小ぢんまりした温泉宿。和装の女将さんに出迎えられ部屋に通される。
「夕食まで時間があるから,温泉に入りましょう」
「あっ,はい」
「浴衣を持って行く方がいいわ。お風呂上がりは浴衣に着替えるほうが楽でしょう」
三人,浴衣とタオルを手にして浴場に向かう。浴場では,脱衣所で服を脱ぐ。もちろん,そうだよね。温泉に入るんだから……。ミユキとママは何のためらいもなく服を脱ぐ。わたしはちょっとモジモジしながら裸になった。ママがわたしの手を取ってお風呂場に入る。
「裸がわいせつで恥ずかしいって,文明のつまらないルールね。文明社会に生きてるから,文明のルールに従わないといけないけど,わたしたちだけの時はもっと自由になっていいわ」
洗い場で体を流してからお湯につかる。この時間,わたしたちの他にあまり人はいない。
「三人,手を繋いで輪になりましょう」
お湯の中で手を繋ぐ。右手はミユキと,左手はママと。伸ばした足が円の中心で他の二人の足と触れ合って,ちょっとくすぐったい。
「2点だと直線にしかならないけど,3点なら面になれるね」
ミユキがつぶやきながらわたしを見る。わたしはその言葉を繰り返す。
「2点だと線だけど,3点なら面になるのね……うれしい,そう言ってくれて」