流星街の朝は、静かだが荒んだ空気に包まれ、どこか緊張感が漂っている。空は曇りがちで、太陽はその姿をはっきりと現さない。わずかな光が灰色の雲の隙間から射し込み、空気には微かに鉄と土の混ざったような匂いが漂い、無機質な寒々しさが肌に伝わってくるが、それでも流星街の人間にとっては、この朝の静寂が心を落ち着かせる。
そんな朝、イエランが古びた椅子に腰掛け、無造作に伸びた髪をハサミを持ったジェートに任せていた。そのジェートの隣で、退屈そうに立つマチ。
あの嵐の日から早一年が過ぎ、マチももうすっかりこの家の住人になっていた。
「ジェート、かっこよく頼むぜ!」とイエランが期待を込めた目で頼むと、「うん」と、ジェートは短く答えながら、無表情でイエランの髪を切り始めた。刃の動きは正確で、無駄がない。彼の手はまるで機械のように滑らかに動き、イエランの金色の髪が軽やかに地面に落ちていく。
そんな中、「坊主でいいでしょ」と、マチは自分の順番を待ちながら、不愛想に言った。
「マチ、てめぇ!坊主なんて、かっこよくねぇだろ!」と、イエランが即座に言い返す。彼の声には微かな苛立ちが滲んでいるが、軽口を叩くその姿に、日常の平和が感じられる。
「ジェート、イエランの次あたしね」
マチはイエランの言葉を気にせず、ジェートに頼んだ。ジェートはただ頷くだけで,黙々と作業を続けた。
「どうせ、また、前髪数ミリ切るだけだろ」
イエランが呆れた様子で言うと、マチは「悪い?」と不満そうに返した。
イエランは「あぁ、悪いね、前髪くらい自分で切りやがれ」と、あくまで譲らずに続けた。
「いやだ。ジェートの方が上手いもん」と、腕を組み、古い椅子に腰掛けるイエランを見下ろしながら、毅然とした態度で言った。
マチの態度にイエランは頭をガクッと前に倒し、「かぁぁ!嫌だ嫌だ。いつになったら兄離れできるんだろうな」と、うんざりした様子で吐き捨てる。
マチが「別にくっついてないし」と冷静に言い返す横で、ジェートは急に頭を動かしたイエランに「動かないで」と静かに注意するが,イエランの耳には届かなかった。そのせいか2人の言い合いは悪化した。
「くっついてるだろ!知ってんぞ、昨日も持ち場離れてジェートのとこで漁ってただろ!そのせいで、俺がお前のとこも漁る羽目になったんだからな!」
「あんたと違って、あたしは仕事が速いの。漁ってるうちにたまたまジェートと漁るとこ被っただけ」
「んなわけ…」
マチの屁理屈のような反論に、とうとう我慢の限界が来たイエランは立ち上がろうとしたが、その肩をガシッとジェートが掴んだ。イエランは顔をジェートに向けると、無表情ではあるものの明らかに不機嫌なジェートの顔があった。
「動かないで」
あまりの迫力にイエランは「あ、はい。すみません」と、顔を引き攣らせながら謝罪した。その様子をマチはいい気味だとでも言いたげな表情で見ていた。
ジェートはイエランの髪を整える手を一瞬止め、ふとマチの方を見た。「マチ」と静かに呼びかける。彼の声には普段と違う重さがあった。
「持ち場は離れちゃだめ。俺もイエランも、いないと心配になる」
その言葉を聞いたマチは、ジェートの真剣な眼差しに驚いた様子で、一瞬、彼の目を見返すも、すぐに視線を下にそらす。彼の言葉が予想以上に重く響いたのだろう。少し戸惑ったように、小さな声で「ごめん…」と呟くように謝罪した。
イエランは2人のやり取りを見て、にやりと笑いながら口を開いた。「怒られてやんの」と、からかい半分に言い放つ。それを聞いたマチは即座に「テメェ…!」と怒りを露わにし、イエランを鋭く睨む。二人の喧嘩がさらに悪化しそうな雰囲気が漂う中、ジェートの「イエラン」と呼ぶ冷静な声が、その場の怒りを一瞬で遮った。名前を呼ばれたイエランは思わず息をのんだ。
また怒られると不安がよぎるが、ジェートは冷静な声で、「終わったよ」と、淡々と告げた。
「はや!」
イエランは驚いた表情を浮かべ、すぐに手で自分の頭を触った。触れた感触は確かに軽く、髪が整っていることを確認すると、隣にあった小さな手鏡を手に取る。鏡に映るのは、短く整えられた髪を持つ自分の顔。思わず満足げに口元が緩む。
「さすがだな、ジェート!」と、イエランは上機嫌に声を上げた。ジェートはその言葉に特に反応を示さず、淡々と頷いた。その無感情な態度はいつもと変わらない。
「次、マチの番」と、ジェートはマチに目を向け、静かに順番を促す。
マチは「うん」と短く返事をした。そして、まだその場に残っているイエランを見て、「イエラン、どきな」と言い、席を譲るように促した。
「へいへい」
イエランは面倒くさそうに肩をすくめ、渋々ながら椅子をマチに譲った。
席についたマチの桜色の髪を、ジェートは軽く撫でるように確認した。その繊細な指先が髪に触れると、マチは無意識に背筋をピンと伸ばし、少し緊張したような表情を見せた。
「どうする?」とジェートが淡々と尋ねると、マチは「前髪が目にかかるから、かからないようにして」と、短く頼んだ。
「わかった」とジェートは静かに頷き、すぐにはさみを手に取り作業に入った。その動作は無駄がなく、慎重でありながらもリズミカルだ。
イエランが横で腕を組みながら、「お前、前は前髪結んでたろ。邪魔ならまた結べばいいじゃん」と、不満げな様子で言った。
「結ぶのめんどくさい」と、マチが言い返すと「切る方がよっぽどめんどくせぇだろ!」と、イエランは思わず大きな声で言い返した。
その瞬間、ジェートは少し顔をしかめながら、「イエラン、耳元で叫ばないで」と静かに注意を促す。その言葉は淡々としているが、しっかりと彼の意思が感じられる。
マチはそれを聞き、ニヤリとしながら注意されたイエランを眺めた。視線が絡むと、イエランは顔をしかめ、「くっ…!」と悔しそうに唇を噛むが、何も言い返せない。しばらくの沈黙の後、ただ「先に行ってるからな」と吐き捨てるように言ってから、1人でゴミ山へと歩き出した。その背中は少し苛立ちを引きずっているようにも見えた。
「行っちゃった」とジェートが静かに呟き、イエランがゴミ山へと向かっていく姿を見送った。その背中が遠ざかるにつれて、辺りの静けさが一層際立った。
「ようやく静かになったわね」と、マチが安堵の息を漏らし、微笑んだ。彼女の表情には、少しの満足感がにじんでいた。
「イエラン、引き止めて欲しそうな背中してる」と、ジェートが冷静に観察する。彼の目はどこまでも静かで、感情の波が見えない。
「ほっときなよ。いつものことじゃん」とマチが肩をすくめる。彼女の言葉には、イエランとの関わりの中で培った冷静さと、幾度となく繰り返された日常の一幕への諦めが込められていた。
「そうだね。はい、終わった」と、ジェートが無駄のない動きであっという間に髪を切り終えた。
「え、速い」と、マチが驚きの声を上げる。
「じゃあ、行こっか」とジェートが提案すると、マチは「うん」と頷き、少し名残惜しそうに立ち上がりながら、手櫛で髪を整えた。
2人は足早にイエランの元へ駆け寄った。すると、イエランは驚いた様子で目を見開き、「はやっ!本当に切ったのか?」と信じられないように声を上げた。
「切ったよ。ほら」と、マチは前髪を指で軽く整えながら、イエランに向けて髪を見せた。
しかし、イエランはじっと見つめた後、「わからん」と首をかしげ、困惑の表情を浮かべる。細かい変化を感じ取れない様子だ。
「目腐ってんの?」と、マチが不満そうに顔をしかめ、鋭い言葉を放った。
「腐ってんのはテメェの頭だろ」と、イエランが軽く鼻を鳴らし、言い返す。彼の口調は冗談めいているが、その表情には少しだけ挑発が混ざっている。
「は?」とマチがイエランをじろりと睨み、苛立った声で問い返す。
その反応を見たイエランは眉を顰めて「なんだ、やんの…」と言いかけたが、その瞬間、ジェートがそれを遮るように「2人とも、早くやろう」と促した。その一言で、イエランもマチも言葉を飲み込み、険悪になりかけていた雰囲気が自然と和らぐ。
ふと周囲を見渡すと、いつの間にかゴミ山に到着していたことに気づいた。立ち込める異臭と荒廃した景色が、2人を再び現実に引き戻す。
そんな2人をよそに、ジェートはゴミ山に頭を突っ込み、漁り始めていた。それに続くようにマチもジェートの近くの山を漁ろうとするが、イエランが襟を掴んで、止めた。
「お前みたいなチビにこの山はまだ早い」と、イエランは冷ややかに言いながら、指で別の小さなゴミの山を指し示した。「あっちの小さい山を漁れ」
マチはその言葉にむっとした表情を浮かべ、唇をかみしめながら、すぐに反論する。
「いやだ。小さい山なんてつまらない。でかいとこじゃないと、お宝なんて見つからないもん!」
言いながら、マチは顎を少し上げてイエランを睨む。まるで自分の意見が絶対だとでも言いたげな態度だ。
そして、視線をジェートに向けて、少し声を強めた。
「それに、ジェートだってあたしと大きさ変わらないのに、でかい山漁ってるじゃん!」
マチの言い分を聞いて、イエランは呆れたようにため息をつくと「ジェートは見た目のわりに丈夫だし、力もつえー。だから、いいんだよ」と、当然のように返すが、マチはそれを聞いて一層声を強める。
「あたしも強い!」
イエランはすぐに「よえーだろ。チビ」と、再びマチをからかった。マチの顔が一瞬で赤くなり、怒りを露わにした。
「チビチビ言うな!のっぽ!」マチが苛立った声で叫ぶと、イエランの顔が一瞬で曇る。「はぁ?!のっぽじゃねぇし!最近は腕にもだいぶ筋肉が…」と、自分の腕を誇らしげに見せようとする。
その言い争いを静かに見ていたジェートが、ふと口を開いた。
「イエラン」
「ん?」
イエランはまだ怒りの余韻が残る顔を向ける。
「マチは俺がちゃんと見とくよ。だから、ここは俺らに任せて」
ジェートの言葉にはいつも通りの冷静さがあり、その穏やかな口調が場の空気を一気に和らげた。
イエランは一瞬眉をひそめ、「はぁ…」と、ため息をついた。
「ジェート、お前こいつに甘すぎるぞ!」
イエランは納得できないような顔をしながら、再び軽く抗議する。
「普通だよ」とジェートは淡々と返した。その短い返答に、イエランは「自覚しろよ…」と肩をすくめながら呟くが、その声には諦めの色が滲んでいた。
「ジェートがいいって言ってんだから、いいだろ、のっぽ」
マチは軽く不貞腐れながらも、挑発するようにイエランを睨み返す。
イエランは一瞬眉を吊り上げ、険しい表情を見せたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。「わかった。じゃあ、お前は俺と一緒にあっちの臭いゴミ山漁るぞ!」と、まるで子猫を掴むように、マチの襟元をひょいっと持ち上げた。
「おい!放せ!」
宙に浮かされたマチは、足をばたつかせながら抵抗するが、「何甘えたこと言ってんだよ、つえーなら自分で抜け出せよ!」と言って、イエランは容赦なく彼女を連れて行った。
「じゃ、ジェート。また後でな!」イエランは振り返り、軽く手を挙げて別れを告げた。
ジェートは一瞬だけその様子を見守り、淡々と「うん。気をつけて」と短く返す。
「おう!」
イエランは力強く答えると、マチの反抗にもお構いなしに、さらに歩を進め「…おい!暴れんな!」と、言い聞かせる。
「うるせー!ほんとに放せ!」
マチは必死に手足をばたつかせ、何とかしてイエランの手から逃れようとするが、彼の手はまるで鉄のように固く、びくともしない。顔を赤くしながら、マチは悔しそうに声を荒げるが、その叫びは荒れ果てたゴミ山に虚しく響くだけだった。
そのやり取りを遠くから見ていたジェートは、いつも通り無表情で彼らが去るのを見届けると、再びゴミ山に意識を戻し、手際よく漁り始めた。乾いた風が吹く中、錆びた金属や朽ちた廃材があちこちに転がる。ジェートは無心で手を動かし続け、何度も手のひらが鋭利な金属に触れるが、その痛みを意に介さなかった。
しばらくすると、目の端に奇妙な光がよぎった。それはほんの一瞬、まるで何かがジェートを引き寄せるような感覚だった。彼の指が触れたのは、冷たい金属の表面。錆びついた鉄の破片の間に埋もれていた一振りのナイフだった。手に取ると、ナイフ全体は漆黒に染まっていた。しかし、光沢を失った刃の向こうに、紫がかった微かなもやがちらついている。
「白く…ない」
ジェートはつぶやいた。彼が長年見続けてきた「白いもや」とは異なる、その異様な紫のもやがナイフから漂っていた。眉一つ動かさず、ジェートはそのままナイフをじっと見つめる。その刃先から放たれる微かなもやから目が離せない。ナイフから何か訴えかけられているかのような感覚が、彼の内側にじわりと広がっていった。
それは、これまで感じたことのない奇妙な感覚だった。ナイフは静かに、しかし確実に彼に何かを囁いているかのようだ。冷たい鋭さと同時に、底知れぬ深い闇がジェートを包み込むように感じられた。
ジェートはその奇妙な感覚に導かれるように、ナイフを手にしっかりと握り直した。冷たく、滑らかな柄が手に馴染む。周囲のゴミ山のざわめきや風の音は、徐々に遠ざかり、ジェートの意識はナイフだけに集中していた。
彼は試すように、軽くナイフを振った。漆黒の刃が空を切るが、驚くほど静かで、音が一切しない。まるで刃が空気を滑り抜けているかのようだ。その動きは滑らかで、音を感じさせるべき瞬間ですら何も響かない。まるで刃が存在していないかのように、空間に違和感すら与えなかった。紫がかったもやが刃の周囲にうっすらと広がり、すぐに消えていく。
もう一度、今度は少し力を込めてナイフを振ると、依然として一切の音がしないまま、何かが刃に反応したように一瞬だけ紫の光が強まった。ナイフの動きが空間に不思議な痕跡を残し、ジェートはその異様な静けさに目を細める。
「……変なナイフ」
音の無いその刃は、明らかに普通の武器ではない。それがどんな力を秘めているのか、ジェートにはまだわからなかったが、その冷たく不気味な存在感は、彼の手の中に確かにあった。
その頃、少し離れた場所では、イエランとマチがゴミ山を漁っていた。乾いた風が吹き荒れ、廃材が不規則に音を立てていたが、2人はそれを気にせずに作業を進めていた。
「おい、ちゃんとそっち見ろよ」とイエランがゴミをどかしながら指示するが、マチは「うん」と空返事をしつつ、どこか気のない様子でちらちらとイエランを伺っていた。その表情には、何か企んでいることが透けて見える。
しばらくして、マチは静かに動き出した。イエランの注意が別の方向に向いている瞬間を狙い、素早くその場を離れる。ジェートの方へ向かおうとした、その時だった。背後からイエランの声が響く。
「どこ行くんだ」
その声は冷静だが、鋭く響いていた。マチの足は、その声に縛られたかのように止まった。まるで背中にも目があるかのように、イエランは彼女の動きを見抜いていた。マチは振り返らず、「別に」とつぶやいたが、その声には少し悔しさが滲んでいた。
それからすぐのことである。イエランとマチがゴミ山を漁っていると、突然空気が変わった。風の音やゴミのざわめきが一瞬で消え、まるで世界全体が止まったかのように、緊張感が張り詰める。
「……!」
イエランが背後に何かを感じたときには、すでに遅かった。大柄な男が2人の間に、まるで空から降ってきたかのように不意に現れた。その衝撃で足元の廃材が音を立てて揺れ、2人は思わずバランスを崩し、手をつく。
降り立った男は、生気のない冷たい目をしていた。何か邪悪な力に操られているかのように見え、イエランの警戒心を瞬時に刺激した。直感的に、彼がただの襲撃者ではないことを感じ取る。すぐにマチの方を向いて叫んだ。
「おい、マ…!」
だが、イエランが指示を出す間もなく、男の手がマチに向かって掴み掛かる。
「…ちッ!」
マチは鋭い反射神経で素早く後ろに跳び退くが、男の巨大な手が彼女をしつこく追う。
「マチ、逃げろ!」
イエランは男とマチの間に素早く割って入り、男の片手を受け止めた。その声には、冷静ながらも強い緊迫感が込められていた。彼は男の動きを封じ、マチに逃げる時間を稼ごうとする。しかし、男はさらにもう片方の手を振り下ろす。
イエランはその動きにも対応し、両手でその巨大な腕を受け止める。圧倒的な力が彼にかかるが、何とか耐えながらマチに再び叫ぶ。
「早く行けッ!」
「嫌だ!あたしも戦う!」
「いいからッ!」
負けん気の強いマチは、守られてばかりいることが悔しくて仕方なかった。彼女の胸には、どうしても戦いたいという思いが渦巻いている。それでも、イエランの鋭い目がマチを制した。彼の声は低く、鋭く、そして容赦なかった。
「逃げろッ!」
その一言に込められた強い意思に、マチは唇を噛んだまま、悔しさを押し殺して後ろに下がるしかなかった。イエランの厳しい声に押され、その場を離れる。心の中では、守られてばかりで自分の無力さに対する怒りがこみ上げていた。それでも、今は従うしかない。振り返らずに走り出しながら、頭の中にはただ一つの考えが渦巻いていた。
「ジェートのところへ行かないと…!」
彼女は乱れた息を整えながら、ジェートの元へと必死で駆け出した。
マチは必死にゴミの山を駆け抜け、心臓が激しく脈打つ中、息を切らしながらジェートのいる場所にたどり着いた。ジェートはまだナイフを手にしたまま、周囲に気を払っていなかった。
「ジェート!イエランが…!」
息も絶え絶えにマチが叫ぶと、ジェートは彼女の方に目を向けた。その冷静な視線に、マチは少しだけ安心感を覚えたが、状況は切迫していた。
「襲われたッ!イエランが1人で戦ってる!」
マチは必死に言葉を絞り出した。
「マチはここで待ってて」
ジェートはそう言い残しすぐに駆け出した。その冷たい瞳に、何かが決意されたような強い光が宿る。
マチは言葉を失い、ジェートが急速に去っていくのを見守るしかなかった。
ジェートはゴミ山の中を疾走し、マチが説明した方向へと向かっていた。彼の全身が冷徹な決意に満ち、速さと正確さが際立っていた。障害物を一瞬でかわしながら、心の中でイエランの無事を祈りつつ、彼は目的地へと急いだ。
そして、ついに彼はその姿を目撃した。
「……イエラン…」
目の前には、大柄な男に首を掴まれ、持ち上げられているイエランがいた。彼の体はボロボロで、服は血に染まり、片目は腫れ上がってほとんど開かない。腕も不自然に曲がっていた。痛々しい姿に冷静さを保っていたジェートも、微かに胸がざわついた。
だが、そんな感情を押し殺し、ジェートはその男に向かって一心不乱に突進した。右手にはナイフを握りしめ、狙うはイエランを掴むその巨腕。鋭い動きでナイフを振り下ろそうとしたその瞬間、男はジェートに気づき、イエランの体を勢いよくジェートの方に投げつけた。
「かはッ!」
不意打ちのように飛び込んできたイエランが、ジェートの腹に激しく衝突する。衝撃でジェートの呼吸が乱れ、そのまま2人は吹き飛ばされ、背後のゴミ山に叩きつけられた。廃材が激しく揺れ、背中に激痛が走る。
だが、男は容赦なく攻撃の手を止めない。ジェートが痛みに耐えながらも視線を上げると、すでに男は距離を詰めてきていた。
「ふんッ!」
男は右拳を振り上げ、ジェートの顔面を狙って全力で振り下ろした。その瞬間、ジェートは反射的にナイフを突き出し、男の拳に突き刺した。しかし、男は痛みを感じる様子もなく、勢いそのままに拳を詰めてくる。
「…くッ!」
ジェートは両手でナイフを握りしめ、どうにか拳を止めようとするが、男のもう片方の手がジェートの首を掴み、力強く宙に放り投げた。
「ぐあッ!」
地面に叩きつけられたジェートは、痛みに歪む視界の中で男の動きを追った。男はナイフを拳から引き抜き、それを無造作にゴミ山へと投げ捨てながら、ゆっくりとジェートに向かって再び歩み寄ってきた。
「…イエラン」
男の体越しに、ジェートは地面に伏したイエランを見た。彼の呼吸はかすかに続いている。ジェートはその微かな命を感じ取り、何としてもイエランだけは助けなければならないと決意した。
限界を迎えた体に鞭打ち、ジェートは再び立ち上がる。荒い息を吐きながら、その冷たい瞳には、なおも諦めない強い意志が宿っていた。
「はぁ、はぁ…」
ジェートは男に向けて構えた。 だが、無理に正面からぶつかれば勝ち目はないことを悟っていた。男の一撃は重く、スピードも侮れない。さらに、イエランの無事を確保することが最優先だった。
男の巨体が再びジェートへと突進してくる。
「…ふぅ」
ジェートは静かに息を整え、一呼吸おいてから、ぎりぎりのタイミングで動きを止める。男の腕が地面に突き刺さった瞬間、ジェートはその巨腕を足場にして素早くゴミ山の方へと駆け出した。男はすぐに追いかけてくるが、それもジェートの計算通りだった。
目指すのはただ一つ。散らばるゴミの中でも異彩を放つ、紫色のもやを纏ったナイフだった。ナイフが輝きを放ち、まるで「俺を使え」と、ジェートを呼び寄せるかのように感じられた。
「…あと少しッ!」
ナイフまであと数歩というところで、男が射程にジェートを捉えた。突然、男が空中に飛び上がり、一気に距離を詰める。そして、両手組んで頭上まで振り上げると、強烈な一撃をジェートに向けて振り下ろした。
ドンッという轟音と共に粉塵が舞い上がる。しかし、男の手に伝わった感触は人間の肉ではなく、無機質な冷たいゴミの山だった。男はすぐに視線を上げ、目の前の違和感を探った。そこで見たのは、宙に舞い、ナイフを握りしめた少年の姿だった。
ジェートの手にあるナイフは、紫色のもやを強く放ち、まるで彼の意思に呼応するかのように光り輝いている。ジェートは一瞬の隙をつき、体を回転させながら男の首を目掛けて横一閃に切り裂いた。
男の巨体は、そのままバランスを崩し、後ろに倒れ込む。周囲のゴミ山がその巨体と共に崩れ落ち、辺りに土埃が立ち込めた。
ジェートはすぐにイエランのもとに駆け寄った。
イエランの体はすでにボロボロで、荒い呼吸がかすかに聞こえるだけだった。彼の意識はすでになく、今にも消えそうな命がそこにある。
「…イエラン…、帰ろう」
ジェートはそっとイエランを抱え上げ、慎重に背負った。彼の体は重く、今にも力尽きそうだ。後ろには男の倒れた巨体が静かに横たわっているが、今はそれを見る余裕はなかった。
彼の優先すべきことはただ一つ、イエランを無事に連れ帰ること。
「…ジェート!」
遠くから、マチの声が響いた。ジェートが顔を上げると、マチが荒い息をつきながらこちらに駆け寄ってくるのを確認した。彼女の顔には焦りと安堵が混ざり合った表情が浮かんでいた。
「2人とも、大丈夫か!?」
マチが駆け寄ってくると、ジェートはイエランをそっとマチの方に向かって少し傾けた。彼女の目がイエランの状態を確認すると、顔が一瞬にして強張った。傷だらけの体、荒い息、瀕死の状態。それでも彼女は自分を奮い立たせた。
「早く戻らないと…」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。鋭い気配が2人に迫ってくる。
「まさか…」
不穏な雰囲気を感じ取ったジェートは、すぐに後ろを振り返ったが、男は倒れ伏したままだった。しかし,明らかに空気が変わった。ジェートは周囲を警戒し始めた。そして、影からゆっくりと現れたのは、黒スーツを着た痩身の男だった。高身長で、冷静そのものの表情。彼はゆっくりと銃を構えた。
「ごめんな、痛かったよな」
男の声は穏やかだが、その背後に潜む冷酷さが際立っていた。
マチは瞬時にジェートとイエランの前に飛び出し、両手を広げて立ちはだかった。その瞳には強い決意が宿っており、怒りを抑えきれずに声を張り上げた。
「2人に手を出すな!」
ジェートは驚いてマチの肩に手を伸ばして止めようとしたが、怪我により鈍くなった体では動きが追いつかない。
「よせ、マチ…ッ!」
だが、黒スーツの男は冷静なままだった。口元に薄い笑みを浮かべながら、銃口をマチの方へゆっくりと動かす。
「まったく、威勢のいいガキどもだ。けどな…」
その穏やかな声には冷酷な響きがあり、彼の視線は冷たく研ぎ澄まされていた。
「わりぃが、これも仕事なんだ。大人しくしてたら何もしねぇから。な?」
マチの眉が険しく歪む。彼の言葉に怒りがこみ上げ、声を荒げた。
「ジェートとイエランをこんな目に合わせて、信用なんてできるかッ!」
男は軽く肩をすくめた。
「やり過ぎだとは俺も思うが、仕方ねぇだろ?まさか、念使えるガキがいるなんて思わなかったんだから」
その言葉を聞いた瞬間、マチは戸惑った。
「ね…ん?」
男は少し驚いた表情を浮かべた。
「なんだ、知らねぇのか?後ろの黒髪のガキなんて完璧な纏じゃねぇか」
マチは戸惑いを隠せず、再びジェートを見つめる。ジェートもまた、男が言っている意味が理解できていない様子だった。
「てん…?」
男は無表情のまま鼻を鳴らす。
「んだよ、何も知らねぇじゃねぇか。無駄に能力使っちまったぜ。てっきり、エルロワルのじ…」
その名前を聞いた瞬間、マチの顔が険しく歪んだ。
「なんで!エル爺を知ってんだ?!」
男の目が少しだけ鋭く光る。薄く笑みを浮かべたまま、淡々と答えた。
「そりゃ、俺の目的はテメェらの爺さんだからな。ここ数日張り込んでて、あの爺さんの弱点探らせてもらったぜ」
その言葉に、マチの表情はさらに険しくなる。ジェートもまた、心臓を強く掴まれたような感覚に襲われた。
「エル爺に手ェ出したら、殺す」
ジェートは静かにイエランを下ろすと、真っ直ぐ男を見つめ、怒りが内側から湧き上がるのを抑えきれなかった。左手に握られたナイフが、その感情に呼応するように強く光り輝いた。
「…ぶっ殺してやるッ!」
その声には決意と激しい憤りが込められていた。ナイフから放たれる紫色の光が、男の周囲の空気を揺るがせるかのように強く脈打っていた。
「いいオーラ発するねぇ」
黒スーツの男は冷静にジェートを観察しながら、顎に手を当てて満足げに微笑んだ。まるで戦利品でも見つけたかのように、興味深げにナイフをまじまじと見つめていた。
「ま、だからどうしたって話なんだけどな」
男は淡々と呟いた瞬間、ジェートとマチの視界から消えた。次の瞬間、彼の姿はまるで幻のようにジェートの目の前に現れた。その速さは尋常ではなく、2人は息を呑んだ。動こうとしても、体が反応しない。まるで目の前の男がその場の空気全てを支配しているかのようだった。
ジェートは反射的にナイフを振り下ろし、マチも即座に蹴りを放った。しかし、男の動きは冷静そのもので、ジェートのナイフはあっさりと片手で掴まれ、マチの蹴りは最小限の動きでかわされた。
「動くな」
男の低く重い声が、周囲の空気をさらに圧迫する。ジェートは反射的に振り上げたナイフを引き戻そうとしたが、男の握力がそれを許さない。目の前にいる敵の強さを痛感しながらも、怒りが込み上げてくる。
「…チッ!」
マチの舌打ちが響く。彼女の視線は男の銃口へと向かっていた。その銃口は、無防備なイエランに向けられていた。
「大人しくしてろ。じゃなきゃ、こいつを殺す」
男の声は、まるで淡々と事務的に処理を伝えるかのようだった。殺すことに対する躊躇など微塵も感じられない。まるで、命を奪うことが単なる仕事の一環であるかのように。そしてその命令に従わなければ、イエランが引き金一つで消え去ることを確信させるだけの圧力が漂っていた。
ジェートの胸中で怒りが渦巻き、マチも何とか反撃の隙を探ろうと、男を睨みつけた。しかし、状況は明白だった。ここで動けば、イエランの命は消える。
2人は男の指示に従わざるを得なかった。ジェートは悔しさを飲み込みながら、握りしめたナイフを静かに下ろし、マチとともにゆっくりと歩みを進めた。彼らの後ろでは、冷酷な視線を持つ男が銃を構え、その銃口をイエランに押し当てていた。
ジェートの肩越しに見えるマチの表情は、怒りと焦りで引きつっていた。だが、イエランの命がかかっている以上、無闇に動くわけにはいかない。どんな行動も、今は慎重に選ばなければならなかった。
男の足音は静かで、まるで彼の存在そのものが空気に溶け込んでいるかのようだった。その気配は常に重苦しく、2人の背後にぴったりとまとわりついていた。いつ何が起こるかわからない緊張感が、冷たい汗をジェートの背中に流れ落ちさせた。
「ジェート」
マチが覚悟を決めた顔で小声でジェートに問いかけた。ジェートは無言で首を横に振り、言葉を返さなかった。今はただ、家にたどり着くことが最優先で、それ以上のことを考える余裕はなかった。
2人は無言のまま歩を進め、エル爺の家が徐々に視界に入ってきた。しかし、心の中は不安と苛立ちでいっぱいだった。男の冷たい銃口が常にイエランに向けられている限り、反撃の隙など皆無だった。足元に刻まれる音だけが、彼らの焦燥を無情にも打ち鳴らし続けていた。
家にたどり着いた頃、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。淡い橙色が地平線に広がり、あたりは静寂に包まれていたが、心の中に渦巻く不安と緊張が2人の胸を締めつけていた。
家の前で足を止めたジェートとマチの横を、男が静かに一歩前に出る。彼の目には冷徹な決意がはっきりと浮かび、その片腕に人質としてのイエランが無力にぶら下がっていた。
「お前ら、ここで大人しくしてろ。下手な真似をすれば、こいつの命はない」
男の声は低く、銃口を揺らしながら冷たく響いた。ジェートもマチも、怒りを抑えながら沈黙するしかなかった。イエランの命がかかっている以上、反撃の余地はまるでない。
男はドアを開け、2人を中へと無理やり押し込み、イエランを抱えたまま、ゆっくりと家の中へ入る。普段なら安心感で満ちているはずの家も、今は異様なまでに静まり返り、空気が重苦しく感じられる。何かが違う。居心地が悪く、全てが冷たく感じられた。
「エルロワルのじいさん、出てこいよ。大事な子供たちが人質だぜ?」
その呼びかけに、家全体が張り詰めたように感じられた。男の言葉が響く中、ジェートの心臓は痛いほど高鳴った。
「来ちゃダメだ、エル爺!」
マチは思わず声を張り上げた。焦燥と恐怖が入り混じり、必死にエル爺へ叫んだが、その声を無視するかのように、エル爺は壁に手を当てながらゆっくりと姿を現した。
「子どもたちに何をしよった…!」
初めて見るエル爺の怒相。ジェートの目には、エル爺の纏うモヤが激しく揺れ動いているのがはっきりと見えた。
対峙する男はそんなエル爺を前にしても、余裕を崩すことなく、軽く肩をすくめる。
「まぁ、待てよ。俺はコイツらにこれ以上危害を加えるつもりはねえよ」
男はそう言うと、イエランを軽く床に下ろした。すぐにジェートとマチはイエランのそばに駆け寄った。
「ただし、あんたが俺の条件を呑まないなら…」
その瞬間、男は素早く銃口をジェートに向けた。冷たい鉄がジェートの後頭部に押し当てられる。ほんの少しでも妙な動きをすれば、死が確実だと感じた。マチも同じように、ジェートを撃たれないよう、身じろぎ一つせずその場に固まった。
「条件はなんじゃ…」
エル爺は額に少し汗を浮かばせながら、静かに問いかけた。
「お前の能力を使わせてもらう。それだけだ」
「……わかった」
エル爺の声に、諦めとも覚悟とも取れる響きがあった。男は満足そうにうなずくと、懐から携帯を取り出して耳に当てた。
「俺だ、すぐに来い。それと、誰でもいいから1人攫ってこい」
そう言い終えると、男は淡々と電話を切った。
「迎えを呼んだ。爺さんにもついてきてもらう」
男の提案に、エル爺は「ああ」と、短く答えた。
「行っちゃダメだ!エル爺!」
マチはエル爺に駆け寄ろうとしたが、男はすぐに銃口をマチに向け、「動くんじゃねぇ!」と凄んだ。エル爺はすぐに、「よすんじゃッ!」と怒鳴り、男を制止した。張り詰めた空気が一層重くなる中、扉が静かに開き、2人の男が現れた。1人は麻袋を被せられ、左目に傷のあるもう1人の男に両腕を拘束されている。
「おい」
黒スーツの男が冷たく声をかけると、傷のある男が麻袋を取った。
「どこだ…?俺に何をする…」
麻袋の男が問い終える前に、黒スーツの男はためらいなく銃を撃ち込んだ。しかし、撃たれた男の血は部屋に飛び散らず、不気味な静けさが続いた。そして、不思議なことに、倒れた男はゆっくりと立ち上がる。その姿を見て、マチとジェートは驚きを隠せなかった。特に驚いたのは、彼が放つ白いもや。そして、生気のない顔。ジェートはすぐに気づいた。先ほど自分が倒した男と、まるで同じ姿だった。
「…!」
ジェートはすぐに警戒を強め、マチとイエランを背中で庇った。
「じじいを運べ」
黒スーツの男が、銃弾を撃ち込まれた男に命令すると、男はただ無言で頷き、エル爺の方へ向かって歩み寄った。ジェートとマチがエル爺を守ろうと動きかけた瞬間、エル爺が鋭く「来るなッ!」と一喝し、2人を止めた。
エル爺は抵抗せずに腕を拘束され、男たちに囲まれながらゆっくりと部屋を出ていく。部屋を出る直前、エル爺はほんの一瞬ジェート達に顔を向け、穏やかだが重い声で「ワシのことは忘れるんじゃ…達者でな」と告げた。
その言葉を最後に、扉が静かに閉まった。取り残されたジェートとマチの2人は、静まり返った部屋の中で、ただ茫然と立ち尽くしていた。
次の日、薄暗い光が差し込む部屋の中で、イエランの重い瞼がゆっくりと開かれた。彼はぼんやりと天井を見つめ、頭が重く痛んだ。体全体がまるで鉛のように重く、無理にでも動かそうとすると、傷ついた箇所が激しく痛む。
「……ここは……」
声はかすれていて、自分のものではないような感覚がした。ぼやけた視界が少しずつ焦点を取り戻し、隣に座っていたマチの姿が見えた。彼女はずっと目を閉じ、じっとしていたが、イエランが声を発した瞬間に彼に気づいた。
「イエラン!」
マチは驚いて目を見開き、すぐにジェートを呼んだ。
「ジェート、イエランが目覚めた!」
ジェートはすぐに駆け寄ってきて、イエランの顔を覗き込んだ。安心したようにほっと息をついたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「無理に動かないで」
イエランは薄く笑みを浮かべながら、2人を見上げた。しかし、その表情はどこか痛々しく、彼自身も自分の体がまだ限界に近いことを感じていた。
「…あの男は…」
イエランがかすれた声で問いかけると、マチがすぐに答えた。
「ジェートが倒したよ」
「そうか…、さすがだなジェート」
「何も…凄くないよ」
イエランは微かな笑みを浮かべたが、その目にはまだ疲労が色濃く残っている。それを見てジェートは眉をひそめ、重い口調で続けた。
「イエラン…エル爺が攫われたんだ…」
イエランの表情は一瞬で変わり、驚愕と焦燥が入り混じった顔になった。目を大きく見開き、額に汗が滲んでいた。
「どういうことだ…?!ジェート、何があった…?!」
イエランは体を起こそうとするが、身体の疲労と痛みに苦しそうに顔をしかめながら、必死にジェートに詰め寄った。その動きは無理があり、呼吸も荒くなっていた。
マチはイエランの肩に手を置き、必死に彼を止めようとした。
「やめなよッ!イエラン!」
マチの言葉には必死さが滲んでいた。イエランはその言葉に一瞬驚き、肩を落として再び横になった。痛みに耐えながらも、彼の表情には深い悲しみと悔しさが刻まれていた。
ジェートはイエランの痛々しい姿を見ながら、無言でエル爺の攫われた経緯を静かに説明し始めた。その声は静かで重く、部屋の中に沈黙が広がっていた。
「…エル爺を助けに行こう」
イエランは痛みに耐えながら、声を振り絞った。その顔には額に浮かぶ汗と荒い呼吸が彼の苦痛と限界を物語っており、目には深い決意と焦燥が色濃く宿っていた。
「俺が行く」
ジェートは冷静に言い切った。
イエランはその言葉に驚きを見せたが、すぐに意を決して反論した。「いや、俺も行く」と強い決意を込めて言い、体を起こそうとした。その動きには激しい痛みが伴い、彼の体は微かに震えていた。ジェートとマチは、イエランの無理をする姿に心を痛めつつも、その強い意志を尊重せざるを得なかった。
「でも、どこに行けばいいのか全くわからない…」とマチが口にした。その言葉には明らかに無力感と途方に暮れた様子が滲んでいた。
「何人かに話を聞いたけど、誰も知らなかった…」
マチは肩を落とし、悔しそうに呟いた。その言葉は部屋に重い沈黙をもたらし、希望の光が失われたように感じられた。
「行商人のおっちゃんは?」とイエランが提案すると、マチの顔にわずかな希望の光が宿った。行商人は町の人々と広く交流しており、情報を持っている可能性が高い。部屋の空気がわずかに変わり、希望の兆しが漂い始めた。
「そろそろ、来る時間じゃない?あたし行ってくる」
マチは短く告げると、決意に満ちた瞳でジェートとイエランを見つめた。その声には強い意志がにじみ出ていた。彼女の動きは迷いを一切含まず、まるで風のように勢いよく部屋を飛び出して行った。
ジェートはマチの後を追うように、冷静な表情で言葉を続けた。
「俺も行く。イエラン、少しだけ待ってて」
「ああ、頼んだ」
イエランはジェートの言葉に小さく頷き、決意を込めた視線を彼に向けた。その表情に、痛みを抑えながらも揺るぎない意志が感じられた。ジェートとマチが部屋を出ると、イエランは布団の端をぎゅっと握りしめ、微かに震える拳を見つめた。彼の肩がわずかに上下し、息を整えるその姿からは、何もできなかった自らの憤りが感じられる。
そんな中、イエランは自分を包む白いもやに気づき、その不思議な光景に目を見開いた。彼の視線は混乱と驚きで揺れ、ゆっくりと流れるもやの様子をじっと見守った。
「これ、なんだ…?」
イエランの声には、突然の変化に対する戸惑いが込められていた。彼の呼吸がわずかに乱れ、額に汗が滲む中で、その光景に対する警戒心が強まっていった。
今回で、もう1人原作キャラ出るとこまで話進めたかった