彼は誰の夢   作:く ろあり

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夢の終わり

 宿命論。というものがある。

 起こり得る事象。辿る結末。

 どれだけ方策を並べようとも。どれほどの努力をしようとも。それらは変えることが出来ない、というもの。

 例えば。誰かの不運で前提条件が狂おうとも。誰かの幸運で過程が大幅に改善されようとも。

 小さき下界の民がどれだけ争おうとも、結末は何も変えられないのかもしれない。

 しかし、である。

 下界の民では変えられない事柄でも。天上世界から顕現した超越者が介入した場合、結末の見えていた事柄は形を保てるのであろうか。

 そこに更に。

 時を駆ける幸運の持ち主までもが加わった場合はどうだろう。

 待ち受けるのは、最善以上の最高か。最低以下の混沌か。

 ただ一つ、確かなことがあるとすれば。

 何かを変えるべく今を全力で生きようとしない者には何も変えられない、ということだろうか。

 だから。彼は再び、彼の今を駆ける。

 変えられない結末を、変える為に。

 

× × ×

 

「何……あれ……?」

 その場に居合わせる全員の胸の内を代弁するように、赤い髪の少女が呟いた。

 ダンジョンが哭いた。

 ルドラ・ファミリアの面々が発生させた火炎石の爆破によって大きく抉れた壁面の中で、それが産声を上げる様を、彼女たちは見た。

 立ち昇る高熱の湯気の向こう。鋭く輝く真紅の瞳を、見てしまった。

「っ……!」

 危険。警戒。回避。退避。脱出。転脱。危険。危険危険危険危険危険危険!

 どう見たって異常事態の塊であるそれは、金色の髪を揺らすエルフの脳内を警告アラートで埋め尽くした。

 そのアラートに突き動かされるより早く。

「え?」

 その異常の塊が、彼女たちの眼前に迫った。

 が、しかし。

「!」

 迫っただけ。

 後に、ジャガーノートと呼ばれることになる異形を極めた存在は、自身の内で鳴り響いたアラートに従い急制動。彼我の距離を食い尽くすことを止めていた。

「な、何……?」

 夢を見ているのだろう。多分、悪夢寄りの。

 彼女たちの誰かはそう考えた。

 数多の死戦を潜り抜けてきた彼女たちならば一目見ただけで分かる。目の前にいるのは、とっておきで最悪の異常事態(イレギュラー)であり、かつて見たことのないほど圧倒的不条理を誇る破壊の権化。それだけでもう悪夢だ。

 しかし、その悪夢の前に。つい数秒まで何もなく、誰もいなかった空間に。

「誰だ……?」

 誰かがいた。

 それは恐らく、ヒューマン。

 黒い外套に身を包み、外套のそれよりも深く澄んだ漆黒のマフラーを靡かせる背中。破壊者の急制動の際に生じた突風で揺れるフードの中から見え隠れする白い髪。左手に白いナイフ。右手には黒いナイフ。

「来れた……また……ここへ……」

 モノトーンに纏まった背中から、声が聞こえた。その声で性別は男なのだと理解は出来たけれど、声の質は幼いように思えた。声変わりを果たして間もないのかもしれない。

「あれは……」

 その背中を見つめる少女たち……特に、赤い髪の少女。金色の髪のエルフの少女。濃紺の着物に身を包んだ極東出身の少女。桃色の髪の小人族(パルゥム)少女。

 彼女たちは、強烈な既視感に襲われていた。

 そう長い期間ではなかった。

 暗黒期と呼ばれた、迷宮都市が暗く沈んでいた時代。

 女性団員しかいない彼女たちの派閥に、一人の少年が身を寄せていた時期があった。

 その少年はある日、何の前触れもなく現れて、何も告げずに彼女たちの前から姿を消した。

 彼女たちはもう、少年の名前も顔も、少年との思い出や交わした言葉も。彼という個人を形成する殆どの事柄を思い出せなくなっている。彼という存在がいたことだけは朧気に覚えているというのに。

 しかしわかる。彼女たちは、あの背中を知っている。

 記憶の中か。心の中か。魂の中にか。

 彼女たちの中に彼が残した何かが微かに、しかし確かに残っていた。

「アル!?」

 だから。誰かのその叫びは、彼女たちの中に燻っていた何かに火を付けるには、充分に過ぎるものだった。

「アル! アルなんでしょう!? 私! アーディ! 貴方に命を救われた、アーディ・ヴァルマだよ!」

 背中が揺れ、少年が半身だけ振り返る。正面に居座る破壊者と似て非なる深紅の瞳が、瞳に涙を溜めている少女を捉えた。

「……未来って……変えられるんだ……」

「え? 何!? 聞こえないよ! 何て言ってるの!? アル!」

 声を枯らさんばかりに叫ぶ少女でさえ、その少年を忘れていた。

 しかし、彼女は直ぐに思い出した。その後ろ姿一つで充分だった。

 自分の命を繋いでくれた首飾りを託してくれた少年を思い返す為の材料は。

「落ち着けアーディ。彼の前に立つあの巨大な影が見えないのか。彼の気を散らすな」

「お姉ちゃん! でもあの子……あの子は……!」

 帽子の似合う男神に。

『多くは語れないんだけど、アリーゼちゃんたちに同行してあげてくれないかなあ? 君たちの存在が彼女たちの助けになる。必ずだ。ガネーシャには話を通しておく。だから頼む。この通りだ』

 赤髪の少女たちが敬愛する女神に。

『私からもお願い。ルドラ・ファミリアは追い詰められ、随分と事を急いでいるようなの。それこそ、私たちが想定している結末より遥かに。今の彼らはどんな凶行に及ぶかわからない。けれど、あの子たちと通じ合っている貴方たちがいれば、黒い未来を変えられると思うの。だからどうか、お願い』

 何かと縁のある二柱に頭を下げられ、アストレア・ファミリアの行軍に同行していたガネーシャ・ファミリアに籍を置くシャクティ・ヴァルマとアーディ・ヴァルマの姉妹は、それぞれ困惑と、歓喜に近い激情に支配されていた。

「アル……? アル!?」

「お、思い出しました……彼は……!」

「あの青二歳……!」

「おいおい何だってんだこいつは……」

 彼女たちの声を背に、少年はもう振り返らない。獰猛な唸り声を上げ続けている厄災を睨め付ける。

「ここにまた来れたことに意味があるなら……それは……」

 両手を挙げる。武器を構える。感情のギアを上げ、これから起こり得る戦闘に全ての意識を向ける。

「お前を止める……」

 まず、目的を口にした。

 そして、誓いを言葉にする。

「あの人たちを、誰も死なせないっ!」

 大声疾呼。アルと呼ばれた少年が駆けた。白い少年を迎え撃つべく黒い怪物も駆ける。

「はああああああっ!」

 白と黒の衝突。鳴り響く激突音。消え去る間合い。瞳に紅を宿した一人と一匹が睨み合う。

「いくぞ……!」

 そして始まるは、第二級冒険者以上の彼女たちの目を持ってしても全てを追いきれないような、超高速戦闘。

「なっ…………訳がわからんぞ……」

 ゴジョウノ・輝夜が、口中で消え果てそうな小声で呟く。それは目の前での戦闘に向けたものでありながら、目の前で戦闘を繰り広げられている二つの存在に向けられたものでもある。

「わかんねーけど……あいつがすげえってことだけはわかる」

 皮肉屋のライラが、素直に認めた。

 少年の得物である二振りのナイフは、怪物の爪や尻尾を捌くにはまだ活かせるかもしれないが、攻め手に回った際は圧倒的にリーチが不足しているように見える。しかし、そのディスアドバンテージを感じさせない立ち回りをアルは見せていた。

「アルは……あの怪物と戦い慣れている……?」

 少年の名も、それが偽名であることから何から何まで思い返したアリーゼが呟く。

 アルが選択したのは、一つの判断ミスであっさりと全身をバラバラにされかねない、超近接戦闘。

 まるでそうするのが最善だと知っているかのように、彼は迷わずにその択を選んでいた。

「確かにあの速度、あのリーチの怪物と距離を取るのは苦しいのでしょうが……」

「それもあるんだろうけど、アルの狙いはそれだけじゃない。あのバケモノをアタシたちに近付けようにしてんだ。多分な」

「だろうな」

 直感に近いライラの推測を、シャクティが迷わず肯定する。

 引かれれば押し、押されれば押し返す。怪物が距離を離そうという素振りを見せたならその選択を叩き潰して動きを制限する。目紛しく動き回りながらも自分一人にヘイトを集中させるよう、少女たちに怪物の意識を向かせないようにと、常に立ち位置を意識しているようシャクティには見えていた。

「で、どうするアリーゼ。我々はあの少年を見ているだけか?」

「そんなわけないじゃない! さあみんな行くわよ! 私たちもアルに」

「こいつに!」

 閧を上げようと声を張るアリーゼより更に張り詰めた声が、降り止まない火花の雨中から届いた。

「魔法は撃たないでください! 恐らく全て跳ね返されてしまいます!」

「アル!?」

 一撃必殺を体現する怪物の攻撃全てを不発にしてみせながらアルが叫び、一度大きく距離を取る。火炎石の破壊を免れた大木に足を付け、更に叫んだ。

「ファイアボルト!」

 少女たちの目が見開かれる前で、詠唱もなく掌から撃ち出された炎雷が破壊者に直撃。

「何っ!?」

 する寸前で、炎雷が駆け抜けるコースを変えた。そのまま発射台であるアル目掛けて寸分狂わず殺到するも、それを予期していたアルは垂直に大跳躍し回避。

「反射した!?」

「きゃあっ!」

 轟く爆音。そして衝撃。立っていることもままならない程の振動が少女たちを襲った。

「な、なんて出鱈目な……!」

「もしも彼の情報なく……私たちが魔法で攻撃していたら……!」

 リャーナとセルティ。自身の当たり前を行使していたらと、二人の魔術師の背中に冷たい汗が走る前で、アルの代わりに直撃を受けた大木は大穴を開け、炎に巻かれた。

「こんな具合です!」

 炎と煙を上げ倒れ伏そうとしている最中の大木を蹴り付け急加速し、怪物の懐へとアルは再び飛び込んだ。一瞬の隙を産むことすら認めない高速戦闘の再演。甲高い金属音が三十階層全域に響き渡り、一人と一匹の演舞を彩る。

「魔法での攻撃の危険性を訴える為だけにあんな危険な真似を……!?」

「あのバケモノもめちゃくちゃだけど、アルも充分めちゃくちゃね!」

 横顔に汗の玉を走らせるリューが呻き、本人的にはとっても褒めているつもりでアリーゼが叫ぶ。どういった感情に起因したものかわからない笑みを口元に浮かべながら。

「こいつは! 体内に魔石がありません!」

「ま、魔石がない!?」

「だったらどうすればいいの!?」

「頭から尻尾までとにかく全てを叩き潰すしかないと思われます!」

「な、何それー!?」

「長丁場になったら確実に僕は負けます! こいつの攻撃はどれ一つだって食らったら致命傷です! その代わりに装甲は脆い! 魔法を跳ね返す殻も破壊することが出来る! だから速攻で片付けます!」

「片付けるってどうやって!?」

「かっ、考え中ですっ!」

「考え中!?」

「あ、アルぅー!?」

 ずっこけそうになりながらアーディが叫ぶ中でも、アルは手も足も思考も止めない。

 本当は余裕など一切ない。口を開くのだって命懸け。それでも言葉を発することを止めてはいけないと、アルは感じていた。

「強い……」

 アルは気付いた。最初の一合目で即座に気付かされていた。

「僕たちが戦った個体より強い……!」

 だからこそ、彼女たちへ情報を届けることを躊躇わない。自分の知り得る情報を伝えないことこそ生存への道を狭める選択だと、決死の思いで言葉に起こし続ける。

 そして。この敵を一人で打破するなど不可能であることも、彼は理解していた。

「くそっ……!」

 しかし、彼は迷った。それ以上に怯えた。

 目の前の怪物以上に、今も自分に視線を注いでいる少女たちを失う可能性に怯えた。

 本当は嫌だ。彼女たちには、誰一人として傷付いて欲しくない。自分一人で全てを終わらせたい。

「アル……!」

 生来の色である金に染まった髪を揺らし、困惑や動揺を隠せない面差しで自分を見ているあの人を。

「装甲が脆いという情報を信じるなら、なんとか片腕だけでも捥げれば……!」

「あの出鱈目な機動力を半減かそれ以下に抑えられるかもしれない……!」

「いやいやアタシらが行っても足手纏いになるだけじゃ……なんて言ってもいられねえか……!」

 あの人の大切な家族を。

「アル! 私たち、どうしたらいい!?」

 胸元で覚えのある首飾りを光らせ、声を張り上げているあの人を。

 誰も失いたくない。全員、生きて帰って欲しい。

 リューに、自分の世界のリュー自身すらも知らない、あり得たはずの未来を生きて欲しい。

 この世界のリューに、過去に戻れたならばだなんて一瞬でも思わないで欲しい。

 あの人たちの笑顔が。正義が。ずっとずっと巡り続けて欲しい。

「今度は、私が君を助ける! 私たちも一緒に戦うよ! だから……アル! アルっ!」

 だから。

「皆さん! 力を貸して下さい!」

 選んだ。彼女たちの命を大きく危険に晒すことになる選択を、叫んだ。

 彼女たちを、一人も死なせない為に。

「あなた達の力が必要ですっ!」

 少女たちは震えた。未知への恐怖に。

 同時に、腹の底から湧き上がる戦意に。

「狙いは左腕! まずここを潰します!」

 そう宣言したアルは、派手に動き回るのを抑え地上戦……迎撃戦の構えを取った。ジャガーノートの左側面が彼女たちに丸見えのまま固定出来るよう動きを限定。少しでもいいから、怪物の動きのクセを彼女たちの目に焼き付けさせる為に。

「ぐっ! が……ぁ……!」

 足を止めた途端に増える被弾。戦闘衣は裂け、生傷の数がぐっと増える。凶爪の先端がフードごと頭部の皮一枚を持ち去って行き、大量の血がアルの白髪を犯した。今のは本当に危なかった。

 足を止めるなど愚策も愚策。しかし、短期決戦をするならば。

「耐えろ……耐えてみせろっ……!」

 自身を奮い立たされる言葉を吐き出し、押し寄せる最悪全てに真っ向から挑む。

 貴方たちの命を使わせてくれ。

 それと同義である言葉を吐いた自分がここで引き下がるわけにいかない……!

「アルと言ったな! こいつに魔法を使ったとして、取る選択は必ず反射か!? 回避の可能性は!?」

「っ……! どちらもあり得ます! こいつには高い知性がある! 深手を負っていた時は迷わず回避を選択していました! それと、反射の時には他の行動が取れないみたいで動きが止まります!」

「理解した! ならば、狙えるタイミングはあるな!」

 シャクティの叫び声に反射的に答えて、彼女の狙いにアルは気付いた。

 この怪物が魔法に反応し、自身を防衛する為の行動を取るのならば。

 脚を止めての反射。反射を捨てての回避。そのどちらかになる可能性が極めて高い。

「そうか……!」

 それはつまり。どちらかの行動に、必ず追い込めるということ。

 ならば、狙うならヤツの選択、その先。

 この場に、それを察せない冒険者など一人もいなかった。

 だったら……!

「リャーナさん! セルティさん!」

「え!?」

「私!?」

 ヒューマンとエルフの驚愕が重なった。なんなら、二人の名を叫んだアル自身も驚いているくらいだ。

「魔法を撃ってください! 狙いは顔面!」

 アルは、彼女たち全員の顔を知らない。いつかの夢の中では顔を合わせる機会がなかったから。それでも彼は、十一人の正義の眷属全員を見分けることが出来た。

 名前。種族。特徴。性格。それぞれとの得難い思い出まで。

 彼女たちを構成するものを、リューから伝え聞いているから。

「魔法を撃つって、跳ね返されちゃうんでしょう!?」

「団長!?」

「アルを信じて! 彼は信用出来る!」

「……わかったわ!」

「はいっ!」

 二人の魔術師は、躊躇いなく言い切った団長を信じた。

「ネーゼとイスカはリャーナとセルティの援護! もし跳ね返されそうになったら二人を抱えて無理矢理にでも脱出! 兆候見逃さないで! 絶対に飲み込まれちゃダメよ!」

「了解!」

「任せて!」

 狼人(ウェアウルフ)のネーゼ。アマゾネスのイスカが力強く応じる。彼女たちにお願いしたかったことをドンピシャリで口にしてくれたアリーゼに内心で感謝を告げながら、パーティーで唯一大盾を装備している少女を見た。

「アスタさん!」

「わ、わたし!?」

「盾はダメです! 爪でも尻尾でも一瞬で粉微塵にされる! こいつの攻撃は受けに回ったらダメなんです! それならまだ」

「得物でぶっ叩け! ってこと!?」

「そうです!」

「うん! わかった!」

 アスタ。最前線でみんなの盾になる、とても頼もしく、とても可愛らしいドワーフ。聞いていた通りの人だと、アルは思った。

「!?」

 アルの体を、淡い光流が包んだ。ゆっくり、しかし確実に、刻まれたばかりの傷が癒えていく。

「ありがとうございます! マリューさん!」

「え、ええ!」

 そちらを見なくとも誰が自分を癒してくれたのか、アルにはわかっていた。

 マリュー。みんなのお姉さんのような存在の治癒師(ヒーラー)。この人も、一目で顔と名前が一致していた。

「私も!」

「これは……!」

 アーディが何かの術を唱えたらしい。マリューの術と合わせ傷と体力がみるみる癒えていくが、アルの驚愕を買ったのは回復の効果ではない。

「ステイタスが上がってる……!?」

 感覚的には、彼と同じファミリアに籍を置いている春姫の妖術に近い。春姫の操る階位昇華(レベルブースト)ほどの劇的な出力アップはないが、少なくない影響が表面化している。

 数秒以前より、自分より遠く、ジャガーノートに近い所で攻撃を捌けるようになってきた。前に出られている証左だ。

「アル! そのまま踏ん張って!」

「はいっ!」

 っていうか、アーディさんってこんなこと出来たんだ!? リューさんがアーディさんを語る時って、如何にアーディさんが可愛くて素晴らしい人間かばかりが強調されていたからこんなこと出来る人だなんて全然知らなかった! 

「おいアル! わからないなら勘でいいから答えろ! アタシのおもちゃはこいつに通ると思うか!?」

「通ります! 必殺になり得る! 勘じゃないです!」

「上等っ!」

 ライラの問いに迷わず答えたアルには確信があった。何せ、過去にこいつと交戦した経験のある人物から聞いているのだから。ライラの言うおもちゃとやらがかつて、ジャガーノートの右手を奪ったことを。

「飛び込む皆さんは尻尾に気を付けて! もらえば戦闘は不可能になります! 牙も! 噛まれたら絶対に助からない!」

「わかったわ!」

「ええ!」

「ああ!」

「了解!」

 アリーゼ、リュー、輝夜、ノインたち前衛が答え、武器に手を添える。彼女たちは、自分たちがすべきことを自分たちなりに飲み下していた。

「アル! 魔法で攻撃は了解したけど、でもいいの!? もし貴方が巻き込まれたら……!」

「信じて!」

「っ!」

「僕を信じてっ!」

「……わかりました……!」

「詠唱、始めます!」

 張り詰めた空気に響く裂帛の叫び声を聞いた魔術師二人は、もう躊躇わなかった。

 知らない詠唱がアルの耳に届く。二人の歌が高く響く。

 ジャガーノートは当然気が付いていた。二つの魔力の高まりを。しかし迎撃に向かえない。

「おおおおおおおっ!」

 そんなことをしたら。一瞬でも隙を見せたなら。この白髪の人間に呑まれる。それだけの実力、勢いを感じ取っていた。

 地上戦を選んだ彼に馬鹿正直に応じる。それ以外の択が、現状ジャガーノートには存在していなかった。

「尻尾は私が抑えよう……!」

 こちらを気にしながらも一歩も下がらない冒険者の勇姿に触発され息を巻くシャクティが槍を構える。穂先を怪物へと向けながら、少年の奮闘により動きのパターンが単調になりつつある怪物の動きをじっと見る。

 如何に数多の戦場を共に駆けたとて、益々洗練されていくアストレア・ファミリアの連携に合わせ通すのは難しいと判断したシャクティは、死角から迫る破滅の一撃が彼女たちに届かぬよう立ち回ることを選んだ。その為に、高速で走り続ける怪物の動きを少しでも頭と体へ叩き込むべく極限まで集中を高めて目を凝らす。

 彼女たちのポテンシャルは充分に理解している。アルの言う通り怪物の装甲が脆いものであるなら彼女たちは穿てるし、彼女たちが力を合わせれば凌げない攻撃などない。

 シャクティは、そう信じて憚らなかった。

「撃ちます!」

「いきますよ! アル!」

 詠唱完了。セルティとリャーナが生み出した二つの弾丸が、凶悪な怪物を屠るべく装填される。

「お願いします!」

 白髪を激しく揺らし、命を削りながらアルが応じる。

「勝負だ……!」

 アルが決戦の覚悟を口にすると同時。

「やああああぁあぁ!」

「いっけぇえええぇ!」

 重なる砲声が、ダンジョンを染めた。

 迫る魔力の塊と、一歩も引かない少年。

 押し寄せる脅威と、変わらず聳え立つ白い脅威。

 それらを前にした怪物は、意を決した。

「! 飛びます! うわっ!」

 アルが叫ぶと同時、激烈な破壊の爪痕が大地に刻まれた。

「消えた!?」

「速過ぎる!」

「何処へ!?」

「う、上! 天井っ!」

 ジャガーノートの選択は、反射ではなく回避。超高速の三次元展開。地を蹴り岩を蹴り木を蹴り、天井に着地をしてのける。リャーナとセルティの魔術は掠りもせず。ジャガーノートは、当然無傷。

「はあああああああっ!」

 ではなかった。

 天井に接地した左手に備わっている三本の爪。そのうちの二本が、根本から削ぎ落とされていた。

「アル!?」

「どうやってあの動きに喰らい付いたの!?」

「生きてるだけで不思議だってのに!」

「み、見てください! あれは……!?」

 アーディ、アリーゼ、ライラが驚愕を重ね、リューがその答えを指差す。

「あの黒いマフラーを怪物に巻き付けて、共に移動した!?」

 切れ長の瞳を大きく見開いた輝夜が声を振るわせた。

 ジャガーノートが回避運動をする素振りを見せた刹那、アルは思いっきり標的の懐に飛び込み、ジャガーノートの左腕にマフラーを巻き付けた。只人にはおよそ不可能である立体的な高速移動に脳を揺らされながらも決してマフラーを離さず、天井に叩き付けられたら致命打になりかねないほどの勢いを利用することで、ジャガーノートが次の行動に移るより早く、破壊をばら撒く二爪を叩き折ってみせたのだ。

 頼りになる長兄が託してくれたゴライアス・マフラー。その頑強さを信じたアルが、ジャガーノートの思惑の先を行った。

「ふっ……!」

 無視出来ない損傷に悲鳴にも似た怒号を撒き散らすジャガーノートの横でアルが半回転。瞬きの間だけ天井に足を付け、発揮出来る全力で天井を蹴り付け、ジャガーノートに巻き付けたままのマフラーを全力で引いた。

 天井に張り付かれたままでは勝負にならないと判断した彼が選んだのは。

「まさか!」

「あの怪物を地面に叩き落とすつもり!?」

 ジャガーノートを、大地に叩き付けること。

「ぐうっ……!」

 ブチブチと、全身のあちこちから上がっている筋繊維の悲鳴など聞こえないフリを決め込んで、アルは空を行く。

「がっ、ああぁぁぁあ!」

 強靭なマフラーとLv.5の冒険者の膂力の合わせ技は、安定を欠いたジャガーノートの四肢を天井から引き剥がすことに成功した。

「落ちてくる!」

「あの高さからならいいダメージになるでしょ!」

「!? アル! 危ないっ!」

「おわっ!?」

 当然そのまま甘んじるつもりなどない破壊者は暴れに暴れ、アルを振り回した。

 左手に残った一爪で攻め立てる。しかし届かない。

 凶悪な牙で噛みつきにかかる。器用に身を捻って躱された。

 右手の三爪で殺しにかかる。マフラーを巻く位置を左腕の付け根よりに変更し、怪物自身の身体を盾にすることで右手による攻撃そのものにストップを掛けられた。ジャガーノートからしたら歯軋りをしたくなるほど憎らしく、キレた立ち回り。

 しかし、彼にはまだ、武器がある。

「体が外に泳いだ!」

「ヤバい!」

「狙い撃ちされる!」

「アルっ!」

 少女たちの声が迫る危険を伝えた。アルにもわかっていた。身体の下から姿を晒したら、迷わずこいつはその選択を取ることを。

 中空という突飛な状況下ではあるが、両手の爪で獲物が屠れなかった時、こいつはどうするのか?

「爪を大振りして生じた隙は、尻尾で埋める!」

 答え合わせを叫んだのは、シャクティ。

「ぐっ!?」

「シャクティさん!」

 アルに迫っていた不可避に近い一撃を長槍で受け止めジャガーノートに逆転の一手を打たせなかったのも、シャクティだった。

 ジャガーノートの爪が破壊される瞬間を視界に収めたシャクティは只一人駆け出し、木々の間を蹴上がって、高度を稼いでいた。彼女の眼前で何度も見せた凶悪なワンパターンから、アルを守る為。

 アルには駆け出すシャクティが見えていた。だからこそ、守りに回る選択肢を脳内から弾き、攻撃にのみ意識を集中し、待った。

 彼が生きる世界で今も都市を守り続けている偉大な冒険者を、アルは信じた。

「がっ、は……!」

 しかし代償は安くない。両腕の骨に少なくない異常の発生。圧倒的な破壊力全てを受け流すことも吸収しきることも叶わず、矢のような勢いでシャクティの体は地面に叩き付けられ、巨大な亀裂をダンジョンに刻んだ。

「っ……いっ、け……い、行けぇっ!」

 その顛末すら折り込み済だった彼女は、自分のことはいいから攻めろと、苛む痛みも流れる血を拭うのも後回しにしてアルに発破を掛けた。

「くっ……!」

 驚愕に目を見開くジャガーノートの懐で、既にアルは事を起こしていた。

 左腕に巻き付けたマフラーを引いて腕の根本に再度張り付き、勢いそのままに漆黒のナイフを関節部に思いっきり突き立て、可能な限り押し込んで、可能な限り切り裂く。そしてもう一度、全力でマフラーを引き寄せた。

「うううううあああああああっ!」

 気合いに満ちたアルの咆哮の裏。間違いなく関節の切断を狙っているナイフと漆黒のマフラーに嬲られ、自由落下中の怪物から嫌な音が鳴った。どうやら前腕が千切れるまでは届いていない様子。だがしかし。

「外れた!?」

「これで左手はもう……!?」

 人間で言う、関節が外れた状態になったのではないかと、アスタとノインが叫んだ。

 二人の言葉の裏付けをするよう。爪を二本失おうともアルを殺さんと暴れ狂っていた左手は、一切動いていなかった。

「好機よ! みんな、集中!」

 多大なダメージを負ったシャクティをマリュー、アーディの二人が魔法にアイテムにと全力で癒す傍で、アストレア・ファミリア団長、アリーゼ・ローヴェルが叫ぶ。全員が頷き、迫る凶悪へ戦意を向ける。

「ぐっ……ぁ……!?」

 が。彼女たちの戦意に、微かな穴が開いた。

「アル!?」

 リューが叫ぶ。

 空色の瞳は、その瞬間を見てしまった。

「くっ、そ……!」

 暴れ狂うジャガーノートの爪の先端が、アルの腹に真っ赤な亀裂を走らせた瞬間を。

 がむしゃらに振り回した右手の爪がたまたま腹部に届いただけの、偶然の一撃だった。

 致命傷のギリギリ手前くらいだろうか。しかしこの痛みはとても無視出来たものじゃない。

「くうっ……!」

 力が入らない。思うように身体が動かせない。まずい。まずいまずいまずいまずい!

「アル! 私たちが前に出る! 動けるなら離脱して! 動けないなら私が貴方を助ける!」

 アリーゼの声が聞こえる。悔しいがそうする他ないみたいだと、熱しきった心と反比例しているかのように片時も冷静さを手放していない脳が、状況を正しく理解した。

 まだこの瞬間、自分には出来ることがあるのだということも、同時に。

「っぐ……あああ……!」

 このまま戦闘から叩き出される前に。あの人たちの生存率を上げる為に。

 せめて、左腕の自由を完全に奪う……!

 異常を来したばかりのジャガーノートの左腕の関節を漆黒のナイフで抉り、出来立ての傷口に自身の左拳を無理矢理に捻じ込んで。

「ファイア……ボルトっ!」

 発揮出来る全力で、炎雷を走らせた。

 号砲。爆音。衝撃。

「ぐっ、があああっ!」

 不可避の一撃を喰らった怪物の悲鳴とアルの苦悶の声が重なる。

「入った!」

「効いてる!」

 ネーゼとイスカが叫ぶ。地表へ落ち行くジャガーノートの全身から煙が上る。先程まで遮二無二暴れ狂っていた四肢は、見るからに大人しくなった。

「反射の殻を破った!?」

「決め付けるな! ゼロ距離だったから通ったものだと思っておけ! 一先ずは物理で押すぞ!」

 降って湧いた期待の波に乗せられたセルティの一声を輝夜が撫で、凪を呼んだ。

 浮かれるな。最悪を想定しろ、と。

「アル! 動けますか!? アルっ!」

 出会ったばかりの少年を案じるマリューの声、その遥か頭上。無詠唱で打ち出した魔法の余波に巻き込まれ自身から煙を立ち昇らせているアルの体は宙を舞っていた。返事は疎か回避運動もままならない今のアルでは、地表に叩き付けられてしまう。

「いけない!」

 そうしたらきっと、終わってしまう。

 彼の力は、この場を乗り切るために必要不可欠だ。

「私ならもう動ける! マリューは残れ! アーディ!」

 この場で最も戦闘経験の豊富であるシャクティの判断は早く、しかして賢明であった。

「うんっ!」

 痛む体に鞭を打ち精一杯強がりながら立ち上がる姉の姿を横目に、怪物の落下コースを避けつつ今通れる最短ルートを瞬時に算出。魔法の反動で吹き飛ばされたアルを救うべく、アーディが風となる。

「間に合え……!」

 口から勝手に滲み出る焦燥。見れば、今にもアルの身体は立ち並ぶ木々の中に突っ込んでしまいそうだ。

「届けっ……!」

 木々を蹴り、中空を平行に駆け、物言わぬ少年へ手を伸ばす。

「絶対に……!」

 助ける。君を助けるんだ。

「アル……!」

 今度は私が君を助けるって、口にしたんだから……!

「アルーっ!」

 少女の指先が、既にズタボロになっている少年の外套を捉えた。

「くっ……!」

 まともな着地などとても間に合わないと判断したアーディは外套を無理矢理引っ張り、血だらけの少年を自らの胸の中に閉じ込めた。

「っつ……! あぁっ……!」

 地表にぶつかる勢いそのまま、盛大に土煙を巻き上げながら地面を転がり、二人の轍を三十階層に刻んでいく。

「くぅっ…………っは……!」

 太い木の幹にぶつかる寸前で、二人はようやく止まった。

「っ……あ、アル……アル! アルっ!」

 苛む痛みも自分の戦闘衣が真っ赤に染まることも無視して、泣き叫ぶようにしながら少年を仰向けに寝かせたアーディは、腰元のベルトに付けたホルスターから回復薬を取り出して無惨な痕が刻まれた腹部へ振り撒いた。

「がっ!? がっあ、ああぁぁあぁあ……!」

「頑張れ……頑張って! アル!」

 急激な回復の反動に悲鳴を上げるアルの上で、回復魔法の行使も行うアーディ。殆ど気が動転したような状態でありながら、アルに対して出来る最善手を正しく選んでいた。

「立ってよ……君に言いたいこと……まだ何も言えてないんだからっ!」

 霞む視界の向こうに、アルは見た。

 少女の瞳から、何かが零れ落ちる瞬間を。

「……じゅ……ぶ……ん……」

「な、何? わかんないよアル!」

「じゅ……充分……伝わって……ます……から……」

「え?」

「な……泣かない、で……」

 笑ってください。

 貴方の笑顔は貴方自身を。僕の大切な人も救ってくれる、貴方だけのとっておきの魔法だって僕は知っているから。

 大切な人が、それを教えてくれたんです。

 そう伝えたかった。しかし上手く言葉に乗せられない。ならばせめてと震える手を伸ばし、彼女の目元を彩る雫を指で拭った。指先に血が付いていなくてよかった。彼女の綺麗な顔に血を付けなくて済んだから。

「アル……っ……」

 しかし、拭っても拭ってもそれは無くならない。

 名前も姿も何もかも忘れていても、自分を救ってくれた誰かへの感謝をずっと胸に秘めていた少女の想いの丈が、そう簡単に収まるわけがなかった。

 けれど。状況は二人が心を通わす時間など認めてはくれない。それがわからない二人ではない。

「ま、ずは……」

「うん……」

「勝ちましょう……あいつに……!」

 アルだって、彼女の無事を喜びたかった。しかし、感動の再会など状況が許してくれない。全てを滅さんと今も、厄災が暴れているのだから。

「ぐすっ…………うんっ!」

 一度大きく鼻を啜り、流れる涙を否定しないまま、アーディは笑った。

 もう、この人は大丈夫だ。

 この人はきっと悲しい結末なんて迎えず、あの人の親友のまま。誰かに。未来に。正義を届け続けてくれる。

 無根拠なのにそんな確信だけが、彼の中にはあった。

「よ……しっ……!」

 全開とまではいかないが、動ける程度には傷は癒えた。流れた血は戻らず、次に同じような損傷を受けたら今度こそまともに戦えなくなるかもしれないが、今この時を凌げればそれでいい。

「みんな……!」

 剣戟の音が。少女たちの鬨の声が。怪物の絶叫が。アーディとアルの耳を揺らす。木々の中からでは戦闘の模様は見えず、それが堪らなくもどかしかった。

「もう行けます! 直ぐに戻りま……」

「アル?」

 アーディに肩を借りながら立ち上がったアルの目は、それを発見した。

「…………」

 強いて、アルの二振りの得物の弱点を挙げるならば、それはやはりリーチだろう。特にあの怪物とのリーチ差は圧倒的であり、そのハンデを物ともせずに立ち回れていたアルの動きが常軌を逸しているまであった。

 だからアルは、躊躇わなかった。

 その弱点を補って余りあるであろう、それを使うことを。

「みなさん! 少しの間耐えてくださいっ!」

 いきなり声を張り上げる少年に驚くアーディ。返事は聞こえずとも声は届いていると信じ、アルは行動を起こす。

「ねえアル? それって……!」

 少年はそれ目掛け、全力で駆け出した。

 

 × × ×

 

「アルから伝言! 少しの間耐えてくれ! だそうよ!」

 その伝言をパーティ全員に届けたのは、最後尾から味方を癒し続けている、治癒師(ヒーラー)のマリューだった。

「無茶言ってくれるじゃない!」

「でも! 彼は一人でそれを成していた!」

「あたしらアストレア・ファミリアにだって出来る! そうよね!?」

「当ったり前ぇ! 来るよ! あの罅入ってるとこ! 合わせて!」

「「「「せーのっ!」」」」

 ノイン。アスタ。ネーゼ。イスカ。四人の少女が叫び、眼前に押し寄せる一撃必殺の破壊の爪、その一本を正面から迎え撃ち、叩き折ってみせた。

「よしっ!」

「やったぁ!」

「やれば出来るじゃん私たち!」

「気を抜かないでね!」

 高揚を隠せぬ少女たちが、舞い散る黒い破片の中を前へ前へと更に進んで行く。

 無価値なたらればになるが。

 もしも、怪物が万全の状態だったならば、この結末にはならなかっただろう。

 そうならなかったのは偏に、あの少年が爪を折るべく必死に攻め、身を守るべく死に物狂いで弾き落とし、それを何度も何度も繰り返し、着実に消耗させたから。

 アルが体内にぶち込んだ魔法と大地に叩き付けられたダメージも相当大きい様子で、ジャガーノートの動きが確実に重くなっているのも大きいだろう。

 何はともあれ、失敗したら四人纏めて消し飛ばされていたであろう危険過ぎる賭けで、少女たちは勝ちを拾ってみせた。

 これで右手の爪は、あと二本。

「いいじゃない! みんな!」

 死地の真ん中、アリーゼの笑顔が咲いた。

「多分アルは私たちより歳下よ! 歳下の男の子の期待に応えられなくて正義のお姉さんズを名乗る資格なしっ! アルに情けない姿を見せちゃダメよ! 女の意地! 見せてやりましょう! 」

 雰囲気を和らげる軽口と戦意を昂らせる発破を同時にやってのけるアリーゼが、アストレア・ファミリアの団長たるをその有り様で示しながら右脚の逆関節に刃を叩き付け機動力を潰しにかかり、流れるように右腕の関節にまで強力な一撃をお見舞いした。強烈な連打を受け、ジャガーノートの体躯が揺らぐ。

「誰が正義のお姉さんズですか!」

「また適当言って!」

 セルティとリャーナは律儀にツッコミを入れながら、魔法を叩き込む機を窺っていた。既に詠唱は終えている。

 まだ装甲殻は剥がしきれていないが、二人は信じていた。自分たちと彼のパーティならば、どんな魔法でさえあの怪物に届かせることが出来ると。

「本当、大したっ、ものだな……!」

 数分前より確実に速度、威力共に低下している尾撃の軌道を只一人で全て逸らしながら、シャクティが唸る。

 彼女の読みは正しかった。女神アストレアの子供たちは、一人で受けたら不可避の必殺となる一撃を複数人で応対することで、凶悪な一撃にまでグレードを下げさせていた。

 流動的に動きながら、孤立する人間も死角も一切作らない。魔導士や治癒師(ヒーラー)にヘイトが向いたならば、そちらに行かせぬべく脅威度の更新を破壊者に強制させるよう圧力を強める。

 個人の力量はもちろんながら、彼女たちは集団戦での駆け引きにも長けていた。

「左腕を潰せたことが大きい! とはいえ!」

「一時たりとも気が抜けんな!」

「口を動かしている暇があったら手を動かせリオン! 輝夜!」

 ライラが二本のブーメランを放ち、振るわれる直前の爪に、微かな罅を走らせた。

「言われなくとも!」

「わかっているっ!」

 楔となり得る投擲を信じて既に走っていたリューと輝夜が全力の一撃を叩き込むと、二本目の爪が折れた。

 タイミング、攻撃位置。控えめに言って、二人の連携は抜群に良かった。

「よっし! 右手の爪あと一本!」

「後脚の爪にも気を配れ! 両手よりは鋭くはないが必殺に成り得るだけの鋭さを充分に確保している! 姿勢の維持がままならなくなればなるほど予想の上を行く動きをしてくるだろう! 集中を切らすなよ!」

 ライラの叫びに被せてシャクティが叫ぶ。気を抜くな。まだ死と隣り合わせであることは変わらないぞと。

「わかってるわ、よっ!」

 アリーゼの一撃がまたも右腕の関節部に叩き込まれる。今度は刺突。先よりも手応えがある。ボリュームの上がった怪物の悲鳴が冒険者たちの耳を苛む。

 アリーゼの狙いは、両腕の完全なる瓦解。左だけならず右腕の自由まで奪えれば勝機をぐっと手繰り寄せることが出来ると、アリーゼのみならずこの場にいる冒険者全員が考えていた。

 唯一違う思考を巡らせていたのは、漆黒の破壊者。

「!? まずいっ!」

「こいつ!」

 右腕まで奪われたら、自分はここで滅ぼされてしまう。

「逃げる気か!?」

「跳ばせちゃダメ! 絶対に阻止するの!」

 少女たちが殺到する。散々痛め付けられた体躯のあちこちに痛打が刺さる。

「くっ……!」

「抑えられない……!」

 しかし、ジャガーノートは跳んだ。足元に群がる命を刈り尽くすことなど後回し。確実に鈍った脚で不格好に跳ね回り、死に物狂いで距離を取った。

「や、やめろおおおおお!」

「来るんじゃねええええ!」

「っぎゃあああああああ!」

 その過程で、その場から動けず震え上がっていた何かを数体引き潰してしまったが、そんなものなど気にも留めない怪物は、下の階層への連絡路を真っ直ぐに目指した。

 彼の目下最優先は、この場から退避すること。

 全てを狩り尽くす前に自らが滅びてしまっては仕方がない。

 凡そ感情らしいものなど持ち合わせていないように見える怪物は、生きることに必死になっていた。

 しかし彼は。

「!」

 目指す先、その近くで鳴り響いたその音を聞いてしまった。

「な、何?」

「鐘の音……?」

 高らかに鳴り響く鐘の音は、不本意ながらジャガーノートを取り逃してしまった少女たちの耳にまで届いた。

 少女たちが。異形の怪物ですら脚を止め、音の源に目を向けていた。

「アル……?」

 そこに、白い少年がいた。その傍らには、白い少年を支える青い少女の姿も。

「何……あれ……?」

「アルフィアの魔法に似てる……?」

「音だけな! 効果はどう見ても違うだろ!」

「っていうか、あの子が持っているの……!」

 少年の右手が掴んでいるものを改めた少女たちとジャガーノートの瞳が大きく見開かれた。

「あの化け物の……」

「爪!?」

 アルが右腕で小脇に抱えている物は、本来の漆黒を白い光流で上書きされた破壊の爪、その一本で間違いなかった。

 自身が吹き飛ばされた直ぐ近く、灰にならずに黒く輝いている怪物の爪を見つけたアルは、武器として使用することを躊躇わなかった。

 スキルで破壊力を上乗せすれば、必ずあいつの装甲を切り裂ける。アルには、その確信があった。

「ふぅ……はあ……っ……!」

 英雄願望(スキル)引鉄(トリガー)。思い浮かべる憧憬は、アストレア・ファミリア。

 正義の剣と翼を背負い、都市を脅かす悪を払わんと戦った、清く正しく美しい少女たち。

 その真っ直ぐな生き様に想いを重ね、自分も真っ直ぐに前を見た。

「三十秒……!」

 畜力(チャージ)時間は三十秒。ヤツの装甲を裂くにはこれで十二分と判断した。何より、このままではヤツを逃してしまう。これ以上の猶予などなかった。

「いけるの!?」

 アルの背中に手を添え、アーディが叫ぶ。

「はいっ!」

 迷いのない、力強い肯定。

 血と泥に犯されていながら、それでも凛と澄んだ、彼の横顔。

「あ……っ……!」

 彼女の身体が。心が。打ち震えた。

 アーディ・ヴァルマは感じた。熱く。甘く。狂おしい何かを、確かに感じた。

「みなさん! ここで決めます!」

 少年の叫びに少女たちがそれぞれの形で応えるの見やり、少年は駆け出した。それに呼応するように、ジャガーノートも進行を再開した。

 怪物の狙いはアルではなく、あくまで下の階層への連絡路。それを理解しているアルは、先回りをするべく最高速度で以って駆け抜ける。

「入る前に止める……!」

 このままこいつを逃せば、途方もないほどの破壊がダンジョン内にいる全ての冒険者に降り注がれるであろう。他のモンスターを喰らいツギハギだらけになりながら、またも彼女たちの前に立ち塞がるかもしれない。

 そんなこと許せない。絶対に認められない。

 何より。

 死して尚、自分にまで正義を届かせてくれた少女たちが、今度は自らの生き様で、更なる未来まで正義を届かせることが出来るように。

 ここで決着を付け、見届ける。

 そうでなければ、この夢から覚めることなど出来やしない。

「アル! 速度落とせ!」

「!」

 ライラの叫び声が聞こえた瞬間、アルは速度を緩めていた。

 そして見た。ジャガーノートが一目散に目指している下の階層への連絡路の入り口へ向け投擲された、複数の丸い物体を。

「巻き込まれんなよっ!」

 ライラの手の中でかちりと、金属製の何かの音がした。

 瞬間。三十階層内を、眩い閃光が駆け抜けた。

「きゃあっ!」

「ぐっ……!」

 ライラが投げたのは、ライラお手製の手投弾。手持ち全てを惜しみなく投入した結果、凄まじい衝撃と轟音が少女たちの身体を撫でた。

「なっ!?」

 しかし。ライラたちは見た。

 半壊した下の階層への連絡路の入り口。漂う黒煙。その遥か上方。壁面に張り付き、強大な爆破から逃げ仰せたジャガーノートの姿を。

「全部避けられた!?」

「あれだけの手負いで……!」

「馬鹿な……!」

 アリーゼ、輝夜、リューの驚愕が重なる。ライラのおもちゃは必殺に成り得るとアルが明言していただけに、ショックは大きかった。

「まだだよ!」

 それでも、冒険者は止まらない。

「アーディ!?」

 戦場に生じた動揺を払拭せんが如く大声が響く。誰よりアルの近くにいた、アーディの声だ。

「そうだよね! アル!」

 少年を呼ぶ声に反応したジャガーノートも。可憐な少女たちも。皆が一様に彼の姿を探しながら、半壊した連絡路目掛けて殺到した。

「いっけえええええ!」

 少年の背中を押し出すように。アーディは再度、声を振り絞った。

 最初に目を見開いたのは、手負いの怪物。

「あああああああっ!」

 白く輝く爪を両腕で抱え吠える少年が、自らに飛び掛からんと直上より飛来する姿などを見せられて、冷静でいられる訳がなかった。

「お前の速さは、()()()が一番知っている!」

 手負いだろうと、こちらの想像を上回る機動性を発揮することも。

 逃げるという選択肢を選べる知性があることさえ、危険を感じたら天井や壁に退避する習性があることまでも見通し、壁面を無理矢理に駆け上がり、先回りをしていた。

 全ては自分自身の経験と、正義を秘めた一人のエルフが語り聞かせてくれた地獄の様な体験を識っていたからこそ。

「ふっ!」

 壁面を全力で蹴り付け、くるりと縦回転。巨大なギロチンと化したアルが目にも止まらぬ速度で繰り出す一振り。

「ずああああああっ!」

 然してその一撃は、その厄災へ届き得た。

 アルが抱えたジャガーノートの爪は、本来の持ち主である怪物の右腕を根本から切り落とし、突き進む勢いそのままに右脚の第二関節から下までも切り落とした。

 まともに機能する四肢が左足だけになった怪物では、壁に張り付き続けることなど叶うわけがなかった。

「よっしゃっ!」

「落ちる!」

「ここしかない!」

「行くわよ! みんなっ!」

 目の前に落ちてくる千載一遇を物にするべく少女たちは猛り、速度を上げた。

「…………」

 ジャガーノートは既に自由を奪われている。自身の敗北さえ理解していた。

 だからそれは、ジャガーノートの意地だったのかもしれない。

 ただではやられないという、幼な子の負けん気の様な。

「なっ!?」

 アルの瞳が驚愕に染まる。

「がっ! ぐ……っは……!」

 スキルの行使の影響で動きが鈍り、退避はもちろんマフラーを使って凌ぐという行動すら実行不可能にあったアルの背中を、鞭のように使われているばかりだったジャガーノートの尻尾の先端が、刺し貫いた。

「ぁ……あぁ……! アル……アルーっ!」

 全員の驚倒を代弁するようにアーディが涙混じりで絶叫する。

「ぶ……っ……ぁ、が……!?」

 出鱈目な量の吐血。明滅する視界。まともに動かない四肢。間近に感じる死。

 痛い。夢の中なのに死ぬほど痛い。こんなに痛いんじゃここが本当に夢の中なのか自信がなくなる。もしも夢なのだとしても、夢から覚めてしまいそうなくらい痛い。

 ダメだ。目を瞑るな。意識を保て。

 まだ、この夢の結末を見ていない……!

「……ま……な……」

 怪物の尻尾の先端に無惨な姿で繋がれぶらりぶらりと宙を彷徨うアルの口が、何かの言葉を紡ごうとしている。少女たちには見えていた。

「と、まっ……な…………いっ、け……!」

 口から胴体から大量の血をばら撒きながら身振りまで交えて訴える。

「まっ、だ……だ……!」

 衰えることない戦意に突き動かされるように腰元から得物を引き抜いたアルが、みっともなくブルブル震える手で、尻尾にナイフを突き立てた。

「なんて男だ……!」

「アル……!」

 怪物の叫び声が響く。受けたダメージに鳴いたのではない。白い少年に植え付けられる恐怖に泣いたのだ。

「ぅぐ……っ……まだっ、まだぁ……!」

 自身に檄を飛ばしながら持てる全力で抗い続けるが、何処かを動かす度に耐え難い激痛に襲われ、アルの意識はオンオフを繰り返した。

「それ以上動くな!」

「死ぬぞ!」

「もういいやめて! 死んじゃうよっ! そんなのダメだよっ!」

 少女たちの懇願では今のアルは止まらない。血を吐き、血の涙を流しながら、自分に出来る最大を以て叫び続ける。

 この好機を逃すな。行け。進め。戦え。

 貴方たちは、冒険者だろう。

「ぃけ……い、けっ! すすめっ……たち、止まる、なっ! ぐっ、ああぁあああぁ!?」

 破壊者が尻尾を振り回し、ただの赤い塊となりつつあった少年を地表へ放り捨てた。

「アルーっ!」

 今度ばかりはアーディも、この場にいる誰もが間に合わない。そうだとわかっていてもアーディや数人の少女たちが脱落者の救出に向かおうとしているのがアルにはわかった。

 しかし。

「行きます……!」

 彼女は。戦場から去り行く少年の方を見向きもしなかった。

 彼女の長い耳には届いていた。血の塊と共に、アルが吐き出した言葉が。

 彼女の空色の瞳にはアルの行動全てが見えていた。もう二度とないだろう好機を逃さないでくれとがむしゃらに伝えようとするアルのメッセージを、正しく受け取ってくれた。

 だから、彼女は決して振り返らない。果たすべきを果たしてくれる。

「あ……!」

 木を蹴り岩を蹴り自分より高くまで飛び上がった背中に。自分の冒険全てを支えてくれたエルフの背中に、印象的なものが見えた。

 正義の剣と、正義の翼。

 揺るがぬ誓いを立てた、彼女たちの高潔な心を象徴したかのようなエンブレム。

「……べ……!」

 どうか、貴方たちがその誓いを守り続けられるように。

 貴方たちの未来が、とっておきの未知であるように。

「と…………べっ……!」

 自分の最後を知覚した彼は。

「翔べ! アストレア・ファミリアっ!」

 ありったけの祈りと願いを込め、血反吐を撒き散らし、叫んだ。

「っ……!」

 アルを救わんと走っていたアーディが。彼女たち全員が。アルから視線を外し、迫り来る厄災を睨み、空を舞った。

 勇敢な戦士に背中を蹴り飛ばされて尚、ただの生娘でいることなど認められない。

 そんなんじゃ、自分自身を許せない。

 彼女たちは一人残らず冒険者で、勇猛な戦士だった。

「あ……ああ……」

 聞こえる。彼女たちの鬨の声が。高く響く剣戟の音。炸裂する必殺の音。大気を震わす魔法の音も。

 『疾風』の二つ名に相応しい魔法を放つ彼女の歌も、確かに聞こえた。

 ああ。もう、大丈夫だ。

「っ! ぐぁ……ぁあ……が……!」

 突き刺さった自分を中心に大地が割罅れる。耐え難い衝撃。無惨に転がり、出鱈目に飛び散る自分の血。瞬く間に血の池が形成され、自分という生命の終わりをアルに痛感させる。

「……み…………ら、ぃ……」

 朦朧とする意識の向こう。まるで、勝者を祝福する紙吹雪のように、白い灰が多量に降り注ぐ光景を最後に。

「かっ、え……られ……た……ょ、ね……」

 アルの世界は、静かに幕を引いた。

 

× × ×

 

「っ……あ……ぐっ! げほっ! っが……!」

「アル!?」

「……ぁ……でぃ、さ……?」

「そうアーディ! 私、アーディだよ! みんな! アルが目を覚ましたよ!」

 あまり余裕がなさそうな声の元に、少女たちが音を立てて集まるのがわかった。

「ぼ、く…………い……きて……?」

「生きてる! 生きてるよっ! よかったよおおおおっ!」

「ぐっ、ぁ……だだだ……!」

「おいおい死ぬ! それ死ぬから!」

「抱き付くのやめなさいアーディ!」

「あっ! ご、ごめんごめんっ!」

 霞む視界。痛む全身。生きている僕。

 不思議だった。

 治癒能力を有している方が複数いる以上、生きているのはわかる。死んでなきゃおかしいような大打撃だった気はするけれども、まあギリギリわかる。

「こっ、こ、こ……は……?」

「三十階層よ。倒れた貴方と全員の回復をここで行っていたの」

「あの怪物の影響なのか、モンスターがまるで寄って来なくてな。下手に移動するよりここで体勢を整えた方がいいと判断した」

「ついでに、あの化け物から逃げ仰せようとしていたそこのクソ猫を捕らえたりな」

 アリーゼさん、輝夜さん、ライラさんがくれた情報は、あの夢からの地続きであることを僕に示していた。よく見ると、少し離れたところで全身を縄で巻かれたジュラさんが気絶しているのが見えた。

 でもさ。それってつまり。

 気絶していたのに、元の世界に帰っていない?

 いつかの僕は、一度意識を断ったら夢の世界から切り離されたのに。

 なんでだろう。わからない。気になる。

 でも、そんなの後でいいや。

「み、な……無事……で……?」

「ああ。怪我人こそ出たが、死傷者はなしだ」

 治癒だけでは癒しきれない傷を抱えたのか、左腕に包帯を巻いたシャクティさんが、一番聞きたかったことを聞かせてくれた。

「…………よ……」

「よ?」

「よ……かったぁ……」

 全身から急速に力が抜けた。起こそうとしていた背中が地面におかえりなさいをする。どうやら、包帯の下に本来あるべきであろう胴体の大穴は既に塞がっているみたいだ。回復魔法すげー。

「よかったあって、こっちのセリフだよ」

 ネーゼさん。

「本当によく無事で……」

 リャーナさん。

「無茶し過ぎよ、貴方」

 イスカさん。

「死ぬ二歩手前くらいの重症だったのよ? 脊椎を潰されていなかったことが不幸中の幸いだったわ……」

 マリューさん。

「やんや言うのやめよ。彼がいなければ確実に全滅だったでしょ、私ら」

 ノインさん。

「ですね。私とリャーナさんなんて速攻で魔法撃って速攻で灰になってたでしょうね」

 セルティさん。

「わたしたちも同じよ。彼がいなければ、最初の衝突で間違いなく前衛は壊滅してたはず」

 アスタさん。

「うちの潔癖エルフさんなんてその筆頭でしょうなあ。すーぐ頭に血が昇る気質ですからねぇ」

 輝夜さん。

「また私を侮辱して……こんな時まで貴方は本当に……! 訂正しなさい! 輝夜!」

 リューさん。

「手抜いてたのかってくらい元気有り余ってんのなんなんだよお前ら。誰もいないとこでやれよなあ鬱陶しい」

 ライラさん。

「まあまあ! 気を沈めなさいな貴方たちっ。兎にも角にも、清く正しく美しいこの私が率いるアストレア・ファミリアが華麗にクールにとってもヤバい化け物さえもバチコーン☆と吹き飛ばしてしまったと! 流石は私! さっすが私たちっ!」

 アリーゼさん。

 女神アストレアの十一人の子供たち。その全員が、確かにここにいた。

「か、なった……」

「え?」

「ゆ、め……かない……ました……」

 まだ霞む視界が、更に霞んだ。

「アル……?」

「え…………ぁ……!」

 この感覚、覚えがある。

 意識を根刮ぎ刈り取りような。ここではない何処かへ無理矢理放り投げるような。単なる倦怠感や眠気とも異なる、説明が難し過ぎる、不思議な感覚。

「ね、ねえアル……貴方……」

 僕の異変に全員が気が付いたらしい。そりゃそうだよね。

「何、これ……」

「全身が光って……?」

「いや……消えかかってる……!?」

 そんなことになっていたら、誰だって気が付いちゃうでしょう。

 初めてこれを見る人たちの驚愕の声が聞こえる。一人一人に説明する余裕なんて、今の僕には全くない。

「じ、時間切れ……みたいです……」

「そんな……なんでっ!?」

「いつかと同じ……僕の時間はもう……終わりみたい……」

 もしかしたら。気紛れな神様か。

 それとももっと気紛れな、幸運とかいう不安定な奇跡か。

 そういう何かが、少しだけ気を利かせてくれたのかもしれない。

 今度は、ちゃんとお別れしろよ。

 とか、そんな感じだろうか。

「やだ……嫌だよ! だって私っ!」

 何かが僕を濡らした。たくさん濡らした。

 それは、涙だった。

「まだ……君に何も……!」

 アーディさんの涙だった。

「……聞いて……ください……」

「……うん……」

「僕はもう……みなさんと会えない……と思います……」

 夢が叶ったから。悪夢を退け、最高の夢が見られたから。

 それを説明するのは難しかったから、事実だけを口にした。

「そんな……!」

「でも……これでいいんです……僕は……この時の為……みなさんを死なせない為だけに……ここにいるんだから……」

「わかんない! アルの言ってること、全然わかんないよっ!」

「すいま、せん……僕も……あんまりわかっていなくて……あはは……」

「なんで笑ってるの……!?」

「大切な、こと……だから……」

「え?」

「アーディさん……みなさん……」

 瞼が異様に重い。それに抗い気力を割くことは早々に諦めて目を閉じる。

 代わりに、いつかは伝えきれなかったことを少しでも多く伝えられるように。

 アルは、なけなしの気力を振り絞った。

「笑って……いてください……」

「……アル?」

「貴方たちが笑って……オラリオで生きている……それだけで……たくさんの希望が生まれる……誰かが……幸せになれる……」

 誰かが自分の手を握ったのがわかった。もはや目を開くことも叶わないから確かめることは出来ないけど、この感じはアーディさんだ。自信がある。

「貴方たちがいれば……未来に……たくさんの希望が続いていく……」

 正義の剣と翼に誓った正義の女神の子供たちが照らし続ける。オラリオを。下界の全てを。ずっとずっと未来まで。

 嘘でも妄想でもない。

 だって僕は、そんな未来の一欠片を知っているんだから。

「貴方たちの正義は……たくさんの人を……こんな僕だって……救ってくれるんだから……」

「アル……」

「……リューさん……い、ます……か?」

「はい……ここに……」

 何故真名を知っていると怒らないんだなあなんて、場違いなことを考えてしまった。

「……僕の正義……は……貴方から……リューさんから……わけてもらったもの……なんです……」

「わからない……わからないです、アル……どうして貴方と私が……」

「わからなくていいんです……ただ……これだけは忘れないで欲しい……です……」

「聞かせてください」

「……正義は……巡り続けます……」

「!」

「リューさんの正義が……みなさんの正義が……ずっと遠く……ずっと未来まで……たくさんの人の胸に届いて……そうしてまた……誰かに繋がって……」

 こうして、僕にまで届いて。

 こうして、誰かに返す時が来て。

「だから……進んでください……何処までも……貴方たちなら……きっと……ぁ……」

「アルっ!」

 アーディさんが支えてくれていた手から力が抜け、彼女の手の間を滑り落ちた。しかし直ぐ様、誰かの手が僕を捕まえてくれた。

 今度は、確信しかなかった。

 この手の持ち主を、僕が間違えるわけがないんだから。

 でも、そっか。握ってくれるんだ。今はまだ誰とも知れない、僕の手を。

「……リューさん……」

「はい……」

「みなさん……」

 誰かが息を呑む音が聞こえた。誰かが啜り泣く音も。

 今だけは、重たい瞼に感謝したい気分だ。

 女性の泣き顔なんて見てしまったら、辛くなってしまうから。

「ありがとう」

「っ……!」

「貴方の……貴方たちの正義のお陰で……今の僕がある…………だから……ありがとう……」

 この時代のリューさんに。この場にいるみなさんに。ようやく伝えることが出来た。

 リューさんの正義は、リューさんだけの物じゃない。リューさんと共に暗い時代を駆け抜けたこの人たちと共に築き上げた正義。

 その正義に何度も救われた。

 そのお礼を、どうしても伝えたかった。

「アル。わかる?」

「…………ァ、リーゼ……さん?」

「そう。私。アリーゼよ」

 リューさんの手の上に、誰かの手が重なった。アリーゼさんだろうか。

「聞かせて、アル。私たちが今、貴方にしてあげられること、何かある?」

「え……?」

「私たちときたら、貴方に甘えっ放しだったんだもの。お願いの一つくらい叶えてあげなきゃ。そうでしょ、みんな!?」

「……ま、そうよねぇ」

「あの活躍でタダ働きなんてさせたらアストレア様に怒られちゃうわ」

「仰る通りてすね」

「どんだけの対価要求されても突っ撥ねるの無理じゃねーの、アタシらにはさあ」

「そこまで無茶な要求をする男の子には見えないけど……」

「人は見かけによらないって言いますよ?」

「どんな願いだろうと聞くだけ聞いてあげるよ。聞くだけは」

「上から目線で物言える立場じゃないよわたしたち……」

「わ、私たちもアルの願いを叶えるからね! だからなんでも言ってね! だよね、お姉ちゃん!」

「そう……だな……ああ。なんでも言ってくれ」

「まだ眠るな。意地を見せろ。男だろう」

「聞かせてください、アル」

 僕の周りが、一気に姦しくなった。

 そのきっかけを産んだのが、アリーゼさん。

 泣いていた誰かの涙を吹き飛ばしたのも、アリーゼさんだ。

 リューさんから聞いていた通り。僕が見て、感じた通り。

 この人が真ん中にいるから余計に輝くんだろうな。アストレア・ファミリアのみなさんは。

「聞かせて、アル。誰かの為じゃない、貴方だけの願いを」

「…………だったら……一つだけ……」

「何でも言って頂戴っ!」

「……五年後……一人の少年が……オラリオにやって来ます……」

「アル? 何をっ……?」

 疑問を口にしようとしたのはアーディさん。それを制したのは多分、シャクティさん。

「その子は……笑っちゃうくらい世間知らずで……弱虫で泣き虫で臆病で……冒険者になんか全然向いていない子で……それなのに夢だけは一丁前に大きくて……はは……」

 なんか、変な笑いが出てしまった。何も面白いことないのに。変なの。

「その子……僕に似ているんです……性格とか見た目とか……大体全部が……」

「お前…………まさか……!」

「続き。続きを聞かせて、アル」

 何か気に掛かることがあったのか、声を荒げた輝夜さん。それを優しく制したのは、アリーゼさん。

「何か……特別なことをしてほしいわけじゃなくて……ただ……その子が来たら……見守ってあげてくれませんか? その子……すごく寂しがり屋さんだから……心配で……だから……」

「ダメ」

「ぇ?」

「ダメね、そんなお願いじゃ」

 僕の為の願いなんて本当に何も浮かばないから少し未来にまで願いを馳せてみたのだけど、スッパリ切り捨てられてしまった。

「団長……?」

「アリーゼ!? 何故です!?」

「そんなのダメ。嫌に決まっているじゃない!」

「そ、そんなに……ですか……参ったな……」

「だって……!」

 そして、アリーゼさんは叫んだ。アリーゼさんなりの理由を。

「っく……ふ……!」

 それを聞いた僕は、笑った。

「はっ……はは……あははは……!」

 仕事をサボりがちな横隔膜に鞭を打ち、とにかく笑った。

 とにかく笑って、笑い倒して。

 そうして、僕は……。

 

 × × ×

 

「ベル君!?」

「ようやくお目覚めですかあ……!」

「何度声を掛けても目覚めないし汗凄いしで流石に慌てたんだぞ?」

「ベル殿、大丈夫ですか?」

(わたくし)たちがわかりますか?」

「ベル。しっかりしてください、ベル」

「……ぁ……ぅ……?」

 肉体と意識が上手に繋がっていないみたい。思考には靄が掛かり、眼前に集まっている家族たちの表情が霞んで映る。動かそうとしてみても四肢の動きは酷く緩慢だ。

「こ……こは……?」

「ベル君の部屋に決まっているじゃないか。ほら、動かない」

「んぅ……」

 濡れタオルで額や頬を拭ってくれた。誰が? 神様が。僕の神様が。

「本当に凄い汗じゃないか……もう冬だっていうのに一体何事なんだいこれは?」

 神様は力加減が上手じゃないのか、グイグイと押し込まれた鼻がちょっとだけ痛かった。

「えと……ご、ごめ……なさ……ぁ……!」

 神様にそんな真似をさせている申し訳なさから慌ててベッドから出ようとした。すると、身体が泳いだ。

「おっと」

「危ないっ」

 ベッドから落ちそうになった僕を支えてくれたのは、ヴェルフとリリ。

「無理をしないでくださいベル殿」

「今日のダンジョン探索はおやめになられた方が……」

 心配を隠さず今日は休めと気遣ってくれたのは、命さんと春姫さん。

「ぁ……ぅ……」

 上手く言葉が出て来ない。お腹に大穴を開けられた所為だと思った。お腹に手を当てる。お腹に大穴なんかない。

 右手を見下ろす。小刻みに震える右手に宿るのは誰かの温もりではなく、自分の手汗だけ。

「……そう……だよね……」

 夢を見ていた。

 あの痛みも。悲しみも。あの戦いも出会いも全てが夢。目を開いている僕の前に現れることなど絶対にない、ただの夢。

 夢の中で出会った少女は誰もいない。ここはもう、現実という名の、夢の外。

「手が震えているようだ」

「ぇ……?」

 震える僕の右手を、誰かが包んでくれた。

「落ち着いてくださいベル。何かあったのですか? 私たちに聞かせてください」

 ここは、夢の中じゃない。紛れもない現実。

 その現実に一人。ただ一人だけ、夢の世界の住人がいた。

「エェェェエェルフくぅん!? なーにしれっとベル君の手を握っているのかなあ!?」

「タイミングを見計らっていましたね!? やり口が悪どいのです! やはりリュー様はポンコツエルフならぬポンコツエロフですぅー!」

「で、では(わたくし)は……ベル様の左手を……!」

「「抜け駆けは許さんぞ淫乱エロ狐ーっ!」」

「こんっ!?」

「ち、違います! 私はそんなつもり……というか、誰がポンコツエロフですか!? ポンコツもエロフも訂正しなさい! リリルカ!」

「体調不良者の周りで何やってんだお前ら……」

「み、みなさん落ち着いて! ベル殿が何こいつらみたいな目をされておりますからぁ!」

 僕のよく知る取っ組み合いの輪の中に、その人はいた。

「……りゅ……さ……」

「はい。どうしま…………ベル? あの、本当に大丈夫なのでっ……!?」

「「「あーっ!」」」

 神様とリリと春姫さんの叫び声が、驚愕に揺れる彼女の声を掻き消した。

「リュー……さん……」

「い、いけない……いけませんベル……! 皆の見ている前でこんな……せせせせっ、せめてこういったことは誰もいない夜の森の月の下で清流で身を清めた後に二人で……!」

 夢の中の住人と同じ髪の色をした彼女の激しい動揺が伝わってくる。それはそうだろう。いきなり抱き締められたりなんかしたら、ただでさえ潔癖で奥手な彼女が平静を保てるわけがないってこと、僕は知っている。僕が平手をされたり投げ飛ばされたりしていないことが奇跡に近いってこともよくわかっている。

「リューさん……っ!……」

「…………ベル?」

 ぎゃーぎゃー騒いでいたみんなが、静かになった。どうしてかと考えた。多分だけど。

「どうして……泣いているのですか?」

 僕が、みっともない姿を見せ始めたから。

「くっ……っうう……ぐすっ……!」

 夢の中でも夢の外でも自分に正義を示し続けてくれた人の肩に額を押し付け、涙で濡らすのも鼻水で汚してしまうのも厭わず、赤子のように僕は泣いた。

「ベ、ベル……」

 不慣れなのだろう。ぎこちない手付きで、僕の背中、頭を撫でてくれた。神様たちは何の文句も口にしない。

「その……なんだかわかりませんが…………安心してください……私はここにいますから」

「あ、ぁあ……!」

 夢というには生々しくて。唯の夢と切り捨てるには愛おし過ぎた、彼だけの夢。

 ヘスティア・ファミリアのリュー・リオンに抱かれて、ようやくだ。

 彼の夢は、本当の終わりを迎えたのだった。

 少年はその後、自分が見た夢の全てを家族たちに打ち明けた。その荒唐無稽過ぎる内容は、家族たちに大層驚かれた。

 しかし、それを嘘だ幻だと言うものは一人もいなかった。

 そして。語られた夢の内容を聞いた彼女は。

「その世界のみんなはきっと、楽しく生きていくのでしょう。貴方のおかげで。本当にありがとうベル。私の大切な人たちを救ってくれて」

 少年は、また泣いた。泣かせてしまったと金髪エルフが大慌てでポンコツを重ねまくるくらいには泣きじゃくった。

 もう、夢の続きは見られないのだろう。それが寂しい。それが悲しい。

 それでも少年は、進み続ける。

 もう二度と出会うことのない少女たちの笑顔を胸に。

 ここではない何処かで、アルと名乗った少年、ベル・クラネルは。

 ここではない何処かで少女たちが流した涙を越えて。

 少年自身の涙も越えて。

 きっと。もっと。強くなる。

 

 × × ×

 

「な、なんだありゃ?」

 昼下がり。オラリオから遥か北の山中。名前もないような小さな村の入り口に、四台の馬車が停車した。

 なんだなんだと野次馬たちが集まる中、馬車から降りて来たのは、全員女性だった。

 種族こそ多種多様ではあるが、そろいも揃って歳若く、瑞々しい美しさを有していた。

「アストレア様、足元お気を付けを」

「ありがとう、リュー」

 最後尾の馬車から最後に姿を見せたのは覆面をしたエルフと、一人の女神。その女神の美しさに村の民たちは一様に目を奪われた。

「さてとっ! ようやく着いたわけだけど、早速の熱烈歓迎っぷりに私ったら大感動! 私ほどの美少女が訪れたとなれば当然の反応とはいえ、嬉しいものは嬉しいわ!」

「アリーゼうるさい」

「貴方が言い出したことだろう、団長。ふざけていないで真面目に探せ」

「わかってるわかってる! えっとー」

 桃色の髪の小人族(パルゥム)の少女と極東の衣装に身を包んだ少女が呆れた顔を浮かべるも何処吹く風。赤い髪を揺らす少女は鼻歌混じりで、村の端々にまで視線を走らせる。

「んーとんーと…………あ!」

 どうやらその少女は探していたものを見つけたらしく、細めていた目を見開いた。

「あの子……よね?」

「間違いないでしょう」

「でも……あの姿は……」

「自分の目が信じられません……!」

「やっぱり、輝夜が言っていた通りってことかしら」

「オカルト言ってるくらいにしか思ってなかったんだけどなあ」

「実際に見ちゃったら妄想だなんて切り捨てられないわねぇ」

「似てるも何も同じじゃねえか」

「ちょっと背丈が違うくらいですねぇ」

「まさか……本当に……」

 唐突過ぎる訪問者たちに驚く村民たちの前で、更に驚いた様子を見せる少女たち。

「どうしたのみんな? きょうはもうおしごとおしまいなの?」

 その少女たちの視線は、体の大きな老人の前をちょろちょろと歩く、白い髪の少年に集まっていた。

「あ……!」

「アーディ? ちょっとアーディ!」

 その輪から、無理矢理に飛び出した少女がいた。短く纏められた薄青色の髪を揺らすその少女は、迷いなく白い髪の少年の前に立った。

「え? わ、わわわ……!」

 白い髪の少年はいきなり目の前に立った綺麗な女の子に驚いてしまったのか、体の大きな老人の背中に隠れてしまった。

「まさか……こんなに早まるとはのぅ……」

「え?」

 アーディと呼ばれた少女の前で、体の大きな老人が何かを囁いた。

「ほれ。このお嬢さんたちは、お前に会いに来たんじゃ」

 少女たちの目的を知っていたかのように呟く老人は、背中に隠れた少年を摘み上げ、少女の前に立たせた。

「お、お祖父ちゃん……!」

 少年は酷く動揺していた。だって、こんなに可愛らしい人を目の前で見るのなんて初めてのことだったから。

「……ふぅ……こほんっ。ねえ少年。君のお名前、私たちに教えてくれない?」

 わざとらしい咳払いを一つ。膝を降り、目線の高さを合わせ、中性的な容姿を持つ少女が少年に尋ねた。

「え? えっ、え……えと……えっと……」

「ほれ。いつまでも恥ずかしがっているでない」

「う、うう……」

「大丈夫。この人たちは悪い人じゃない。それに、いつも言っとるだろう? 女の子を待たせる男になるなと」

 老人の大きな手が少年の小さな頭を撫で、背中をちょんと押した。

「わっ!」

 つんのめり、少女の目の前に躍り出る少年と、少年の深紅の瞳を見つめ続ける少女。

 それを見守る少女たちは、誰もが口を閉ざしていた。

「……ぼ、ぼく……ベル……ベル・クラネル……」

 注がれ続ける視線に根負けしたのか、少年は自分の名を告げた。怯えながら、それでもちゃんと、少女の目を見ながら。

「ベル…………素敵な名前だね……」

 それを受けた少女は、花のように微笑んだ。

「うん……! 本当に……素敵っ……!」

「?」

 少年は驚いた。胸元で壊れた首飾りを揺らしている少女の目に、涙が見えたから。

「あーごめんっ。ごめんね? ちょっとびっくりすることだらけだったから……あはは……!」

 少女は笑った。

 それが、無理矢理笑っているんだってことくらい、幼い少年にも理解出来ていた。

 こんなに綺麗な人たちが自分に会いに来た。それは、祖父と村のみんなしか知らない少年には怖いことだった。いくら祖父の英才教育を受講中で可愛い女の子との出会いやあんなことやこんなことを熱望している身ではあっても、怖いものは怖いのだ。

「う、うぅ……」

 本当は、祖父の大きな体の後ろに隠れたい。

 でも。それでも。

「……お、お姉さん……」

「何、かな……?」

 小さな歩幅で一歩、また一歩。涙で濡れる少女に近付いた。

 そうして、手を伸ばした。

「な……泣かない、で……」

「ぇ……」

 小さな少年には、泣いている女の子を放っておくことなんか出来なかった。

 泣いてる女の子を助けるのは、男の子の僕がやらなきゃいけないことだから。

 それは。大好きな祖父からの教えではない。

 いつからか、当たり前のように少年が胸に抱えた、少年だけの誓いだった。

「よ、いしょ……わわ……!」

 グイグイっと長袖の袖口を引っ張り上げ、綺麗なお姉さんの目元を濡らすものをなるだけ優しく拭き取っていく。しかし拭いた途端にまた新しい雫が落ちて来るから、少年は酷く慌てた。

「……そっか……」

 白い影が、少女の脳裏で揺れる。

 その綺麗な影は、目の前にいる小さな男の子と同じ言葉を口にして、同じようにして目元を拭ってくれた。

 少し霞んでしまったその思い出が、少女の心を激しく掻き乱す。

「……やっぱり……優しい子だね……君は……」

「え? わっ!?」

 抱き締められた。涙を流し続ける少女に。

「あ、あの……お姉さん……?」

「知ってたよ……知ってるんだから……そんなこと……!」

 頬と頬が重なる。少女の涙が、二人の頬をつたって落ちる。

 二人とも、泣いているみたい。

 触れ合う少年と少女を眺める女神が、穏やかな笑みでそう囁いた。

 ある者は目を伏せ、ある者はその光景を真っ直ぐ見据え続け、ある者は瞳に涙を宿した。

「アーディ」

「……うん……」

 少年を抱き締める少女の肩を耳の尖った金髪の少女が叩くと、今も涙を流し続ける少女は少年を解放した。そのまま金髪の少女に手を引かれて、青い髪の少女は離れていった。

「はいっ! なんか湿っぽくなっちゃったけど! 早速本題に入らせてもらうわね!」

「うわっ!」

 入れ替わるように目の前にジャンプして来た赤い髪のお姉さんに驚いて、少年は尻餅を付いてしまった。

「おっと! その前に自己紹介しないと! はじめまして! 私の名前はアリーゼ! いつもいつまでも清く正しく美しい、アリーゼ・ローヴェル! アストレア・ファミリアの団長よ! よろしくね! ベル!」

 少年の目の前で大きな声で自己紹介を始めるお姉さんに、少年はめちゃくちゃ動揺した。声大きいし、近いし、綺麗だし。

「早速なんだけど! あのね、ベル!」

「う、うん……」

「私たち、貴方を迎えに来たの!」

「え?」

 これは、誰かの夢の続き。

 それは彼女の夢か。彼女たちの夢か。それとも彼の夢か。

 答えはきっと一つじゃない。

 けれど、そう。単純な話だ。

 小さな村から始まるこの物語は、まだとても小さく。それでも、何よりも透明で澄んだ輝きが、誰かの夢の続きを暖かく照らす。

「一緒に行きましょう! オラリオへ!」

 たったそれだけの、優しい物語。

 

 

 

 

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