彼は誰の夢   作:く ろあり

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本文の文字数制限に引っ掛かりましたので前後編として投稿します。

お久しぶりです。マジでゆっくり読み進めてください。

思いついたもの、やりたいと思ったことは全てやり切ることを自分なりに大切にしているのですが、全て捩じ込んだらすんごい文字数になってしまった。後悔はしてません。反省はしてます。

次回はのほほんとした回になります。多分。


インパーフェクト[前]

 人目を。それ以上に神の目を忍んで行われる会合ながら、それでも会場は華美に富み過ぎであった。

「利害は一致している。そうだろう?」

 ここまでの話を総括するよう、小首を傾げる女神。

「確かに、君の提案には明確な利がある。それは認めよう」

 眼前の女神を好いてないのだと一目でわかる眉根の顰め方をしている男神の口元は、笑みを描ききれていない。

 日陰に落ちることを許せないかのよう。秘密の会合の主役たる二柱の内面が可視化された絢爛な一室には、それぞれお付きの同席が許されている。

「…………」

 女神のお付きは、至極つまらなさそうに艶めいた唇を一文字に引き結び瞼を落としている。

「ふん……」

 男神のお付きは、敬愛する主神の前で脚を組む女神とその背中に控えるアマゾネスの不遜な態度に覚える苛立ちを乗りこなせないでいる。

「君は利害の一致と言った。しかし私には、そちらにどんな利があるのか見えて来ない。体良くこちらを利用しようとしているのなら包み隠さずそう言ってくれて構わないよ」

「利用するなどお互い様だろう。お前たちを利用する。それは否定しない。しかし捨て駒にも捨て石にするつもりもない」

「信用ならないな。それに私は、君のような身持ちが悪い女神が苦手でね」

「なんだ、気が合うじゃないか」

「何?」

「お前という神自身もお前の足下をチョロチョロしている軟弱な眷属たちも微塵も信用していないし、お前のような性根から下劣で退屈なくせに己が高貴な存在だと思い上がっている男が苦手だよ私は」

「貴様っ!」

「やめときな」

 ひゅんと、一つとして窓の開いていない室内を駆けた風二つ。

 顔色一つ変えない女神と男神の頭上で、真紅の剣と大朴刀が交差をし、それ以上高度を落とすことを互いに許さない。

「賤しい娼婦風情が」

「神に尻尾振ってるだけの男の言葉は軽くてなあ」

「アポロン様のお足元を汚すのは気が引けるのだがな」

「剣が動いていないようだが? やっぱり口先だけじゃないか」

 神々を間に介し、殺気を隠すことを放棄しているLv.3の冒険者二人が睨み合う。

「ヒュアキントス、良い」

「……ご無礼を」

「お前も控えろアイシャ。一応はな」

「はいよ」

 神々の静止がなければ引き時を失っていた二人の得物が擦れ合い、カァンと高い音を立ててから引いていく。

「勘繰るなよ。使えるものは使う。欲しいものは必ず手に入れる。そういうものだろう、我々は。なあ?」

「否定はしない。しかし、不透明過ぎるやり取りには応じかねる。少なくない子供たちを巻き込もうと言うのだ。君自身に信頼を置くことは難しくとも、せめて君の動機に信頼が欲しい」

「勝てる博打しか打たないタイプとはね。情欲を持て余して然るべきだな」

「情欲などと言ってくれるな美の女神。私はいつだって愛に焦がれたこの身で求められるだけを求め続けているだけだよ」

「つまらない在り方だ。まあいい。ならば私の利を明かそう。情報だ」

「情報?」

「私の目的は、何処ぞの女神(オンナ)の失墜にある。そのために使える情報を少しでも集めたい」

「その為に私たちを利用しようと?」

「そうだ。見返りはこちらの戦力や、お前の目当ての泣き所の情報などになる」

「そんなものがあると?」

「先日の神会(デナトゥス)で話題に上った黄金のゴライアスを呼び出したのはこの私だ」

「何?」

「お前の目当ての品定めをしたくてね。安心しろ。あんな青臭い子供などお前と大差ない程度には興味がない。ただ、あの子供はあの女神(オンナ)に近い位置にいる。お前も知らないわけではないだろう? もっと言えば、それを知っているからこそ手を拱いてきた。そうだろう?」

 肯定を示す沈黙が流れる。この場の主導権をさらりと握れたことに気を良くしたのか、防音性を重視するあまり換気性能を落としている空間内でも素知らぬ顔で煙管(キセル)に火を付ける女神。男神の眷属は不快を隠さない。

「私も似たようなものだが、ようやく時を得た。故に、必要ならばお前の欲する子供を抱いて犯して気を触れさせることも視野に入れている」

「私の前でよくも……!」

「それが嫌ならばいい加減に指を咥えて見ているのをやめろ。そもそも、いつまで行儀の良いフリをしているつもりだ。あの女神(オンナ)とアストレアの戦力に怯えて強行策を取れないだなんて哀れを晒すのもいい加減飽きた頃だろう。さっさと動け」

 女神の言葉が核心の直ぐ近くに刺さったのか、男神の眉根に皺が集まる。

「話を戻す。私もそうだが、我々の間で対等な取引など望むべくもないことなど理解しているのだろう? ならば、互いに都合良く使える所を使い合う。それでいいと思わないか? これ以上語る言葉はない。断るのならばこれっきりだ」

「…………君が持っている、彼に通ずる情報とはなんだい?」

「素直な所もあるじゃないか。まあいい。親愛の証などと言うつもりはないが、お前に一つ、キーワードをくれてやる。お前のお目当てに辿り着く為の、な」

「聞かせてくれ」

「ヘスティア・ファミリア」

 その派閥……いや。その女神の名を聞いた男神の表情が、微かに濁る。

 男神とは対照的に。

「それが、お前の望みを叶えてくれるだろう、くだらないファミリアの名だよ」

 くだらないファミリアの名を口にした女神の口元は、心底愉快であると一目でわかる程度には、気持ち良く歪んでいた。

 

* * *

 

「どうかしら?」

 彼女本人は気付いているだろうか。

 凛とした声とは反比例するかのような期待と不安の入り混じる、何処か澄ましきれていない眼差しを、息子に向けてしまっていることに。

「ちょっと揚げ過ぎですかね。いやに脂っぽくなっちゃってますし、幾つかは膨らんで形も変わっちゃってますね」

「ん…………そうみたいね……」

 息子、ベル・クラネルの言を受け、己で揚げたジャガ丸くんをじっくり検分、からの小さく切って口に運ぶ女神、フレイヤ。一噛みで口内に広がる何ともビミョーな感じの食感肉感脂感などなどに、天上も天下も唯我独尊しちゃう系めちゃ美人のお母さん、しょんぼりである。

「しっかり時間は測っていたと思うのだけど、何がダメだったのかしら?」

「火が強過ぎたんだと思います。ほら、表面が焦げてる部分が見えるじゃないですか」

「あら本当……はあ……また失敗ね……」

「き、気落ちすることありませんよ! 練習始めたての頃の惨状に比べれば全然」

「惨状と言ったかしら?」

「ひ、ひはひれすふへいやはま……!」

 女神の人差し指と中指が白い頬をぷにっと摘んでぎゅっと締め上げる。盛り立てようとしたってこうなるならもうどーすりゃいいのさなベルくん、涙ほろり。

「まだまだ、ベルの高みには届かないわね」

「練習あるのみですよ」

「あ、上から目線」

「ジャガ丸くんに関してならオラリオでも指折りの実力を持っていると自負しているので」

「生意気言うようになって」

 室内用と言うには耽美な作りのルームウェアの上に、ベルと色違いで揃えた赤のエプロンを着けたフレイヤが、得意気に笑うベルの肩に自分の肩をぶつけに行って笑う。ベルの青いエプロンとフレイヤの赤いエプロンがハグを交わすよう、ぴたりと身を寄せ合う。

「どうします? もう少し続けます?」

「ええ。今日を逃したらベルに指導してもらえる次の機会がいつになるかわからないもの。すっかり私より多忙だものね、貴方。明日もアリーゼたちとダンジョンに向かうのでしょう?」

「はい! アリーゼさんだけじゃなくて、十八階層の一件で縁の出来た方々とご一緒するんです!」

「嬉しそうね」

「いろんな方の戦い方とか、ダンジョンでの立ち回りとかを間近で見れる機会ですから!」

「ふふ……」

「な、何かおかしなこと言いましたかね、僕?」

「なんでもないっ」

「あうっ」

 興味や期待の高まりに身を焼かれた時に見せてくれる、キラキラした眼差し。

 出会った頃からあまりにも変わらないもので。それがおかしくて。紅く輝く二つの瞳のちょうど真ん中より少し上。前髪の向こうに隠れた額に指をぺちんと弾いて、フレイヤは目を細めた。

 姉ンジャーズに見られたらぐぬぬ案件なイチャイチャを披露する二人だが意識はしっかり切り替えて、ベル・クラネルによる女神フレイヤへの料理指導は再開された。

 戦いの野(フォールクヴァング)の厨房にこんな時間が生まれたのは、ここ一年以内の話になる。

 発案はフレイヤ。何の脈絡もない、青天の霹靂めいたご提案だった。

 当然ベルの口から飛び出す何故どうして。

「ベルと二人きりになれる時間を増やしたいの」

 さらりと息子心のど真ん中を付く一撃は、ベルの中の男心までばっちり刺激。変な気分になっちゃったーなんてこたぁないけれども、このお願いは絶対に叶えねばなるまいと、ベルの鼻息はふんすふんすと喧しくなった。

 尚、この会話の席に同席していたガリバー兄弟たちにベルは、神室から出た途端に足を蹴られまくった。その日の午後に行われたガリバー兄弟の長男、アルフリッグによる訓練が平時より苛烈極まるものであったことは想像に難くないだろう。

「向こうではアストレア。こっちでは私が。完璧な夕食を用意して頑張った子供たちを出迎える。こういうの、とっても素敵だと思わない!?」

 どっかのお子様を笑えない程度には瞳を輝かせる母の姿に折れたというか、なんなら無条件降伏まであった。

 その日より、女神フレイヤ特訓物語は密かに始まった。

「実はこっそりと料理の練習はしているのだけどね、正直言うと成果は芳しくないの。だからもう少しでも練習の時間を増やしたくて」

 二人きりの特訓を初めて間もない頃に、フレイヤがそんなことを呟いたことがあった。

 ベルは、今日までフレイヤが台所に立って料理の練習に励んでいた姿など見たことがない。一体いつどこでどのように練習をしているのだろうかと小首を傾げたが、追求に意義を感じなかったのでその思考はそこで切り捨てた。自分の不在時に夜更かしをしたりしているのだろう。

「貴方が料理の手解きをしている娘に教えているものとは別のものを教えてくれるかしら?」

 ある時にはそんなことを言われた。この文言には何故どうしてを抑えず、理由を問うてしまった。

「まだ指導したことないものを指導する。ベルにとっても引き出しを増やすいい機会だと思ったのだけれど」

 なるほどと頷き、以降はクセ強な姉、シル・フローヴァに力を入れて指導しているラインナップとは異なるものをテーマとして扱うことを念頭に置くよう努めた。

「今日はジャガ丸くんなんですね」

 次の用意を進めるフレイヤの様子に注意しながら、思い出したかのように本日のテーマに触れた。

 本日のテーマ、ジャガ丸くん。

 シルにも何度か指導をしたことがある故、フレイヤには今日まで一度も指導をしたことがなかったテーマ。

 このテーマは先生であるベルではなく、生徒であるフレイヤたっての希望にて設定されたものである。

 フレイヤ側からテーマを指定するなど、これが初めてのことだったりする。

「私にもベルにも利があるでしょう?」

「と言うと、僕のジャガ丸くん研究のことを?」「一石二鳥じゃない?」

「確かに」

「完成はしたの?」

「自分としては納得がいくものが作れるようになりました」

「『剣姫』のお墨付きは?」

「かこさいきょー。ジャガ丸くんのおーじゃ。らしいです」

「なら間違いなさそうね」

 当人のモノマネでもしているのか、聞いている方の気が抜けてしまうような妙に間延びしたベルの文言に、フレイヤの頬が優しく綻ぶ。

「折角の機会だし、決戦前の最終調整、ここでしていかない?」

「それはつまり?」

「ベルの作ったジャガ丸くんが食べたいっ」

 ニコッと笑うフレイヤが少し身を屈み、息子の視界を独り占めするよう踏み込んで、至近距離からベルを見上げた。

「ダメ?」

 小首を傾げるアクションによる追い討ちまで叩き込まれてしまっては白旗降参お手上げシャッポを脱ぐ、だ。

「夜ご飯前なので、小さめに作りますね」

「やったっ」

 魅了されてしまっても止むなしだろう可憐な姿を見せてくれた母親の姿に笑みを隠さないベルは、先生が先生たる所以を見せるべく、自らも準備を急いだ。

 というかうちのママ可愛い。いやほんと可愛いな。この場にヘイズさんとかいたら失神しちゃってたんじゃない?

 などなど喧しい脳内。

 その喧騒の傍で、まるっきり別ベクトルの考えごとを一つ。

 先程。さらりと話題の真ん中に出てきたのは、他派閥の冒険者。しかも、フレイヤ・ファミリアと何かと因縁があるらしい派閥の冒険者の二つ名だ。

 しかしフレイヤは嫌な顔を見せるどころか、件の冒険者本人がかこさいきょーと告げる光景でも想像していたのか、愉快そうに微笑んでいたくらいであった。

 これに関しては、ベルがオラリオへ到着してから驚いた所であったりする。

 フレイヤ・ファミリアと件の『剣姫』が所属しているロキ・ファミリアは、めちゃくちゃ仲が悪い。

 オラリオ外まで知られている、もはや世界の一般常識の一つと言っていいまである情報だ。

 ベルがオラリオへやって来る以前など、両派閥の眷属が市内で顔を合わせただけで抗争に発展しオラリオ全土を巻き込んだ大騒動になったなんて話もあったらしい。

 しかし、今日までベルが見てきた両派閥の間に、そこまでの壁が立ちはだかっているような感じはしない。

 今みたいにフレイヤやヘルンやヘイズ、ヘグニやヘディンらの前でロキと彼女の子供たちの話題をしても、基本的には誰も嫌な顔を見せない。

 基本の外にいるのが、ガリバー兄弟とアレン・フローメル。

 前者はフィン・ディムナ。後者もフィン。特に後者は大体誰の名を聞いても不機嫌になるので、彼らの前では自重するよう努めているベルである。

 逆も然りで、ベルが勤める店に飲みに来た女神ロキやフィン等の前でフレイヤや彼女の子供たちの話をしたって、ほんまあの色ボケはしょーもないわーみたいな文言が飛び出して大概話が終わる。

 仲良しかと言われたら絶対にそんなことはないけれど、顔を合わせたら一触即発はいじゃあ抗争いざ出張戦いの野(フォールクヴァング)! なんて過激なことになる感じもしない。なんなら全然しないまである。

 至極一般的な派閥間の付き合いをしているよう、ベルの目には見えているのだ。

 本当に仲悪いのかな。その辺り、両派閥のみなさんに聞いてもいいのかなあ。

 本人無自覚なまま、両派閥の緩衝材めいた働きを果たしているベル・クラネルは、内心で首を傾げるばかりであった。

「もう直ぐね」

「何がです?」

 何やら思案しているらしいが、それでも実に手際の良い息子の手元に気を引かれていたフレイヤが、近々に控える重大事項に触れた。

「神月祭」

「そうですね……」

「何? あんなに楽しみにしていたのに、怖くなっちゃった?」

「ないですないです! 全然ないです! 早くお会いしたくて仕方ないですよ!」

「ならいいのだけど」

 ブンブンと首を横に振る息子の姿に一安心。ここへ来て、緊張が勝ってしまっているのではないかと思ったから。

「……怖いとかはないんですけど」

「うん?」

「アルテミス様にした約束、叶えられていないものばかりだなって、そう思っちゃって……」

 手際の良さは変わらず、しかし歯切れは悪くなってしまった。

 ベルの言う、約束。

 その中身をフレイヤは知らない。知らなくていい。聞こうとも思わない。ベルとアルテミスの二人だけが共有し合い、大切に育てあえばいいものだとわかるから。

 ただ、想像は容易に出来てしまう。

 強くなる。守る。

 そんな言葉が、約束の真ん中に陣取っていたのだろうと。

 だったら。

「貴方がこの都市にやって来て初めての女神祭、覚えている?」

「もちろんです」

 約五年。それでも全く色褪せていない二人だけの思い出が意識の表層に顔を出し、フレイヤとベルを満たす。

 その年の女神祭、三日目のことである。

 女神祭に於いて、少々特殊な役割を果たすこととなっているフレイヤ。本来ならば彼女は見せものよろしく丸一日祭壇に居座っていなければならないのだが。

「は、ぇ? ふ、フレイヤさっ!?」

「しーっ。しーっよ、ベル」

 今日も大変そうだなあ。せめて差し入れくらいはと、祭壇の裏手にやって来たベルの肩を叩いたのは、人差し指を自身の唇に当てながら微笑むフレイヤだった。

「あそこにいるの飽きちゃった」

「で、でもそれだと怒られちゃうんじゃ」

「大丈夫。私の代わりに、アストレアに立ってもらっているから」

「なんでぇ!?」

「しーっ!」

 オーバー気味に驚くベルの反応に驚いたフレイヤのしーっもオーバー気味。

「フレイヤに神拳(じゃんけん)で負けてしまったの」

 同日の夜。なんとも珍しいことに疲労困憊を隠さないアストレアが、顛末を語ってくれた。

「フレイヤが勝ったら私と交代。私が勝ったらフレイヤだけが知っている、フレイヤの部屋でベルが見せてくれた姿を明かしてくれるという条件で勝負をしたの。フレイヤが言うには、フレイヤに神拳(じゃんけん)で負けたベルが女の子の服を着て、フレイヤの言い付け通りに女の子のような口調で」

 それ以降は必死の形相のベルに止められ、今でもアストレアの胸の内にしまわれてしまったまま。数年を経た今でも五本の指に堂々ランクインし続ける暗黒歴史を語られそうになればベルくんだって必死になりましょうとも。

「デートをしましょう。みんなには内緒ね?」

 母二人が裏でそんなやり取りをしていたことなど知らなかった当時のベルは、頭の中に浮かんだ多くのでもけどだってを口にして、しかしそれでも、目深に被ったフードの下で愉快そうに笑う母の手を、しっかと握った。

 屋台で買い食いをした。牛乳か何かが入っていたのだろう空き瓶に向けてボールを投げ、全て倒せたら景品が貰えるアトラクションに二人で挑戦した。ベルもフレイヤも上手に出来なかった。冒険者墓地を見に行った。乗り込みはしなかったけれど、見たこともないような大きさの船……船上レストランを見るため岸まで歩いた。普段は入場することの出来ない、聖フルランド大精堂に入った。

 その帰りに、露天で髪飾りを買った。

 精霊と騎士。

 二つで一つの髪飾りを。

「あの髪飾り、時々磨くようにしているんです」

「私もよ。時々私が身に付けているの、気付いているかしら?」

「もちろんです!」

「本当? 余さず捉えている自信はある?」

「……十回に一回くらいは見逃しているかもです……」

「十回に五回くらいの間違いでしょう。そんなんじゃ、女の子にモテないわよ?」

「あうぅ……」

 即座に斬り捨てられるあたり、フレイヤには思い当たる節がありまくるのだろうと理解。素直に落ち込んでおくことにした。

「その年の冬、一緒に雪だるまを作ったわね」

「戦いの野(フォールクヴァング)の隅に作ったんだけど、アレンさんたちの訓練の余波で壊れちゃって、フレイヤ様がすっごく怒っていましたね」

「次の夏には二人でメレンに遊びに行ったわね」

「みんなには内緒でって言うから本当に内緒でこっそり行ったらみんながメレンに突っ込んできて大騒ぎになりました」

「デメテルに頼んで少しだけ都市の外に出たこともあった」

「帰るなりすっごくオッタルさんに睨まれたし、師匠(マスター)からは個人レッスン地獄編を施していただいて……あ、思い出しただけで鳥肌が……!」

「荷車の中に隠れる経験なんて、後にも先にもあの時だけでしょうね」

「後のことは大変でしたけど、とっても楽しかったですね」

「ええ。まだまだ、数えきれないくらい出てくる。貴方との思い出が」

「そうですね……」

 少し離れているが隣同士のフレイヤとベル。互いに手元に集中しながらしかし、意識は今と過去とを勝手放題に飛び回っていく。

「はっきり言うけれど。貴方が私の息子になってから今日までの思い出の中で、貴方にこの身が守られたことは一度もない。冒険者になり、器の昇華を一度は果たしたけれども、今の貴方がこの身を守り切れるとも、正直思っていない」

「……はい。わかっているつもりです」

 その正直過ぎる物言いは、ベルに刺さる。手元が狂いそうになったがしっかり持ち直し、油と熱に踊らされてジャガ丸くんへと色付いていく種に視線を落とす。

「でもね?」

 下げたばかりの目線が、フレイヤの一言で少し高くなる。

「私の心はいつだって、貴方が守ってくれているの」

「心……?」

 ジャガ丸くん作りに勤しむお隣さんに視線を向ける。ベルから見れば実に拙い手付きで、ベルよりずっと時間を掛け、ジャガ丸くんの成形を懸命に行なっている母は、ベルの方を向いていなかった。

「神と言ってもね、嫌なことはあるの。やらなければならないことを面倒に思うこともあるし、機嫌が悪くなってしまう時もある。女神祭なんていい例ね。喜ばしい催しだけれど、ずっと一ヶ所で立っていろと言われてもね。それだけじゃない。不安なこともたくさんある。特に貴方がダンジョンに挑めるようになってからは、こんなに心配性だったかしらと自問してしまうくらいに気が落ち着かない毎日を過ごしている自覚があるの」

 日々の些細な苛立ち。嫌悪感。退屈。不安。

 下界の子供たちを翻弄して止まないそれらを自分も。神々も抱いているのだと、フレイヤは告げる。

「そういうものからね、私を守ってくれているの。貴方が私にくれた思い出。その度々に感じる温かさ。この瞬間もそう」

 納得のいく成形が出来たらしく、白い雪を被ったような両手になってしまったフレイヤが、よしっと呟く。

「貴方との日々全てが優しく、それでも強固な鎧のよう、私の心を包んでくれているの」

 フレイヤの手から離れ、後にジャガ丸くんと名付けられる予定の種が油の海へ覚悟のダイブをキメる様を眺めていると、フレイヤの眼差しがこちらに向いた。

「私だけじゃない。アストレアやアリーゼたち。貴方のお友達もそう。アルテミスだって、貴方と過ごした数日に支えられていることでしょう。貴方がアルテミスと過ごした数日に生かされているみたいに。綺麗事のように聞こえるでしょうけれど何も嘘ではないし、自分の心の中に貴方の居場所を用意している誰もが納得していることよ。だから下向きになる必要なんてない」

 僕を下向きにさせない為の綺麗事。

 不安定に揺らぐ思考の片隅に浮き上がった言葉群を見透かされたかのよう、母の言葉と眼差しが先回り。

「確かに、思いや優しさでは心を守れても、身体は守れない。けれど、剣や盾では身体を守れても、心までは守れない……かもしれない」

 自らの言葉が綺麗事に染まりきるのを危惧したのか、珍しくもフレイヤの言葉は迷子気味だった。

「心は守れても身体は守りきれないベルは、まだまだ道半ば。でもそれってつまり、半分までは来ている。ってことでしょう?」

「……つまり?」

「胸を張ってアルテミスを出迎えてあげなさい。ってこと」

「フレイヤ様……」

「私ばっかり見つめていると焦げちゃうわよ?」

「あ……!」

「ふふ……」

 台所仕事の最中に慌て倒すベルの姿を見るなど数年振りなフレイヤが口元を隠してくすくすと笑う。女神の口元を汚す無礼などするまいと、彼女の手指を彩っていた白い粉がパラパラと舞い落ちていく。

「ねえフレイヤ様」

「なぁに?」

 隣に立つのが神である事実を忘れたような気の緩んだ言葉に、フレイヤの頬も言葉も優しく綻ぶ。

「何ならば。どうすれば。誰かの身体も心も守れるようになれるんでしょうか?」

「それを私に聞くの? 私から答えをもらって、ベルはそれでいいの?」

「な、なし! やっぱり今のなしっ!」

「そもそも、ベルの疑問の答えはベル以外の誰にも正解が出せないもの。自分を磨き続け、強くなって。そうして見つけ出すしかないのよ」

 手が汚れたままだと気付いて冷水で流す。玉の肌から弾かれた水流が白い汚れも纏めて攫っていく。

「誰かの心身を守るのはこれからの貴方に期待するとして、今は目先の約束を守らないと。ね?」

「……はい!」

 五年前から変わらないと言われている笑顔を母の微笑みに返し、引き上げられる時を待つ連中に意識を割く。いい塩梅だと判断したヤツから油の海より順次救出。綺麗な仕上がりに感嘆の声を漏らすフレイヤに見守られ、しっかり油を切りながら揚げ網に並べていく。

「よし…………ん、いい感じ……!」

 並べたうちの一つを小さく切って、ふーふーと冷ましてからぱくり。ジャガ丸くんガチ勢である剣のお姫様らを味方にジャガ丸くん道を邁進し続けるベル的にも納得のいく仕上がりになっていた。

「あーん」

 隣を見れば、クラネル印のジャガ丸くんを待ち侘びているのか、天上も天下も独尊しちゃってる美しさの女神が、小さく口を開けて今や遅しとベルを急かしていた。

「そ、そういうのは……」

「ベルが料理の面倒を見ている娘にはしているのに私には出来ないって言うの? ふーん」

「な、なんで知ってるんてすか!?」

「ほらやっぱり」

「あ!」

「それなのにベルったら私にはそういう感じなのね。ふーんふーん。そっかそっかそうなのね。ふーんふーんふーん」

「く、くぅぅ……って! っていうかキャラ変わってませんか!?」

「気の所為よ。ほら、あーん」

「…………あ、あーん……」

 口でこの方を上回れるわけもないことを知り尽くしているベルくん、サクサクっと根負け。揚げたてくんを小さく切って、実に愉快そうに瞳を細めているフレイヤの口元に運ぶ。

「ん」

「どうでしょうか……?」

「うん、かこさいきょー」

「ありがとうございます……はは……!」

 何処ぞのお姫様を真似たのか、それともあまり似ていなかったベルのものまねを真似たのか、フレイヤらしからぬ間延びした文言に笑いを抑えきれなかった。

「これならアルテミスも喜んでくれるでしょう」

「そうだといいな……」

「あとは胸を張って会いにいくだけね。必要なら当日のコーディネートを私が」

「結構です!」

「即答しなくてもいいのに。というか、いつかの女装のこと、根に持ちすぎよ。久し振りにアルテミスに会えるって日に私が悪ふざけなんてするわけがないでしょう」

「そ、そんなこと言ったってダメですからね! 前に絶対女の子の服は着せないって言っておきながら女の子の服ばっかり用意してたの忘れてませんから! っていうか悪ふざけって言ってるし!」

「確かに、悪ふざけなんて言葉はよくなかったわね。女の子の格好をさせるととても面白い反応を返してくれるからという素直な気持ちで行ってきたのだもの。ごめんなさい」

「謝る所そこじゃないですからね!? って! 火!」

「え? ファイアボルト?」

「じゃなくてっ! 揚げ過ぎですよっ!」

「あ」

 慌てて火元に戻ったフレイヤによって油の海から救出されていくも、時既になんとか。次々と並べられていくのは、先ほど揚げた物より黒い塊たち。

「…………」

「……ふ、フレイヤ様?」

「うん。ベルが悪い」

「僕の所為ですかぁ!?」

「貴方は私の先生。先生は生徒のこれからに責任を負うもの。ということで、食べなさい」

「た、食べろって……何処もかしこも真っ黒になっているんですけど……」

「特別に、私があーんで食べさせてあげる。口を開けなさい」

「あ、や! そ、そういうのはちょっと」

「私には無理矢理あーんしたくせに自分だけ逃れようだなんてそうはいかないわ」

「記憶の捻じ曲がり方凄くないですか!?」

 側から見れば、仲睦まじい男女がイチャイチャしていようにしか見えないけれど、実際は親と子がそれぞれのプライドと体内世界の安寧を賭けて争う戦場。

 ベタベタとくっ付いて争う二人の身体を、春風と言うには妙に温かい風が撫で、窓を揺らして微かな音を立てる。

 それは、季節が進んだ証拠で、来る日を待ち侘びる慌てん坊の足音である。

 小さくも、しかし当人たちにとってとても大きな約束が果たされる日。

 神月祭開催、約二週間前。

 何か特別なことを語らった、なんてことはないけれど。

「御託はいいからあーんするの。はい、あーん」

「か、勘弁してくださいーっ!」

 親子二人きりの思い出が、また一つ。

 

* * *

 

「んー陽射しが気持ちいい!」

「十八階層の昼も悪くなかったですが、やっぱり地上の光が落ち着きますね」

 陽射しを堪能するよう両腕を広げ、大きく吸って吐く。

 ベルなりの形で数時間振りに味わう地上の空気を満喫。彼の隣を歩くリリもぐいーっと腕を伸ばすなどしてベルに倣う。

「それにしても、ベル様は真面目過ぎます。わざわざリヴィラの復興を手伝いに行くだなんて」

「僕がもっと上手く逃げ回っていたらあそこまでの被害にはならなかったし……僕が参加しないのは違うなあって……」

 などなどちんぷんかんぷんな自虐を吐露するベル・クラネルは、昨日の昼からダンジョンに潜っていた。もちろん一人ではない。

「アリーゼさんたちだけじゃなくてモルドさんやボールスさんも同行するって言ってくれたから……いろんな人の戦い方とかダンジョン内での身の振り方を勉強しておきたくて」

「それが真面目だと言ってるんです」

 結構なことなんですけどねーと添えるリリは額に手を当て溜息一つ。その様子にどう反応したものか迷うベルは曖昧に笑うばかり。

 先日。ダンジョン十八階にて、リヴィラの街が壊滅するという事件が発生した。

 圧倒的な破壊を振り撒いたのは、リヴィラの一つ上。十七階層を縄張りとしているはずの階層主。ゴライアス。

 体躯の色も通常個体と異なったゴライアスは、咆哮(ハウル)一発でリヴィラを壊滅。その後、何処ぞの冒険者と交戦開始。その冒険者が駆け回り跳ね回り逃げ回る過程で、壊滅状態だったリヴィラは超壊滅状態にまで昇格(ランクアップ)。街の入り口のアーチも一切の建物も吹き飛ばされるという、文字通りの更地と化してしまった。

 尚、この件に関しては先日開催された神会(デナトゥス)に於いて、間違いなく何処かの神がヤンチャを働いたことが原因だとして犯神(はんにん)探しめいたこと長時間に亘って行われたのだが、犯神(はんにん)が名乗り出ることもなければ、その心当たりがあるだろう神々が意見を口にすることもなかった。

 事件から間もなく二週間は経とうかと言う今でも完全とはいかないが、その一件でベルと面識の生まれた冒険者、ボールスらが中心となって復興を急いでいるリヴィラは、最低限の機能を取り戻せるだろうところまでは復興を果たせていた。

 深層まで行くなんて楽々ですよーな冒険者たちでさえ、『迷宮の楽園(アンダー・リゾート)』で羽を伸ばせる時間は大切にしているくらいなのだ。

 リヴィラの街が機能を失うことは、冒険者たちの稼働率。延いては生還率が段違いに低下することと直結する。

 それを肌身で感じたベルはアリーゼやネーゼら家族に加え、知り合ったばかりの冒険者たちと昨日に待ち合わせをし、復興作業の手伝いをしに行っていたのだ。

 一夜明けた今夜は豊穣の女主人にて労働の予定があるもので、昼前には地上へ帰還。事前に待ち合わせの予定をしていたリリと合流をした次第である。

「でもいい経験になったよ! モンスターとの駆け引きとか、やっぱり長く冒険者をやっている人たちは上手で! すごく参考になった!」

「収穫があったのならば何よりですがご無理はなさらないでくださいね。側から見たベル様はアリーゼ様と同等と言えるくらい落ち着きがないんですから」

「そ、それはよくないかも……」

 いつ休んでいるの? くらい一日中あっちこっちに駆けずり回っている我が家の長女のぺかーっと輝く笑顔が脳裏に咲いて、枯れるまで暴れ回ってやんぞーっていうか枯れてなんかやらないわーあっはっはーと落ち着きなく狂い咲いている。

 アストレア・ファミリア初のLv.6の冒険者は、きっといいことなのだろうが、依然変わらずいつだって元気いっぱい活力いっぱい無駄な動きは超いっぱい。

 そのアリーゼと同等に落ち着きがないと言われたら、これは改めなければならないことなんだなあと考えざるを得ない。

 団長であるアリーゼの人格が多くの冒険者や市民からの信頼を勝ち取る礎となっているのは間違いないが、アリーゼのアレな感じの言動行動奇行などによって、一部の冒険者やファミリアにナメられたり煙たがられたりしているのもまだ事実なのである。

「その辺りはベル様の自覚が追い付いて来る事を期待します。そんなことより、さっさと買い物を済ませてしまいましょう」

「そんなに慌てなくてもいいのに」

「今夜は酒場のお勤めがあるのでしょう? ならば少しでも仮眠を取ってから挑むべきです。ベル様のことですから、碌に休まず復興活動をしていたことでしょうし」

「あ、あはは……」

 もう少し! この後ちゃんと休憩取るから! と、こちらの身を案じてくれるアリーゼたちの気配りを煙に巻き続け、誰よりも働き続けていた事実を見透かされ、ベルの横顔がへにゃへにゃになる。

「まあ? 正直に言いますと? ベル様には一睡も取らないで欲しいなーなんて思ってたりしますけどねー」

「え、えぇ!? なんで!?」

 道行くカップルたちが待ち合わせ場所としてよくよく利用するアモールの広場で。お昼過ぎに異性と合流し。二人きりで買い物へと洒落込もうとしている男の子が、この女の子は何を言っているんだろうとばかりに首を傾げる。

「ですよねー」

 まあそんなもんだよなあと、首を傾げる少年の前で小さな溜息を溢すリリ。

「デスヨネ? え? あの、リリ?」

「ベル様には内緒ですっ。いいからっ」

「へ!?」

 溜息も曖昧な笑顔ともお別れをしたリリが、ベルの左腕に飛び付いてにぱーっと笑う。

「行きますよー!」

 いきなり左腕の自由を没収されたベルがテンパる姿さえ楽しみながらズイズイと行進。

「今だけは許してください姉ンジャーズの皆さま……!」

 後々のトラブルまで含めて面白がりそうなライラと輝夜くらいしか聞き入れてくれそうにない願いを一添えして。

「え? 今なんて」

「いい買い物が出来ますようにってお祈りをしたんです!」

 決して嘘ではない願いを叶えるべく、デート宛らに腕を組んだ二人は、カップルたちで賑わう真ん中に不揃いの足跡を刻み始めた。

 んで。

「実はアタリを付けているんです」

「そ、そうなの?」

 いつまで経っても解放してもらえない左腕の自由は諦めたのだが、しかしながらなんかこう、女の子っ! って感じの感触に慣れることなくドギマギし続ける男の子は、明るい笑みを絶やさない女の子に腕を引かれるまま、北西のメインストリートをゆっくりゆーっくりと歩いていた。

「この前ちょーっと気になることがありまして」

「気になること?」

「この辺りのお店をジーッと眺めていたんです。あの方が」

「じゃあお目当ては?」

「そこらが妥当かなあと」

「リリは優しいね」

「ベル様に言われると嫌味に聞こえます」

「なんでぇ!?」

 イチャイチャしながら歪に膨れた一つの影を二人で揺らし歩くことしばし。

「確かこの辺りで…………あ! あれ、そんな感じじゃないですか?」

「そんな感じって…………そんな感じだね……」

「でしょう!?」

 そんな感じってどんな感じなのよとショーウィンドウに目を凝らすと、想像以上にそんな感じでそんな感じな商品を発見した。

「ふむふむなるほど……素敵なデザインですね。リリはこれに一票です!」

「僕も一票で!」

「決まりですっ」

 ピシッと指差すリリとお揃いの指差しポーズ。賛成満票にて勝負アリ。

「じゃあ」

「待ってください」

「うん?」

「これはリリが買います。そうしたいんです。ベル様のお気持ちは嬉しいですけど、ここはリリに譲ってください」

 全額負担するつもり満々だったベルの出足に

待ったを掛ける、曇りのない笑顔。

「あんなぐーたらでだらしのない神様でも、リリの主神様ですから」

「……うん。リリがそう言うのなら」

「ありがとうございます! ちゃっと買って来ちゃいますね! 待っててください!」

「僕も……い、行っちゃった……」

 パッとベルの腕を開放して駆け出すリリの背中を見送ることしか出来ず、ベルくんお留守番。

 飛び込んだ店内から、にこやかに笑いながら店員に声を掛ける仲間の横顔が硝子越しに早速見える。

「笑ってくれるようになったなあ……」

 ベルの心身が暖かく染まっていく。

 初めて出会った日から数ヶ月。いつも下を向いていたリリが、明るく笑いながら、自分の隣を歩いてくれる。

「へへ……!」

 それが嬉しくて、ベルの頬が弛む。

「何かいいことでもあったのかな?」

「はぇ!?」

 そんなベルの背中に、柔和な印象を与える、穏やかで聞き取りやすい声が刺さった。

「あ……!」

 慌てて振り返った先にいる人物……神を、ベルは知っていた。

 昼の日差しを弾いてひらめく煌びやかなブロンドは肩に掛からない程度の長さ。月桂樹の頭冠が彼の優美さを一層際立たせている。

 纏う白のキトンは汚れ一つなく、実に清廉。

「先日の十八階層での活躍は素晴らしいものであったと私の耳にも届いたよ」

「あ、え、と……!」

「おっと、自己紹介が必要だったかな?」

「いえいえっ! お、お見掛けしたことはあるのですが、お話しするのは初めてになります……は、はじめまして! アポロン様……!」

「ご存知とは光栄だ。はじめまして、ベル・クラネルくん」

 その者、神。

 名を、アポロン。

 美青年と言うには整い過ぎている、一目で天上の存在だとわかる男神のことを、ベルは知っていた。

 家族や友人や近しい神々から聞かされたアポロンのエピソードの数々はなんと言うか、アクが強いというか。美談として扱っていいのかいけないのか判断に困る的なエピソードばかりがベルの耳に届いていた。

 そんなアポロンの数歩後ろには、アポロン派の団員らしき男女の姿が。

 一人は知っている。

 細身で長身。背中で纏められた長い茶色の髪。品の良いマントの下には、負けじと品の良いデザインの剣鞘が見える。

「ふん……!」

 アポロンの肩越しにこちらを睨んでいる彼の名は、ヒュアキントス。若くしてアポロン・ファミリアの団長を任されている、ヒュアキントス・クリオで間違いなさそうだ。

 もう一人に見覚えはない。

 というか、顔を見せていない。

 白いフードと薄紫色のベールで顔を隠しているのだ。

 団員服の上にマントを羽織っているらしいヒュアキントスとはまるで異なる出立ち。長身のヒュアキントスにも劣らない高身長。露出は控えめながら、自らを覆う布の下に隠れている肢体を強調するような薄手のドレスは実に扇状的。

「ふふ……」

 フードとベールの隙間から微かに覗ける瞳が、ベルに笑い掛けている。

 その笑顔に怪しい輪郭を付け加えるかのよう、鼻腔を介して脳にまで届きそうな、不思議な甘ったるさを感じる香気がベルの意識を引っ張ってくる。

「はわ……!」

 言い方が悪いが、オラリオへ上京してからの日々で美人には割と慣れたベルではあるのだが、何処か獰猛さがあるというか、値踏みをされているかのような、どうにも危険な感が滲む艶めいた眼差しにベルくんドッキドキである。この場にアーディやアスタ等がいたならまた知らない女の人にデレデレしてるーなどと詰られ脇腹辺りを抓られていたことだろう。

「え、えっ……と! あ、アストレア・ファミリアのベル・クラネルと言います! 以後よろしくお願いしますっ!」

 艶めかしい眼差しとの睨めっこに勝てるわけなどないベルは思いっきり視線を逸らし、同時に果たさなければならないことを果たし、勢いよく頭を下げた。

「そう改まらないでくれ。どうかもっと楽にして欲しい」

「は、はあ……」

「往来の真ん中を独占しては迷惑になってしまうね。折角の機会だ、何処かに入って食事でもどうだろうか?」

「へ? ぼ、僕とですか!?」

「そうとも。是非とも色々な話を聞かせて欲しい。何せ私は、君に興味津々でね」

「ほわ!?」

 尊顔に浮かぶ茶目っ気と人懐っこさを感じさせるあどけない笑みが、これまで特に関わりのなかった派閥の主神と団員たちとの相席という非日常へ誘う。

「そ、それはちょっと……今はとも……仲間を待っているので……」

「そうだったのか。先約があっては致し方ないね。口惜しい思いだが、またの機会があることを祈ってここは退散するとしよう」

 爽やかに微笑みながら身を引く男神の姿に小さな安堵。派閥間個人間のどちらでも付き合いを広げるいい機会であったのかもしれないが、手放しで受け入れるのもどうにも憚られる。

 裏を探しているとかではない。

 アストレアやヘルメスから聞かされた眼前の男神に纏わるエピソードが擽るのだ。決して無視出来ない程度に、ベルの警戒心を。

「しかし、いつになるかわかったものではない次の機会を待つばかりでは口惜しい。だから一つだけ、いいかな?」

「は、はいっ」

「単刀直入に言おう。私は君に興味を抱いている。是非とも、私の派閥へ改宗(コンバージョン)をしてもらえないだろうか?」

「……はい?」

「冗談を言ったつもりはないよ。どうだろう?」

 問い掛けの中に小さな笑みを浮かべるアポロンの眼前。もらった言葉の処理が追い付かず、我知らず小首を傾げる未熟な冒険者。

 悪ふざけだったり酔った勢いであったりが大半だけれど、他派閥から勧誘(スカウト)を受けたことならば幾度か経験があった。

 しかし、多くの団員を抱えるアポロン・ファミリアほどの規模の派閥からのお誘いは初めての経験であった。

「え、っと…………お声掛けしてくださったこと、すごく嬉しいです! ありがとうございます……!」

 嘘偽りのない思いだ。

 少し前まではなんでもない存在だった自分だけど、こうして大派閥から目を掛けてもらえるようになれたんだ。

 ダンジョンに潜れるようになってまだ日が浅い自分だけれど。冒険者として、誰かの目にも留まるような爪痕を、少しでも刻めたんだ。

 その実感が嬉しくて、ベルの頬が弛む。

「でもごめんなさい。そのお誘いをお受けすることは出来ません」

 弛んだ頬を引き締め、背筋を正し、尚も微笑みを崩さない男神に、ベルは頭を下げた。

「アストレア様の下で、みんなと一緒に、どうしても果たさなければならない約束があるんです……たくさんあるんです。ですので……」

「……そうか」

 アポロンの微笑みが形を崩し、苦笑へと変わる。

「ならば……仕方がないな」

 違和感。

 言いしれないものがあった。

 悲嘆の色など滲みもしない苦笑の裏に、攻撃性のような何かを。

 危険な何かを、ベルは感じた。

「呼び止めてしまってすまなかったね。また会おう。ベル・クラネルくん」

「は、はい! また!」

 優美な笑みと仕草で一礼をし、軒先に立ち尽くすベルとすれ違うアポロン。

 ベルは見逃した。いや、アポロンが隠したと言うべきか。

「ふは……!」

 すれ違い様。アポロンの口の端が、醜悪に釣り上がる瞬間を。

「…………」

 アポロンに続くヒュアキントスは何も言わないがしかし、これで敵意がないと言われても無理のある鋭い眼差しを、ベルに突き刺していった。

「ふふ」

 そして、もう一人。

「へ?」

 ヒュアキントスと違い、太陽と弓矢のエンブレムの団員服を身に纏っていない女が、ベルの眼前に立った。

「あ、の……!?」

 ベルよりも長身である女が背を丸め、ベルの視界を独り占め。いきなり鼻先に顔を寄せられたベルは、蠱惑的な眼差しの女の突飛な行動に驚いて後退り。

「え?」

 しようとして、動きが止まった。

 攻撃的なような。誘っているかのような。揶揄っているかのような。単に値踏みをしているだけのような。

 裏側の見えない眼差しが、ベルの動きを鈍くする。

 その眼差しから逃れるより先に、ベルの耳元に女が唇を寄せた。

「あは」

 女が、何かを囁いた。

 愉快そうに笑いながら、何かを。

「ぁ、え?」

 その言葉の意味するところがわからない。

 だからだろうか、ベルの反応はえらく緩慢であった。

「確かに伝えたよ」

 意味のわからない囁きが置き土産。謎の女はアポロンとヒュアキントスの背を追うよう、振り返ることなくその場を離れていった。

「あ、の……!」

 勢い良く振り返るベル。しかし彼の喉から飛び出した声は実に弱々しく、去り行く三人の背中を呼び止めるには力が足らなかった。

「なん……今……え……?」

「ただいま戻りましたベルさ、ま……?」

「ど、うい、う……」

「ベル様っ!」

「おわぁ!? り、リリ!? いきなり大きい声出してどうしたの!?」

 油のキレたブリキのような緩慢さだったベルに潤滑油を注いでくれた少女。青いリボンでラッピングされた白い小箱を手に、頬をぷくーっと膨らませたリリルカ・アーデが、ベルを見上げている。

「どうしたの!? はこちらのセリフですっ。ぼーっとされてましたけど何を……あの方は……」

 ベルの視線を捕まえていた背中に気付いたのか、遠退く背中にリリが小首を傾げる。

「うん。アポロン様」

「何かあったのですか?」

「勧誘(スカウト)をね、されたの」

「どう答えたかなんてわかりきってますけど、何か引っ掛かることでも?」

「その……アポロン様と一緒にいた女性が」

「姉ンジャーズに報告します」

「なんでぇ!? というか何を!?」

「ベル様が手強そうな異性とのほにゃららに発展しそうになったら報告するよう言われてますので」

「し、しないよほにゃららになんて! ちょっと変なことを言われたってだけだよ!」

「変とは? どんなことを言われたんです?」

「…………え?」

「え? じゃありませんっ。どうしてベル様が不思議そうに首を傾げているのですか……?」

「え、えっと…………ああそうそう! アポロンに気を付けろって言ってたんだ!」

 そう言っていた。確かに言っていた。

 アポロンの眷属であったのかどうかはわからないけれど、アポロンの背を追うように行動していたあの女性は、間違いなくそう言っていた。

「呼び捨てだったんですか? アポロン様を?」

「う、うん……」

「ふむ……」

「リリ……?」

 顎に手を当て思案顔を見せたリリが、今度はスンスンと鼻を鳴らし始めた。

「偏見も含まれているので大きな声では言えないことなのですが、あの女性の種族はヒューマンではなく、アマゾネスになるかと」

「どうしてそう言い切れるの?」

「麝香の残り香があまりにも強烈なので」

「じゃこう?」

「詳しいことはイスカ様にでも聞いてください。恐らく殴られると思いますけど」

「そう言われて聞けるわけないよね!?」

「それにあの女性……ほぼ間違いなく、アポロン様の眷属ではありません」

「どうしてそう思うの?」

「あの女性、アポロン様の隣を歩いているように見えませんか?」

「ん? えっと……うん、そう見えるね」

 リリに促されるまま、遠退く三つの背中の位置関係に意識を割くと、ヒュアキントスの背中がわかりやすくアポロンの背中より自分たちより近いのだと即座に気が付く。

 リリの言う通り、アポロンのすぐ隣に、確かに件の女の背中は並んでいる。

「リリの知っているアポロン様は、自分の眷属に隣を歩かせるような方ではないです」

「そ、それは大袈裟じゃないかなあ」

「それにあの女性、顔を覆っていますよね? 顔の良し悪しを勧誘(スカウト)基準にしているアポロン様が、共に行動する眷属が顔を隠すことを許しているというのもなんだか違和感あります」

「は、はえぇ……!」

 感嘆に満ちた言葉が間抜けな成形を果たして零れ落ちてしまった。

 今日までアストレアの娘たちに心身も五感も脳も鍛えられてきたリリが見せる洞察力。リリの導き出したモノが正しいか正しくないかなど重要ではない。

 この一瞬。しかも極めて少ない情報ですらすらと状況への違和感に触れ、しかもそれを言語化出来る。

 似ている。

 いや。

 継いでいく。

 そう表現するべきなのだろう。

『何きょとんとしてんだ末っ子。ボケーっとしてたって知識も生き抜く力も手に入んねーぞー』

 身体を動かすだけじゃない手に入らないモノを物にするチャンスだと、二ヒヒーっと底意地の悪さを感じさせる笑みと共に自分なりの言葉で伝えてくれる姉の姿と眼前の少女の姿が重なって見える瞬間がどんどん増えていくのは、きっとそういうことなのだ。

「ベル様?」

「いやあ……リリはすごいなあって……」

「はい?」

「なんでもないよ。というかあの人、僕知ってるかも。背格好とかがね、前にギルド本部の中で見た人にそっくりなんだ」

「その方は?」

「イシュタル・ファミリアの副団長。アイシャ・ベルカさん」

 確信があるわけじゃない。

 ただ、記憶のデータベースに照合を掛けたところ、最有力として候補に上がったのがアイシャだったというだけの話である。

「『麗傑(アンティアネイラ)』ですか……面識がおありで?」

「全然。話したこともないよ。ほら……イシュタル様とフレイヤ様って……その……」

「ベル様がイシュタル様の眷属と関わっていたと知ったら不安に駆られた姉ンジャーズは歓楽街にすっ飛んで暴れるでしょうし、フレイヤ様の眷属たちには前回比十倍以上の強度の訓練を強いられることでしょうね」

「あ、あはは……」

 瞼の裏に描くのが実に容易な架空の光景の混沌(カオス)っぷりに乾いた笑みを落とすのが精々のベルの目は、アポロンとアイシャ・ベルカらしき人物とヒュアキントスが大通りを右折して行く様子を捉えていた。

「……なんだかよくわかりませんが、終わった話です。忘れましょう」

「うん。だね」

「さてっ! じゃあリリはここで!」

「本拠(ホーム)まで送るよ?」

「それには及びません。ボム爺さんの所に顔を出して行こうかなと思いまして。最近なんてリリの顔を見るなり腰が痛い痛い手伝ってくれぇと迂遠に言われるので、先手を打って先々の苦労を減らしておこうかなって。無理させたくもないですし」

「なるほど……!」

 柔らかくもふざけた調子の語り口のリリが腰に手を当てて神妙な表情を浮かべる姿に、ベルの口元が優しく綻ぶ。

「ベル様はこれからどうされるおつもりですか?」

「本拠(ホーム)に帰って休むのもいいけど……いや、孤児院に行こうかな。最近はあの子たちとあまり遊べてないし」

「ああ、アストレア様と酒場のシル様とご縁のあるっていう」

「そうそう!」

「でしたらそれがいいと思います。今日は遅番なんだーとあの方が言っていましたので、渡すのは明日、一緒に渡しましょうか。午前中にでも教会まで来てもらえますか?」

「午前中ね! わかった!」

「ではお仕事頑張ってくださいねー!」

「ありがとう! また明日!」

 手を振り合いながら、それぞれ反対方向へと向かって行く笑顔の二人。

「アポロンに気を付けろ……何を伝えたかったんだろう……」

 リリに背を向けたベルが呟く。

「寄り道した方が良さそうですね」

 ベルに背を向けたリリが呟く。

 見せ合っていた笑顔を消してしまった二人の足は、妙に忙しなく動いていた。

 

* * *

 

「リリと離れ一人きりになっている間にアポロンがあの子に声を掛け、改宗(コンバージョン)を持ち掛けた」

「そこにヒュアキントスともう一人、素性の見えない女がいた。そういうことね?」

「はい」

 状況を整理する二柱の女神の言葉に、神妙な面持ちのリリが肯定を示す。

「これはベル様とリリの所感ですが、彼女はアポロン様の眷属ではないと考えています」

「根拠は何かあるかしら?」

「娼館や歓楽街との繋がりを想起させない方が無理なくらいに鼻を刺す麝香。ベル様が仰るには、上着の下に団員服を着ている様子もなかったそうです。それに、アポロン様と行動を共にしているのに顔を隠していたのも引っ掛かりました。そのアポロン様の背中ではなく、隣を歩いている様子もです。判断材料としてはこれくらいになるのですが……」

「私がその場にいたとしたら同じように違和感を覚え、貴方とほとんど変わらない推論を立てたことでしょうね」

「右に同じ」

「人目を引く高身長なども踏まえた上で件の女性は、イシュタル・ファミリアのアイシャ・ベルカ様だったのではないかと、ベル様が仰っていました」

「本当に『麗傑(アンティアネイラ)』だとして、どうしてイシュタルの娘がアポロンの背に控えていたのかしら……何か思い当たる節はある? フレイヤ?」

「特段見当たらないわね」

 フレイヤ・ファミリア本拠(ホーム)内の一室に通ることを許されたリリの前で小首を傾げる女神フレイヤと、女神アストレア。

 ベルのことで急ぎ伝えたいことがある。

 先ず、星屑の庭にてアストレアにその旨を伝え、そのままアストレアに連れられオラリオ最高峰の勇士たちが鎬を削り続ける地。戦いの野(フォールクヴァング)へ足を踏み入れることをリリは許された。

 この場所へリリが入るのは、今日が初めてのことであった。

「それともう一つ。その女性が、ベル様に耳打ちをしたそうです」

「耳打ち?」

「中身は聞いたのかしら?」

「アポロンに気を付けろと言っていたそうです」

「アポロンに」

「気を付けろ?」

「はい。様付けもしていなかったらしいです」

 長椅子に並んで腰を下ろしている女神たちが、リリの言葉を噛み締めるよう鸚鵡返し。二柱の真剣な表情が、リリの背中につーっと汗を走らせる。

「その言葉の真意は見えませんが、何れにしてもその女性は外様と見て間違いないかと」

「……運命、とは違うのでしょうけれど」

「やはり、繋がるものなのかもしれないわね」

「?」

 リリはもちろん、ベルやアリーゼたち。オッタルたちも知らない、ベルがオラリオへやって来る以前より生じていた、ベルとアポロンの間にある『縁』の存在を七年前に知ったアストレアと、五年前にアストレアより聞かされたフレイヤは、リリが小首を傾げるのを眺めながら頷き合った。

「その……どうにも穏やかではない何かが起こり始めているような気がして、報告せずにはいられませんでした……いきなりの訪問に応じてくださったこと。無理を言って同行してくださったこと。本当にありがとうございます。フレイヤ様、アストレア様」

 リリは、イシュタルやアポロンとベルの間にある話を特別聞かされているわけじゃない。

 それでも、ベルと別れたばかりのリリの動きは極めて迅速であった。

 この違和感を無視してはいけない。

 言ってしまえば、ただの直感一つでリリは走ったのだ。

「礼を言うのは私たちの方でしょう」

「そうよ。だから頭なんて下げないで」

 しっかと頭を下げたリリの両肩に手を添えたアストレアに促され面を上げる。小さな彼女の表情は、明るいものではない。

「……リリ。貴方に聞いて欲しいことがあるの」

「聞いて欲しいこと、ですか?」

 微かに眉を顰めたリリの両肩に手を乗せたまま、フレイヤに目配せをするアストレア。何も言わず、何も聞かない女神同士の視線の会話は、フレイヤが小さく頷いたことで即時終了した。

「ええ。しかし、この情報は貴方の日々に不快な雑音に。余計な重荷になってしまうかもしれない。それでも貴方に聞いて欲しいと私たちは考えているの。その上で、これから話すこと全て他言無用。ベルにも秘密にして欲しいの。予防線と注文ばかりで申し訳ないけれど、それでも聞いてもらえるかしら?」

「はい。リリで良ければ、是非」

 さしたる躊躇もなく頷くリリは、触れずにいられない何故どうしてを一度脇に置き、少々臆しながらも、未知なる情報を託してくれるらしい二柱の眼差しへ真っ直ぐ向き合った。

「ありがとう。リリたちには伝えていなかったけれど、アリーゼたちの調査の結果、十八階層に現れたゴライアスに強化を施したのは、イシュタル・ファミリアの誰かである可能性が極めて高いと判明したの」

「そ、そうなのですか!?」

「ええ。十八階層の東に向かったアリーゼたちが発見したのは、神威を隠してダンジョンに入り込んでいたイシュタルと、彼女の娘たち。彼女たちを捕縛することは叶わなかったから裏を取れてはいないけれど、間違いないと私たちは睨んでいるわ」

「あの時そんなことが……というか……階層主の格を上げてしまうほどの何かが存在しているなんて……いえ……アーディ様のような方もいますし、あり得ない話ではありませんね……」

 リリがヘスティアの眷属になる以前。

 ライラにより、アストレアの娘たち主導の作戦行動にリリが召集された際。アーディ本人よりさらりと開示された、彼女だけが持つレアスキル。割とトンデモ性能であるスキルの効果内容を思い返したリリの表情が渋くなる。

「ギルドへ報告されている中に限るけれど、イシュタルの眷属にそのような能力を持つ子は確認されていない。未登録の冒険者か構成員か外部の者なのかもわからない。けれど、イシュタルの近くにいるのは間違いないと見ているわ」

「でしたらあの事件は人為的なもの。狙いは」

「ベルね。間違いなく」

 もう災害とも不運とも呼べなくなってしまった、人災ならぬ神災事件の当事者だったリリが眉を顰める中、女神フレイヤが確信を口にする。

「イシュタルたちが表立ってベルや私たちの前で動きを見せ始めたのは、そのスキルだが魔法だかを有する子供を手中に収められたことと無関係ではないでしょうね」

「と申されますと?」

「私を失墜させる手札が整いつつあるということでしょう。イシュタルが私のことをとても嫌っていること、貴方も知っているでしょう?」

「は、はい……」

「ベルと私の繋がりが露見して以降、消極的ながらイシュタルは、ベルの動向に目を向け続けていた。その日々で、あの子が私の泣き所となることを深く理解したことでしょう。それから数年、イシュタルがベルの周囲で何か具体的な行動をみせたことはなかった。けれど先日、リヴィラで事を起こした。アリーゼたちや私の子供たちからもベルが離れている、女神の気紛れを差し込むには最高のタイミングで」

「なるほど……」

 アリーゼたちや強靭な勇士(エインヘリヤル)等とも別行動。パーティ内最高戦力がベル本人。

 ベルにちょっかいを出すには打って付けのタイミングでしっかりちょっかいを出してきた。

 ベルがフレイヤの泣き所になっていると確信してこその行動。

 そして、先日まで足跡さえ残さぬままベルの周囲を嗅ぎ回っていたにも関わらずいよいよとダンジョンへと出向き、ベルの命を脅かした。

 こんなもの、宣戦布告と同義だ。

 加えて。

 イシュタルの関心を集めてしまったばかりにリヴィラが壊滅し、多くの冒険者たちに怪我を負わせてしまった。

 中には救出や治療が間に合わず、天に還ってしまった者もいる。

 本人が知らぬ間にイシュタルとの縁が出来ていて、それが先日の騒動の発端となっている事実を抱えさせてしまうことを、ベルを囲んでいる者たちが忌避し、そして秘した。

 ベルの心を案じるが為。

 決してそれが最善の行動などではないと理解し、それでもベルと共に生きる人々がそうすることを選択したことも。

 それらを理解した上で、諸々込みでの、なるほどだ。

「しかし……どうなのかしらね」

 ふわりとした言葉を挟んだのは、理解も順応も早いリリに感心を示す、フレイヤ。

「どうって?」

「仮にだけれど、ゴライアスを強化したものがイシュタルの眷属全員にまで効果が届くものだとして。一切の犠牲を出さずにとはいかないでしょうけれど、それでも負けない。絶対に負けないと言い切れるわ。強靭な勇士(エインヘリヤル)たちならば」

「私もそう思う」

 迷わず頷くアストレアから少し遅れ、リリも深く頷いた。

 この辺りの数字を間に受けていいものか怪しい現状ではあるが、判明している限りという注釈の下で言うならば、イシュタル・ファミリアの最高戦力は、団長であるフリュネ・ジャミール。彼女のレベルは5。

 副団長であるタンムズと言う名の男娼は4。

 先日、ヘルメス・ファミリアの団長であるアスフィの腕を奪いかねん一撃を放ったアイシャ・ベルカは、昇格(ランクアップ)目前だろうと目されているが、それでもLv.3。

 団員数も多く、中にはイシュタルがギルドに報告していない団員の存在なんかもあるのかも知れないが、フリュネ以上の戦力が存在しているとはどうにも考え難い。

 不透明なものばかりである中でレベルという単純な数字を羅列することにどれほどの意味があるのかわからないが、それでも決して無視出来たものではない。

 神時代となった今。冒険者、延いては下界で戦う子供たちに求められているものは『質より量』ではなく、『量より質』。

 単純な話だ。搦手で行動不能にしてしまうでもなんでもいいが、とどのつまり、都市最強たるLv.7の冒険者、オッタルを封じなければイシュタルに勝ちはないのだ。

 そうでなくともフレイヤの眷属には、Lv.6にまで届いた強靭な勇士(エインヘリヤル)が多数在籍している。

 イシュタルの子供全員がレベルを一つ上げられるのだとしたら確かに驚異だろう。しかしそれだけでは、フレイヤの喉元に刃を突き付けるには届かない。

 二柱も一人も、等しい確信を胸に宿している。

「それに、私たちが厄介ごとに巻き込まれたとなったら、お節介な正義の娘たちも飛んで来てしまうでしょうし。頼んでもいないのにね」

 呆れたような、何処か突き放すような言葉の調子ながら、自分たちにまで世話を焼いてくれるのだろう娘たちの存在に触れたフレイヤの口元は、穏やかな曲線を描いている。

「余計なお世話って言われるでしょうけど、なんて言いながら飛び出していくことでしょうね」

 目に浮かぶようだと内心で思うリリの前で、アストレアの優しい笑みが花開く。

 フレイヤの息子たるベルを筆頭に、なんだかんだとフレイヤとその子供たちとの付き合いを密にしているアストレアの娘たちも、黙っていられないだろう。

 これはフレイヤだけの認識ではない。リリも、当然アストレアも。オラリオの冒険者や神々。ギルド職員や市民も。そして女神イシュタルとその子供たちも、共通して抱えている認識であることだろう。

「ここまで頭に入れていないイシュタルではない。故に、妥協のない戦力を整える以前に私たちへ直接的な攻撃を始めるのは慎重にならざるを得ないでしょう。搦手で何かやってくるにしても同様。対象に劇的な強化を施す以外の、私たちの派閥を潰すに足るだけの戦力を整えられるまでは」

 油断でも余裕でも何でもない単なる事実の羅列にアストレアもリリも内心では頷き、しかし油断に繋がりかねない言葉は発しなかった。

「とはいえ、油断も慢心も出来ない。イシュタルたちが闇派閥(イヴィルス)の残党と繋がっているのは間違いないのだし」

「っ……」

「ああ、ごめんなさいね。貴方には刺激の強い言葉だったわね」

「……ご存知だったのですね」

「ええ」

 とあるワードがフレイヤの口から飛び出した途端、瞬きの間ではあるが、見逃す方が難しい動揺を発露させたリリに、二柱の視線が集中する。

「ふぅ…………お気遣いありがとうございます。リリは大丈夫ですので、続きをお願いします」

 息を浅く吸い、深く吐いて、リリは顔を上げた。

 その横顔に、恐怖の色は殆ど見えない。

 あくまで、殆どである。

「……強くなったわね、リリ」

「強くなったかはわかりませんが……いつまでも怖がっていられません。そんなんじゃ、ベル様に置いて行かれてしまいますから」

 そっちの方がよっぽど怖いです。

 そう付け加え、リリが笑う。

 強がりの中に確かな芯を感じるそれは、決してハリボテの笑みなどではない。

「ふふ……」

 自身の子供たちと同時期に知り合った日から今日までに刻まれた、小さな少女の小さな足跡。その多くを見届けてきた女神は、自身の娘に向けるものと何ら変わらない笑顔で、少女の変化と成長に頬を綻ばせた。

「リリルカ・アーデ。先の情報に加えて、貴方に聞いて欲しいことがある。貴方を困らせる意図などないし、況してや責任を負わせるつもりなど微塵もない。それでも私たちは、ベルのこれからに関わってくるかもしれない情報を貴方に託したいと考えているの」

 リリの笑顔を見据えていたフレイヤが、表情を引き締めてリリの目を見据える。彼女の隣ではアストレアが、フレイヤの言葉全てに同調を示すよう小さく頷いている。

「聞いてもらえるかしら?」

「はい。リリで良ければ是非」

 確認など不要。

 そう伝えるかのような勢いの良さで、女神フレイヤの言葉に頷き返すリリ。

「だったら聞いてちょうだい」

 そんな彼女の姿に気を良くしたのか、決して明るい話ではないながら、フレイヤがリリに聞かせた言葉の全てが小気味の良いリズムを奏でていた。

 ややあって。

「ダンジョンと繋がる出入り口がバベル以外に……!?」

 これには、ベルに直接繋がる先の情報群よりも驚かされた。

 フレイヤとアストレアがリリに託したのは、バベルの地下以外に存在している、ダンジョンと地上とを繋ぐ出入り口が複数存在しているという情報。

 恐らく、その出入り口の多くがダイダロス通りに点在していること。

 先日発生した黄金のゴライアスの一件に於いて、女神イシュタルと眷属たちはその出入り口を駆使し、誰にも目撃されることなく十八階層に辿り着いたこと。

 その場所をイシュタルたちだけでなく、闇派閥(イヴィルス)の残党たちが利用しているのだろうこと。

 人造迷宮(クノッソス)の名を伏せ、情報の大枠だけではあるが、二柱はリリに託した。

「先日、アスフィの奮闘もあって、一箇所ではあるけれど場所は確認出来た。それ以降、細心の注意を払いつつヘルメスの子供たちがその場所を監視してくれているのだけど、誰の出入りも確認されていないそうなの」

「ヘルメス、延いては私たちに抑えられたと踏んで利用を避けているのでしょうね。どういう絡繰かはわからないけれどその出入り口を駆使すれば、少なくとも十八階層まで安全に行けることは間違いないでしょう。その他の出入り口に関しては消極的にだけれど調査中、と言った具合ね」

 妥当な所か。歓楽街とダイダロス通りは隣接している。地上の迷路とまで呼ばれるダイダロス通りをフラフラしていてイシュタルの眷属たちに身柄を抑えられ、イシュタルに魅了でもされようものなら二次被害三次被害は連鎖し、そして止まらないだろう。

 何事に於いても、強気に出るにしても時宜がある。況してや、周囲の人間を巻き込んでしまう可能性があるのならば尚更だ。その存在に目を向けずに猪突猛進など勇敢ではなく蛮勇ですらもない、ただの愚行。

 死にたがりならば勝手に死ねばいいが、生きたがりを手招きするような真似をしてはならないのだ。

「リリの知らない所にそんなものが……」

「確信こそあったけれど、私たちもつい先日まで存在を確認出来ていなかった。下界は本当に広いわね」

「神月祭は目と鼻の先だと言うのに、厄介事は増えていく一方ね」

「穏やかにその日を迎えられるといいのだけど」

「ええ。本当に」

「……あ、あの!」

 ふぅと息を吐く二柱の姿から情報の打ち止めの気配を感じたリリが、二柱の視線を一身に集めに掛かる。

「多くの情報、ありがとうございました。リリなりに整理し、何かお力になれることが発見出来ましたら報告に伺います」

「そこまで固く考えないで欲しいし無理もして欲しくないけれど、何かわかったらお願いね。頼りにしているわ、リリ」

「ありがとうございます…………それと、これだけは確かめさせてください。さっきのお話全て、ベル様に伝えていないのですよね?」

「ええ」

「なら……どうしてリリに?」

「貴方とベルの見立て通りならば、アポロンとイシュタルが裏で繋がっている可能性が極めて高い。となるとアポロンとその眷属たちも抜け道の存在を知っているかもしれないし、それらを利用することがあるかもしれない。もしもアポロンたちがあの子にちょっかいを出したとき時に、向こうがそれらを利用する可能性を知っている者があの子の身近にいてくれることは」

「そ、そういうことではなくて……その……」

「……ああ、そういうこと」

 納得がいっていなかったのか。それとも望む答えでなかったのか。

 女神フレイヤの言葉を遮るという蛮行を意識的に働いた下界の子供は、秘めておけない戸惑いを宿した瞳を二柱の間で揺らしている。

「信頼しているからよ」

 理屈ではなく、理由。

 そんなものを欲しがったリリの戸惑いを、フレイヤの言葉が静かに撫でた。

「え?」

「フレイヤも私も、リリのことを信頼しているの。リリがベルのお友達だからでも、ベルがリリを信頼しているからでもない。リリがリリだから信頼しているの。ね?」

「ええ」

 頷き合った美しい女神と女神の穏やかな眼差しが、却ってリリの戸惑いを加速させていく。

「貴方は今日までベルを支えてくれた。これからだって共に歩んでくれる。そうでしょう?」

「そうありたいと、リリなりに精進を重ねています……」

「そう言ってくれる貴方だから、ね?」

「これからもあの子のこと、よろしくね」

「頼りにしているわ。リリ」

「…………ま……いえ……ありがとうございます……頑張ります……」

 任せてください。

 そんな言葉が飛び出しそうになるも、理性が急制動。ありきたりで、どうにも頼りない言葉へと形が変わってしまった。

「ダメね」

「へ?」

「そんなんじゃ全然ダメ」

「だ、ダメとは……?」

「これもいい機会ね。リリルカ・アーデ」

「は、はいっ!」

「以前から、貴方に言いたいことがあったの」

 やおらに長椅子から腰を浮かせたフレイヤがリリの前に立つ。超常の美しさに見下ろされて一気に振幅が大きくなる鼓動を制御出来ず、この場から逃げ出したい気持ちにさえリリはなってしまっている。

「背筋を伸ばしなさい」

「へぁ!?」

 膝を曲げたフレイヤの左手が、リリの背中を下から上へと撫でて走った。その感触と言葉に驚きながら、言われるがままに背筋を全力で伸ばす。

「胸を張って顎を引くの。もっと視線を高く」

「あ、あのあのあのっ……!?」

 リリの顎先にそっと触れたフレイヤの右手が、大混乱の真ん中にあるリリの目線を平行より少し上へ無理矢理持って行った。

「そのまま動かない」

「は、はいっ!」

 魅了の傀儡に堕ちてしまったかのよう、フレイヤの言葉に突き動かされたリリがぴたりと動きを止める。ガチガチに緊張してしまっているリリが困惑し倒す前で、アストレアは変わらず腰を下ろしたまま、二人の姿に微笑みを向けている。

「どうにも様にならないわね」

「す、すいません……」

 はっきりとしたフレイヤの物言いにしょんぼりなリリが、視線を下げてしまう。

「それをやめなさい」

 即座に飛んで来るのは、先よりも強まった語気を纏うフレイヤの言葉。

「そ、それ?」

「下を向くのをやめなさいと言っているの」

「!」

 弾かれたように視線を高くし顎を引く。まだ手助けが必要と見ているのか、フレイヤの左手てはリリの背中に添えられたままだ。

「わざわざ隅を歩こうとするのをやめなさい。己を卑下するのをやめなさい。貴方はいつもそう」

「い、いつもとは」

「必要ないでしょう、そんなこと。かつての居場所を離れ新たな居場所で生きる、今の貴方には」

 リリの疑問をぶった斬ったフレイヤの手が、諭すように。これまでの日々を労うように。

 可愛くして仕方がない自分の息子に何度もしてきたように、リリの背中を撫でた。

「過去を忘れるのではなく糧とし、前を、上を向き、陽の下を堂々と歩く。そういう自分を認め、赦し、愛し、逞しく生きていきなさい」

 美の女神の微笑みが至近距離からリリを見つめている。魅了されてしまっても止むなしな危険な距離感だ。

 確かに、リリは惑っている。

 しかしそれは、フレイヤの美しさだけに起因しているものではない。絶対に違う。

 フレイヤの魅力の沼に浸かりつつある。

 自分の目頭が微かに熱を帯びている理由がそれだけだと、どうしてもリリには思えないのだ。

「私たちに遠慮し倒して都合のいいことばかり口にする。そんな貴方ではないでしょう。遠慮なく堂々と、私たちと向き合ってくれる貴方と語らいたい。それが出来る貴方だと感じているから信頼を置くことが出来るし、信頼したいと思えるの」

 リリから離れ、アストレアの隣に腰を下ろすフレイヤ。彼女の何気ない仕草の一つ一つが堪らなく蠱惑的に映るのに、そういう昂り方は全くしなかった。

「貴方のことだから過分な評価を受けていると今も感じているのでしょうけれど、将来性も込みでと思っていて頂戴」

 過分な評価は本当にその通りだと思ってしまうもので、背筋も目線もフレイヤの注文のままながら、表情だけが微かに重くなった。

「誇りなさい。信頼に値するだけの器なのだと神々に示した、他ならぬ貴方自身を」

「貴方を頼りにしている。私たちのこの言葉は何も嘘ではないと覚えておいて欲しいわ」

 二柱の言葉に何も返せず固まるという無様を晒すリリ。しかしフレイヤもアストレアも、穏やかに微笑むばかりだった。

「貴方の魂はまだまだ輝ける。そんな貴方が小さく纏まろうとしているなんて面白くないわ」

 腰を下ろしたまま軽く前傾になり、右手をリリに向けて伸ばすフレイヤ。

「強くなりなさい」

 彼女の右手の人差し指が、リリの左胸に。

「今よりもっともっと、いい女になりなさい」

 内側に心臓を隠している表面に触れた。

「でなければ、ベルはあげられないわよ?」

「んなっ!?」

 ドキーン! と暴れるリリの心臓。指先に伝わる露骨な変調にフレイヤは瞳を細め、豊かな曲線を口元に描いた。

「ねえ、アストレア?」

「前向きで、素敵な女性との未来を掴んで欲しいという気持ちはあるわね」

「はっきり言うけれど、今の貴方にはそういう気持ちにはなれないわね」

「う、うぐぅ……」

「より一層自分磨きに奔走することね。冒険者としても、女としても。いいかしら?」

「はい……」

「よろしい」

「改めて今日のこと、伝えてくれてありがとう。何かあったら遠慮なく相談させてもらうから、その時はよろしくね」

「これからも頼りにしているわね」

「……はいっ!」

 間違っても任せてくれと言えないリリに出来たのは、リリに発揮出来る最大音の肯定を口にすることだけ。

「ふふ……」

「悪くないわね」

 小さな子供の大きな笑顔を見る二柱の女神もまた、満足そうに頬を緩めるのであった。

 しかし。

 一つ新たな誓いを立てた少女の笑顔は、間も無く穢されることとなる。

 約一時間後。とある、古びた教会の中。

「あーあ……これだから冒険者は嫌いでっ……!」

 掻き消された語尾の代わりに、骨が割れるいやな音を、小さな少女の頬が奏でた。

 

* * *

 

「今日は客入りが控えめで楽チンだニャー。このまま営業終了間違いなしだニャ!」

「このままの感じならミャーはいなくてもヨユーだニャ。ちょっと風呂入ってくるニャ!」

「神様たちの言うふらぐっぽいのやめてよそこの馬鹿猫二匹。しかも雑だし」

「とか言ってるうちに冒険者の団体さんか厄介事がどどーんと舞い込んでくる気がするなー」

「やけに具体的なのやめてお姉ちゃん」

 アーニャ。クロエ。ルノア。シル。ベル。

 豊穣の女主人の裏手から聞こえる仕事の片手間の雑談からは、平時のような切羽詰まったような感はなく、実に穏やかなものであった。

 リリと別れ、ダイダロス通り内にある孤児院の子供たちととことん戯れたベルは、夕方の営業前から豊穣の女主人に顔を出した。 

 今夜の豊穣の女主人の客入りは控えめ。と言っても、毎時毎晩満席が当たり前の店にしては控えめというだけなので、仕事量そのものはしっかりイカれている。現状を控えめだと感じられる従業員たちが鍛え上げられ過ぎていると称賛すべきなのだろう。

「あ。そーいやさっき客の誰かが言ってた。ここから割と近くで冒険者同士のいざこざがあったんだってさ」

「まーた抗争かニャあ」

「冒険者ってのはほーんとごちゃごちゃした騒動が好きだニャあ」

「オラリオで冒険者が幅利かせるのは今更なんとも思わないけど、冒険者じゃない私らにまで迷惑掛けられるのは勘弁だなあ」

「はい……肝に銘じておきます……」

「いやいや! ベルに言ったんじゃないから!」

「あールノアが私のベルをいじめたー」

「だから違うってば!」

「しれっと私のベルとか言っちゃうシルヤバいニャ」

「客の前でそーゆことへーきで言っちゃうからシル人気が目に見えて落ちてるのニャ! やっぱりこれからはミャーの時代ニャ!」

「看板娘って肩書きに命懸けすぎニャ馬鹿猫」

「皿割る注文間違える厄介働いてる客と間違えて無害な客殴るとかやるヤツが看板娘とかあるわけないだろ馬鹿猫」

「やっぱりアーニャはお馬鹿な猫さんなんだねー」

「ニャにをーっ!?」

 平時ならばこんな雑談をしている暇もないし、そもそもミアの怒号が許してくれやしないのだが、今日は一度も咎められていない。

 売上的には何もよろしくないのだろうが、平和と言えば平和と言える日である。

 その平和の片隅で。

「はは……」

 大体五年の付き合いになった愉快な人たちがギャーギャー言い合う様を眺めて、慣れた手付きで野菜の皮を剥きながら、ベルは笑っていた。

「ニャーにを笑ってるニャベル! ベルに笑われるのはニャんか腹立つニャ!」

「あー違う違う。そういうのじゃないの」

「じゃあどういうのニャ!?」

「楽しくて」

「楽しいー?」

「アーニャのお馬鹿発言聞くのが?」

「ニャにおぅ!?」

「それも含めて、みんなとここで働くことが楽しいの」

 シャーシャー喧しいアーニャに詰め寄られてものほほんとしたまま、ベルは笑う。

「このちょーぶらっく職場で働くことが?」

「うん。最近はここへ来られる機会が減ってきちゃったから余計にそう感じるのかも」

「ヤバいニャ! 何かと忙し過ぎる所為でベルが被虐趣味に」

「そういうお話はベルの前でやめてくれるかなークロエー?」

「ふニャ!? し、シルがヤベー顔して」

「えいっ」

「ニャふぅ!?」

「ベルはやっぱり変なヤツだニャ。こんなゲキヤバ職場の何が楽しいのニャー?」

「みんなと一緒に仕事が出来ることも、常連さんたちが笑い掛けてくれることも、ミアさんに料理の手解きをしてもらえることも、お姉ちゃんの先生をやることも、もうとにかく全部が楽しいんだ」

 シルの手でかわいそうな目に遭っているクロエは完全スルーで、ベルなりの楽しいを、心を許している仲間たちと共有する。

「それに、ここに来ると、自分が安定していくのがわかるんだ」

「安定ってなんニャ?」

 自分より歳上のお姉さんであるアーニャが、自分より幼く見られても止むなしだろう愛らしさで小首を傾げる姿に小さな笑いを溢し、ベルは言葉を続ける。

「ダンジョンに行った後とか、訓練の後とかがそうかな。いい結果が出なくて落ち込んでる時とか、いい結果が出て調子付いてる時とかにここに来るとね、その二つのちょうど真ん中から少し上くらいの、あー楽しいなーって思える所で気持ちが整ってくれる、って感じなんだ」

「抽象的な話だニャあ」

「かもね。でも本当にそうなの。だから調子が狂っちゃうんだ。ここへ来ない日が長くなると。楽しいことが減っちゃうから」

「私にも会えないもんねー?」

「まあ、うん」

「わ! ねえ聞いたみんな!? いつも私につんでれなベルがとっても素直に」

「僕が見てない隙にお姉ちゃんがトンデモ料理でみんなを困らせたりしてるんじゃないかって思うと居ても立っても居られないからね」

「やっぱりつんでれだった!」

「そもそもつんでれってこういうことじゃニャくニャいかニャ?」

「本当に楽しいことしかないよ。この場所にいられることは。大変なのは確かにそうなんだけど、みんなと働くのが楽しい。この気持ちは、みんなと出会ってからずっと変わってないよ」

「そうなんだ……」

「ふーん……」

「やっぱりベルは変なヤツだニャ!」

「そっかそっかー。このお店のことも私たちのことも、ベルは大好きなんだねーっ」

「ちょっと言葉が大きい気がするけど……うん。そうだね」

「つんでれだったり素直だったりするベル可愛いーっ!」

「野菜触ってる最中に飛び付かないの」

 クロエ、ルノアが言葉を選びきれていない横で、アーニャとシルはハイテンション。特にシルは大声の勢いそのままベルの腕にしがみ付き、幸せそうに頬を緩めている。特段驚きもしないベルは、無理矢理にシルを引き剥がす素振りも見せず仕事を続けている。

「つーか仕事中になんて話をしてんだ私らは……まあいいや。いい機会だから聞かせて欲しいんだけど」

 相変わらずなイチャつきっぷりを見せる血の繋がらない姉弟の様子に小さな溜息を落としたルノアが、曖昧な微笑を引き締め、ベルの瞳を覗き込んだ。

「ダンジョンでひゅーをして、これからもっとファミリアの活動とかで忙しくなる。この前みたいにお友達とダンジョンに潜る機会も増えてくと思う。それでもベルは、ここにいるの?」

「うん。やめない。絶対やめないよ。理由は……言わなくてもわかってくれると嬉しいな」

 少し照れ臭そうにベルが微笑むと、至近距離からその横顔を見上げているシルが大きく大きく破顔し、より密着を強めた。

「とーぜんニャ! おミャーはミャーの子分だニャ! 勝手にやめるなんて許さないニャ!」

 言葉の強さとは裏腹に、幼い少女もかくやな明るく大きな笑顔をアーニャが見せる。

「好き好んでこんな職場にいたがるヤツなんてベルくらいニャ……」

 呆れたような響きの言葉の遥か下方。くーるびゅーてぃーを自称しているクロエの尻尾はくーるびゅーてぃーと言うよりもきゅーとな感じに、大きく大きく揺れていた。

「……そ」

 迷いのない言葉を受けたルノアは、言葉少なにベルから視線を逸らしてしまった。

「そっか……」

 誰もいない空間に目を向けるその横顔が、微かに赤らんでいる。

「ほんとに可愛いなあ……」

 その横顔を唯一人だけ見逃さなかったのは、シル。

「何か言った?」

「なんでもなーいっ!」

 独り言の切れ端をベルに拾われたシルは、それでも朗らかに笑うばかりだった。

「はいはい! 雑談終わり! お姉ちゃんもみんなもちゃんと仕事する! この前みたいに連帯責任で全員拳骨とか勘弁だからね!」

「私とベルはちゃんと仕事してたのにねー」

「あの時誰よりも仕事サボってたのはお姉ちゃんでしょ」

「そーだっけ? えへへー」

「まったくもう……よいしょ」

 せくはらされたーだのなんだと喚くシルを慣れた手付きで引き剥がし、喧しい雑談が絶対聞こえていただろうに咎めないでいてくれたミアの元へと足を向けるベル。

 彼の横顔にもまた、シルたちにも負けない、いい具合の笑顔が浮かんでいる。

「ベル」

 さてやるぞと意気込むベルの足を、凛と澄んだ声音が引き留めた。

「あれ?」

 語らっていた誰の声でもないと即座に理解して振り返ったベルの紅い瞳に、金色の長髪を揺らすエルフの姿が描き出された。

「リューさんだ!」

 さらりと裏側に現れたとて誰からも咎められることもない、ベルと同派閥の冒険者。

「お邪魔します」

 ベルのクセ強な姉の一人。戦闘衣(バトルクロス)に身を包んだリュー・リオンが、そこにいた。

「リオンさん! お久し振りです!」

「お久し振りですフローヴァさん。失礼ながら、裏口から入らせて頂きました」

「アストレア家の皆さんならおーるおっけーです! それで、どうかされたのですか? お一人でいらっしゃるなんてとっても珍しいですよね?」

 どうしたのと尋ねたかったベルの代わりにシルが話を進める。

「……ベル」

 途端、気持ちの良い返事をくれたシルに微笑みを向けていたはずのリューの表情が、陰鬱一色に染まってしまった。

「落ち着いて聞きなさい」

「うん……?」

 ふぅと吐いてすーっと吸って。はっと小さく吐き出し、息を止め。

「リリルカ・アーデさんが、襲われました」

 リューの様子に眉を顰めているベルに真っ直ぐな眼差しを向け、告げた。

「…………」

 ド忘れでもしてしまったのか。さっきまで出来ていた笑うという行為を、今のベルは全く出来ていない。

「その名前って確か……」

「ベルと一緒にここにくる小人族(パルゥム)の名前ニャ!」

「この前の階層主の騒動の時も一緒にいたっていう子ニャ?」

「ベル……」

 全員の声を聞きながら、ベルは何も言わず、ただリューの瞳を見つめ返していた。

「ヘスティア・ファミリアの本拠(ホーム)に侵入した者による犯行だそうです。騒ぎを聞き付けたノインとアスタが駆け付けた時には犯人の姿はなく、意識を失っているアーデさんが残されているだけでした。直ぐに我々の本拠(ホーム)に運び込み、マリューらを中心に癒せるだけ癒やしました。命に別状はないとのことですがまだ意識は回復していないそうです。それと……」

「それと、なんです?」

 今度もシルが、何も言わないベルの代わりに話を進めようと促す。その最中、ベルの様子を盗み見てみる。

「…………」

 横目で見上げた弟の表情には、どんな色も浮かんでいなかった。

「傷は癒えますが……殴打された痣が頬に残ってしまうかもしれないと……マリューが……」

 俯いたリューの視線の先に、ぎゅぎゅっといやな音を立てている何かがある。

 リュー自身の、二つの拳だった。

「なんだか穏やかじゃない話をしているじゃないか」

 重くなっていく雰囲気を切り裂くような間の良さで、派閥間での荒事になど今更驚くでもないだろう店主、ミアが裏方に顔を見せた。

 彼女の眼差しはリューではなく、相変わらず何も言わないベルだけを、真っ直ぐに見据えている。

「で、どうすんだい?」

 間髪を置かずに放たれた言葉が、ベルの胸だけを突き刺す。

 動け。今直ぐに。

 行動を促す言葉を刺されたベルの動きは、ミアでも合格点を与えてくれるかもしれない程度には迅速だった。

「ミアさんごめんなさい。今日は上がらせてもらいます」

 従業員のみんなとお揃いの若葉色の前掛けの紐を解きながら、ベルは告げた。

「好きにしな」

 しっかりと自分を見ながら告げられた言葉を受けたミアは、口の端を片方だけ吊り上げ、急ぎ足で店内へと戻って行った。その忙しない背中に頭を下げたばかりの紅い瞳が、どうしていいかわからないでいるのか、その様を眺めるばかりのルノアを捕まえた。

「ごめんルノアさん。アイズさんたちが今夜来る予定だったと思うんだけど、いつものヤツ、今夜はごめんなさいって謝っておいてくれないかな?」

「え? あ、あーうん、わかった……」

「待ちなさいベル」

 困惑と動揺を浮かべながら友人への言伝を託されたルノアから遅れ、様子のおかしい弟の名をリューが呼ぶ。

「そうだ、アーニャさんに報告したいことがあったんだけどまた今度でお願い。ごめんね」

「ふニャ!? ぜ、ぜんぜんへーきニャ……」

「何をするつもりですか?」

 リューの声が聞こえているだろうに、ベルは耳を貸さない。

「クロエさんもごめん。埋め合わせは今度するから」

「お、おうだニャ……」

「まだ話は終わっていません。聞きなさい」

 一切の言葉に耳を貸さないベルよりもリューの様子を気にしながら頷くクロエ。さっきまで踊るように揺れていた彼女の尻尾は、しょぼんと下を向いてしまっている。

「ごめんねお姉ちゃん。今日からしばらくお姉ちゃんの料理の手伝いは」

「私のことはいいの。ベルとリリさんの問題が解決したら、ね?」

「ありがとう」 

「聞きなさい!」

 先回りしてくれるシルの心配りに感謝を告げながら、綺麗に畳んだ前掛けをシルの両手に任せる。

「さっきあんなことを言ったばかりだけど、暫くここには来られなくなると思う。だから」

「聞きなさいと言っている!」

「犯人は!」

 怒りではなく心配と不安に背を蹴られたリューがいよいよとベルの両肩を掴み、いつの間にか自分より大きくなっていた身体を壁に押し付けると、店内にまで届いていそうなベルの叫び声が絞り出された。

「アポロン・ファミリアの人間。そうだよね?」

 リューの瞳を睨み返す二つの瞳に、今日までの日々で自分たちに見せたことのない危うさと悲嘆が満ちている。

「……ほとんど意識がない中アーデさんは、アポロン・ファミリアと、ノインたちに伝えていたそうです……でもどうしてわかったのですか?」

 目を背けたくなるような哀しい輝きからそれでも逃げず、リューは向かい合った。

「今日の昼、リリといる時に顔を合わせた。アポロン様から、アポロン・ファミリアに改宗(コンバージョン)しないかって僕が誘われて……断った」

「そんなことが……」

「僕が誘いを断ったから? それだけでこんなことを……僕じゃなくてリリに……?」

 ふざけんな。

 とても小さく、しかしとても鮮烈なインパクトを残すベルらしくない言葉が、長く伸びたリューの耳を撫でる。

「…………前にリリが教えてくれたんだ」

 リューの拘束を振り払う為か、リューの腕に添えられたベルの両腕から伝わる力は、酷く弱々しい。

「小さい頃にリリのご両親が亡くなってからずっと、同じ派閥の冒険者たちに顎で使われて、自由なんてちっともなくて、毎日のように暴力を振るわれてきたって。生きていて楽しいことなんて一つもなくて、少しいいことがあっても直ぐに踏み躙られて、自分の居場所なんてどこにも作れなかったって」

 この時代、この都市ならば、それなりにありふれているのだろう不幸話を語る身体から伸びている二本の腕がリューの両腕を解放し、ダラリと垂れ下がってしまった。

「リリ言ってたよ……冒険者なんて信用できない。冒険者なんて……大嫌いだって……」

「ええ……言っていましたね……」

「でも、ヘスティア様やみんなと出会ってリリは変わった。僕やヴェルフやみんなのことを……冒険者のことを……友達だって。仲間だって、そう言ってくれた。なのに……」

「…………」

「それなのにまた……冒険者がリリを傷付けた……!」

 不快感を伴う、硬質な物同士が擦れ合う嫌な音が、強く強く歯を食い縛ったベルの口元から聞こえた。

「冒険者(ぼく)が巻き込んで! また僕(ぼうけんしゃ)が! リリを傷付けた! リリは何も悪くないのにっ!」

「ベル……」

 憂いを帯びたベルの瞳が薄くて熱い透明なベールで覆われている。至近距離のリューだけでなく全員がそれに気付き、言葉に迷い、何も言えず。

「僕が甘かった……何があっても僕に来るって、そう思ってた……」

「落ち着きましょう、ベル」

「何も出来なかった……助けてあげられなかった……リリはいつだって支えて……助けてくれるのに……」

「自分を責めてばかりではいけない」

「リリのことを傷付けるばっかりで……僕はリリに……何も返せてない……!」

「そんなことはありません」

「リューさんにそんなこと」

「聞きなさい!」

「わかっ……!?」

 リューに噛み付こうと動いていた口が、半開きのまま停止。

「聞きなさい」

 無様を晒すベルの視界が、初めて出会った時よりもずっと美しくなった姉の姿で満たされた。

 リューの額が、ベルの額に触れている。

 リューの両手が、ベルの頬を左右から挟んでいる。

 リューの吐息が、ベルの口元を撫で、溶けていく。

「どうか聞いてください……」

 不慣れなことをしている自覚か、エルフという種族の特性か。将又、彼女自身の性格が故なのか。それとも全てに起因しているのか。

 弟を諭そうと懸命な中にあって、肌と肌とを触れ合わせているリューの耳の先端が、極東の春を鮮やかに飾る桜に似た色を帯びている。

「怒るな、などと言えません」

 突飛なことを始めた二人の姿に何故か頬を赤く染めている者が幾人かいる真ん中、エルフの優しい声音が全員の耳を撫でる。

「怒るのもいい。嘆くのもいい。悲しむのもいい。それが貴方に必要なことであるのなら。ただ今は、アーデさんに必要なことを一番に出来ませんか?」

「リリに……」

「今のアーデさんには、ベルが必要です」

 よそ見を認めない距離。大きく開けた眼の真ん中。何か眩しいもの見ているかのよう、微かに瞳を震わせるリューの姿が、こちらも不安定に揺れているベルの瞳を埋め付くす。

「こんな時だからこそ『いつもの』ベルがそばにいてあげなくては」

「いつもの……僕……」

「だから、そんな怖い顔をするのはここだけにしましょう?」

「怖い顔……僕が……?」

「ベルがそんな顔をしていては、アーデさんが悲しみます」

 怒りと後悔が絞り出した雫を意地でも瞼の下へと落とさないでいたベルの眼光が、微かに鈍くなる。

「アーデさんと知り合って間もない頃。貴方が彼女を泣かせてしまった雨の夜。アストレア様から頂いた言葉、覚えていますね?」

「……うん」

 誰よりも、リリの心に寄り添ってあげなさい。

 涙の轍を残して走り去ってしまったリリを追い掛けようとするベルの心に刻まれた、母の言葉だ。

 はい。

 迷わずそう答えたことを、当事者であるベルはもちろん同席していたリューも覚えている。忘れるわけがない。

「私たちは知っています。貴方になら出来ると、経験則から理解しているのです」

「何を?」

「貴方が、誰かの心を守ることが出来ること」

「…………」

「ずっと貴方に守られてきた私が言うのです。間違いありません」

 俯いてばかりだった弟が目線を高くすると、得意気に微笑む姉と視線が絡み、不器用に繋がった。

「今こそ、その時ではないのですか?」

 自虐とは全くの別ベクトルで、過分な評価だと思ってしまう。どうしてもそう思わずにいられない。

 それでも、リリが辛い時だからこそ。

 リリが立ち上がる為にも。

 自分がどうこうだなんて言っている場合じゃないだろう。

「……僕がオラリオに来たばかりの頃。こんな風にして、リューさんが慰めてくれたことがあったね」

「訓練で輝夜とライラに貴方がとことんまで弄ばれた時でしたね」

 それは、二人だけお揃いの、他の誰も知らない思い出。

 当時のベルは、悔し涙に溺れていた。

 当時のリューはどうにかしてあげる術がわからず、衝動的にベルと一つの影を作った。

 今よりずっと照れ倒しながら行った今と変わらぬ行為は、それでもベルの苛立ちを取り払い、安らぎを与えた。

 五年を経て、当時の経験が活きている。

 悔し涙を後回しに。

 羞恥を後回しに。

 互いの心のより近い所へ寄り添うことが、今の二人ならば叶う。

「はぁ…………頭が冷えたよ。ありがとう」

「もう大丈夫?」

 彼女らしからぬ柔らかさとトーンを纏う、心に直接触れてくれる姉の言葉を受けて、額と額を合わせたままほんの少し、首を左右に振った。

「ううん。だからお願い、いい?」

「聞きましょう」

「目の覚めるヤツ、お願いします」

「……では……」

 丸めていた上体をリューが起こし、二人の額が離れた。リュー以外の何かも見えるようになったベルの顔は、来る何かに備えてか、ぐっと歯を食いしばっている。

「ふっ!」

 細く鋭い、気合いの乗りが伝ってくる音がリューの口元で炸裂。ほぼ同時に。

 ごちんっ!

 周囲で聞いている者でさえ顔を顰めてしまうような鈍い激突音が、ベルとリューの間で炸裂した。

「いっっっっっっっだぁぁぁあいっ!?」

 途端に響く、思春期男子のみっともない悲鳴。

「痛い痛い痛いっ! 力加減おかしい! 血! 血出てない!? 絶対頭蓋骨に罅入ったよこれぇ!」

「お、おかしくなどありません! 罅も入っていませんし血も出ていません! 適正に行いました!」

「適正の基準壊れてるよ! っていうかリューさんの頭が硬過ぎる! 岩か何かで出来てるんじゃないの!? 頭が硬いって輝夜さんたちが言ってる理由がよくわかった!」

「輝夜たちが言っているのはそういう意味ではないでしょう!?」

「そんなだから頭でっかちとかダンジョン最下層にありそうな鉱石みたいな頭のくせに中身だけ化石とか言われちゃうの!」

「私の話を聞きなさい!」

 涙目涙声のベルは真っ赤になっている額を抑えながら。痛みは皆無なれど、羞恥にやられたリューは真っ赤に染まった頬を隠さず。

 喚いて喚きあって、いつも通りの二人を取り戻していく。

「す、すげー音だったニャ……」

「今ので手抜きしてたってマジ? ルノアよりやべーちょーぱんカマす女がこんな身近にいるとは思わなかったニャ……!」

「ミア母さんいる時点で私の立つ瀬なんてないでしょ」

「そもそも立つ瀬を語るとこじゃないと思うけどなー」

 店の名物娘たちからも、ベルたちに押し付けられ纏ってしまった陰鬱な空気を少しずつ削ぎ落としていく。

「ん、んんっ! それで……どうですか?」

「痛いけど……うん。もう平気」

 赤く、なんなら少し腫れている額を右手で摩る笑顔は、リューもシルたちも連日触れている、幾つになっても幼さが抜けない、共に生きる者たちがよく知っているものだった。

「なら、改めて聞きなさい」

「はい」

 所在なさげにぶらりと垂れ下がっているベルの左手の小指を、リューの右手の親指と小指が、そっと包んだ。

「貴方がしなければならないのは、誰かの代わりに償うことではない」

「誰かの代わりに復讐を遂げることでもない」

「失ってしまったものを。救えなかったものを。託された想いを。全てを胸に」

「今の貴方を支えてくれている者と支え合い、共に懸命に生き、未来の為に共に戦うことです」

「誰かの責任を肩代わりして、その清算の為だけに人生を費やしてしまう。そんなの、絶対に間違っています」

「これまでもこれからも、貴方と共に生きる者たちは、貴方のそんな姿を望んでいません」

「それをどうか……忘れないで」

「……はい」

 抱えたばかりの苦しみも。数年前の聖なる夜から抱えた懊悩も。ベルの心を重くしてしまっているもの全てを纏めて凪でるような言葉を、ベルは素直に聞き入れ、頷いた。

「よろしい」

 その姿言葉眼差しに嘘も無理も不納得も存在していないことを認めたリューもまた、小さく頷いた。

「……よし! 色々ありがとうリューさん。帰ろっか?」

「貴方だけで帰ってください。立ち寄らねばならない場所がありますので」

「そっか。じゃあ後でね。えと……なんかごめんね、みんな。また今度顔を見せるから! じゃあお先に! お疲れ様でした!」

 リューと店の娘たち一人一人と真っ直ぐに視線をぶつけたベルは、小走りで裏口から飛び出して行こうとして。

「ベル!」

 シルの一声に、足を止められた。

「うん?」

「無茶しないでね?」

「…………ちょっと約束出来ないかも」

 シルが相手だと特にやんちゃな一面を表に出す傾向が強いベルは、にひっと白い歯を見せて笑い、いよいよ全力疾走で本拠(ホーム)への家路に就いた。

「まったく……馬鹿な子なんだから……」

「あんなに怒っているあの子の顔を初めてみました」

 既にベルの背中も見えない裏口に心配そうな眼差しを向け続けているシルの隣に、リューが立った。

「リオンさん……」

「あの子はもう止まりません。理性に従いながら、最大限に暴走するでしょう」

 いつかの私を見ているようだ。

 自虐的な呟きが遅れて聞こえた。その呟きを拾って微笑むのは、自虐を吐露したリュー本人だけであった。

「ごめん質問、いい?」

「どうぞ、ファウストさん」

「立ち寄る所がどうとか言ってたけど……アポロン・ファミリアに行くとか言わないよね?」

「まさか。フレイヤ様の所です」

「ふ、フレイヤ様……?」

 ルノアの質問への答えに登場した神物の名に微かな動揺を走らせたのは、アーニャ。

「さっきのあの子に伝えるのは危険と判断して伝えませんでしたが……アポロン・ファミリアより、戦争遊戯(ウォーゲーム)の打診がヘスティア・ファミリアにあったそうです」

「は、はぁ!?」

「ヘスティア様のとこってその小人族(パルゥム)一人しか団員がいないはずニャ!?」

「めちゃくちゃだ! 見せ物にも興行にもならないよそんなの!?」

「あの子の性格を見抜いた上でのことでしょう。何らかの形でベルを戦争遊戯(ウォーゲーム)の真ん中に連れ出して」

「アポロン様たちが勝ったらベルを引き抜く。とかでしょうか?」

「恐らくは」

 ルノアとクロエが驚きと怒りを発露する側でアーニャが背を丸めている中、シルとリューが予測される未来の答え合わせをした。

「だから今のうちに、あの子ならこうするだろうなって所を先回りしておこうかと」

「それって?」

「これは、自分のケンカです。だからフレイヤ様たちは見ていてください。と、フレイヤ様やあの子によくしてくれているフレイヤ様の眷属たちに報告も兼ねて伝えに行こうと」

「言いそうですね、今のあの子なら」

 大体同期間、ベルを支え続けてきたリューとシルは、先の答えも今度の答えも、お揃いのものだった。

「そーゆーの言いそうってのは納得ニャ」

「そういうキャラじゃないでしょ、みたいなこと言っちゃいそうなのも含めてね」

「ベル……」

「ですので、私はこれで。色々とご迷惑を掛けることになり申し訳ございません」

「いいんですいいんです。だから頭なんて下げないでください、リオンさん」

「ありがとう、フローヴァさん…………いえ。シル」

「え?」

「クロエ」

「ふニャ?」

「アーニャ」

「ニャ……?」

「ルノア」

「う、うん?」

 敬称ではなく、いきなりそれぞれの名を呼ばれたことに驚く一向。唯一アーニャだけは心ここに在らずな様子だが、それに気付きながらリューは、話を続ける。

「この場所は、あの子のもう一つの家なのです。

あの子にとってこの店と貴方たちは、それだけ大きな存在なのです。あの子が大切にしている貴方たちは、私にとっても同様なのです。だから……」

「是非そのように! その方が嬉しいです!」

「ま、なんニャかんニャとおミャーともそこそこな付き合いニャし? 好きにしたらいーニャ」

「ファウストさんとか呼ばれるの擽ったかったしこっちの方がいいわ。その代わり私らもそっちのことリューって呼ぶから。いいよね?」

「勿論です」

「アーニャもそれでいいよね?」

「いいニャ……」

「……ありがとう」

 唯一人暗い顔をしているアーニャがシルに促されて頷く様を見たリューは、背筋を正し、一歩前に出た。

「シル。クロエ。アーニャ。ルノア。ベルはまだ何かと至らない子ですが……私たちと共に支えてあげてください。どうかよろしくお願いします」

「任せてください!」

「ま、出来ることだけニャら」

「わかったニャ……」

「要するにいつも通りでいいってことね。それで、リオ……リュー。あんたはさ、どうするつもりなの?」

「どうとは?」

「戦争遊戯(ウォーゲーム)が本当に開催されるとなったら、アストレア・ファミリアは真っ先に弾き出されるはずでしょ」

「そーゆールールを作るに決まってるニャ。そうニャったら公的にベルを助けてやることは出来ニャくなるニャ」

 流石は『黒拳』と『黒猫』。オラリオでも名を馳せた賞金稼ぎなだけはある。冒険者ではなくとも、状況も展望もしっかり見えている。

 そんなことを言おうかと思ったのだが、既に賞金稼ぎを廃業している二人だ。それは違うと軌道修正。

「必要なこと、してあげたいと思えたこと。我々に出来ることを出来る限り。それだけです」

「要するにいつも通りってことだね、リュー」

「ええ」

 呼称も言葉使いも早速適応しているシルの言葉を受けて。

「末っ子のフォローをするのはいつだって、姉(わたし)たちの務めですので」

 家族たちに散々フォローをれてきた元末っ子は、現末っ子と偶々血が繋がっていないだけの家族たちに、翳りのない微笑みを見せた。

 

* * *

 

 星屑の庭の一室。

「リリ……」

 室内に唯一備えられている、特段大きくもない寝台がやけに大きく見えるのは、寝台を独り占めしている少女の背丈に依る所なのだろう。

「ここに運び込んでからまだ一度も目を覚ましていないの」

「そうですか……」

 ただいまもおかえりもなし。平静を乱していないアストレアの言葉を横顔で受けながら、寝台の前に立つ。

 全身包帯でぐるぐる巻き、なんてことはない。一目でわかる外傷などほとんど見えないけれど。

「っ……!」

 リューから聞いていた通り。リリの左頬には、血の色を忘れてしまったかのような、大きな青色の痣のようなものが見えた。

「ふーっ……!」

 一瞬で湧き上がった、体内に留めておくなど不可能な昂りに呑まれそうになった自分を認め、大きく息を吐く。まだまだ平常運転には遠いけれど、少しだけ視界がクリアになった。

「……ただいま戻りました」

「ええ。おかえりなさい、ベル」

 順序を間違えていたと気付き、アストレアとその場にいる全員に向けて帰還を報告。

 リュー以外全員のアストレアの娘と、報せを受けてやって来たのだろうヘスティアとヴェルフ等を代表しアストレアが返礼をし、直ぐに話の軌道を修正する。

「リューとは会えた?」

「お店で。リリが襲われたってことだけ聞きました。他に何かありますか?」

「幾つか。リリとヘスティアが暮らしているあの教会は……全壊してしまったわ……」

「そうですか」

「ベル……」

 強がりを隠しきれない弟の姿に、ヘスティアとリリが暮らしていた教会にベルとどんな縁があるのかを伝えた張本人、アーディの表情が曇る。

「もう一つ。アポロン・ファミリアからヘスティア・ファミリアへ、戦争遊戯(ウォーゲーム)の打診があったそうよ」

「……ヘスティア様。本当ですか?」

「ああ。ここに来る前、眷属を何人か連れたアポロンがボクのバイト先に現れてね。不幸なすれ違いから始まってしまったこのいざこざを丸く収めたいのならばこれが一番だ、なんて言っていたよ」

「っ……!」

 めきっ、なんて音が、ベルの両拳から聞こえた。

「不幸なすれ違いとは、自分らからけしかけておいてよく言ったものだ」

「違うんだ輝夜くん。アポロンが言うには、先に武器を抜いたのはサポーターくんの方らしいんだ」

「……本当ですか?」

「いきなり魔剣など抜かれては、こちらも対処せざるを得なかった。正当防衛というヤツだね。とか言っていたよ」

 それはつまり。リリの負傷も教会の崩落も、リリが齎したものだと?

 馬鹿な。そんなのおかしい。リリらしくない。

 沸騰した頭のベルも、平静を微塵も見失っていない輝夜も強い違和感に眉根を顰める。

 彼女は、勝ち目が薄い勝負をするタイプでない。そもそも他者との荒事など起こさず、積極的且つ全力で避けていく。リリはそういう娘だ。

「ヘスティア様。そのお話、どうされるおつもりですか?」

「サポーターくんを傷付けられたこの怒りを見て見ぬふりなんてしたくない。さっき見てきたけれど、ボクたちの本拠(ホーム)はもう人が住める場所じゃない。たったの数時間でボクたちは多くものを奪われ、傷付けられてしまった」

「ヘスティア様……」

「ボクとしては受けて立ってやりたいよ。やりたいけど」

「必要ありません……」

「リリ!?」

 小さく、微かに震える声が、リャーナの問い掛けに応じていたヘスティアの声を遮るよう、寝台の真ん中から聞こえた。

「そんなメリットのないことする必要ありません」

「無理して起きなくていいのよ」

「平気です……ありがとうございます、マリュー様」

 運び込まれてからずっと一番近くで寄り添ってくれていたマリューの両手に支えられながら身を起こすリリ。痣の上にある目の輝きは鈍い。

「ぼんやりとですが話は聞こえていました。受ける必要ないです。無視しましょう」

「サポーターくん……」

「リリたちの本拠(ホーム)がなくなってしまったことは業腹ですし、参加を拒否すれば強行手段に出て来る可能性も否めませんが……それを踏まえた上で、恥を忍んでお願いします。アストレア様たちさえよろしければ、しばらくの間、ヘスティア様とリリを星屑の庭に置いてくだいませんでしょうか?」

「恥だなんて言わないで。遠慮もいらない。好きに使ってくれて構わないわ。みんなも、いいでしょう?」

 アストレアの問い掛けに、アストレアの子供全員が頷きで返した。

「ありがとうございます……しかしこれで、当面の問題は解決出来ました」

「ボクたちの寝床のことかい?」

「それもですが、アポロン・ファミリアからのちょっかいはなくなるかと」

「ああ、そういうことか! アポロンのことだ、戦争遊戯(ウォーゲーム)出ません! なんてボクが言ったら徹底的に追い掛けて追い詰めてくるだろうからなあ……ぐぬぬ……」

 アポロンとの間に何か嫌な思い出でもあるのか、ヘスティアの表情が渋くなる。

 暗黙の了解のようになっているが、アポロンがベルが欲しがっているのだとして。その為に戦争遊戯(ウォーゲーム)を開催するのだとして。

 アポロンがアストレア・ファミリアへ戦争遊戯(ウォーゲーム)を仕掛けない理由など考えるまでもない。

 Lv.6にまで到達した団長アリーゼ。副団長の輝夜とリューはLv.5。ベルだけがLv.2だが、他の団員は全員がLv.4。アーディなど、Lv.5は目前と目されている団員もいる。

 団員数ならばアポロン・ファミリアの方がアストレア・ファミリアより遥かに多いが、質の面ではアストレアの娘たちが圧倒的に勝っている。

 量より質の神時代に、多勢に無勢なんて言葉は通用しない。

 よってアポロンはアストレアと直接ぶつかり合う選択を回避する。その上で、ベルに近しい人物であるリリやヘスティアを追い回し続けるのだろう。

 しかしそれも、アストレアたちを盾にしてしまえば回避出来る。

 親しい友人たちを良いように利用しているようで申し訳ない思いではあるが、人を頼ることを学んでいる最中のリリはそういう選択を排除することなく、お人好しなお姉さんたちに甘える道を選んだ。

「そこはいい。とりあえず、お前の身に何が起きたのか聞かせろ。一度整理してーんだ」

「……わかりました」

 常よりも棘の少ない言葉を同族の後輩に送ったライラに促され、まだリリ以外の誰もが知らないこの数時間の出来事を、リリは語り始めた。

 日中。ベルと別れ、アストレアフレイヤ両女神の元を訪ねたリリ。アストレアと別れ、一人で本拠(ホーム)に戻ったリリを待っていたのは、アポロンの眷属たち。

 先頭に団長のヒュアキントス、以下五名。リリと同じ小人族(パルゥム)の団員の姿も見えたとか。

 要件をヒュアキントスに伺うも、近辺を散歩していたら可哀想な有様の教会が目に入ったので、興味に背を蹴られ踏み込んでみただけのことと宣った。清々しいまでの出まかせに乾いた笑いを隠せなかった。

 どんな話に転がろうとも自分は出汁。本命は自分経由でベルに纏わるあれこれだと直ぐに理解出来た。だから話が荒れないようにと努めていた。とはいえ、自分が嫌な思いをするのだって当然嫌だから、どうにか場を丸く収める方法を探していたのだが。

「団員の一人が……教会を破壊し始めて……」

 その呟き以降、リリが語ったリリの行動全て、リリらしくないものであった。

 初めは堪えていた。

 こんな場所、解体した方がオラリオの為だと小人族(パルゥム)の団員が言い放ったのがきっかけだった。

 元からボロい所だし、少しくらいと自分に言い聞かせて堪えた。

「ベル様が建て付けをよくしてくれた扉が壊されて……ヘスティア様とベル様とヴェルフ様と徹夜して色んなお話をした長椅子が潰されて……あの中で唯一綺麗だったステンドグラスが割られて……それで……あれもこれも全部……」

 結果、堪えきれなかった。

 やめてと懇願した。やめろと命令した。ここを根白にしている自分以外にもこの場所を大切に思っている人がいるのだと、名前を出さずに告げた。そうすると。

 その者は不運だな。貴様のような溝鼠が住まってしまった所為で、気に入りの教会がなくなってしまうのだから。

「笑っていました。全員」

 笑いながら嬉々として、教会を破壊し始めた。

 見ていられなかった。耐えられなかった。

 この場所を大切に思っている誰かが傷付くくらいなら。

「魔剣を抜きました。抜いて小人族(パルゥム)の団員に向けて振るいました。直撃したように見えましたけどどうなったんでしょう。一矢くらい報いることが出来たのでしょうか。そこだけ気掛かりです」

 弱々しい笑みを貼り付けて、更に話を進める。

 魔剣など抜かれてはこちらも穏やかではいられないと、団長ヒュアキントスが言った。我らが主君も正当防衛だと認めてくださるだろう。なんて言っていた。

 だからリリは言った。

 こんな、強盗呼ばわりも致し方のない蛮行を許す器の小さな神がどうたら。

 直後、ヒュアキントスに殴られた。

 口には気を付けろ、醜い小娘。主人の乱心は気掛かりだが……あのお方の望みを叶える為ならば、己の心情との摩擦熱など涼風としてみせる。それが、敬愛するあのお方へ捧げる私の忠だ。さて。私の主君も私の忠義も侮辱するような発言、撤回してもらおうか?

 そう言われたもので。

「アポロン様が時折見せる、品性の悪辣さと底意地の悪さが垣間見える下卑た笑いが嫌いです。と言ったんです。そこから先のことはほとんど覚えていません。以上です」

「とことんらしくねえな」

「自覚しています」

 語り切ったリリとライラが言葉を交わす。意味ありげな眼差しの交換を同族の先輩と満喫したリリが、どんな言葉を掛けていいかわからないでいるベルに水を向ける。

「ヘスティア様。ベル様」

 力ない眼差し。

「リリたちの大切な場所を……守ることが出来ませんでした……」

 か細い言葉。

「あ、謝らないでよ! リリは何も」

「本当にごめんなさい……!」

「リリ……」

 リリの手がコンフォーターをぎゅっと握り込む音の上。歯を食い縛り項垂れる少女の瞳は、誤魔化しようのない熱を帯びていた。

 それでも彼女は、一つたりとも雫を落とさないでいる。

「…………」

 変わった。

 リリの同族の先達であるライラは、そんな言葉を掛けてやりたかった。

 他人の人生など興味なし。自分が良くなることが一番。

 そんな根っこだった少女のはずなのに、それがどうだ。

 自分以外の誰かが傷付くことを恐れ、代わりに自分が傷付いて、それでも力がなくて守れなかったと誰かの心を一番に案じ、今も涙を見せないでいる。

 痛みに慣れ過ぎて、堪えることに慣れ過ぎていた少女が悔しいと、そう言っているのだ。

 変わったし、強くなった。

 他の誰でもない、リリの師匠的な立場にあるらしい自分がそれを認めてやらないわけにはいかないだろう。

 とはいえ、言葉に起こすのはまだ先だ。

 この騒動の全てが収まったその時には、きっと。

「はぁっ……! 取り乱してすいません……それで……その……本拠(ホーム)は守れませんでしたけど、これは守り通すことが出来ました……」

 頼りなく揺れる右手が、誰かがまとめてベッドテーブルに置いてくれたのだろうリリの荷物に伸びた。

 小さな手が掴んだのは、青いリボンのラッピングと、端々に誰かの血で化粧が施されている、少しだけ形の歪んだ白い小箱。

「時宜を誤りまくっている気がしますが……やっぱり気になるので今渡します……いいですか、ベル様?」

「……うん」

「ヘスティア様」

「なんだい?」

「リリとベル様と一応ヴェルフ様からです……」

 リリの小さな手から小箱を受け取った、言いたいことなど幾らでもあるだろうに黙りこくっていた女神の小さな手が、まだ喋るだけでも辛そうにしているリリの了承を待たずに小箱を開封。

「この髪留め……」

 青と白の二色が、綺麗な花弁のように飾り付けられている。ヘスティアの胸元を彩っている謎リボンに似た青いリボンと、小さな銀色の鐘のような造形品が、華麗な花弁をより鮮やかに彩っている。

「知っていたのかい?」

「リリが偶然見掛けたんです」

 主語がお留守番の会話にアストレアの娘の幾人かが小首を傾げる中、たまたま見掛けたこの商品に心を惹かれていたヘスティアと、その様子を偶然に見てしまったリリと、その話をリリから聞かされたベルとヴェルフの四人ならば成立する話は、姉たちの理解を待たずに進行していく。

「本当はヴェルフ様も巻き込もうと思ったんですけど、これをヴェルフ様が購入する姿を想像しただけでちょっとキツかったので、お気持ちだけ勝手に参加させちゃいました」

「ありがとよ、勝手に気持ちを添えてくれて。でも一言も二言も余計だぞリリスケ」

 呆れが混じったような控えめな笑みをヴェルフに向けられたリリもまた、控えめな笑みで返した。

「ありがとう、サポーターくん。ベルくんもヴェルフくんも。これはサポーターくんに付けてもらおうかな。君の具合が良くなって…………いや。戦争遊戯(ウォーゲーム)に勝った後に」

「は、はい!?」

「決めたぞボクはっ! アポロンの誘いに乗るっ!」

 子供たちからの贈り物を抱えるので忙しい右手はそのまま、左手でぐーっと丸い拳を作りながら、ヘスティアは宣誓をした。

「何を馬鹿言っているんですか!?」

「馬鹿とはなんだ馬鹿とはー!?」

「ヘスティア様の眷属はリリだけ! こんなの勝負にすらなりません! だから」

「だからこそ! ボクたちが勝った時は最高に痛快な気持ちになれるだろうね!」

「前向きなのは結構ですけど、ヘスティア様の期待に応える自信は微塵もありません」

「ボクだってサポーターくん一人に重荷を背負わせるつもりなんてないさ。アポロンの狙いが本当にベルくんだとしたら、他派閥のベルくんを真ん中に引っ張って来られるような特別ルールを設けるはずだと思うんだけど、アストレアはどう思う?」

「ヘスティアの言う通りになると思うわ」

 そこは否定して欲しかったと言えないリリの内心を見透かすアストレアは、迷わず頷いた。

「戦争遊戯(ウォーゲーム)に本来関わりのない派閥の眷属が参加した前例も幾つかある。寧ろベルの方から積極的に前に出るべきだと思う。そうすればアポロンは絶対に乗ってくるわ」

「節操も無ければ堪え性もないもんなーアポロンは。ベルくんへの関心が薄れてしまう前にケリを付けよう!」

「ちょっと待ってくださいヘスティア様! こんなの全然」

「リリ」

 寝台から跳ね起きん勢いのリリの前で、アストレアが膝を折る。

「私たちを頼ってくれることは嬉しいし、貴方とヘスティアがずっとここにいてくれるとなったら私たちも嬉しいわ」

「でしたら」

「けれど。貴方はずっと、耐えていられる?」

 きっと神々でなくとも見通せるだろうリリの内心に触れるアストレアの微笑みは、今のリリには毒になる。

「今も私たちに迷惑を掛けてしまうことを気にしている貴方は、これからずっと、下を向かずに生きていられるの?」

「!」

 数刻前。美しい女神二柱と交わした言葉の数々がリリの胸を刺す。

 罪悪感と孤独に苛まれて生き続け。これまでそうだったように、大通りの隅を鼠のようにせかせかと、自分より強いもの全てから逃げるように俯いて歩く。

 そんな自分が、超越存在(デウスデア)の信頼に足る自分で在れるのか。

 それで、大切な人の二人の母親が言葉にしてくれた信頼に報いることなど出来るのか。

「今の貴方は、一人じゃない」

 胸の内を騒がしているものを少しでも預かろうとするかのよう。アストレアの両手が、投げ出されているリリの右手を包む。

「一人で抱え込もうとしないで」

 何も言えないリリは、ただ俯くだけ。

「生き方だって、泣き方だって、戦い方だってそう。いつかの貴方と今の貴方ではまるで違う。今の貴方の手札ならば、大きな役を作ることも叶うはず」

「…………」

「それに……ここで逃げ出しては、私もフレイヤも納得してあげられないわよ?」

 すすっと、リリの耳朶に触れる寸前まで唇を寄せ、そんな言葉をアストレアは口にした。

「ふふ」

 投げ出されたまま、しかしいつの間にかぎゅっと握り込まれていた左拳から視線を持ち上げると、アストレアの微笑みがより大きく、悪戯心のようなものが透けて見えるものに育っていた。

「…………」

 アストレア。そしてベル。

 自分に注がれ続ける女神と少年の眼差しに正面から応じたリリは次に、己に血を与えてくれた女神の姿を瞳に映した。

「ここで逃げたら全てから逃げ続けなくちゃならない。そんなの、面白くないじゃないか!」

 どんな言葉で自分を表現しようか迷い続けるリリを待たないヘスティアが、少女の傷んだ心に踏み込んでくる。

「苦しい戦いになるのはわかってる。辛い思いをしたばかりのサポーターくんに求めることじゃないってことも承知しているさ。それでも!」

 左手を腰に当て、右手をリリ目掛けてバッと突き出すヘスティア。

「この髪留めを、前向きな気持ちでサポーターくんに付けてもらいたいんだ!」

 小さな掌の上には、子供たちの感謝を宿した、綺麗な髪留め。

「理屈は要らない。計算も要らない。君の本心を聞かせてくれないか?」

「……リリの……?」

「そうさ。ボクたちには、それだけでいいんだからさ」

「…………しぃ……」

 アストレアの両手が包むリリの右手が、小刻みに震え始める。

「悔しい……」

 リリの左手の甲で、何かの音がした。

「リリたちのっ、大切な場所を……ゆるせなっ……うっ……ぜった……見返して……ぐすっ……!」

 溢れ出したリリの心の結晶が、リリ自身の傷を洗う音だった。

「こんなっ……やだ……っ……ぁ……!」

「ごめんよ。辛いことを言わせてしまったね」

 髪留めを手にしたままの右手と左手が、悔しさに濡れるリリの小さな身体を抱き寄せ、そして離さない。

「けれどありがとう。素直な気持ちを聞かせてくれて。今は安心して体と心を休めてくれ」

 自身の胸の中で泣きじゃくる子供の背を撫で頭を撫で、心に塗りたくられてしまった仄暗いものを洗いながら、何も言わず自分たちを見つめているベルと、ヘスティアは視線を重ねた。

「ベルくん」

「はい」

「ボクたちの大切な場所を奪ったヤツらに一泡吹かせてやりたいんだ」

「同じ気持ちです」

「……いいね?」

「もちろんです」

 迷わず頷くベルの姿に微笑みで返したヘスティアは、全身を振るわせ続けるリリをより強く抱き寄せて、瞳を閉じた。

「リリ」

 ヘスティアの胸の中に全てを隠すリリの返事を待たず、ベルは告げる。

「もう何も奪わせない。絶対に」

 それは、謝罪と決意と約束を抱き合わせた言葉。

「けれど僕は弱いから、リリの力が必要なんだ。だから今回も、いつもみたいに。僕と一緒に、戦ってくれる?」

「……ん! ん、ん……!」

 情けない懇願へのリリの返答は、三度頷くことだった。

「ありがとう……」

「……さてっ。アリーゼくん。君に頼みがあるんだ」

「なんなりと!」

「後でボクに同行してくれないかい? 今日のうちにアポロンの所とギルド本部に行っておきたいんだ」

「もちろんですっ!」

 アポロン派にアストレアの娘との関わり。しかもアストレアの娘で最強の戦力を有するアリーゼを連れ、戦争遊戯(ウォーゲーム)の受諾を宣言する。

 両派閥が密接な仲であると改めて誇示するそのやり方は悪くないと、頭脳派筆頭であるライラや他の娘たちも素直に感心した。その手の小技が使える女神だと思っていなかった、という理由による所が大きいのだが。

「開催日まで少しでも長く時間を取れるように話を進めてみるよ。サポーターくんの負傷を盾にすれば流石のアポロンも少しくらいはこっちの要求を聞き入れてくれるはずさ。多分。それと、ベルくん」

「はい」

「早ければ明日。でなければ明後日。ボクと一緒に出掛けよう」

「神会(デナトゥス)、ですよね?」

「正解っ!」

 戦争遊戯(ウォーゲーム)の開催が決する度、臨時の神会(デナトゥス)が開かれるのが通例。

 その場に、今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)の引鉄(トリガー)になってしまったベルも同行してくれと、ヘスティアは言っている。

「構わないかな?」

「是非同行させてください」

「アストレアも、いいかい?」

「勿論よ」

「ありがとう、二人共」

「となると後の問題は、戦力ですね」

 話の真ん中に出て来たのは、ヴェルフ。

「だなあ……ルールを捻じ曲げるにしても限度はあるけど、そこもボクの努力次第かぁ……そーゆーことなら頑張るぞーっ!」

「……まあ、現状の倍になら、直ぐに出来ます」

「へ? 倍?」

「頼りない戦力かもしれませんけどね」

「ヴェルフ……?」

 突飛なことを言い始めたヴェルフの姿に、ヘスティアとベルを始め、同席している全ての人間が顔色を変化させた。

「一先ずは……筋を通して来ます」

 数歩後退し、その場にいる全員に見えるよう頭を下げたヴェルフはそれ以上何も言わず、星屑の庭から急ぎ足で飛び出して行った。

「ヴェルフ……」

 友達……相棒の、その堂々とした背中を止めることが出来なかったベルは、ただ見送ることしかできなかった。

 

* * *

 

 翌日。

 遠くの空が橙に染まる頃。

 バベル三十階、大広間。

「つーわけで! 神々(デナトゥス)! 臨時開催やー!」

「「「「「うおぉぉおぉぉおぉぉ!」」」」」

 騒がしい神々の真ん中で女神ロキが宣言した通りのお時間がやって来た。

「こ、これが神会(デナトゥス)……!」

「気圧されてはいけないわ。みんなにいいおもちゃにされてしまうから」

「お、おもちゃって……」

「堂々としているんだ! 堂々と!」

「はいぃ……」

 やたらと鼻息の荒い神々の姿に萎縮し倒しているベルの前にはアストレア。アストレアの左隣には、ヘスティア。

「ふふ……」

 少し離れた席では、美の女神フレイヤが機嫌良さそうに微笑んでいて、そんな姿に同席している男神たちの多くが目を奪われ、幸せそうに目を細めている。なんならベルに向けて小さく手を振ってみたりなんぞしている。自由なママである。

「でゅふ……うふふふぅ……!」

 キョロキョロし続けているベルの姿に熱い眼差しを注ぎ続けるアポロンの姿も当然見える。

「さて」

 多くの神々が愉快そうに頬を緩めている中にあって、何処かつまならそうにさえ見える美の女神。定例開催の神会(デナトゥス)を無断でボイコットしてしまうことも稀ではないイシュタルは、早くから席に着いていた一人だ。

「よーし一旦抑えろボケ神共ー。とりあえず話進めよかー」

 今回の仕切りを任されたロキの進行は筒がなく執り行われ、多くの神々と同席を許されることとなったベルが見守る前で、ヘスティアとアポロンが誓約書などの必要書類を書き進め、定型的な部分は落ち着いた。

 ヘスティアたちの本番はこれからだ。

「んで、勝ったらそれぞれ何をどうするんや?」

「単純にいこう。私が勝ったらどんな要求でも呑もう。私たちが負けたらどんな要求でも呑む。それでどうだろう、ヘスティア?」

「構わないよ」

「決まりだ」

 アポロンの眼差しが今回の神会(デナトゥス)で書記を担当している神に向く。気怠そうなその神がしっかりと羊皮紙に書き記すのを見やり、アポロンの口元が嫌に歪む。

「あくまでベル・クラネルの名前は出さず、貴方の参加を認める方向に話を持っていくつもり満々みたいね」

「で、ですかね……」

 アポロンの宣誓を聞くなり、ヘスティアが席を開けて生まれた空席に滑り込んで来たヘファイストスが、大広間の真ん中に陣取るアポロンたちには届かない程度の声量で囁く。緊張のあまりビシッと背筋を伸ばしっぱなしのベルに出来たのは、曖昧な肯定だけ。

 尚、ヘファイストスは前日に、眷属であるヴェルフから今回の件の大枠を聞かされている。

「はいそれで決まりなー。勝負の形式はどないするん?」

「ボクは」

「代表者同士の一対一を希望する、と言うのだろう?」

「お気に召さないかい?」

「当然だろう。団員が少ないのはヘスティアの怠慢。その怠慢に私が合わせる道理がない。そうでなくともオラリオ全土が注目するだろう舞台になるんだ。多くの子たちが輝ける場に仕立て上げるべき思うよ」

「なーにが輝ける場だよ……」

「君の怠慢に付き合うつもりもないが、一方的にこちらの条件を押し付けるつもりもない。ここは公平に、くじで決めようじゃないか。いつもの、あるだろう?」

「ほいよー」

 愉快そうにニヤニヤしている男神がすすっと前に出て、今は中身が入っていない空箱を会場の真ん中に置く。

 列席している神々が配られた羊皮紙に思い思いの対戦方法を書き記し、中が見えぬよう折り畳んで箱に入れていく。

「はいこれで全員。誰が引く?」

「私とヘスティアが引くのは論外。君に良くしている神々もなしだろう」

「君の息が掛かっている神々もね」

「だったら……ロキ。君に頼みたい」

「はぁ? うちでええん?」

「本当はヘルメスにと思ったのだが、彼もまた、中立を気取りきれない立ち位置にいるご様子だからね」

「おいおいなんだよ、含みのあるその物言いは」

「何、詮索してくれるな我が友よ。私なりの予防線さ」

「そうかい」

 それ以上話の真ん中にいるつもりはないのか、つまらなそうに右手をヒラヒラと振ったヘルメスは浮かしていた腰を下ろし、右手で頬杖を付いた。

「まあええけど。んじゃあ一枚一枚ーっと……これや! えーっとえーっと…………おいチビ神」

「なんだい?」

「終わったで、お前。はい、攻城戦」

「っなぬーっ!?」

「っはははははは! これはこれは……!」

 悲鳴に似たヘスティアの叫びと高らかなアポロンの哄笑が響くと会場のあちこちから笑声と、ヘスティアへの同情の声が上がり始めた。

 よりによって過ぎた。

 攻城戦。

 文字通り、舞台は城。攻城と守城に分かれて戦闘。通例に倣うのなら交戦期間は三日間。勝敗は、互いの軍勢の大将の脱落によって決される。

 城を落とせや守れやと刃を交えるのだ。当然、攻めるも守るも数が必要となる。質より量の神時代であろうとここばかりは揺るがない。どのような罠が仕掛けられているかもわからない城攻めを単純な力のみで押し通せる者などごく僅かであろう。

 ヘスティアの眷属は団長であるリリのみ。対するアポロンの眷属は百人以上。

 このどうしようもない数の差で、何がどうしたら城を落とすだ城を守るだが叶うと言うのだろうか。故に終わったと、ロキは言ったのだ。

「皆が見ている前で公平に行われたくじの結果だ。再抽選など認めない」

「ぐぬぬ……!」

「そうと決まったら日取りと会場の選定を」

「待ってくれ」

 揚々と話を進めようとするアポロンの声を、落ち着き払った低い声が遮った。

「このような公開私刑紛い、流石にどうかと思う」

「え?」

 自分の発した言葉に驚いたかのよう。紅い瞳を大きくしたベルの眼差しの先で、控えめに手を挙げている神がいる。

 長く伸びた前髪の向こうからヘスティアたちを睥睨する神。

 リリルカ・アーデの元主神。

「ソーマ様……?」

 ソーマだった。

「慎んでくれないかソーマ。君が口出しすることではないだろう」

「聞いてくれ。何も俺は公平にしろと言っているのではない。ヘスティアの怠慢は事実だ。しかしこんな形では遺恨が残るのは避けられないだろう。だからこそせめて、見ている者たちも戦う者たちも最低限でいいから納得の出来る戦力で行うべきだろう。我々だって、勝ちの見えている勝負など眺めていたって何も面白くない。違うか?」

 会場全体へのソーマの問い掛けが、比較的静かだった空間のあちこちから本音を引き出す。

 まーねー。虐めなんて見てもしゃーないもんなー。盛り上がらないのが一番萎える。ヘスティアが悪いんだから甘やかす必要なくね? それは本当にそうもっと言ってやりなさいあーでも今回だけは大目に見てあげて欲しいわ。

 ヘスティアの日頃の怠惰っぷりを知り尽くしているものでお怒りのヘファイストスも含め、基本的にはソーマの意見に肯定的な言葉が並んでいる様子。

「ふん……」

 それを知覚したアポロンが、出来過ぎている美しい面差しに不機嫌の色を宿す。

「聞いた所によると今回の騒動は、アポロンの眷属たちがヘスティアの本拠(ホーム)へ無断で踏み入ったことに端を発しているらしい。そのような狼藉を働いたことから眷属同士の衝突にまでなっていて、しかもヘスティアの唯一の団員はアポロンの眷属の手により重傷を負ったそうだ」

 ヘスティアやアストレアが表情に驚きを滲ませる。ソーマが何故それを知っているのか。

 昨日のうちにヘスティア派の本拠(ホーム)で騒ぎがあったと聞き付けたソーマは、信頼の置ける眷属たち幾人かに騒動の調査を指示。ザニスの失脚により団長となったチャンドラ等は主神の神意に応えるべく夜も朝も昼も調査に励み、先の情報を手にしたのだ。

 マジ? これ、本来なら抗争案件よね? アポロンさんそれは鬼畜過ぎる。そもそも何目的よ?

 先よりも動揺の割合の高いざわつきが、神々の間で生まれた。

「こうも後味が悪く、開戦以前より結末の見えている勝負など、この都市全土を巻き込んでまで行うことではないだろう。それでも決行すると言うのなら、どうか多くの者たちが納得いくものにまで練り上げてくれ。以上だ」

 つーか! 喋った!? ソーマが喋った!? 酒瓶以外とも喋れるのかあいつ!

 などなど、すっと着席したソーマの姿に驚きの声が集まる。それを受けたソーマは、長く伸びた前髪の下で密かに眉根を寄せている。

 ソーマの行いにどんな理由があるかなどわからない。真意を聞き出そうとも思わない。それでも。

 ベルの胸に湧いた感情がベルの身体に強いた行動は。

「……っ!」

 頭を下げること。

 思春期の少年にありがちな中途半端なものではなく、背筋の伸びた上半身をしっかりと倒し、しっかりと起こし、真っ直ぐにソーマの目を見ることが、今のベルに出来る精一杯だった。

「やれやれ。よくない誤解を生んでしまったかな」

 その光景に目を向けながら、軌道修正をアポロンが図る。

「私から話そう。今回の騒動は」

「まどろっこしいのは止せ、アポロン」

 またもアポロンの言葉が、神の声によって止められた。

「何……?」

「正直に言えばいいだろう。アストレアの眷属、ベル・クラネルと懇意にしているヘスティアたちを利用し、果てはベル・クラネルを引き抜こうと画策していたのだと」

「貴様……!」

 苛立ちを隠さないアポロンの眼差しの先。

 優雅な指捌きで火の付いていない煙管(キセル)をくるくると回している女神が一柱。

「睨むなよアポロン。私は知っていることを口にしたまでだ」

 イシュタル。

 歓楽街を牛耳る美の女神は、心底愉快そうに笑っていた。

「ソーマの話と統合するならば、ベル・クラネル絡みでヘスティアの眷属にちょっかいを掛けた顛末が建物の崩落と抗争紛いなのだろう? ならば先に手を出したのがヘスティアの眷属だったとしても、お前にはヘスティアへ払うべき敬意があると思うが」

「イシュタル……?」

「何を馬鹿な!」

 自分たちに肩入れする理由など何一つないだろうイシュタルからの援護に首を傾げるヘスティアはもちろん、この場の全員の視線を釘付けにするイシュタルが続けて告げる。

「勘違いするなヘスティア。お前の事情になど興味はないしどちらに肩入れするつもりもない。ただ、戦争遊戯(ウォーゲーム)は興行だ。見せ物が低次元低俗なものであるのは甚だ愚かしい。私にここまで足を運ばせておいて一方的かつ一瞬で決着が見えてしまうような戦など展開されては不愉快極まる。故に……そうだな…………そこの子供。ベル・クラネル、と言ったか」

「っ、ぁ……は、はぃ……」

 自らの母親である美の女神、フレイヤとはまるで異質。

 獰猛にさえ感じる攻撃的な美しさ、とでも表すれば、女神の双眸に睥睨されただけでまともな返事をすることさえ出来なくなってしまったベルの内側に届くだろうか。

「ぁ……」

 しかし、一瞬だ。

 たったの一瞬で、ベルの動揺はどこかへ飛んでいってしまった。

 不満なのか。怒っているのか不貞腐れているのか。

「むぅ」

 美しい銀色の髪の下で、小さな子供のようにぷくーと頬を膨らませている美の女神の姿を視界に収めた途端に、緊張も動揺も消し飛んだ。

「はは……!」

 その愛らしい母の姿に微笑みで返すと、膨れていた母の頬から空気が抜け、穏やかな笑みが返ってきた。

 もう大丈夫。

 もう、呑まれたりなんてするものか。

「お前が蚊帳の外にいるから話が拗れる。ヘスティアの側で、お前も参加しろ」

 来た。

「何を勝手に」

「喚くなアポロン。そうしたらお前の目当ての子供が手に入るんだ。一石二鳥だろう?」

 予想外の神物からの提案ではあったが、望んだ展開になった。

 ベルが。ヘスティアが。アストレアが。彼らと懇意にしている神々が。

「ふひっ……!」

 そして、アポロンが。

 多くの者がイシュタルの言葉に、内心でガッツポーズを決めた。

 同時に疑念を抱く者は、その比ではないくらいに多いのだが。

「どうなんだ、ベル・クラネル。仮にお前たちが敗北した場合、アポロンの要求を呑めるのか? それならば」

「言う通りにします」

「だそうだ。これ以上お前たちのくだらない話を聞いていても不愉快なだけだ。これは通せ」

「勝手に話進めんなや! なんかよくない流れな気ぃするけどぉ……まーいちおー多数決くらいは取るかぁ。はいじゃあ、この少年がどチビの側で参加することに賛成のヤツ手あげぇ」

 ロキの一声を受け、多くの手が持ち上がる。はいはい! と両手を突き上げているヘスティアを無視してぐるりと会場を見渡すロキ。

 過半数を越えているのは一目瞭然であった。

「いいように話進められたみたいで腹立つけどまあええわ。ってことで少年は特別参加と。勝者の特権も敗者の罰則もどチビの側で享受する。これは決まりでええな」

「よしっ……!」

 願った通りになったと小さくガッツポーズを決めるベル。

 その姿を微笑ましく思いながら、しかし値踏みするような、探るような眼差しをイシュタルに向けている神が複数人いる。

 主だった名前を挙げると、アストレア。ヘルメス。ヘファイストス。そして、フレイヤ。

「どういうつもりかしら……まさか、裏でイシュタルとアポロンが手を組んでいる……?」

「あり得ない話ではないと思うけれど……」

 ヘファイストスとアストレアが身を寄せ合い言葉を交わす。

 その様子をイシュタルは、心底つまらなさそうに眺めている。

「んで、それ以外はどーするんや? 少年がどチビの側に付いたって流石に結末は変わらんやろ。あんま緩くし過ぎてもアレやけど、少年のような特例も設けたんやし、少しくらい形式から外れたことやってもええんちゃう? もう少し助っ人を認めるとかさぁ。ま、何にしてもこっからはアポロンが決めるべきやな。経緯はどうあれ、てきとーやらかしとるどチビの所為で割を食っとるんやし。どうする、アポロン?」

「なるほど……ふむ……」

 先程イシュタルに向けていた苛立ちは芝居だったのかと思ってしまうくらいにいい笑顔を浮かべているアポロンが顎に指を置き考え込む。

 彼の目は先ずアストレアを見て、次にフレイヤを見て、ヘファイストスを見て、ヘスティアを見て、最後にベルを見て、瞳を細めた。

「ならばこういうのはどうだろう。オラリオに籍を置いているファミリアの団員及び構成員。その一切の参加を認めない。しかし、オラリオ外の派閥は認める。これでどうだ?」

「ま、ええんちゃう? 今から外の戦力引っ張ってくるなんて流石に厳しいやろーけど、どチビの努力次第で戦力も増やせるかもやし。いっつもてけとーやってるんやしいい機会やろ。自分の足でしっかり人を集めてみぃ」

「何処から目線なんだよ君はぁ!?」

「じゃかしぃわ! って! 忘れとった! 攻めと守り決めな! これはもう素直に神拳(じゃんけん)せい。勝った方が攻め、負けた方が守りや」

「いいだろう」

「よし行くぞっ! じゃーんけぇーんぽいっ!」

 気合いが空回りしている感全開のヘスティアは拳をグッと握っていて、対するアポロンは、掌を広げてみせている。

 ヘスティアがグーで、アポロンがパー。

「私の勝ちだな」

「くっそおおお負けたああああっ!」

 当然の結果だと言わんばかりのアポロンが崩れ落ちるヘスティアを見下ろし嘲笑う。その眼差しに怒りパワーを沸々と滾らせたヘスティアの目が、アストレアの背後で背筋を伸ばし続けているベルに向いた。

「ベルくん!」

「へ?」

「君もこいつになんか言ってやるんだ!」

「ぼ、僕がですか!?」

「そうさっ! ボクとしては大助かりだけど君は巻き込まれた側だ! 文句を言う権利がある! アポロンにどーんと言ってやるんだどーんと!」

「も、文句とか言われてもぉ……!」

「私は構わないよ。折角だから前に出て来たらどうかな、ベル・クラネルくん」

「……で、でしたら……」

 頑張ってと、小さく声を掛けてくれたアストレアに送り出してもらったベルに奇異の目が殺到。神々の前で無様を晒すまいと伸ばしていた背筋は既にふにゃふにゃ。

 おー? なんだなんだー? やっぱかわええなああの子ぉ。アポロンの気持ちわかるわー! などなど神々が好き放題言う真ん中をペコペコしながら進んでいき、ヘスティアとアポロンとロキが陣取る大広間の真ん中へおずおずと歩み出た。

「君に何を言っても慰めにも言い訳にもならないだろう。今の私に多くを語る権利などない。だから、君の素直な言葉を聞かせて欲しい」

 殊勝な様を見せるアポロン。

 彼の名誉の為にも明言しておくが、アポロンは決して、リリを襲えなどと眷属たちに指示していない。

 ヘスティアや団員の見ている前で、ヘスティア派の本拠(ホーム)傷を付けてみろ。きっと面白いことになる。

 とある神物から仕入れたこの情報の意味する所の調査と、これまで存在すら知らなかったヘスティア派の本拠(ホーム)の所在の確認を眷属たちに命じたのみである。

 望んでいた展開には近いのだが、悪戯にヘスティアの娘を傷付けたかったわけではない。

 それだけははっきりとさせておく。

「……僭越ながら。この一度で全てが終われるように。後腐れのないようにしたいんです」

 この場に同席を許された下界の子供に神々の眼差しが殺到。その居心地の悪さを無視して、ベルはアポロンの眼差しに応じ続ける。

「戦争遊戯(ウォーゲーム)の外にまで争いを持ち込んで誰かの迷惑になるようなことはしたくありません」

「つまり?」

「どっちが勝ったとしても、互いへの報復行為を認めない。戦争遊戯(ウォーゲーム)の再戦もなし。これも約束の一つに追加して欲しいです」

「構わないが、いいのかな? もしも私たちが勝利したらヘスティア・ファミリアは解体させ、ヘスティアとその眷属たちはもちろん今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)でヘスティア側に付いた者全員にオラリオを去ってもらうつもりだが、君の身柄だけは私が預かろうと思う。そうなるとヘスティアたちはもちろん、君と共に生きるアストレアの娘たちさえ君を奪還することが叶わなくなってしまうよ?」

「構いません」

 退っ引きならない所へ自分自身を追い込んでいるんだよ君はと暗に伝えてくるアポロンを真っ直ぐに見据え。

「勝つのは、僕たちですから」

 一部の神々を唸らせるようなベルの宣誓が、臨時の神会(デナトゥス)の最後を締め括った。

 ややあって。神会(デナトゥス)の閉廷した大広間内。

「おいおいいいのかよアポローン」

 アポロンと懇意にしている神々が、アポロンを囲んでいた。

「なんだかんだと結構甘めの条件にしちゃってさー」

「ソーマとイシュタルの言う通り、すれ違いの発端は我々にある。全てを突っ撥ねるというのは流石にね」

「ヘスティアの努力次第だけどマジでパンチのある戦力引っ張ってくるかもだぜー?」

「開催は七日後。会場はオラリオ外になるだろう。そこまでの移動も考えたら猶予は五日あるかないか。その短い期間で交渉に応じ、オラリオまでやって来られる巨大な戦力なんていないさ」

「そりゃないってわかってんよ。そっちじゃなくて、オラリオの中の方よ」

「もしかして、ミア・グランドのことかな?」

「そーそ! ミアかーちゃん!」

「ベルきゅんってばミアの所で働いているんでしょ? ワンチャンあるんじゃないかしら」

「あれ? 『小巨人(デミ・ユミル)』ってまだファミリアに籍置いてんだっけ?」

「脱退してなかったか? うーん……」

 ミア・グランド。

 ベルの勤める酒場、豊穣の女主人の店主。

 かつての彼女の肩書き。そして強さを知らない神などこのオラリオにはいない。オラリオへ到着して日の浅いヘスティアくらいだろうか、彼女の来歴を知らないのは。

 しかし事実は知らずとも、一目見ただけでミアが有している規格外の戦力をヘスティアの瞳は見抜いている。

 ならばヘスティア陣営が、ミアへ声を掛けないわけがない。

「動かないさ」

 しかし、アポロンは断じる。

「ファミリアから完全に脱退していたとしてもいなかったとしても変わらない」

 ヘスティアに懇願されようがベル・クラネルに依頼されようが、此度の戦争遊戯(ウォーゲーム)にミアが参戦することはないと決然と言い切る。

「彼女が動くとしたらそれはきっと、あの女神の為だけだろう」

「その女神様、ベルきゅんのママやってるらしいけど?」

「ベル・クラネルの我儘を聞き入れちゃう展開だってあり得るかもよ?」

「それでもだよ。今でこそ最前線から退いているけれど、彼女こそ生粋の冒険者。闘争の世界でこそ輝く勇士。そんな彼女が、自分が参戦した瞬間に全てが終わってしまうような闘争へ躍り出るような真似などしないさ」

「そんなもんかねー」

「大丈夫。ミア・グランドは動かない。絶対に。それに……」

「それに?」

「ミアが参戦することを望まないよ。ベルくんは」

 長く、ベル・クラネルを遠巻きに見つめ続けてきたアポロンは、こちらもまた自信満々に断言をした。

 大広間内の一席。

「ふーん」

 アポロンと神々が盛り上がる様を眺める男神が一人。

「わかっているじゃないか、アポロン」

 ヘルメスである。

「七日後かあ」

 誰も知らない。

 最近何かと行動を共にしているアストレアも。ヘスティアもヘファイストスもフレイヤも、アポロンもイシュタルも、誰も気が付かなかった。

 神会(デナトゥス)の最中ずっと、ヘルメスの左手が、何か丸い物体を手にしていたことなど。

「さてさて、どうなるかなー」

 まだ、誰も知らない。

 

* * *

 

「他を当たりな」

「なぬーっ!?」

「だから言ったじゃないですか……」

 翌日。太陽が一番高くに在る、気持ちの良い昼時。

 アポロンは慧眼であったと証明された。

 ベルの反対を押し切りミアの元へとやって来るなり、ボクらの陣営に付いてくれとヘスティアが要請。ミアの返事はノータイムでのノー。

「ただでさえうちで一番働けるヤツがしばらく顔出せないと言ってんのにアタシが店を空けるわけにいくかい。アタシは忙しいんだ。巻き込むんじゃないよ」

「で、でもでもぉ!」

「落ち着いてくださいヘスティア様」

 こうなることが分かりきっていたベルがヘスティアを諭す。

「ごめんなさいミアさん。こんな話を持ち込んでしまって」

「あんたが謝ることじゃないよ。軽々しく頭を下げるそのクセ、さっさと直しな」

「は、はい……」

「なんだよー! 何でそんなにヨユーなんだよベルくん!? 店長くんの力が借りれないとなるといよいよ誰に声を掛けたらいいかわかんないんだぞー!?」

「確かに。どうしましょうね」

「なんか軽くないか!?」

「一度冷静になりましょうヘスティア」

「と言われてもー!」

 同行を願い出たアストレアに諌められてもヘスティアの様子は変わらず。

「まあまあ落ち着いて、一度整理しましょー。戦争遊戯(ウォーゲーム)の形式は攻城戦。開催は六日後。オラリオ外に設けられる会場で。攻めのアポロン様たちは助っ人なしで、守りのヘスティア様たちには特例としてベルの参加を認める。助っ人もアリ。ただし、オラリオのギルド傘下のファミリアの団員及び構成員の参加は認められない。その代わり、オラリオ外の派閥の参加は認める。これであってる?」

「それであってるよ、お姉ちゃん」

「なるほどなるほどー」

 昼の営業中の丸卓を囲む看板娘といつもの従業員たち。自由に過ごしていてる従業員たちだが、客入りも疎な昼の営業だからか、ミアからの怒号も飛んで来ていない。

 しかし唯一人。いつものメンツに含まれるだろうアーニャだけは、遠巻きにベルたちの様子をチラチラと覗うばかりで彼らの席へと近付こうとしないでいる。

「となると今のヘスティア様の戦力は、ベルとリリさんだけかあ」

「うん」

「どうするの?」

「…………どうしようか?」

「私がベルに聞いてるのー」

「あぅあぅ」

 煮え切らないベルの両頬を摘んで引っ張るシル。空気読めてなくねってくらいにいつも通りに振る舞うシルの姿に、仕事もそこそこにベルたちの様子を伺っているクロエたちもどう反応していいのかわからなさそうだ。

「オラリオ外からの戦力に関しては心当たりを当たってみる。オラリオ内からの戦力はアリーゼたちが声を掛けてくれているみたいだけど、条件に叶っていて力を貸してくれる子がどれだけいるかしら……」

「うぅ……ごめんよアストレアぁ……当たり前みたいに力を借りちゃって……」

「貴方とリリに会えなくなるのは寂しいし、この子の進退も掛かっているもの」

「わ」

「だからこれは私たちの戦いでもあるの。私も娘たちも直接戦うことは出来ないけれど、戦える所は共に戦わせて欲しい」

「アストレアぁぁぁぁーっ!」

「あらあら」

 右手はベルの頭。左手は自らにしがみついて来たヘスティアの頭を撫でるアストレア。周囲の客たちが何か言いたそうに特にベルを睨んでいるのだが、この場所で攻撃的な眼差しに晒されることに慣れてしまったベルは大した動揺を示さない。

「そうだ。一応聞いておきたいのだけど……ベル?」

「なんでしょう?」

「貴方、こういう展開にならなかったとしたら、ヘスティアの元へ改宗(コンバージョン)をしようと考えていたのではないかしら?」

 冷たくて熱い何かが走り抜けたような感覚が、ベルの全身を襲う。

 責めも咎めもしていないアストレアの声音は、ただの事実確認のようであった。

「へ? そうだったのかい?」

「…………はい」

 いやにあっけらかんとした様子のヘスティアの言葉に幾許かの間を置いてから、はっきりとベルは頷いた。

 アストレアの言う通りだった。

 昨日の神会(デナトゥス)の場で望む結果が得られなかったその時はと、傷付いたリリの前でベルは決めていた。

 その決断が自分のこれから全てを大きく変えてしまう。悪く言えば、全ての事柄を遠回りさせることになってしまうと理解していて、それでもと心に決めていた。

「そうだったのかー。なら、突っ撥ねる手間が省けてよかったよ」

「突っ撥ねる?」

「ベルくんがボクの元へ改宗(コンバージョン)するなんて認められないからね」

 アストレアにしがみ付いたまま、実にフラット且つさっぱりとした物言いでベルを拒絶するヘスティア。

「あ、の……」

 正直、自分の予想とまるで正反対な返答に、ベルはどんな言葉も選べず唇の端を微かに震わせていた。

「サポーターくんが戦争遊戯(ウォーゲーム)を受けるなと言っていた理由。ベルくんにはわかるかい?」

「それは……戦力的に」

「戦力的に厳しいからも当然あるけど、あの子の本命はそっちじゃない」

「じゃあ……なんでリリは……」

「いざとなったらベルくんは平気でボクたちの元へ改宗(コンバージョン)する。それを嫌がったんだよ、サポーターくんは。言うまでもないだろうけど、ベルくんと同じ派閥になるのが嫌だとかそんな理由じゃないぜ?」

 意味がわからない。わからないから、意味がわかる言葉が欲しいです続きをくださいと、眼差し一つでヘスティアへ訴える。

「そりゃそうだろー! ベル君の願いは今の居場所で叶えるべきなんだって、ボクたちみんな思っているんだから!」

「僕の願い……?」

「まあ? 主神としてはアレだけど? 気持ちとしてはというか? 女としてはというかぁ? ベルくんがこっちへ来てくれるととっても嬉しって何を言わせるんだいベルくんの不埒者っ!」

 なんで僕怒られたんですか!? なんて返しも出来ず、置物同然のベル。

「でも、それは違うって思っちゃうんだよ。ボクとサポーターくんは。きっとヴェルフくんや命(ミコト)くんたちも同じように思っているはずさ」

 よいしょとアストレアの身体から離れしっかりと座り直したヘスティアが、ずっと怯えたような眼差しを自分に向けている子供へ笑い掛ける。

「ボクたちの本拠(ホーム)まで君の家にしちゃうのは流石に節操なしってなもんだよ。君の家は綺麗なママと可愛いお姉ちゃんたちが待つあの屋敷と、フレイヤとクセの強い勇士たちが集まるあの屋敷と、そしてこのお店だ!」

 両手を大きく広げ店内のあちこちに目を向けるヘスティアの瞳の中に、何年経っても大して変わり映えのしない景色が映る。 

「気持ちは受け取る。力も借りる。でも、これ以上寄り道を増やしてしまって君の歩く道をぐにゃぐにゃに歪めてしまうような真似、ボクたちはしたくないんだ」

「…………」

「ベルくんの願いは、ベルくんだけが大切にしている、ベルくんだけの願いじゃないんだってこと、どうか覚えていて欲しいな」

「……はい……ありがとうございます……」

 本当は、この場面で感謝を告げることが正しいのかもわからなかった。

 けれど、感じた思いやりは嘘に出来ない。

 応えないのは、絶対に正しくない。

「アストレアも、何か言いたいことがあったんじゃないのかい?」

「特別あったわけではないの。ただ」

「ベル!」

 アストレアの言葉をぶった斬ったのは、アーニャ。

「聞かせるニャ……」

 今のベルと同等かそれ以上に迷いや葛藤を表情に出してしまっている、アーニャだった。

「……うん」

「ベルは……困ってるニャ?」

「まあ……うん……」

「ベルは……ここを家だと思ってるニャ?」

「うん。思ってる」

「な、なら! ミャーは……なんニャ?」

「家族」

「……かぞく?」

「うん」

 この店だってお前の家だろうと、ヘスティアや誰かに言われたからなんかじゃない。

 初めてこの店にやって来て、シル、アーニャ、ミア、今も変わらない顔触れの訳あり従業員たちと出会い。少し遅れてクロエとルノアがやって来て。

 いろんなことがあった。あり過ぎるくらいにあった。

 忘年会をした。新年会をした。出店を出したりした。ケンカもした。

 シルと姉弟になった。クロエにお尻を触られそうに何度もなるけど周囲の協力も得ながら今日まで跳ね返し続けている。ルノアが着替えているのを事故ではあるが見てしまった。アーニャがずっと諦めないでいる彼女のお兄さんとの間をほんの少しだけでも繋ぐことが出来た。料理の手解きだけでなく冒険者としての心構えや、目の前にあるものを味わい楽しんで生きることの大切さをミアから教わった。

 ローリエやエイナやロキやリヴェリアやガレスだけでなく、本当にたくさんの出会いをこの場所で果たした。

 大切な思い出が詰まったこの場所は、星屑の庭と何も変わらない。

 大切な人たちが住む、大切な場所。

 自分の家。

 ならば、自分の家で共に生きる人たちを何と呼ぶのか。

 答えなど考えるまでもない。

「友達で、同僚で、仲間で、先輩で、家族。五年前から僕は、そう思って生きているよ」

「……そっか……」

 猫感のない語尾のアーニャなんて珍しいなと幾人かが思う前でアーニャは、自分の胸に手を置き、何かを確かめるように。何かを決意するように。深い呼吸を数回。その様子に誰もが何も言えずにいると。

「っ!」

 怯えたような眼差しはそのままに駆け出し、店の裏側にアーニャは消えて行った。バタン! と勢い良く扉が閉まる音がした。恐らく、裏口から店外へ飛び出して行ったのだろう。

「あ、アーニャさん!?」

「仕事中だぞ馬鹿猫ぉ!?」

「ミアかーちゃんに潰されるニャ!」

 神をも恐れさせるビッグかーちゃんをキレさせちまうぞ戻れとルノアとクロエが叫び、ベルが困惑する隣で。

「そっか……」

 何かを察したのか、シルだけは欠片ほどの動揺も見せず、アーニャの姿が見えなくなった店の裏口の方を見ていた。

「お姉ちゃん……?」

「きっと、主神様の所に行くんだろうね。アーニャは」

「それって…………違う! 違うよアーニャさん! そんなの絶対に違う!」

 シルの言葉から、アーニャが駆け出していった意味と向かう場所を察したベルの顔色が変わる。

「僕……そんなつもりでここに来たんじゃないよ……!」

「アーニャくんはどうしたいんだい?」

「……アーニャさんには……お兄さんがいるんです……」

 状況に乗り遅れ気味のヘスティアの疑問を拾ったのは、望んだ状況とは掛け離れてしまった真ん中で鎮痛な面持ちをしている、ベル。

「お兄さんとアーニャさんは今……一緒にいられなくて……でもアーニャさんはお兄さんのことをとっても大切にしていて……いつかまた一緒にいられるようになりたいってずっと願っていて……」

「それと今の行動がどんな関係が?」

「アーニャのお兄さんは、とある派閥の団員なんです。今はもう顔を出すことはなくなりましたけど、アーニャもまだ、その派閥に所属している扱いなんです」

「なるほど……で、その派閥というのはどこなんだい? シル何某くん?」

「フレイヤ・ファミリア」

 ベルの代わりに補足したシルの口元が描いていた笑みが、微かに歪んだ。

「それって……」

「色々ありますね、本当に」

 ヘスティアの眼差しが真っ直ぐにシルを見据え、その眼差しから逃げることなく向き合いながら、シルは苦笑した。

「……ま、まあいいや。じゃあアーニャくんが行ってしまったのは……そういうことかい?」

「そうなるんでしょうね」

「そんなのダメだ……」

 ヘスティアもシルも、その場にいる誰もがアーニャの行動の理由を察知して表情を迷子にさせる真ん中から、弱々しいベルの声。

「気持ちは嬉しいけど……僕たちの為に自分の願いを後回しにするなんて……やめてほしい……」

「ベル」

 椅子に深く座り込むベルの前に、シルが立った。

「自惚れないで」

「え?」

 自分を見下ろすシルの眼差しが、覚えがないくらい鋭くて、怖い。

 これまで幾度かケンカをしたことがあるけれど、それらの時よりずっと怖い。

「みんながみんな全部全部ベルの為になんて、そんな自惚れはやめなさい。ベルにはベルの理由があるように、みんなにはみんなの理由があるんだから。そんな、悲劇に陶酔している主人公みたいな態度で、アーニャの決意に水を刺すような言葉を口にしないで」

 珍しくしっかり怒っているシルの姿にクロエとルノアも、アストレアとヘスティアも呆然としている。

「で、でも今は」

「今のアーニャの頭の中にはベルがいて、ベルが行動の指針ときっかけになっているのはその通りだよ」

「だったら」

「でもね、違うんだよ」

 膝を曲げ、座ったままのベルと目の高さを合わせたシルは、見慣れた笑顔に変わっていた。

「時が来たんだよ、アーニャにも。アーニャだってわかっていて目を逸らしていた、いつか当たり前に来るはずの時が、ようやくね。結局それだけのことなんだよ」

「時って?」

「お兄ちゃん離れ」

 シルの右手が、俯き気味なベルの頭を撫でる。

「お兄さんと家族であることに拘っていて。けれど自分がお兄さんに付いて行けなくなっちゃって。痛い思いや苦しい思いをして。それでも依存し続けるのは変わらなくて。とうとう突き放されてしまって。どうしていいかわからなくなってしまってここに逃げ込んで。それからずっと会いに行くことも怖くて出来なくて。そんなアーニャが走り出せたのはきっと、自分なりの向き合い方がわかったからなんだよ。それを教えてあげたのは、ベルなんだよ?」

「僕は何もしてないよ……」

「そんなことない。自分のことを家族だってベルが言ってくれることに。ずっとそうして接してくれていた日々に。アーニャはとっても救われていたんだから」

「……アーニャさんのことなら何でもわかってるみたいな言い方するんだね」

「わかるよ。なんて言ったって私は、アーニャと一番付き合いの長い家族だもん」

 ベルの頭から離れた手を腰に当てて胸を張るシルは、何処か得意気に見える笑顔でベルを見下ろしている。

「いつかアーニャが本当の望みと向き合えるようにって、アーニャとお兄さんの橋渡しをベルはずっと続けていたんじゃないの?」

「……そう……だけど……」

「だったら尚更だよ。ベルがしなきゃいけないのは、自分の為になんて悲劇の主人公ぶることじゃなくて、アーニャの行動の結果が、アーニャにとって良いものになるように応援してあげることじゃない?」

「…………」

「今はただ、アーニャを応援をしてあげようよ。こっわーいお兄さんと向き合おうとしている、ベルの家族のことを」

「……うん……そうだね……!」

 コクコクと二度頷き、自分に纏った陰鬱な雰囲気を消し飛ばし気合いを入れるように、両手で自分の頬をパンパンと叩くベル。赤くなった両頬の上にある両方の瞳はもう、悲嘆の色を纏っていない。

「……いつかベルも、お姉ちゃん離れしちゃうのかな?」

「必要なのは僕じゃなくて、お姉ちゃんが弟離れすることじゃないかな」

「な! 生意気ーっ!」

「あぅ」

 赤くなったばかりの両頬をグニグニと、勢い強めにシルが勝手放題弄り始める。

 その様を眺める全員が、微笑んでいる。

 やはりと言うか。シルといる時のベルは、少し様子が違う。

 シルが、アリーゼたちアストレア家の姉たちよりも特別ベルとの距離が近いと言うことではないのだが、まだ十四歳の子供であるベルの、子供の一面を引き出すのが抜群に上手い、とでも言えばいいのだろうか。

 冒険者の看板を母以外の全員が背負っているアストレア家内では、どうしたって冒険者なりの話題が付いて回る。

 しかし、一応は荒事から遠い一般街娘であるシルの前でのベルは、冒険者であることを気兼ねなく後回しに出来る。

 それは、特に冒険者として本格始動してからのベルのどうしたって端々が荒んでいく日々を整え、同時に清涼剤のようなものとなっている。

 アリーゼたちでは手が届き難い所をシルが補ってくれている、ということなのだろう。

「えいっ!」

「いぅっ!? いたた……おもいっきり抓ることないのに……」

「これくらいしないと頑固なベルは頭の中入れ替えられないもん。でも、もう大丈夫だよね?」

「うん。ありがと、お姉ちゃん」

「どういたしましてっ」

 出会った頃を思えば随分と遠くまで共に歩んだ二人が笑い合う。

「あーあー。やってらんニャいニャ」

 そんな二人の笑顔に水を差すのは猫の声。

「昼間からなんてもの見せ付けてくれるのニャ。つーかあの馬鹿猫ふっつーにサボってんじゃニャいニャ。なんかもーアホくさいニャ」

 心底つまらなさそうに悪態を吐きながら、ずっとどうしていいかわからなさそうにしていた黒猫のクロエは、店の裏側へ向けてスタスタと去っていく。

「クロエ? どこ行くの? まだお昼の営業が」

「ゴミ捨てニャー」

 クロエの姿が見えなくなり、間もなく聞こえたのは裏口の扉が開閉した音と。

「クロエさん……走ってる……?」

「だね」

 ベルとルノア。『神の恩恵(ファルナ)』を有している者の聴力であれば聞こえるだろうか程度の、石畳を蹴り付ける音。

「どうしちゃったのかな? いつもはもっと忙しい時を狙ってサボりに行くのに」

「はぁ……あの馬鹿猫共……」

 ベルがきょとんとしている側で、何かを察したルノアが呟く。

「……ねえ、ベル」

「うん? 何、ルノアさん?」

 大人びた、なんて感じがあんまりない、初めて出会った頃から印象の変わらない童顔がルノアを見上げ小首をかしげる。

「ん……」

 その姿に一瞬。ほんの一瞬だけ、胸が熱くなるのを感じた。

 同時に、湧き上がるものがある。

 その感情は、今感じた胸の熱さとはしっかり違うもので、それでもそこまで遠いものでもなくて、ルノア・ファウストを構成する上で絶対に欠かせない、強く激しい衝動だ。

「……やっぱ違うよ、シル」

「うん?」

「前に言ってたじゃん。私が……ほら……その……そっ、そういう感じなんじゃないかって……」

「えーっと…………ああうん! 言った! その話ね!」

 何故だか急にモジモジし始め、チラチラとベルの様子を窺うルノア。何事なのよとベルが困惑を深める上で、言わんとすることを理解したシルおねーちゃんが声を張った。

「あれ……やっぱ違うよ。確かに似たようなものは感じるんだけど……あのアホ猫二匹とシルとも。今の自分が同じ気持ちだってわかるから」

「わかるから?」

「ちょっと行ってくる! ミア母さんごめん! お腹痛いから早退しまーす!」

「ええっ!? ちょ、ルノアさぁん!?」

 ベルが驚き倒す前から堂々とした足取りで走り去っていくルノアの頬は、微かに赤く。

「やってやろーじゃん……!」

 同時に、とても好戦的に見える眼差しをしていた。

「そっか……私が思うよりずっと大人なんだね、ルノアは……」

 少女の内側に確かに根付いたものが何であるかを知る娘は、少し寂しそうに。

「それは、そこまで素敵なことじゃないんだけどな……」

 しかし決して悲嘆の色は見せない穏やかな笑みで、吹っ切れた表情で飛び出していった少女を見送った。

「あの、お姉ちゃん? 全然話に付いて行けなかったんだけど今のは」

「あ! いけない! ミアお母さんからお野菜の買い出し頼まれてたの忘れてた!」

「へ?」

「ちょっと行ってくるね! 直ぐ戻ってくるから!」

「いやお姉ちゃん!? みんな行っちゃったらお店が回らなく……って!? ちょっとちょっとみんなー!?」

 有無を言わせないシルの背中が遠退いていくのを引き止めようと伸ばしたベルの手は、それどころじゃない光景が広がり始めて完全に動きを止めてしまった。

 駆け出したシルたちを追い掛けるように、店の裏側で仕事をしていた従業員たちの多くが、持ち場を離れ始めたのである。

「勝手なことしてんじゃないよ……馬鹿娘共……」

 深い溜息を吐き出すミアの横顔からは、怒りの色は見て取れない。

「な、何でみんなしていきなり」

「おい坊主」

「は、はいっ!?」

「アンタ以外の誰が始めたケンカでも、何がきっかけだろうと、どっかの馬鹿娘たちが横槍入れようとも、これから始まるのは、坊主のケンカだ」

「……ミアさん……?」

「ケンカの真ん中にいるヤツがフラフラしてちゃあしょうがないだろ?」

「……はい」

「オタオタしていないでドンと構えて、誰より気合い入れて暴れてきな。いいね?」

「はいっ!」

 優しい眼差しと力強い言葉に心を刺激されたベルは勢い良く立ち上がり、ミアに向けて頭を下げた。

「それと、店のことなら心配無用だよ。臨時のバイトなら、もう見つけてるからね」

「あら?」

「んー?」

 今も忙しなく手を動かしているミアは、丸卓に残されている二人……二柱。

「まさか……」

「まさかーっ!?」

 アストレアとヘスティアを見据えて、唇の端を高く持ち上げた。

 

* * *

 

「何をしに来た」

「あ、ぅ……」

 若葉色のスカートを二つの拳でグッと握り込みながら、アーニャは俯いていた。

 戦いの野(フォールクヴァング)の正門前。ベルとはすっかり顔馴染みで、世間話の花も気安く咲かせてくれる二十代半ばの門衛は、日頃ベルに向けることなどない明確な敵意を。殺意でさえ、アーニャに向けていた。

「あ、みゃ、は……わたし……は……」

「お前のような捨て猫が今更足を踏み入れていい場所ではない。帰れ」

「ふ、フレイヤ様!」

「何?」

「フレイヤ……様に……会いた」

「それ以上喋るな」

 門衛は装備している槍の先端を、躊躇なくアーニャの鼻先に向けた。

「女神はお前を切り捨てた。そんな女神にお前は、恐怖を感じている」

「ぅ……!」

 その言葉の正しさを示すよう、アーニャの耳も尻尾も元気をなくしていて、唇も微かに震えている。

「そのくだらない目で我々の女神を見上げるな。女神の前に立つな。酷く不快だ。故に去れ。ここにお前の居場所などもうないことなど、お前自身が痛感しているだろう」

「そ、れは……」

 アーニャにブランクこそあるが、戦力面だけで言うならば、しっかりと槍を構えたままの門衛の方が劣っている。

 それでもアーニャには、この門衛に勝てる気がしなかった。武器も持たず制服のままやって来たからではない。

 折れて逃げてしまった自分と、折れず逃げず、本当は門衛なんて立ち位置に納得していないだろう、毎日洗礼に明け暮れている彼とでは、心の強さに天と地ほどの差があるから。

「……はぁ…………一つ聞かせろ」

「え?」

 ずっと鋭かった門衛の声が、微かにだけれど、丸みを帯びた。

「これは神ならぬ身である若輩の予測でしかないのだが…………お前がここへ来たのは、ベルに関連があるのではないか?」

「そ、そうニャ! ベルの力になりたい! だから」

「もういい喋るな」

「っ……!」

「お前のその行いは、ベルの為になるのか?」

「そ! そっ、れは……」

「女神も俺たちもベルの成長を願っている。しかし、お前がベルを助ける為に気紛れを振り翳すことが」

「気紛れなんかじゃない!」

 戦いの野(フォールクヴァング)。強靭な勇士(エインヘリヤル)。

 日焼けのように心に焼き付いているアーニャのトラウマたちに足を震わせながら、それでも吠えた。

「ミャーはそんな……そんなんじゃない!」

「…………」

「ミャーは……私は……!」

「アーニャ・フローメル」

「!」

 声も身体も震わせているアーニャの名を、低く澄んだ声が紡いだ。

「へ、ヘルン……!」

 女神の侍従頭なる栄誉を与えられている侍女にして、ベル・クラネルの病んママなる愛称をヘイズに付けられてしまった女。

 ヘルンが、大門の向こうに姿を見せた。

「女神の庭で不快な声を上げないでください」

「ぐっ……!」

「門を開けなさい」

「……いいのか?」

「フレイヤ様がそのようにと。既に事情を察せられておいでです」

「…………少し待て」

 まだ何か言いたそうに。しかしそれはするまいと引き下がった門衛の手により、重厚な造りの門が厳かに開放していく。

 その間ヘルンは、迷子の猫の揺れる瞳を見据え続けていた。

「行きますよ」

「んニャ……!」

 門衛とアーニャに背を向けスタスタと歩き始めたヘルンに置いていかれぬよう、慌ててヘルンの数歩後ろに飛び付くアーニャ。

「っ……ん……!」

 早速門が閉められていくことに微かな不安を覚えるが、それでもと歯を食いしばり、アーニャは久方振りの戦いの野(フォールクヴァング)の景色に身を震わせながら、ヘルンの後に続いた。

「入りなさい」

 すれ違う女神の眷属全ての眼差しに怯えながら暫く歩き、ヘルンに通されたのは、女神の神室に隣接している謁見室。

「久し振りね」

 その最奥。

 豪奢な座具に腰掛ける姿一つが絵画の世界を切り取ったかのような、畏怖さえ抱いてしまうほどの圧倒的な美が。

「アーニャ」

 女神フレイヤの姿があった。

「く……うぅ……!」

 震えが来た。

 何の思惑も透けてみえない女神の微笑みと眼差しを一目見ただけで、全身の震えが止まらなくなってしまった。

 怖い。

 何よりも誰よりも。

 女神が、怖い。

「こうして会うのは何年振りかしら?」

 目がチカチカする。

「顔立ちはあまり変わらないけれど、少し見ない間に女らしい身体付きになったようね」

 足がガクガク揺れている。

「今はミアの下で働いているのでしょう?」

 歯がカチカチと音を立てている。

「酒場のお仕事は楽しい?」

 冷たくて不快な汗がとめどない。

「……アーニャ」

「ぁ……!」

 穏やかだったフレイヤの声音が冷たいものに変わった。それを怖がるアーニャはとうとう、フレイヤから目を逸らしてしまった。

「何か私に用事があってここへ戻って来たみたいだけれど、折角久し振りに会えたのだから、少しくらい私のお話に付き合ってくれてもいいじゃない」

 女神を怒らせたらいけない。何か言わないと。何か、女神を怒らせないようなことを。

「ぇっ、ぉ、の……」

 言葉にならなかった。まともな声にすらなっていない。

 震える身体も震える声帯も、恐怖以外の情報を発することはない。

「はぁ…………ヘルン」

「はい」

「アーニャを下がらせなさい」

「え? ぁ……!」

 その場から動けず震え続けているだけのアーニャの腕を、ヘルンが掴んだ。

「アーニャから用事があるというから楽しみにしていたのに、その有様は何? 貴方の用事って、悪戯に私の時を浪費させ、私を苛立たせることだったのかしら?」

「ち、ちが」

「がっかりよ。あるべき場所に帰りなさい。ここはもう、貴方の居場所じゃないでしょう」

 冷たく突き放すような言葉に、涙が出そうになる。

「ぅ……うぅ……!」

 というかもう出ている。

 女神の微笑みが怖くて。

 覚悟を決めてやって来たのに、何も出来ないでいる自分が情けなくて。

「ふっ……ふっ……ふっ……」

 落ち着け。頑張って落ち着け。

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……!」

 無理だ。全然落ち着かない。それどころかどんどん怖くなっていく。今朝食べたご飯を吐き出してしまいそうだ。

 ダメだ。もうフレイヤの顔を見ることも出来ない。今目が合ったら泣いて叫んで吐いてきっと殺される。

 怖い怖い怖い怖い逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい助けて助けてたすけてたすけてどうしようどうしようどうしようどうしよう。

「しっかりなさい」

 小さく顰めたその声は、フレイヤのものではなかった。

「ぇ?」

 声のした方向に、涙に溺れた瞳を向ける。

「あの子が待っているわ」

 ヘルン。

 自分の腕を掴み、実に緩慢な動作でアーニャを部屋の外へ引き摺り出そうしている、ヘルンの声だった。

「ふふ……」

 侍従の声が聞こえたのか。それとも単にそういう気持ちになったのかは女神のみぞ知るところだが、座具の上で足を組んでいる女神が、微笑んでいた。

 先ほどアーニャに見せたような、冷たい眼差しでもなんでもなかった。

「……へ……るん……は……」

「何です?」

「べるのこと……すき?」

「なっ!?」

 女神の眼差しなど見えていないアーニャはと言うと、素っ頓狂なことをヘルンに口走っていた。

「い、いきなり何を言い出すのこのアホ猫は! 私があの子の世話を焼いているのはあの子がフレイヤ様の息子だから! あの子がフレイヤ様の機嫌を損ねたり息子としてフレイヤ様のご尊顔に泥を塗りたくることのないようにと教育を施しているだけに過ぎないただそれだけ! それ以外に個人的な感情など一切」

「みゃぁはべるがすきだニャ」

「なっ!?」

 何故か頬を真っ赤にして語り始めたヘルンの言葉を止めたのは、弱々しいアーニャの言葉。

「みゃぁは……ミャーたちは……ベルが好きニャ……大切ニャ……」

「あ、ああ……そういう……」

 紛らわしい言い方をしないでとヘルンが小声で怒るも、アーニャには聞こえていない。

 そもそも、ヘルンのこんな姿を見るのもアーニャは初めてだったのだが、今は後回し。

「だから……だから!」

 尚もブツブツと何かを囁いているヘルンの腕を無理矢理に振り解くアーニャ。

「ミャーはここにいるニャ!」

 まだ涙を落とし続けているが、少なくとも手足の震えは、止まっている。

「くっ…………ふ、フレイヤ様!」

 ぐしぐしっと涙が光る目元を乱暴に拭い、何故かとっても愉快そうに笑っているフレイヤの名を震える声で呼んだ。

「なぁに?」

「その……お、お久し振り……です……」

「ええ、お久し振り。それで、要件は?」

「フレイヤ様に……お、お願いと……言いたいことがあって来たにゃ……き、来ました……」

「叶えるも聞くも全ては内容次第。先ずはそのお願いとやらを聞かせてもらいましょうか」

 下がらせろとの命は反故となったのか、フレイヤはアーニャの話を聞くつもりらしい。ヘルンも何も言わず、アーニャの背中から数歩下がった。

「……ミャーを……ファミリアから……脱退させてください……」

 お願いの中身を聞いたフレイヤの瞳が細くなる。それだけのことで背筋に震えが走るが、目線を下げてしまわないようにと、アーニャは顎に力を入れた。

「アーニャがまた私の元へ戻って来てくれたらとっても嬉しいと思っていたのに。残念ね」

「じゃ、じゃあ」

「ええ。認めてあげてもいいわ」

「ほ、ほんとうに」

「ただし」

 鋭い声音が、微かに浮かれたアーニャの気勢を削ぎ落とす。

「そんな勝手をされてしまったら、私だって貴方とアレンを会わせてあげることは認められなくなっちゃうわよ?」

「な……!」

「当然でしょう。アーニャと血が繋がっていようと、今のアレンは私の眷属。私の眷属でもない部外者と好き勝手に会わせるわけにはいかないもの。アレンには副団長という立場があるのだから尚更ね」

「そ、そんな……!」

「私の元を去ろうと言うのなら、私の元で得たもの所有しているもの全てと縁を切ってもらう。これは簡単な話よ。選びなさいアーニャ。ファミリアに戻りアレンを取るか、ファミリアから脱退して、それ以外を取るか」

 いきなり突き付けられた二者択一の重みに、アーニャの視界が霞んでいく。

 どうして? どうしてそんな酷いことを言うのですか?

 どうして血の繋がった家族か血の繋がらない家族のどっちかを選べなんて言うの?

 どうして家族と自由に会うことを許してくれないの?

 恐怖と困惑と苛立ちの混ぜ物が、アーニャの心身を暗く重くしていく。

「にい……さま……」

 アレンは、光だった。

 アレンは、自分の全てだった。

 アレンと離れ離れになってからの人生は真っ暗。

 シルに拾われて酒場勤めを初めてもそれは変わらなくて、毎晩毎晩頭の中の兄に。まだ自分の手を握っていてくれた頃の兄に縋り付いて、毎朝毎朝現実の重みに屈して泣いていた。

 それか少しずつだけれど、笑えるようになった。そうなれたのはシルのお陰だと胸を張ってアーニャは言える。

 ミアの存在も勿論大きいが、どんな小さな感情の機微も見逃さず、しかしベタベタしたら逆効果だなって時には踏み込むことなく静かに見守ってくれていたシル。

 シルだったからアーニャは前を向けたし、笑うことが出来るようになった。

 シルがあってこその今の自分だ。

 恥ずかしいから日頃は絶対口にしないけれど、シルへの恩義をアーニャは忘れたことがない。

 そうこうしているうちに、一人の男の子がやって来るようになった。

 そのちびっこは、なんやかんやあってシルの弟になった。なんだそれである。

 詳しく話を聞けば、フレイヤの息子だと言うじゃないか。

 そのよくわからん話に心底驚いて、同時に恐怖もした。

 もしかしたらこの白髪頭は、フレイヤ様が自分の様子を監視したりする為にここへ放り込んだのかも?

 それが自分の考え過ぎだと確信した頃に、クロエとルノアがやって来た。

 気付けば、変なヤツばかりが集まってしまったものだと思う。

 その変なヤツらのことを大切に思っている自分がいる。

「にいさま……!」

 その気持ちは、とある誰かを自分が思う時に感じる気持ちに、とても良く似ている。

 さっき、ベルが言っていた。

 ベルにとっての自分がどんな存在なのかを。

 そんなこと言われなくたって、アーニャだってずっと前から同じように思っている。

 それが依存だとなんだと言われようと。

 ないものねだりだとなんだと言われようとも。

 何も嘘じゃないんだから。

「兄様っ……!」

 好きなものは好きで、大切なものは大切なんだから、仕方がないだろう。

「何? やっぱりアレンが」

「やめます」

「……ファミリアを?」

「はい」

「理由を聞かせてくれる?」

「家族を守る為……です……」

 もう一度目元を拭った手は、もう震えていない。

「フレイヤ様はもう知ってるはずです。ベルが、ヘスティア・ファミリアと一緒に戦争遊戯(ウォーゲーム)に出るってことを」

「もちろん」

「でもまだまだ戦力が足りない。だから私がベルの力になる。それに、ベルが傷付けられたのに、黙ってなんていられないから」

「それは、ヘスティアの所へ改宗(コンバージョン)するってことかしら?」

「しません」

「しないの?」

「はい。私はもう、どのファミリアにも所属しません。冒険者には……戻りません」

「……貴方の理由はわかった。あの子の母親として、正直嬉しい部分もある。けれど、貴方とアレンが遠くなってしまうことを、ベルは望んでいないと思うわよ?」

「はい……わかってるつもりです……」

「貴方がベルに内緒でこんなことをしていると知ったら、あの子は落ち込んでしまうのではないかしら?」

「それもわかってます……でも、ベルにもちゃんとわかってもらいます。わかってもらえるまで、たくさん話します」

 話すこと。

 アレンが放棄してしまったことも当然あるのだが、アレンに拒絶された経験から得た、アーニャなりの問題の解決策。

 馬鹿な自分には素直に言葉を伝えることしか出来ない。それが正しい選択じゃなかったとわかっていても、アーニャにはそれしか出来ない。

 肝心なことは正しいか正しくないかじゃない。向き合うことを諦めないことだ。

 それしか出来ないからって話すことそのものを放棄してしまうのはもっと馬鹿なことだって、馬鹿なアーニャでもわかる。

「今は何よりベルを……友達で、同僚で、仲間で、後輩で……家族。そんなベルを、守ってあげたい……!」

 ヘナチョコなのに、いつだって誰かの為にと頑張れるあの子を。

 アストレアの眷属たちやフレイヤの眷属たちに毎日のようにボコボコにされて、何度も悔しがって泣いて、それでも九歳の頃からずっと同じことを言い続け、自分の願いを叶える為の努力を絶やさないでいる、決して折れないあの子のことを。

 その頑張りも涙もずっと近くで見てきた自分が。アストレアの眷属たちや、シルやミアたちにも負けないくらいベルのことをわかっていて、大切に思っている自分が。

 自分に出来ること全部で、守ってあげたいと思う。

「だからお願いしますフレイヤ様! 私の脱退を認めてくださいっ!」

 決然とした眼差しで自分の願いとその動機を全て曝け出し、アーニャは頭を下げた。

「…………わかった」

「じゃ、じゃあ」

「その話は一度後回しにしましょう。私に言いたいことがあると言っていたわね? それを先に聞かせて欲しい。いいかしら?」

「…………はい……」

 おあずけなんて猫は不得手であるのだが、それでもアーニャはフレイヤの言葉に従った。

 自分の中ではこっちの要件だって、ベルの件に負けないか、なんならそれ以上に大切なことだから。

 どんな結果に転ぼうと、今日でフレイヤとの縁が切れてしまうかもしれない。

 だから今日しかない。

 今日ここで。ちゃんと目を見て、ずっと伝えられないでいたことを、伝える。

「……フレイヤ様……」

 小首を傾げる。たったそれだけの仕草が異様なほど蠱惑的に映る。

 そんな姿もどんな姿も、フレイヤの全てが、アーニャは怖い。

 自分と兄とを切り離し、捨てられる怖さを教えてくれたこの女神様が怖くて仕方がない。

「あ、ありがとうございました!」

 けれど、馬鹿なアーニャでも忘れていない。

「フレイヤ様のお陰で兄さまと私は、こうして生きています!」

 自分たちを拾ってくれたこと。

 居場所を与えてくれたこと。

 生きる術を教えてくれたこと。

 生きることや、強くなることの厳しさ、怖さを教えてくれたこと。

 今の自分とアレンがあるのは全て、この女神が見つけてくれたからこそであることを。

「ここでの洗礼の日々はすっごく辛かったです。何度も死にたいと思いました。なんでこんなことをしてるんだって。なんで自分はこんなに弱いんだって。兄様の隣で戦うことも出来ない自分のことを何度も嫌いになりました」

 この場所で思い出すのはいつだって、ズタボロ血塗れな自分の姿と、そんな自分と違って日に日に強く速くなっていく兄の背中。

 あの苦しかった日々も、兄に置いていかれることも、女神に捨てられたことも、全てが一生癒えないトラウマかもしれないけれど。

「でも今は……生きててよかったって思えるようになりました! 愚図な自分のことも好きになれました! 兄様以外知らなかった私が兄様以外の誰かを大切に思えることを知りました! 兄様以外の誰かと生きることが出来るんだって知ることが出来ました!」

 折角綺麗にしたはずの目元が、再び濡れ始めた。

「シルと出会って! ミアかーちゃんと出会って! ベルにクロエにルノア! 酒場のみんなと出会って、誰かと生きられることの喜びを思い出すことが出来ました!」

 アーニャの頬を伝い落ちていく雫の内側に、幾つになっても変わらない、幼い笑顔が見えた。

「こんな私にも居場所が……兄様以外の家族が出来ましたっ……!」

 なんでこんな有様になっているのかわからないまま、アーニャは自分を曝け出す。

「今の私には居場所がある! 兄様以外の家族がいる! その場所を……家族を守る為に……兄様とお揃いを! やめます!」

 冒険者という同じ生き方。

 同じ派閥。

 同じ装備。

 ずっと同じ場所。

 何もかも同じがよかった。

 他の誰かに笑われたって、アレンと全部同じで、アレンと同じ場所にいることが、アーニャの全てだったから。

 それをやめようと。

 おしまいにすると。

 過去の自分が聞いたら泣き喚いてお願いだからやめてと懇願してきそうな言葉を喋る度に涙が溢れ、それを誤魔化したくて無理矢理笑う。

「我儘を言ってごめんなさい! フレイヤ様が願うような強靭な勇士(エインヘリヤル)になれなくてごめんなさい!」

 謝罪の言葉を発する口元は、不器用なカーブを維持しようと一生懸命。

「私は全然だったけど……兄様が誰よりも速く走れるようになったのは、フレイヤ様のおかけです! ありがとうございます! 兄様が知らなかった世界へ兄様を連れて行ってくれて、本当にありがとうござます……!」

 本心の中に少しの見栄と嘘。

 フレイヤがアレンを重用しなければ、今でも自分たちはずっと一緒にいられたのかもしれないと、そう考えなかった日はないから。

 でも、今もアレンが走り続けられていられるのは全て、フレイヤの存在があるからだってわかる。

 それを認められるくらいには、アーニャも大人になった。

「わた、しがっ……言うことじゃないのかもしれないけど……兄様のこと! これからもどうか! よろしくお願いしますっ!」

 もう一度、勢い良く頭を下げる。

 その勢いに驚かされたアーニャの感情の結晶たちが、雨のように不規則に、女神の庭に降り注がれる。

「ええ」

 頭を下げたままのアーニャの耳を揺らす、いつからか恐怖の象徴でしかなかった美しい声。

「アーニャの気持ちはわかった。アレンのことも。信じろだなんて言えないけれど、私に任せておきなさい」

「っ……はいっ!」

「この場所でアーニャの心をこんなに近くに感じるの、初めてね」

「え?」

 突飛な言葉に突き動かされて顔を上げると、少し寂しそうに見える女神の微笑みが、アーニャに向けられていた。

「名残惜しい思いだけれど……いいでしょう。貴方の脱退を認めるわ」

「……ごめんなさい……でも、ありがとうございます……!」

「さっき言った意地悪も忘れてくれていいわ」

「い、意地悪?」

「ここに来るのもアレンに会うのも認めない、って話よ。その気があるのなら気兼ねなく来るといいわ。そうでなくとも最近は、他派閥の姦しい娘たちが頻繁にやって来るんだもの」

 いちいち気にすることではなくなってしまったから。

 微かな溜息と共に付け足した女神の尊顔に、不機嫌の気配は微塵も感じられない。

「ありがとうございます…………でも……もうここには来ません」

「……いいの?」

「よくない……です……でも、一度ダメになったからって塞ぎ込んで……会いに行くことに怖くなっちゃって……何も出来なくなって……今度は自分の我儘で、フレイヤ様の眷属であることをやめようとしてる。兄様がいるのに、自分には他の家族もいるからって。こんな勝手なことばかり言ってて、兄様にも会いたいなんて言えません……それに、兄様もきっと、今の私には会ってくれないと思います」

 そんなことないと思うけれど。

 少なくとも可能性が完全にないわけではないだろうと感じたフレイヤの脳裏に浮かんだ言葉だがしかし、その言葉は胸の内に隠しておくことにした。

「でも……」

 まだ、何かを言いたそうにしているから。

「でも私は……ミャーは! 何も諦めたわけじゃニャいニャ!」

 乱暴に目元をゴシゴシと拭った下から見えたのは、八重歯が見えるくらいに口を開けている、迷子の少女ではない、一匹の猫の笑顔。

「今は無理かもしれニャいけどいつか! また一緒に暮らしたい! 家族に戻りたい! ミャーは諦めないニャ! だから、次にミャーがここに来るときは、兄様を迎えに来る時だけニャ! その時はちゃんとフレイヤ様に挨拶をしますニャ! 兄様を迎えに来ましたって!」

「それ、私からアレンを奪うと言っているのとほとんど変わらないじゃない」

「フニャ!? そ、そんなことはしないニャ! 絶対しないニャ!」

 愉快そうに微笑む女神の問い掛けに、帰る家を見つけた猫は慌てたように首を横に振った。

「ミャーがここに兄様を迎えに来るのは……兄様がたくさん走って走って、兄様が走りきった時だけニャ」

「仮にアレンが槍を置けるような時が訪れたとして、アレンは応じてくれるかしら?」

「きっと直ぐには無理ニャ。兄様はミャーを見たらきっと怒っちゃう。だから……たくさん話したいニャ。怒られても、怖くても、何度だって話したい。何度だってミャーの話をするから、どんなことでもいいから、兄様の話を聞かせて欲しいニャ。そうして……いつかまた……だから……兄様っ!」

 フレイヤから視線を外し、謁見室の高い天井を見上げ、アーニャが叫ぶ。

「何処かで聞いていますか!?」

 返事はない。

「わ、わた…………みゃ、ミャーは!」

 不安定な幼い声が、猫の遠吠えに変わった。

「今! 幸せニャ!」

 いつからか捨て猫を名乗れなくなっていた元迷い猫は、笑っている。

「大切な家族に囲まれて、毎日楽しいニャ!」

「でも! 兄様がいないから、ミャーの幸せはまだ一番大きくなってニャい!」

「兄様がいないと! ミャーは一番幸せになれないのニャ!」

「だからミャーは、兄様を諦めないニャ!」

「いつか必ず、兄様と家族に戻る!」

「ミャーにとっての一番はずっと! これからもずっとずっとずっと!」

「兄様だから!」

 自分の気持ちの全てを、姿も見えず気配も何も感じられないアレンにぶつけた。

「ミャーはもう冒険者をやめるニャ。それでいいんだって、ようやく思えるようになったニャ。でも……戦い続けるニャ! いつか兄様とまた暮らせるように自分を! こんなミャーを家族だって言ってくれるシルたちを! ミャーが守る! それが、ミャーだけにしか出来ない戦いニャ! だから……!」

 不安定に閉じたり開いたりしていた二つの拳をグッと握り込んで。

「また会おうね! 兄様っ!」

 兄に甘える妹の声のままで。

 兄との決別を、口にした。

「また……必ず……!」

「……今の、アレンに伝えたほうがいい?」

「大丈夫です……ニャ……」

「聞こえているといいわね」

「聞こえてなくてもへーきニャ。ミャーのやることは変わらないのニャ」

「……大きくなったわね」

「ふニャ?」

「なんでもない。そういうことなら……アーニャがアレンを迎えに来られる日を、楽しみに待っているわね」

「はいニャ!」

 一匹も一柱も、嘘なく笑う。

 そんな日が来るのだとしたら、それはきっと、悪いものではないとわかるから、二人の女は笑い合うことが出来る。

「さて。アーニャの気持ちも聞かせてもらったことだし、早速儀式を始めましょうか」

「ギシキ?」

「お別れの儀式と言うのは寂しいから、貴方が改宗(コンバージョン)可能な状態にする儀式、と言っておきましょうか」

「は、はいニャ!」

 その後、フレイヤに導かれるまま、隣接しているフレイヤの神室へと通された。

 フレイヤ以外が座るのだろう椅子や、部屋の隅に置いてある卓上遊戯(ボードゲーム)などなど、数年前に見た時から随分と様子が変わっていることに驚いていると。

「あの子と遊んだりお話出来るように色々と弄ったのよ」

 女神の息子となったアーニャの弟的な存在が影響しているのだと、そう教えてくれた。

 それに驚きながら、フレイヤに導かれるまま、何年振りかもしっかり思い出せないくらいの時を経て、フレイヤの前にありのままの上半身を晒した。

 先ずフレイヤは、ステイタスの更新をしてくれた。

「私の眷属であるアーニャにあげられる、主神(わたし)からの最後の贈り物ね」

 そんなことを言いながらアーニャの背中に赤い血が滴る指先を走らせる。久し振りに感じる心や魂に被せている蓋を開かれるような感覚に背を振るわせると、怖がらなくていいのよと諭すよう、手隙のフレイヤの左手がアーニャの腕を撫でてくれた。

「終わったわ」

 程なくして終了したステイタス更新の結果が記された用紙を、胸元を隠しながらフレイヤから受け取る。

 昇格(ランクアップ)は出来なかったが、ステイタスはかなり上がっていた。それらの数値は次の階位へ至るのに充分届き得るものであったが、偉業の方が足りていないのだろうとはフレイヤの談。

 時折ではあるが酒場絡みで戦闘が勃発したり、なんとなくルノア等と訓練をしたりはあったのだが、自分の限界を試されるほどの戦いを経験してこなかったのだ、それも当然か。

 フレイヤの手で行われる最後のステイタス更新を終え、次の儀式に移る。

 フレイヤとアーニャの繋がりを途切れさせる、別れの儀式に。

 その儀式の間。

「ベルから私のこと、何か聞いてるかしら?」

 妙に緩慢な指運びのフレイヤから、こんな話を振られた。

「え、っと……フレイヤ様は……と、とらんぷたわーを作るのが……すっごくへたって……」

「は?」

「あやとりもへたっぴで……簡単なヤツも全然作れないって……言ってたニャ……」

「あの子ったら……私が見ていない時にそんなことを……」

「お、怒らないで欲しいニャ! ベルは悪くないニャ! ミャーがフレイヤ様のことを怖がってるからそんなことないって伝えたくてそういう話をしてくれてたのニャ!」

「わかっているわ。でも気に入らないものは気に入らないの。私はベルの秘密を言い触らしたりしていないのに。不公平よ」

 アーニャの背に触れるフレイヤの頬が膨らんでいるのが、フレイヤの顔を見なくともアーニャには感じ取れた。

「ミャー……全然知らなかったニャ。フレイヤ様が、そういうの苦手だニャんて」

「神だからって何でもかんでも軽く出来てしまうわけではないの。業腹だけれど、どうにも私は不器用みたい。アーニャとお揃いね」

 フレイヤが怖い顔をしていないのがわかる。笑っているのがわかる。

 昔からそうだった。

 フレイヤはいつだって厳しかったけれど、優しくないわけじゃなかった。

 確かにこの女神は、自分から兄と居場所を奪ってしまった。そのことを恨んでいないと言ったら嘘になるし、この女神に与えられた恐怖や孤独はこれからもアーニャの中で燻り続けることだろう。

 それでも、アーニャは言った。

「ミャー、もっともっと、フレイヤ様とたくさんのことをお話しておけばよかったニャ」

 ベル曰く、とっても可愛いお母さんらしいフレイヤの可愛い一面を少しでも多く。もっと小さな頃に知ることが出来ていたとしたら。

 それで何かが変わったとは思わないけれど、ここまでフレイヤを怖がることはなくて。

 きっと。もっと素直に。女神の眷属たちの礎たるこの場所で生きる勇士たちのように女神に心を寄せていて、兄以外の居場所を見つけられていたのかもしれない。

 それが正しいことかと言われれば、正直怪しいものだけれど。

 以前より随分改善されたらしいけれど、何せフレイヤ・ファミリアと言えば、女神大好きを拗らせ過ぎた問題児だらけらしいから。

「私も、あの頃のアーニャの声をもっと聞いていればよかった。けれどそれはもう終わったこと。話の続きはまたいつか。アーニャがアレンを迎えに来た時。それでいいのでしょう?」

「はいニャ! ん……ニャ?」

「襟、乱れてる」

 店の制服を着直したアーニャの首元にフレイヤの手が伸びて、綺麗に整えてくれた。

「よし、可愛くなった」

「あ、ありがとですニャ……」

 恥ずかしそうに視線を迷わせる元迷子の猫。そんな元娘の姿に微笑みを寄せる。

「貴方を待っている人がいるのでしょう? そろそろ行ってあげたら?」

「……はい」

 急かされたんじゃない。

 背中を押してくれたんだ。

 主神と眷属である以上対等ではないのが当たり前だが、今のフレイヤとならば、二人を繋ぐ一番大きいものが恐怖であることはなかったんじゃないか。

 今なら、この場所でもっと上手くやれるんじゃないか。

 アーニャ本人は勿論としてフレイヤも、アーニャの内に生じた揺らぎに気付いているから。

 後ろ髪を引かれるのは、痛いものだから。

「じゃあ……失礼します……だニャ。あ、改めて、ありがとうございました! お世話になりました! ですニャ!」

 矯正前後の口調が混ざり合っていることに気付かないまま、神室の扉前からもう一度頭を下げるアーニャ。

「アーニャ」

 そのまま走り去っていきそうな猫の背を、今はあまり怖く感じない綺麗な声が呼び止める。

「身体に気を付けてね」

「……はい! ちゃんとお腹冷やさないようにして寝るニャ!」

「そうしなさい。それともう一つ。ベルのこと、任せていいかしら?」

 ピーンと耳を立て、ピコーンと尻尾を立て。「任せるニャ!」

 次にはぐっと親指を立てて、家出から帰って来たばかりの迷い猫は新たな家へ向け、駆け出して行った。

「扉くらいちゃんと閉めていきなさい……本当に忙しないんだから……」

 女神の神室の扉を閉め忘れるという、フレイヤの眷属たちにキレられそうなやらかしを咎める彼女の口元は、穏やかな弧を描いている。

「今のあの子に、片割れなんて称号は似合わないわね」

 絆された、なんてつもりはない。

 ただ、成長を感じた。

 だからフレイヤはアーニャの願いを聞き入れた。

 それだけの価値があり意義があると思わせるだけの意志の強さを、女神フレイヤの前で示してみせたから。

 勢い任せの一過性のものでも構わない。

 少なくとも、何も出来ず、何も変えられないと塞ぎ込んでいただけのアーニャはもう、いないのだから。

「片割れではなく、片輪として。二人で一台の戦車になって。兄妹同じ方を向き。同じ物を見て。同じ未来へ私を運んでくれる。そんな未来もあった……いえ。あるのかも」

 もうここには戻らないと言ったけれど、可能性は皆無なんてことはないと思う。さてどうなるやら。

「……アレン」

 開かれた扉の隙間を走り抜ける女神の声。

 その隙間に。慌ただしい片輪が駆け抜けて行ってしまった轍に。

 一匹の猫が、女神に背を向けて立っていた。

「もっと速く。全てを置き去りにしてしまうくらい速く。周回遅れの戦車の片割れを無理矢理引き摺れるくらい速く、強くなりなさい」

「…………」

「貴方の手で、黒竜を討ちなさい」

「……失礼します」

 女神に礼も返さないその猫の姿は間もなく、女神の視界より消え失せた。

「二人一緒じゃなきゃそのうち頭打ちだと思っていだけれど、新たな可能性が芽生えたわね」

 アーニャにも。アレンにも。

「目で捉えるだけでも大変だと言うのに、益々目を離せなくしてくれるじゃない」

 今は眷属の不敬など気にもならない女神は。

「都市最速のお兄ちゃんも、都市最高のお馬鹿な妹も」

 後者は言い過ぎかしらと添えて、晴れやかな笑みを浮かべた。

 

* * *

 

「入りなさい」

「失礼します」

 三度のノックにノータイムで応じると、きりりと表情を締めた眷属が、堂々とした足取りで執務室へ入って来た。

「ふーん」

 左手に何か、武器らしき物を手にして。

「お仕事中失礼します、ヘファイストス様」

「いいのよヴェルフ……んっ……あ」

 ペンを置いてぐいっと背中を伸ばす女神ヘファイストス。

 高くに見えていた太陽がいつの間にか姿を消してしまった夜。昼過ぎから長時間に渡り事務仕事に没頭していた疲労感を吐き出す様を眷属の前で見せてしまったことに些かの気恥ずかしさを覚えるも時既に遅し。

「こほん。さて、色々と話したいことはあるけれど……先ずは、左手に持っている魔剣について聞かせてもらおうかしら」

 気を取り直した女神は、この訪問の肝になるのであろうそれに、早速触れた。

「昨夜からこいつを打っていました」

「魔剣を?」

「はい」

「ヴェルフが?」

「俺がです」

「そう……」

 可視化されたかのよう、ヴェルフの全身から疲労感が見える。

 それもこれも、正直言っていい出来をしているとはとても言えないものだけれど、左手で持っている短剣の形をした魔剣を作る為。

 彼なりに筋を通し、覚悟を自分に示す為。

 そういうことなのだろう。

 即ち。

 別れの時が来たのだと、ヘファイストスは感じていた。

「単刀直入に言います。お別れを告げに来ました」

 真っ直ぐに敬愛する女神の瞳を見据える青年の眼差しは、微塵も揺れていない。

「ヘスティア様の元へ行くことを許してください。その上で、俺を昇格(ランクアップ)させてください」

「注文が多いわね。しかも一方的。そんなんじゃ女の子にモテないわよ?」

「俺には貴方がいるので、他はどうでも」

「あ、そう」

 簡素な返しになってしまったが、この手の文句をそれなりに言われて来たヘファイストスでも、胸に刺さるものがあった。

「こいつは別れの品と、俺なりの覚悟の証です。言い訳みたいで女々しいですけど、もっと細部を詰めてやりたかった。けど贅沢を言っている時間が惜しくて妥協しちまいました。すいません」

 男の子なのだなあ。

 大方、筋を通すだのなんだのと、女の子の理解から少し遠い、彼なりの行動理念があったのだろうな。

 そういうの、嫌いじゃないけれど。

「覚悟と言うのは、私の元を離れることもあるけれど、これからの貴方は魔剣も打つ。そういう覚悟でもあると見ていいのかしら?」

「はい。俺はこれから、魔剣を打ちます。手始めに、リリスケを支える魔剣を」

 事務仕事に没頭していたヘファイストスの集中を掻き乱し続けた案件。そのきっかけであり、ど真ん中にいる他派閥の少女の名前が出てくるのはまあそうだよなと。

「どうして魔剣なの? 貴方、魔剣を毛嫌いしているじゃない」

「俺が力になってやれなきゃしょうがないってのに、俺の拘りや意地があいつらの足を引っ張るなんて俺自身を許せません」

「…………」

「俺だからあいつらにしてやれることがある。それがあいつらを助けてやれる。いや、絶対に助ける。置いていかれるのはもう御免だ。その為に今出来る最大のことをする。今を生き抜き、切り拓く為に魔剣を打つ。そう決めました」

 笑顔の陰に、諦観にも似た念がチラついている。

 ヴェルフは魔剣が嫌いだ。誰よりも優れた魔剣を打てるだけの才を有していながら、魔剣を打たない。

 その拘りはヴェルフだけのものであるからと、特に最近はその拘りへの言及を控えて来たけれど。

 その拘りと向き合う覚悟が、ヘファイストスが諭すよりも先に出来てしまったらしい。

 きっと、十八階層での一件が拍車を掛けているのだろうことは、詳細を聞き齧っただけのヘファイストスでも理解出来た。

「こいつが使い手を残し去ってしまうと言うのなら、その分を俺が埋めます」

「つまり?」

「俺は、俺の打った物を手にしてくれる使い手の隣を離れない。俺の打った武器が砕けても、砕かれていない俺が共に戦う。屁理屈染みているのは承知していますが、こう考えたら少しだけ気が楽になりました。はは……」

 微かに滲んでいた諦観が、すっと消え失せていく。

 なるほど確かに、屁理屈染みた文言だ。

 しかし、その持って回った言葉たちが、ヴェルフの支えの一つとなっているらしい。

 自分が思うよりもその言葉、その気付きに、誰あろうヴェルフ本人が、可能性を見出していることも感じられる。

「持ち主を置いて行っちまうのが嫌だから。壊れちまうのが嫌だからって魔剣(こいつら)から長いこと目を背けて来たんです。魔剣(こいつら)からしたら勝手極まる話でしょう。だからまずは、魔剣(こいつら)のご機嫌取りから始めてみようかと思います」

 自分でも不出来であるという自覚がある、左手の中で鈍く輝く魔剣をヘファイストスへ差し出しながら笑うヴェルフ。

「……なるほど、まだまだね」

「はい。俺なんてまだまだです」

 受け取った魔剣を見分するなり一刀両断するヘファイストス。それに驚くでも傷付くでもないヴェルフは笑みを崩さない。

「だから鍛えます。鍛え続けます。鉄も、俺自身も。槌と鉄、そして燃えたぎる情熱(ほのお)さえあれば武器はどこでも打てるも教えてくれた貴方に、もう鍛えてもらえることはなくなったとしても」

 魔剣をヴェルフに返そうと伸ばしたヘファイストスの手を止め、優しく押し返した。

「そいつを預かっていてください。そうしてくれると嬉しいです」

「……ええ、わかった。生意気盛りなヴェルフだと思って、毎日小突いてあげることにするわ」

「勘弁してください、いろんな意味で……」

 ベルが隣にいるから何かと兄貴分扱いされがちだが、ヘファイストスに言わせればまだまだヴェルフは幼くて、年齢通りのヤンチャさを兼ね備えた可愛い子。

「ふふ……」

 久し振りに自分の前でそういう一面を見せてくれたことが嬉しくて、ヘファイストスの横顔が綻ぶ。

「俺、思うんです。俺ならいつか、魔剣を越える魔剣を打てるかもしれないって」

「魔剣を越える魔剣?」

「例えば……絶対に壊れない魔剣、とか」

「……そうね。貴方なら届くかもしれない。下界の歴史に於いて誰も届いたことのない、至高の頂きに」

「ありがとうございます」

 過分な評価とは思わなかった。

 自分なら出来る。

 そうならなきゃ、自分が自分である意味がない。

 そんくらいになれなければ、馬鹿デカい夢を抱いている歳下の相棒を支えてやることなんて出来やしないんだから。

「貴方の覚悟はわかった。いいわ。認めてあげる。貴方の退団も、昇格(ランクアップ)もね」

「ありがとうございます」

 育ちの良さを感じさせる丁寧な仕草で礼を返してくれた、これからは自分の眷属ではなくなってしまう子供に手招きをし、器の昇華の儀式に早速取り掛かることにした。

 ヴェルフの昇格(ランクアップ)に関しては数度、揉めたことがある。

 ヴェルフがベルと出会ってからもう直ぐ三年が経とうかという頃合いだったか。

 ベルとの鍛錬や、アストレアの娘たちによるスパルタにもほどがある鍛錬の成果なのか、ヘファイストスが予見していたよりもずっと早くに昇格(ランクアップ)が可能な状態にヴェルフはなった。

 しかし、ヴェルフは昇格(ランクアップ)を拒否した。

「俺は、ベルを待ちたい。あいつの冒険が始まるまで、このままがいいんです」

 ヴェルフらしいと笑いながら、ヘファイストスはその拘りに異を唱えた。

「聞こえは悪いけれど、あの子と一緒に足踏みをすると、貴方はそう言っているのよ? いずれあの子と共に歩むために。あの子の成長を支えるために。あの子の少し先を歩く。そういう考えは出来ない?」

 眷属の気持ちを尊重するのは勿論としても、主神としては眷属の可能性を早期に広げられるのならそうするべきだとヴェルフを諭そうとした。特にヴェルフはまだ若い。初めて昇格(ランクアップ)が可能となったのはヴェルフが十代の後半に入ろうかという頃。充分過ぎるほどの有望株だ。

 鍛治師という稼業で名を挙げて行くことを望むのならば早ければ早いほどいいと、ヘファイストスは幾度もヴェルフに説いた。

 それでもヴェルフは、ベルの隣に拘り続けた。

 結果、ヴェルフの拘りをヘファイストスが受諾し、以降しばらく昇格(ランクアップ)の話題がヴェルフとヘファイストスの間で交わされることはなくなった。

 それから数年。

 久し振りに昇格(ランクアップ)の話題が出たのは割と最近。ベルが初めてのダンジョン進行から、タケミカヅチの子供たちと帰還した後だ。

「散々勝手を言って来ましたけど、時が来たのだと俺は感じています。お願いします。俺を、昇格(ランクアップ)させてください」

 今度は、ヴェルフからの提案だった。

「今の貴方を昇格(ランクアップ)させることは出来ない」

 その願いを、ヘファイストスは突っ撥ねた。

「有望株の専属鍛治師となり、あの『猛者(おうじゃ)』にも可能性を見込まれた貴方だからこそ、軽々しく次の段階へ連れて行くことは出来ないわ。気持ちとしては認めてあげたいのだけど、貴方の天秤が不安定な今は認めてあげられない。自分自身の意地と誇り。貴方の武器を手に取り、貴方と共に戦う誰か。その全てともう一度向き合い、自分も鉄も鍛え続けなさい。この話はまたいずれしましょう」

 今度はヘファイストスが頑なに、ヴェルフの願いを聞き入れなかった。

 納得いかない思いは否定出来ないが、先に勝手を言ってヘファイストスの言葉にそっぽを向けたのは自分だからと研鑽の日々を邁進すると決め、雑念を脇に置いた。

「ようやくね」

 それらのすれ違いが大きな結実を果たす日が、ようやくやって来たのだ。

「俺は、ヘファイストス様を納得させられる何かを示せたんですかね?」

 引き締まった背中を晒すヴェルフが、前を向いたままヘファイストスに問い掛ける。

「ま、そこそこって所ね」

「そこそこっすか……」

「ええ。そこそこ」

 武器の仕上がりにも、鍛治師(スミス)としての心根に誰よりも妥協をしないヘファイストスに、そこそこと言われた。

 正直に言えば噛み砕ききれていない節はあるけれど、自分なりのペースで鉄と自分を鍛え続けた日々が、神匠と評されるほどの腕を持つ鍛治を司る炎の女神から見れば、そこそこなものだったのだ。

 前向きに受け取る以外にないだろう。

「はい終わり。念願のLv.2。念願の鍛治のアビリティの会得、おめでとっ」

「あ! りがとうこざいます……いてて……」

 上機嫌な様子のヘファイストスに背中を叩かれた。普通に痛かった。

「それと……改宗(コンバージョン)可能な状態にもしておいたわ」

「ありがとうございます……」

「早くヘスティアの元へ行きなさい。呑気にしてていたら、鉄弄りが大好きな何処かの女神にまた捕まってしまうわよ?」

「魅力的なこと言うのやめてください……」

 そんなこと、絶対にしないでしょう。

 そう思う頭で軽い調子の言葉に応じながら着流しを纏い直す。

 やるべきことは済んだ。時間が惜しい。直ぐにでも行かねば。

「ヘスティアを甘やかし過ぎないようにね」

「その言葉、そのままお返しします」

「生意気言うのはこの口かしら?」

「いたたたた……!」

 頬を抓られた。不愉快を示すよう細められたヘファイストスの左目だがしかし、直ぐに穏やかなものに変わった。

「締まらないわね」

「すいません、こんなんで」

「ううん。ヴェルフらしくて……悪くない」

「……ここで貴方に背を向けたことなんて大したことじゃなかったんだと思わせるような未来を、あいつらと共に描いてみせます」

「ええ。期待してる」

「それと。これは、ただのわがままになります」

「聞かせて」

「時々、お顔を拝見しに来てもいいですか?」

「いつでも来なさい。待ってる」

「もう一つ」

「うん?」

「好きです」

「…………」

「一つ区切りを付けられたら言おうと思っていてずっと言えなかったんで、今伝えました」

「……そういうの、勝ってから言うものじゃないかしら?」

「だからです」

 微かに赤らんだ頬の下。

 ヘファイストスから見ればまだまだ幼い口元が、勝気な笑みを描いた。

「勝つのは俺たちなんで!」

 小さな執務室から踏み出した大きな旅路の第一歩は実に男の子らしい、なかなかに慌ただしいものであった。

 

* * *

 

 自分なりの形でヘファイストスとの別れをヴェルフが果たした同時刻。

「自分を、ヘスティア様の元へ行かせてくださいっ!」

 長い黒髪が映える美少女が、自らの主神であるタケミカヅチに向け、土下座をかましていた。

「……正直に言う。送り出すなら命(ミコト)であり、誰よりも拘るのも命(ミコト)だろうと考えていた」

 尚も頭を下げ続ける眷属、ヤマト・命(ミコト)を見下ろしながら、タケミカヅチが呟く。

「しかしこれは理屈だ。情報を集めた結果に生まれた整然としたものだ。俺が聞きたいのはそうじゃなくて、命(ミコト)の理由だ」

「友の為でございます!」

 迷いのない言葉が、命(ミコト)たちの日々を支える古ぼけた家内を揺らす。

「自分は、リリ殿にもベル殿にも助けてもらってばかりです! ヘスティア様の大らかさにも心を洗われるばかりで何も返せていないのです! そのような不義理、いつまでも我慢がなりません!」

「…………」

「ここで機を逃してはこれから先、あの方々と真っ直ぐに向き合うことが自分には出来なくなってしまいます! だから自分には今しかないのです! 勝手なことを言っているとは重々承知しておりますがどうか」

「一年だ」

「お願い申し…………へ?」

「一年経ったら、また俺たちの元へ帰って来てくれるか?」

 頭を上げた娘が愛らしい仕草に表情で首を傾げる姿に笑いを堪えながら、綺麗に育った娘の親は、未来の約束を口にする。

「改宗(コンバージョン)のルールは知っているな?」

「は、はい……再度改宗(コンバージョン)するのに一年の時が必要だと……」

「そう。だから、一年だ」

「……いいのですか?」

「友の力になりたいと願う娘の心を踏み躙ることなど俺には出来ない。それに、ヘスティアたちの力になりたいのは俺も同じだからな」

「タケミカヅチ様……」

「俺の代わりに、俺たちの分まで、ヘスティアたちを支えてやってくれ。いいか?」

「はい! ありがとうございますっ!」

 再び勢いよく頭を下げる命(ミコト)。勢い余ったのか、ゴンっと鈍い音が響いた。

「よせ、頭など下げてくれるな。ああほら、額が赤くなってしまっているじゃないか」

「え? ちょ、わ……!」

 顔を上げた命(ミコト)の額に伸びるタケミカヅチの大きな手。乱れた前髪を直し、その奥に隠れている額を撫でてくれる。

「はわわ……!」

「はわわ?」

 命(ミコト)の思考回路がショート寸前になる前で、命(ミコト)はどうしたんだと首を傾げるタケミカヅチ。命(ミコト)前途の多難っぷりが窺える一幕である。

「も、もう大丈夫ですタケミカヅチ様っ!」

「ならいいんだが……そうだ、命(ミコト)」

「はいっ!?」

「大切なことを言っておく」

「なんなりと!」

「折を見て、こっちにも顔を出してくれ」

「……よいのですか?」

「お前の所属が変わろうと俺たちが家族であり、ここがお前の家であることは変わらない。何の気兼ねも必要ない。可愛い娘に会えなくては俺も寂しいからな」

「……はい……約束します……!」

「よし。ではな、命(ミコト)。俺たちを代表し、気張ってこい!」

「はいっ!」

 愛情で繋がる父娘は、ひとときの別れに気持ちのいい笑顔を交換し合い、受け止めあった。

 

* * *

 

「な、なんだか凄いことになってるぞ……!」

 翌朝。

 星屑の庭の広間には、今日までこの場所と縁がなかった者も含め、多くの子供達が揃っていた。

「一度整理させてくれ! 先ずはヴェルフくんと命(ミコト)くん! 二人はボクたちの派閥へ改宗(コンバージョン)! で間違いなかったよね!?」

「はい」

「改めてよろしくお願いします! ヘスティア様!」

 落ち着き払ったヴェルフと、ヘスティアに負けじと声を張る命(ミコト)の二人がヘスティアの言葉に肯定を示す。

 ヘスティア・ファミリアの団員は、団長のリリと合わせ、三人となった。

 その報告の過程で、ヘファイストスの手によって昇格(ランクアップ)を果たしたこともヴェルフは全員に伝えている。

「よーっしやったーっ! とっても嬉しいよ二人共! 本当にありがとう! 改めてようこそ! ボクたちの本拠(ホーム)へ!」

「ここはアストレア・ファミリアの本拠(ホーム)であってリリたちの本拠(ホーム)ではありません。居候させていただいている身であることをもう少し」

「わーかってるよぉサポーターくん! ちょっと言ってみたかっただけなんだよっ!」

「どうだか……あの……ヘスティア様はこう言っていますけど……ヴェルフ様も命(ミコト)様も、本当にこれでよかっ!?」

「野暮はやめとけって」

「そうですよリリ殿! 自分たちは自分たちなりの覚悟を持ってこうしているのですから!」

 ね!? とでも言いたげな命(ミコト)の眼差しに勝気な笑みで返すヴェルフ。

「頭抑えるのやめてくださいヴェルフ様ーっ!」

 そんなヴェルフの手に抑え込まれているのは、身体の方はほとんど回復したのか、今朝は早くより寝台を抜け出しているリリ。

「とにかく。これからは俺も命(ミコト)もお前の下っ端だ。精々こき使ってやってくれ」

「し、下っ端って」

「リリ殿はヘスティア・ファミリアの団長様ですから!」

「自分よりランクの高い団員しかいないのサイッコーにやり辛いんですが!?」

「そのうち慣れるわよ! 多分! ま! 私はずーっと派閥で一番強いからそういうのわかんないんだけどね! ふっふーん!」

「おい手を貸せポンコツ妖精。アレを斬るぞ」

「承知しました。あとポンコツはやめてください」

 ぺかーっとした笑顔で会話に入って来たアリーゼの背後で二つの殺意が膨れ上がる。ランクという形で差を証明されてしまっている輝夜とリューのものである。

「はいはい他所でやれよー。そんで、大挙してやって来ているあんたらは……」

 いつもの流れにいつものように水を差すライラが視線を向けた先。

「戦争遊戯(ウォーゲーム)! ミャーたちも参戦するニャーッ!」

「そゆこと」

「だニャー」

 誰より元気一杯なアーニャ。

 落ち着き払った中から闘志を滲ませているルノア。

 やれやれ感を出しながらもしっかりと頷いたクロエ。

 豊穣の女主人にて三馬鹿なる扱いを受けることもある三人娘の背後には、この場にいる全員が何度も顔を合わせたことがある、豊穣の女主人の従業員たち。

「豊穣の女主人! 全員しゅーごーニャーッ!」

「ミア母さんとシルを除くー」

 声を張るアーニャとふざけた調子で付け加えたクロエの言う通り。

 シルを除いた従業員全員が『神の恩恵(ファルナ)』を宿し、冒険稼業だ暗殺稼業だ賞金稼ぎだのと、戦うことでそれぞれの生き様を刻み付けてきた戦士たち。

 彼女たちはそれぞれの判断、それぞれの思いに従い、それぞれに恩恵を託してくれている神の元へと赴いていた。

 アーニャがフレイヤ。クロエがニョルズ。ルノアがデメテル。

 他の従業員たちもそれぞれの神の元を尋ね、派閥からの脱退を果たしていた。

「全員参加って……そんなの」

「はいはい堅苦しいのはやめやめ」

 状況の真ん中にてしっかり状況に取り残されているベルの前に、ルノアが立った。

「細かいこと言うのはなし。私らには私らなりの理由があるってことでさ」

「ルノアさん……」

「私はほら、デメテル様にお願いされちゃったのもあるし。ベルたちの力になってやってくれって」

「デメテル様が……?」

「うん」

 頷くルノアの脳裏に、昨日デメテルから聞いた言葉が過る。

「ヘスティアたちと会えなくなるのは寂しいし、ベルくんは私のお得意様なの。まだ可愛い子って感じだけど、これからあの子は大きくなる。あの子のママ……アストレアとフレイヤのことも守ってあげられるくらいに。きっとね。今はまだその時じゃないかもしれないけれど、いつかその時を迎えられるように、今のベルくんのことを守ってあげてほしい。だから……どうかお願いね、ルノア」

 そんなことを言っていた。

 ベルとデメテルの間に縁が出来ていたことはベルと出会った頃から知っていたことだが、ここまで結び付きが強いとは知らなんだ。

「一年経ったらまた、ルノアの背中に恩恵を刻ませて欲しい。打算も計算もないつもりよ。ただ、貴方との繋がりが途切れてしまうことが寂しいの。だからまた、ね?」

 なんてことも言われた。

「考えとくね! ありがと! デメテル様大好き!」

 言うだけ言って逃げるようにしてデメテルの元から飛び出したことは、ずっと胸に秘めておくつもりのルノアである。

「ニョルズ様にも言われたニャー」

 ぴょこっとルノアの肩口から顔を出すのは、クロエ。

「ベル・クラネルっつーか、アストレア・ファミリアはお得意さんなんだよ。前に家族(ファミリア)旅行でメレンに来た時に色々とあってな。あーそういや、それより前にベル・クラネルには会ってたか。フレイヤと二人でコソコソとメレンの中を歩いていてな。眷属たちには内緒で遊びに来ちゃったとか言ってたか。当時はフレイヤとベル・クラネルの関わりなんて聞いたこともなかったからえらく驚いたもんだ。ま、知らねえ仲じゃねえってことよ。オドオドしてるけど生真面目で、やる時はやるって感じも嫌いじゃない。あんだけ白いヤツがアポロンの下に収まっちまったら濁っちまうのも見える。そんなの面白くねえや。お前もそう思うんだろ? だったら、面白い方の味方して来いやっ、と」

 そんな言葉で場を締めて、クロエが知らぬ間にベルとの縁が出来ていたらしいニョルズの大きな手が、半裸のクロエの背をぺちんと叩いた。せくはらだニャー! と訴えてもニョルズは何処吹く風。

「遠慮なんてすんな。また恩恵を貰いにこい。使えるモンは使っとけ。そん時はメシも酒も俺が奢ってやる。『黒猫』じゃなくなった自称くーるびゅーてぃちゃんの苦労話を肴に、飽きるまで飲み倒してやろうや」

 なんてことも言われた。

「覚えておくニャ。ありがとーだニャ、ニョルズ様。本当に感謝して……ニャんちゃって!」

 気恥ずかしさを誤魔化すように駆け出してしまったから、その時のニョルズがどんな顔をしていたのか、クロエは知らない。

「ニョルズ様が?」

「いちおーおミャーはお得意様認定らしいニャ」

「そっか……今度お礼を言いに行かないと」

「その時はミャーも連れてくニャ。ニョルズ様の弱みを使って一緒にタダ飯をニャッ!?」

「今、ベルとデートプラン立てようとした?」

「私らの見てる前で?」

「え? ここで死ぬ?」

「次の改宗(コンバージョン)先は土の中だね」

「うミャアァァァアアァァアァッ! ベルのねーちゃんたちマジで怖いニャーッ!」

「冗談でーす」

「ねー」

「そりゃねー」

「でも不埒なことしたら……ね?」

「ひいぃぃぃぃ……!」

 ベル・クラネル過激派(匿名希望)のアストレアの娘四人からお叱りというか脅されて震え上がるクロエ。かわいそう。

「……アーニャさん」

 ベル目線では仲良くキャピキャピし始めたように見えているクロエたちから目線を外し、アーニャを見る。彼女は今朝会った時からずっと、笑っている。

「もう……フレイヤ様と?」

「うん。終わったニャ」

「アレンさんとは……会えた?」

「…………会えなかったニャ」

「……本当によかったの?」

「よくは……ニャい……でも、ベルが困っているのに何もしないなんて、そんなの違うニャ」

「だからって」

「だいじょーぶニャ。いつかまた、兄様と一緒に暮らせるようになるまで……少しの間、お揃いをやめるだけニャ。兄様とお揃いだったフレイヤ・ファミリアも。冒険者も。ミャーはもう、いいの」

「そんな……」

「なんでベルが泣きそうな顔してるニャ」

「だって……」

「ありがとう。ベル」

「え?」

「ベルのおかげでミャーは、兄様と全部が途切れないでいられたニャ」

 俯きがちなベルの頭に、アーニャの手が伸びる。その行いをベル・クラネル過激派の姉ンジャーズたちは、特に咎めることはない。

「これからはミャーなりに、前のミャーには出来なかった方法で兄様と向き合うニャ。いつか、兄様を迎えに行く為に」

 くしゃっと、ベルの白い髪を指先で摘んでみる。悪くない手触りだ。

 思えば、殴る蹴る肩を組む以外でこんな風に……まるで、何処ぞのベルのお姉ちゃんたちのようにこの子に触れたことなど、一度もなかったか。

「とにかくっ!」

 その柔らかな感触が感傷に形を変えてしまうに手を離し、細い腰に両手を当て胸を張り、叫ぶ。

「今のミャーは元冒険者で! 酒場の看板娘ニャ!」

「いや、看板娘はシルでしょ」

「看板息子は間違いなくベルだしニャー」

「いいとこ皿割りクイーンとかじゃない?」

「んミャーっ! おミャーらくーきを読めニャーっ!」

「誰より読めないヤツが何言ってんだ」

「い、いーから聞くニャ! ベル!」

「うん……」

「これでミャーたちもヘスティア様たちのケンカに混ざれるのニャ! ミャーたちが絶対にベルたちを勝たせるニャ! 泥舟に乗ったつもりでいるニャ!」

「もう喋んなよ馬鹿猫」

「このアホが船頭なら確かに泥舟ニャ」

「アーニャの話なんて聞くだけ損だねやっぱ」

「こいつに期待しちゃダメニャーベルー」

「なんでミャーがボロカス言われてるニャ!?」

「君たちの仲良しっぷりはもうわかったから! 豊穣の女主人のみんなに改めて聞きたい」

 仲良くないだのヘスティア様の目は節穴だのブツブツ言いながら、場を纏めようとするヘスティアの前にミアの娘たちが並ぶ。

「君たちはみんな無所属の一般人になった。それは、今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)に参加する資格があることを意味している。理由は聞かない。君たちの中にあるそれぞれの理由をどうか大切にして欲しい。ただ、これだけははっきりと言っておく。もしもボクたちがアポロンに負けてしまったとしたら、ボクたちは都市から追い出される。そしてもう二度、オラリオへ戻って来ることは叶わなくなるだろう。そういう契約を結んでいるんだ。それでも君たちは、ボクたちと共に戦うと言ってくれるのかい?」

「もちろんニャ!」

「ま、乗り掛かった船ってヤツかなー」

「勝ったらちゃーんと報酬を出してもらうニャー」

 アーニャ、ルノア、クロエに続いて、他の従業員たちも声を上げる。

 どの娘もあの娘も、かつては血生臭い世界に身を置いていた娘たちだ。

 来る闘争を前にして、敗北して全てを失うことなど微塵も考えていない。

 やるからには勝つ。

 勝つ為にやる。それだけだ。

「わかった。改めてお願いするよ。豊穣の女主人の娘たちの力とボクたちの力を合わせて、あのドチャクソムカつくアポロンをぶっ飛ばしてやろう! いけるだろう!?」

「任せるニャーッ!」

 アーニャが吠え、酒場の娘たちも後に続く。ドスの効いた声が聞こえて来ない女だけの姦しい鯨波が、星屑の庭の朝を揺らした。

「元気でよろしい! よし! じゃあアストレアからも……あ、あれ? アストレアは?」

「寝てます。息が止まっているんじゃないかって心配になるくらい眠ってます」

「あ、あーそういえば昨日は……」

「休む暇もなく働かされたらしいので。どうしてか知りませんけど、従業員さんたちが大量失踪してしまったらしくて」

 セルティの言葉にどきーん! とする酒場の従業員たち。ルノアなど、この中では常識人寄りの娘たちが申し訳なさそうに背を丸め、罪悪感を表に出してしまった酒場の娘たちにはアストレアの娘たちが特大の圧をお届け。気不味い空間の出来上がりである。

 アストレア家の娘も全員顔を見せている中、実に珍しいことに、アストレアは朝寝坊。

 昨日、豊穣の女主人のビックマムであるミアに引っ張り出されてしまったアストレアは、いきなり店を飛び出してしまった従業員の穴を埋めるべく粉骨砕身。結果、体力も気力も砕けてしまった次第である。お労しや母上。

 尚、ヘスティアは徴用されなかった。以前にバイト探しの一環でヘスティアが豊穣の女主人の制服を着用した日に彼女のポンコツっぷりを思い知らされたミアに、アンタは近寄るなと厳命されたからである。目を回して働き続けるアストレアを眺めるだけのヘスティアは助かったー! と喜ぶことも出来ず、気不味そうに店の片隅に居座り続けていたとか。

「アストレア様には後で謝るニャ……で、でもこれでなーんも心配要らニャいのニャ! 昇格(ランクアップ)は出来なかったけどステイタスも更新してもらったニャ! ミャーとクロエとルノアはLv.4! アポロン様のとこは団長のキリマンジャロが一番強くてLv.3って聞いたにゃ!」

「ヒュアキントスな。全然似てないだろ馬鹿猫」

「珍しくアホアーニャの言う通りニャ。数ではバッチリ負けてるけど、ミャーたち負ける要素なくね?」

「一言よけーニャ!」

「楽観は出来ないけどまあ、うん。負けないかなーとは思う」

 数では劣るが、質で負ける要素なし。

 単純な殴り合いになるのなら負けることはないだろう。

 素でボケるアーニャとツッコむルノアも状況をしっかり見ているクロエも、ほとんど確信と言っていいものを抱いている。

「クロエ様たちの言いたいことはわかりますが、今回は攻城戦。期間も三日あります。しかも守る側のリリたちの方が圧倒的に数が少ない。一箇所を崩されてそのまま押し込まれる、なんて展開も充分にあり得ます。質で優っているのは事実ですが油断は出来ません」

「まあそうだニャー」

 完全敗北しかあり得なかった未来以外も見えるようになったなと、リリも感じている。

 それだけ状況が好転したのだなあと、力を貸してくれる者たちの厚意に胸が熱くなるが、懸念点があまりにも多いように思う。

 酒場の娘たちのブランク。内部を全く把握出来ていない他所様の城という、連携を維持し続けることが難しい舞台。そもそもその連携を確立するにはあまりに短い準備期間。圧倒的な物量差がある中で守りに入ることを強要され、しかも三日間に渡る長期戦。

 何より、立場上大将に据えられる自分がLv.1のサポーターであること。

 とどのつまり。リリが落ちてしまうことは、落城と同義。

 リリ的にはこれが一番の不安要素であった。

 それに、大きな懸念点ならばまだある。

「そのことに関して私からもいいか?」

「わ……!」

 思考を加速させていくリリの頭をポンっと叩きながら話の真ん中に躍り出たのは、輝夜。

「恐らくだが、アポロン派はお前たち酒場の面々の介入を計算に入れているだろう。今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)の参加資格を鑑みれば、お前たちの勤め先の店主様へ真っ先に白羽の矢が立つのは人でも神でも想像が届く」

「って言ってもミア母さんはまだファミリアに」

「理解している。しかしお前たち従業員たちも、良くも悪くもオラリオでは有名だ。少し調べればベルとの関わりも直ぐに判明する。お前たちの介入を見越していないわけがない」

「とはいえ、こうしてミャーたちが参加するってなった以上はもう何も問題ないニャー」

「そこに妨害が入るとは私も思っていない。問題はそこではなく、アポロン側だ」

「どういうこと?」

 輝夜が何に懸念を抱いているのか見えないベルが続きを促す。

「アポロン派も、お前たちのように助っ人を用意している可能性が高い」

「そんなの反則ニャ!」

「えぇい喚くな馬鹿猫。アストレア様がお休みになられているのだ」

 鬱陶しいものを見る眼差しで輝夜に睨まれても声も動きも大きいのも変わらないアーニャが、確かに反則してはいないんだけどもこれは審議案件じゃないの? 程度には過剰な戦力を集めてしまった自分たちを棚に上げ叫ぶ。

「それって、アポロン派に改宗(コンバージョン)する誰かがいるかもってこと? それはなさそうな気がするけどなあ」

「ミャーたちの参戦を予期していたとして、このままじゃヤベーからこっそり戦力集めるニャーってなったとしても、戦争遊戯(ウォーゲーム)に負けたらオラリオから叩き出されるかもな派閥にLv.4以上の能力を持つ冒険者が改宗(コンバージョン)なんてしないと思うニャ。アーニャみたいなとびきり馬鹿なLv.4ももしかしたらいるかもしれないけど」

「ニャにをーっ!?」

「ヘスティア様たちに大した資産がないことは筒抜けだと思うし、無駄なリスクを抱えるような実力者なんてそうそういないと思うニャ」

「ボクたちの資産云々のくだりはぐぬぬな思いだけど、クロエくんの言う通りだと思う。輝夜くんが危惧しているのは一体なんなんだい?」

「今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)。アポロンの背後には恐らく。というか間違いなく」

「女神イシュタル様がいます」

「そうだ」

「あーそゆことかー」

「んニャ? どゆことニャ?」

 輝夜の言葉を喰うようにリリが答え、ヘスティアが天井を仰ぐ。全然話に付いていけないアーニャはキョロキョロしている。

 戦力が充実した今、リリの中での最大の懸念はこれ。

 歓楽街の首魁である美の女神の介入だ。

「此度の戦争遊戯(ウォーゲーム)の起こりの背景には神イシュタルの姿がある。聞けば、うちの末っ子の参加を押したのも神イシュタルだと言うではないか。気紛れと言うにはアポロン派への肩入れが過ぎるように思う。そして問題は、神イシュタルの権能にある。美の女神の権能に関してならば、私よりもそこの馬鹿猫の方がよく知っているのではないか?」

「あ! 魅了か!」

「ニャるほどニャぁ……」

 水を向けられたアーニャの両脇で、輝夜の言いたいことを理解したルノアとクロエが銘々の反応を見せる。

 魅了。

 フレイヤと同じく美の女神の名を冠する女神、イシュタルが持つ権能。

 それは神の力(アルカナム)でもなんでもない、ただ美しいという事実だけで、美の女神の姿を瞳に映した者全ての心を。魂までをも掌握してしまう。

 魅了に堕ちてしまった者は自分の心を掴んだ魅力の持ち主に右を向けと言われれば右を向き、人を殺せと言われれば殺し、天界で待っていてと言われれば喜んで生命を断つ。

 つまり。

 イシュタルが本腰を入れ、躊躇いなく自身の権能を用いれば、如何様にでも戦力拡充が出来てしまう。

 その可能性が、輝夜とリリの最大の危惧であった。

「魅了は……ヤバいニャ……どんなに心が強くても……きっと抗えないニャ……」

 フレイヤの元で研鑽に励んでいた時代に魅了に連なる何かを見た覚えがあるのか、アーニャの背中が微かに震えた。

「だから……前からずっと思ってたニャ。ベルはおかしいニャ」

「ぼ、僕?」

「フレイヤ様が魅了を使ってないのはわかってるけど、ふつーの男がベルと入れ替わってたら、フレイヤ様の言うことを何でも聞くようになってておかしくないニャ。ふっつーにフレイヤ様と一緒に寝たり、昔はお風呂に一緒に入ってたとかマジで意味わからんニャ」

「そ、そんなことしてたの!?」

 何故か頬を赤くし過剰な反応を見せるのは、ルノア。

「お、お風呂は数えるくらいだよ! それもオラリオに来たばかりの頃に! 一緒に寝るのは……割と最近も……はい……」

「そう……なんだ……ふーん……」

「世の中の男大体全員が羨ましいって言うヤツを当たり前にしてるベルヤベーニャ……」

 いろんな感情が篭っていそうな薄目でベルを見るルノアと、美の女神の懐が定位置状態だったベルのヤバさを再認識したクロエの頬がひくつく。

「そんなこと言われても……初めて会った頃からフレイヤ様は……綺麗な女神様はそうなんだけど……僕にとってはそれ以上に……可愛いお母さんだから……」

「その認識一つでどうにかならニャいことがどうにかなっちゃってることがヤバいって言ってるニャ」

「そういう目で一切見てないってことなんだろうけど、それはそれでフレイヤ様的には屈辱案件だよね」

「結論。マザコンってヤベェ」

「ま、マザコンじゃないよ!」

「もういいから黙れマザコンキッズ」

「輝夜さんまで!」

「男も女も神も人も関係なく、神イシュタルが本腰を入れて魅了を迫れば抗えるものなどまずいないのだろう。即ち、ある意味では神イシュタルの戦力は無限と言える。それを言うならフレイヤ様と、歌劇の国だかにいるらしい美の女神のもう一柱様も同様か。それだけじゃない」

「ま、まだ何かあんの?」

「この極東娘、人を不安にさせるのが趣味なのかニャ?」

「そんなわけがあるか。もう一つの可能性に関しては……もう気付いているな、小人族(パルゥム)?」

「はい」

 輝夜に話を振られたリリは、迷わず頷いていたり

「この件、話しても?」

「他言こそ控えて欲しいが、今は必要な情報だろう。好きに使え」

「ありがとうございます」

「さっきから何の話をしてるニャ?」

「輝夜様の仰るように、このことは他言無用でお願いします」

 しっかり頷く酒場の娘たち。

「小さく見れば一人。大きく見れば……不特定多数。そこは曖昧なままですが……イシュタル様の下には、他者のレベルを無理矢理に上げられる力を持つ者がいる可能性が極めて高いです」

「なんじゃそれぇー!?」

「めちゃくちゃじゃんそんなの!」

 クロエ、ルノアが声を上げる一方で、そのような事例に心当たりがあるベルとアストレアの娘たちは、何も言わずにリリを見据えていた。

「この件に関しては実際に遭遇した私が説明した方が早いわ。リリちゃん、いい?」

「お願いします、アリーゼ様」

 リリの肩を叩いて前に出たアリーゼが、アストレア家とリリたちを振り回し、ベルたちの命を奪いかけた、十八階層での出来事とそこで見たものに関する情報を開示し始めた。

 漆黒のゴライアス。その体躯が黄金の輝きに包まれると、ゴライアスの力が激増。

 それはゴライアス自身の能力でもなんでもなく、ゴライアスの様子を観察していた一団。間違いなくイシュタル・ファミリアの誰かに手によるものであった。

「その者が今回の戦争遊戯(ウォーゲーム)に介入した場合、何がどうなるかわからない。という話です」

 説明を終えたアリーゼの代わりに話を締めるリリ。なるほどそれはと、酒場の娘たちの表情も強張る。

「現状見えている戦力になりますが、仮にその魔法的なものを行使され、効果が多人数にまで届く場合。あちらの団長ヒュアキントスはLv.4。主力級であるダフネ・ラウロス、リッソス等はLv.3。最低ランクが当然Lv.2。合わせて百人以上の上級冒険者とぶつかり合わなければならなくなります」

「それは……」

「かなりヘビーだな……」

 十八階層での出来事で命を落としかけた命(ミコト)とヴェルフが当時の出来事とこれから起こり得る出来事に思考を巡らせ、ほとんどお揃いの渋面を作る。

「まーまー、たられば話はこの辺りにしとかねーか? どのみち打てる対策なんてそうそうねーだろーし、見えてねーものに悩む時間でこっちの準備を優先するべきだろ」

 たらればの話に囚われ過ぎていると告げながらリリの隣に立つのはリリの同族にして先輩。ライラ。

「アポロンイシュタル双方に探りを入れるのはアタシらの方でやってやるから、あんたらは準備を整えとけよ。酒場勤めばかりで身体が鈍ってるヤツもいるだろーし。そこの赤髪はLv.2になったばっかなんだろ? しっかり身体を慣しとかねーとだろ」

「いや、慣しは最低限にして、しばらくは工房に引き篭もるつもりです」

「何の為に?」

「魔剣を打ちます」

「ふーん」

 ライラの淡白な反応の側で、ベルがリリが命(ミコト)がヘスティアが、目を丸くしている。

「魔剣って……ヴェルフ?」

「折り合いを付けられたなんてことはないが、先ずは向き合っていかないとな。その為の一歩だ」

 ベルの言いたい事を先読みし、ヴェルフはニッと笑う。

「……無理してない?」

「無理ならこれからするぞ。鍛治のアビリティも手に入れて出来ることが増えたし、魔剣(あいつら)と向き合う覚悟も出来たつもりだ。その分、自分に返ってくる罪悪感も自己嫌悪も倍々状態になるってことだ。まあ、俺なりに出来ることをやっていくって話だ。そうだ、お前のことだから俺の昇格(ランクアップ)の祝いをするって言い出すだろうから先に言っておく。祝いは来週にでもやろうぜ。俺たちの祝勝会と纏めてな」

「ヴェルフ……」

「とにかく時間がない。俺は早速工房に行く。何かあったら呼んでくれ」

「う、うん! えと……ありがとうヴェルフ!」

「礼を言われるようなことをした覚えはねぇよ」

 ベルにはひらひらと雑に手を振り返し、ヘスティアやアストレアの娘たちにはしっかり頭を下げ、急ぎ足で星屑の庭を飛び出していくヴェルフの背中を見送る一同。

「ヴェルフ様……」

 その真ん中に、何か言いたそうに彼の背が消えた先を見つめ続けている、リリの姿が。

「野暮ったい感謝も謝罪も後回しにしとけチビスケ。お前はアタシに付き合え。色々と詰めておきてぇ話がある」

「……わかりました」

 そんなリリはライラが。

「命(ミコト)。お前の相手は私がしてやる。以前はお前の調整が主だったが故に流していたが、今回は多少加減を誤ってやる。構わないな?」

「寧ろ自分から是非と訴えるつもりでした! ご指導よろしくお願いします!」

「喚くな未熟者」

 命(ミコト)は輝夜が。

「りお……じゃニャい! リュー!」

「なんでしょう?」

「訓練付き合ってほしーニャ!」

「どうして私なのですか?」

「ニャんとなくニャ!」

「なんとなくとは……まあいいでしょう。クロエとルノアもどうですか?」

「有難い申し出なんだけど……その、三人纏めて相手しても余裕みたいな態度、腹立つかも」

「そのようなことは微塵も考えていなかったのですが……まあ、余裕かもしれませんね」

「言ってくれるニャー。接客も注文の聞き取りも皿洗いもまともに出来ないポンコツに師匠っぽいことなんて出来るのかニャー?」

「中庭に出なさい。ポンコツと評したことを先ずは後悔させてあげます」

「あ、待ってリオン。そのテンションのLv.4以上の四人にうちの中庭で暴れられるの普通に迷惑だからフレイヤ様のとこでやって」

「はニャ!?」

「わかりました。では行きましょうか」

「ま、待つニャ! 昨日フレイヤ様とあんな話とかこんな話とかしたばかりでいきなり顔を合わせるのは」

「ごちゃごちゃ言うなアホ猫!」

「あのポンコツに吠え面かかせてやるのニャ!」

「ミャーの話も聞くニャーッ!」

 喚き散らすアーニャとそれを抑えるクロエとルノアはリューが。

「さて! 厄介そうな子たちはリューが引き受けてくれたことだし、みんなは私たちが相手をするわ! オラリオで一番恐ろしいとまで言われる酒場の底力、私たちに見せてちょーだい!」

 他の従業員たちはアリーゼやネーゼやイスカなどが持ち回りで面倒を見ることになった。

「それぞれに忙しいってのに、アストレアの子供たちはこれだもんなあ……よーっし! 僕も出来ることをやるぞーっ!」

 少しずつ散っていく子供たちの様子に目を細めるヘスティアもまた、眷属を増やすなどアポロン派の情報を集めるなどをするべく、慌しく行動を開始。

 さてさて。戦争遊戯(ウォーゲーム)に参戦決定済みの面子の中で広間に残ったのは、ベルだけとなってしまった。

「ベルはどうする? お姉ちゃんたちが訓練してあげようか?」

 ノインやリャーナやセルティなど、諜報側に回るつもりの面々もいなくなった広間。アーディやアスタなどの残った面々が、出遅れ気味の弟に声を掛ける。

「ううん。訓練は一旦後回しにするつもり」

「後回しって、そんなに時間ないよ?」

「わかってるけど……」

「けど?」

 きょとんとした顔で自分を見上げる姉たちの前で、腰元のホルスターから『穿ち貫く刃(オリオン)』を引き抜いて。

「僕も、やらなきゃいけないことがあるから」

 矢尻の装飾ごと、純白のグリップをグッと握り込んだ。

 

* * *

 

 やはりと言うべきか。

 ヘスティアの眷属集め。援軍集めの成果は皆無であった。

 状況が状況、時期が時期なもので前者は望み薄。後者はそもそも時間的に、物理的にも非常に厳しい。

 何せオラリオ近郊に拠点を構えている派閥が、大小問わずほとんど存在してない。

 それはそうだろう。オラリオ内で拠点を構えれば、ギルドに多額の税金を納める義務が発生こそするが、一攫千金を夢見られるようになる、ダンジョンへと自由に挑むことが可能になるのだから。

 近隣の村単位で一派閥として機能しているなどと言うのなら話は変わってくるが、よほどの理由でもない限り、目と鼻の先にオラリオが見えているような場所に拠点を構えるメリットはほとんど皆無と言えるだろう。

 ベルに紹介されたギルド本部に勤める職員、エイナを頼り、オラリオ外に確認されている派閥の詳細な情報を得たヘスティアは、外からの援軍の可能性を弾き、オラリオの内側を奔走し続けた。

 一方、豊穣の女主人の娘たち。

「想像よりずっと戦えていますね。流石です」

「涼しい顔して言われんの腹立つー!」

「ポンコツのくせに!」

「ベルから聞いてるニャ! 散々ベルに教えられたのに今でも碌に料理も出来ないクソザコニャんだって!」

「あの子はまた余計なことを……そのクソザコとやらにも敵わない貴方たち三人は、さてなんと呼べばいいのでしょうね?」

「やっつける!」

「殴る!」

「泣かす!」

「本当に仲良しですね貴方たちは」

「仲良くニャーイ!」

「仲良くない!」

「仲良くニャイ!」  

 アーニャ、ルノア、クロエの三人はリューを相手にし、女神フレイヤの庭たる戦いの野(フォールクヴァング)にて、とことんまで戦った。

「ま、またここで槍を抜く日が来るニャんて……み、みんなに見られてるニャア……!」

 アーニャなりにけじめ的な何かをフレイヤの前で果たしたとはいえ、訓練開始初日は戦いの野(フォールクヴァング)の雰囲気や強靭な勇士(エインヘリヤル)たちから注がれる視線に萎縮しまくっていたが、妙に煽ってくるリューのお陰と言うべきか、ビビってる場合じゃねーとアーニャ発奮。釣られるようクロエとルノアも奮起。

 先の言葉通り、三人相手でも涼しい顔を崩さないリューのスパルタ指導は、勘を取り戻すどころではない成長を三人娘に。

「これはいい訓練になる……!」

 決して三人娘を侮ってなどおらず、彼女たちのポテンシャルの高さに舌を巻くリューにも、確かな成長を実感する日々となった。

 他の従業員たちも負けていない。

「貴方たち本当に筋がいいわね! 今からでも全員私たちの派閥に来ない!? 今のお仕事と両立出来るよう体制を整えるから!」

 豊穣の女主人内での揉め事などで最前線で暴れがちな三人娘よりも深めのブランクを抱えている娘たちもまた、アリーゼにガチ目にスカウトされてしまう程度のポテンシャルを披露。

 尚そのアリーゼさん、多人数戦での訓練でも一切被弾なし。終始ニコニコであった。

「あそこまでくると嫌味だろ」

「やっぱ私らが前に出た方がいーね」

 ミアの娘たちの内心を慮ったネーゼやイスカがアリーゼに先頭を行かせるのを抑え、より多角的な訓練になるよう気の利いた動きを披露。何処かの派閥の洗礼めいたガチャガチャとした訓練には寄ってしまったが、劇薬としてこれ以上ないほどの効能を発揮。なんだったら昇格(ランクアップ)も狙えるのでは? くらいの成長を見せる者いた。

 そして、改宗(コンバージョン)を果たしたばかりの命(ミコト)。

「遅い。脆い。軽い。弱い。つまらない」

「ぐっ……!」

 ボッコボコである。

 命(ミコト)がLv.2に至った際にも輝夜が調整の面倒を見てくれたのだが。

「あの時とは桁が違う……!」

 傷に痣に血に泥に屈辱に塗れまくりながら、如何に以前の立ち合いで力を抜かれていたかを痛感。

「お喋りとは余裕だな。それならばもう少し張り切ってしまうのもいいが、どうしたものか」

「是非お願いしっ!?」

「吠えるな」

 死ぬほど痛い苦しいなど当然なのだからと同郷の先輩冒険者の全力を欲しがった命(ミコト)の綺麗な顔が、星屑の庭の中庭に埋まった。

「決めるのは私であり貴様ではない。お前如き未熟者が私の行動を左右しようなどと何様のつもりだ」

 同郷の後輩の後頭部を遠慮なく踏み付け、つまらなそうに鼻を鳴らす鬼教官。

「本気を出せなどとこのような為体でよくもまあ言えたものだ。私の全力が拝みたいのならその気にさせてみせろ。ああ、貴様がリリたちの足を引っ張ると判断したら神タケミカヅチの元へ送り返してやる。生意気をほざけないよう、全身を徹底的にズタボロにした上でな」

「な、生意気は……後輩の特権でしょうっ……!」

 輝夜の煽りにしっかりキレ返しながら自分を足置きにしている輝夜を押し退け、顔を汚す泥を適当に拭いながら突っ込む。

「言うじゃないか……!」

 生意気なんて言葉がまるで似合わない愚直で生真面目な後輩は、不遜と取られるだろう振る舞いの先輩に叩き潰され、立ち上がって突撃し、何度だって叩き潰される。それだけをひたすら繰り返した。

 この後輩は、いざとなったら平気で自分の身体を差し出し盾とするような馬鹿をやらかす娘だと看破した輝夜によって、守りの基礎と応用を徹底的に叩き込まれた。この訓練の日々で得た経験と知識が自分や近しい誰かが追い込まれた時に、身体を盾にする以外の糸口に繋がる日が来るかもしれない。

 同時期に命(ミコト)と共にヘスティアの元へ改宗(コンバージョン)を果たしたヴェルフ。

 彼はその後一度もヘスティアたちの元へ顔を出していない。それを心配に思うエルフのセルティが彼の住まいをリリから聞き出し様子を見に行くと、鉄を打つ音が高く響いていた。

「頑張ってくださいね。ヴェルフくん」

 男の子が意地を張っている時に野暮を挟むわけにはいかないと、独り言だけを残し、セルティは鍛治師の工房を後にした。

 そして、リリ。

 一に情報二に情報。三四に情報五に情報。

 ってなくらいとにかくリリは、頭に情報を詰めて詰めて詰めまくった。

「このメンツで一番の雑魚はお前だ、チビスケ。そんな雑魚が大将と来てる。相手からしたら戦略を立て易いだろーなー」

 煽るつもりも何もない事実の羅列が、常にリリの側にいてくれる同族の先輩であるライラからポンポン飛んでくるが、リリは腹を立てることなど一切なかった。

 事実なんだから受け止めるだけ。今は自分を乱している時間さえ惜しいから。

「今回の大将はお前だが、戦力的に殿を務められる器でもねー。だからってお城の最上階で震えてるだけのお姫様やってもいられねえ。だったらお前は、指揮官になれ」

「リリが……指揮官……?」

「お前の能力ならやれんだろ。能力っつーのは、お前に集まってる信頼まで含めてな」

 信頼。

 自分には不似合いにも程があると感じる。

「やります。応えてみせます」

 だったら、着こなせるようになってやる。

 指揮官という、新たな可能性。

 知恵という、新たな鎧と武器。

 信頼という、支え。誇り。

「へへ……」

 瞳に静かな熱を宿していくリリの横顔にニヤリとした笑みを向けたライラによる指導によって、リリは新たな扉をこじ開けつつあった。

 脳内アップデートに努める日々の渦中。

 ようやくと言うべきか。

 正しい形でリリは、幾つかの出会いを果たした。

「以前は挨拶もままならなかったし、ここは襟を正していこうか。初めまして、可憐な同胞。僕はフィン。とある派閥の団長の立場を預かっている、君の同族だ」

「フィ、フィン・ディムナっ!?」

 当時のリリの意識に残っていたかも怪しいが、ある雨の夜以来に、小人族(パルゥム)の弱者(サポーター)と勇者は顔を合わせることとなった。

「リリルカ・アーデ……ヘスティア・ファミリアの団長を務めています……それで……フィン様は何を……?」

「警戒するなと言われても素直に聞き入れるのは難しいかもしれないけれど、どうか肩の力を抜いて欲しい。同族の若者が一つの派閥の頭になるということはとても好ましい話でね。その祝いと激励をしに来たんだ。時宜を誤っているのは理解しているけれど言わせて欲しい。おめでとう、リリルカ・アーデ。君個人の飛躍と派閥の発展にも、勝手ながら期待させてもらうよ」

 リリから見ても本当に裏がなさそうに見える笑顔で、リリの門出とこれからを祝福してくれた。

 ありがたい気持ちは大いにあるのだが、流石に困惑が勝っている。

「女神間の問題はさておくとして。本来ならば派閥としても個人としても立場を慮るなら控えるべきなんだろうが、僕の聞いた通りの経緯ならば、君たちに激励をする程度ならロキだって騒ぎ立てないだろう。僕は君たちの勝利を願っているんだ。君たちの冒険を、もっともっと見せて欲しいからね」

 リリの困惑を理解し、同時に寄り添うような言葉を用いる小人族(パルゥム)の勇者の姿にそれでも困惑していると。

「アタシがいる前で同族をナンパしようだなんて相変わらずのクソ度胸じゃねーか」

 ニヤニヤ笑顔を装備した、やけに機嫌の良さそうなライラがリリの前に出た。

「ナンパ目的じゃねーなら目的はアタシか。そうだよな? いやぁ、アポなしでこのアタシをデートに誘おうたぁちっとは腕を上げたじゃねーか勇者サマ」

「またテメェかクソ小人族(パルゥム)! 出しゃばってくるんじゃねぇ! そもそも団長があんたみたいなチンチクリンとデートなんてするわけねーだろ!」

「うわ出た、自分の惚れた男が自分のモンになるっつー妄想世界の中に生きてる激ヤバアマゾネス。っていうかー? 一つ屋根の下にいて何の成果もあげられてねーってマジっすかー? 立てた操、カビちゃってませんかー?」

「ブッ殺すっ!」

「やめろティオネ。忙しい所に押し掛けたのはこちらだ。弁えてくれ」

「は、はいぃ……」

「やっぱ仲良しだよねー! ティオネとライラ!」

「ケンカするほど……仲良し?」

「んなわけあるかぁ!?」

 ティオネ。ティオナ。アイズ。

 フィンの背後に控える見目麗しの第一級冒険者三名の同行が、リリの困惑に拍車を掛けた要因であったりもする。

 尚、ライラとティオネ。

 顔を合わせる度にこんな感じである二人だが、年に数える程度ではあるが、二人きりで飲みに行ったりする仲であったりする。

「全然靡いてくれないのよね……押し倒そうにもするりと逃げられちゃうし……やっぱもっと強くなるしかないわよね!」

「それ以前の問題だろーが。ま、アタシは楽に人生アガれりゃいいしなー。お前の邪魔をするつもりはねーよ。味方になるつもりはもっとねーけど」

 ティオナとアイズの言う通り、なんだかんだで仲良くやっていたりするのだ。

 リリが、ライラに庇われながら居た堪れない思いでその場に立ち尽くしていると。

「ひっ!?」

 黒い影が、リリの前に立った。

「あんた……あんたも団長を……」

「ん!? んんんんんんっ!」

「こいつはちげーよ。今のこいつにアタシとフィンの横恋慕する度胸はねーしなー」

「そう…………ティオネ・ヒリュテ。よろしく……つーか横恋慕とか言ったかクソチビぃ!?」

 底なしの漆黒に瞳を染めたティオネにいきなり睨まれブンブンと首を横に振ることしか出来ないリリを庇ったのかなんなのかは知らないが、ライラが間に入ってくれたことでティオネが放つ極大の殺気は全て、ライラに向いた。

「小さな派閥の小さなサポーターの身ですが……これからよろしく……お願いします……」

 その迫力に怯え倒しながらしかし、派閥の団長なのだからと気を張って自己紹介。まだヘスティアの眷属となる以前にこの館でロキ家三人娘と出会った際に挨拶もしていなかったことを思い出したリリは、ティオナとアイズとも挨拶を交わした。

「ねーベルは!? ベルに会いたい!」

「ベルの様子、気になる」

「どうせあたふたしてるんでしょうね」

「そうでもないと思うなあ僕は」

 リリへの激励と挨拶を済ませたフィンたちは電撃訪問の本命たる、厄介事の渦中へ自ら飛び込んで行ったらしい少年に会うべく、先導を申し出たリリとライラの後に続いた。

「べ、ベルー?」

「ベル……変……?」

「というか……瞑想?」

「集中を高めていると言うには、少々変わった有様だね」

 中庭の屋根の上。

「ここ数日こんな感じなんです……」

「アタシらにも詳細話さねーんだよなーこいつ」

 リリとライラの言う通り。この場所が、ここ数日のベルの定位置。

「…………」

「みゃー?」

「シロが来てるのに無視してるし!」

「何かブツブツ言ってるわね……」

「白猫さん……久し振り……あ……行っちゃった……」

 どかーっと胡座で座り込んだベルの周りをアイズに声を掛けられるまでチョロチョロしていた気紛れキャットにも微塵も意識を割かないベルの両手の上には、鞘から解放されている『穿ち貫く刃(オリオン)』の姿。

 冒険者にならばギリギリ拾えるかなあ程度の音量であーだこーだ言いながら『穿ち貫く刃(オリオン)』にペタペタ触ったり刀身を撫でたり。

 他の者たちが汗を血を流す光景など気にもせず、奇行とも取れる行いをこの場所でずーっと続けているのだ。

「しかし本当に美しい刃だ。『穿ち貫く刃(オリオン)』と言う銘だったかな」

「そうそう! ヘファイストス様がベルの為に打ってくれたとっておきなの! えへへー!」

「なんであんたが得意気なのよ」

「白猫さん……ジャガ丸くん、一緒に食べ……全然帰って来てくれない……」

「無論、美しいだけではないんだろう? 先の十八階層での異常事態(イレギュラー)との戦いで趨勢を決する一撃を放ったのは彼だと噂になっているらしいが、その辺りどうなんだい?」

「アタシじゃなくて本人に聞けっつの」

「その本人がまるで……おや?」

 フィンの碧眼の先。

 碌に身体を動かすこともしないでいたベルが、ゆっくりと立ち上がった。

「ベル様……?」

「んみゃーう?」

「あ、邪魔しちゃダメだよシロー。よいしょ!」

「ティオナ……抱っこしてる……ずるい……」

 ベルの異変を察知したシロが戻って来て、即ティオナに捕まる。彼女ともなんだかんだと長い付き合いであるシロは、ティオナに抱き上げられても大した抵抗を示さない。

「すーっ…………ふぅ……」

 右手一本で『穿ち貫く刃(オリオン)』を握り、大きな深呼吸を一つ。なんだなんだと中庭などで訓練している者たちの目も、屋根の上へと集まっていく。

「『穿ち貫く刃(オリオン)』!」

「にゃ!」

 鋭い声で相棒の名をベルが呼ぶ。すると。

「鈴の音……?」

「『穿ち貫く刃(オリオン)』が光ってる!」

「綺麗……」

 ベルの右手が静かに響く鈴のような音色を奏で始め、同時に『穿ち貫く刃(オリオン)』が白い輝きを帯び、明滅を始めた。

「なるほど、これか」

「さーなー」

 次産間隔(インターバル)を無視。平時と異なり十七ではなく十八階層でゴライアスが暴れ、リヴィラの街を壊滅させたという一件に終止符を打ったのがこの輝きであると勝手に結論付けたフィンが口角を上げ、ライラが煙に巻く。

 しかし、今更スキルの試運転なんてしてどーしたんだこいつ? とはライラの所感。

 五年前に単独でオッタルに挑んで間も無く発現したこのスキルに関しては派閥総出で研究をし、何度も試験をした。

「よし……よしよしよしよし……」

 それなのに今更何をと首を傾げるライラの前には、鈴の音色の向こうでブツブツ呟くベル。遂には目を瞑り、グッと右手に力を入れて。

「『穿ち貫く刃(オリオン)』! お願いっ!」

 さっきよりずっと力を入れ、叫んだ。

「ぐっ……!」

 変化は顕著であった。

「『穿ち貫く刃(オリオン)』から金色の光が溢れてる!?」

「前に見た時こんなのなかったわよね!?」

「すっごく綺麗……すっごく……強い……!」

 ティオナたちの驚愕の前。

 ベルの右手を覆っていた純白の輝きごと抱き締めるかのように、遅れて『穿ち貫く刃(オリオン)』から溢れ出した金色の輝きが寄り添い、そして膨れ上がっていく。

「間違いないなこれは……いやはや素晴らしいね、本当に」

 先に導いた結論を補強するような輝きにフィンは一人頷き、その輝きの中に立つ少年の横顔に視線を注ぐ。

「君が抱えている可能性が……こんなにも色鮮やかなものだったとはね……」

 君と出会った頃の僕も、ここまでの未来は見えていなかったかな。

 確かな昂りを抑えるような独り言を鈴の音の影に隠し、フィンは笑う。満足そうに。嬉しそうに。楽しそうに。何度だってベルに笑い掛ける。

「くっ……ぁ……!」

 視覚で感覚で、純白と黄金が寄り添い一つに混ざっていくのをしっかりと確かめたベルはスキルの発動を中止。それに従うよう、ベルの周囲に広がりつつあった光が霧散していく。

「はぁ……はぁ……はーっ……!」

 自分を囲む光が散っていく様を見届けたベルは、手足を投げ出して屋根の上に倒れ込んだ。

「ベル様っ!」

「ええーっ!? どしたのいきなり!?」

「体力にも精神(マインド)にも余裕ありそうだったのにこの消耗っぷりは何事なのよ……」

「すごい汗……」

「みゃ!」

 倒れ込んだベルを囲む美少女軍団。その真ん中で仰向けに倒れているベルはと言うと。

「出来た……やっと出来た……やったぁ……!」

 玉の汗を浮かべる顔に、大きな笑みを作っていた。

「あ、ありがとう『穿ち貫く刃(オリオン)』……僕のお願い聞いてくれて……!」

 右手の中で輝く相棒に感謝を告げると、それを聞き届けたかのよう、『穿ち貫く刃(オリオン)』を包んでいた純白と黄金の輝きもまた、大気へ溶け込むように散っていった。

「なるほど……お前がこの数日でやろうとしてたのはこれか……」

「あの事件からまだ日が浅いのに……もう自分のものにしてしまうなんて……!」

 何の説明もないまま瞑想チックなことをしていた理由を理解したライラがニッと笑い、興奮より少し勝る心配に背を押されたリリは、高揚と驚愕の混ぜ物が生み出した汗を頬に浮かべた。

「んー」

「わ、シロ……見ててくれ……って! えぇ!?」

 ティオナの腕から脱出したシロに頬の汗を舐められたと気付いたベルは、同時に多くの客人が来ていることに気付いた。

「フィンさん!? ティオネさんもティオナさんもアイズさんも!? い、いつの間に」

「ベルーっ!」

「うべぇ!?」

「ねーねー今の何!? なんだったの!? すごい綺麗だったしすっごい力を感じた! ってゆーか背伸びた!? 身長追いつかれちゃったかなー!? あははーっ!」

「ち、近いですよティオナさんっ!?」

 上半身を起こしたベルに飛び付いて愉快そうに声を上げるティオナに驚いたり照れたり百面相。それを面白くなさそうに眺めるのは間近にいるリリと、ベルの足の間に収まろうとしていたシロと、今も中庭で訓練をしている大体の姉ンジャーズたちである。

「出発までに間に合った、ってことでいいのか?」

「うん……この子が……僕の声に応えてくれたから」

 尚もティオナに好き放題わしゃわしゃされながら右手の中の『穿ち貫く刃(オリオン)』に目を向けると、まだ微かに残っていた純白と黄金の輝きが神聖文字(ヒエログリフ)から剥がれて消えていくのが見えた。

「流石、ベルの相棒、だね?」

「はいっ!」

 アイズの言葉に溌剌とした返事をしながら小さく頷くと、自分の頬とティオナの頬が触れ合い擦れ合った。なんかもうこれくらいで動揺してちゃいけないんだよなあと思いつつも、ベルくんしっかりドキドキである。

「え、えと……順番おかしくなっちゃったけど……いらっしゃいみなさん! それで、今日はどんな用事で?」

「その状況で挨拶優先すんのあんたらしいわね」

「君たちに激励でもと思ってね」

「うん。応援しに来た」

「そーそー! そーなんだけど……なんかウズウズして来ちゃった!」

「へ?」

「ねーフィン! 少しだけいいかな!?」

「と言われてもなぁ」

「私からもお願いします」

「君もかい? ティオネ?」

「以前に私たちと訓練をしてからどれだけ成長したのかを見せてもらおうってだけです」

「成果報告、必要……かな」

「アイズ、君もか」

 ベルにしがみついたままのティオナも。さっき見た輝きに戦意を煽られたティオネも。いつも美味しいジャガ丸くんを食べさせてくれるベルに出来るお礼はなんだろうと毎日のように考えているアイズも、すっかりその気だ。

「おいベル。この三人娘はすっかりやる気みたいだけど、動けそうか?」

「うん! 寧ろ訓練付き合ってって誰かにお願いしようと思ってたくらいだからすっごく助か」

「決まりーっ!」

「あうっ!?」

 ハイテンションなティオナが力一杯ベルを抱き締め直すと、ベルの広背筋辺りから微かな異音が聞こえたような気がする。痛そう。

「まあいいか……その代わり今日だけ。日が落ちる頃には切り上げること。三人共、いいね?」

「うん!」

「わかりました!」

「わかった」

「僕も見学させてもらうよ。それと、僕なりの守城の方法や戦力の配置などについて後進の力になれたらと思うんだけど、余計なお節介かな?」

「そ、そんなことありませんフィン様! 是非お願いしたいです!」

「彼女はこう言ってくれているけれど、構わないかな、逞しい同胞?」

「好きにしろ。つーかアタシも気になる。聞かせろ」

「であれば早速始めようか。僕たちも、君たちも」

「はい!」

 臨戦態勢を整えていくベルと三人娘から少し離れ、三人の小人族(パルゥム)は座学のお時間。

 早速響くは、苛烈な剣戟の音。

「前に出るのがすっごく上手くなったね!」

「でもまだまだ温いわよベル!」

 アマゾネス姉妹の苛烈な攻めが早速ベルを襲う。

「私が前に教えたこと、覚えてるかな。止めの一撃は」

「油断に最も近いっ!」

 涼しい顔をしてベルの前に隙と言う餌をぶら下げ油断を誘ったアイズだが、アイズの教えを忘れていなかったベルは左手で抜いた『追い越す刃(エクリプス)』で、視覚外から飛んでくるアイズの一撃を受け止めてみせた。

「うん、正解……!」

 弟子のような生徒のような、時々弟みたいに思ってしまう少年の成長が嬉しくて、戦闘の最中にあってアイズの頬が綻び、今ならもっと本気に寄せてもいいかもと、ベルの是非を待つことなくどんどんと加速していく。

「本当に大したものだな彼は。僕たちがどれだけ時間を掛けたと思っているんだ」

「何の話だよ?」

「詮無いことさ。忘れてくれ。さて、こちらも集中していこうか。リリルカ・アーデ?」

「よ、よろしくお願いしますっ!」

 かつては人形姫と呼ばれ、派閥内で友人らしい友人を作ることも出来ずにいた金色の少女の笑顔を引き出すことが抜群に上手い少年に、内心でとびきりの感謝を告げ、その少年を支えようと意気込む同族への講義に、いよいよフィンも本腰を入れ始めた。

「凄いわ……ベル……」

 神々の子供たちが生み出す数々の光景を、疲れた眼差しで見つめている女神が一柱。

「これだけ多くの人の心を動かしてしまうだなんて……本当に凄い子……」

 力を貸そうと、共に戦おうと集まってくれた人々。

 僕は何もしてないです。いや、本当に何もしてないのにと、意味がわからないみたいな顔をしてしまうのだろうな、あの子は。

「それすら、あの子の魅力」

 彼ら彼女らをここへ集め、大きな輪を形成してみせた末っ子への賞賛を隠さない。

「数は足りていないけれど充分に戦力は整った。協力者たちのおかげで各々の調整も順調」

 あとは向こうの出方次第。

 何より、あの子たちが自分自身を越えていけるかどうかだ。

「期待しているわ。みんな」

 わからないものに翻弄されるよりも、少しでも強くなろうと足掻き続ける子供たちの勇ましい姿に胸を打たれたアストレアの微笑みが、一人きりの神室内に優しく溶けていった。

 

* * *

 

「ヴェルフ!」

「ようベル。ギリギリになっちまって悪いな」

「ううん!」

 夜明け前の星屑の庭に、空気の冷たさを忘れさせるような溌剌としたベルの声が木霊する。

「ふニャ……」

「うぅ……ふぁ……」

 アーニャは眠そうに目を擦り、寝起きが悪いでお馴染みの輝夜がゆらゆらと身体を揺らしているなどしているが、多くの者たちは眠気に飲まれることなく、最後の一人が無事に合流したことに胸を撫で下ろしていた。

 戦争遊戯(ウォーゲーム)開催二日前の早朝。

 開戦決定から多くの時を過ごした星屑の庭の前に、此度の戦争遊戯(ウォーゲーム)に挑む者たちと出立を見送ろうとする者たちが集まっていた。

 都市の門外に集まる手筈となっている馬車群と合流し、今回の舞台となる、シュリーム古城跡地の少し手前にギルドが臨時で設営している支部へと向かい指示を仰ぐ。というのがこれからの流れである。

 例えばアーニャやクロエやルノアなどの冒険者ならば、なんなら前日の夜にでもオラリオを発ったとしても間に合うのだが、今回の戦いは攻城戦であり、しかもリリたちは城の防衛側。

 城の状態や構造の把握は必須であるから早めに乗り込もうとリリが決断し、全員が受け入れた次第である。

「えっ、と……どうだった?」

「そんな不安そうなツラすんな。ついさっき、ようやく仕上がった」

「じゃあ………!」

「ああ。リリスケ」

「はい」

「こいつを、お前に任せる」

 背嚢には収まらないからと布でぐるぐる巻きにして右手に持っていたそれを、リリに向けて差し出す。

「……リリでいいんですか?」

「寧ろリリスケしかいねえ。こいつは、限りある時間の中でお前と共に抗い、お前に寄り添ってやれる、お前の為の魔剣だ」

「…………」

 ヴェルフの決意に水など差せないとそれ以上の言葉を飲み込んで、この数日のヴェルフの成果を受け取る。ずしっと来る重さを感じながら、布に手を掛ける。

「これが……!」

「今俺に打てる全てを注ぎ込んだ『クロッゾの魔剣』。銘は『灯火(とうか)』」

「『灯火(とうか)』……」

 解かれた布の下から顔を見せたそれは、赤と言うよりは紅で、もっと言うならば橙。更に区分するならば、樺色に近い輝きで満ちていた。

 リリが高く掲げた灯火(とうか)が朝日を先取りしたような輝きを放ち、参列している人も神も問わず、全ての目を釘付けにした。

 形状はポピュラーなアーミングソードのそれであるが、刀身は短め。ファルシオンと評する方がしっくり来るか。

 剣先から柄頭まで樺色に染まっていて、刃には黒いラインが走っている。

 目立つ装飾はなし。飾り気のないデザインと言われてしまうような、見せびらかすことなど一切考えていないような素朴で無骨な造りは、製作者の性格が強く反映されていると言える。

「こいつは魔剣だが、白兵戦にだって強く出ていけるよう徹底的に鍛えた。リリスケが白兵をするような展開になられたら不味いんだけどな」

 Lv.1のリリでも振るえるよう可能な限り軽量化を突き詰め、当たり前ではあるが、武器としても機能するようとことんまで強度も鋭さも鍛え上げた。

 尚、素材の多くに、かつてオッタルより譲渡されたはいいが扱い方がわからず放置していた階層主の素材などの多くを投入した。Lv.2となり鍛治のアビリティを得た今ならば扱えると意気込み、その通りとなったのだ。

 結果、ヴェルフの手が生み出した魔剣は、ヴェルフ本人でさえ今までの物とは格が違うと自賛してしまうだけの仕上がりとなった。

「これが……正真正銘の……」

「クロッゾの魔剣……」

「っと、あんた等エルフの前で見せるものじゃなかったか……すんません」

「いいんですよ、ヴェルフくん。滅ぼす為ではなく守る為に打ったのだと灯火(とうか)から、そして貴方から伝わってきます」

「貴方とアーデさんならばその力の使い方を誤ることなどない。ですのでどうか、存分に」

 気にするな。気兼ねなく戦ってこいと言って、すっかり馴染みとなった二人のエルフ、セルティとリューが背中を押してくれる。

「ありがとうございます……」

 ヴェルフの人柄も成長っぷりもよく知る二人からの言葉は、どれだけ魔剣と向き合おうとも消え失せることはないかもしれない彼の中の罪悪感を、少しだけ沈めてくれた。

「悪い命(ミコト)。お前にも武器を打ちたかったが間に合わなかった。お前の武器は戦争遊戯(ウォーゲーム)が終わったら、ベルが駄目にした大男の盾と一緒に作る。期待しといてくれ」

「はい! その時を楽しみにしております!」

「おう」

「忘れられているんだとばかり思ってたな」

「んなわけあるか。期待して待っとけ」

「そうさせてもらう」

 十八階層の一件にて、その節は本当にごめんなさいぃ、と縮こまるベルを守り続けた桜花の盾は、その役目を終えた。

 タケミカヅチの子供たちと共に命(ミコト)たちを見送りに来てくれた彼は専ら、アストレアの娘、ドワーフのアスタの厚意により、彼女の予備の盾を借りて冒険者活動に勤しんでいたのだ。

「よーっし! ヴェルフくん到着で全員揃ったね!」

 話が一段落したと見て、子供たちの前にヘスティアが躍り出た。

「一人一人に伝えたいことがあるけど、今はやめておこうかな。謝罪も感謝も全部、今日の続きは君たちが勝利して凱旋した時に! 豊穣の女主人で打ち上げをしながらね! それでいいだろう!?」

「それがいいニャーっ!」

 眠気が飛んだらしいアーニャが先頭切って叫んでみせると、戦争遊戯(ウォーゲーム)の参加者たちはもちろん、アストレアの娘たちも見送りに来た者たちも一緒になって声を上げた。

「是非是非そうしてくださいっ」

 士気の高まる発破の片隅から前に出たのは、リリたちを見送りに来た一人、シル。

「ベル、大丈夫そう?」

「お姉ちゃんこそ大丈夫? 早起き苦手なのに」

「へっちゃら! この後二度寝はするけど!」

「全然平気じゃないじゃない……」

「……本当は、とっておきのお守りをベルに渡したかったんだけど……」

 そこでシルはどうしてか、相変わらずふらふら揺れている輝夜の背中を支えている、アーディへ視線を向けた。

 厳密に言うならば、シルの瞳が映しているのはアーディの顔ではなく、ある時よりずっとアーディが胸に付けている、綺麗な緑色の宝石が埋め込まれていたのだろうことだけが辛うじて見て取れる、壊れ掛けの首飾り。

「こういう時だったんだろうな……『私』がそうしたのは……」

「お姉ちゃん?」

「なんでもなーい! お守りなんてなくたって平気だよね! なんて言ったってベルには、お姉ちゃんからの『頑張って!』が一番のお守りだもんね!」

「用意が間に合わなかったって素直に言っちゃえばいいのに」

「ま、また生意気言ったー!」

「あーごめん。ごめんごめんー」

 早朝からベルとのイチャイチャを見せられ姉ンジャーズの一部の機嫌が急速に悪化することなどお構いなしで絡んで来るシルのポカポカパンチを適当にいなすベルの横顔には、穏やかな笑み。

 隠せていなかったベルの緊張は、頼れるお姉ちゃんが拭ってくれたらしい。

「ヘスティア様の言う通り、豊穣の女主人で祝勝会の準備をしてみんなのことを待ってますから! 豊穣の女主人の底力を見せ付けて来てね! みんな!」

「看板娘のミャーに任せるニャー!」

「だからあんたは看板娘じゃないってのアホ猫」

「うるさ……これならウトウトしてくれてた方がよっぽどいいニャ……」

 看板娘に応える同僚たちの反応は、何処かふわふわとしたもの。

 けれどまあ、これくらいが自分たちらしくていいか。

 シルとベルも。そして全員が、同じ思いであった。

「アストレアは? 何かあるかい?」

 ヘスティアに水を向けられたのは、酒場の従業員たちの穴埋めをするべく幾人かの眷属と共に酒場での激務に連日励んでいるアストレア。濃い疲労を抱えているだろうに今朝も隙がなく、凛とした佇まいである。

「貴方たちを信じ、貴方たちの帰りを待っています。私からはそれだけよ」

「ありがとうございます!」

 簡素な言葉に溢れんばかりの慈愛と信頼を込め、子供たちに手渡すアストレア。彼女の眷属ではない子供たちも背筋を正し、女神の言葉に丁寧な礼をした。

「ベル。貴方からは何かない?」

「ぼ、僕ですか?」

「ええ」

「そういうのは大将で指揮官のリリから」

「あら、女の子を盾にしようとしているの?」 

「今のはそういうのじゃありませんよね!?」

「ベル様……」

「なんで僕睨まれてるの!? じゃ、じゃあ……えっと……えっとえっとぉ……!」

 ベルがテンパる様子さえ愉快なのか、その場に同席する者全員がわざとらしい意地の悪ぶった笑みで、ベルの言葉を待つ。

「……ヘスティア様」

「なんだい?」

「この戦いが終わったら、引っ越しをしましょう」

「あ、居候のボクたちはさっさと出ていけって?」

「はぇ!?」

「酷いなあ……傷付いちゃうなぁ……」

「そうじゃなくてですね! ヘスティア様とリリから大切なものを奪った人たちの全部を奪ってやりましょうってことです!」

「わお! 過激発言!」

「ベルも大概、この都市に染まってるよな」

「それくらいやり返さなけば割に合いませんものね!」

「ベル様……」

 ヘスティア、ヴェルフ、命(ミコト)、リリの反応を見ながら、リリの前に立つ。

「だから……勝とう。必ず」

「……はいっ!」

 ベルとリリ。事の始まりの二人が頷き合い、強気な笑顔を分かち合う。

 士気は充分に高まった。

「よーっし! 馬車も待たせていることだしそろそろ……」

 いってらっしゃいと言おうとしたヘスティアの言葉が、喉の奥へと引っ込んで行った。

「な、なんだぁ?」

 星屑の庭の前の通りに、フードで顔を隠した一団が現れた。 

「見覚えないようなあるような……」

「十……いや、二十って所ね」

「冒険者だね。間違いなく」

 謎の一団全員が丈の長い外套を羽織り顔を隠しているという少ない情報から正解を見つけようとライラが頭を回し、まだ遠くに見える影から大体の人数をアリーゼが見抜き、一般市民であれば先ずしないであろう足音を殺す歩法によるものか、大して聞こえて来ない足音に加え金属が擦れる音などから、こちらに向かって来ているのは冒険者だとアーディが断言。

「殺気は感じないが、油断は」

「待って!」

 寝惚け眼なりにしっかり帯刀していた輝夜が愛刀の柄に手を伸ばすのを遮るような声が聞こえた。

「まさか……まさかっ……!」

 ベルの声だった。

「心当たりがあるの?」

「あるよ! 間違いない……絶対にそうだ!」

「べ、ベル様!?」

 いきなりのことに驚くリリの声にも耳を貸さず、星屑の庭の前に出来ていた輪から飛び出し、ベルは走った。

「やっぱり……!」

 謎の一団の前で急停止したベルは、瞳を輝かせていた。

 自分の前に立つ者たち……彼女たちとの再会は、ベルがずっと大切に抱えている、約束の一つだったから。

「お久しぶりです」

 謎の一団の先頭に立つ者がベルに語り掛ける。

「大きくなった……本当に本当に……大きくなられましたね……」

 とても穏やかなその女の声からは、ベルとの再会を喜ぶかのような、感嘆に満ちた響きを有していた。

「っ……!」

 ベルは、自分の瞳が微かに潤んでしまうのを感じたが、それを拭うことも出来ないで、ただ立ち尽くしていた。

「私たちの女神より、貴方に言伝を預かっております」

「……聞かせてください……」

「今会ってしまったら、約束と違ってしまうな」

「!」

「私は待っていよう。我々が約束し、我々が望んだ形で、貴方と再会出来る時を。オラリオの直ぐ側から勝利を願っている。だそうです」

「……あっ……あり、がとう……ありがとうございます……」

 それが精一杯。今のベルには、こんなふにゃふにゃな感謝だけでもういっぱいいっぱいだった。

「礼なら私にではなく、あの方に直接お伝えください。勝利の報告と共に」

「はい……必ず……!」 

「是非そのように……早くから失礼を致します! 女神アストレア様! 女神ヘスティア様!」

 微笑みながらこくりと頷いた女は立ち尽くすベルの脇を抜け、フードを取り払いながら声を張り上げた。

「我らが主神より、女神様方に言伝を預かっております!」

 その女は外套の下に、戦闘衣(バトルクロス)を着用している。

 見れば、胸元にエンブレムが付いている。

 重なる月と弓矢が印象的な、エンブレムが。

「貞潔を司る女神が率いる我らの派閥! 眷属二十名!」

「まさか……!」

「そうだよ! 絶対そう!」

「おいおい最高か……!?」

「五年振りだーっ!」

 流石にここまで来れば、アストレアの娘たちも気が付いた。

「ヘスティア・ファミリアの陣営として、我々アルテミス・ファミリアも! 戦争遊戯(ウォーゲーム)に参加させていただきたく思います!」

 月の女神の娘、レトゥーサの頼もしい宣誓が、この場にいる全ての者の胸を打った。

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