彼は誰の夢   作:く ろあり

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のんびりやってます。


はじめましての内と外

「アルから託された少年が貴方たちの想像通りの存在だったとして。その少年と無事に出会えたとして。それでも私たちは、まず間違いなくアルを忘れてしまうでしょう」

 とある村へと出発する直前。眷属全員にシャクティとアーディも招集し、女神アストレアは断言した。

 今日まで発見報告が一度もなかった怪物ジャガーノートと、本来の目的であったルドラ・ファミリアの面々との争いから地上に帰還した翌日ということもあってか、肉体的疲労精神的疲労どちらも色濃い少女たちの表情は明るくなかった。

「もしかしたら村へ向かう最中。その帰り。もっと早いかもしれない。数秒後にはアルのことを忘れてしまって、私たちはどうしてオラリオを離れ小さな村へ向かっているの? なんて話になってしまうかもしれない。それは仕方のないことで、悔しいくらいにどうしようもないことなの」

「どうしようもない……でもそうしたら、私たちが会いに行くアルは」

「ストップよ、リュー。貴方たちの仮説が正しかったとしても、私たちが会いに行くのはアルじゃない。ベル・クラネルという小さな男の子。大切なことだから間違えてはダメよ?」

「も、申し訳ありません……」

「謝らないで。こんなにも不可思議な出来事で、こんなにもみんなの心に強く根付いている男の子のことだもの。それぞれの考え方や想いがあって当たり前なのだから」

 萎縮してしまったエルフに微笑み掛け、アストレア・ファミリアの満面が的を得ている体で、アストレアは話を進めた。

「私たちはアルじゃない、アルになれるかもしれない少年に会いに行く。けれど私たちはベル・クラネルという少年に、アルになることを求めてはいけない。アルという存在を伝えてもいけない。それは、ベル・クラネルの未来を殺す行いだから」

「未来を殺す?」

 暗黒期にアルが姿を現した際。本来ならば唾棄すべき内容、しかしとても印象的な会話をしたことを思い出した輝夜が、おうむ返しでアストレアに疑問をぶつけた。

「ああしろこうしろこう生きろこういう存在になれ。無理矢理に押し付けられて生きて、少しも歪まずにいられると思う?」

「それは……」

「アルが自分の魂の使い方を自分で決めたように、ベル・クラネルもそうでなければならない。そこに私たちが過剰なノイズを与えてはいけないの。私たちにとって如何にアルが大切だろうと、ベル・クラネルの重荷にまでしてしまうのは本意ではない。そうでしょう?」

 優しい声音の女神の問い掛けに、少女たち全員が首肯した。

「アルはアル。ベル・クラネルはベル・クラネル。ベル・クラネルの中にアルの面影を探すのではなくて、ベル・クラネルがアルをも越えていくような男の子になれるよう、共に生きていきましょう。たとえ、私たちがアルを忘れてしまったとしても。いい?」

「はいっ!」

 団長であるアリーゼが声を張り、銘々な返事が後に続いた。

「一つ確認ね。貴方たちは、ベル・クラネルをファミリアに迎えたいと考えているのよね?」

「その通りですっ!」

 アリーゼが叫ぶ。女神を見つめる子供たちも全員が頷いていた。

「だったら、もう一度ここで誓っておきましょう。アルのことを忘れずにいられる今。正義の剣と翼にではなく、アルに誓いましょう」

「誓う?」

「私たちが、ベル・クラネルを守る」

「!」

「私たちと共に生きる以上、様々な危険がベル・クラネルの直ぐ側にまで迫ることになるのは避けられない。その時、ベル・クラネルの盾となり、ベル・クラネルの前で剣を振るうのは私たち。そうでしょう?」

「その通りですアストレア様!」

「確かに、誓うべきはアルにだね」

「都市を守り続け、ベル・クラネルの未来を守り続ける、か」

「大丈夫。私たちならベル・クラネルくんを守れるよ」

「というか、守んなきゃだよね」

「ええ。絶対に守らねば……」

「アルのことを忘れてしまっても、これだけは絶対に忘れてはいけない」

「アルの願いを叶えるのは、わたしたち全員でした約束だもん」

「団長も言ってたけど、アルに守られたあたしらがアルに託されたものも守れませんでしたとか恥なんてレベルじゃないよね」

「ま、なんとかなんだろ」

「なんとかするの! アルの願いを叶えて! ベル・クラネルを守って! 最高に楽しい人生を一緒に送れるよう笑って生きるの!」

「そうね……そうしましょうね、みんなで」

 穏やかに微笑むアストレアと子供たち。昨日抱えた負傷や疲労に加え、少年との別れで気が落ちていた彼女たちに、ようやく笑顔が戻った瞬間だった。

「きっとカッコいい男の子になるよね、ベル・クラネルくんは」

「そうだといいわねえ」

「私たちの手でオシャレでカッコいい男の子にしてあげちゃうのもいいよね」

「それならアルよりモテる男子にしてやりたいなあ」

「言ってもアルはモテただろうしなあ」

「だろうねー」

「そんなアルが羨ましいって言い出すような楽しい生活を送らせてあげようね!」

「お? ハーレムってやつー?」

「なっ!? い、いけない! そういうのはいけない! 断じて認められない!」

「冗談に決まってるだろムッツリエルフ」

「もしかして高潔なエルフ様は、まだ九歳らしいお子様相手に欲情してしまうような破廉恥エルフ様だったのでしょうかねえ」

「ら、ライラ……輝夜ぁ……!」

「今のはお前の自爆だろーが」

 真っ赤な顔をしたファミリアの末っ子を中心に、少女たちの笑い声が響いた。

「アーディ? どうかした?」

 その輪の少し外で微苦笑を浮かべているアーディに気付いたアリーゼが、話の風向きを変えた。

「なんか……なんかね? ふと思ったの。アルはきっと、助けたいと思った誰かを助ける。それだけの為に、私たちの前にやって来てくれたのかもしれないって」

 白く純粋な輝きに希望や羨望、慕情まで抱いたアーディ・ヴァルマは、彼の背中を支えた自らの手に視線を落としながら、そう言った。

「……そうかもしれないわね」

「あいつ言ってたよな。自分がここにいるのはアタシらを死なせない為、的な事」

「言ってた言ってた!」

「それが本当だとしたら……相当な変わり者だな、あの男は」

「ほんと、輝夜の言う通り」

「不思議な子だったわねえ」

「でも……優しい子でした」

「優しくて、とっても真っ直ぐな子だったね」

「真っ直ぐなアルが託してくれた子の生き方を私たちが捻じ曲げたりしたら、それこそアルに怒られちゃうかもね」

「そうだね……」

「あれ? また泣く? 誰が泣いちゃうの!?」

「泣かねーっつの。そういうのはもういいんだよ」

「そうね。それに、私たちがアルのことを忘れてしまったとしても、私たちとアルは繋がっている。そうなのよね、アリーゼ?」

「そうですアストレア様っ! だって私たちみんな、アルのことが好きですもの!」

「ふぇ!?」

「あら、違うの? 私は好きよ! 大好き! 強かったしカッコよかったし可愛かったし! みんなはどうなの!?」

 話の雰囲気がぱあっと明るくなり、女の子女の子したやり取りが散見されるようになった。

「いやそりゃ好きだけどさあ」

「童顔寄りだけどキリッとした表情とのギャップが良かったわねー」

「最年長のマリューがガチっぽく答えてんのちょっと怖いんだけど」

「どういう意味かしらー?」

「凄く勇ましくて、とってもカッコよかったです」

「確かにあの勇姿を見せられてガチ恋勢になるなと言われても難しいけど……」

「わ、わたしの場合はそういう好きまで至ってないというか……もっとちゃんと一から積み重ねてみたかったなあっていうか……」

「あたしもかなり好きだけどさ、アーディに申し訳なさがあってなあ」

「んな!?」

「一途に思い続けるのもいいけどさ、引き摺り過ぎていい出会い逃さないでよ?」

「アーディこういうの不慣れな感じするし、ズルズル行きそうで不安」

「そっ、そういうのはいいんだよっ! 私は私なりにやってくんだからっ!」

「照れるアーディとかレア過ぎる」

「可愛いかよー」

「急にヒロインオーラ振り撒き始めちゃってさーあ」

「ベル・クラネルって子がはちゃめちゃにアルに似てたからっていきなり手を出したら縁切るからね」

「そ、そんなことしないよーっ!」

「きゃーアーディが怒ったー」

「ショタコン疑惑急浮上のアーディちゃんが怒っちゃったわー」

「シャクティお姉ちゃん助けてー」

「私に振るな……」

「もーっ!」

 今度は、アーディを中心に咲いた。アルと呼ばれた少年が望んだ、誰かの心にまで届く、可憐な笑顔の花が。

「兎にも角にもまずは、ベル・クラネルが私たちと共に来てくれるか、だな」

「それは大丈夫よ! 超絶美少女の私がいるしみんなもいるし! 何より、アストレア様がいるしっ!」

「あーうん。それで役満だ」

「仮にだが、もしも拒まれたらその時は?」

「簡単よ! ベル・クラネルが納得してくれるまで一生懸命説得する!」

「ノープランじゃん」

「お馬鹿過ぎる……」

「でも無理矢理連れ出すのも違うんじゃない?」

「んーまあそりゃそうね」

「大丈夫よ! 予感があるの! 私たちとベル・クラネルが織りなす楽しい楽しい物語が始まる予感が! そうよね! リオン!?」

「そう……ですね……私も、そんな予感がしています。そうなると……嬉しい……」

「とか言いながら、いくらまだガキンチョとはいえ男と一つ屋根の下とか耐えられんのかよーリオンちゃんはさーあ」

「な!?」

「純粋とか潔癖とかそんな言葉で誤魔化せないようなポンコツコミュ障のエルフ様には荷が重過ぎるでしょうねぇ」

「こ、こみゅ障? それはどういう意味ですか!? 教えなさい輝夜!」

「はいはいそういうの終わり終わり! そういうの全部、ベル・クラネルに会えばわかることなんだから!」

「話も尽きそうにないし、そろそろ行きましょうか。馬車も待たせていることだし」

「はい! じゃあみんな、行きましょう!」

 ついさっきまで暗い顔をしていたことが嘘のよう。先頭切って笑顔のアリーゼが駆け出して、笑顔の団員たちが続く。

「シャクティ。本当に行かなくていいの?」

 その最後尾。アストレアとアーディは、シャクティの前に立っていた。

「ええ。私はここで、アストレア様たちのご帰還を待っています。私以下団員三名。星屑の庭、お預かりします。どうかご無事で」

「ありがとう、シャクティ」

「いえ」

「お姉ちゃん……本当にいいの?」

「諄いぞアーディ」

「だってお姉ちゃんだって……」

「いいんだ、私は。だから……私の分まで頼むぞ。アーディ」

「…………うんっ」

 日頃はあまり表に出さない表情を浮かべながら、シャクティ・ヴァルマは自らの妹の頭を撫でた。

「じゃあ……行きましょうか、アーディ。まだ出会ったことのない、けれどとびきり素敵だと知っている男の子に出会いに」

「はいっ!」

 ベル・クラネルと出会う以前に、少女たちは誓っていた。

 何があろうと。どれほどの苦境に立たされようと。自分たちの眼前に立ち塞がるのがどれほどの強敵であろうとも。

 ベル・クラネルという名の少年を守り、共に生きる。

 彼女たちは誰一人として、迷いを抱いていなかった。

 

× × ×

 

「失礼しますっ!」

「失礼しまーす」

「失礼します」

「し、失礼します……わあ……!」

 元気いっぱいなアリーゼを先頭に、アーディ、リュー、ベルと続き、最後にアストレアが謁見室へと足を踏み入れた。

「久しぶりね、フレイヤ」

「ええ。久しいわね、アストレア」

 アストレアへ笑顔を向けながら、フレイヤの意識はアストレアとリューの間で忙しなく動き回る魂に吸い寄せられていた。

「いきなり押し掛けてしまってごめんなさいね」

「構わないわ。というか貴方、私がバベルを離れていたことを知っていたの?」

「いいえ。いなかったらバベルに行けばいいくらいの心構えでいたから」

「貴方らしいわね」

「というか、お邪魔してよかったのかしら? 大切な話をしていたのでなくて?」

 室内にフレイヤの子供たち、しかも幹部級が勢揃いしているのを見てもアストレアは顔色を少しも変えない。その代わりと言うのもおかしいが、同行しているエルフだけは緊張に支配され、整った横顔に汗の玉を浮かべていた。

「本当におっきい部屋ねー! うわ何あの彫刻! お幾らくらいするのかしら!? 片腕だけでも持って帰れないかしら!?」

 緊張感も警戒心も皆無過ぎる団長の所為で抱える心労は倍々ゲーム状態。妖精さん強く生きて。

「問題ないわ。急ぎの内容ではないから。貴方たちも久しいわね、アストレアの子供たち。壮健な様子で何よりだわ」

「お久しぶりですフレイヤ様! 今日もハイパーお綺麗で、見ているだけで心がバーニングしちゃいます!」

「やめてくださいアリーゼっ……! お、お久しぶりです……神フレイヤ」

「そう固くならないで頂戴。貴方も久しぶりね、アーディ。貴方たちが懇意にしていることは知っているけれど、どういう取り合わせ?」

 アーディの前で首を傾げるフレイヤ。同性のアーディさえも鼓動のリズムを無理矢理に引き上げられる美しさに動揺しながら、アストレアに視線を送る。アストレアからの返礼は、頷き一つ。

「えと……ギルドへの報告はまだなんですけど、アストレア・ファミリアに移籍しまして……」

「あらそうなの? 本当に? 驚いた……おめでとう、でいいのかしらね」

「あ、ありがとうございます……!」

 これには素直に驚いた。何がその決断を後押ししたのか気になるくらいだ。

「それで。貴方はだぁれ?」

「はうっ!」

 そんな一驚などさっさと脇に置いて、フレイヤはその魂を見下ろした。

 白い髪。深紅(ルベライト)の瞳。間近で見る面差しは本当に幼く、少年ではなく少女と言われても納得出来るくらい愛くるしい顔立ち。色濃い緊張の色を微塵も隠せず、あちらこちらへ行ったり来たりと忙しなく視線を泳がせる様は臆病な兎を連想させた。

「ああ……」

 そんなことはいい。まずは魂。何よりも魂。その輝きが見たい。もっと近くで見たい……!

「可愛らしいお客様ね」

「え? あ、う、うぅ……」

 自身の美貌で少年の魂を犯してしまう可能性さえ頭から飛んでいるのか、緊張を隠せない少年の前で腰を折り、前屈みになって視線を近寄せるフレイヤ。

「お名前、教えてくれる?」

「…………べ、ベル……クラネル……っ!」

「あら」

 辿々しくも名前を教えてくれた少年は、瞬く間に視線を逸らした……どころか。リューの背中に隠れてしまった。

「……嫌われてしまったみたいね」

 軽口を叩いてみせるも、内心は穏やかではなかった。

 どうして私が目の前にいるのに、他の女に縋り付いているの?

 フレイヤの内に湧き上がる黒い衝動など露も知らない少年は、よく見れば頬を真っ赤に染めて視線を彷徨わせていた。

「なるほど……」

「なるほど?」

 リューが呟き、アーディが拾う。何がとアーディが尋ねるのを無視して、リューが一歩前に出た。

「僭越ながら、神フレイヤ」

「何かしら、リュー・リオン」

「大変申し上げ難いのですが…………召物を変えては頂けないでしょうか……?」

「え?」

 すんっと、フレイヤの内に湧いた衝動が鳴りを潜めた。

「その……彼には……ですね……」

「フレイヤ様がエロ過ぎるからこの子が目のやり場に困っているんです! どうかお着替えお願いします!」

「んあぁぁあぁあああアリーゼェ!?」

「リオンったら回りくどいんだもの。ちゃんと言わなきゃ伝わらないじゃない!」

「それにしたって言葉を選ぶべきでしょう! 不敬もいいところです! うぅ……!」

 テンパるリューの横っ面に叩き付けられるのは敵意マシマシ殺意ヤバめ決意硬めな、リューたちを射殺さんばかりの視線の数々。当然、その場に居合わせる第一級冒険者たちからの心が籠りまくった贈り物である。

 彼らはアリーゼにその視線を向けなかった。向けたって何処吹く風だろうことは理解しているので。

 とばっちり喰らうリオンかわいそ。っていうかこの状況でけらけらと笑っているアリーゼやばーい。もしかしたら私、今日死んじゃうー?

 コントを繰り広げる知己たちを見やるアーディ・ヴァルマが冷や汗ダラダラ状態だったことに気が付く者はいない。

「いいのよ。寧ろはっきり言ってもらえる方が好感が持てるわ。確かに、この子の教育面を鑑みれば少々不適切に過ぎるわね。では、少し席を外させてもらうわね」

「はい! お待ちしてますっ!」

 溌剌とした声に見送られたフレイヤは、足を止めることなく隣の神室へ入っていった。

「はあ……」

 こうも直接的な言い回しをされることがないからか、さしもの女神フレイヤも少々気恥ずかしさを覚えてしまった。

 だから溜息など吐いたのだと自身を納得させようとして、それは無理筋だと理解した。

「何……なんなの……」

 あの魂を間近で目にして、今日まで感じたことのない熱を胸の裏側に感じてしまった、歓喜の溜息。

「ベル……ベル・クラネル……」

 自らの頬に手を添えて、魂の器の名を呼ぶ。

「ああ……!」

 頬が熱い。鼓動が早い。下腹部が疼く。抑えが効かなくなってしまいそうだ。

「ダメ……まだダメ……ダメなんだから……」

 高熱に身を犯されたみたい。譫言のようにダメだダメだと呟きながら着替えを急ぐ。普段ならば侍従を呼び付け手伝わせるのだが、そんな時間すらも惜しかった。

「これ? これくらいなら問題ないかしら。それともこっちの方がいい? うーん……」

 フレイヤには見えていない。

 姿見に映る自分の笑みから攻撃性が溶け落ちつつあることに。

「こっちの方が可愛いかしら……いやでもこっちの方があの歳の子にはウケがいいかも……ああ……どうしましょう……」

 フレイヤは気が付かない。

 少年の目を気にするの意味合いが、少しだけ異なってしまっている事に。

 ややあって。

「お待たせしたわね」

「あ、あのっ!」

 純白のドレスの上に肩や胸元を覆い隠すケープを羽織りフレイヤが戻ると、少しは緊張が解れたらしいベルが出迎えてくれた。

「うん? なぁに?」

 頬を真っ赤に染めたベルの後方で、アリーゼとアーディがニヤニヤしていた。あの子たちの差金なのだろうと理解したフレイヤはしっかりと膝を折り、目線の高さをぴたりと合わせ、少年の言葉を待った。

「はっ、はじめまして、フレイヤ様! ベル・クラネル……です……えっと……よ! よろしくお願いします……!」

 白い髪を揺らし、ぺこりと頭を下げるベル。ベル本人的にはちゃんと挨拶出来たと思っている。

「ちゃんと挨拶出来て偉いわベル! けれどまだ照れがあるから要改善ね! 帰ったら一緒に練習しましょうね!」

 そう叫ぶアリーゼ的には不満足だったらしい。手厳しい団長様である。

「はじめまして。私はフレイヤ。このファミリアの主神よ。よろしくね」

「は、はいっ! よろちく……うぅ……!」

 盛大に噛んでしまったことを恥じたのか、頑張って伸ばしていた背中がふにゃりと曲がってしまった。

「慌てないでいいのよ。ほら、握手をしましょう?」

「はい……」

 おずおずと差し出された小さな右手を迎えにいき、しっかりと握る。わざとらしくぎゅっきゅと握ってみると、羞恥や動揺が瞬く間に広がって、少年はコロコロと表情を変えた。

「あ、あの……」

「どうしたの?」

「……と!」

「と?」

「……っても……か、わいい……です……!」

「……ありがとう、小さな紳士さま」

「あ、う……うぅ……ううぅうぅ!」

 素敵だと思ったのならちゃんと言わなきゃ! とアリーゼに吹き込まれていたベルは頑張った。とっても頑張ったのだが、いよいよ緊張に押し潰されてしまい、近くで様子を見ていたアストレアの元まで駆けて行ってしまった。

「あらあら」

 微笑むアストレアが彼の頭を撫でる様を眺めるフレイヤには、思う所があった。

 可愛い。

 面と向かってそう言われるの、何時以来かしら。というか、下界に降りて来てからは殆ど初めてと言っていいくらいかもしれない。

 綺麗だ美しいだと称されることは飽きるほどにあるけれど、美の女神を前にして綺麗より先に可愛いと発する者など、神でも子供でもこれまでいなかった。

「素敵な子ね……」

 アストレアや彼の姉も同然のように振る舞う少女たちと戯れる少年を見やりながら、妙に熱っぽくなっている自らの頬を撫で、フレイヤは大きく息を吐いた。

「さて。そろそろ本題に入りましょうか。アストレア。貴方がここへ来たのは、その子を私に紹介するため?」

「それもあるのだけど、あの子の話をする前に聞いて欲しい話があるの。こうして揃っているのも何かの巡り合わせだと思うし、貴方の子供たちにも聞いて欲しいと思うのだけど、如何かしら?」

「子供たちも? 私は構わないけれど……」

「ありがとう。ベル? ちょっといいかしら」

「なんですか?」

「これから大事な話をするの。だからね、アーディと二人で待っていてくれるかしら?」

「わかりました!」

「いい子ね。アーディ、お願いね?」

「おまかせを! よーし! いいお返事の出来たベルにはご褒美に……じゃーん! 私がアルゴノゥトを読んであげよう!」

「ほんと!? いいの!?」

「いいともー! ほらいこ!」

「うんっ!」

 ニコニコ笑顔のベルは、わざわざアルゴノゥトを持ち込んでいたアーディと手を繋ぎ、ヘルンに案内されるまま部屋の隅に置かれている丸卓まで駆けて行った。

「可愛い子でしょう?」

 アーディを急かす少年の満面の笑みに目を奪われていたフレイヤの隣に、アストレアが並んだ。

「ええ、とっても。あの子、どうしたの?」

「その辺りもこれから。申し訳ないのだけど、貴方たちにお願いがあるの。今日ここで私たちから聞いた話は一切口外しないで欲しいの。いいかしら?」

「構わないわよ。子供達にも徹底させる」

「ありがとう。アリーゼ。リュー。いいわね?」

「もちろんです!」

「アストレア様の御心のままに」

 眷属二人に穏やかに微笑みかけ、アストレアはフレイヤに向き直った。

「少し長い話になるけれど」

 そう前置きをして、アストレアは語り始めた。

「私の子供たちが出会った、ジャガーノートという存在の話をさせて頂戴」

 

× × ×

 

 ジャガーノート。

 ウラノスへその存在を報告するもギルドの記録には載せないことが既に決定されている、ダンジョンが産んだ異常事態(イレギュラー)

 二腕二足。体高は3Mほど。人間など容易く噛み潰してしまう牙。凶悪な爪を両手にそれぞれ三本備えている。4Mほどあるだろう鋭さと硬質さを備えた尻尾。獲物を屠ることに特化している異常なまでの機動性と破壊力。引き換えに装甲は脆いが、魔法を反射する殻を持っている。体内に魔石がない為、全身を粉々にするなどしなければ止めをさせない。

「私たち十一人にアーディとシャクティ。何の前情報もなく遭遇戦をしていたら、間違いなく全滅していました。出来ても誰か一人か二人を生かすのが精一杯だったと思います」

 ジャガーノートの特徴や自身の経験を苦々しげに語るアリーゼの報告を受け、フレイヤは疎か、フレイヤの子供たちも少なくない動揺を抱えた。

 アストレア・ファミリアの実力は自分たちに劣る。しかしそれでも、少女たちの勇猛さも、連携面の充実具合も、格上に挑んでも肉薄出来る馬力も、共に暗黒期を駆け抜けた彼ら全員が知っていた。

 そんな彼女たちに、シャクティ・ヴァルマとアーディ・ヴァルマまで加えたとしても全滅していた? それほどの怪物がダンジョンの下層域に現れた?

「……よく、一人の被害も出さずに生還出来たわね。しかも打倒してみせるだなんて。見事ね。本当に素晴らしいわ」

 フレイヤは心からの惨事を贈った。所謂、初見殺しの塊のような敵を前にして一人の死者も出さないどころか、討伐まで果たすとは。

 暗黒期での彼女たちの活躍も目覚ましかったが、当時の活躍に匹敵するほどの偉業なのだと、フレイヤは心から少女たちを称えた。

「ありがとうございます。でもそれは……彼のおかげなんです」

「彼と言うのは……その怪物の情報を持っていた人物のこと、で良いのかしら?」

 何の前情報もなかったら。アリーゼははっきりとそう言っていた。

「はい」

「その彼とは一体何者?」

「……わかりません」

「わからない?」

「私もリオンもアーディもアストレア様も。彼と関わった全員が、彼のことを忘れてしまっているんです。名前も顔も、彼からもらった言葉も。そうよね、リオン?」

「はい……彼がいたことも、彼と共に戦ったことも覚えているのですが……」

「どういうこと?」

「その少年は、カオスのひずみを越え、未来からやって来た」

「な……!」

 アリーゼの代わりにアストレアが答えると、フレイヤの目が見開かれた。フレイヤの眷属たちは何を馬鹿なと言わんばかりの冷ややかな反応を揃って示している。

「その可能性が極めて高いと思っているの」

「……本気で言っているの?」

「ええ。もう何もかもが思い出せなくなってしまった彼は言わば、この世界そのものの異常事態(イレギュラー)。私たち神々の常識でさえ一切通用しない、とっておきの未知。私たちは彼をそういう存在だと考えているの」

「……アストレア。貴方も何も覚えていないの?」

「ええ。彼のことは何も」

「……だとして。何かしらその少年がカオスのひずみを越えてきた証は何かないのかしら? 貴方たちを疑うわけではないけれど、素直に信じろと言われても難しいことくらい貴方たちならわかるわよね?」

「わかっています。じゃあ……アーディ! アーディー! おーい!」

 アリーゼの良く通る声が、遠く離れた部屋の隅でベルと一緒に夢中になって本を読み進めていたアーディの手を止めた。アーディはベルを担ぎ上げ、肩車しながらこちらへ駆けてくる。頭上のベルはとっても機嫌が良さそうに手を広げて笑っている。

「アリーゼ呼んだー?」

「ええ。フレイヤの前に」

「はい」

 アリーゼの代わりに答えたアストレアに返事をし、フレイヤの前に立つアーディ。当然のようにベルは肩車されたままである。

「フレイヤ、気が付かない?」

「? この子の一体何が…………あ……!」

「うん?」

「んー?」

 何が起きているのかわからないアーディとついでに連れて来られたベルが仲良く同じ方向に首を傾げる前で、何かに気が付いたフレイヤが驚きの色を浮かべた。

「あなた……その首飾り……」

 挨拶の際には足下をちょろちょろする魂ばかりを気にしていた所為でまるで気が付かないでいたフレイヤの銀の瞳が、アーディの胸元を飾っている首飾り、その一点に集中していた。

「これですか? 前は緑色の綺麗な宝石が付いていたんですけど、いつの間にか壊れちゃったみたいで……」

「……それ、何処で手に入れた物なの?」

「ある男の子に貰ったんです。その……信じてもらえるかわかりませんが……その子のことがもう思い出せなくなっていまして……というかそうだ! これ、フレイヤ・ファミリアのエンブレムに似てるっていうかほとんどそのままじゃないですか!? ずっと気になってたんですよ! フレイヤ・ファミリアのエンブレムを勝手に流用してお金を稼いでいる悪者が何処かにいるんじゃないかって! 何か心当たりありませんか!?」

「…………その首飾り、私の物なの」

「っええええ!? フ、フレイヤ様の!?」

「ええ」

 暗黒期の只中。ある日、フレイヤの元をヘルメスが訪れた。深々と頭を下げ、ヘルメスは言った。

 フレイヤ様の持っている首飾りを譲渡して貰えないだろうか。身代わりの効果のある、緑色の宝石の付いた首飾りを。

 何故私がそんな首飾りを持っている前提で話すのか。持っていたとして、その情報はどうやって掴んだのか。そんな首飾りがあったとして、それを誰の手に委ねるのか。

 わからないことだらけだった。腑に落ちないことが多過ぎた。結果的には地面に額を付けて懇願し続けるというヘルメスらしからぬ必死さに折れる格好になったが、もちろん貸しである。その後あれやこれやで返済はさせた。

「つまり……つまりですよ!? 私の命……フレイヤ様に救われたってこと!?」

「どういうこと?」

「実は……その……」

 大抗争の最中、ある少女がアーディの眼前で自爆を敢行した。自分の死を知覚する隙間もない、不可避の爆発。

 しかし、アーディは生きていた。自分でも不思議だった。死ななきゃ嘘でしょと思うくらいに死んで当たり前の状況だった。

 生き永らえたアーディはある時気が付いた。大抗争勃発以前まではそんなことなかったのに、胸元で光っていた緑色の宝石が破損していたことに。

「だから私、彼が託してくれたこの首飾りが私の命を救ってくれたんだって、ずっとそう思っていて……」

「実際そうなのでしょうね。簡単に言えば、その首飾りには一度だけ受けるダメージを肩代わりしてくれるような効果があるから」

「だったら……本当に?」

「そうなるわね」

「でも……だったら…………フレイヤ様!」

「何かしら?」

「助けてくれて、ありがとうございました!」

「うわーっ!」

「わー!? ご、ごめーんベル! 肩車してるのすっかり忘れてた! 大丈夫!? 頭ぶつけなかった!?」

「きゅう……」

 勢い良く頭を下げた所為で恐怖の体験を強要させられたベルが目を回し、その介護にあたふたするアーディ。二人のバタバタの所為でフレイヤは、気にしないでもどういたしましても私は何もしていないわすらも差し込む隙間がなかった。

「こ、こわかった……」

「ごめんねベルぅ……もう大丈夫?」

「うん……で、でもっ、もっかいやったらやだからね!」

「やらないよー!」

「ほんとかなあ……」

「あ! ごめんなさいフレイヤ様! 貴方の前で私たちったら……!」

「いいのよ。仲が良さそうで羨ましいわ」

 本心からそう言うと、アーディの前でぷんすかしていたベルが、まずフレイヤを見上げて、次にアーディを見た。

「アーディさんアーディさん」

「なあに?」

「フレイヤ様がアーディさんをたすけてくれたの?」

「そうなんだよーベルー。つまり、ベルと私が出会えたのは、フレイヤ様のお陰なんだよー」

「そっかあ……」

 またもフレイヤを見上げるベル。その口は何かを言いたそうにモゴモゴしているが、フレイヤと目が合った途端、慌ててアーディの方へと向き直ってしまった。

「フレイヤ。少し、二人で話せないかしら?」

 少年の様子に何事かしらと首を傾げていたフレイヤに声を掛けたのは、アストレア。

「少しでいいの」

「…………構わないわよ」

「フレイヤ様。我々は」

「いいのよオッタル。私たちが席を外すから、貴方たちはここで待っていてちょうだい。客人に失礼のないようにね?」

「はっ」

「行きましょうか、アストレア」

「ええ。ちょっと行ってくるわね」

「行ってらっしゃいませー!」

 溌剌とした返事をするアリーゼの近くで小さく手を振る魂を一瞥し、フレイヤ自らの手で、謁見室の扉を閉めた。

 

× × ×

 

「貴方、その少年のこと、覚えているのでしょう?」

 謁見室から少し歩いた、小さな談話室。侍従を全員下がらせたフレイヤは、二人きりになるなり早速切り込んだ。

「ええ。でもどうして?」

「貴方は下界の子供たちに近い。隠し事が不得手で顔に出易いという点で」

「貴方が言うのならそうなのでしょうね」

「知っていること、教えてくれるのよね?」

「もちろん。まず結論から。暗黒期とつい先日。二度に亘って私の子供たちやアーディ、シャクティを助けてくれた少年の名は、アル。けれどこれは偽名。五年後の未来からやってきた彼の真名は、ベル・クラネル」

「なっ……!?」

「アルは、あの子の未来の姿。その可能性の一つよ」

 これにはさしものフレイヤも目を見開き、口を大きく開けてしまった。

 カオスのひずみを越えるという、神々でさえ成し得ない奇跡を下界の子供が。しかもあの少年の未来の姿が成し遂げた?

 ジャガーノートという怪物の情報といい、今日は目を白黒させられることばかりだ。

「……本当なの?」

「間違いないわ。暗黒期に現れたアル本人から私とヘルメスが直接聞いている」

「何か証拠になるようなものは?」

「アルの所属ファミリア」

「誰の所?」

「ヘスティア。ヘルメスは彼に背中を見せてもらい確認までしたそうよ」

「…………なるほど。間違いなさそうね」

 まだ天界でぐーたらしているのだろうロリ巨乳属性の女神が、多大な情報量で忙しなくなっている脳裏を過ぎる。

 ヘスティアとあの魂の器はとても相性が良さそうだとも、同時に思った。

「はあ……」

 フレイヤは苛立った。本人も気付かない程度に、ほんの少しだけ。

「暗黒期の極めて短い期間に、道化師(ジェスター)と呼ばれた冒険者がいたでしょう? それがアル。大抗争の最中に命を落とすはずだったアーディを助けるべくヘルメスを頼り手を回したのも当然アル。彼、未来では貴方からあの首飾りを貰ったそうよ?」

「ああ、私ならやりそうね……」

 他派閥だろうとお気に入りの子を守る為なら、私は平気でそういうことをするだろう。

「先日現れたジャガーノートを食い止めたのもアル。ヘルメスが聞いた限りでは、彼の世界で初めて現れたジャガーノートに、私の子供はリュー以外の全員が殺されたそうなの」

「そんな未来をまるっと書き換えてしまうだなんて、まるで英雄じゃない」

「ええ。いくら未来を知っているとはいえ、本当に凄いわよね」

「それで、そのアルという子供のことを知って……覚えているのは?」

「私とヘルメス。そして貴方だけ」

「子供たちには伝えないの?」

「ええ。理由は色々あるけれど、一番はこの世界のベルの為ね」

「その方がいいでしょうね。前提が違い過ぎる未来など今の有り様を濁らせてしまうだけ。知らない方がいい。それで? アルの真実を知っている貴方は、私があの子を見たらどんな顔をするのか伺いに来たと?」

「そうなるわね」

 嘘も駆け引きも何もない真っ直ぐ過ぎる受け答え。子は親に似ると言うが、アリーゼ・ローヴェルがあそこまで突き抜けているのはこの親あってこそなのだなと、フレイヤは思った。

「これはヘルメスがアルから聞き出したことなのだけど、アルの世界で、アルが巻き込まれた戦争遊戯(ウォーゲーム)が二度開催されたらしいの。一つはアポロン・ファミリアと」

「ああ……あの子のこと好きそうだものね、アポロンは」

「もう一つは……貴方たち、フレイヤ・ファミリアと」

「……そう」

「貴方たちが勝ったらアルをもらう。フレイヤ? 貴方が提案したことだそうよ」

「私らしくないわね。そこまでご執心なのに魅了も何も使わないだなんて」

 アルには魅了が効かなかったこと。アルを手に入れる為にアル以外の全てに魅了を施しそれを破られたこと。何より、フレイヤ自身が事を急がず、時には成長を促進させるきっかけを与える等、遠くから見守るだけに留めていたこと。

 アストレアもヘルメスも、流石にそこまでは聞き及んでいなかった。

「前提がこれほどまでに違っている以上そのまま間に受けるつもりはないけれど、そういう未来の可能性を少しでも知っている私が後回しにしてはいけないと思って、こうして貴方とベルを引き合わせたの」

 わざわざ話さなくても良いだろう怪物の情報。アーディ・ヴァルマの命を救ったモノ。

 それらを語り聞かせたのも、アルという人物の存在証明を鮮明にさせる為。

 フレイヤがこの世界のベルに強過ぎる興味を抱くと確信していたアストレアは、正面切ってフレイヤと向き合うことを選択していた。自らの子供たちには詳細を伏せたまま。

 それが、どれほどのリスクを抱えている行為なのかも理解した上で。

「そう。真面目なことね」

「……正直に答えてほしい。ベルに、貴方好みの勇士になって欲しいと思う?」

「ええ」

「貴方好みの戦士になれると思う?」

「なれるかじゃない。するの」

「あの子を独り占めしたいと思う?」

「貴方たち全員をこの場で屠ってでも」

「……そう」

 フレイヤは欲望を隠さなかった。隠せなくなっていた。

 未来の自分……いや。もはや別の世界の自分と言っていいだろう存在が、そこまであの輝きに魅入られ、手を尽くした。

 その事実が、今のフレイヤの独占欲を殊更に刺激した。

 確信した。この世界のベル・クラネルがアルとやらに近付けなかったとしても、自分好みの素晴らしい存在へと成長する。これは絶対だ。何故ならもう私が知っているから。ベル・クラネルの魂の色を。

 女神フレイヤがそこまで熱を上げた魂を鍛え、導き、そして逃すわけがないことを、女神フレイヤは誰よりも理解している。

「試すような真似をしてごめんなさい」

「私こそごめんなさい。変に気を回させてしまって。それと、貴方たち全員を五体満足で帰してあげることは出来そうにないことも併せて謝罪しておくわ」

「随分と性急なのね」

「あんなにも素敵な色の魂を見つけてしまえばそうもなる。欲しいと思った物は手元に置かないと落ち着かない性分なの」

「出来れば穏便に済ませたいところだけれど、それも難しいのかしら」

「本意ではないのよ? それも貴方たちとあの子次第。私の邪魔をするのなら容赦をするつもりはない」

「ならば私も、私らしく在らねばならないわね」

「そう」

 悲壮感もなく、怒りもなく、悔恨も何もなく。美の女神と正義の女神は、ありふれた展開を口にし続ける。

 欲しいモノは奪う。大切なものは守る。

 なればこそ、辿り着く帰結は見えている。

「一つ、お願いがあるの」

「何かしら? 命乞い?」

「違うわ。あの子の魂を見るより先に、あの子を見てあげて欲しいの」

「何が違うの?」

「何もかもが違う」

「わからないわね」

「……私には見えないけれど、あの子の魂はとても綺麗なのでしょうね」

「ええ。とっても綺麗よ。貴方にも見せてあげたいくらい」

「必要ない。私には、ベルがいるから」

「? 貴方が何を言いたのかわからないわ」

「そう…………兎に角。もう一度、あの子自身をしっかり見てあげて。あの瞳と向き合ってあげて。お願いよ」

「要領を得ないけれど、わかったと言っておくわね」

「ありがとう。そろそろ戻りましょうか」

「ええ」

 豪奢な絨毯に二人の女神がヒールの跡を刻み、謁見室へと戻る道すがら。

「賑やかね」

 フレイヤの耳を、神室近くで普段聴くことなどあり得ない哄笑が擽った。

「フレイヤ?」

「慈愛に満ちた美しい母親。可愛い子供たち。互いを思い合い尊重し、心からの愛で繋がっている。理想の家族の一つなのでしょうね、貴方たちは」

 謁見室で繰り広げられているだろう光景を想像してみた。フレイヤの子供たちが顰めっ面を作る前で繰り広げられているものはきっと、アストレア・ファミリアの本拠地で日々繰り広げられている光景と相違ないのだろう。

 ありふれた、けれど笑いの絶えない日々。

 彼女たちの幸せな日々に自らの手で永遠の蓋をしてしまうことを思い、ほんの瞬きの間だけ、フレイヤは瞑目した。

「ありがとう。それ以上の褒め言葉は私には存在しないわ。本当にありがとう、フレイヤ」

 隣を歩くアストレアの横顔が綻んだ。

「けれど、それを言うならフレイヤこそでしょう」

「え?」

「貴方のファミリアは、貴方という素敵な母親が取り纏める、力強く逞しい家族だと私は思っているのだけど」

「私が……素敵な母親?」

「ええ。そうでしょう?」

 返事を求めていないのか、アストレアは止まらずに進み続ける。

「……悪い冗談ね……」

 足を止めてしまったフレイヤを置き去りにして。

 

× × ×

 

「おかえりなさいアストレア様! フレイヤ様!」

 侍従が扉を開けるなり、廊下まで響いていたアリーゼの大声と笑顔が出迎えた。

「おかえりなさいっ。ねーそろそろ本返してよアリーゼー」

「嫌ですー! 今は私とベルが一緒に本を読んでるんですぅー! ねー!」

「ねー!」

「あっ、かわ。ベルめっかわ……!」

「諍いの種になるならば、その本は私が預かります」

「あー! またリオンが点数稼ぎしようとしてるー!」

「すーぐベルの前でいい子ちゃんぶるんだからー!」

「て、点数稼ぎとはなんですか!? 私は別に、私が読み聞かせれば何の争いもなく」

「「はいダウトーっ!!」」

「何の話ですか!?」

 今度はアリーゼの膝の上に収まりアルゴノゥトを読んでいるらしく、フレイヤ・ファミリアの幹部たちが半眼になっているのも厭わず、ベルの周りはきゃっきゃきゃっきゃと大騒ぎになっていた。

「他所のファミリアにお邪魔しているのだからもう少し行儀良くして欲しいのだけど……」

 困ったように微笑んで、姦しい光景へ歩を進めるアストレア。

「…………」

 その無防備な背中に。胡桃色の髪の向こうの細い首に手を伸ばそうとして、フレイヤは腕を下ろした。

「アルゴノゥトもいいけれど、ベルは冒険者になりたいのよね?」

 騒がしい子供たちの間を抜けベルの前で膝を折り、アストレアが穏やかに語り掛けた。

「うん!」

 迷わず首肯するベルは満面の笑み。

「じゃあベルは、どんな冒険者になりたいの?」

「つよくなりたい!」

「シンプルでいいわねー! やっぱりあれ? 強くなってモテモテになりたいとか?」

「ううん」

「オラリオで一番強くなりたいとか?」

「ううん」

「お金持ちになりたいとか!?」

「ううん」

 アリーゼ、リュー、アーディからの質問全てに首を横に振るベル。

 興味はある。なんなら興味しかないまである。

 祖父の英才教育を受けて育ったベルはモテモテになりたいし、一番強くもなりたい。だって男の子だもん。すっごいお金持ちになって、故郷の村のみんなの力にもなりたい。

 しかしベルは嘘を付いていない。もしも嘘を付いていたとしたらアストレアとフレイヤには嘘であることは露見してしまう。

 そんなことなど知らない少年は、ただ純粋に望んでいた。

「じゃあベルは、どうして強くなりたいの?」

 アストレアが問う。少年の紅い瞳がきらりと輝く。

「つよくなって、アストレア様とか、アリーゼさんとか、リューさんとか、アーディさんとか、みんなを守ってあげたいんです!」

 単純な話。姉のような少女たちが挙げたものよりも大きな、少年なりの理由があっただけ。

「…………」

 素敵な母親と称された美の女神は口を閉ざし、その光景をぼんやりと見つめていた。

 ベルがオラリオに到着して一週間。

 アストレア・ファミリアの眷属たちと、互いを家族と呼びあえるほどの信頼関係はまだ構築出来ていない。今日は比較的お喋りが出来ている方だが、ベルの奥手な性格も相俟って打ち解けているとはとても言えない状況だ。

 初めて会ったばかりのお姉さんたちなのに、不思議なくらいに自分が気に入られていることがベルにはわかった。その理由はわからないけど、とっても大切にされているんだとわかる。

 みんな優しくて、可愛くて、いっつも笑っていて。羨ましいくらい仲がいい人たちなんだと思った。こういう風に笑い合える人たちがずっと一緒にいられるのはすごくいいことだ。

 まだどう接したものかわからなくて戸惑ってばかりだけれど、いつも仲良しで、いつも笑っているお姉さんたちのことを、ベルは好きになった。

 村を離れて、この人たちと一緒にオラリオに来て良かったなって思う。

 本当は怖かった。大好きな祖父、大切な村を一人で離れ、自分を迎えに来たと言う知らない人たちと一緒に知らない都市へ向かうことが、とっても怖かった。

「儂は行かんよ。行くのはお前だけでいい。けれど、儂やこのお姉さんたちが決めるんじゃない。オラリオに行くかどうかを決めるのはお前自身だ。このお姉さんたちはお前の背中を押すだけ。最後は、お前が自分で決めなきゃな」

 そう言って、祖父は笑っていた。一人じゃ嫌だ、一緒に行こうよと言っても、祖父は笑顔のまま首を横に振るだけ。

 村を離れるかどうか決断するのに一晩時間をもらった。九歳の子供なりにたくさんたくさん考えて、ちゃんと覚悟を決めて、女神アストレアの手を取った。

 お別れの時は泣かないように頑張った。頑張ったけど、馬車の中に入って祖父や村が見えなくなったら、いきなり涙が出て来た。ぼろぼろに泣く自分の涙を何度も何度も拭ってくれたのは、昨日ベルの前で泣いていたアーディって名前のお姉さんと、アーディさんの肩を抱いていたリューって名前のエルフのお姉さんだった。

 アーディさん。リューさん。アリーゼさん。輝夜さん。ライラさん。ノインさん。ネーゼさん。アスタさん。リャーナさん。セルティさん。イスカさん。マリューさん。そしてアストレア様。

 同じ家で暮らすお姉さんたちはみんな優しくて、かわいい。

 お姉さんたちは言っていた。自分たちは、正義を背負っているんだって。カッコいいと思った。

 お姉さんたちはこうも言っていた。

 何があっても、私たちがベルのことを守るんだって。

 嬉しかった。お祖父ちゃんや村のみんな以外に僕のことを大切に思ってくれる人がいるんだってわかって、ちょっと恥ずかしかったけれど、ベルはとっても喜んだ。

 けれど。ちょっと待ってほしい。

 自分のことを守ると言ったのは、女の子。みんなみんな女の子だ。

 女の子を守るのは、男の子がやらなきゃいけないことだ。

 まだ仲良しにはなれていないけど、この人たちはもう、自分にとって大切な人たちだ。

 だから、少年は決意した。

「今の僕には難しいのかもしれないけど……」

 今の僕は守られるだけの男の子。けれどいつか、とっても時間が掛かってしまうかもしれないけれど。

 僕のことを守ると言ってくれる歳上の女の子たち全員を守れる男の子になる。

 そんな、とってもとっても大きな夢を、ベル・クラネルは胸に抱えた。

「いつか、みんなを守れるくらい強くなるっ!」

 そして、少年は声を張り、その名前を口にした。

「フレイヤ様みたいに!」

 にっこり笑っていたアリーゼも。目を細めて微笑んでいたリューとアストレアも。何故かギャン泣きしているアーディも。遠巻きに眺めているフレイヤ・ファミリアの幹部たちも。部屋の隅で控えているヘルンも。

「え?」

 いきなり名前を出されたフレイヤも。

 にっこり笑うベル以外、この場にいる全員が、時を止めた。

「ベル? えっと……どうしてフレイヤ様なの?」

「だってさっき言ってた。フレイヤ様が、アーディさんを守ってくれたんだって」

「あ……」

 アリーゼの問い掛けにきっぱりと答えるベル。

 確かにした。そういう話だった。結果だけを見るならば、アーディをフレイヤが助けたのは紛れもない事実であるのだし。

 ベルには大人たちがしていた細かな話はちっともわからなかったけれど、大切なお姉さんであるアーディを、フレイヤが守ってくれたってことだけはわかった。

 ベルは、そんなフレイヤにどうしても伝えたいことがあった。

「フレイヤ様!」

 アリーゼの膝から立ち上がり、とことことフレイヤの前に飛び出すベル。

「な、何かしら?」

「ありがとう! アーディさんを守ってくれて! ほんとうにありがとうございますっ!」

 自分よりずっと背の高い女神様の目を恥ずかしがらずにちゃんと見て、白い歯を見せ、ベルは笑った。

「ぁ…………」

 喉が震えて、自分すら知らない声がフレイヤの口から溢れた。

 この子は勘違いをしている。私はきっかけを産んだだけで、アーディ・ヴァルマを救ったのはアルと言う名の貴方。綺麗な魂を持つ貴方自身。私の手柄なんてあってないようなもの。

 それを伝えたくとも、口が言うことを聞いてくれなかった。

「僕、とっても強くなれたら、守ってあげたい人がいっぱいいるんです! えっと、アストレア・ファミリアのみんなでしょ。あとお祖父ちゃん! 村のみんなもそう! 村の子供たちと一緒に面倒見てた野良猫ちゃん! いつも村にお野菜とか持って来てくれる行商のおじさんたちも! あとねあとね……!」

 フレイヤの困惑など知らず、頬を綻ばせ守りたいものを指折り数える姿は、元より精神年齢の幼い印象のあるベルを殊更に幼く見せていた。

「それから……わっ……!」

「ありがとう、ベル」

 ニコニコ笑顔で大きな夢を語るベルを、アストレアが横から抱き締めた。

「私も、みんなも、今とっても嬉しいの。ベルが優しくて、嬉しいことを言ってくれたから」

 そうだそうだ! と言わんばかりに腰を手に当てたアリーゼがうんうん頷いて、左手を自らの胸に置いたリューは柔らかく微笑んでいて、そんな泣く? くらい泣いているアーディは流れる涙をごしごし拭いながら歯を見せて笑っていた。

「じゃあ……ベルがもう少し大きくなって、もう少し強くなったら……私のこと、守ってね?」

「まかせてください!」

「ありがとう……」

 髪に指を通して撫で、背中を撫で、頬を寄せて。愛おしそうにもう一度ベルを抱き寄せ、アストレアは微笑んだ。

「フレイヤ」

 そのままベルを抱き上げフレイヤの前に立つ。フレイヤが膝を折らずとも、ベルとフレイヤの目の高さが重なった。

「……何かしら」

「この子の魂の色など知らなくとも私たちは知っている。信じているの。この子が優しい、素敵な男の子に育ってくれると」

「ア、アストレア様!?」

 腕の中で頬を真っ赤に染めるベルの頭を撫で、アストレアは言葉を繋ぐ。

「私もこの子に強くなって欲しいと思う。強くならなければ自分のことすら守れないのだから。けれど、強くなることを強制したくない。望んだように強くなって欲しいの。誰かに望まれたからではなく、誰かに押し付けられたものでもなく、自分で望んだ強さを追い求めて欲しい。それが、この子を託してくれた人たちが望んでいることだから」

 一癖も二癖もありそうな、ベルの育ての親である老人。

 誰よりもベル・クラネルを知っている、アルという名の眩しい少年。

 二人の笑顔に思いを馳せ、アストレアは瞳を閉じた。

「え、えっと……えっと……?」

 ベルにはまだ難しいのか、頬を赤らめたまま首を傾げている。

「私、思うの。この子は強さだけじゃなくその優しさで。その在り方で。たくさんの子供たちや、私たち神でさえ救える子だって」

「……誰かと重ねているの?」

「いいえ」

「根拠はないのね?」

「あるわ」

「それは?」

「まだ名乗るには烏滸がましいと思っているけれど、それでもあえて言うのならば……母親の勘。かしら」

 目を細め口の端を持ち上げて、幼い少女のように、母親を名乗る女神は笑った。

「フレイヤ?」

「何?」

「直ぐ側で、貴方に見守っていて欲しい。この子がこの子らしく歩んでいく姿、その全てを」

 この子は渡さない。何が何でも守り抜いて、この子の成長を見届ける。だから手を引け。そして、貴方もこの子を見守っていて。

 なるほど、穏便に事を収めるのならば悪くない落とし所なのかもしれない。

 しかし、アストレアからの言外のメッセージは、到底容認出来たものではない。

 フレイヤはこの魂が欲しい。独り占めしたいのだ。自分の伴侶(オーズ)たり得る存在になって欲しい。自分の願いを叶えて欲しい。

 だから、私の邪魔をする貴方たちを許しておけない。

「……ヘルン」

「はい」

 音もなくフレイヤの背中に立つ侍従頭。ベルには全く見えていなかったらしく、ぎょっとした表情を浮かべている。

「ごめんなさいね。私たち、ちょっと大人だけでお話がしたいの。直ぐに終わるから、このお姉さんと二人で待っていてくれるかしら?」

「わかりました!」

 優しい口調のフレイヤにお願いをされたベルがアストレアの腕の中からぴょんと飛び出して、灰色の髪を揺らすお姉さんに付いて歩いて行った。ヘルンと呼ばれた少女はどうもこの少年が苦手らしく、急かすというより距離を取りたがるよう、妙に歩みが早かった。

「……アストレア。そして子供たち」

 ヘルンと少年がしっかり離れたのを確認してや、正義の女神とその子供たちに向け、フレイヤは語り掛けた。

「私には、あの子の魂の色が見える」

「魂の色……」

「あの子の魂はその輝きも大きさも、貴方たちの魂とは比べ物にならないくらい小さくて弱々しい。けれど、あの子の魂は特別。長く、たくさんの子供を見て来たけれど、あんな色の魂は見たことがない。神々にだってあんな色した魂の持ち主はいないと言えばあの子の特異性が伝わるかしら?」

「そんなに、ですか……」

「ええ」

 だから。

「あんなにも綺麗な魂がこれからどう変わっていくのか。それとも変わらないままいられるのか。私はそれが知りたい」

 だから。

「あの魂を手元に置いて、私だけの物にしたいと思う」

 だから。

「貴方たちをここで始末してでも、あの子を独り占めしようと思うの」

 殺意。闘志。決意。

 この場にいる戦士たちのスイッチが切り替わり、ほんわかムードだった空間が張り詰める。即座に武器を取る者こそいないが冒険者たちの瞳は十二分に知らしめる。自分は既に臨戦体制であると。

「ありゃーなんかヤバい展開になっちゃった?」

「こうなるなら全員でくればよかったかなあ」

「予想など出来ない流れです。致し方ない。それに、結果は同じでしょう」

 絶対的な戦力差。救援は望めない。どう足掻いても覆せない現実。

 それでもアストレア・ファミリアは引かない。およそ滑稽なくらいに諦めるつもりがなく、抗うつもりしかなかった。

 だから、結果は変わらない。

「そうよリュー。私たちを守ると言ってくれた男の子を守り、誓いを果たす。それだけのこと」

「派閥の団長としては荒事を避ける選択をしなきゃいけないんでしょうけど、無理ですね! だって、九歳の男の子にあんな嬉しいこと言われちゃったら引くに引けませんもん!」

「だねー。それに、彼に誓ったもんね。あの子と共に生きて、あの子を守って、あの子の人生を愉快にしてあげるんだって。その障害になる強い誰かが現れたからって、私たちが臆してる場合じゃないよね」

「ええ。私たちとベルならば、互いの道行を照らし合い、明るい未来を歩んでいける」

「そうね。だから…………フレイヤ」

 自分の名を呼ぶ正義の女神の決然とした眼差しに視線を重ね、美の女神は続きを促すよう小首を傾げてみせた。

「もしも貴方があの子を力付くで奪おうと言うのなら私たちは戦う。あの子を託してくれた彼と育ての親との誓いを守る為。私たちの誓いを守る為。あの子に、私たちを守ってもらう為」

「そうそう! ベルには私たちを守らせてあげないとなんですから!」

「何年先になるんだろうなー。でもっ、ベルなら大丈夫だよね」

「何年先になろうとも、ベルならば高みへ辿り着ける。私たちはそう信じている。だから……」

 こんな所で終われない。

 一人の女神と三人の少女は決して気圧されず、今まさに敵となった女神を睨んだ。

「……私は」

 発せられる圧など歯牙にもかけない女神が、独り言のように呟いた。

「子供たちに勇猛を期待する。英雄を願う」

「あの子は、貴方の望みを叶えられると?」

「言ったでしょう。叶えられるかじゃない。叶えさせるの。その為ならどんな試練だって課すし、どんな惨い仕打ちも与える。生きることを諦めたいと思うほどに理不尽も不条理も経験させ心身を追い込んで、生きることを諦めたくないと思うよう希望の尾を鼻先で振ってみせる。それが私のやり方。そうして今の地位を築いたの」

 存在そのものが鞭であり飴。そして全てである女神の神意を喜んで受け入れ、熾烈を極めた生存競争を生き抜き、とうとうこの場に同席することを許された強靭な勇士(エインヘリヤル)たち。

 アストレアたちの背中に突き刺さる鋭利な殺意や闘志はなるほど、彼女のやり方とやらの結実を証明するのには充分過ぎる重圧だった。

 ぐっと増した圧力に少女たちが冷たい汗を流す前で、アストレアは一切臆さずに、フレイヤの瞳と正面からぶつかり続ける。

「私に任せればあの子は強くなる。貴方たちと共に在るよりも。これは絶対。今日までの私の足跡だけでも充分証明に足るでしょう」

 だから。

 だからこそ。

「けれど」

 認めるのはとっても癪なのだが。

「……私のやり方では……歪めてしまう」

 アストレアの視線から逃げずにいたフレイヤが、そっと目を伏せた。

「あの子は純粋過ぎる。凡そ戦士に向いていない。私向きでも私たち向きでもない。これじゃあ、私たちのやり方には合わないでしょう」

 幼子は純粋。それにしたってあの子は極め付けだ。あんな魂の色をしているくせに、心が青過ぎる。年齢は関係ない。

 きっとあの子は、いっそ愚かと言えるくらいにあのまま大きくなり、幼い頃に抱いた夢に振り回され、なんてことのない約束に翻弄され、勝手に苦しみ、勝手に傷付き、勝手に泣いてしまうのだろう。

 そんな時。側にいるべきは、私のような存在ではないのだろう。

 と、自らに言い聞かせる。

 無理矢理なまでに自らを納得させ、アストレアたちに意志を曲げられたかのようなセリフを吐いてみせる。

「貴方たちの情に絆されてあげる。貴方たちに流されてあげる。だから…………あなたたちが育てなさい、アストレア」

 見たことのない美しい輝きであるが故に欲するのに、あの子の透明な魂を無理矢理に私の色にしてしまっては意味がない。

 私は観測したい。あの子がこれからどんな色に変わっていくのかを。変わらず透明なままでいられるのかを。

 なればこそ。私の美であの魂を犯すべきではないし、収穫の時も今ではない。

 それに、思うのだ。何処かの正義の女神よろしく勘に近いのだが。

 あの少年の見ている前でこの者たちを傷付けたとしたら。あの純粋過ぎる瞳は、二度と私を見てくれない。

 そんな程度のことを忌避する理由を自分自身でも用意出来ていない。しかし、それを望んでいない自分がここにいるのもまた本当。

 なるほど。どうやらこれは、そういうことで間違いないらしい。

 困ったことに。どうやら自分は、自分が思うよりもずっと、あの少年の近くに身を置いていたい……みたいなのだ。

「精々立派に育てなさい。あの魂を濁らせたりしたら、その時はいよいよ手段を選ぶつもりはないから」

「フレイヤ……」

「全く…………私みたいになりたいだなんて、そんなことを口にするのはあの子だけだと思っていたのに」

 丸卓を囲む少年と少女を見やる。少年のお気に入りのページを少女に見せているらしく、随分と滑らかに口が動いている。喜劇や英雄譚などが好きなのかもしれない。付き合わされる少女はとてもとても引き攣った笑みを浮かべながら、少年の話に簡素な相槌を返している様子だ。もう少し愛想良く出来ないものかしらと、フレイヤはくすくすと笑った。

「私はいつでも見ているわよ? あの魂も。あの魂に寄り添う貴方たちも」

 今より心身共に成熟していく過程を見守る。時々はちょっかいを出してしまうかもしれないけれど、会おうと思えばいつでも会えるのだ。少しくらい我慢してみせよう。出来ると思う。多分。

「だから」

「あの!」

「……何かしら?」

 しゅたっと手を挙げ、アリーゼ・ローヴェルが一歩前に出た。

「この先もあの子を見守っているんですよね?」

「そう言っているでしょう?」

「ですよね! でもだったら、どうかこれだけは忘れないで頂きたいです」

「言ってみて」

「……あの子の名前はベル。ベル・クラネルです」

 リューが。アーディが。アストレアでさえ。

「間違っても、魂なんて名前じゃない」

 すっかり戦闘モードを解除していたはずのアリーゼの豹変に、視線を釘付けにさせられた。

「二度と間違えないでください……!」

 燃えたぎる激情を宿した瞳で、アリーゼは美の女神を睨んだ。恐ろしく攻撃的な眼差しが敬愛する女神に注がれていると理解しながらも、フレイヤの子供たちは自らの女神を庇うような真似をしなかった。

「……そうね。貴方の言う通り。ごめんなさい」

「いえっ!」

 数秒以前とはまるで別人のようににぱーっと笑うアリーゼに、フレイヤは心からの謝罪をした。

 少し……いや。かなり浮かれていたらしい。根本を見落としてしまうだなんて。あの子の本質を魂だけでしか測ろうとしていなかった。下界に身を置くと決めた私が子供たちの尊厳を蔑ろにする真似などしてどうするか。

「はあ……散々ね……」

 これはとても良くない。少し、頭を落ち着ける時間が必要だ。

「でもそっかあ」

「? どうしたの?」

「魂うんぬんかんぬんは私にはまーったくわかりませんけど、要するにフレイヤ様は、ベルが好きってことですよね!?」

 凍る。空気が固着した。時を止めずにいるのは離れた丸卓で、向かいに座るヘルンが頬を強張らせているのも厭わず絶好調にオタクトークをしているベルだけ。

「……いきなり何を言っているの貴方? 私が? あの子を? まだ年端もいかない男の子に懸想をしていると?」

 頭を落ち着ける時間が必要だと言っているのに何を言い出すのかこの娘は。

「そういう好きじゃないですよー! 私たちとはその辺の認知が全く違う女神様であっても初対面の九歳児に惚れたって言われたら流石に引きますってー! フレイヤ様は冗談もお上手なんですね!」

「そ、そう? そう、よね……」

 と、曖昧に返すのがフレイヤには精一杯だった。別に私はあの子というよりあの魂に目を奪われただけで……とか言い訳がましい文字列が喉元から勝手に飛び出そうとするのを抑えることで手一杯だったから。

「そうじゃなくて、好きって色々あるじゃないですか! 私たちだってそうですよ! 私たちは私たちそれぞれの理由でベルが好きです! 大好きです! 大切です! ずっと守り続けたいと思います!」

 頬を引き攣らせるフレイヤという珍し過ぎる光景など意に介さないまま、アリーゼは止まらず喋り続ける。

「でも、ファミリアの外にもあの子のことを大切に思う人がいる。好きになってくれる人がいる。どんな形であれ、フレイヤ様みたいにベルのことを想ってくれる人がいる。ベルのことを大切に想ってくれたら、それだけで私は嬉しいんです!」

「はあ……」

「フレイヤ様がベルと一緒にいたいと思うのは当たり前ですよね。それって私たちがベルと一緒にいたいと思うのと何も変わらないですし」

 大丈夫! わかってますから! とでも言わんばかりに鷹揚と頷くアリーゼ。誰も彼もがアリーゼに置いてけぼりにされていて、ツッコミ役すら果たせない状態であった。

「だから…………アストレア様」

「何かしら?」

「さっきは物騒なこと言われて驚きましたけど……フレイヤ様のお気持ちを知っていながら、ベルとフレイヤ様を遠ざけてしまうのは嫌だなって思います。立場とかじゃない。同じ男の子を大切に思う女の一人として、認めたくないです」

 アストレアは何も言わず、自らの最初の子供の言葉に耳を傾けていた。

「誰かの好きは誰かの笑顔に繋がる。私たちがそれを大切に出来ないでどうしましょうか。あ! 私ったら名言作っちゃったかも! バチコーン☆とメモしといてねリオン!」

「わかりました……ってそうじゃなくて! 聞いてくださいアリーゼ。流石にそれは」

「私たちが笑っているだけで誰かが幸せになるんだって彼に教えられた私たちが、私たちだけが笑顔でいるために誰かの笑顔を曇らせるなんて出来ない! そうでしょう!?」

「そ、れは……」

 嫌な予感を感じたリューが待ったを掛けようとするも、迷いのないアリーゼの声に、二の句を封じられてしまった。

「アリーゼ……!」

 アストレアは驚きを隠せなかった。

 彼に教えられた。

 アリーゼは、はっきりとそう口にした。

 それを耳にしたリューもアーディも。きっと口にしたアリーゼ本人すら気が付いていない。

 記憶から溶け落ちてしまったはずの彼の言葉を、無意識に口にしていたことに。

 私たちとアルはずっと繋がっている。

 その言葉が嘘でも妄言でもないんだと証明するみたいに。

 これは何の符号だろう。どんな意味があるのだろう。単なる奇跡? わからない。全知全能たるこの身ですら何もわからないけれど……もしかしたら。

 いつかこの子たち全員が、彼のことを思い出す日が訪れるのかもしれない。

 そこまで考えて、アストレアは思考を止めた。

「だから……だったら……だからぁ……!」

 奇跡の残滓に甘い夢を見るよりも今は、奇跡みたいな展開を引き寄せようと懸命に頭を捻り頑張る長女の姿を見届けていなくてはいけないから。

「貴方、どうしたの?」

「ちょっと待っていてくださいフレイヤ様! 今ウルトラスーパー素晴らしい案を考えているのでっ!」

 何この子とフレイヤが半眼になる前で腕を組んだままうんうん唸るアリーゼ。この場で笑みを浮かべているのは、自分の最初の眷属のどんな顔すらも知り尽くしている母親、アストレアだけだった。

「うーんうーん…………そうか……これだっ!」

「!」

 瞳をキラキラに輝かせたアリーゼに、フレイヤは両手を掴まれた。看過出来ない狼藉と見たか、フレイヤの子供たちが圧を強める。リューとアーディの胃が嫌な音を立て縮む。

「くうーっ! 間近で見つめるとお美し過ぎて目が溶けちゃいそうになるーっ!」

「えと……何? なんなのかしら?」

「フレイヤ様っ!」

 フレイヤが半歩後退するのを追い掛けるようにぐっと顔を近寄せて。

「ベルの! ママになりましょう!」

 アリーゼ・ローヴェルは、自分の思い描いた最高の一枚絵を、フレイヤに叩き付けた。

「……は?」

「私たちのやり方で私たちと共に大きくなっていくベルを母親の一人として一番近くで見守っていてください! ガンガンお世話もしちゃってください! 悪いことはダメですけどたくさんのことをあの世間知らずの男の子に教えてあげて欲しいです! ね!? これだったら誰も傷付かない! こういうのが神様たちの言う、うぃんうぃんってヤツですよね!? 私ったら冴えてるぅー!」

「…………は?」

 開いた口が塞がらないの手本のような表情を見せる美の女神。

 私が? ママ? 他派閥の子供の母親? あの子を育てるの? 私が?

 何もかもがズレている。何も冴えていない。何を言っているの本当に。

「こういうのどうですか!? アストレア様!」

「ええ。いいと思うわ」

「アストレア様!?」

「本気で言ってますー!?」

「勿論。その方がフレイヤ的にもプラスばかりでしょうし、ベルにとっても嬉しいことなはずだから。何か問題あるかしら?」

「問題しかありません!」

「本当にこの親娘はー!」

 リューとアーディが混乱の坩堝に放り込まれぐるんぐるんと目を回す傍で、さっすが私! とアリーゼは薄い胸を張りドヤる。

「ま、そんな感じでいきましょう!」

「そんな感じって」

「ダメですよ、フレイヤ様」

「え?」

「抱えている好きがどんな好きだろうと、一番良いことって、好きな人の側にいることでしょう? だったらその気持ちを一番大切にしなきゃです」

 遠くから眺めているだけじゃ、満足なんて絶対に出来ないんですから。

 少し抑えたトーンで、アリーゼはそう付け加えた。

「フレイヤ様のお気持ち、私たちにも大切にさせてください。おっかないことは勘弁して欲しいですけどね!」

 歯を見せて笑いながら呟いたアリーゼは、フレイヤの返事を待たずにベルとヘルンに視線を向けた。

「ベルー! おいでー! おいでおいでー!」

 ぴょんぴょん飛び跳ねながらブンブン手を振るアリーゼに気が付いたベルがトコトコと駆けてくる。ヘルンに向けてぺこりとお辞儀をするのも忘れずに。

「おーベルー! ん? もしかして……ちょっと見ない間に大きくなった!?」

「なってないよ!」

「まあそんなこといいのいいの! よっと!」

「わ!」

 ぷんすかするベルを抱き上げ、フレイヤの目の前に立つアリーゼ。勢いそのままに、アリーゼ的には確定している未来を口にする。

「私たちみんなのママはアストレア様だけど、なんとなんと! 今日からベルにはもう一人……ママが出来ました!」

「へ?」

「それがこのお美しい女神様! フレイヤ様よ!」

「んー?」

 突然の展開に付いていけず、アリーゼの腕の中で首を傾げるベル。そんなベルを見やるフレイヤも何とも言えない表情で固まっているだけ。

「いいなーベルは! ベルにはアストレア様とフレイヤ様っていうウルトラ綺麗な二人のママがいるんだもの! もはやママ天国ね! いえ! もはやこれは、ママ活ね!」

「やめなさいアリーゼ! そのワード、意味はわからないが越えてはいけないラインを軽々と飛び越えてしまっている感が半端ではない!」

「ママ天国も充分アレだけどね……」

「フレイヤ様! この子、抱いてあげてください!」

「「聞いて!?」」

「え?」

「結構重たいですよー!」

「ちょ、ちょっと……!」

 テンパる仲間をさらりとスルーしたアリーゼは、フレイヤの返事を待たずにベルを押し付けてしまった。

「っと……!」

 幼く見えるがベルはもう九歳。フレイヤの細腕では長く抱えていられないだろう程度の重さは有している。

「う……あぅ……」

 しっかりと抱えられたベルは露骨に狼狽し、それでも自分を見下ろし続けるフレイヤから視線を外さずにいた。フレイヤはフレイヤで、小さな少年に視線を掴まれたままでいる。

 緊張に揺れる綺麗な紅い瞳。落ち着きなく踊る初雪のように抜けて白い髪。フレイヤの美に惑っているのか、中性的な印象を受ける愛らしい顔立ちが作る表情は明るいものではない。

「…………素敵な子ね」

 少年の魂ではなく少年自身を見てや、心からの言葉をフレイヤは送った。

「あ、ありがと……ござます……」

「……聞いてもいいかしら?」

「な、なんですか……?」

「遠くない未来。貴方が大きく……強くなったら。貴方と同じファミリアの一員ではない私のことも、貴方は守ってくれるのかしら?」

 無意味なことを聞いている自覚がフレイヤにはあった。だって、この子がなんて答えるかなんてわかりきっているのだから。

「もちろんです! 僕、がんばります!」

 ほら、やっぱり。

「フレイヤさまのこと、僕が絶対守ります! 約束します!」

 ああ、愚かしいまでに向こう見ずな少年はあっさりと抱えてしまった。少年自身の人生に一生付いて回る、大変な約束を。

 強くなる。誰かを守る。

 言うは易し、行うは難し。

 しかし、それをこの場でお説教よろしく語り聞かせたとてこの少年は変わらないだろう。

 こんなにも澄んだ色の魂の持ち主が、平気で約束を反故にするとはどうにも考え難い。

 だから、今日からずっとだ。

 ずっと。この子は。私のことを。

「そう……」

 認める他ない。

 嬉しいと感じてしまったことを、認めてしまおう。

 これは、嘘にしてはいけない。

 そんな気がしたから。

「…………」

 もういい。白旗でいい。私の負けでいい。あれこれ考えるのは後回しにしよう。

 私が今、この少年にすべきことは何か。簡単だ。アストレアたちが示してくれた。そうでなくとも私は知っている。

「ねえ」

「はいっ」

「……ありがとう」

 少しは緊張が解れたのか、朱の刺した頬を綻ばせる少年の髪を撫で。

「ベル」

 フレイヤは初めて、透明な魂を秘めた少年の名を呼んだ。

「はいっ! えへへ……!」

 照れを隠さずはにかむベルの頬を撫で。

「ふふふ……」

 少年に負けじと朱を宿した頬を綻ばせ、フレイヤは目を細めた。

 

 × × ×

 

「オッタル」

「はっ」

「あの子、強くなるわ」

 一面に貼られた硝子越しの景色、その遥か下方。巨門へ足を向けるアストレアたちの背中を見送りながら、自らのファミリアの団長にフレイヤは断じた。

「不思議……あんなに小さな輝きなのに、いつか大輪の花が如く咲き渡る姿が容易に想像出来てしまうの」

「一つ、お聞かせ願えますでしょうか」

「何?」

「あの少年……ベル・クラネルの魂は、どの様な?」

「透明。無色透明の色」

「透明……でございますか……」

「まだとてもとても小さい輝きだけれど、あんな色の魂には出会ったことがない。天界にだって一人もいなかったのよ? そんな色を宿した子が下界に……しかもそれが、あんなにも可愛らしい男の子だなんて」

 今もアーディに肩車されているベルの背中はわかりやすくご機嫌だ。アーディとアルゴノゥトの話でもしているのだろうか。私も勉強しておかなければ。

「よろしかったのですか?」

「あの子のことなら、よくないわ。よくないに決まっているでしょう」

 じっと、赤髪の少女の背中を睨む。フレイヤの苛立ちなど梅雨にも知らないアリーゼは、げんなりとした表情を浮かべているリューへニコニコと笑い掛けていた。

「率直に申し上げますと……らしくないと感じました」

「もっと強引に、それでも優美に事を運べただろうって?」

「はい……先のフレイヤ様は言うなれば……」

「落とし所を探していたように見えた、とか?」

「……はい」

「実際その通りよ。罠を張ることも出来ぬままあそこまで強引に押し込まれた時点で私の負け。そもそも、情動に任せて少年以外全てを手に掛けてでも奪い取るだなんて品性のない真似、絶対に私がしてはいけないものだった。ちょっと熱くなり過ぎていたわね……私を私たらしめているものを捨てようとするだなんて……」

 そんな真似をしたら、何処かの美の女神よろしく品性を肥溜めに放り捨てることと同義。女神フレイヤたるを放棄し、獣に堕ちると同義だ。

 こんなにも単純で絶対であることまで見落としていただなんてと、フレイヤの自虐は止まらない。

「どうせ敗北するのならと、納得の行く形での敗走を選んだ。そういう話。女の意地でもあり、女神の意地でもあった。我ながら面倒なことね、本当に」

 大きな大きな溜息がフレイヤから落ち、眼前の硝子を白く染め、瞬く間に透明に戻った。

「アストレアというかほとんどアリーゼ・ローヴェルにだけれど、見事に乗せられてしまったことだし、しばらくは飯事に興じてみるつもり」

 アリーゼ・ローヴェルに押し切られた。というか、悪くない具合の落とし所を提示され、受け入れてしまった。それを上回る何かで返すことが出来なかった。

 屈辱以外の何物でもない。こうして彼女たちの背中を見送る自分は、正しく今日の敗北者だ。

 存外、悪い気分ではない。

 思考の片隅でそんなことを考えてしまっていることすら苛立ちの種でしかないのだが、それでも緩んだ頬がなかなか平常運転に戻りきれないのはどうしたことだろう。

「貴方たちには要らぬ苦労を与えてしまうことになると思うけれど、大目に見てね?」

「御身の神意を叶えることこそ我らが務め。どうかお望みのままに」

「ありがとう。ああ、先に言っておくわね。あの場は引き下がったけれど、いよいよとなったら力付くでもあの子を私のものにするつもり。その時こそアストレアたちを一人残らず屠ることも辞さないつもりなのだけど、それでも貴方は私のお願いを叶えてくれる?」

「…………」

「今答えなくていい。貴方なりに考えて、胸に秘めておいてくれればいいから」

「……はい」

 ぼんやりと少年たちの背中を眺めていると、アストレアが振り返り、確かに視線が重なった。

「私が口にしていいことが少し迷うのだけど」

 別れ際。揃いも揃って顰めっ面を作っているフレイヤ・ファミリアの幹部たち一人一人に丁寧な挨拶をベルがしているタイミングを見計らって、アストレアが小さな声で自分に伝えた言葉を思い出す。

「貴方の寵愛に応える。それには、今の貴方が知り得る形以外の手段がある。あの子が貴方に向けた眼差しを見ていてそう感じたの。強さ以外の何かがいつか、貴方の心を包んでくれるのではないかって。本当になんとなくなのだけど」

 フレイヤはこう答えた。

「夢物語ね」

 アストレアはこう返した。

「そうかもしれない。でも、だったら。ベルと共に、素敵な夢を見てみましょう?」

「……貴方も大概、青いわね」

 褒めたつもりもないのに嬉しそうに微笑むアストレアを見て、フレイヤはわざとらしく嘆息しておくことにした。

「私の心を包んでくれる、ね……」

 アーディの肩の上のベルにアストレアが声を掛けたようで、ベルがこちらに向けて手を振り始めた。アーディ、アリーゼも続く。リューだけは背筋の伸びた礼をするに留めている。

「あ……」

 極めて自然に手を振り返していた自分に気が付いた時にはもう引っ込みが付かず、一行が背を向けるまでそうしていた。

「……オッタル。後で幹部たちを再招集なさい」

「会議の続きでよろしいですか?」

「それもあるけれど、最優先の議題は闇派閥(イヴィルス)の残党への対処、及び殲滅の段取り」

「我々が行うと?」

「アストレアたちが齎してくれたジャガーノートと言う名の怪物の情報。成し得た偉業への恩賞。未来から来たのだろう少年の存在の提示、そして存在証明。これだけの物を齎してくれた彼女たちに返すものが賛辞だけど言うのもね。私直々に指揮を執り、早急に全てを灰燼に帰すわ。子供たちに情報を集めさせなさい。最優先よ」

「はっ」

 二人も新入りの増えたアストレアたちは、しばらく忙しくしているでしょうし。

 とは言わないまま、門の向こうに消え行くベルたちの背中を見つめていた。

「……貴方やアレンたちは小さい頃から面倒を見たけれど……私は貴方たちに苛烈を課した。勇猛を要求した。英雄を望んだ」

 小さな子供がただ子供らしく。ありのまま生きることなど求めなかった。彼女の元に集った子供たちが御身の為にと力を求め捧げることを願う以上、普通の子供という存在が彼女の元から産まれるわけがなかった。

「だから……本当の本当に初めてかもしれないわ。戦士として育てるのではなく、一人の少年を一人の少年として……」

 そこで言葉を止めた。硝子の中で自嘲気味な笑顔を浮かべている女神と視線が重なったのが気に食わなかったからだ。

 何? 私、何なの? 乗せられたにしても、すっかりその気過ぎるでしょう?

「はあ……」

 参った。そして困った。どうやら自分の頭はまだ冷えていないらしい。

 それとも。

 冷えず、熱したまま、確かな情動に揺さぶられているのは、頭ではない何処かであるのだろうか。

 例えば。心とか。魂とか。

 そういうところ。そういうモノなのだろうか?

 その答えはいつかあの少年……ベルが、私に示してくれるの?

 だったら、私は……。

「……オッタル?」

「はい」

「私は……良き母親になれると思う?」

「……失礼ながら」

「許す。何?」

「もう、なっておいでです」

 おべっかなどではない。単に、フレイヤの思う良き母親と、オッタルの思う良き母親の像は全く違うのだろう。フレイヤはそう考えて。

「生意気言わないで。馬鹿な子なんだから」

 悪態を付いてみせた。

「申し訳ございません」

 フレイヤに育てられた子供が口の端をほんの少しだけ高くしたことなど、美しい母親にはお見通しだった。

 

× × ×

 

「どうした? 何を見て…………これは……アーディが、アストレア・ファミリアへ改宗(コンバージョン)? 本当か? 公式情報である以上真偽を疑うなど無意味だが……」

 ギルド本部内。公式情報のみが貼られる巨大な掲示板前。一人のエルフが双眼を細め、その美貌に困惑の色を浮かべていた。

「…………」

 そのエルフ……ハイエルフの直ぐ側で。星々の欠片を掻き集めたような美しい金色の髪を揺らしながら、同じ羊皮紙をじっと見つめる少女が一人。彼女の視線はハイエルフが見つめる情報のずっと下、小さく記載されている見出しに注がれていた。

「九歳……?」

 そう遠くない未来。色んな意味で都市中を騒がせることとなる、新たに冒険者の末席に名を連ねたばかりの、アストレア・ファミリア所属の少年の名を。

「ベル……クラネル……」

 アイズ・ヴァレンシュタインと言う名の少女の唇が象った。

 

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