彼は誰の夢   作:く ろあり

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本作は他サイト同作者が他サイトへ投稿している物を転載しております。

林檎社製のスマホでポチポチと書いている人間なのですが、先日のOSアプデに際し保存していたもの全てが消し飛びました。バックアップもしていたのに。あれこれ手を尽くしましたが復元叶わず。泣いちゃった。

これもいいきっかけと思い、内容を大きく修正。有給をフル活用し、本当はメインに据えるつもりのなかったお姉さんに出張ってもらいました。なんかすごく長くなっちゃったし。

年内は恐らくこれが最後か、全く無関係の短編でも投稿してみようかなどと考えております。良いお年を。


はじめてのぼうけん

「やあやあベルくん!」

 女性と男児しか所属していないアストレア・ファミリア。その団欒室に、やたらと弾んだ調子の男神の声が響いた。

「ヘルメス様!」

 人差し指でくいっと鍔広帽子を持ち上げてみせる声の主を見付けた途端、ぱあっとベルの表情が晴れた。

「なんて眩しいリアクションっ……! こうも真っ直ぐ俺に笑い掛けてくれるのは君だけだぜベルくんっ……!」

 たたたっと足元まで駆けて来たベルの頭を一撫でしながら泣き真似をする男神。ベル以外の同席している全員が何こいつみたいな表情を浮かべる中、ダメだこいつみたいな表情を浮かべている女性が、一歩前へ出た。

「日頃の行いと全身から滲み出る胡散臭さ故でしょう。久し振りですね、ベル」

「アスフィさん!」

「あっ」

 ヘルメスと呼ばれた男神の手を払い除けるようひゅんと飛び退いて、水色の髪を揺らす女性の前に躍り出るベル。アスフィと呼ばれた女性は、銀の眼鏡の奥で聡明な光を放っている碧眼を細め、自らの腰丈より少し高い位置から自分を見上げている少年へ微笑み掛けた。

「少し背が大きくなったみたいですね」

「なりました! ちょっとだけ! アスフィさん、今日は元気そうでよかったです!」

「気に掛けてくれてありがとう。今日が約束の日ですが、準備は出来ていますか?」

「もう少しだけ待ってください! もうちょっとで終わります!」

「慌てないで大丈夫ですからね」

「はい!」

 ぺこりとアスフィへと頭を下げてから、先まで座っていた席まで駆け戻り羽ペンをがしっと掴むベル。

「えっと……えっと…………うーん……」

 そのまま羊皮紙と睨めっこを始めると、腕を組んで唸り始めてしまった。

「先からあの調子なのです」

 遠巻きから気遣いの言葉を掛けようかと迷うアスフィの背中へ声を掛けたのは、金色の髪を揺らすエルフ、リュー。

「壮健な様子で何よりです、アンドロメダ」

「お互い様です、リオン」

 互いの息災を喜び合うよう、微笑みを交換し合うアスフィとリュー。血と涙を流して共に駆け抜けた日々を経た二人の友情は、今日も悠々閑々と育まれている。

「ベルはどうしたのですか? 共通語(コイネー)の扱いは問題なくなったと聞いていたのですが」

「そちらは問題ないのですが、書く内容に拘りがあるのか、もうちょっとが進まないと言っていました」

「伝えたいことなどいくらでもあるのでしょう。私ならいくらでも待てますので」

「感謝します、アンドロメダ」

「おいおい何だよアスフィー? 随分とベルくんにお優しくないかー?」

「少なくとも、ヘルメス様よりも大切な存在であることは間違いないので」

「あ、あれー? これでも俺、アスフィの主神なんだけどなー?」

「何処ぞの神と違って、彼は私を尊重してくれますから。軽薄で薄情でおたんこなすで三日三晩寝るなと平気で言いやがる何処ぞのダメ神と違って……!」

「に、睨むなよぉアスフィ……」

 やたらとベルへの好感度が高い彼女の名はアスフィ。アスフィ・アル・アンドロメダ。

 若くして稀代の魔道具製作者(アイテムメーカー)とまで言われている冒険者。二つ名は『万能者(ペルセウス)』。進行形でアスフィの周りをちょろちょろしている神ヘルメスが運営するファミリア、その団長を務めているヒューマンだ。

 彼女は、最近何かとアストレア・ファミリアにちょっかいを掛けている主神ヘルメスのお目付役をしている最中に知り合ったベル・クラネルをベルと呼び、とても可愛がっている。

 アスフィとヘルメスがベルと始めて顔を合わせたのは、フレイヤ・ファミリアの本拠(ホーム)戦いの野(フォールクヴァング)をベルたちが訪れて間もなくのこと。

「やあやあはじめまして。俺の名はヘルメス。会えて光栄だ、ベル・クラネルくん。これからよろしく頼むよ」

 ふらりと星屑の庭に現れたヘルメスは、えらく気さくな様子でベルへ語り掛けていた。

 ヘルメスはこうも言った。

「君と会える日を心待ちにしていたんだ!」

 弾けるような笑顔を見せるヘルメスに、ベルはもちろん、アストレア・ファミリアの団員全員が首を傾げている中、女神アストレアだけは、穏やかに微笑んでいた。

 それからというもの、ヘルメスが何かにつけてベルの元を訪ねて来るので、自然とアスフィと顔を合わせる機会も増えた。

 アスフィは件のベルを、素直ないい子だなと思いこそすれど特別好印象を抱くこともなく、至極フラットに接していたのだが。知り合って間もないある日。ヘルメスへ向けベルがこんなことを言ったことにより、評価が一変した。

「ヘルメス様ヘルメス様。アスフィさん、すっごく疲れた顔してます。ちゃんと休ませてあげなきゃダメです。じゃないとアスフィさんがかわいそうです」

 その流れでベルは、驚きに目を丸くするアスフィへこう言った。

「アスフィさん! 今日はここでご飯を食べて行ってください! 栄養の付くご飯作りますから! あ! 背中トントンしましょうか!? 肩のマッサージも! すっごく気持ちいいってお祖父ちゃんが喜んでくれたんです! 僕の得意技なんです!」

 アスフィの体調を慮ってという大前提はあるとして、日夜料理の修行に励んでいたベル的には、これも自己研鑽のいい機会だ、くらいの感覚ではあった。

「なんと眩しい……なんて純真っ……! 貴方は優しい……とても優しい……貴方だけです……私の心身を労ってくれるのは……!」

 しかし。その純粋な厚意は、ブラックな環境で日夜働き続けるアスフィにはぶっ刺さった。クリティカルヒットまであった。

「ありがとうベル・クラネル……いいえ……ベル……!」

 目の下にぶら下がっている大きな隈を透明な雫で覆うアスフィの姿にベルは困惑し、九歳男児に癒され涙まで流す女性の姿に同席していたアストレア・ファミリアの面々は軽く引いていた。ついでにヘルメスは、アスフィ虐めるなと少女たちにボロカス言われた。

 以降、ベルに対して目に見えて甘くなったアスフィにベルが懐いたのはあっという間。

 リューを筆頭にアストレア・ファミリアの団員達からの信頼も厚く、姉ンジャーズ的にはベルと触れ合うことを手放しで許せる数少ない存在としてアスフィは、ベル達の新しい日常のいい具合の所に居場所を取ることとなった。

 閑話休題。

「何をそんな悩んでんだよー? ほとんど書き終わったって言ってたじゃんか」

「あ! やだ! 見ちゃダメ!」

「硬いこと言うなよー」

「ダメなのっ!」

 大半の団員が冒険者依頼(クエスト)等で出払っている中、本日はまったりモードなライラがするりとベルの背中に立って羊皮紙を覗き込もうとすると、ベルにしては珍しく語気を荒げ、強い拒絶を示した。

「強情だなあ。じゃあ、中身は見ないって約束する。代わりに何に悩んでるのか教えてくれよ? あんまり長く待たせちまうと『万能者(ペルセウス)』も愛想尽かしちまうかもしれねーぞー?」

「う? う、うーん…………」

 一瞬ばかり呆気に取られるも、そこは話術巧みなライラ。アスフィを出汁にすることで疑問の氷解と展開の緩行をベルに促した。

「え、っと……どうしても書いて欲しいってお祖父ちゃんに言われてることがあって……でもその言葉を僕知らないから、それを考えてたの」

「ほうほう。でもわかんなかったらアタシらに聞いたらいいじゃねーか」

「それは……あんまり良くなくて……」

「なんだそれ?」

「うう……」

 何故か口篭ってしまうベル。普段のベルならばぴょんと飛び付いて誰かを頼る所であろうに。

「知らないこともわからないことも恥ずかしいことじゃねーんだぞ? それに、悩むのもいいだろうけど、悩んだままで終わっちまったら知識にも知恵にも変えられないんだぜー?」

「…………じゃあ……質問……いい?」

「おう」

「……きこん、って言葉と、すりーさいず、って言葉の意味を教えて?」

「そんなのお安い…………おん?」

 してやったりと口の端を歪めていたライラの動きが止まる。見れば、アスフィやリューも動きを止めていた。

「その……前の手紙で……みんなの名前と、きこん? かどうかと、すりーさいず? を聞いてくれって書いてあったの……」

 ベルの言う、手紙。

 数ヶ月に一度、手紙で近況を伝え合う。

 オラリオへ出発する直前。ベルから言い出して結んだ、祖父との約束だ。

 二人の橋渡しを務めてくれているのが、自称旅のスペシャリスト、ヘルメス。延いてはヘルメス・ファミリア。

 オラリオへ到着して直ぐ。女神フレイヤと初めて顔を合わせた数日後に一通送った。

 団員のみんなのこと。オラリオのこと。女神フレイヤのこと。出発してからの出来事全部。今より下手っぴだった共通語(コイネー)で綴った手紙は脈絡もなく文脈もアレで誤字脱字も酷かったけれど、書き切ったベルは心地の良い充足感に包まれていた。

 二週間と少しを経て届いた祖父からの返信も、ベルを待っていた目紛しい日々を喜び祝福するような言葉が並び、祖父との別れで宿してしまった寂しさを和らげてくれた。

 その手紙の末尾にそっと添えられていたのが、上記の内容であったと。

「あーそういう感じなのかあのじいさん……」

「い、今時点でベルをオラリオへ連れて来て正解だったかもしれません……」

 ライラがうへぇと舌を出し、リューが発生したてほやほやの頭痛にやられ、額を抑えてしまった。

「まーいいや。よーしじゃあアタシがとことんまで教えてやる。よーく聞いとけよー? まずはスリーサイズってヤツから教えてやる。しっかり解説する為にもいい例が必要だ。ってことで教えるぞ。リオンのスリーサイズは上から」

「ライラぁ!」

「あああああっぶねぇ!? お前本気で殴ろうとしたろ!?」

「当然だ! そのお喋りな舌を私の拳で擦り潰してくれる!」

「だってよーなあベルー助けてくれよぉー」

「うぇ!?」

「ベルを盾にするな!」

「こんな程度のことでぴーぴー騒ぐくらいならアタシの代わりにお前が教えてやれよ。ベルが知りたがってんぞー?」

「ぐぬ…………こほん。では、私が教えましょう。まず、既婚と言うものは」

「その人が結婚している場合は既婚っつーんだ。結婚してない場合は未婚。うちのファミリアに結婚しているヤツはいないからみんな未婚。わかるか?」

「えっと……手紙には、みんなはみこんです、って書けばいいってことだよね?」

「そーそー」

 リューに振っておきながらつらつらと既婚について語るライラ。そんな彼女の口の端は、イヤーな感じに吊り上がっていた。

「ほい、スリーサイズの説明はお前に任せた」

「な!?」

「既婚の解説だけでアタシはエネルギー切れだ。もう黙る。後は任せた」

「何を勝手な……!」

「相変わらずの弄られっぷりですね、リオン……」

「あ、あのー? アスフィさん? 離し……あっ苦しっ……!」

 その話詳しく! と、鼻息荒く話題に飛び付こうとしていたヘルメスの首根っこをがっしり抑えながら、更に下の末っ子が現れたとて変わらずおもちゃにされているエルフの様子に苦笑を一つ。

 平和ですね。

 誰の耳にも届かないアスフィの呟きは、他ならぬ自分自身の笑みから苦味を抜き取っていった。

「なんだか賑やかね」

「ア、アストレア様!」

 騒がしい団欒室へ女神アストレアが足を踏み入れると、全員の目が彼女へ向いた。

「聞いてくださいアストレア様! その……ベルがですね……すっ、スリーサイズの意味を知りたいと……言っておりまして……!」

「あら、そうなの?」

「祖父からの手紙に記載されていたそうです……わ、私たちのスリーサイズと既婚かどうかを知りたいと……ベル本人は言葉の意味を知らないです」

「ああ、そういう話……欲望に正直な人なのね、貴方のお祖父さまは」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。とっても」

 不思議そうに首を傾げるベルに微笑み掛けるアストレア。彼女の隣にしゅたっと手を上げながら、ライラが立った。

「既婚の意味はアタシが教えて、スリーサイズの方はリオンが教えたいと言うので丸投げしちゃいましたぁー」

「言っていない! そもそも貴方はエネルギー切れと言っていたでしょうライラっ!」

「アストレア様見たら回復した」

「また適当言って……!」

「なら、リューに丸投げされた物、私が引き受けるわ」

 自分を囲むリューとライラの間を抜けて、ベルの隣に腰掛けるアストレア。彼女は、今も尚唸り続けているベルではなく、仲良くコントをしているアスフィとヘルメスに視線を向けた。

「アスフィ。ヘルメスの耳を塞いでくれるかしら?」

「は、はい? えっと……では……ふんっ」

「いや痛ったあ!? 塞ぐと言うか潰そうとしてるよねアスフィさーん!?」

「うるさいです黙ってください。それと、ヘルメス様に好意を寄せる入団希望者が先日訪ねて来ましたが、これでもかとヘルメス様のゲスエピソードを伝えた上で門前払いをしました。問題なかったですか?」

「いだだだいだいだ……!」

「聞こえていないみたいです」

「そのようね」

 頭蓋から嫌な音を立てて喚き散らしている男神に苦笑を送り、アストレアはベルと向き合った。

「一度しか言わないからよく聞いてね、ベル?」

「は、はいっ」

 そうして、大した躊躇もなく。

「私のスリーサイズは……」

 スリーサイズの説明ではなく、自身のスリーサイズを、きょとんと首を傾げている少年へアストレアは伝えた。

「な……!」

「嘘……だろ……!?」

 天が揺れた。地が揺れた。世界が歓喜に咽び泣いた。

「神はいた……!」

「か、神ボディ……神だけにっ……!」

 リューは呼吸を忘れた。ライラは涙を流した。

「それはいるでしょう……今何時代だと思っているのですか……?」

「な、なんだ!? 何が起こった!?」

 何故か頬を赤らめてツッコミを入れているアスフィのことも、状況に取り残されてしまったヘルメスが大変愉快な何かを逃した気がして取り乱すのも完全にスルー。至極真面目な様子で、アストレアは言葉を続ける。

「今のが私のスリーサイズ。けれどそれは、手紙に書かないで欲しいの」

「え?」

「みんなのもそう。仮に知ることが出来たとしても、みんなのスリーサイズは手紙に書いてはダメよ? それはみんなを傷付ける行為だから。スリーサイズというものはね、みんなそれぞれ持っている、誰かの秘密なの。とっても大切なの。だから、いい?」

「で、でもお祖父ちゃんが……」

「お祖父様との約束を守るためなら、貴方の大切な人たちを傷付けてしまってもいいの?」

「…………よくないです……」

「ならどうしましょうか?」

「……あの……みんな持ってるんですか? すりーさいずっていうの」

「ええ。誰もが持ってると言えるわね、一応」

「……だったら…………僕のすりーさいずを教えて……我慢してもらう……とか……」

「え?」

「みんな持ってるなら……僕も持ってるかなって思って……」

 目を丸くするアストレア。先ほどまでの動揺を忘れて固まるリューとライラ。アスフィも固まって、五月蝿いのはヘルメスだけ。

「……っく!」

「っはははは!」

「くっ……ふふ……!」

 そんなヘルメスも置き去りにしてしまいそうな女性三人の笑い声が、団欒室を充した。

「な、なんだそれ! お前のスリーサイズなんて教えてどーすんだ! くははは……!」

「真面目なベルらしいですが……!」

「そ、その発想はありませんでした……!」

「え? え、えっ!?」

 今度はベルが驚く番だった。ライラはまだしも、リュー、アスフィがお腹を抑えて笑う姿なんて初めて見たから。

「ふふ……!」

 隣に座るアストレアも、口元を手で覆っているにも関わらず声を殺しきれていない。

 ヘルメス以外全員が、自分を見て笑っていた。

「…………うーっ……!」

「ああ、ごめんなさいベル。私まで一緒になってしまって。ちょっと予想外過ぎて……けれど、優しい貴方らしい折衷案ね。とっても素敵。でもそれは書かなくて大丈夫。貴方のお祖父さんはある程度存じているでしょうから」

「そうですかっ……!」

 怒ったり恥ずかしくなったりと忙しいベルは、思いっきりヘソを曲げてしまっていた。自分は真面目に聞いて真面目に考えたのに。

「あらあら…………あら?」

 可愛らしい反応を見せるベル。そんな少年の頭を撫でようとしていたアストレアの右手が、ぴたりと止まった。

「もういいです!」

 自分に向けて伸ばそうとしているアストレアの手をすり抜けて、大股歩きでアスフィへ向かって行くベルの頬は真っ赤に染まっていた。

「書けました! これ、よろしくお願いしますっ!」

「え、ええ。わかりました。確かにお届けします」

「いつもありがとうございます! ゆっくりしていってください! 失礼しますっ」

 怒ってますを微塵も隠せていない小さな手から手紙を受け取るアスフィ。彼女とヘルメスに向けしっかりとお辞儀をするのを忘れずに、ベルは自室へと急ぎ足で戻って行ってしまった。

「お、怒って行ってしまいましたけど、大丈夫なんですか?」

「大丈夫だろー。いやでもアレは仕方ねえって。面白かったのもそうだけど、何よりあいつらしくてさあ。笑っちまうってあんなの」

「私たちを傷付けたくない。けれどお祖父様の期待にも応えたい。本当に、ベルらしい」

「おーい? 俺だけ除け者はやめないかー? なあやめようよー頼むよぉー!」

 喚き散らしながら、ヘルメスは見た。そして気が付いた。

「そうね……」

 アストレアが、物憂げな表情を浮かべている事に。

 思えば。この時には既に、兆候は現れていたのかもしれない。

 アストレアは気が付いた。しかし他の団員は、誰一人として気が付けなかった。

 ベル・クラネルに、小さな変化が生じていた事に。

 それが顕在化したのは、翌日のことだった。

 

* * *

 

「ベルー! 一緒に買い物行こうよ! 買いたい本があるの!」

「ねえベル! ご飯作る練習しよう! 私も修行中の身だから一緒に! ね!?」

「そうだ! この後少し訓練しない!? どうしたらベルにとって効果的な訓練になるか色々考えてみたの! それが終わったらお風呂、一緒に入っちゃう? なんてねー! もー! そんな顔しないでよベルー!」

「っていうか! とりあえず! えいっ! むふふ……ベルは柔らかくてあったかいなあ……えへへー」

 小さな背中に飛び付き、満点過ぎる満面の笑みを浮かべる、アーディ・ヴァルマ。

 しっかりとノックされたベルの寝室の扉。開けた途端にこれである。

「わ、わわ……!」

 後頭部にぶつかるふよんとした感触。ぎゅっと抱き締められた柔らかさ。頬に擦り付けられた頬。こしょこしょされる脇腹。頭部に乗せられた顎。etcetc。

 ほんの一瞬の間に繰り出されるイチャイチャアタックの数々に少年のドキドキもドギマギも止まらない。

 アーディはいつもこう。何かあると直ぐにベルに飛び付くし、何がなくてもとりあえずベルに飛び付く。

「ベル独占禁止法、アーディにだけ制定した方が良くない?」

「さんせー」

「シンプルにズルい」

 同じファミリアに身を置くベル過激派の幾人かに面と向かってこんな事を言われたり。

「いつ来ても貴方はベルにくっ付いていますねー」

 と、最近何かと縁のあるヘイズ・ベルベットにまで言われたり。

「妹が歳下趣味を拗らせていただなんて知りたくなかった」

 折を見ては妹や旧友はもちろん、新たに乙女の花園へやってきた少年の様子を伺いに来るシャクティが頭を抱えたりもした。

「そういうんじゃないって! 私がこうなのは単純にベルが可愛いから! それだけ!」

 あ、ダメだこいつ。

 幾人かがある種の諦めの境地にまで至っているのも知らず、会心の笑顔でそう言ってのけるアーディを見ていたベルは気不味そうに、でも確かに嬉しそうに、背中を丸めてモジモジしていた。

 しかし、である。

「うう……」

 たった今のベルの表情は、晴れ晴れ笑うアーディとは対照的なものであった。

 悪く言ってしまえば、自分勝手なのだ。アーディのスキンシップは。

 ベルは照れている。だから喜んでいる。

 という大前提が頭にある所為で、ベルを自らの胸へと招き入れることになーんの躊躇いも抱かないのである。

 執拗なのだ。間断ないのだ。遠慮も容赦も躊躇もないのだ。羞恥なんて微塵もないのだ。

 ベルにだって嬉しさはある。でももうちょっと時と場合とか周りの目とか意識して欲しい。

 っていうか、流石にしつこい。

「やっぱりお買い物行かない? ベルと行ってみたい所があるの! ね、行こ?」

 オラリオへ到着してから今日まで繰り返されてきたアーディからの過剰なスキンシップ。

「ふぐぅ……」

 それらは、優しくて甘えん坊で人に怒ったりすることがとっても苦手なベルに、ある種の反骨心を植え付けていた。ベル自身が自覚する事ないままに。

「い、行かない……僕、今日探検行くから」

「探検? 何処に?」

「オラリオのいろんなところ」

「どうして?」

「まだ見たことないとこに行ってみたい」

「じゃあ一緒に行こ?」

「行かない」

「ありゃま、やけに強情だ。でもなあ、ベル一人じゃ危ないよー?」

「危なくないっ」

「おっと」

 頭をブンブンと振ってアーディを振り払う。はっきりと驚きの色を浮かべたアーディ。しかしそれも一瞬。

「うんうん、そっかそっかあ」

 何かを得心したように頷き、人好きのする愛らしい笑顔が速攻で戻って来る。

「……なんで笑ってるの?」

「いやーベルも男の子なんだなあって。一人になって探検してみたいだなんて、実に男の子してていいと思う!」

「うう……」

 そりゃ男の子だよ。だって男の子だもん。

「でもダメ。一人じゃ危ないのは間違いないし」

「くぅ……」

「それに、私はオラリオで長く暮らしてるから、いろんな所に案内出来るよ?」

「い、いいの! 一人で行きたいの!」

 それじゃあ意味ないのっ。

「なーにを照れちゃってー。恥ずかしがらない恥ずかしがらないー」

 照れてるし恥ずかしいよ。

「だからほら、一緒に行こ? 今日はおんぶでお出掛けしよー!」

 でも、それ以上に僕は……!

「……し……!」

「し?」

「し! しつこい!」

「え?」

「アーディさん! しつこい! 僕! ついてこないでって言ってるのっ!」

 そういうの、今は嫌なの!

「いっつもいっつもベタベタして! 何度もやめてって言ってるのに!」

「なんだなんだ!?」

 今日は本拠(ホーム)で待機となっている団員達がベルの大声に反応し、アリーゼを先頭にしてベルの部屋へ飛び込んで来た。

「アーディさんはいっつも自分の話ばっかり! 僕とあれしたいこれしたいって言うばっかで、僕の話全然聞いてくれない!」

「わ、わーお……」

「修羅場ってるぅ……」

「みんなでお出かけするのも好きだけど、今日は一人で探検してみたいの! さっきからそう言ってるのにどうして全然聞いてくれないの!?」

「ベル? 一度落ち着きましょう?」

「冷静になりましょう」

「ケンカはよくないよー?」

「アーディさんうるさいの! しつこいの!」

 アリーゼ達が口を挟もうとするも聞く耳持たないベル。尚も止まらない少年の頬は、羞恥ではなく怒りで真っ赤に染まっていた。

「僕、しつこいアーディさんなんか……!」

 まずい。

 それ以上言われれたらアーディは、きっとヤバいことになる。

 同じくらい、言った側のベルも。

 団員たちは焦った。焦ったのだが。

「…………」

 無言で首を横に振り、自分達の介入を認めない姿勢をアリーゼが見せたことで、閉口せざるを得なかった。

「…………い、いってきます!」

「ベル!?」

「夜ご飯までに帰ってきますっ!」

 地図とかお弁当とか、お出掛けする前提で用意していた荷物の詰まったリュックを掴んで、少女達の間をすり抜けて行くベル。その小さな背中に手を伸ばす者はいない。

「うう……!」

 女の子に、大きな声で怒鳴る。

 その行為一つで産まれた途轍もない罪悪感と、早速湧き上がった大きな後悔に沈んでしまう前に、ベルは星屑の庭を飛び出して行った。

「あ、あちゃー」

「これはアレかな。反抗期ってヤツかな?」

「ちょっと早くない? 思春期じゃない?」

「どっちも正解でどっちも不正解じゃないかな。今のはそういう感じじゃないじゃん」

「昨日の事もあるし、イライラしてたんだろうなあ……」

「アーディ? おーい?」

「…………」

「せ、石化しとる……!」

「石化魔法まで発現してるとは、末恐ろしや我らが末っ子」

「あんこくきよりこわい」

「おお、喋った」

「ふるえがとまらないこのよはつらいやさしさはしんだきぼうはついえたこのせかいのすべてがわたしのてきもうしぬしんでしまおうそうだそれがいいそれしかないらいせでべるとしあわせになろうあははのは」

「とんでもないこと言ってんだけど?」

 ベルと目線の高さを合わせるべく屈んでいたポーズそのままで石化していたアーディの目からは生気が失われ、口からは呪詛のような何かが吐き出されていた。

「い、一度落ち着きましょう……落ち着いて対策を立てて……そっ、その前に深呼吸を……!」

「あんたが落ち着きなさいよリオン」

「で? なんで止めたのよ、団長?」

 リャーナの問い掛けが、辞世の句でも読み上げてんのか状態のアーディ以外の目をアリーゼに集めた。

「私たちって、ベルに対して超過保護じゃない?」

「あ、自覚はあったんですね」

「そりゃあるわよ! ベルがあんまりにも可愛いものだから、過保護にならずにいられないってものじゃない!」

 動けないアーディとひたすらテンパっているリュー以外の大体全員がコクコク頷く。

「私たちは過保護であの子はナイーブ。だから、私たちに言えないだけで、色々溜め込んでるんじゃないかと思ってたの。昨日の事もあるし」

「そうなんだろうなあ」

「言わないじゃなくて言えないってのがベルらしいよね」

「私らに気を使ってたんだろうなあ……」

「さっきはアーディがやんやと言われてたけど、たまたまアーディだったってだけでしょ。アーディが爆発させなきゃ他の誰かが爆発させてたと思うわ」

「まあアーディほど濃いめのスキンシップする子はいないけども」

「スキンシップもそうだけど、子供扱いがミソでしょ」

「侮っているというか、下に見てしまっているというか」

「私たち全員、無自覚にそのような振る舞いをしていたのでしょうね……」

「あの子も甘えん坊だけど、私たち全員あの子に負けじとあの子に甘えてるものねえ」

「それ! それ過ぎるのよマリュー!」

「っていうか、夜ご飯までに帰ってくるって言っちゃうとこが可愛いのよね」

「ちゃんとみんなのご飯作る気満々なのほんと可愛くて困る」

「これだから過保護になっちゃうんだよなあ」

「はいはいその辺で! これからどうするか考えましょ!」

「方針は?」

「うーん……こういう案件ならアストレア様のご意見も伺いたいとこなんだけど……」

 アストレアは朝から不在。輝夜とライラを連れ立ちギルドへ。その後はフレイヤ・ファミリアへと向かうという話になっていた。

「いや! いい! 私たちだけで動きましょう!」

「いいの?」

「いいの! アストレア様なら、貴方たちの思うままにって言うに違いないもの!」

「ああ、目に浮かぶようです」

「ベルを取っ捕まえて抑え付けても逆効果! けれど放っておくのはちょっと無理! って事でこっそり見守りましょう! あまり人数掛け過ぎてもよくないでしょうし、人数は絞りましょ! 今日はオフだし、私が行くわ! あと二人くらいで行きましょうか! どうする!?」

 誰もが名乗りをあげようとして、誰もが自制を効かせた。自分達より先に、どうするか判断させるべき少女がいるから。

「アーディ。貴方はどうしたいですか?」

「…………ぃぐ……」

「声かっすかすじゃん……」

「アーディが行くとなると、あと一人はリオンしかいないね」

「わ、私ですか!?」

「リオンならそのウザ……めんど……こほん。アーディのお守りに適任だから」

「本音を隠せていませんし結局言葉選びに失敗していますよノイン!?」

「って事で! 私とリオンとアーディで、あの子の様子を見てくるから!」

「アリーゼ!?」

「みんなはあの子の代わりに買い出しと、帰って来た時にどう甘やかすか考えておいて!」

「結局甘やかすのは変わらないのね……」

「そりゃそうよ! 家出少年を癒すのは素敵なお姉さんたちって相場は決まっているもの!」

「そこは母親とかじゃないんだ……」

「とにかく行くわよ! ベルにはごめんだけど、覗き見させてもらいましょう!」

 グッと拳を握り込んで、さっきの出来事など忘れたかのように。

「ベルの家出……いえ! ベル一人で行く、初めての冒険を!」

 アリーゼ・ローヴェルは、瞳を輝かせた。

 

* * *

 

 オラリオへやって来て、一人で外を出歩くのは初めてだ。

 こんな風に一人きりで、心行くまで探検してみたいと、ベルは強く望んでいた。

「うう……」

 しかし、全然楽しくない。

 足が重い頭が重い気持ちが重い。

 見たいものも行きたい所もたくさんあったのに、ひたすら俯いたままトボトボと歩く姿は行き場に迷う子供のそれ。

 今なら一人で何処へでも行けるのに、何処にも行きたくない。今直ぐ帰りたいくらいだ。でも、帰ったって何をどうすればいいのかわからない。ごめんなさいって言えばそれでいいとも思えない。そもそもこれはケンカなのかな? お祖父ちゃんとケンカしたことはあるけど、そういうのとはなんか違う気がした。

「アーディさん……」

 そうだ。違うんだ。

 僕の知ってるケンカでは、ペチペチと頭を叩き合って、言いたいこと言い合って、どっちも不機嫌な顔になって、ちょっとしたら仲直りをしてて、一緒にご飯を食べてた。

 でも今回のは違う。

 だって、アーディさんは傷付いていた。

「あんな顔……初めて……」

 あんな顔をさせたのは僕。酷いことを言ったのは僕。悪いのは……。

 あ、いけない。泣きたくなってきた。でもこんな往来で泣いちゃうわけにいかない。

「ここどこだろ……」

 本拠(ホーム)を文字通りに飛び出して何も考えずに大きな通りを走っていたから、自分が今どこにいるのかわからない。見覚えはある気がするんだけど。

「えっと……う、うーん……」

 リュックから地図を取り出してみても、そもそも地図の見方がよくわからない。大きな建物とか有名な場所の大体の場所はわかるけど、どういう見方をすれば自分の位置がわかるようになるんだろう。

「みんなに聞いておけば……んんっ!」

 当たり前に姉たちに甘え倒そうとしている自分に気が付いたベルは、ぶんぶんと首を横に振って言い掛けた言葉と思考を振り払った。

 甘えるな。自分でやりたいって言い出したことなんだから。

「行くんだ……どっかに……!」

 もういいやと地図をリュックに放り込んで、とりあえず今いる通りを歩いてみることにした。言っても、本拠(ホーム)からはそれほど離れていない。少し歩けば大体どの辺りにいるかわかるはずだ。

「……?」

 冴えない表情のままトボトボと大通りの隅っこを歩いていたら、不思議な感覚を覚えた。

「あ、あれ?」

 キョロキョロと周囲を見渡して見れば、自分を見ている大人が複数人いる事に気が付いた。若い人もいれば渋い感じの人もいる。その誰もが知らない顔で、誰もが男の人で、誰もがベルを睨み付けていた。

 そういえば先日、ロキ・ファミリアの団長であるフィンが言っていた。自分に纏わるちょっとした噂話を聞いたことがある、と。悪い意味ではないと言っていたけれど……。

 悪い想像が止め処無く溢れてくる。自分は何処で何をしてしまったのだろうか。

 フィンの言う噂に紐付いていると言えるのだろうが。

 アストレア・ファミリアへの入団を許された初めての男であるベルに対して嫉妬や羨望を向けている冒険者達が睨みを利かせていることなど知らないベルは、ひたすらに怯えた。

 日頃はファミリアの姉たちがベルに無遠慮な視線を向けようとする輩共に先手を打って鋭い視線を向けるものでベルは知る由もなかったが、ベルに対しての市井の反応は常日頃からこんなものである。

「うう……!」

 この街には危ない所もあるし、危ない人もいる。

 オラリオに来て直ぐ、アリーゼに言われた言葉を思い返したベルの背中を冷たい汗が走り抜ける。

「っ……!」

 湧き上がった恐怖に押し出されるよう、ベルは駆け出していた。途端、自分を見つめる視線が更に増えたような気がする。それがまた怖くて足の回転がどんどん上がっていく。

「どうしようどうしようどうしよう……!」

 帰るなんて選択肢はあり得ない。フレイヤたちの本拠(ホーム)に駆け込むのはありかもだけど、それはすっごくカッコ悪いことのような気がしたし、そんな自分をフレイヤやフレイヤの事を大好きな人たちに見せたくないと思った。

「お祖父ちゃん……!」

 会いたい。今、無性に祖父に会いたい。

 カッコ悪いのうとか笑われたりしちゃうんだろうけど、それでも会いたい。どうせなら笑い飛ばしてもらいたい。今の僕がどれだけダメダメなのかちゃんと口にして、それで……。

「きゃっ!」

 祖父の笑顔でいっぱいになった頭の中を覗いていた所為で、ベルには目の前が全く見えていなかった。

 それこそ、曲がり角から姿を現した、女性の姿さえも。

「わっ!」

 このままじゃぶつかる……!

「くっ……!」

 オラリオ到着以前のベルならば絶対に回避出来なかったであろう衝突事故。しかし今のベルは、弱っちくたってLv.1の冒険者。他のアビリティより伸びの良い敏捷に任せた動きで、曲がり角から姿を見せた女性との激突はなんとか回避出来た。

「痛っ……!」

 回避は出来たのだが、いきなりの事に驚いた女性は、その場で尻餅を付いてしまった。手に持っていた紙袋には春野菜や料理の本などが詰まっていたらしく、その一部が石畳に転がり落ちてしまっていた。

「あ、わわ……ご、ごめんなさいっ……!」

「いたた……」

 少し散らばってしまったそれらを拾い集めて女性の元へ慌てて駆け寄る。痛む臀部を摩っている女性の目元には涙が浮かんでいた。

「本当にごめんなさい! ちゃんと前見てなかったです……!」

「だ、大丈夫、大丈夫です……か……ら……」

 汚れたり形が変わったりしてしまった野菜をどうしようかとベルがあたふたしていると。

「……ベル……?」

「え?」

 尻餅を付いたままの女性は、確かにベルの名を口にした。

「あ、の……僕の名前……どうして……?」

「へ? え、あ、や、えと……それは……!」

 その女性はどうしてか、ベルの言葉に強い動揺を見せた。

「その……そう! 白い髪で赤い瞳の男の子があのアストレア・ファミリアに入団したって聞いた事があったので! 特徴的にも似ていますしアストレア・ファミリアの本拠(ホーム)にも近いからそうなんじゃないかなって! それだけです!」

「で、でも……僕の名前も……」

「貴方の名前もその時に聞いていたんです! ベル・クラネルってお名前なんだって! ええ! 本当に!」

「そ、そうなんですか……」

「そうなんですっ! はいっ!」

 ふんすふんすと鼻を鳴らさんばかりの勢いのお姉さんに手を差し伸べて立ち上がるのをお手伝い。自分よりずっと背の高いお姉さんはとっても綺麗で、そんな人と手を繋いでいる事実がベルの鼓動のリズムを引き上げた。

「こんな予定じゃなかったんだけどなあ……」

「え?」

「けれどこれも運命……かなあ……」

「あ、あのぉ……?」

「ああごめんなさい! ちょっと自分の世界に入っていました! ちゃんと自己紹介をしなきゃですね!」

 ぱぱっとスカートを伸ばし、少しも乱れていないように見える薄鈍色の髪に丁寧に手櫛を通し、可能な限り身なりを整えて。

「私、シル・フローヴァと言います。はじめまして、ベル・クラネルさんっ」

 シルと名乗った少女は、軽やかな笑みを浮かべた。

 

* * *

 

「落ち着いて話せる所に行きませんか? 何やら訳アリみたいですし。私でよければお話を聞かせてください」

 シルと名乗った女性からの提案を、ベルは謝るだけ謝って断ろうとした。しかし。

「私は貴方の所為でお尻を思いっきりぶつけてしまいました。幾つかの野菜もダメにしてしまいました。それが悪いと思うなら、私に付き合ってください。いいですよね?」

 そう言われてしまえば、ベルが取れる選択肢など極々限られてしまうというもの。

 そうしてシルの後に続いて結構な距離を歩いたベルは、西のメインストリート沿いにある二階建ての建物。クローズドの看板の掛けられたお店屋さんにまで連れて来られた。

「今は夜の営業に備えて準備中なんです。ちょっとバタバタしてると思いますけど気にしないで大丈夫ですから」

「は、はい……」

 カランカランと音を立てて扉が開くと、シルの言っていたバタバタとやらが見事に可視化されている光景が目に入って来た。

「うニャ? シル?」

 多くの従業員が忙しなく動き回るその真ん中で、気怠そうに箒で床を掃いている猫人(キャットピープル)の少女がピンと耳を立て、店の扉を開け放った人物に視線を寄越した。

「何してるニャ? 今日非番じゃニャかったかニャ?」

「そうなんだけど、ごめんねアーニャ。少しお店にいさせて欲しくて」

「それはいいんニャけど…………それ、誰ニャ?」

 シルと呼ばれた少女の背中に隠れている小さな少年。その怯えたような表情を見たアーニャと呼ばれた少女は、それでも警戒心を解かず、白い髪の少年をじーっと睨んだ。

「ちょっと訳アリの家出少年、って所かな」

「厄介ごと持ってくるとまたミア母ちゃんにどやされるニャよ?」

「お店で面倒を見るとかそういう話じゃないの。ただ少しお話する時間と場所が欲しくて。ね、構わないかな?」

「ミャーは知らんニャ。おミャーの好きにしたらいいニャ」

「ありがとう、アーニャ」

「あ、ありがとう……ございます……」

 あんまり話の流れは見えていないけれど、シルの様子から、ここはお礼を言うタイミングなんだと察したベルが、シルの背中から姿を晒してぺこりとお辞儀を一つ。その堅苦しいまでの姿に毒気を抜かれたのか、値踏みするようにベルを睨んでいた猫の瞳から、攻撃性が溶け落ちていった。

「そこの白髪頭。おミャー、みかんとりんご、どっちが好きニャ?」

「え?」

「どっちニャ?」

「え、っと…………りんご……です……」

「んニャ」

 夜の営業に向けての準備で従業員達が慌ただしく動き回っている厨房へ、先端が白くなっている茶色の尻尾を揺らしながらアーニャと呼ばれた少女は消えていった……かと思えば。大きめのグラスを持って直ぐに戻ってきた。

「これやるニャ」

「え?」

「タダでやったニャんてバレたらミア母ちゃんに殴られるからこれは内緒にするニャ。わかったニャ?」

「は、はい……ありがとうございますっ!」

「んニャ〜」

 にっこりと微笑みながらグラスをベルに手渡して、今度こそアーニャはお店の裏側へと消えて行った。

「優しいでしょう?」

「は、はい……」

「彼女はアーニャ。私の同僚なんです。今は頑張ってお姉さんぶろうとしてましたけど、ちょっとどころかたくさん抜けている所のある可愛い女の子なんです」

「んニャーっ!? お、お皿割っちゃったニャー!? あ! ミ、ミア母ちゃん! これには深い訳が……ゔニャぁ!?」

「ほら」

 ぱりーんと皿が割れる音、鈍器で何かを叩いたみたいな鈍い音、アーニャの絶叫が、ベルの耳を間断なく苛んだ。

 声の大きさや動きの大きさで、何処にいるのか直ぐわかるタイプの人。アリーゼさんと似たようなタイプの人かも。

「そ、そうみたいですね……」

「そうなんですっ」

 シルの笑顔と自分の乾いた笑いを交換し合いながら、そんなことをベルは考えていた。

「こっち、座りましょうか」

「は、はいっ」

 シルに促されるまま、あんまり揺らしたら溢れてしまいそうなくらい目一杯に注がれた透明果汁に気を付けながら、店内一番隅っこにある席に腰を下ろす。他にもたくさん席はあるのに隅に腰掛けたのは、夜に向けての準備で慌ただしくしている従業員達の邪魔にならないようにというシルなりの配慮だ。

「順番がおかしくなっちゃいましたけど、改めて紹介させてください。このお店の名前は、豊穣の女主人。私が勤めている酒場なんです」

「そ、そうなんですか……わあ……!」

 まだ開店していないから活気も何もあったものじゃないけど、ライラとロキ・ファミリア団長であるフィン・ディムナと連れ立って訪れた小人の隠れ家亭とはまた違う独特な雰囲気に、ベルはちょっとした興奮状態に。

 というか、小人の隠れ家亭は、店主店員客の全員が小人族(パルゥム)だったということや、昼過ぎに訪れた事もあって酒盛りしている客がいなかったことも手伝って、ベルが思い描く酒場のイメージからは少し違っていた。ベル的には喫茶店の方がしっくりきているまであったくらいだったから。

「ふふ……初めてですか、こういうお店は」

「そういうわけじゃないんですけど……なんかすっごくカッコよくて……すごいなあ……!」

「いやあ……働いているお店が褒められると嬉しいものですね……ベルさんってば、褒め上手なんですね」

「そ、そんなことないです……」

「照れなくてもいいじゃないですかー」

 歳上のお姉さんからさん付けをされていることとか。

 銀の髪や銀の瞳の感じとか。

 全体的に自分の知り合いと雰囲気が似ていることとか。

 何処かで会ったことがあるような気がしていることとか。

 この人をよく知っているような気がすることとか。

 数え切れないたくさんのなんとなくが、ベルに不思議な感覚を与えていた。

 シルという少女の雰囲気や佇まいを見ていると、店の雰囲気に当てられて得た高揚や、先程まで胸中を支配していた暗澹としたものすらまとめて凪いでいく。そんな感じがした。

「落ち着くなあ……」

「え?」

「な、なんでもないですっ」

 独り言を誤魔化すように声を張り、並々注がれたジュースに口を付ける。控えめな酸味と軽やかな甘さで満たされた果汁はとっても美味しくて、飲み終えた頬は自然と綻んでいた。

「それで、ベルさん? 大きな荷物を抱えて、一体何処へ行こうとしていたんですか?」

「え?」

「屈強な戦士でもない限り一人出歩くには危険ですから、この街は。貴方だってファミリアのみなさんから聞いてるんじゃないですか?」

「はい……」

「ファミリア内で貴方がとても大切にされていることも風の噂で聞いています。それなのに、どうして?」

 お姉さんだって一人で出歩いていたじゃないですか。

「うう……」

 そう言ってやりたい気持ちこそあれ、そんな強い言葉で返せるわけがないベルは、シルの視線から逃げるように俯いてしまった。

「ああ、ごめんなさい。私は怒っているわけでも問い詰めたいわけでもないんです。ただ知りたいんです。貴方みたいな冒険者の卵が、家族と離れて一人きりで何をしていたのかなって」

「そ、それは……」

「言い辛いことなんでしょうか? でも安心してください。ここでの話は誰にも言いません。私とベルさん、二人だけの内緒です」

「え?」

「え?」

 はっと顔を上げたベル。何が引っ掛かったのかわからず、声が出てしまったシル。

「えっと……どうかしましたか?」

「……へ? あ、や! なんでもないです……!」

 人差し指で口元に戸を立て、悪戯っぽく笑う姿が、自分のよく知る女神様とそっくりだったんです。

 それを口にしたら変な子だと思われたりするんじゃないかと思った。

 何より、深堀されても大変だから、言葉にするのをやめた。

 それというのも、フレイヤ本人やアストレア・ファミリアの面々に口酸っぱく言われているのだ。フレイヤとの関係を言いふらさない様にと。

「貴方みたいな素敵な子と仲良しだなんてズルい。なんて、一部の神々や子供たちに思われてしまうかもしれないから、私と仲良しであることは内緒にしておきましょうか。大丈夫よ。それくらいのことで、貴方と私が仲良しであることは変わらないのだから」

「要するに! フレイヤ様はウルトラスーパーハイパー激マブモテ女だから、そんなフレイヤ様に嫉妬してる女神様とかがいる! ってこと! だからね、フレイヤ様と仲良しなんです! なんて言って回ったらベルのことをよく思わない人がいるかもしれないから、そういうのは外で言わないよーに!」

 フレイヤとアリーゼ、それぞれの言葉で理由を説明してもらったことがある。内容は微妙に違っていたけれど、ベル自身の安全の為にもそうするべきという結論は同じくしていた。ベルとしては納得いかない思いであったが、それを受け入れた。

「フレイヤ様は誰かの悪口とか全然言わないのに……なんで悪く言われちゃったり嫌われたりしちゃうのかな……そういうのやだし……おかしいと思う……」

 フレイヤから先の内容で諭された際、思わずそう呟いてしまったベル。それを聞いたフレイヤには頭を撫でられ、同席していたガリバー四兄弟やヘグニ・ラグナールはうんうん頷いていたりした。

 尚、この日以降、フレイヤ派の面々のベルへの当たりは更に弱まったというが、それはベルの預かり知らぬ所での話。

「え、えっと……今日は…………一人で探検……してみたくて……」

「探検、ですか?」

「はい……だから……地図とかお弁当とか用意して……その……」

「素敵!」

「えっ?」

「一人で探検してみたいだなんて、とっても男の子っぽい理由で素敵じゃないですか!」

 パンっ、と手を叩いたシルの瞳はキラッキラに輝いていた。

「なるほど、それで荷物を抱えて一人で飛び出して来たと。いい! とっても素敵っ! やっぱり男の子はこれくらいやんちゃじゃないと!」

 どうしてシルがこうも上機嫌になっているのかわからないベルは、ふっと思い出していた。

 一人で探検に行くと言った時、アーディさんも嬉しそうに笑っていたっけ。

「けれど、その様子を見るに、あんまり楽しめなかったみたいですね」

「えっ?」

「ここからが本当の内緒話になるんですよね」

「そ、それは……」

「この際だから全部吐き出しきっちゃいませんか? 私、いくらでも聞きますから!」

「わわっ!」

 素敵な笑顔がぐっと前のめりで迫り、驚きのあまり椅子の背もたれに背中を強打してしまった。

「そんな顔のままじゃ今晩食べるご飯だって美味しくなくなってしまうかもしれませんよ?」

 それは……よくない。自分でお金を稼ぐことも出来ず、ご飯とか掃除とかを頑張って、みんなの生活を支えることしか出来ない自分がその役割を果たせなくなってしまったら。美味しいご飯をみんなに食べてもらえなくなっちゃったら。真実僕は、役立たずな子供で止まる。そんなの嫌だ。嫌、だから……。

「…………じゃあ……お話……いいですか?」

「もちろんですっ!」

 初めて会ったのに初めて会った気がしないお姉さんに、胸の内を聞いてもらうことにした。

 

* * *

 

「わかります! わかりますよーベルさん! 大切にしてもらえたら嬉しいですけど、それが行き過ぎるとモヤモヤーってしちゃう! わかりますよー!」

「そう! そうなんですっ!」

 うんうんとシルが頷いて、ぶんぶんっとベルも頷く。

「ちょっとお散歩したいなーって思ってもダメって言われたり、誰かと一緒じゃなきゃダメとか言われたりするのおかしいですよね!?」

「おかしいと思います!」

「私たちだって、一人になりたい時くらいありますよね!?」

「あると思いますっ!」

 バンっと机を叩くシルと、ゴンっと机を叩くベル。話が盛り上がり過ぎる所為か、二人の頬は真っ赤に染まっている。決して酒盛りをしている訳ではないのだが、酔っ払い呼ばわりもさもありなんな調子である。

 ついさっきまではこんな調子ではなかった。

 今日のアーディとの一件や、今日までに溜め込んだあれこれをベルが語り、シルが相槌を打つ。そんな構図だった。

「そうですよねー。人のことお姫様扱いしてあれはするなこれはするなって抑え付けられるの、いい気分じゃないですもんねー」

 ベルの鬱憤の緩衝材のような立ち回りをしていたシルがそんな言葉を溢して以降、空気が一変。話が盛り上がるに連れて、不平不満のドッヂボール状態にまでなってしまった。

「な、なんニャあいつら……なんであんニャ共感してんのニャ……?」

 遠巻きからシルとベルを眺めるアーニャや他の従業員たちの頬も強張る始末。

「ふぅん……」

 そんな猫達の背後から、体の大きな一人のドワーフが二人のヒューマンを眺めていることに、一人は気付き、一人はまるで気が付かないでいた。

「他には何か言いたいことありませんか? ほらほら遠慮なさらずー! はむっ。むふー!」

 ベルの内側を更に引き出すべく扇動しながら、ベル手製の卵焼きを口に運ぶシル。どうやら口に合うらしく、先程までのヒートアップ具合が嘘のような笑顔に早変わりしていた。

 ベルとしては嫌というか、いけないことをしているみたいで気後れしたのだが、ベルの荷物に手製の弁当があることを知ったシルが、食べたい食べたいとやたらに言うもので二人で少しずつ摘みましょうという話になった。

 営業前とは言え、外から持ち込んだ物を飲食店で食すのはどうなんだろうと思ったのだが。

「ちょーほーきてきそち? なるものにより許されているのです! だから問題ないんです!」

 とシルに言われた。全然意味はわからなかったが、お店の従業員さんが言いっていうならとおずおずと卓上に広げた。ベルが作った品々はどれもシルからの評価が頗る良く、実はベルくん、内心は嬉しさで一杯だったりする。

「ほらほら! こういう時に全部吐き出しておかないと! 次があるかもわからないんですし! もっとお話聞かせてください!」

「じゃあ…………その……」

「遠慮なさらずー!」

「僕…………すっごく可愛い女神様と仲良しなんです……」

「えっ?」

 ベルとしても会心の出来の卵焼きに頬を綻ばせるシルのニコニコ笑顔に、微かな罅が走った。

「そ、それは……アストレア様、ですか?」

「違います……あ! アストレア様とは仲良しです! とってもとっても仲良しですっ! アストレア様じゃない女神様のお話しです! お名前は言えないんですけど……」

「……その女神様がどうかされたんですか?」

「……最近…………すっごくしつこいんです」

「ぅぐ」

「し、シルさん?」

「なっ、なん、でもっ、ない、ですっ」

 明らかになんでもなさそうなシルの様子が気にはなるが、このまま話を続けることにした。

「その女神様……一緒にご飯食べてる時とか、あーんってすっごくしつこいんです」

「あふっ」

「自分で食べますって言っても聞いてくれないんです。僕がお行儀悪いことするとそういうことしちゃダメって怒るのに、自分の時だけなんにも言わないんです」

「そそそっ、そうなんですねっ……!」

「あーんってお行儀良くないと思うのに、なんであーんだけはいいみたいに言うのかな……僕が変なのかな……」

「だって仕方ないじゃない……」

「え?」

「な、なんでもっ! なんでもないんですよーベルさんっ! えと、ほ、他には何かあるんですか!? その女神様へのご不満とか! 流石にもう打ち止めで」

「まだあります」

「あるんだぁ……」

「その女神様、僕にお洋服をたくさん買ってくれるんです」

「そ、それはいけないことなのかなー?」

「いけなくないんですけど……僕の好き嫌いは全然聞いてくれないんです。貴方にはこういうのが似合うと思うって、僕に押し付けていくんです」

「ああ……」

「すーつって服とか持って来てくれるんです。それに合わせて髪の毛も色々されたりするんです。僕はいいですって言ってるのに、照れなくていいのよーとか、遠慮しないでいいのよーって、無理矢理に色々されちゃうんですっ」

「な、なるほどぉー?」

 徐々にヒートアップしていくベルと、何故か徐々に様子のおかしくなっていくシル。そんなシルなどお構いなしにベルはこれでもかと言葉で捲し立てる。

「その女神様がくれるお洋服ってとってもおしゃれだしとっても高そうだからいつ着ていいかわかんないんです! ご飯作る時とか洗濯する時に着てたら汚れちゃうし! その女神様に会いに行く時くらいしか着る時ないんです! そういう洋服ばっか一気に増えちゃったからしまう場所も全然足りなくて! それと!」

「ま、まだあるんですかそうですか……」

「僕なら似合うって、女の子用のお洋服を持って来たことがあるんです! あれは本当に嫌だった!」

「あぅ」

「絶対着ませんって言ったらすっごく悲しそうな顔をするからその時は我慢して着ましたけど、可愛い可愛いってすっごく笑われました! 嫌だって言ってるのにヘルンさんとかヘイズさんとかヘディンさんとか呼び出してみんなに見せて一緒になって笑ってたのまだ怒ってるんだから! 泣くのすっごく我慢した! あれおかしいと思うっ!」

「あ、はい。おかしいですねはいごめんなさい本当にとってもおかしいと思いますはいごめんなさいですはい」

「フレイヤ様は僕のこと、おもちゃかなんかだと思ってるんだ!」

「そ、そんなことはないと思いますよ!?」

 普通にフレイヤと言ってしまっていることにベルは気が付かないし、シルはシルで謎の女神の名が明かされたというのに、ベルに負けじと落ち着きなくしている所為で全く気付く様子がない。お互いに目の前が全く見えていない状態である。

「いや絶対そうです! だって、フレイヤ様が僕を見る時いっつもニコニコしてるもん!」

「そ、それはほら……貴方に会えて嬉しいから……ですよ……?」

「そうだとしても! もうちょっとだけでも僕の意見も聞いて欲しいんですっ!」

「えうぅ」

「……って言いたいんだけど…………僕……フレイヤ様のこと好きだし……」

「はぅっ!?」

「僕にもみんなにもとっても優しくしてくれて……それがすっごく嬉しいから……」

「うぅ……!」

「こういうの嫌なんですってあんまり言えなくて……どうしたらいいのかな……」

「い、一旦っ! 一旦忘れましょ!? その女神様とのあれこれは!」

「へ?」

「大丈夫! 大丈夫ですっ! そのうち自然と解決しますから! その女神様も様々な知見を得て己をアップデートしていますのでっ! きっと! 多分! 間違いなく!」

「あっぷでーと?」

「そうですそうなんですっ! だから」

「何やら愉快そうな話をしてるじゃないか」

「うわっ!?」

「ミ、ミアお母さん!?」

 終わる気配のないポンコツトークに待ったを掛けたのは、のっしのっしとやって来た、ミアと呼ばれた一人のドワーフ。

「ひっ……!」

 存在感というか生命力というか。生物としての圧倒的な格の差を本能で察知したのか、さっきまで沸騰していたベルの頭は、あっという間に冷え冷えにさせられた。

 怯えたように背を丸めるベルの姿さえ愉快の種らしく、ミアは口角を釣り上げた。

「しっかし、あの馬鹿女神がそんな間抜けをしていたとはねえ」

「ば、馬鹿女神?」

「フレイヤのことさ」

「へ? なんでフレイヤ様って……」

「アンタが自分で言っていたじゃないか」

「……………………あぇ!?」

「今更気付いたのかい……」

 ミアに言われるまでこれっぽっちも自覚のなかったベルの頬が真っ赤に染まり、激しい動揺を見せ始める。

「あ、ああ……そういえば……」

 そこでようやく女神の名が出ていたことに気が付いたシルが曖昧な笑みを浮かべると、何やらニヤついているミアと目が合った。

「なんだか随分とご機嫌じゃないですか、ミアお母さん……?」

「さあ、どうだかね」

「むーっ」

「あの! こ、このことは内緒に……!」

「あーはいはいわかったよ」

「そ、それと!」

「うん?」

「さ、さっきの……よくない……と思います……」

「さっきの?」

「フレイヤ様のこと……馬鹿女神って……」

「ああ、それかい。いいんだよ。あんな女神、馬鹿女神呼ばわりくらいが丁度いいってもんさ」

「フ、フレイヤ様は! 馬鹿女神なんかじゃありません……!」

 アーディとの一件でタガが緩んている所為なのか。あっさりと、ベルは怒った。というか、怒ることが出来た。

「フレイヤ様はとっても優しくて……可愛くて……素敵な女神様なんです……! だから、馬鹿とか言ったらダメだと思います……!」

 目の前に立つドワーフに完全に萎縮し、視線をあちこちに彷徨わせながら、それでも言いたいことがちゃんと言えた。

「ベルさん……」

 自分で自分に驚いている少年の横顔を、目を大きく開いたシルが見つめていることなんて、この時のベルは全く気が付けなかった。

「…………はっ」

「へ?」

「ははは……あっはっはっは……!」

 ベルは混乱していた。自分は確かに怒った。怒っていますを隠さなかったのに、どうしてこの人は、いきなり声を上げて笑い始めたのだろうか。

 それどころか。とっても嬉しそうに笑っているように見えるのは、なんでなんだろう。

「あーいや、なるほどね。アタシがあの女神をどう言おうとアタシの勝手だろうけど、坊主の前ではそうじゃない。そりゃそうだ。アンタが正しい。馬鹿女神呼ばわりして悪かったよ」

「い、いえ!? ん? え、や、あの……は、はい……?」

 正面切って謝られたことにも大笑いしていることにも絶賛ビックリ中のベルではどう答えていいかわからず、呟く言葉は迷子がち。

「ま、精々がポンコツ女神くらいにしといてやるかね」

「あ、それはわかります! この前だって、全く同じ本を二冊買っちゃったって言ってました!」

「そ、それはぁ……自分用とプレゼント用ということで……」

「え? シルさん?」

「な、なんでもないでーす!」

「はは……いい子供に出会えたみたいじゃないか、あの女神は」

 やっぱり、嬉しそう。シルにはどうかわからないけれど、ベルにはそう見えていた。

「あの、フレイヤ様とお知り合いなんですか?」

「昔ちょっとね、そんなことより自己紹介だ。アタシはミア。この店のオーナーってヤツだ」

「おーなー? おーなーって……て! 店長さんってことですか!?」

「そうだよ。そんなのいいから自己紹介。ほら」

「は、はいっ! えっと……僕、アストレア・ファミリアのベル・クラネルって言います! よっ、よろしくお願いしますっ!」

「へぇ……あんたがあの乙女の花園に飛び込んでった命知らずだったのかい。なるほどねえ」

 そう呟いたミアは、何故かベルではなくシルを見て、ずっと高いままの口角を更に持ち上げた。

「この馬鹿娘が許したんだろうけど、アタシの店で外から持ち込んだ物を食うだなんていい度胸してるじゃないか」

「へ? あ! ごめんなさいっ! 僕もお腹空いてつい……あ!」

「ふむ……」

 テーブル上に広げたベルの弁当の中から、小ぶりなハンバーグを太い指でヒョイっと摘み上げ、そのまま口に放り込むミア。ゆっくりと咀嚼しながら、何事かを考え込んでいる様子。

「……これ、坊主が作ったのかい?」

「は、はい……」

「ソースも?」

「はい……」

「……これ、バターを入れてるね?」

「そ、そうです! バターを入れるととろみが出て美味しいんだってうちのマリューさんが教えてくれて! なんでわかったんですか!?」

「初心者でも作り易いソースの定番だからね。アンタの師匠は踏むべき段階をちゃんと踏ませているようだ。いい師匠が付いてるじゃないか」

「そ、そうなんです! そうなんですっ! マリューさんすごいんです!」

 喜色満面。ベル的には嬉しそうに笑っているよう見えるミアさえ置き去りにするようなベルの笑顔がぱあっと咲く。

「さっきまでそのマリューさんにも文句を言っていたのに……ふふ……」

 マリューさん、僕のこと抱き枕だって言うんです! 勝手に部屋入って来て僕のこと捕まえて僕のベッドで寝ようとするんです! やめてって言ってるのにっ!

 と、シルへと愚痴を溢したばかりのベルが、姉を褒められてこんなにも嬉しそうに笑っていることに笑いを堪えきれず、シルも破顔した。

「そいつは何よりだ。所で馬鹿娘。厨房空いたよ。今日もやるんだろう?」

「本当はここでの予定ではなかったんですけど、折角だからここでやりたいです」

「好きにしな。ああちょうどいい。おい坊主。オマエさん、この馬鹿娘の監視役をやっておくれ」

「かんしやく?」

「ミ、ミアお母さん!?」

 首を傾げるベルと慌てるシル。そんな二人……というか、シルを横目で見るミアは、わるーい感じのニヤニヤを披露していた。

「厨房で何をするかなんて、馬鹿娘の荷物で想像付くだろう?」

 シルの足元に置かれた紙袋の中身は知っている。たくさんのお野菜や、お料理の本だ。だから、それって……。

「……お料理?」

「後は任せたよ」

「へ? あ、あの!」

「どっかのアホ猫が店の飲みもんタダで飲ませたんだろ? それでチャラにしてやるよ」

「え、ええー!?」

 あれ、僕がお願いしたわけじゃないのに! でも飲んだのは僕かあ……。

 驚いて納得してを脳内でサクサクっと完結させるベルに背を向けて、大柄なドワーフは手を振りながら立ち去っていってしまった。

「ぐぬぬ……!」

 何故か、去り行く背中に恨みがましい視線を送っているシル。百面相宛らに表情を変えるシルの様子を窺っていたら。

「はあ……これも予定にないなあ……」

 何かを呟きながら、何かに観念したように、ベルと視線を重ねた。

「あ、の……シルさん?」

「……ベルさん」

「は、はいっ!」

「ミアお母さんの言っていた通り、私はこれから厨房であれこれとするつもりなのですが……」

 照れているというか、ひたすら恥ずかしそうにしているシル。落ち着きない様子を見せる歳上のお姉さんに内心でドキドキしながら。

「よかったら……お付き合い頂けませんか?」

 はいの代わりに、大きくベルは頷いた。

 

* * *

 

「ま、まとめると! 子供扱いされるのは仕方ないけど、可愛い可愛い言われるのはあんまり好きじゃない! みたいなことでいいですよね!? ねっ!?」

「ちゃんと手元見ないと危ないですよっ」

「こっ、ごめんなさいっ」

 自分の手際の悪さや不甲斐なさから目を逸らさせようと声を張るも、包丁を握っているのにも関わらず手元から目を離すという危険行動をやってしまったシルに真面目坊やのベルが唸るのも必然な訳で。

「お話聞いてくれるのは嬉しいんですけど、集中しないとダメです」

「は、はいぃ……」

 前掛けをしたシルが背中を丸め、小さな踏み台に乗ったベルが肩を怒らせるというなんともアンバランスな絵面の前に広がるのは、数冊の料理本や雑多に解体されていく野菜等々。

「時々なんですけど、私にお料理を作ってくれる人がいて……その人は私から料理でお返しをされるなんてこれっぽっちも思っていないでしょうから、とっても美味しい料理を食べさせて驚かせちゃいたいな、って思っていて……」

 包丁を握る前に語られた、シルの動機。

「とっても素敵だと思います! きっとその人もすっごく喜んでくれますよ! 僕でよければ力になります! 一緒に頑張りましょうっ!」

 いじらしく可愛らしい目標を語るシルの姿にすっかり感化されたベルは、自身も未だ修行中の身でありますけどと前置きをした上で、出来る限りのお手伝いをしますと約束した。

 約束、したのだが。

「う、うーん……」

 どうしよう。

 ベルは内心、頭を抱えていた。というか、緊張していた。

 故郷の村での暮らしに加え、オラリオへやって来てからは有能極まる姉たちに師事されてこそいるが、経験そのものはまだまだ浅い自覚はあるし、何より自分の指導力に自信が持てない。そんな自分に先生役なんて務まるのだろうかとハラハラドキドキが止め処ない。

 それに、だ。なんというか、匂う。とっても匂うのだ。

「ベルが張り切って事に当たっているというのに私がこの有様ではいけない。これからは私も炊事に尽力したいと思います。あの、みんな? どうして顔を背け……アリーゼ? 顔が青いようですが……あの?」

 ベル加入以前はアリーゼたちの采配により、配膳ばかりを担当していたらしいリュー・リオン。

 彼女と並んで台所に立ったことのあるベルは、彼女の手から産み落とされた無惨(カオス)を知っている。残さず食べなきゃの精神に則った結果お腹を壊したことさえある。尚、それ以降リューの担当日は講師としてマリューが同席することが義務付けられた。

 そのリューと同じ匂いがするのだ。手際そのものは軽快にさえ見える、シル・フローヴァという女性からは。

「は、話の続きをしましょうっ。私の言っていたこと、大体合っていますよね?」

「はい……みんな僕のこと子供扱いするんです。それは仕方ないことだと思うんですけど、可愛い可愛い言われるのはあんまり……みんな、僕のこと赤ちゃんか何かだと思ってるんだ。何をするにも大丈夫? とかいちいち聞いてくるしっ」

 ぷんすか怒ってみせる様は、それこそ幼児扱いも止むなしなくらい幼稚な姿である事に、ベルが気付けるわけもない。

「男の子ですもんね。可愛いよりカッコいいに憧れますものね」

「そ、それはっ」

「照れなくてもいいじゃないですかー」

 くすくす微笑みながら、切ったばかりのベーコンや玉ねぎを、熱していた鍋に入れて炒めるシル。

 彼女が調理しようとしているのは、ミネストローネと呼ばれるスープ。拘りを少なくすれば料理初心者にもハードル低めと言って良いであろう一品だ。

「カッコいい男の子になりたい。わかりますよ? 私たち女の子が可愛い女の子になりたいと思う気持ちと似てますから」

「そうなんですか? あ! そのトマト、種取ってないです!」

「あらま。危ない危ない。はい、そうなんですよー」

 料理と並行しながらのお喋りも少しは慣れて来たのか、シルの語り口も軽やかになっていく。つい数十分前、極東産のお米を鍋で炊こうとしていた際など、米を研がずにそのまま炊こうとしてベルの驚愕を買ったばかりだと言うのに。

「甘えん坊の男の子でも、可愛いと言われるのはやっぱり嫌ですよね」

「え?」

「ベルさんは甘えん坊です。ベルさんが思っているよりずっとずっと甘えん坊です」

「そ、そんなこと」

「今日のことでアーディさんを、これまでのことでお姉さんたちを嫌いになったりしたわけではないんですよね?」

「ないです! ちっともないです!」

 ベルはブンブンと首を横に振った。

 正直、気に入らないとか、納得いかないとか、やめて欲しいとかはいくらでもある。それでも、嫌いになんてなれはしない。絶対にありえない。

 何故どうしてを言葉にするのは難しい。それでもあの人たちのことが大切だ。大好きだ。胸を張ってそう言える。

「とっても素敵なことだと思います。お姉さんたちも同じ気持ちだといいですね」

「はい……」

「でも、それが甘えん坊だって言うんです」

「え?」

「というか、わがまま?」

「わがまま……ですか?」

「そうですよ」

 いい色が付いたと見たのか、キャベツやじゃがいもも投入し炒め始める。目の前から漂い始めた鼻腔に刺さる香りが意識にまで届かないくらい、ベルの意識はシルだけに向いていた。

「あれはやめて欲しいこれもやめて欲しい。もっと僕にとって都合のいい人でいて欲しい。でもみんなのことは好きだからずっと一緒にいて欲しい。それがわがままじゃなくて何だって言うんでしょう」

「そ、れは……」

 言葉が続かない。百全て拾いきれたわけではないけれど、一以上で百未満くらいは理解出来てしまったベルでは何も言い返せない。

「ごめんなさい、嫌な言い方をしてしまいましたね。責めているわけではないんですよ? だって、そういうのって当たり前にあるものじゃないですか」

「当たり前?」

「そうですよ」

 私にだってあるんですから。

 そう続けながら、トマトを投入。レシピ本に書いてある調味料も投入しゆっくり混ぜる。ここまでは何もかもが順調な様に見えるが、はてさて。

「さっきも言いましたけど、私の周りにはどうにも過保護な人が多くてですね、あれはするなこれはするな勝手に何処か行くなとかよーく言われるんです。私としては気に入らないんですよ、そういうの。あんまり言われるとむかーっってなっちゃうんです。最近もとある男の子とのあれこれをあーだこーだと言われちゃいまして。困っちゃいますよ、本当にっ」

 頬を膨らませているシル本人的には怒っているつもりなんだろうけれど、如何せん迫力不足なその姿は、強張ったベルの頬を少しだけ解きほぐしてくれた。

「度が過ぎた時は言っちゃってますけど、それでもやっぱり、面と向かってはあんまり言えないんですよねー」

「どうしてですか?」

「その人たちは、私のことを大切に思って……ううん。愛してくれているんです」

「あ、あいっ!?」

 流石に知っているけれど全然馴染みのない言葉が出て来て素っ頓狂な声を上げてしまった。

 え? そういう話だったっけ? しかも、その人、たち!? ま、まさかそれって……お祖父ちゃんの言ってた……ハーレムってヤツ!?

「はわわ……!」

 とかなんとか考え過ぎてしまったおませな坊やはひたすらにテンパった。

「ふふ……」

 その様に微笑みを一つ。ゆっくり静かに、シルが言葉を繋げる。

「愛と言っても、恥ずかしいものじゃないんですよ。ベルさんが想像し易い愛っていうのは恋人とかお嫁さんとかになんでしょうけど、もっと身近で当たり前で、昔からそこにある関係にも、愛は通じているんです。家族愛、なんて言葉もあるでしょう? ご存知ですか?」

「き、聞いたことはあります……」

「親愛。友愛。慈愛。恩愛。他にもたくさん。愛にはいろんな形があるんです。そのいろんな形の愛が、ベルさんたちの間にもあるんですよ」

「あるんでしょうか……」

「ありますよ。じゃなきゃ、知り合って間もないお姉さんたちのことが大好きだなんて言えないですよ」

「……あ、あれ!? みんなのことが大好きだなんて僕言いましたっけ!?」

「顔に書いてあったんですよ」

「かにょ!?」

 顔、と言おうとした拍子にベルの頬はシルの小指に突かれ、変な声に変わってしまった。

「貴方たちは愛し愛され合っている、とっても素敵な関係です。同じ神様の血を媒介にしているからある意味では血が繋がっているとは言えるのでしょうけど、そんなの小さなこと。血が繋がっていなくたっていい。大切なのは、血が通っていること」

「血が……通う? えっと……」

「生まれとか育ちとか付き合いの長さとか以上に大切なものがある、ってことです」

 言葉の意味を問おうとするより早く、その答えらしいものを教えてくれた。

「身近な人々がどうして大切か、なんて質問に答えはないんです。少なくとも私はその答えを持っていません。大切だから大切。そうとしか答えられません。それはきっと、何処にでもあって何処までもありふれている、とっても当たり前のことなんです。理屈じゃないし、理由だってない。愛って、そういうものなんじゃないかなあ」

 なんちゃって。

 鍋に蓋を置きながらぺろりと舌を出してみせるシル。

「…………あ……!」

 その様をぽーっと眺めていた自分に妙な気恥ずかしさを覚えたベルは、頬の熱を振り払うよう、勢い良くそっぽを向いてしまった。

「ベルさんは、ベルさんが愛している人たちに甘えん坊をしている。そして、ベルさんのお姉さんたちも甘えん坊さんです」

「へ?」

「お姉さんたちは甘えん坊というか、ベルさんにだけ甘えているんだと思いますよ」

 ベルさんにはちょっと想像し難い話かもしれませんけど。

 そう前置きし、落ち着きのない様子のベルに微笑みを一つ落として、シルは言葉を続けた。 

「最近は落ち着いて来ましたけど、変わらず物騒なこの街で、素敵な弟と笑って暮らせる。それはきっと、お姉さんたちの支えになっていると思うんです」

 シルの言う通り、ベルにはあまりピンと来ない話ではあった。

「お姉さんたちは、貴方と私がこうやってお話をしている間にダンジョンへ潜ったり、冒険者依頼(クエスト)でお金を稼いでいる。文字通り、命を賭けて」

 それはわかる。みんないつも、自分の前で極力そういう話をしないようにしてくれていることも、知っている。

「戦って、頑張って、やり抜いて、そうして生きて帰った時。貴方や家族たちが笑って出迎えてくれることがどれだけ嬉しいことか、想像出来ますか?」

「……わかりません」

 ベルは素直に答えた。

 今の自分は、いつだって置いていかれる側。だからシルの言うことはわからない。

 そんなベルは知っている。みんなが無事に帰って来てくれた時、どんなに嬉しいか。

 みんなが怪我をして帰って来た時、どんなに不安になるか。怖くなるかも、知っている。

「貴方のお姉さんたちはきっと、非日常みたいな戦いを終えて本拠(ホーム)に戻って、そこで貴方を見て、貴方を揶揄って、笑ったり怒ったりふざけ合ったりして、ようやく日常に帰って来れるんだと思うんです」

 日常。非日常。

 聞いたことはあるけれど、身近に感じるのは難しい言葉だなと、ベルは思った。

「私もきっとみなさんと同じです。これは例えばですけど、お仕事とかで何か大変なことがあって私が帰って来たとして、そんな私のことをベルさんが笑って出迎えてくれたら、私はとっても元気になれると思うんです。元気になったそのまんまの勢いで、ひたすらベルさんを可愛がり倒しちゃうと思います。こんな感じで」

「っわ!?」

 真剣に話を聞きながら頭を回していたベルの反応は鈍く、ハグという形でシルに全身を包まれてしまった。

「あ、あのぉ!?」

「……貴方のお姉さんたちがこうしたくなる気持ち、わかっちゃいました」

「はいっ!?」

「ベルさん……温かいなあ……」

 二本の細腕がベルを引き寄せ、二人の密着をより強める。心を許している姉たちとはまた異なる温もりが、感情の揺れを誘う。

「あ、の……」

「ベルさんのお姉さんたちが病み付きになっちゃうのもわかります。そりゃ甘えたくもなりますって。なんて難易度が高い弟離れなのでしょうか。あ、だからってベルさんに甘え倒して遊び倒すことを見逃してあげてと言っているわけではないですよ?」

 しかし。

 やっぱり、知っている気がする。この温かさを。

 この温もりに、こんな風に抱かれたことがあった気がする。

「ただ。許して、認めてあげて欲しいです。ベルさんがお姉さんたちに甘えん坊しているみたいに、お姉さんたちがベルさんに甘えん坊しちゃうことを」

 こうなっちゃうと、心情的にはみなさんの味方をしたくなっちゃうなあ。

 笑いながら呟くシルの腕の中で。

 微かに届く香水の香りや柔らかな感触に盛大に慌てながら、ベルはそう感じていた。

「はいおしまいっ。ごめんなさい、勢いでついやっちゃいました」

「あ、うぅ……」

 シルの腕から解放されたベルの頬はそれもう真っ赤っ赤。ベルより年上のお姉さんも似た様な有り様だが、それでもベルを真っ直ぐに見据え、人好きのする笑顔を維持していた。

「ベルさんにもみなさんにも良くない部分がある。そういうのを少しずつでもいいから伝え合えばいいんです。言葉で全てを確かめ合う必要はありません。目を見たって、何気ない仕草一つからだって、わかることがたくさんあるんですから」

「伝え合う……」

「そうしたらみなさんは、今よりもっと素敵な関係になれますよ。きっと」

 鸚鵡返し宛らに呟いたベルの前で、膝を折ったままのシルが意識的にベルと目の高さを合わせながら、白い髪を撫でた。

「ここでベルさんに質問です」

「はい?」

「今日、一人で出掛ける時。ファミリアの皆さんは納得してくれましたか?」

「え?」

「笑顔で送り出してくれましたか?」

「ぁ……」

「貴方のなりたいカッコいい男の子というものは、貴方のことを心配している女の子を困らせてしまうようなことをする男の子なんですか?」

「そ、れ……は……」

「みなさんに会ったら最初にやるべきこと、決まりましたね」

 返答に窮して俯くベルの頭をえいっと強めに一撫でして、シルは作業に戻った。

「さてさてとーっ」

 もうこのお話はお終いですね。

 鼻歌さえ響かせている少女の背中は、そう宣言しているように見えた。

「まだお話しておきたいことはありますか?」

「え?」

「ベルさん、言い足りなさそうだから」

 二人分の皿やフォーク等を用意したり鍋の様子をこまめに確認するシルの姿を黙って見つめていたら、そう言われた。

「女性の輪の中の唯一の男性であるベルさんには色々な苦労もあるでしょう。どんなことでもいいんです。私で良ければ聞かせてください」

 そんな顔してたかな。そんな風に見えちゃうのは自分がお子さまだからなのかな。

 複雑な表情のベルはそんなことを考えてしまい、更に表情を強張らせてしまった。

「無理に何かを言おうとしなくていいんですよ? 慌てず焦らず、自分と向き合ってみてくださいね」

 あくまでベルの判断、ベルの裁量でいいんだと気を回してくれる。

「…………あの……」

 その、自分に寄り添おうとしてくれる優しさに、全力で甘えることにした。

「さっきの話とは違う話なんですけど……聞いてもいいですか?」

「好きなだけどうぞ」

「その……これは……みんなに聞いていいことなのかわからなくて……」

「仲の良い女神様に聞いてもらうのも?」

「あんまりよくないかなって……でも…………誰かに聞いて欲しくて……」

「私で良いんですか?」

「はい……シルさんがいいです……」

 一瞬。ほんの瞬きの間だけ、表情を曇らせたシル。そんな様子に気が付くこともなく、ベルは言葉を続ける。

「その…………みんなが、僕の暮らしてた村まで僕を迎えに来た時、アストレア様やアリーゼさんが言ってたんです。僕のことは、ある人から頼まれたんだって。それは誰? ってその時に聞いたんですけど、僕のことを大切に思っている人、としか答えてくれませんでした」

「ふむふむ」

「だから……えっと…………そのある人って言うのは…………僕の……お父さんとお母さん……なんですかって……」

 そう、聞いてみたくて。

 弱々しく付け足された文言は、厨房のあちこちが立てている環境音にさえ掻き消されそうなくらい、頼りなかった。

「……どうして?」

 どうしてそう思うのか。どうしてそれを聞くことを躊躇うのか。

 シルの一言には、少なくとも二つ以上の意味が込められていた。

「村の外で僕のことを知っている人なんて、他にはいないんじゃないかって思ったから」

 踏み台の上に乗る小さな少年は、変わらず俯いたまま。

「僕、小さい頃からずっとお祖父ちゃんと二人で暮らしてて、ずっと小さな頃にお祖父ちゃんに聞いたことがあるんです。その……」

 どうして僕には、お父さんもお母さんもいないの?

「そうしたら……僕の両親はここじゃない、遠くにいるんだってお祖父ちゃんは答えてくれました。今よりもっと小さい頃はそうなんだって納得してましたけど……でも今は……それってつまり……って考えちゃって……」

 もう二度と会えない所に行ってしまった。

「でももしかしたらお祖父ちゃんが言っていた通りで、僕と離れた何処かで元気で暮らしているのかもって……」

 もしかしたら。まだまだ小さな僕を悲しませないように言葉を選んでくれただけで、今問い直したらもっと明確な答えが返ってくるのかもしれないけれど。

 それでもお祖父ちゃんは、そういうことをまだ僕に言っていないから、もしかして。

「そう考えて……それで……」

 お父さんとお母さんが、僕をここに連れて来てくれたのかな。もしかしたらオラリオで暮らしているのかな。

「でも、だったらどうして……」

 僕を迎えに来てくれないのかな。

「……間違っていたらごめんなさい。ベルさんが一人で探検したかったのは、ご両親を探す為?」

「探検したかったのは本当だから、それだけじゃなかったですけど……」

 頼りない声音と共に、小さな少年は小さく頷いた。

「これ……アストレア様たちに聞いていいと思いますか? みんなのことを困らせたり、嫌な思いをさせたりしちゃいませんか?」

 ようやく顔を上げ、歳上のお姉さんに視線を集めた少年の瞳は、頼りなく揺れていた。

「みんなのこと……傷付けちゃうかな……」

「…………優しいんですね、ベルさんは」

「え?」

 何処が? 何が? ちっともわからない。

「私が適当なこと言って困らせるわけにはいきません。それでも敢えて言うならば、ベルさん自身が迷っているうちは聞かないでおいた方がいいと思います、とだけ」

「……そう……ですか……」

「けれどいつか。聞けたら……知れたらいいですね」

 聞きたいこと、知りたいこと全て。

「…………はい……」

 返事に合わせ、小さく首を縦に振る少年の姿に微笑みを一つ落とすシル。他の誰にも明かせなかった胸の内を受け止めてくれたお姉さんと目を合わせると、きゅっと目が細くなり、ぐいっと口角が上がる瞬間に出会した。

「さて! 気分を変えましょう! ベルさんの指導を受けた自信作が出来上がるんです! もう準備も出来ますよー!」

 殊更に明るく声を張ったシルの動きが一層慌ただしくなる。半人前のベルの目から見ても手際が悪い少女。しかし、一所に懸命を注ぐ様は。

「はは……」

 ずっと浮かない表情ばかりだった少年から、静かな笑みを引き出してくれた。

「そうだ! ねえベルさん! 私のことをさん付けで呼ぶの、やめませんか?」

「へ?」

 鍋の蓋を取り、お玉でゆっくり掻き回して具合を確認しながら、そんなことをシルは言い出した。

「折角仲良くなれたんですから、もう少し違う呼び方がいいなと思ったんです。私の方もベルさんのことはベルさんと呼ばないようにします。お互いにさん付けは禁止ってことで」

「き、きんし!?」

「はい。ありきたりですし、ベルさんはお姉さんたちのことをさん付けで呼んでいるみたいだから、尚更そうしたいなって」

「えと……どうしてですか?」

「その方が特別な感じがして素敵じゃないですか!」

 お玉を手にしたまま、ぐっと拳を丸めてより良い笑顔を浮かべるお姉さんは、不思議とすっごく幼く見えた。その無邪気な様は、大きな声に驚くベルの口角をこっそりと引っ張り上げてくれた。

「ってことで、もっと可愛らしくて特別な感じの呼び方でお願いしますね!」

「わ、わかりました……えっと……うーん……」

 蒸らしていた米の様子を確かめながら、踏み台の上で真剣な眼差しで腕組みを始めた少年の姿に小さな笑いを一つ。そんなシルの様子に気付くことなく、ベルは自分の内へ内へと思考の枝葉を伸ばしていった。

 ちゃん付け? 呼び捨て? 無理無理恥ずかしい。それに歳上のお姉さんに失礼だ。じゃあ、渾名とか? と言ってもどういう風にすればいいんだろう。誰かを渾名で呼んだことなんかなかったから全然勝手がわからない。例えば……し、しーちゃん? るーちゃん、とか? いやいやおかしい! なんかおかしい! これこそ歳上のお姉さんに失礼じゃないか! じゃあじゃあ……僕の母親であるあの女神様と雰囲気が似ているから……お、お母さん……とか? いやいやもっとおかしい! 血を分けてくれた女神様のことも僕を大切にしてくれる女神様のこともお母さんと呼べない僕がシルさんをお母さんって呼ぶだなんて。でもこの人が纏っている雰囲気はお母さんとか呼びたくなるようなそんな感じがしているんだよなあ。でもなあ。

「じゃあじゃあじゃあ……!」

「混乱してますねー」

 揶揄い混じりの響きもベルを素通りして消え果てる中、ベルはいよいよと意を結し、不採用で全然構わない呼称候補をお伝えすることにした。

「た、例えばですけど……その……シル………お姉ちゃ」

「採用ーっ!」

「んぐぅ!?」

 食い気味で叫んだシルが、ベル目掛けて飛び込んできた。柔らかな胸にしこたま顔を打ち付けたことに動揺している間に抱き上げられてしまった小さな体は、羞恥緊張等々で小刻みに震えている。

「想像以上の破壊力っ! ベルさんにお姉ちゃんなんて呼んでもらえるなんて! こういう趣向も悪くないですねー!」

「ち、違うんです! 今のはちょっと言ってみただけなんですっ!」

「照れなくていいじゃないですかー! ほらほら! もう一回呼んでみましょ?」

「や、やです!」

「いいからいいからっ」

「無理ですっ!」

「お願い?」

「はぅわ……!」

 ぎゅっと抱き寄せられると、愉快そうに笑うシルの鼻先とベルの鼻先が触れ合った。

「ダメ……ですか?」

「くぅ……! シ、シルお姉ちゃんっ! これでいいですか!?」

「いいですいいですとってもいいですっ!」

 文字通りの眼前でニッコニコに笑うお姉さんの笑顔を直視出来ず、キョロキョロするベルは半ばやけくそ状態。今直ぐにでもここから逃げ出したくて仕方がなかった。

「じゃあこれからもお姉ちゃん呼びでお願いしますね!」

「む、無理ですーっ!」

「こーら。わがまま言わないのー。お姉ちゃんの命令は絶対なんですよー?」

「僕弟じゃありま……うん?」

「あら?」

 引っ付き合ったまま堂々巡りになりそうなやり取りを続ける二人が、ぴたりと止まった。

「今……なんか変な音しました」

「私も聞こえました。ばきっ! って音でしたよね?」

「はい……うんしょ……!」

 売り場の方からそんな音が聞こえたことを確認し合う二人。緩んだ拘束から抜け出してシルの前に立つベル。物取りの可能性を考え始めた少年の横顔に汗の玉が浮かぶ。

 どうしよう。武器も何もないし、頼れる姉たちだって一人も……。

「っ!」

 ブンブンと首を振って、湧いたばかりの甘えた思考を掻き消す。

 甘えるな。今、シルさんを守れるのは僕しかいないんだ。いつまでも怖がっていないでさっさと顔を上げろっ。

「……見て来ます」

「じゃあ私もご一緒しまーす」

「へ?」

「よいしょっ」

「うわっ!?」

 シルを守らねばと決意と共に彼女の前に立ったベルに絡み付く二本の細腕。前向き前抱っこをされたベルの困惑を他所に、音の発生源へと、軽やかな足取りでシルは足を運んでいく。

「し、シルさん!?」

「大丈夫です。悪い人が来たみたいじゃなさそうですから」

「なんで分かるんですか!?」

「だって、ほら」

「ほらって…………うん?」

 シルに前抱っこされたまま、厨房から売り場に出る。すると。

「あら! 壊れちゃった!」

「な、何をやっているのですか!?」

「鍵閉まってるのに力任せに引っ張るからだよ……」

「後始末もごめんなさいも一旦後回しにしましょ! とにかく今は……って! あー!」

 あまりにも不審でとっても綺麗な侵入者が、三人いた。

「参ったわ! こんな形で見つかってしまうなんて! とりあえずごめんなさい! 直ぐにゴブニュ様の所にお願いして直してもらうから! いやーなんだかとっても羨ましい波動的な何かを感じて居ても立っても居られなくなってしまったの! なんなら外まで聞こえてたんだから! ベルにお姉ちゃんと呼ばれて喜ぶ貴方の声! というか! ずるーい! とってもずるいわ貴方! ベルにお姉ちゃんって呼んでもらえるだなんて! 私たちでさえ呼ばれたことがないのに! それにしてもお久しぶりね! あれ以降全然姿を見ないから心配だったのよ! お元気だったかしら!? えっと……あれ? お名前何さんだったかしら!? 待って! 大丈夫! 秒で思い出すから! えっと……そう! シルちゃん! 違う? 合ってるわよね!?」

「アリーゼ、口を閉じてください。ベルも彼女も困惑しています」

「そりゃそうだよね……」

 勢い良く捲し立てるアリーゼ・ローヴェル。顔面蒼白なリュー・リオン。そして、あまり少年を見ようとしない、アーディ・ヴァルマ。

 侵入者の正体は、ベルが本拠(ホーム)を飛び出すなり速攻で動向を察知し、店外にてベルが出て来るのを待っていた三人の冒険者だった。

「な、なんでみんなが……」

「その……色々と聞きたいことはあるんですけど……アリーゼさん?」

「そう! 私がアリーゼ! 清く正しく美しいに益々磨きが掛かったとっても素敵系女子!」

「そういうのいいんで。それで……その右手で持っているものは、なんです?」

「へ? あ」

 パワフルに毟り取ったというか抉り抜いたというか。扉に使用されている木材が纏めてくっ付いている、店の入り口。その扉のバーハンドルに、その場の全員の視線が集まった。

「なんだい今の音は……メシ作るだけでどうしたらそんな音が……あ?」

「「「「「あ」」」」」

 大きな音を聞き付けて上階から降りて来た女ドワーフの目が、やっぱりアリーゼの右手に向いて、次いで無惨な有様になっている店の扉に向いた。

「……………………はいっ!」

 文字通りの門破りをやらかした珍客は、バーハンドルを持ったままの右手をしゅたっと上げ、破顔した。

「お、お邪魔してますっ!」

 その整った顔に、とんでもない量の汗の玉浮かべながら。

 

* * *

 

「それにしてもびっくり! 冒険者でもないのに全然年取らないわね貴方! 前にも聞いた覚えがあるけど、貴方本当に人間!?」

「ふっふっふー。これでも日々お肌と向き合っている系女子なので」

「わ! ほんと! お肌綺麗ねー! あの『小巨人(デミ・ユミル)』の下で働いていたら恐怖で肌荒れが酷くなってもおかしくな」

「くっちゃべってないで働きな! あんまり舐めた態度見せるようならこの店に一生縫い付けちまうからね!」

「いえすまーむっ!」

 厨房から飛んで来たドワーフの怒号にびくりと飛び跳ね、若葉色のスカートを揺らし、シルの元から慌てて去って行くアリーゼ。

「店の中を走らないでくださいアリーゼ」

「っていうかなんなのこの仕事量……ホールの人数絶対足りてないよ……」

 同じ制服に身を包んだリューとアーディが慌ただしく動きながらもゲンナリと息を吐く。そんな姿さえ酒の肴になるらしく、彼女たちが揃いの格好を強要させられた酒場は、大盛況を見せていた。

「あんたら三人、今晩うちで働きな。拒否権はない。いいね!?」

 アリーゼ、リュー、アーディの三人は、店主のミアより今晩の強制労働を命じられ、ノータイムで頷いた。

 ちなみにアリーゼが破壊したドアは、アリーゼ本人が全力ダッシュし連れて来たゴブニュ・ファミリアの職人たちの手によって既に修繕済みである。職人さんスゲー。

「おいおいこりゃどういうこった!?」

「アストレア・ファミリアの団長たちが店員やってるぞ!?」

「ミアお母ちゃんいいとこ目付けたなあ!」

「アリーゼちゃんお酌してくれー!」

「アーディちゃんこっち座って! 一緒に呑もうよー!」

「疾風ちゃん笑え笑えー! ミア母さんが睨んでるぞー!」

「これなら朝々暮々通うわ!」

 常連も一見も問わない新鮮な熱狂に包まれるホールの只中を揺れ踊るアリーゼは、間断なく襲い掛かる仕事の波にバッチリ飲まれながら、それでも口角を高くして汗を流していた。

「楽しい! とっても楽しいわねこういうの! しかもあのミアのお店で働けるなんて! 私、こういうお仕事向いてるかも!」

「た、楽しいですって……? 息つく暇もないこの激務が……?」

「言っても無駄だよーリオン。完全に変なスイッチ入ってるもんアリーゼ。でも私もアリーゼ寄りだなあ。毎日こんなんじゃ困っちゃうけど、こういうの楽しいなー」

 超楽しんだり苦しんだり楽しんだりと三者三様の反応を見せる揃いの制服を着る三人娘。

 そんな彼女たちを、ニヤニヤと見つめる人物が複数人いた。

「面白いものが見られると聞いてやって来たが、なるほど。こいつは傑作だ。ポンコツエルフのドポンコツっぷりを見てみろ。あの愛想のカケラもない無表情で正しく接客をしているつもりらしい」

「へいへいそこのエルフの店員さんよー。こっち来て注文取っておくれよー。とりあえずスマイルくれスマイルー。数パターン欲しいなー。とりあえず最初は横ピース付きで」

「か、輝夜……ライラ……!」

「リューたちには悪いけれど、確かにこれは面白い光景ね」

 輝夜とライラがリューを弄る横で穏やかに微笑むのは、女神アストレア。彼女が収まる大きな丸卓には、アストレア・ファミリアの団員全員が同席していた。

 勢い良く星屑の庭を飛び出して行ったアリーゼたち三人。しかしなかなか戻って来ない。というか純粋にベルの動向気になる。じゃあもういいやと、お願いされていた買い出しをする体で、全員揃って本拠(ホーム)から飛び出して各々でベルたちの行方を捜索。何やらとても騒がしくしている酒場から耳に馴染んだ声が聞こえて来たので覗いてみたら見事にビンゴ。出先から戻ったばかりのアストレア輝夜ライラの三人までも無理矢理に連れ出して、今に至る。

「それでそれで!? 我らが末っ子は何処で何してるの!?」

「そうですそれですっ!」

「我々はベルを所望しまーす!」

 アスタ、セルティ、ノインがテンション高く声を張る。アスタとノインの飲酒勢はまだしも、エルフのセルティはアルヴの聖水を飲んでいるだけなのだが。

「ベルは厨房に掛かりっきりになっていますのでこちらに顔を出すことはないかと」

「えー!? やだやだぁー!」

「この無愛想な店員さんとチェンジでお願いしまーす!」

「この店でサイカワな子を出せって言ってんの私らは!」

「そうよそうよー!」

「な、なんて迷惑な客……!」

 イスカ、リャーナ、ネーゼ、マリューの順に我を発揮され、しっかりばっちりイラッとしてしまう無愛想なエルフ。揃いも揃って酒を煽るペースが早いらしい。

「わがまま言わないのみんなー。そんなにみたいなら厨房のあたりじーっと見てなよ。ちょろちょろしてるの見えるから。ほら」

「あ! 今通った!」

「みんなとお揃いのエプロンしてるー!」

「可愛いーっ!」

 アーディに促され頭を上げた酔っぱらい連中がひょこっと揺れる白い髪を認めた瞬間、店内が余計に騒がしくなった。

「ひ、ひえぇ……!」

 そんな喧騒など梅雨にも知らないベルは、文字通りにひぃひぃ言いながら厨房を駆け回っていた。出会ったばかりの酒場の従業員たちに可愛い可愛い言われながら皿を洗ったり食材を運んだりゴミを捨てに行ったり。ひとつの作業に忙殺されている間にあれもしろこれもしろとミアより指示が飛んでくるもので、店内にいるらしい姉たちの様子を気に掛けることすら満足に出来ない有様である。

 本来ならばベルだって、アストレア等と共にテーブルを囲んでいるはずだったのだが。

「ぼ、僕も! 何かやります! やらせてくださいっ!」

 求刑よろしく三人の姉が女ドワーフから強制労働を命じられている光景の只中へと踏み入って、姉たちと共に労働力となることをベル自ら志願したのである。

 ミアでさえ、あんたにどうこうしろなんて言わないよと顰めっ面をしている中。

「僕がここへ来ていなければこんなことになっていないんです。それに……ファミリアの誰かの失敗は、ファミリアのみんなでなんとかするのがいいって……そう思うから……その……」

 ベルなりの理由を口にした。

「坊主が望むんならそうすりゃあいいさ。こっちだって遠慮なく使い倒してやるだけさね。直ぐに根を上げたら承知しないからね!」

 ベルらしい、と笑うアリーゼたちの視線を横目にふんすふんすと全身へと気合いを漲らせ、姉たちとお揃い且つ小さめのエプロンを身に付けた。

 そこまではよかったんだけどなあ!? 何これぇ!?

 と、ベルの脳内ベルくんが八つ当たり染みた悲鳴を上げっ放しになるような多忙さに、全身を満たしていた気合いも霧散済み。ただひたすらに厨房を跳ね回る馬車馬と化していた。

「エプロンに着られちゃってるじゃん」

「そんなベルも推せる」

「一生懸命なベルかぁいいなぁ……!」

「涎を拭いてくださいアスタ……」

「で? アーディは、あの張り切り坊やと仲直り出来たの?」

「ま、まだ……」

「言い時逃しちゃダメだぞー?」

「わ、わかってるよっ」

「なーにをお喋りしてるおミャーら! ちゃんと働かニャいとマジで一生ミア母ちゃんの奴隷にさせられちまうニャよ!?」

 一際姦しい丸卓にばかりかまけるアーディたちの背後を、ぴーんと尻尾を立てた怒れる猫、アーニャが通り過ぎた。

「特にそこのエルフ! おミャー、それで真面目にやってるつもりニャ!?」

「私、ですか? 至極真面目に取り組んでいますが? アリーゼの不覚は私たちの不覚でもある。償いはきちんとせねば」

「だったらもっと愛想良くするニャ! 愛想悪い手際悪い態度悪い! 皿も割るし注文も間違えるし客睨むし! それでおミャー真面目にやってるとか! 顔以外いいとこニャいのかニャ!? このエルフは! さてはおミャー、ポンコツニャ!? しかも超が付くほどの!」

「な!? て、手際が悪いのもミスが多いのも認めるところですが、流石に聞き捨てなりません……! 私だってそこまで足を引っ張っては……で、ですよね、みんな?」

「か、顔以外いいとこない……!」

「初対面の猫に言われとる……!」

「ぶっ! くふふ……! い、いいぞそこの猫! もっと言ってやってくれぇ……!」

「お腹痛ぁ……!」

「そのポンコツに厨房仕事はさせちゃダメですよ!? 店の評判ガタ落ちになるの間違いないので!」

「ここは私の味方をする場面では!?」

 みんなぁ!? と半泣き状態のリューはもちろん、アーディ、アリーゼ、そしてベルがぐるんぐると目を回しながらも働くこと数刻。

「み、みんな……」

 閉店時間が近付き、ようやく落ち着いて息が付けるようになった頃合い。頼りのない足取りのベルが、アストレアたちが囲む丸卓に顔を見せた。少し顔を見せてやんなと、ミアからの計らいである。

「ベルー! ベルベルベルベルベルベルぅー!」

「すっかりお疲れだねー」

「ほらほら! あたしの膝の上座って座って!」

「私にお酌してー!」

「み、みんなお酒飲んでる!?」

「こんな機会もなかなかないからと、ついね」

「アストレア様も!?」

「いいからこっち来るのー! ほらほらー抱っこしましょうねベルぅー!」

「セルティさんまで!?」

 アストレアが一緒になって酒を飲んでいるのもそうだし、飲酒に関して一線を引きがちなエルフのセルティまで頬を真っ赤に染めている様は、疲れ切った少年を大いに驚かせた。

「も、もう少しやらなきゃいけないことあるからそういうのは……」

「えー!?」

「ケチー!」

「サービス悪いかよぉー」

「そ、それよりっ! えっと……」

「おろろ? なんだなんだー? 急にモジモジし始めてどし……?」

 居心地悪そうに視線を彷徨わせ始めたベルをいつも通りに揶揄ってやろうと弾み始めたライラの声が途切れた。

「ん」

 ストップと告げる代わりに、ベルから視線を外さぬまま、アストレアが右の掌を掲げたから。

「そ、その……みんな…………しっ! 心配掛けて! ごめんなさい!」

 既にあちこちに大きなシミを作ってしまっているエプロンをぎゅっと握りながら、ベルは卓を囲む全員へ向け、頭を下げた。

「ベル……」

 その様は、裏に表にと慌ただしく駆けずり回り続けているアーディたちにも見えていた。

「もうあんなことしません! 今度から一人でお出掛けしたい時はちゃんとみんなに相談して許してもらってからお出掛けするようにします! それと、えっと……その…………とにかくごめんなさいっ!」

「顔を上げて、ベル」

 穏やかな声音に引っ張ってもらい、重くなっている頭をゆっくり上げると、静かな笑みを浮かべるアストレアが席を立ち、ベルの眼前にまでやって来た。

「多くは聞かない。代わりに一つ聞かせて欲しい。今、貴方がしたいことは何かしら?」

 膝を降り、ベルと目の高さをアストレアが合わせる。衆目を集めることなど気にも留めないアストレアは、ただひたすらにベルの瞳を見つめていた。

「……みんなと……ちゃんと仲直りしたい……」

「だそうよ、みんな?」

「はい仲直りしましょー。はい! 仲直りしました!」

「じゃあこの話おしまーい!」

「え?」

「そもそも仲直りも何もないじゃん」

「誰と誰がケンカしたわけでもないんだし」

「わたしたちはベルのちょっと可愛いわがままが聞けてラッキーくらいに思ってるんだから」

「頑張ってお仕事する姿も見れたものー」

「ま、初めての家出、初めての冒険と言うには味気がないし、次はもっと遠くまでぽーんと行っちゃってもいいかもー」

「オラリオの外に冒険行くとなると流石に相談必須ですけどねー」

「というか、リオンの超絶ポンコツっぷりを見られただけでも大収穫だ。きっかけを産んでくれたお前には感謝をしているくらいだ」

「輝夜の言うとーり!」

 からからと笑う姉たちの様子に、怒られる覚悟まで持って頭を下げたベルは目を点にしてしまった。

「そういうことだから、ベルはもう誰にも頭を下げなくていいの」

「でも」

「それでもまだ何か伝えたいと言うのなら、今度はちゃんとお話をしましょう。ベルにもみんなにも、言いたいこと、聞きたいこと、たくさんあるはずだから」

「アストレア様……」

「慌てなくて大丈夫。少しずつ伝え合って、少しずつ分かち合って、みんなで一緒に大きくなっていきましょうね」

「…………はいっ!」

 ようやく肩の力が抜けたのか、年相応の愛らしい笑顔を見せたベルが頷く。ふわりと揺れた白髪をアストレアが撫でるも、ベルは嫌な顔を見せるどころか、嬉しそうにすらして受け入れていた。

「あ。でもでも……」

「何かしら?」

「アーディさんとは……あとでお話しします……」

「そう……なら、頑張ってね?」

「はいっ……!」

 すすっとアストレアに近寄って、内緒話のトーンでこれからの予定を打ち明けた。緊張こそ滲み出ているが、悲嘆な色はない。

 二人はきっと、大丈夫。

 確信と共にベルの頭をもう一撫でして、アストレアは椅子に座り直した。

「邪魔するよ」

「あ! 『小巨人(デミ・ユミル)』だ!」

「その名前で呼ぶんじゃないよ」

 すっかり出来上がっているイスカへ鬱陶しそうに返しながら、店のオーナーたるドワーフがアストレアたちが囲む丸卓へとやって来た。

「保護者連中がいるならちょうど良い。坊主」

「はいっ」

「極々私的なものであるんだが、あんたに一つ頼みが……いや。冒険者依頼(クエスト)を頼みたい」

「くえすと?」

「ミ、ミアお母さん!?」

 ベルが首を傾げる側で、ミアの背後を通りすがったシルが何故か慌てふためいているが、そんなの何処吹く風のミアは変わらずベルを見据えたまま。

「くえすとって、みんながいつもやってる冒険者の……?」

「そう、それだよそれ」

「……僕に?」

「あんたに」

「…………うえぇえぇぇえぇ!?」

「驚いてるとこ悪いけど、アタシからの依頼は冒険なんて微塵もする必要のない依頼さ」

「は、はぇ?」

「時々でいい、この馬鹿娘の料理の面倒を見てやって欲しいんだ」

「ふべっ」

 直ぐ後ろをちょろちょろしていたシルの頭にミアが大きな手を乗せた途端、シルの喉から嫌な感じの音が飛び出した。

「それで、そのまま店の手伝いをしておくれ。もちろん報酬は都度支払う」

「報酬?」

「簡単に言えば、給料ってヤツさ。それくらい知ってるだろ?」

「し、知ってます……けど…………どうして僕なんですか?」

「アタシは店のことだけで手一杯。少ない休憩時間にこれの作る奇抜な料理になんて付き合ってもいられない。そもそもアタシにはこいつの料理のダメさと感性が理解出来ないから指南も何もあったものじゃない。まあその辺の理解が難しいのはあんたも同じだろうけど」

「あ、それははい」

「ちょっとー!?」

 頭を掴まれたままシルが叫ぶが、実際仰る通りなんだから仕方がない。

 三人の闖入者の騒動で忘れそうになっていたシル手製のミネストローネを、緊張の面持ちを浮かべるシルの前で食べた際のベルの第一声は。

「あ、あれ……?」

 不味くはない。ちゃんと食べられる。けれど何かがおかしい。寧ろおかしいしかない。味がしない。というかちょっと変な臭いさえ漂っている。行程の一から十まで見ていたベルとしてはかなり美味しくなっているだろうと思っていたのに。何処で何を間違えたのか。それともベルが見ていぬ間に何かやらかしをしていたのか。わからない。何がどうしたらあんな風になってしまうのか。

「期待させちまって悪いけど、頼まれてくれないか? 何せ、この馬鹿娘はアタシの言うことなんて聞きやしないんだ」

「えへへー」

「褒めてないよ。毎日来いなんて言わない。あんたの都合で来たらいい。ま、社会勉強の一環ってことで気楽に引き受けておくれ。もちろんあんたさえ良ければだが。どうだい?」

「え、っと……っ……!」

 自然とアストレアたちの顔色を伺おうとして瞳が揺れかけたことに気が付いたベルは、ぐっと目元に力を入れて踏ん張った。

 これは僕の問題だ。僕を見込んでくれたとはなんか違う気がするけれど、ミアさんが僕を頼ってくれた事実は揺るがない。みんなの意見を聞くよりも、自分の気持ちに目を向けていいと思うんだ。

 シルの不思議な料理の謎。

 それを解明したいと思ったのは嘘じゃない。

 シルの掲げた純粋な目標。

 その為に腕前の向上に励む彼女の力になりたい。そう思ったのもまた本当。

 だったら。

「…………やります。僕で良ければ、やらせてくださいっ」

「決まりだ」

「おおー!」

「なんだか愉快なことになって来たねー!」

「ベルくん初めての家出編が初めての冒険者依頼(クエスト)編に繋がったー!」

 ニッと笑うミア。嬉し恥ずかしを隠せないベル。そんなベルを見てわーっと盛り上がる少女たち。

「お節介な人ばかりだなあ……」

 揃いも揃ってポジティブな色を浮かべる面々の表情を伺っていたシルが、ほんのりと頬を朱く染めながら、そう呟いた。

「あら? 貴方……は……」

 そんなシルを見て、どうしてか、アストレアが目を丸くした。

「……どうかしましたか、女神様?」

 そんなアストレアに気が付いたのか、少し躊躇いがちに、アストレアと目線を重ねるシル。いい具合に出来上がっているアストレアの子供たちが首を傾げている中。唯一ミアだけは、少しも顔色を変えていなかった。

「…………いえ……なんでもないの。とっても素敵なお店ね」

「ありがとうございます、女神様」

 アストレアが破顔して、シルも後に続いた。

「?」

 ベルの目には、彼女たち二人がとっても親しげに笑い合っているように見えた。知り合いとかお友達って風には見えないんだけどなあ。

「なんだか私の望んでない方向に事が進んでいる気がしますけど……そういうことになっちゃったならっ!」

「ほぇ!?」

 アストレア様とシルさんどうしちゃったのかなとぼんやり考え込んでいると突如、謎の浮遊感がベルを襲った。

「遠慮なく、彼をお借りさせていただきますね!」

「シ、シルさん!?」

「むぅ……!」

「イ、イチャイチャしとる……!」

「ズルい、ズルくない?」

 思いっきりベルを抱き締めるシルと、驚きながらも満更でもなさそうなベルを見てや謎の唸り声を上げたり怒ったりなんだりかんだりと忙しい姉連中。

「んふふ……こーら。私のことはなんて呼ぶんでしたっけー?」

 そんな姉たちへ向け悪戯そうな笑みを一つ寄越して、シルはわざとらしく声を張った。

「へ? や、さっきのはもう忘れて欲しいと言うか」

「言ってくれるまで放しませんっ」

「ぅえ!?」

「聞こえませーん」

「ちょっとシルさん!」

「聞ーこーえーまーせーんー」

「………………シル……お姉ちゃん……」

「はーい! なんでしょうかー!?」

「ぐみゅ!?」

「いますよいますよー! 貴方のお姉ちゃんは! ここにいますよーっ!」

 ぐいっと身体を引き寄せられたベルの顔はシルの胸元へ一直線。

「な!?」

「お、お姉ちゃんだとぉー!?」

「わたしたちが今日まで越えられなかった壁を既に越えている!?」

「私らだってお姉ちゃんなんて呼ばれたことないのにーっ!」

「なんなのあの子の姉ポテンシャルは!?」

「姉ポテンシャルってなんだよ……」

「ずるい! ずるいずるいずるーいっ!」

「ちょっと見ないうちにまーた変なの目付けられてんのかよーベルー」

「変なのってなんですか!?」

「わかるわ! とっても変でとってもズルいのよシルちゃんってば! でも可愛いから許しちゃう!」

「混ざっていないで真面目に仕事をしてくださいアリーゼ……」

「おミャーこそ真面目に仕事しろニャ! このポポポポポポポンコツエルフ!」

「だから私はポンコツではないと言っている! 何度ポと言うのですか!? アーニャと言いましたね!? 貴方こそ私にどうこう言えるほどの仕事をしていないではないですか!」

「ニャにをー!?」

「不思議と貴方とは長い付き合いになる気がしてならない。今のうちに汚名を晴らして」

「ごちゃごちゃくっちゃべってないで仕事しな馬鹿娘共ぉ!」

「うニャ!?」

「ぐぅっ……! わ、私は貴方の娘じゃ……うぅ……!」

「な、殴られとる……! あの猫共々殴られとる……!」

「あ! 泣いた! 泣いてるぞあのポンコツ!」

「泣いてなどいない! これは、その……な、泣いてないからっ!」

「これはしばらく通うことになりそうね」

「なーんで従業員が一緒になって楽しんじゃってるかなあ……」

 呆れるような羨ましいような響きが混じったアリーゼの独り言も、丸卓が産み出すどんちゃん騒ぎに飲まれて消えて行く。

「なんだか大騒ぎになっちゃいましたけど、これから何度もみなさんでいらしてください! 私たち、きっと仲良くなれると思うんです!」

 その真ん中にいる、変なの呼ばわりされた少女、シル・フローヴァが笑う。

「ね?」

「ん……!」

 その少女に抱かれる少年は、それは確かにそうだなあと、シルの胸の中で小さく頷いた。

 この夜。

 姉ンジャーズが記した、要注意人物リストのトップティア。女神フレイヤだけだったその隣に、ライラ曰く変なのこと、シル・フローヴァの名が刻まれたのだった。

 

* * *

 

「あらまー」

「まーた羨ましいことしてるー」

「やってんねぇこやつら」

「この感じ、仲直りの仕方も不器用だったんだろうなあ」

「少しの間に大人っぽくなって来たと思ったらこれだもんなあ」

「可愛いねえ可愛いねぇ」

「にしてもやっぱ落ち着くなあ、こいつらのこの距離感」

「見慣れ過ぎちゃってこっちの目も毒されてるまである」

「ってか二人とも私らに気付きもしないじゃん」

「疲れてるんでしょうねぇ」

「私たちだって負けじと疲れているだろう」

「笑い疲れだろ?」

「それ」

「まだ横っ腹痛いわあ」

「色々あったけど、楽しい一日だったなあ……」

 背の低いライラとアスタを先頭に、疲労困憊でとっくにバタンキュー済みのアリーゼとリューを除いた姉たちの笑顔が後に続く。

「ごめんなさいといいよでも、ごめんなさいとごめんなさいでもない、二人だけの仲直り。長い付き合いになる二人なんだから、そういうのを育てていけたらいい。今日は、二人がその一歩を踏み出した、大切な日になったわね」

 子供たちの背後で静かに微笑むアストレア。そんな母の言葉を受け、輝夜が振り返った。

「まるで、恋仲の二人を見ているような言い方をなさるのですね、アストレア様は」

「特別な二人であることは間違いないから。貴方たち一人一人がベルとアーディと特別な関係であるように、アーディとベルも。それだけのこと」

「なるほど。道理です」

「ふふ……」

 満足そうに頷きを一つ返した輝夜の髪を撫で、入り口を開け放ったままになっているアーディの部屋の中へともう一度目を向ける。

 アストレアたちの笑顔の先では、一人の少年と一人の少女が、ぴたりと寄り添って寝息を立てていた。

 青い髪の少女の膝の上に収まり、少女の胸を枕にして静かに寝息を立てる白い少年。口元にはきらりと涎が光っている。

 そんな白い少年の体の前に回された少女の両腕は、この子を離すもんかと主張するみたいにがっちり、しかし優しく、少年を抱いている。少女の手には、少年のお気に入り。とある『愚物』の生涯が記してある一冊の本が開かれたままになっている。共に読んでいる最中に寝落ちしてしまったのだろう。

 恋仲の二人と言うには遠いように見えるけれど、なるほど確かに、特別な二人には見えよう光景だ。

「イタズラの一つもしてやりたいけど、ここは素直に戻りますかー」

「ですね」

「おやすみ二人共ー」

「ゆっくり休めよー」

「つーか、誰か飲み直さないー?」

「まだ飲むんですか……?」

「飲みながらシル・フローヴァちゃん対策会議しよーよ」

「私も参加します」

「あっさり釣られるセルティ可愛いかよー」

「あの子手強そうだもんなあ。色んな意味で」

「ベルのお姉ちゃんを名乗る不審者許せない……!」

「不審者て」

「私も乗った」

「付き合うー」

「私も私もー」

「たまにはこんな日があってもいいかあ」

「今日はテメーらを寝かさないぜっ」

「何処のおっさんのセリフだよ」

「あはは……!」

 控えめに、しかしからからと笑う娘たちを先に行かせて。

「おやすみなさいアーディ。ベル。どうか素敵な夢を」

 静かに寄り添う二人に微笑みを残して。少女たちの母親は、二人の世界に要らぬ罅を入れてしまうよう、努めて優しく扉を閉めた。

 

* * *

 

 バベルの最上階。

 室内には選りすぐられた調度品が並ぶ。この部屋の主の拘りなのか、絶対数そのものは決して多くなく、広い室内を持て余し気味にも見える。

「振り回されてばかりね」

 そんな部屋の主。ワイングラスを指に掛けている女神フレイヤは、硝子越しに巨大な長方形に切り取られた空を眺めながら、静かな呟きを落とした。

「フレイヤ様?」

 その呟きを掬い上げたのは、彼女の背後に控える侍従頭、ヘルン。

「今日はミア。当今はアリーゼ・ローヴェル。アストレアもそう。あの子……ベルもその一人と言えるわね。好き放題に私のペースを掻き乱し振り回し笑っている。行動の舵取をこうも他の誰かに許してしまうだなんて。私の気が緩んでいるのか、私が気を良くしているのか……」

 私が気を許してしまっているのか。

 その言葉は言葉の形にならず、フレイヤの口腔内から溶けて流れていった。

「特にミア。本当に好き放題やってくれた。こうも見事に私の望まない展開に持っていくとはね。ミアったら、いちいち私を見てニヤニヤしちゃって……はあ……」

「…………」

「納得いかない部分は大いにあるけれど、ここまでお膳立てをされたのに無碍にしては人の道ならぬ神の道にもとるというもの。乗せられてあげようじゃない。しかし……どうしてやり返してくれましょうか……」

 硝子に映る笑みは攻撃的ながら、威圧感は然程も無く。賭け事、遊戯等々に自身を賭して望む勝負師のそれ、とでも言えばいいだろうか。

「…………」

 少なくとも、ヘルンの闇色の瞳にはそう映っていた。

「……ヘルン」

「はい」

「今の私はお気に召さないかしら?」

「……と、申されますと?」

「すっかりその気になって母親染みたことをしている私が。何も知らない生娘のように振る舞う私がお気に召さないかと、そう聞いているの」

 驚きに目を見開くヘルンとフレイヤの視線が、硝子を介して重なった。

「貴方は私に絶対を求める? 至高の全知全能を求める? 私に崇高な女神であれと言う?」

「……それは……」

「いい。貴方は何も間違っていない。間違っているのは私。そんなことはわかっているから」

 身体が震える。静かに広がっていく恐怖に侵され芯から冷えていく。フレイヤの声音が優しく柔らかくもあることが、余計に心胆を寒からしめる。

「貴方の献身。忠誠。愛。どれも疑うべくもない。だからこそ私は、あの子がどういう存在であるかを。あの子の数年後、その可能性を貴方に伝えた」

「……アルと名乗った少年、ですね」

「ええ」

 数ヶ月前。

 女神アストレアとその子供たち。そしてベル・クラネルが戦いの戦いの野(フォールクヴァング)を訪れた際。フレイヤとアストレア、二人きりの時間があった。

 フレイヤは、その場でアストレアから伝え聞いた内容、その全てをヘルンへと伝えている。言ってしまえば、派閥内でもヘルンにだけ伝えたのだ。

 アルと名乗った少年とベル・クラネルの関係。アルが未来からやって来て、本来ならば天へと昇っていたであろう多くの魂を救い出したこと。五年後、アルという少年に気をやってしまったらしいフレイヤが暴君めいたことをしでかしたらしいことも、とにかく全て。

 派閥内に於いてとても特殊な立ち位置と言っていい。単なる侍従の領分を遥かに越えている栄誉に満ちた役割が、ヘルンには与えられている。

 その役割を正しく果たす為にも情報の共有は必須であった。ただでさえフレイヤの感覚や感情はヘルンへとフィードバックされていくのだ。情報の方だけ置き去りにしては何時何処でどのような齟齬が発生するかもわかったものではないという、フレイヤの判断だ。

「やはり、俄かには信じ難い話です。ベル・クラネルを見れば見るほど……」

「そうね」

 ヘルンの困惑は当然であり、その当惑にフレイヤも理解を示した。

「アルとベルでは前提がまるで違う。故に絶対なことはない。アルが辿った道をベルが歩むことも恐らくない。けれどそれは些事。私の目を奪ったのは、アルではない。あの子だもの。けれど……そうね……」

 ワイングラスをナイトテーブルに置いたばかりの指先が、ここには存在しない何かを求めるよう、何もない空間をきゅっと掴んだ。

「会ってみたかったわね。アルに」

 切なげで、儚げで。

 硝子の中で佇むフレイヤは、彼女の背中に長く付いているヘルンも知らなかった表情だった。

「…………質問の答えをまだもらっていなかったわね。聞かせてくれる?」

「…………恐れながら」

 先刻、確かに感じた恐怖に抗うよう腹に力を込め、ヘルンは思うままを口にした。

「危うさを……感じております」

「危うさ……ね」

「しかし、それをどう具体的に言葉にしたのか自分でも分かりかねております」

「そう」

「それでも…………その……」

「言い掛けたのなら最後まで言いなさい」

「…………今のフレイヤ様は……これまで以上に素敵だと……そう感じております……」

「…………」

 ヘルンの答えは、フレイヤの想定の遥か外であった。

 崇高、熱狂的なんて域を遥かに逸脱した彼女の崇敬は、フレイヤがフレイヤであることを放棄してしまうことを飲み下せはしないし、黙って見逃すことも許すこともないだろう。それほどまでの情念が、ヘルンの黒く澄んだ瞳の奥で迸っている。

 そんなヘルンが、ヘルンのお気に召さないフレイヤに寄りつつあるフレイヤを、素敵だと言った。

「……変わったわね、貴方」

 フレイヤを想い、フレイヤの為だけに自分は存在しているとまで豪語する少女が。フレイヤをフレイヤではない何かに変貌させかねない可能性に揺れる今のフレイヤを見て、素敵だと、そう言ったのだ。

「そうでしょうか?」

「私を疑うの?」

「そ、それは……!」

「もっと楽に構えなさい。そうも逐一怯えられたら私が貴方を虐めているみたいじゃない」

「申し訳ございません……」

 背筋を伸ばしたまま下げた頭の中。

 私が変わったというが、それはきっと、少しだけ正しくない。

 変わりつつあるのは、私ではなくて。

 瞑目しながら、ヘルンはそう考えた。

「……ヘルン」

「はい」

 フレイヤの手招きに応じ、ヘルンはフレイヤの前で膝を付いた。

「っ……!」

「怯えないでと言っているでしょう」

 無理だ。怯えるに決まっている。

 怯えないでと軽口混じりで言われたことも。こんな風に、両の頬をフレイヤの両手で包まれたことも、ヘルンには経験がなかったのだから。

「貴方の危惧の中身は粗方理解出来る。しかしどうにも実感は得られない。けれどね? ふと振り返ると、私自身が私の行動や選択を理解出来ていない瞬間が増えていると気が付くの。これもきっと、貴方の危惧と因果を結んでいる事象なのでしょう」

「…………」

「全部、あの子と出会ってから」

 フレイヤがベル・クラネルに抱いている感情は、ここではない何処かに生きるフレイヤがアルと呼ばれた少年に向けていたであろうものとは違う。

 アルとフレイヤの関係性は存じる所ではないが、少なくともベルとフレイヤの関係値とは絶対的に違う、もっともっと七面倒でありふれている男と女のそれなのだろうということだけは、確信を持って断言することがヘルンには出来た。

 戦争遊戯(ウォーゲーム)をしてまでアルを求め、アルに求めた何かが、今のほんわかとした関係値に近しいものだとはどうしても思えないのだ。

「それが変化だと言うのなら、それはきっと私では把握しきれない。けれど、貴方なら把握出来る。私の内側に触れられる貴方なら」

「……御身の為に、私に何が出来ますでしょうか?」

「貴方の危惧や想像を私が逸脱しそうになったなら、それを私に伝えて欲しい。嗜めて欲しい。怒って欲しいの」

「お、怒る……ですか……」

「最後のは冗談。けれど前二つは本当。誰よりも早く、私にさえ知覚できない私の変化に気が付けるのは貴方だけ。貴方に頼るしかないの」

「……どうして、そこまで拘られるのですか?」

「アルの世界の私がしたらしいような暴君宛らな振る舞いを、あの子の前でしたくない」

「…………」

「あの能天気に見えるくらい純真な幼い笑顔を、曇らせてしまいたくないの」

「…………身命を賭して、貴方様のお力に……」

「ありがとう」

 ヘルンの頬を挟んだまま、フレイヤは微笑んだ。

 一瞬。ほんの一瞬だけヘルンは、侍従の関係を忘れて物を言った。

 同時に、頭に浮かんだ言葉をたくさんたくさん飲み込んだ。

 フレイヤ様。

 貴方が仰られた言葉全てが。

 正しく母と呼べるだろう慈愛に満ちた眼差しも。

 あの少年に向けるものと変わらぬ無垢な笑顔を私へ向けてくれることさえも。

 貴方様の変化の兆し、そして証なのです。

 今は飲み込むしかない。劇薬になるなどと考えたわけではない。

 叶うならば。

 いつか、正しく伝えたい。

 願うならば。

 いつか、そんな気付きに恵まれて欲しい。

「ところで」

「は、いっ……?」

 添えているだけだったフレイヤの両手にぐっと力が込められて、ヘルンの頬の形が変わった。

「貴方、あの子と会う時、もう少し愛想良くなさい。あの子が貴方に怯えていることも、それでも貴方を好ましく思っていることも理解しているのでしょう? あの子、そういうの全て顔に出るものね」

「は、はひ……ほうしわけあひまへん……」

「ちょっと笑ってごらんなさい」

「へ? ひゃ、あにょ」

「いいから」

「…………」

 フレイヤの両手から解放されたヘルンが、努めて口角を高く、らしくなるよう笑顔を作ってみせたが、フレイヤのお眼鏡には適わなかったらしい。渋い表情のままであることがその証左だろう。

「表情が硬い。もっとここを、こうっ……!」

「ふ、ぅ……!」

「それにしても……あの子の両親、ね……」

 えっ? この流れで普通に雑談始めるの?

「……ひょ、ひょうしゃのほぅ、ひははひらひまひょう?」

 そう思いながらも、しかしそこは女神の付き人の面目躍如。この場にベルやヘイズがいたら大盛り上がりしそうな変顔を披露するヘルンは、調査の方如何致しましょうと、主へと問い掛けた。

「気にはなるけれど、あの子自身が迷っている今、私たちが躍起になっても仕方がない。私たちは静観していましょう」

「かひこまひまひら」

「それに。もしかしたら、あの子がオラリオへ到着する以前から」

「ほひ?」

「何処かの男神が、とっくに調べ上げているかもしれないし」

 自身の眷属の頬をおもちゃにしながら、美の女神は静かに微笑んだ。

 

* * *

 

「へっくち! んぐぅ…………おっとおっとぉー? こりゃあどっかの美人さんが俺の噂をしているなあ?」

 ずびすばと鼻を啜りながら、橙黄色の髪を夜風に弄ばれている男神、ヘルメスは笑った。

「鼻垂らしながら何言っているんですか」

「アスフィさんお鼻拭いてー」

「わかりましたそんな仕事二度と押し付ける必然がなくなるよう元凶たるその鼻を擦り潰して」

「うそうそ、嘘ですよーアスフィさーん? だから両手をぐーに構えるのやめようねー?」

「まったく……」

 疲労ではなく呆れの色を浮かべながら嘆声を落とすアスフィ。

 アスフィとヘルメスは、とある少年からの依頼を受け、小さな村へ一通の手紙を届ける旅中にあった。

 現在は小さな宿場にて休憩の真っ最中。今夜は暖かく過ごし易いし、このまま夜通し行軍するのもありだなあ、と睨んでの早めの休憩だ。

「んで、何かあったのか?」

「今し方、此処より西から来たと言う商人から聞いた情報です。ヘルメス様が同行を気にされていたファミリアが、オラリオへ向かっているそうです」

「……確かか?」

「補給と休息を兼ねてオラリオで宿を取ると団員の一人が言っていたそうです。つい数時間前に聞いた話だと言っていたので、我々が戻る頃には既に到着しているかと」

「だろうな。なんなら、アスフィの想定よりずっと速いかもしれないな」

「彼の派閥の機動力は目を見張るものがありますからね」

 アスフィの言う、派閥。

 その派閥は主神たる女神以下、団員全てが女性のファミリア。多くのファミリアとは異なり定住地を持たず、モンスターを狩猟せんと春夏秋冬東奔西走。

 それ故に、彼のファミリアの動向を掴むのは非常に困難でもあった。故にヘルメスは、彼女のファミリアを気に掛けておくよう以前よりアスフィに言い含めていた。

 その話をアスフィへしたのはほんの数ヶ月前。ベル・クラネルとヘルメスアスフィの二人が、初めて顔を合わせたその日である。

「ふむふむ……そういえば、俺らがオラリオへ戻ったら割と直ぐに祭りがあったよな?」

「神月祭ですか? 例年通りならそのはずですが。それが何か?」

「……何の因果かなあ……」

 そう呟きながら、背中を任せていたベンチから身体を起こして伸びを一つ。このままここで一泊も全然アリだしなあと揺れていた思考は、既に指針を定めていた。

「悪いアスフィ。やっぱりこのまま進もう。なるべく早くオラリオへ戻りたい理由が出来た」

「また徹夜コースですか……もうやだぁ……」

「なーに! オラリオへ戻ったら元気の出る料理と心の籠ったマッサージをベルくんにお願いしたらいいじゃないかー!」

「そもそもそういう無理を強いるなと言っているんです。他派閥であるベルに慰労を任せようとする根性どうにかしてください本当に……」

「ン億年これで神やってるんだから今更どうにかなるのは無理かなっ! はっはっはー!」

「……で? 以前から彼のファミリアの動向を気にされておりましたよね? 消極的でいいから情報集めをしてくれと。いい加減、その理由くらい教えてくれていいのでは?」

「ん? あー理由。理由ね」

 真青に染まった下界の屋根に浮かぶ無数の小さな灯りに、ヘルメスは瞳を向けた。

「……知っちゃったなら、知らんぷりはしたくないと思うんだよ、俺だってね」

「はい?」

「泣いている女の子をヒロイックに救うのもいいけれど、そもそも泣かせないで済むのならそれもいい。こんな時代だ。悲劇のヒロインなんていない方がいいに決まってる。そうだろう?」

「わかるように言ってもらっていいですか?」

「それに、子供に全部背負わさせちゃ、親失格だろう」

「全てを話すつもりはないのは理解しました」

「さっすがアスフィさん! 話わかるぅー!」

「わからないのに話わかると言われても……はあ……貴方のはちゃめちゃにも結構慣らされてしまった自分が嫌になります……」

「悪いな、何時も」

「程々でお願いします、何事も」

「それは無理かなあ」

「本当……困った人……」

 ヘルメスと同じく夜の闇に瞳を預けたアスフィの溜息混じりの呟きは、存外に暖かな響きを孕んでいた。

「さて……」

 一人と一柱が眺める数多の輝きの中。

「どうするかなあ……」

 ヘルメスたちを煌々と照らす三日月は、男神の呟きに答えを返さず、静かに佇んでいた。

 

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