彼は誰の夢   作:く ろあり

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本作品は他サイトにてあーだこーだ。

仕事。モンハン。腰の負傷。飲み会。家庭内のトラブル。モンハン。仕事仕事仕事モン仕事仕事ハン仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事

この辺りに忙殺されてしまいましたが新たな命を得たので投稿します。三月中に投稿するを小目標としていたのでここ書きながらニコニコしていたりする。

一文字も書き進められない日が長く続いて半端じゃないストレスでしたがそれももう終わり、なはず。とはいえ、気張り過ぎない程度のマイペースで今後もやっていきますのでご理解のほどをば。




約束

「ベルとアルテミスのことを、追わないで欲しいの」

 心ここにあらずなのはほぼ間違いないだろうが。神月祭を翌日に控え、豊穣の女主人の手伝いでてんてこ舞いになっているベルを除いた団員全員が集う前で、少女たちの女神は静かに、願いを口にした。

「追うなと言われましても……」

「そもそも謎の女神様とベルの二人きりを認めていないというか認めたくないというか……」

「ベルは了承してましたけど、私たちが了承するわけにはいかないかなーって」

「私情は当然ありますけど、ベルが言うにはこれまで一切の面識がない女神様だって話じゃないですか。それがいきなりデートとか、怪しいなんてものじゃないです」

「アルテミス様が邪に寄った女神様ではないことは存じているのですが……」

「アルテミス様がそこらの冒険者に見劣りしなような実力を持っているのは知ってるけど、それでも不安が勝っちゃうからどうにもなあ……」

「アタシは肯定派。ベルが女遊びの一つでも覚えるキッカケになるなら別に」

「ライラ?」

「来ると思ったよ! 直ぐ睨むじゃんアーディ! 怖いわ!」

「だったら言わなきゃいいのに……」

「アーディたちが過保護になるのもわかるけど、お誘いを受けたベル自身が頷いて成立したデートなんだからアタシらがでしゃばるのは違うんじゃねーのって言いてーのよアタシは。それとも何か? これからずっと、ベルに擦り寄って来る連中には監視だなんだってするつもりか? それ、ベルの為にならなくね?」

「かもだけどぉ……」

「団長。貴方はどう思う?」

「ベルの判断が最優先! ベルがデートをしてみたいと言うのなら望むようにして欲しい! けれど…………アストレア様。やっぱり監視は付けたいです」

「アリーゼ……」

「あまりにも急で、あまりにも不安な要素が多い感じがします。そうでなくともベルはあちこちから目を付けられつつある存在です。一部の者たちにはベルとフレイヤ様がとっても仲良しなことまで広まりつつあるみたいですし、今はまだ何の動きもありませんけど、歓楽街の方面から既に目を付けられている可能性はとても高いと思っています」

「どっかの美の女神様を筆頭に、あっち方面にはフレイヤ様を目の敵にしている神様が多いからなあ……」

「オラリオに属してはいませんけど、アルテミス様も何かと有名なお方です。それを考えると、水を差さずにはいられません」

 子供たちそれぞれの意見を受けたアストレアは瞑目し、考え込む素振りを見せた。産まれたての空白に少女たちが迎合する中。

「リュー。貴方はどう思う?」

 女神アルテミスと直接コンタクトを取ったエルフ。一人静かに目を伏せていたリューへ、全員の視線を誘導した。

「私は…………アストレア様に賛同致します」

「邪魔はもちろん護衛もいらない。そういうことでいいの、リオン?」

「はい」

「どうして?」

 リオンならきっと、ベルを警護する方向。なんならその一番手に名乗りを挙げるんじゃないかと、アリーゼは考えていた。

 ベル本人は隠せているつもりだろうが、姉たち全員が。なんだったらリュー本人さえ理解している。

 ベルが一番懐き頼りにしているのは、リュー・リオン。あの末っ子がオラリオへ足を踏み入れた時から今日までそれは変わらない。

 不思議なもので、そうなることが自然で、寧ろそうあるべきだくらいに少女たち全員が思っている。しかしそれは言語化されることなく、各人の胸に秘されたまま。

 そんなリューだから。

 アリーゼは、そう思っていたのだけど。

「上手く表現出来ないのですが……あの二人に……触れ合って欲しいと……そう感じるのです……」

「理由、言葉に出来る?」

「難しいです……本当に感覚的なことで……しかし強く思うのです……このままあの二人を離れさせてはいけないと……」

「直感の域を越えた何か。神々の言葉で言うところの、えすぱー的なヤツかもしれないわね」

 ふわりとした物言いを肯定するようにアリーゼが補足しても、団員の誰もが曖昧な表情のまま。

「それはわかりませんが……この感覚を無視してはいけないと思えてならない」

「どうして?」

「似ているのです。私たち全員が抱いている、あの感覚に」

「ああ、そういう話か」

 何かが腑に落ちたかのように輝夜が目を細め、窓の外に目を向けた。

 少女たちは皆一様に、謎の感覚に振り回されて生きている。答えの見えないその謎を共有してすらいる。

 わからないなりに努めて正確に表現しようとするのならば、謎だけど謎ではない。と言えるだろうか。

 名前も姿も思い出せない一人の少年の手によって、命を救われた。

 わからないことだらけなのに、その事実だけは漠然と覚えている。

 その感覚に近いのだと、リューはそう言っている。

「包み隠さずに言えば」

 各々が各々の内側に意識を向けている様を見渡して、アストレアが口を開いた。

「アーディとベルが私たちと家族になってくれて初めて迎える大きなお祭り。私も楽しみにしていたの。とってもね」

「でしたら」

「けれど私にはもう、アルテミスの邪魔をすることは出来ない。私もリューと似たようなものを感じてしまったから」

「何をでしょうか?」

「アルテミスにとってのベルは、私たちにとっての彼のような存在かもしれないと」

 ごめんなさい。

 真実を語れないことを内心でしか謝罪出来ない歯痒さに耐えながら、それでもアストレアは表情を曇らせず、澱みなく言葉を重ねる。

「詳しいことは私にもわからない。ベルの前世とアルテミスに深い縁があったとか、本当にそれくらい途方もなくて、私たちが正しく識ることも出来ず、アルテミスとベル以外の誰かが理解してあげることすら難しい話だと思っているの。けれど、アルテミスが感じたことを聞き出そうとは思わない」

「どうしてです?」

「これは完全に勘なのだけど…………もしかしたらアルテミスとベルは、私たちと彼ともまた違う、とってもロマンティックな何かを共有していたのかもしれない。アルテミスの横顔を眺めていて、そう感じたの」

 だとしたら、野暮でしょう?

 付け足された囁きは、暖かな響きを纏っていた。

「確かに……ベルを見つめるアルテミス様のご様子は……なんとも名称し難いものがありました……」

「色恋の機微に疎いなんてもんじゃないポンコツにそう言わせるんだから、的外れとも言えそうにないなあ」

「誰がポン……もういいです話を続けましょう……」

「明後日にはオラリオを離れてしまうアルテミスには明日しかない。この機を逃したらアルテミスとベルはただの顔見知りで終わってしまう。そんなの寂し過ぎる。名前も思い出せない彼と私たちが確かに繋がっているみたいに、アルテミスとベルだって、互いにもわからないような繋がりで結ばれていると思いたい。そんな繋がりを、どうしても途切れさせたくない。二人にだって私たちにだって、わからないなりに大切にすることは出来るでしょう?」

「アストレア様……」

「ここまで殆ど直感で物を言っているし、これ以上あの子たちを語れる言葉を今の私は持ち得ていない。けれど……先の口上の殆どは建前になってしまうわね」

「建前?」

「歳が離れていようと子供と神だろうとなんだろうと、男の子と女の子の逢瀬だもの。二人だけの思い出を作って欲しい。ベルとデートだなんて、アルテミスには嫉妬してしまうけれどね」

 それを言い終えてようやく、アストレアは笑みを浮かべた。

「ベルが帰って来るまでまだ時間はある。私たちが勝手をするわけにいかないという大前提を共有した上で、ベルとも相談を」

「もしも!」

 アストレアの言葉を遮る大音声。

「もしもアルテミス様にとってのベルが私たちにとっての彼だって言うのなら……邪魔出来ない……かな……」

 声の主は先日、初めてのすれ違いを経験し、初めての仲直りを果たし、ベルとの繋がりをより強めたばかりの、蒼い少女。

「アーディ……」

「ズルいですよ……そういう言い方……」

「……無理に私に合わせてくれなくていいの。私の話だって殆どが勘に基づいている。貴方には貴方の理由が」

「アストレア様とリオンの勘なら信じられます。そこまで込みでズルいんです」

「……ごめんなさい、アーディ」

「謝らないでください……とにかくっ! 私の腹は決まりました」

 ぱんっと手を叩き顔を上げたアーディ。いつもの人好きのする笑顔が、そこにあった。

「ベル過激派筆頭のアーディが折れたんなら私らも折れざるを得ないかなあ」

「過激派筆頭って何さー」

「読んで字の如くだっつーの」

「寛容になりましょう! 私たちとベルは、これからもずっと一緒にいるじゃない! 神月祭だって他のお祭りだってある! 何度だってチャンスはあるんだから!」

「団長もこう言っていることだし」

「決まりだね」

「じゃあこの話は終わり!」

「もっとタメになる話合いをしよー!」

 ベルにどんな格好させようかだの、おしゃれなお店とか教えとかなきゃかなあだの、わっと盛り上がり始める少女たち。

「ありがとう、みんな」

 女神の感謝に大きく頷いた少女たちは、皆一様に穏やかな笑みを浮かべていた。

 しかし、である。

 盛り上がっている姉連中には申し訳ない限りなのだが。

 結論から述べてしまおう。

 シリアス面して語らっていた過保護な姉たちの心配は、ほぼ。あくまでほぼであるのだが。

 全部すっかりまるっとばっちり、杞憂に終わる。

 

 × × ×

 

「私たちは何を見せられているの?」

「ベルとアルテミス様がイチャイチャしている様子……的な何か?」

「これが? デート? ほんとにぃ?」

「あたしの知ってるデートと違うぅ……」

「イチャイチャが足りねえイチャイチャが」

 星屑の庭、その中庭。眼前に広がる光景に姉たちは揃いも揃って目を奪われ、進行形にてその目を疑っていた。

「反応が遅い。それ以上に判断が遅い。手も足も思考も止まっている時間が長い。恰好の的となるだけだ。止まるな」

「はっ、はいっ!」

「ふっ……!」

 わっと張り上げたベルの声を聞くなり蒼き女神が急加速。

「くぅ……!」

 しかし、ベルの目でも彼女の動きは見えている。自身目掛けて振り下ろされた模擬刀による鋭い一閃を、敏捷任せの横っ飛びでどうにかこうにか回避をしてのけた。

「やぁぁぁ!」

 そのまま反撃に転じる。低い姿勢から肉薄し一閃、二閃、三閃とテンポ良く得物を振るうが、その全てが空を切る。

 結構いい攻撃だと思ったんだけどなあ。

 滲んだ悔しさを無理矢理に飲み下して再突撃を試みる。それでもやっぱり当たらない。

「思い切りは良い。しかし直線的過ぎる。最速の上に最大を載せようとするあまり単調さに拍車が掛かっている。力を抜け。緩急を選択肢の中に盛り込め。馬鹿の一つ覚えのように攻め立ててどうにかなるのは実力差が如実である場合や絶対的な優位性を確立出来ている状況くらいだ。忘れないように」

「はいっ!」

 悠々と回避運動を取り続けながら飛んでくるアドバイス。余裕綽々な様に苛立つ事もなく、投げ掛けられたばかりの言葉を意識しながら前へ横へと動きに幅を持たせるよう努め、蒼い輝きへと肉薄して行く。

「なるほど……なるほどなるほど……!」

 手応えがいい。アルテミスの言葉の浸透率の高さを感じる。

 理不尽を押し付け力不足も力の差も徹底的に叩き込んでくるやり方を取りがちな姉たちとは異なり、一つ一つをその場で上積みさせては思考の活性化を促し理解、順応を試してくる。赤点と判断されたならば言葉少なに似て非なる展開を試され、果ては応用までも経験させてくれる。

 自分が器用なのではなく、動きの緩急とやらを体現しているアルテミスに導かれている。戦闘経験の浅いベルにだって、それくらいは理解出来た。

 しかしながら、冒険者の卵もいいところな九歳の少年に求めるには尚早かと思える指導であるのは間違いない。アルテミスもそれを理解していて、それでもと強いている。

「独り言とは余裕だな。回転を上げるとしよう」

 ベルは、試されているのだ。

 今更ヘルメスたちの言葉を疑うべくもない。だからこそ、アルテミス自身がその目その身体その心その魂で知っておきたかった。

 下界を救ったと謂われるアルという存在。そんな少年に追い付くやもしれないベル・クラネルという、まだ何も始まってすらいない少年の可能性を。

「へ? う! わ! わわわわ……!」

 言葉通りに全てのリズムに変化が生じ、蒼き女神を視界に収めておくことが難しくなる。

「止まるな……止めるな……!」

 早速意識、早速実践。視界から逃げて行く蒼い残光を追い、音を追い、未熟なりに予測をし、アルテミスの姿を視界に留める時間をほんの少しずつでも長く出来るよう目も頭も手足も止めることなく働かせ続ける。

「なるほど」

「?」

 側から見ればほとんど鬼ごっこの様相を呈していた模擬戦の真ん中から大きく飛び退いたアルテミスが、何事かに得心がいったよう静かに頷いた。

「聞いていた通り、素直で真面目なのだな、貴方は」

「は、はあ……」

「貴方の実力も知れた。思考も動きも新たな引き出しを増やせた様子。なかなか良質なおうちデートになっているな」

「「「「「「「「意義ありー!」」」」」」」」

「わっ! びっくりしたあ……!」

「どうかしたか、アストレアの子供たち」

 呼吸を整えてる最中に飛んで来た大音声に驚いたベルが目を丸くする前で、女神アルテミスは顔色を変える事なく首を傾げていた。

「アルテミス様はベルとデートをするってお話でしたよね!?」

「おうちデートという話もまあわかります! アリだと思います! 交際してもいない男女がいきなりおうちデートというのはどうかと思いますがアリはアリ!」

「私が是非ともベルとしたいくらいです!」

「えっ?」

「それにしたって、これがおうちデート? 単なる訓練じゃないですか!」

「デートだが?」

「「「「「「「「いや訓練でしょ!」」」」」」」」

 ツッコミ入れずにいられねえな感じで、アリーゼ輝夜ライラリューを除いた団員たちが息を合わせてバッチリ叫ぶも、やっぱりアルテミスは眉一つさえ動かさない。

「広く、男女が共に行動をすることをデートと言うのだろう? ならばこれもデートと言える。聞き齧っただけの知識なのだが、おうちデートとはこのようなものを」

「言ってたまりますかぁ!」

「ダンジョンデートの方が億倍マシに思えるおうちデート概念滅ぶべし!」

「一応確認なんですけども、逢瀬って言葉の意味はご存知ですよね?」

「処女神だからと侮られたものだ。知っているに決まっているだろう。果てはどういった行為に及ぶものかも当然理解している」

「だったらどうして逢瀬がデートに置き換わっただけでこうなってしまうのですかぁ!?」

「に、匂う……どっかの潔癖エルフに近しいポンコツスメルがあの女神様から……」

「流石に私もあの方ほど尖ってはいませんからね!?」

「さっきから何の話をしているのだ貴方たちは」

「何言ってんのはこちらのセリフなのですがー!?」

「こうも邪魔をされてはデートにならないではないか。場所を借りている以上介入するなとは言わないが、せめてもう少しくらい大人しくしていて欲しい」

「ヤベェ……この噛み合わなさはヤベェ……!」

「ホンモノだあ……!」

「噛み合っていないはこちらのセリフだ。やれやれ」

 小首を傾げてみせ、恐々とする少女たちから視線を外し、一人困った顔をしている少年を見据えるアルテミス。

「ベル・クラネル。貴方はどうだ? 彼女たちが大袈裟なだけでこれも立派なデートだと思う。そうだろう?」

「へぁ!? はっ、い……そ、そうですね……」

「ほら。彼もこう言っている」

「ほら。じゃありませんよ!」

「言わされてる! 言わされてるよベル!」

 ノインとリャーナのツッコミが虚しく響く朝。そのおよそ二十四時間前。

「不躾にすまない。私は、貴方のことをよく知りたいと思っている。理由は話せないが同行を求める。明日、何やらお祭りがあるらしいのだが、折角ならば一緒に回ってみたいと思う。華やかな中を共に行動することで知れることもあるだろう。可能ならば午前中より行動を共にして欲しい。時間の使い方には多少の考えがある。ということで、よろしく頼む」

 照れもなく。もちろん浮ついた意味など欠片もなく。至極真面目にな面持ちで、アルテミスは件の少年へ頭を下げた。

 なんなんあの事務的なお誘い。でもこれ、デートですやん? そういうヤツですやん!

 堅苦しいにもほどがあったけれど、こっそり眺めていた姉たちの頬だってほんのり赤らんじゃうくらいにはデートな感じの導入だった。なんなら互いに不慣れ感が全面に出ていたもので妙に説得力のある初々しさが場を満たし、こっそり二人を眺めていることに罪悪感を覚えてしまうような甘ったるい雰囲気を昨朝の星屑の庭は醸し出していた。

「ぼ、僕で良ければ……よろしくお願いしますっ……!」

 悩んで困って動揺して、それでもしゅばばっと頷いたベル。しかし小さな体の内側で沸き立つのは嬉しい! とか、楽しみ! とかポジティブなものではおよそなくて、とにかく圧倒的な緊張だった。

 どうしよう? デートって仲の良い男の人と女の人がするヤツだよね? でも僕とアルテミス様は昨日知り合ったばかりだよ? それなのにデートってしてもいいものなの? っていうか何処に行くのかな? いや! 何処へ行ったらいいんだろう!? こういうのは男の子の僕が考えないといけないってお祖父ちゃんなら言う気がする! どんな格好で出掛けたらいいのかな!? 今こそフレイヤ様がたくさんくれた一軍男子っぽいお洋服を着る時かな!? っていうかイスカさんに教えてもらった言葉だけど一軍男子ってなんだろう!? ご飯とかどうしよう!? 何処かオシャレなお店を探した方がいいよね!? お弁当じゃダメなのかな!? お弁当を作って驚いてもらいたいなあ! それからそれから……!

 etcetc。

 考え出したらキリがないあれやこれやに脳の大半を占拠された昨日は、豊穣の女主人の手伝いにもまるで身が入らなかった。当然ミアには怒られた。

「むーっ、です」

 どうしてか、シルも不満そうに頬を膨らませていたりもした。

 からの今朝。

「よしっ……!」

 いつもよりもずっと早くから厨房に立って家族たちの食事に加え、自分とアルテミスの分のお弁当を用意した。髪の毛も少しだけ弄ってみたし、まだまだ着慣れない妙にパリッとしていて手触りがサラサラなフレイヤチョイスの衣服に身を包んでもみた。

 姉たちを頼らず、九歳の少年なりのこうするべきだろうを精一杯に体現して、アルテミスが迎えに来るのを待ち構えていた。

 しかし。

「おはよう、ベル・クラネル。天候にも恵まれた様子で何よりだ。今日は一日よろしく頼む。しかし、なんだその動き辛そうな格好は。申し訳ないのだが、もっと軽装に着替えてもらえないだろうか? それと、アストレアや眷属たちに話を通して欲しい。貴方とデートをしたいので、館内の何処か広く動き回れる場所を使わせて欲しいと。よろしく頼む」

 朝の挨拶に次いで放たれた生真面目な言葉の羅列にベルの開いた口は塞がらず。

 今朝のベルと同じような反応を示したのはアストレアの子供たちだけではない。アルテミスの子供たちも同様であった。

「察するに、デートという言葉は、男女が共に行動することを言うのだろう? ならば私と彼が行おうとしているものはデートと呼んで差し支えないだろう? だから私は彼にデートをしようと提案したのだが。何か間違っているか?」

 ある意味では処女神の鑑のような発言とも取れる上記の文言。

「彼の腕前を知りたい。故のおうちデートだ。大丈夫だ、うまくやる」

 しかし、その目的が稽古であると告げられてしまえば目の色も変わる。ちょっと得意気な様子さえ見せた女神アルテミス、その子供たちはあーだのこーだのと呻き声を上げ、重度の目眩や頭痛に悩まされた。

 いやーなるほどなるほどそういうことですか。私たちお年頃レディーたちが思い描くような逢瀬を求めているのではなく、本当の本当に文字通り、ベル・クラネルという少年のことを私たちの女神様は知りたがっているのかーそっかぁー。なんて納得出来るわけもない。

 貴重な休養日を眷族である自分たちではなく、昨日知り合ったばかりの誰かに。しかもそれが男で、九歳ときた。デートの内容も斜め下のそれ。

 納得もなく、ただひたすらにワケワカメ状態の団員たち。当然アルテミスに殺到する理由と説明を求める声。

「すまないが多くは語れない。強いて言うならば、神としての責務を果たす為だろうか」

 納得も理解も遠い。どうにかして問い質したくてたまらない少女たち。

 しかし不思議なもので、デートそのものに反対する団員は一人としていなかった。

「行ってくださいどんどん行ってください寧ろ行くんですかえっ本当に何が起きたんですか明日で世界は終わるのですかそうなのですか!?」

「その少年を燃やし尽くしたいくらいに嫉妬していますが……アルテミス様がそんなことを仰ったのは初めてです! それが私たちは嬉しいんです!」

 顔も知らない九歳の冒険者マジ許せねえ。けれどそれ以上に、アルテミスの口からデートがしたいなんてワードが飛び出して来たことが嬉しい。

 アルテミスの静かな変化を。そして気持ちを。アルテミス以上に大切にしたいと、少女たちは気持ちを同じくしていた。

 とは言ってもまーったく拭えない嫉妬や不満に心を擽られながらも、謎の少年とのデートに挑む女神を送り出した。

「お前たちのことだ。私の後を尾けようなどと考えているのだろうがそれは認めない。もしも私への尾行が発覚した暁には……そこはお前たちの想像に任せるとしよう。私のいない休日を満喫してくれ。すまないな」

 当然釘を刺された。一から百まで見届けたろうと息を巻いていた者共は悔し涙を流しながらアルテミスを見送ったとかなんとか。

 カメラを現在に戻そう。

「アルテミスがああいう子だということを失念してしまっていたわね」

「アストレア様!」

 処女神曰くおうちデートらしい何かに横槍を入れ続けている子供たちの輪の中に、微苦笑を浮かべるアストレアが合流した。

「アルテミス。ベルはどうかしら?」

「全体的に経験不足なのは当たり前として、私が想像している彼のステイタスには不釣り合いなくらいに動きの質が良い。被弾してからの立て直しも早いし死角への意識の割き方も悪くない。総じて、訓練の一つ一つの質がとても良いのだろうな」

「あ、ありがとうございますっ! えへへ……」

「そらそうでしょうとも!」

「教官がいいので! 教官が!」

「ベルがガチ泣きしそうな半歩手前まで追い込む! これがミソです!」

「やめて!?」

 浮かんだばかりの照れ顔など秒で崩れて間抜け面を晒すベルが叫ぶのも気にせずイスカ、アスタ、セルティがドヤる。

 輝夜やリューが理不尽教官筆頭なのは間違いないのだが、見目麗しの御姿からは想像も出来ないような脳筋且つとってもスパルタな師事をアストレアが行うが故なのか。

 手取り足取りぃ? んなこと知らん! とにかく理不尽を喰らえ! 喰ってから自分なりに飲み干せ! 頭じゃなくて身体で覚えろ!

 と言わんばかりの脳筋スタイルを団員全員が取りがち。

「あ、あれれー? 前はもっと理知的で理性のある訓練をしていたようなー?」

 ベルと同時期にアストレアの眷属となったアーディさえ首を傾げる始末。そんなアーディもこの数ヶ月ですっかり輝夜やリュー寄りのスタンスに変わってしまったのだが。

 冒険者になりたての頃などは敏捷ばかりがやたらと伸びていたけれど、姉たちに課せられる訓練の影響なのか、最近は耐久の伸びが頗る良い。魔法の発現が早かったこともあって魔力の伸びもなかなか。

 ゆっくり。しかし確実に。ベル・クラネルの小さな身体は、冒険者の身体へと変わりつつあった。

「さて。私たちはそろそろ下がりましょう。これ以上二人の邪魔をしてはいけないわ」

「でもぉ……」

「これがアルテミスなりのデートだと言うのならそれでいいじゃない」

「でもでもぉ……」

「人のデートに横から難癖を付ける女。そんな女性、貴方たちはどう思うかしら?」

「ゴミ」

「カス」

「オンナ名乗んな」

「私たちが名乗れなくなる前に引っ込みましょう。アルテミス? 今日一日、ベルのことをよろしくね?」

「ああ。わかっている」

 頷くアルテミスに微笑みで返したアストレアが、汗だくになっているベルに歩み寄り、小さな身体の小さな耳に唇を寄せた。

「デート、楽しんでね?」

「はっ、はい……!」

 汗の伝う頬をぽっと赤らめたベルの返答はボリューム調整を失敗していて。その様さえ愉快なアストレアは、不満です不安ですを隠さない子供たちを連れて中庭を離れていった。

「ようやく静かになったな。さて、デートの続きといこう。もう少し貴方の動きが見たい。魔法が発現しているのなら好きに使ってくれ」

「でっ、でもそれは」

「では行くぞ」

「へぁ!?」

 更にギアの上がったアルテミスに振り回さない為には魔法を使わざるを得ない。そんな状況にベルが追い込まれたのはあっという間だった。

 丁寧に涼やかに。しかし苛烈に。

 蒼い髪を靡かせる女神とのおうちデートの前半戦は、ベル史上最も被弾の少ない訓練ながら、最も血肉となる訓練となった。

「ここまでにして休憩と昼食にしよう。よく付いて来た」

「あっ、り、がろござまひゅ……」

 中庭に大の字で倒れ伏し乱れた呼吸を懸命に整えようとするベルとは対照的に息の一つも乱れていない女神様がおうちデート前半戦終了をアナウンス。気が付けば、大の字になっているベルの真正面にまで太陽は昇っていた。

「一先ずは汗を流して来るといい。終えたら昼食にしよう。何かアテはあるだろうか? 恥ずかしながらオラリオの食事事情には疎いもので、特にこれといった用意がなくてな」

「お、おべんと!」

「うん?」

「それっ、でしたら……ぼく……おべんと……つくった……ので……あの……!」

 荒い呼吸の隙間を縫って昼食プランのご提案。息も絶え絶えといった具合の中、必死に言葉を発しているという理由もありなんが、発している内容の所為なのだろう。ベルの頬が真っ赤に染まっているのは。

「貴方が? お弁当を?」

「どう、ですか……!?」

「どうも何もない。寧ろ嬉しい提案だ。謹んでご相伴に与らせて頂くとしよう。感謝する」

「い、いえ……!」

 大の字のまま目を瞑っていたベル・クラネルには見えていなかった。

 お弁当があると告げられたアルテミスが目を丸くしていた姿も。

 感謝を告げたアルテミスが目を細め、口元に静かな笑みを浮かべていたことも。

 ややあって。

「じゃ、じゃあ……これを……」

 変わらず中庭。汗も流して着替えも終えたベルが、アルテミス様の色っぽい! という理由で青いランチクロスで包んだ小箱を同じベンチに腰掛けるアルテミスへ手渡す。当然緊張しまくりの少年の頬は赤々としている。

 ちなみに、ベルの服装はフレイヤから頂いた衣類の類いではなく、着慣れていて動き易いラフな格好である。デートと言う名の訓練再び、の可能性を考慮した結果である。

「ありがとう。開けても良いだろうか?」

「も、もちろんですっ!」

「では」

 するりするりと解かれていくランチクロスの下からありふれた作りの白い弁当箱が現れる。隣の少年が女神の一挙一動に緊張し倒していることなど見透かしている女神は手を止めず、流れるような手付きで蓋を外した。

「これは……」

 ご飯を作ることはあってもお弁当を作る経験などほとんどなかったベルはどうしようかと散々に迷った。大人の女性はどんなお弁当だと喜んでくれるのだろうといっぱいいっぱい考えた。もちろん姉たちに助言を仰ぐことなく。

「サンドウィッチか」

 熟考の結果ベルの手から産まれたのが、彩り豊かなサンドウィッチの数々。

 卵。レタス。ツナ。トマト。キャベツ。ベーコン。ハム。チーズなどなど。ベルなりの、こういうのが良さそう! をふんだんに詰め込んだサンドウィッチが小箱の中に所狭しと詰め込まれていた。

「お、お口に合えば嬉しいです……」

「では早速。いただきます」

 卵とツナとキャベツが詰まったサンドウィッチを両手で掴んで品良く一噛み。静かに咀嚼する様子を固唾を飲んで見守るベルの頬にはきらりと光る汗が浮かんでいる。

「……うん。美味しい」

「……本当ですか?」

 アルテミスの言葉を疑うわけではないし、アルテミスという女神はこういう人なのだと理解は追い付いて来たけれど、それでも笑顔の一つもなければ不安にもなる。故にベルは、反射的に確認をしてしまっていた。

「こんなことで嘘など吐くものか。本当に美味しい」

「あ、ありがとうございます! やったっ……!」

 アルテミスに見られているのもお構いなしに小さくガッツポーズ。

「…………」

 その際に下を向いてしまっていたベルはまたも見逃してしまった。滅多に笑わない女神が、微かな笑みを浮かべていた瞬間を。

「ほら、貴方も」

「は、はい! いただきますっ!」

 ぱんっと手を合わせて赤いランチクロスに包まれていたもう一つの小箱を開けてガブリと一口。うん、美味しい。僕もなかなかやるじゃない! 

 ライラとフィンと語らった際に得た学びを忘れていないベルは甘めのコーヒーがお供。同じ物でと言うアルテミスとオソロでイロチのマグカップを相棒に、暫しのランチタイム。

「ふむ……味付けがしっかりしている。歳若いながらこうも腕がいいとは驚かされる。貴方は凄いのだな」

「ありがとうございますっ。日頃からファミリアのみんなや僕がお世話になってる酒場の人たちに教えてもらったりしてるので、それで……」

「貴方の不断の努力もあるが、指導者たちの腕も相当に良いのだろう。それが伝わってくる」

「そう! そうなんです! みんなすっごいんです!」

 自分が褒められるよりも近しい誰かを褒められたことが嬉しくて緩み切った笑みを浮かべる末っ子。えへへーとか言っちゃっている始末である。

「ふふ……」

 今度は見逃さなかった。少年の無邪気な様を見てや、アルテミスが微笑む瞬間を。

「あ」

「どうかしたか?」

「え? あ! や! なんっ、でもないです……へへ……!」

「?」

 そんな姿が嬉しくてベルの頬が更に緩むも、そうもニコニコしている理由のわからないアルテミスは首を傾げるばかり。

「あ! 野良猫!」

 ご機嫌な勢いそのままにもぐもぐと頬張っていると、一匹の白猫が屋根伝いに中庭へと降りて来る瞬間を目の当たりにした。

 ピンクの鼻先、アンバーの両目。それ以外はとにかく真っ白な猫は、大して警戒することもなく尾をフリフリしながら二人の足元までやって来た。

「どうしたんだろ。お腹空いているのかな」

「にゃあ」

「昨日の昼から何も食べていないそうだ」

「そうなんですか」

「んにゃあ」

「芳しい香りに釣られてやって来たと言っている。何? これはやらん。彼が私の為に用意してくれた物なのだ。甘えるな」

「んなぁ……」

「いえ、僕は全然大丈夫で…………え?」

「どうかしたか?」

「あの……わかるんですか? この子がなんて言っているか……」

「ああ。こら、それは彼の昼食だ。勝手に食べようとするんじゃない。貴方も呆けていないで自分の昼食を守らないか」

「……すっ、すごーいっ!」

「うにゃ!?」

 しれっとベルのサンドウィッチを掠め取ろうとしていた白猫がぴくりと身体を震わせ大きく距離を取るのもお構いなしに叫ぶベル。微かな驚きを滲ませているアルテミスを見上げるベルの瞳ときたらそれはもうキラッキラである。

「動物の声がわかるなんてすごい! アルテミス様すっごくすごいですっ!」

「声が大きいぞ。彼女が驚いているではないか」

「あの子女の子なんですか!? 一目でそんなことまでわかっちゃうんだ……すっごい……!」

「肝心な部分は聞こえていないな……」

 アルテミスとベルの間に目敏く割り込もうとする白猫をひょいっと追い払いながら、アルテミスが穏やかに微笑む。

「みゃあ」

「今はなんて言っていたんですか!?」

「貴方の昼食を少し分けて欲しいそうだ」

「いいよ! あげる! ここおいで!」

「にゃ」

 コンコンと自分とアルテミスの間をベルが叩いた途端に颯爽登場白猫ちゃん。ベルの太腿に前足を乗せベルを見上げるアンバーの両目はなんとも雄弁にはよ寄越せと語っている。

「肝の据わった娘だ」

「え、えへへ……可愛いなあ…………はい、あーん」

 すんすんと鼻を鳴らし、小さく千切られたサンドウィッチをベルの掌の上からペロリと強奪。

「……んみ」

「な、なんて言っているんですか!?」

「美味しい。合格。だそうだ」

「やったぁ!」

「一体何様なのだお前は……それと、嬉しいとも言っているな」

「僕も嬉しいっ!」

「んなぁ」

 ベルの小さな手が小さな猫の頭や顎の下をうりうりと撫で付けると、気持ち良さそうに喉を鳴らす音が聞こえた。自尊心の高さが窺えたお猫様であったが、こうして構われることそのものは嫌いではないご様子。

「やれやれ……」

「どうかしたんですか?」

「その娘が、これからもよろしくと貴方に言っている」

「また来てくれるの!? だったらいつ来てくれてもいいからね!」

「貴方がそう言うのならば……いいか? 食事に困ったら彼を頼るといい。しかし盗み食いはいけない。ちゃんと彼に頼み込んで食事を分けてもらうように。理解したか?」

「んみぃ」

「そのセンでよろしく。だそうだ」

「こちらこそよろしくね!」

「みゃ」

 こちらこその代わりにベルの指をぺろりと舐め、頭を擦り付ける自由過ぎる白猫。

「かわいいーっ!」

 とろんとろんに弛緩した頬を紅潮させたベルが、おかわりをせがむ様に弁当箱の中を改めようとする白猫を撫でながらお望み通りにおかわりを差し出して笑っている。

「ちょっと心配になるくらい自分のことより誰かのことを優先して、あの子なりに誰かの心に寄り添ってくれる、真っ白な男の子」

 その無邪気な様を眺めているアルテミスは、先日のアストレアの言葉を想起していた。

「……貴方ならば当たり前なのだな。こんな程度のことは」

 自らの口が発した独り言はとても静かに穏やかに独り言の落とし主の中を滑り落ちていき、微かな摩擦熱を残した。

「何か言いましたか!?」

「なんでもない。横柄気味な態度が気になるが、お前のお陰で彼の持つ一面、その一端を見ることが出来た。感謝するぞ」

 ベル本人にか手製のサンドウィッチにか絶賛首っ丈中な白猫の背中を、アルテミスの手が撫でた。

「僕の一面?」

 アルテミスも一緒になって白猫を愛でてくれたことが嬉しくて目を細めて笑いながら、ベルは問い返した。

「いや……」

 アルテミスの言う、少年の素敵な一面。その一面に触れ、胸が温かくなるような。心が安らぐような。

 アルテミス自身でも感知出来る温かな漣が心中を静かに荒らした。

「ふむ……」

 言語化など果たせそうにない静かな昂りに踊らされたアルテミスの手が。

「ふわ!?」

 白猫の背中から、ベルの頭に居場所を変えた。

「あ、あの……?」

 困惑するベルの前には、無言無表情で固まるアルテミス。

「…………」

 やはりだ。嫌悪感が微塵も湧かない。彼が幼いということも一因なのかもしれないが、それにしたって拒否反応が全く出ない。

 それがアルテミスには不思議で、理解ができなかった。

「……ん」

 理解が追い付かないまま願望らしい何かの奴隷となり、少年の白髪をえいえいぐいぐいと遠慮なしに撫で回してみる。

「はぅ……あぅ……!」

 恥ずかしがり屋な少年の照れが手に取るようにわかる。どうしてそうも照れているのかはわからないが、そう感じてくれることが嬉しいと、アルテミスは思えた。そう思えたことがまた嬉しくて、表情筋が仕事をサボりたがる。

「なるほど」

「な、なるほど……?」

「一つ学びを得た。ありがとう、ベル・クラネル」

「あぅ」

 くしゃくしゃっと雑なくらいに撫で回された少年の困惑は置き去りに、得心がいったよう頷いた女神は静かに手を引いた。

「んにゃ」

「……え! えっと! 今はなんて言っているんですか!?」

「貴方と番になりたいと言っているな」

「つがいってなんですか?」

「それは貴方の姉たちに聞くといい。私よりも詳しいやも知れない」

「そうします!」

「あいつ出禁な」

「見かけたら全力で塩撒いてやるわ」

「要チェックや」

「んなぁぁぁ!?」

「あっ! どこ行くの!?」

 ベルに悟られないよう何処かで盗み聞きをしている三人のベル過激派(匿名希望)に殺意を向けられた麗しキャットはすたこらさと逃亡。

 尚、この三名は後にアストレアからお説教をされることとなる。

「行っちゃったぁ……」

「気を落とさなくていい。また直ぐに会える」

「…………よしっ! じゃあ猫ちゃん用のご飯を研究して待ってよう! うんっ!」

「ああ。それがいい」

「まずはマリューさんに聞いてみて……あーでもでも猫ちゃん用なら全部僕が考えて作るのもいいかな……!」

「…………ところで」

「はい!」

「さっき彼女にしていたこと、私にもしてみてくれないだろうか」

「していたこと? どれですか?」

「あーん、だ」

「あーん?」

「あーん」

「…………あーん!?」

「なんだ、怒らせてしまったか?」

「い! いえっ!? 今のあーん!? はそういうあーん!? じゃないです!」

 テンパりまくるベルと落ち着き払うアルテミス。ベルが力んだ拍子にくしゃりと歪んだサンドウィッチから潰れた卵が少し顔を出し、恨めしそうにベルを見上げている。

「ダメだろうか?」

「だ、ダメってことはないです……けど……!」

「ならば、ほら。あーん」

「はぅぅ…………あ、あーん……」

 照れを覆い隠してしまうような緊張に支配された指でどうにかこうにかサンドウィッチを小さく千切り、品良く口を開けて固まるアルテミスの口元へと手を伸ばす。

「んっ」

 小刻みに震える指先をアルテミスの吐息が撫でる。その感触にベルが驚いてる間に、アルテミスの口がベルのお弁当を攫っていった。

「…………ふむ。やはり大丈夫なようだ」

「だ、大丈夫?」

 やはり抵抗感がない。拒絶反応が起こらない。これがベル・クラネルではなくヘルメス辺りであったら武器に弓にとありとあらゆる手段で原型を留められない程の苛烈を与えていたことだろう。

「不思議だ。本当に不思議だ。貴方だからではあるのだろうが……やはり不思議だ……」

「え、えっ……と……」

「では交代だ。今度は貴方に私があーんをしよう」

「はぇ!?」

「そうも驚くことはないだろう。それとも何か? 貴方からならば良くて私からではいけないのか?」

「そ、そんなことはないです!」

「そうか。じゃあ……あーん」

「…………あーん……」

「……うむ。やはりだ。問題ない」

「はふぅ……!」

「なんて羨ましい……!」

「私たちが頼み込んでも全然やってくれないのにぃ……!」

「わたし、生まれ変わったらアルテミス様になる……!」

 やっぱり気になっちゃって覗き見を敢行している姉の幾人が激烈な嫉妬に燃える中、真っ赤な頬をぶら下げる少年に手を引かれるようにして、女神アルテミスはまた一つ、未知に触れた。

 

× × ×

 

「わあ……!」

 中央広場(セントラルパーク)。そのど真ん中に聳え立つ巨影。太陽の眩しさに目を細めながらその頂点までを見上げたベルの口から感嘆が溢れ出す。

「来るのは初めてだったか?」

「そうではないんですけど、やっぱり大きいなって……!」

「確かに、呆れ返るほどの威容だな」

 何度か前を通っているし、以前に同行していたネーゼやマリューたちにお願いして少しだけ中に入ったこともあるけれど、何度目だろうとも特別な体験だ。

 この建物の中に、ベルが憧れている冒険が始まる場所。ダンジョンの入り口があるとなるとそれもまた格別。

 ベル・クラネルには勿論。この都市処かこの世界全ての者にとって大きな意味のある建造物、バベル。

「さて。午後は優雅に、ショッピングと洒落込むとしよう」

 アルテミスの選んだデート中盤戦。その舞台は世界の中心たるオラリオ、その中心に聳える白亜の塔だった。

「しょっぴんぐ?」

「お買い物デート、というヤツだ」

「へ?」

「行こう」

「……は、はいっ!」

 ベルを待たずに進み始めたアルテミスに追いていかれないよう気持ち歩調を早めながら、ベルは考えていた。

 ここって、ダンジョンの入り口があって、他にはギルドの施設があるところじゃなかったっけ? お買い物出来るような所あったかなあ?

 脳裏に浮かんだ疑問もそこそこに、何処もかしこもフレイヤたちの本拠(ホーム)に負けず劣らず豪奢な造りとなっている内装に目を奪われながらアルテミスの背中を追う。

「う、浮いた!? ふわぁ……!」

 途中、上層へ昇る為の魔石製の装置に乗り込んだ際には、突如発生した浮遊感に驚き過ぎてその場にしゃがみ込んでしまったりもした。そんな有り様を見られたことが恥ずかしくてアルテミスの方を意識的に見ないようにしていたベルは、今度は見落としてしまった。

「何をやっているのだ貴方は……」

 言葉とは裏腹に呆れの色を微塵も漂わせず。言葉の端々にも表情にも、寧ろ愉快な色を浮かべているアルテミスの様子に。

「す、すごいっ……!」

 そうして辿り着いた四階で、またもベルは感嘆の声を上げてしまった。

「なるほど、この階に来るのは初めてだったのか」

「あの、ここは?」

「この階は鍛治師(スミス)系ファミリアの最大手が丸ごと利用し、武具を取り扱う店をこれでもかと出店しているそうだ」

「そ、そうだったんだ……!」

 まだ自分が来たことのなかった階にこういうお店が多く存在していることを知らなかったベルは漸く合点がいった。なるほど、これならとってもデートらしいデートに……。

「……うん?」

 お買い物デート、って言ってたよね? デートで、武器を見て回るの? そういうデートもあるのかな? 僕の知ってるデートって言うのはもっとこうオシャレと言うかサツバツとしていないと言うか……。

「どうかしたか?」

「い、いえ!」

「そうか」

 スタスタと歩いて行くアルテミスの向かう先にはやっぱり武具のお店。しかも。

「ヘファイストスブランドのお店……!?」

 オラリオに来たてほやほやのベルでも知っている、世界的に有名な武具のブランド。ヘファイストス・ファミリアの鍛治師たちの手から生み出した至宝の品々はどれをとってもお値段の張る、とってもとっても凄い武具らしい。先日、いつの間にか使ってしまっていた魔導書(グリモア)さえも置いてけぼりにされるようなお値段の商品まであるとか。

 そ、そんなお店にお買い物? どうしよう……僕全然お金持ってないっ……!

 一人焦るちびっこを待たず堂々した足取りで店内へ入っていくアルテミス。置いていかれるわけにはいかないと慌ててベルも入店すると。

「来たわね」

 アリーゼの髪色に近い赤髪を揺らす、右眼に大きな眼帯を付けた女神が、アルテミスとベルを出迎えた。

「わざわざ貴方が出迎えなくても良いだろう、ヘファイストス」

「あっ……!」

 思わず大きな声を出しそうになったが、どうにかこうにかベルは飲み込んだ。

「こ、この人が……」

 ヘファイストス・ファミリアの主神。『神匠』とまで呼ばれているらしい、とってもとってもとーってもすっごい鍛治の神様!

「私が貴方に直接頼まれたのだから私が出張るのは当たり前でしょう」

「相変わらずだな、貴方は」

「貴方こそ、変わりない様子で何よりよ」

 穏やかな言葉を交わし合う二人。話を聞くに二人は長い付き合いなのだろうと、世界的有名ブランドの創設者が目の前にいることに動揺しまくりながらもそこは正しく認識出来たベルであった。

「それで、そちらのお客様は? アルテミスの眷属ってことはないでしょう?」

「彼はアストレアの眷属だ」

「アストレアの? ということは…………そう。貴方がベル・クラネルね?」

「へあっ!?」

 にこやかに笑いながらベルの前まで躍り出たヘファイストスが膝を降り、ベルの瞳を覗き込むよう前屈みになった。

 とっても綺麗なご尊顔に加え、ブラウスのボタンを幾つか外しているものでしっかり見えてしまっている胸の谷間。もうベルくんったら色んな意味でドッキドキである。

「自己紹介、してもらえないかしら?」

「……あっ! あ、の! ベっ! ベルっ、クラネルです! アストレア・ファミリアですっ! よろしくお願いしますっ!」

「はいよく出来ました。私はヘファイストス。よろしくね」

「はっ、はいっ!」

「あら、とっても可愛い子じゃない」

「はわ……!」

 勢い良く頭を下げて上げてをすると、弓形に左目を細めて笑うヘファイストスにくしゃくしゃっと頭を撫でられてしまった。無垢が過ぎる少年の頬はヘファイストスに感知されてしまうくらい真っ赤に染まっている。

「この子、照れているの? やだもう本当に可愛いんだから。ねえ、今からでも私の眷属にならない?」

「ふぇ!?」

「私が手取り足取り指導して、立派な鍛治師にしてあげるから!」

「や! あ、のっ! それっ、はっ!」

「アストレアと眷属たちに送還されたくなければそこまでにしておくことだヘファイストス。躊躇いなど抱かないぞ、彼女たちは」

「冗談よ。あんまり可愛いものだからついね。改めてよろしくね、ベル・クラネル。どうか、ヘファイストス・ファミリアをご贔屓に」

「ん……ん、んっ……!」

 真っ赤な頬はそのままでコクコクと頷くことしか出来ないベル。そんな様さえ愉快の種なのだろうヘファイストスは、口元に手を当て笑っていた。

「それで? 今はどういう状況なのかしら?」

「どうとは?」

「どうしてアストレアの子供と貴方が一緒にいるのって話」

「デートをしている」

「ああ、なるほど。デートね」

「そうだ」

「ふーん。まあ貴方でも下界の子供に感化されてデートの一つや二つくらいすることもあるわけないでしょおおおぉ!?」

「驚くタイミングがおかしいだろう」

「デート!? 貴方が!? この子と!?」

「そうだと言っているだろう」

「どうしてケロリとしているの!? あのアルテミスよ!? あのアルテミスが! 異性とデートをしているのよ!?」

「そのアルテミスは目の前にいるのだが」

「待って待って待って……! 頭が混乱し過ぎて眩暈がしてきた……!」

「彼はとても素敵な少年だ。心が澄んでいる。故に私は彼を知りたいと」

「やめて!? これ以上混乱させるようなこと言わないで!? ちょ、ちょっと貴方! こっちいらっしゃい!」

「う、わぁ!?」

 知り合って数十秒の女神様にがしっと手を握られたことにドギマギしまくっている間に店の裏手の方まで引っ張られてしまった。アルテミスが不思議そうに首を傾げて棒立ちしている中、勢いは良いながらも潜めた声量の炎の親方は、ベルが目を白黒させるのもスルーでがーっと捲し立て始めた。

「アルテミスとデートって、何がどうなっているの!? あの子が異性とデートってだけでも大事件なの! わかる!? いやわからないでしょうけど! 確か九歳で合っていたわよね貴方!?」

「はっ、はいっ!」

「九歳男児とアルテミスがデートっ! わけがわからなさ過ぎて更に目眩が……!」

「え、っと……ぼ、僕にもよくわからなくて……昨日、アルテミス様が僕を誘ってくださいまして……」

「しかもアルテミスからと来た……尚更訳がわからないわ……」

「あの、アルテミス様が誰かとデートをすることって、そんなに驚かれることなんですか?」

「驚くに決まっているでしょう!」

「ひうっ!?」

 いきなりボリュームが上がったものでバッチリ驚くベル。相変わらず手は握ったままである。

「あの子は貞潔を司る女神! 貞潔って言われても貴方には難しいかもしれないわね……簡単に言えば、あの子はとっても身持ちが硬くて誰かとお付き合いだのデートだのなんてまずあり得ない、ってこと。わかるかしら?」

「え、えっ、と……」

「天界では恋愛アンチとまで呼ばれていた子なのよあの子は……已むなく異性と行動することはあっても、あの子が望んで異性とデートをしただなんて聞いたことがない。これはね、貴方が想像している以上にずっとずっととんでもない大事件なの! 本当に何がどうなっているの!? アフロディーテが聞いたらひっくり返るわよこんな話!」

「あふろ?」

「まああの子のことはいいとして…………ここに来るまで、多くの神々にじっくり見られたり声を掛けられたりしなかった?」

「しました……皆さんすっごく驚いてました……」

「そりゃそうよねぇ……」

 ヘファイストスの言う通り。星屑の庭を出発してからというもの、少し歩けば何処ぞの神々にまあ絡まれること絡まれること。都市外で活動しているはずのアルテミスがオラリオいるだけでも驚きだと言うのに。

「私は今、彼とデートをしている。邪魔をしないでくれ」

 とかなんとか一々アルテミスが明け透けなもので余計に絡まれまくった。

 アルテミスとベル。神々にしつこく絡まれたのは、どちらかと言えばベルの方。

 神々からすればベルは、下界は疎か天界にだって名前が轟いてもおかしくない偉業を果たしたウルトラでスーパーでマジヤバな男児なのである。アルテミスとデートを楽しむという行為には、それほどまでのインパクトがあるのだ。よって、ベルにばかり質問の雨霰が集中するのもさもありなん。全てにアルテミスが割って入って強制的に話を終わらせてくれたからよかったものの、付き纏う居心地の悪さにずーっとベルは悩まされっ放しであった。

「ち、ちなみに!」

「はい?」

「その…………デッ、デートって……これまでどんなことをしたのかしら?」

「へ?」

「参考! 後学の為、あくまで参考までにね、うん。それだけだから!」

 ベルは気が付いた。少し声のトーンを落としたヘファイストスの頬が、ほんのりと赤らんでいることに。

「えっと……ですね……午前中は、おうちデートをしました」

「お、おうちデート? いきなりおうちデート……そういうのもアリなのね……悪くない……かも…………あまり込み入ったことを聞くものではないとわかっているけれど……ア、アルテミスとはどんなことをしたのかしら? 言える範囲で大丈夫だから!」

「訓練!」

「訓練?」

「はい! アルテミス様にたっぷり訓練をしてもらいました! それからご飯を食べましたけど、午前中はずっと訓練でおうちデートをしてました!」

「……それが……おうちデート?」

「アルテミス様はそう仰ってました!」

「………はあ……」

 何か合点がいくようなポイントでもあったのか、それとも何かに呆れているのか。ベルの手を離したヘファイストスが、深い深ーいため息を吐き出した。

「まあ……あの子だものね……」

「あの……?」

「ううん、なんでもないの。勘繰り過ぎても仕方がないわね。色々聞かせてくれてありがとう、ベル・クラネル。そろそろ戻りましょうか」

「はあ……」

「っと、その前に」

 店内で待ちぼうけを食らっているアルテミスの元へ向かおうとしていたヘファイストスが振り返った。なんだなんだと及び腰になっているベルと目の高さを合わせ、鍛治を司る女神は静かに微笑んだ。

「ベル・クラネル?」

「はっ、はいっ」

「仲良くしてあげてね。あの子と」

「……もちろんですっ!」

 変に身構えていた所為で反応は遅れたけれど、ベルは迷いなく答えていた。

 アルテミスと仲良くなりたいし、仲良くあれたらいい。ずっとずっと、そうしていたいと思う。

「ありがとう」

 整った相貌にくしゃりとした笑みを浮かべながらもう一度、ヘファイストスはベルの頭を撫でた。二度目のなでなでもやっぱり照れてしまったベルだけれど、一度目みたいな緊張感は微塵も感じなかった。

 二人が店内に戻ると、ヘファイストスがアルテミスとヒソヒソ話を始めた。僕に聞かれたらよくないお話をしたいんだと思ったベルは二人から少し離れて店内を物色。

「はっ……!?」

 この剣カッコいい! とマジマジ眺めている所で見えてしまったこちらの商品のお値段が八千万ヴァリスだと知ったベルは思いっきり叫びそうになってしまったが、どうにかこうにか我慢をした。

 本当に場違いだ僕……!

「さてと。入り口で躓いたけれど、済ませるべきことを先に済ませましょうか」

 ベルの目が白黒している間に、二振りの武器がヘファイストスの手によりカウンター上に並べられた。

「どちらも仕上がっているわ。相当使い込んでいたのね。短刀の方はタングがガタガタになっていたわよ。刃もあちこち欠けていたし」

「騙し騙し使っていたが、貴方に面倒を見てもらうにはいい頃合いだったのだな」

「みたいね」

 アルテミスがオラリオへ来た目的は大まかに三つある。

 一つ、団員たちの休息及び補給。

 二つ、フレイヤへの賛辞とオラリオの現状と都市外の情報の交換。

 そして三つ目が、アルテミスの装備のメンテナンス、もしくは新調。

 一昨日、フレイヤの元へと向かう以前。アルテミスはヘファイストスの元を訪ね、二振りの刃を託していた。

 要するに。お買い物デートとは言いながらも、思いっきり私用である。

「んしょ……わぁ……!」

 アルテミスの隣からひょこっと背伸びをしてカウンター上を改める。どうやら卓上の短刀と長剣はアルテミスの物らしい。どちらもとってもカッコいいデザインなものでベルくんのお目々はキラッキラである。

「長剣の方は初見の印象よりもずっと状態が良かったから簡単なメンテナンスだけで済んだわ。見積との差額はっと……うん、結構浮くわね」

「それは助かる。であるなら、矢を都合してもらえないだろうか? 木を削って自作するのもいいのだが、貴方たちの手から産み落とされた物とは性能など比べるべくもないからな」

「当たり前じゃない。折角の機会なんだから他にも色々見ていきなさいな」

「貴方の懐を温めろと」

「商売ってそういうものでしょう。少し席を外させてもらうわね。色々済ませてくるからその間に買い物デートでも満喫なさいな」

「はぇ!?」

 物騒な品ばかりだけれどねと付け加え、ひらひらと手を振りながら店の裏手へと引っ込んでいくヘファイストス。ベルの気の所為じゃなければ、にこーって笑っていたような……。

「彼女の言う通りだ。私用にばかりかまけてもいられない。店内を見て回ろう」

「は、はいっ!」

 全力で頷いて、尻尾のように揺れるアルテミスの長髪の後を追う。

「ふむ……」

「ほう……」

「これは……」

 デートと言う割には興味先行なマイペースっぷりで店内を巡るアルテミス。神の目から見ても精緻な造りだとわかる一級品の数々はただ眺めているだけでも面白く、数々の武具に触れてきたアルテミスの視線さえ掠め取っていく。

「ん! よしょ! 見え……えいっ!」

 そんなアルテミスの足元で小兎がぴょんこぴょんこと控えめに跳ねて訴える。アルテミスの視線を独り占めしている物が高い位置にあって見えないです、と。

「何をしている。行儀が悪いぞ」

「ご、ごめんなさいっ……!」

「…………仕方がない」

 と、わざとらしく口に出す。怒らせちゃったと落ち込むベルの耳をするりと滑り込んでいくよう、少しだけ声を張って。

「へ? わ……!」

「ふむ。見た目の印象よりずっしりとしているな」

 膝を折ったアルテミスが自分へ向けて両手を伸ばして来たと思った時にはもう、ベルの体はアルテミスの腕の中。

「これならば見えるだろう。私一人で楽しんでいてすまなかったな」

「ぁ……う……!」

「そう驚いてくれるな。私だって驚いているのだ」

「お、驚いてる……!?」

 全然そんな風に見えませんけど!? と分かりやすく驚き倒すのはベル。しかし、耳まで真っ赤にしている九歳男児の目鼻の先で、実際アルテミスは驚き倒していた。

 ベルの重さ。世代平均を下回っている背丈であろうベルなのに、存外に抱っことは難しいものであること。

 何よりアルテミスを驚かせたのは、抵抗がないこと。ベルが嫌がらなかった、とかではない。

 おうちデートの最中に行ったあーんやなでなでと同じ。

 処女神たるこの身が、些細な拒絶反応さえも示さなかった。

 驚愕を越え、もはや混乱まであった。

 あーんはまだいい。なでなでもまあって気にはなれる。

 しかし、抱っこだ。抱っこなのである。

 ぴたりと重なる自分とベル。肩に置くべきかそれとも首に回すべきかを迷っているのかぷらぷらりと所在なくしているベルの両手はアルテミスの胸に触れそうになっているし、そもそもベルの下半身はアルテミスの胸を押してすらいる。何度も鼻と鼻は擦れ合いそうになっているし、動揺しまくりのベルの荒れ気味な吐息はアルテミスの顔のパーツのあちこちを無遠慮に撫で付けてさえいる。

 簡単な列挙だけでもあーんやなでなでなどより圧倒的に己の肌に合わない行いなのだとアルテミスは理解する。

 ならばどうして、こう出来てしまっているのだろうか。

 異性と言ってもまだ幼い少年であるからなのだろう。

 それで己を納得させるには、アルテミスはこの少年を異性として認識し過ぎている。

 決して浮ついた意味などではなく、ベル・クラネルという少年の内側に触れれば触れるほどに、単なる子供扱いをしてしまうことをアルテミス自身が出来なくなっているが故。

 もう少し言葉を突き詰めるならば、ベル・クラネルを尊敬に値する一人の人物として見ている。と言った具合であろうか。

 なればこそ、こうも極端に違うものかと考えずにはいられない。

 アルテミスの知るアルテミスという女性は、相手を尊敬していようとそうでなかろうと、一人の男性とこんな風に触れ合うことなど出来るわけがない。

 なのにどうして、ベル・クラネルならばその限りではないのだろうか。

「これは一体どうしたことだろうか……」

「あ、あの……」

「……貴方とのデート中に考えることではないな。いやすまない」

「えっ、と……?」

 どうして謝られたのかわからず、小首を傾げるアルテミスの真似をするよう控えめに首を傾げるベル。

 ああ。これは、気にさせてしまっているな。

「あまり考えないでくれ。さて、切り替えてデートを楽しもう。そういえば貴方のナイフはギルドからの支給品だったな。折角だ、新たな相棒探しといこう」

 自らの混乱を伝播させてしまったと気付いたアルテミスは明るい声を出すよう努めながら、自身の腕の中で赤らんだ頬をぶら下げている少年へと微笑みかけた。

「い、いやいや! 僕のお小遣いじゃ全然……!」

「今が無理ならばいつかの為に見定めておけばいい。ここでの出会いが新たな目標になるかもしれないだろう。とにかく見て回ろう」

「で、でも……」

「及び腰になるのは理解出来るが、こうして知らぬ世界に触れることもまた冒険。貴方はもう、冒険者なのだろう?」

「……はい……」

「ならば行こう」

 全身から動揺を吐き出し続けるベルの返事を待たず、ゆっくりと歩みを進め始めるアルテミス。

 そうして始まった買い物デートは、やはりと言うべきか。とにかくぎこちないものであった。

 何処か事務的にすら聞こえるアルテミスが会話の初動を務めても、肝心のベルは緊張を乗りこなせないで簡素な相槌を打つばかり。散発的で碌に続かない言葉のキャッチボール。

「本当何がどうなってるのよ……っていうかもうちょっとそれらしい会話しなさいよ……!」

 ハラハラドキドキを抑えるよう努めながら仕事に勤しむヘファイストスに見守られながら進む二人のデートは、デートらしさを欠如したまま淡々と進行していく。

「あ、あら……?」

 本格的に私がなんとかしなきゃダメなヤツかしらこれ!? とかなんとか考えているヘファイストスが冷や汗たらりな中、デート感皆無なムードに、控えめなテコ入れが入った。

「あ、あの短刀……アルテミス様に似合いそうだなって……思いました……えっと……それで……その……」

 相変わらずアルテミスに抱えられたままのベルの気付きがきっかけであった。

「そうだろうか?」

「なんとなくですけど色の感じとか……全体的な雰囲気が……」

「……少々失礼」

 抱えていたベルを降ろしてベルの目に留まった短刀を手に取るアルテミス。少々気後れしてしまうのだが、わっかりやすく物欲しそうな目をして自分を見上げているベルの期待に応えるべく、正しくはコピシュと呼ぶべきであろう一振りを気取らない程度に構えてみた。

「どうだろうか」

「わあ……! やっぱり! すっごくお似合いです! カッコいいですアルテミス様っ!」

 さっきまで隠せていなかった緊張など何処へやら。その場でぴょんこぴょんこと小さく跳ねながら全身で感動を表現する小兎のお目々はキラッキラである。

「そこまでか」

「はい! 銀色と白と青がすっごくアルテミス様の色って感じがしてすっごく素敵です! カッコいいなあ……!」

「……存外、悪い気はしないものなのだな」

「へ? なんですか!?」

「なんでもない。私のことはいい。次は貴方の番だ。そうだな…………この短刀は貴方に似合いそうだ。構えて見せてくれ」

「ぼ、僕もですか!?」

「私だけ見せ物にしてお終いというのでは不公平だろう」

「え、っと……じゃあ…………こ、こんな感じでしょうか……?」

「短刀そのものは貴方によく似合っているが、なんだその腰の引けた構えは。恥ずかしがっていないでもっとそれらしく構えないか。貴方の憧れる姉や英雄たちはそんな情けない構えを取ると思うか?」

「そ、それは……」

「自身に胸を張れない者が果てなく強くなどなれるものか。それに、形から入って生まれるものもあるだろう。さあ、もう一度だ」

「…………ふっ……!」

「うん、悪くない。やれば出来るではないか」

「ちょ、ちょっと恥ずかしいですけどね……あ! あれ! あの長剣! あれもすっごくアルテミス様に似合いそう!」

「そうか? それを言ったら……」

 ベルに褒められたアルテミスは存外ノリノリでベルの要望に応え、アルテミスに促されたベルは初めて手にする第一等級の武具の数々に心底感動しながらアルテミスの要望に応える。照れ臭そうにしているのは隠せないままで。

「なんで物騒な物似合う似合わないトークで盛り上がってんのよ……仮にもデートなんだからもっと可愛いらしいお店でやりなさいよそういうのは……!」

 その物騒な商品を取り扱っている大ボスが事務机をごんっと叩く音が響き、従業員たちがギョッとしたりと裏でも色々ありながら、店内の誰しもの目を集める異色過ぎる組み合わせのデートは、ベルの気付きをフックにしてようやく会話が膨らみ始めた。

「はあ…………本当……何が何だか……ふふ……」

 アルテミスとベルの来店以降謎の頭痛に苛まれ続けているこの店の主人は、穏やかに微笑む同郷の女神と、弾けるように笑う初対面の少年のポンコツ気味なやり取りに、眉間に寄っていた皺が解けていくのを感じていた。

 ややあって。

「お待たせ。色々と用意が出来たわよ」

 ぎらりと輝く武具を真ん中に据えたファッションショーで盛り上がり続けるアルテミスとベルの間に、諸々の処理を済ませたヘファイストスが割り込んだ。

「随分と盛り上がっていたみたいだけれど、ベル・クラネル? うちの商品たちは気に入って貰えたかしら?」

「もちろんですっ! とにかく全部強そうでカッコよくて!」

「いつかヘファイストス・ファミリアの武器を手にすることが目標になったそうだ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。お値段以上の感動をお約束するからゆっくりお金を集めていらっしゃい。貴方がお得意様としてうちの装備に身を包むその日を楽しみにしているわ」

「が、頑張ります!」

 ふんすふんすと荒れる鼻息にグッと握り込まれた小さな拳二つ。わかり易くやる気満々を表現するベルへとヘファイストスは穏やかに微笑み掛け、落ち着きなく揺れる白髪を優しく撫でた。

「さてと。この二本が依頼されていた品。こっちの矢十本が追加注文の品。見積から浮いた額から引いておいたけれど問題ない?」

「ああ。やはり、矢の出来栄えも見事としか言いようがないな。流石だな、ヘファイストス」

「褒めてもオマケなんてしてあげないわよ? でもありがとう」

「そちらの方は貴方に望むべくもないことは理解しているつもりだ。それより、あの短刀を打ったのは貴方か?」

 アルテミスが指差したのはベルに似合うと褒められた、一振りのコピシュ。

「あれはうちの子の作品。お気に召した?」

「ああ。叶うならば、あれを打った者と言葉を交わしてみたいのだが」

「構わないわよ。ねえ! ちょっといいかしら!?」

 主神の一声に大勢の眷属が集まる。その中から恰幅の良い男性が前へ出てアルテミスと会話をし始めた。傍で聞くベルにはちんぷんかんぷん過ぎるしすごーく真面目なお話をしている様子なので少し距離を取ってその様子を眺めていることにした。

「楽しかったかしら?」

「はい! とっても!」

 小さな気配りを見せたベルの頭上から降り注いだヘファイストスの言葉に、ベルはノータイムで返事と笑顔を返していた。

「それなら良かった。ま、デート感はあんまりなかったみたいだけれど」

「あ、あはは……」

「けど……笑うのね、あの子」

「え?」

「あの子が笑うのはあの子の子供たちの前か、まだ天界にいるあの子の神友の前くらいなのに」

 この少年の前ならば、アルテミスは笑えるらしい。

「しんゆう?」

 自分がどうやら特別な立ち位置にあるらしいことなどまるで気が付かない幼い少年は、気になった部分を鸚鵡返しをしながら首を傾げた。

「そ。アルテミスの神友」

「どんな人なんですか?」

「一言で言うなら、グータラね」

「ぐ、ぐーたら?」

「あの子はとにかくだらしがないの。何をやるにも適当だし気分屋だし引きこもりだしポンコツだし」

「ぽ、ポンコツ……」

 リューさんみたいな人なのかな。

 ファミリアの家族たちにその弄り方をされる様を間近で見続けているベル的にはポンコツの代名詞的存在になっているエルフの姿が脳裏に浮かんだ。幻だというのにこっちを向いて怒っているような気がした。怖いからこれ以上考えるのはやめておこう。

「けれどね、誰にだって分け隔てなく裏表もなく真っ直ぐに接してくれる。とっても優しくてとっても可愛い、とっても素敵な女神なの」

「えっと……その女神様は、ヘファイストス様ともお友達なんですか?」

「そうだけど……どうしてそう思ったの?」

「その女神様のお話をしているヘファイストス様が、嬉しそうに笑っていたからです!」

「……そうね。あの子は、私の友達よ」

「そうなんだ……!」

 ほけーっと口を開いたベルは、とても嬉しそうにわらった。

「……ヘスティア」

 ヘファイストスとアルテミス。彼女たちの友人の名をベルが知りたがっていることなどお見通しな女神は、先手を打って一人の女神の名を口にした。

「ヘスティア?」

「私の友達で、あの子の神友の名前よ。覚えておいてあげてね?」

「はいっ!」

「いつか、あの子も地上に降りてくるでしょうね。その時はあの子とも仲良くしてあげてくれるかしら?」

「もちろんですっ!」

「……ま、無用な心配でしょうね」

「どうしてですか?」

 きょとんと首を傾げながら自分を見上げる少年の純粋さを映したような紅い眼差し。

「ふふ……」

 そのあどけない姿に頬を緩めたヘファイストス。

「貴方とあの子は出会って直ぐ、友達になれるでしょうから」

 彼女の左目は、数年後の未来を見知っているかのようであった。

 

× × ×

 

「では…………っ……!?」

 くわっ。感情の色が控えめな印象のあるアルテミスの双眸が、くわっ、である。

「…………美味しい……な……」

「ですよね!? やっぱすごいなージャガ丸くんは! はむっ! んーっ!」

 満足気に声を張り、アルテミスに続いてガブリと一口いってみる。うん、美味しい! どの屋台どんな味でも美味しいんだからジャガ丸くんはすっごい!

「ジャガ丸くん……恐るべしだな……」

 口元を油分で光らせているアルテミスが言うには、何度も足を運んでいるが、オラリオの食文化には疎い、とのこと。だったらこれを食べてもらわないわけにはいかないよね! と、ベルが張り切ってプレゼンからの買い食い。西のメインストリートから脇道に入って直ぐにあるこの屋台はファミリアの姉たちからの評判が頗る良く、アルテミスに紹介するならここだろうとベルは決めていた。

 実は、この後に立ち寄る目的地からも近い、という理由もあったりする。

「ありがとうベル・クラネル。貴方のお陰で素敵な出会いを果たせた。これは長く世話になりそうな予感がするな」

「いえいえ! 気に入ってもらえて良かったです! よしっ……!」

 アルテミス様が気に入ってくれた! と喜ぶベルが拳をグーに握る様に穏やかに微笑み掛け、ジャガ丸くんに再度口を付けるアルテミス。いや、本当に美味しい。オラリオへまた来れたならば子供たちと……。

「…………」

「……アルテミス様?」

「何度も道行く幼子たちが謎の物体を手に持っている様を見てきたが、それがジャガ丸くんだったと一つ勉強になった、と思ってな」

 また。次の機会。

 ふっと頭に浮かんだワードが脳内を激しく荒らすも、それ以上ベルに悟らせまいと淀みのないよう自然に言葉を紡ぐ。

 考え過ぎてはいけない。しかし考えずにはいられない。

 けれどせめて、今だけは。

「オラリオで大人気なんですジャガ丸くんは! ジャガ丸くん専門の屋台の数もすごいんです! 今日はいつもより多いかもしれません!」

「今日が神月祭だからか」

「はいっ!」

 ちょっと得意気な感じで頷いてみせるベルの上から周囲を改める。

 買い物デートに時を費やした結果、黄昏の気配を帯びている下界の天井。時が経つに連れて上向いて行く祭の調子。狭いスペースに無理矢理作られたような露店の数々が目に付くようになった。

「いつの間にか人がたくさんになってますね! あちこち飾り付けもされてますし!」

「祭の妙と言うべきか、物騒な話題に事欠かないオラリオでもこうして着飾るとまるで違う都市のように見えるものだな」

「いつもと雰囲気が全然違って驚いちゃいました!」

「そうか。貴方はこの通りを歩き慣れているのだったな」

「はい!」

 こくんと頷いて残ったジャガ丸くんをぱくり。とっても美味しいが、この後のことを考えると食べ過ぎるわけにもいかないので一つで我慢。

「目的地は近いのか?」

「はい! もう見えてます!」

 同じようにジャガ丸くんをはむはむするアルテミスの少し前をすったかたーっと進んでいくベルの視線の先には、大勢の市民で賑わっている二階建ての建物。ベルが事前に聞いていた通り、今日は開店と同時に大入りらしい。

「すごい人だなあ……座れるかなあ……」

「ここが貴方がお手伝いをしているという、豊穣の女主人か」

「そうです!」

 列に並ぶべく足を早めながらベルが答える。

 アルテミスとベル、行き当たりばったりのデートの後半戦の舞台に選ばれたのは、ベルのバイト先、豊穣の女主人。

「祭当日は来なくていいよ。オラリオに来て初めての祭なんだろう? こっちのことなんて気にしてないで楽しんできな」

 と、店主であるミアから言われていたもので、今日はお手伝いの予定はなし。しかし。

「お時間が許してくれるならお店に顔を出してくれませんか? いつもと違う飾り付けをしていますし、いつもと違う料理を出したりもするので!」

 と、従業員であるシルからは言われていた。

 必ず行きます! 

 と、アルテミスと出会う以前より約束していたベルは、実はこれこれこういった事情がーと包み隠さずアルテミスに説明。元よりアルテミスがこの後のプランを碌に用意していなかったことも手伝ってトントン拍子で話は纏まった。

 こちらもアルテミスと似たり寄ったり。ベルが望んだデート後半戦の舞台も、私用により選出されたものとなった。

「いらっしゃいませー! って、ベルさん!」

 人集りの最後尾に付けて待つこと暫し。人好きのする笑顔の持ち主が、薄鈍色の髪を揺らしながらベルとアルテミスを出迎えてくれた。

「こんばんはシルさん!」

「本当に来てくれたんですね! わざわざありがとうございます! で! もっ!」

「へ? う! わぁ!?」

「私のことはなんて呼ぶんでしたっけー?」

 大きな声で挨拶を返したベルの小さな身体は、シルと呼ばれた少女にひょいっと抱き上げられてしまった。

「シルちゃんに抱っこされてるぞあのガキ……!」

「前世でどんだけ徳積んだらあんな羨ましいことしてもらえるようになれるんだ……!」

「イケショタに好き勝手出来る街娘ちょっと羨まし過ぎるんですけど」

「アストレアんとこの子よねあの子。母性本能こしょこしょ力高過ぎない?」

「あの子を一日好き放題させてもらう為ならアストレアに極東ドゲザスタイルも辞さない……って! あ、アルテミスぅ!?」

 看板娘と準従業員がイチャイチャし始めた途端に集まる冷たかったり熱かったりする無数の視線。主に神々ではあるが、二人の触れ合いを目の前で眺めているアルテミスにも驚愕の視線が集まる。己の名が呼ばれていることに気が付いていながら受け応えをするつもりもないのか、アルテミスはシルとベルから視線を外そうとすらしない。

「か、顔合わせたらとりあえず呼ばせようとするのやめてほしいです……」

「一日に一度呼ばれるだけで元気が出るんです! どんな激務でも乗り越えられるんです! だから、ね?」

「あ、後で! 帰るまでに言いますから! 早くお仕事戻らないとミアさんパンチですよ! ミアさんパンチっ!」

「ほほーん? ベルさんったら、出会った頃よりも弁が立つようになりましたねー」

「盛り上がっているところすまない。シルと言ったな。貴方は……」

「はじめまして、女神様。この店の従業員、シルと申します。豊穣の女主人もベルさんのことも私のこともどうぞご贔屓願いまーす」

「…………」

「え? あ、あれ?」

 ニコニコ笑うシルと怪訝な表情を浮かべるアルテミスが無言のまま、ベルの頭上で視線を交差させる。何が起きているのと困惑し倒しているベルが一人あわわあわわしている前での沈黙は十数秒に及んだ。

「……詮索するにしても今ではないか」

「その方が良いかと思いますー」

「……ならば、いい。こちらこそよろしく頼む。席は空いているだろうか?」

「今だと空いてるのはカウンターだけになっちゃいますねー」

「問題ない。案内を頼む」

「はーい。ご新規二名様入りまーす!」

 二人はどうしちゃったのとシルの腕の中できょろきょろしたままカウンターへと運ばれていくベルにアルテミスが続き、カウンター席の最奥に通された。すると早速、店内の喧騒に負けない力強い声がベルたちを出迎えた。

「なんだ、本当に来たのかい坊主」

「お疲れ様ですミアさん! 売り上げに貢献しに来ました!」

「はっ、言うようになったじゃないか」

 カウンター向こうでニッと口角を上げ、豊穣の女主人の店主、ミアが笑う。

「しかも女連れとは、随分と偉くなったもんだね」

「え、偉くなんかなってないです! 全然偉くないです!」

「大袈裟に受け取るんじゃないよ。で? 今はその女神とデート中ってわけかい?」

「な! なんでわかったんですか!?」

「なんだ、本当にデートしてんのかい」

 忙しなく手を動かしながらベルとデートをしているらしい隣の女神をちらり。その神の名がアルテミスであり、一癖も二癖もある女神であることを知っていて、何やら入り組んだ事情があるらしいことまでなんとなく察したミアは必要以上の深追いはすまいと方針を定めた。

「貴方は……」

 一目でこの店主が何者であるかを看破したアルテミスが何故どうしてをミアに問うことはすまいと方針を定めたのと同じように。

「ま、細かいことはいいさね。とにかく、金を落としていきな」

「はい!」

「ん」

 店内の喧騒に負けない溌剌とした返事に細められた目でアルテミスを一瞥。会釈も意思の交換もない本当にただの目配せを交わし終え、直ぐにミアは仕事人の表情に戻った。

「注文どうしましょうか? お祭り仕様の限定メニューもありますよー?」

「じゃあそれ二つください! あ! 他の注文、僕に任せてもらっていいですか? アルテミス様に僕のおすすめを食べて欲しくて!」

「ああ。任せる。ありがとう」

「いえ! じゃあじゃあ……!」

 ベルとアルテミスの後ろをひょこひょこと動き回っていたシルに注文を伝えると、少しお時間を頂いてしまうかもしれませんと言われた。この混み具合ならそりゃそうだよなあと納得しているベルもアルテミスも和かに頷いて、店員を呼ぶ他の客の元へと慌ただしく去って行くシルの背中を見送った。

「ここはいつもこんな感じなのか?」

「今日はいつもより混むのが早い感じがしますけど、大体こんな感じです!」

「そうか」

 楽しそうに笑うベルは何処まで知っているのだろうか。

 店主であるミアも、店内を行ったり来たりと忙しなくしている制服姿の娘のほとんどが単なる街娘などではなく、多くの冒険を乗り越えてきたであろう者たちであることも。

「はいはーい! 順番にお伺いしますねー!」

 今も店の真ん中で笑顔を振り撒いているシルと名乗った人物が、恐らくは……。

「……ここで勤めることは貴方にとって多くの学びや経験を齎すだろう。店主や店員にも癖のある人物が多い様子だし、尚更に」

 アルテミスはそこで思考を止めた。

 少しずつ暖まっているのだろうベルたちの関係に冷水を浴びせるような真似をする資格など、この身は持ち合わせていないではないか。

 そういう、下向きな自戒であった。

「そうなんです! もう毎日毎日ビックリすることだらけで! お店のみんなも面白いし!」

「彼女たちとは仲良くなれたのか?」

「なれました! みんなとっても優しくて! それはいいんですけど……可愛い可愛いっていっぱい言われるのだけはちょっとやだなあって……」

「こうも喧々囂々とした場所だ。貴方に癒しを求めてしまう気持ちも理解出来てしまうな」

「い、癒しって……」

「それこそ、アストレアの子供たちもここの少女たちと同じような接し方を貴方にしているのではないか?」

「輝夜さんやライラさんとかはちょっと違いますけど大体みんなそんな感じで……あ! そうだ! アルテミス様に聞いて欲しいお話があるんです!」

「どんな話だ?」

「ファミリアのみんなのことです! ちょっと愚痴っぽいお話が混ざっちゃうと思うんですけど……」

「構わない。聞かせてくれ」

「はいっ!」

 そうしてベルは、心から好いている母と姉たちのことを語り始めた。

 アストレアの可愛らしい一面。同じ屋根の下で暮らす姉たちへのちょっとした不満など。しかしベルから飛んでくるのは本当に細やかで愛らしい内容で、愚痴と呼称するのも馬鹿らしいような微笑ましい話ばかり。それに対し、これっておかしくないですかと第三者視点からの意見を求めたり、不満を口にしていたと思ったら結局は身内自慢になっていたり。

 アルテミスはアルテミスで自身の眷属たちの話をするなど、徹頭徹尾聞き手に回るだけでなく話題の提起も率先して努めていた。

 自分以外の事となるとえらく饒舌になるベルと、第三者視点、女性視点、神視点と、多角的な立ち位置から言葉を返すアルテミスの会話は、会話の主役が自分たちではない今の方が弾みに弾んだ。いつの間にか二人の前には本日限定のメニューらが並び、いつの間にか食べ尽くし終えていた。

 止まらない二人の会話の外。

 忙しなく足を運びながらしかし。値踏みするように。確かめるように。

「ふーん」

 特にアルテミスの横顔に何度も目を向けては、何処か不満そうな声を漏らす街娘が一人いることに、ベルもアルテミスも気が付かない。

「それでそれで、今度はどっちの方が長く水に潜っていられるかでケンカ始めたんですリューさんと輝夜さんが! そしたらそこにアリーゼさんが乱入しちゃって……ぁ……」

 止まらない話の最中。少しばかり表情を曇らせたベルが、忙しなくキョロキョロとし始めた。

「どうかしたか?」

「え? あ! や! なんでもないです! はいっ! 全然なんでもっ!」

 全然なんでもあるらしい。どうしたことだろうとベルが気にしている方向に意識を向けてみる。

「……なるほど」

 裏方までもが表に引っ張り出されているらしく、シルを筆頭に多くの従業員が小走りで店内を右に左にと実に慌ただしくしている。祭が齎す開放感が客たちの財布を緩くさせている影響なのだろう。

「行ってくるといい」

「へ?」

「店の手伝いをしたいのだろう?」

「そ、それは……!」

「私のことは気にしなくていい。貴方の望みを叶えることが最優先だ」

「で、でも……僕たち今……デートで……その……」

「貴方にそんな顔をさせたままでは楽しもうにも楽しみきれそうもない。私とのデートをまだ楽しみたいと思ってくれるのならば、貴方の笑顔を取り戻すことが何より大切だ。それに、張り切る貴方の姿を見物させてもらえるいい機会だ。ここでの鍛錬の成果、見せてもらうとしよう」

「アルテミス様……」

「ほら、貴方を頼りにしている者たちが貴方を待っているぞ」

「…………すいません! いってきます!」

「ああ」

 足の付かないカウンター席からぴょんと飛び降りアルテミスへ向け深々と頭を下げた勢いそのままに店の裏側へと飛び込んでいくベルの小さな背中を見送る。

「お疲れさまですアーニャさん! 僕にもお手伝いさせてください!」

「んニャ!? 白髪頭!? おミャー今日は来ないって言ってなかったかニャ!? んーまあいいニャ! 猫の手も借りたいくらいニャ! ちょっと手伝っていくニャ!」

「はいっ!」

 酒盛りの喧騒の向こうから聞こえたベルと従業員のやり取り。音の発生源だろうカウンターの向こうに見える厨房の様子を凝視していると、他の従業員たちと揃いのエプロンを身に付けたベルがパタパタと小走りで右往左往している姿が早速目視出来た。

「気を回し過ぎだよあの坊主は……邪魔してすまないね、女神様」

 ベルを眺めていると、眉をハの字にした店主のミアが申し訳なさそうに声を掛けてきた。

「いい。ここでしか見られない彼の姿も見られた。彼のこと、どうか良くしてあげてくれ」

「言われるまでもないよ」

 一笑と共に首を振って返すと、フレイヤ・ファミリアの元団長は、豪快な笑みを見せてくれた。

 ミアの向こうのベルの行方だけを目で追っていると、ベルはベルでアルテミスの様子も気になるらしくちらちらとこちらを覗ってくるもので、幾度も視線が重なった。その度、頬を赤らめたベルはこちらに笑顔を向けてくれた。

「ふふ……」

 アルテミスの口元から勝手に溢れ出す笑声。

 楽しい。

 どうやらこの身この心この魂は、そう感じているらしい。

 彼と二人でいればいるだけ楽しい。弛緩した頬がなかなか元に戻ってくれないのは彼の所為だろう。なんともだらしのない姿を見せるではないか、処女神たるこの身が。しかしこうなのだから仕方がないだろう。こうなってしまうのだからしょうがないだろう。

「…………」

 けれど、不思議なもので。

 違う。私が楽しんでいてはいけない。私が楽しむのではなく、彼を楽しませてあげなければならない。

 楽しいと思えば思うほど。汚れのない白い輝きを放つ少年に近付けば近付くほど。

 それは違う。お前が素直に楽しんでいてどうするのかと、誰かが語りかけるのだ。

 その声は、間違いなくこの身の声であって。

「浮かない表情をされていますね」

 至近距離で囁かれたソプラノが、ベルのことだけを追い掛けていた視線を声の主へと誘導した。

「折角のお祭で折角のデートなのですから、もっと楽しそうに笑わないとですよ、女神様?」

 従業員の誰よりも忙しなくフロアを動き回っていたシルが、アルテミスの背後で動きを止めていた。

「……シル、と言ったか」

「はいっ」

「私は、浮かない表情をしているか?」

「はい。そんな、無理矢理に貼り付けたみたいな笑顔をしていたらわかっちゃいますよー」

「貼り付けた?」

「有り体に言うのなら、心の底から笑えていない、って感じでしょうか」

 周囲で従業員たちが右往左往している中、ただ一人だけ不動の姿勢を見せるシルに、間近で眺めているミアは何も言わない。彼女の性格ならば怒鳴り散らしそうなものなのに。

「……ベルさんは何も知りません。女神様との逢瀬を心から楽しんでいるだけです」

「……何が言いたい」

「……重ねてあげないでください。比べてあげないでください」

「先から何を言っている?」

「貴方は、貴方の知らない彼と、貴方の目の前にいるあの子を、ずっと重ねている」

「……!」

 シルを捉えた両の目が大きく開かれていくのが知覚できた。

「貴方のそれは、ただの罪悪感。やっていることは、ただの罪滅ぼし」

 きっと驚愕や苛立ちを滲ませていたのだろう自身の表情が、すっと冷めていくのがわかった。

「罪滅ぼしをするにしても、それはあの子に対してするべきことではないでしょう? あの子に罪滅ぼしをしても何も戻りもしない。誰も喜びも、浮かばれもしないんです」

 シルと名乗った少女の言葉が、腑に落ちてしまったから。

「罪悪感から抽出された優しさなんかであの子に寄り添おうとしないでください」

 懇願。哀願。

 シルの言葉から滲んでいたものは、決して怒りの色などではなかった。

「…………そうか……」

 罪悪感。

 それだ。それだったのだ。

 ようやく言語化することが出来た。

 一つの気付きを得たアルテミスは、引っ張られていたなと理解した。

 ベル・クラネルにではない。アルと名乗った少年に。アル自身の話を。アルとベルの関係を聞いた時よりそうだったのだと。

 直接面識はない。顔だってベルとはまるで違っているかもしれない。しかし不思議と、ここにはいない少年を思うと心が暖かく解されていくような感覚がある。それこそ、この身が咎人であることさえ忘れさせてしまいそうなほどに。

 同時に。何処までも暗澹とした何かが、泉の如く心中に広がっていく。

 経緯の全てはわからないが、自分の甘さが発端で下界を滅ぼしかねない騒動が巻き起こった。

 その所為で、一人の少年の心を深く傷付けてしまった。

 そしてきっと。違う世界の自分は、その少年の心を利用した。

 槍の特性を誰よりも知っている私が。罪の意識に掻き立てられた私が。下界を救う為に息巻くであろう私が。その選択を躊躇うことなどきっとない。

 アルという少年を利用し、全てを押し付けてしまった愚かな女神の傲慢。独善的なエゴ。

 これを罪過と呼ばずしてなんと呼ぶ。

 私は、何かで返したかった。彼を楽しませたかった。不快な思いを与えたくなかった。彼に笑っていて欲しかった。何かと至らない事だらけである処女神たるこの身でも彼に対して出来る限りことをして尽くしたい。

 もっと言ってしまうならば、あれほど清いベルに限ってあり得ないだろうが、ベルがこの身を欲するのならば好きにさせてしまおうとすら考えてしまっていたなと、アルテミスは己を理解した。

 ベルに触れられて拒否反応を起こさなかったのは、ベル自身の人柄は勿論として、その覚悟がアルテミスの中で既に形成されていたからなのだということも、今更理解が追い付いた。

 罪悪感と罪滅ぼし。そのワードをシルから提示された今ならば、判然としないまま頭の中に揺蕩っていた言葉たちを正しく読み解くことが出来たし、自身の行動の全てが既に完了していた理由付けに基いていたことも理解出来た。

「的外れなことばかり考えていたのだな、私は……」

 ベルの人柄に心を解きほぐされながら、アルを探していた。

 アルに返したいはずのものを、ベルに返そうとしていた。

 そして、ベルとアルの幸福、未来を願いながら、ベルとアルにこの身の断罪を求めていた。

 なるほど、何もかもが的外れではないか。こんな為体で矢術のなんたるかを眷属たちに語り聞かせていたのか私は。

「貴方が傷付けてしまったのはあの子じゃない。貴方にも私にも出会うことの出来ない誰か。きっと彼だって、貴方にそんなことを求めはしないでしょう」

「どうしてそう思う?」

「あの子を見ていればわかるじゃないですか」

 顎先で厨房の方を見るよう促された。それに大人しく倣うと、忙しなくちょろちょろと駆け回りながら心を許しているのだろう共に働く仲間たちへ、弾けるような笑顔を向けている少年の姿を見ることが出来た。

「あの子は、自分の苦しみや悲しみを誰かに押し付けたりなんか出来ない子ですから。女神様だって、本当はわかっていらっしゃいますよね?」

「…………そうだな……」

「だったら尚更です。んーと……まあ、あの子自身をちゃんと見てあげてと、とある女神様に怒られたことのある私が言えたことではないのかもしれませんけど……」

 自虐的な苦笑。しかし、苦味は直ぐに消し去って。

「他の誰かではない、アルテミス様の前で笑っているあの子自身を見てあげてください」

 シルは笑った。

「あの子を見ていて感じたものを、アルテミス様の中で大切にしてあげてください」

 貴方はきっとそれだけでいいんだと、私は思います。

 そう付け足したシルは、少しだけ恥ずかしそうに右小指の先端で頬を掻いていた。

「……貴方は……」

「はい?」

「…………いや、貴方のもう一面には見当が付いた。それだけでいい」

「もう一面って何のお話でしょうかー?」

「とぼける必要などない。何れにしても詮無いことだ。追求するつもりもないし拡めるつもりもない。ただ一つ、言わせて欲しい」

「なんでしょう?」

「過保護だ、貴方は。それもとびきりに」

「そこは、深ーい愛情を胸に秘めた弟思いのお姉ちゃん、って言って欲しいですー」

「よく言う…………敵わないな、貴方には」

 ふざけた調子のシルの文言は、アルテミスの笑顔を引き出した。

「それ! それですよ、女神様っ」

「うん?」

「ベルさんに見せて欲しいのは、そういう笑顔です」

「違いがわからないのだが……」

「大丈夫ですっ。女神様にわからなくても、女神様を見ている人たちならわかりますから」

「そういうものか」

「そういうものですっ」

「…………シル」

「はい?」

「ありがとう」

「私は何もしてませんよー?」

 朗らかに笑って、気ままな風のようにゆらゆらりと、シルはアルテミスの元から離れていった。

「はあ……」

 女神の溜息は祭の熱に飲み込まれ、誰の耳にも残ることなく掻き消える。

 考えなくてはならない。

 彼と、何をしたいか。

 彼が、私に求めていることは何か。

 私は、彼とどうなりたいか。

 罪悪感など原動力にすることなく。彼に対しての贖罪などではなく。

 彼のこれから。私のこれから。彼と私のこれからを考えろ。

 いつまでも悲劇のヒロイン面をしていないで顔を上げろ。前を見ろ。未来を見ろ。

 自分を真っ直ぐに見つめてくれる少年から目を逸らすな。

「私は……」

 周囲の喧騒に一人取り残されたみたい。

 誰かの熱が微かに残っている隣の空席の座面を撫でた女神はそれ以上何も発する事なく、静かに自分の世界へと埋没していった。

 ややあって。

「お待たせしましたアルテミス様っ!」

 俯き気味であった視線が、溌剌とした声に引っ張り上げられた。

「……もういいのか?」

「はい! 一番忙しい所は過ぎたからもう大丈夫ってみなさんが! 長くて離れてしまってごめんなさい!」

「気にしなくていい」

 エプロンを身に付けていた時間はそれほど長くはなかったはずだが、密度の高い激務だったのだろう。前髪の隙間から見えるベルの額には汗の玉が浮かんでいた。

「ほら、動くな」

「ふにゅ!?」

 カウンター上に設置されている紙ナプキンを手に取りベルの額や頬を拭ってやると、ベルの頬が一瞬にして真っ赤になってしまった。

「これでよし」

「あ、ありがと……ござます……」

「仲間の窮地を救うべく身体を張る貴方の頑張りをずっと見ていた。なかなかに立派だったぞ?」

「ふぁ!?」

 照れを隠せないベルの頭を、アルテミスの右手が撫でた。

 その手付きは、昼食時のそれよりずっと優しく、柔らかいものであった。

「さて、これからどうしようか」

「こ、これから?」

「あまり深い時間まで貴方を連れ回してはアストレアたちに怒られてしまうし、これ以上はと思うのだが……」

「……アルテミス様?」

 ベルの頭上を離れた右手を自身の胸の前できゅっと握るアルテミスを見て何かを感じたベルが、少し俯き気味なアルテミスの瞳を低い所から覗き込む。

「率直に言おう」

「は、はい……」

「もう少し、貴方と話がしたい。二人だけで過ごしたいんだ」

 今日一日楽しかった。嘘じゃない。ベルも同じ気持ちだと嬉しい。

 しかし、それだけで終わってはいけない。

 大切なことに気が付けた今、このまま別れてはいけない。

 まだ、彼に伝えたいことがある。

「僕は全然大丈夫ですけど……」

「ありがとう。ならばもう少し、私に付き合ってくれ」

「はいっ。えっと、それじゃあどうしましょうか? 二人でお話をするんだったら何処かに移動した方が」

「それでしたらっ」

「うわぁ!?」

 ベルの背中から二本の腕が生えたと錯覚するくらい滑らかに、シルの細腕がベルに絡み付いた。背後からハグをされたベルときたら大袈裟なくらいに慌て散らかした。

「私にいい考えがあります」

「し、シルさん!?」

「盗み聞いていたのか? 全く……自由過ぎるぞ、貴方は」

「たまたま耳に入ってしまっただけですよー。要するにお二人は、二人きりになれる、雰囲気の良い場所を探しているってことですよね?」

「や、雰囲気は別に」

「待ってくれ」

「え?」

「折角のデートなのだ、そこは拘ろう。誰にも介入されず二人きりになれて、雰囲気が良い場所。貴方は何処か知っているだろうか?」

「でしたら少しお待ちを!」

 パッとベルから離れたシルが小走りで店の裏側へと引っ込んで行く。

「……アルテミス様……?」

「なんだ?」

「あ。え、あの…………なんでもないです……」

「そうか」

 ベル自身が言語化出来ていない以上、言い淀むしかなかった。

 アルテミス様、僕が酒場のお仕事している間に何かあったのかな。

 言い知れぬ違和感に思考が蝕まれていく。

 しかし不思議なもので。

 いやーな感じそのものはこれっぽっちも感じないベルなのであった。

「お待たせしました! これをどうぞ!」

 たたたっと駆け戻ってきたシルは、ベルではなくアルテミスに、一封の封筒を手渡した。

「これは?」

「お二人が望むいい感じのあれそれへの招待状です。それをですね、バベル一階の受付さんに渡してください。あ、中身を改めるのは厳禁ですよー?」

「それは了解したが、バベル内に二人きりになれるような場所があるだろうか?」

「あります。それはもうとっても素敵な場所です!」

「それって?」

「ちょーっと気取った言い方をするのなら」

 きょとんと首を傾げるベルに向け、こちらも小首を傾げてみせながら。

「このオラリオで一番、月に近い場所です」

 シルは、満面の笑みを浮かべた。

 

 × × ×

 

「う、うわわ……!」

「月に一番近く、二人きりになれる。何も嘘ではなかったが……」

 微かに怯えの混じった声のベルと、若干の呆れや驚きの混じったアルテミスの声も、西のメインストリートを走っていたものよりも鋭く肌を刺す寒風に連れ去られていく。

「少し寒いでしょうから暖かい格好をして行ってくださいね! 近くの露店で神月祭限定のポンチョとか売っているみたいでしたよ!」

 と、シルに言われていたので、アルテミスの支払いで揃いのポンチョを購入。ベルに合うサイズは売っておらず、まだまだ途上のベルの身体は丸っとポンチョに飲み込まれているような有様である。

「こんな機会は二度とないかもしれないな」

「バベルのてっぺんに来れるなんて……わわわ……!」

 シルから渡された封をバベルの受付に渡すなりどうぞどうぞの歓待モード。ベルとアルテミスが困惑している間に、バベルの頂上。天辺に通ずる階段まで案内されてしまった。

 昼間の買い物デート以来のバベル。

 一振りの剣が『悪』を断罪し、大抗争と呼ばれた凄惨な日々を終わらせた頂き。

 一人と一柱のデート、その最終盤の舞台として選ばれたのは、オラリオの誰もが見上げることが出来て、オラリオの誰もが簡単に入れるわけもない、確かに二人きりになれる場所。

 今夜は雲が多いのか、下界の夜を照らしてくれる月が隠れがちなのが少々残念ではあるが、なるほど確かに、オラリオの何処よりも月に近いスポットだった。

「こ、この場所ってこんなに簡単に入れちゃうものなんでしょうか……?」

「シルという娘の書状があってこそだろう」

「一枚の手紙だけで許可が出るなんて……」

「彼女が言うには、バベルの偉い人の弱みを握っているから大丈夫、なのだそうだ」

「ほ、ほんと何者なのシルさんって……」

 非日常過ぎる高度に身を置いている事実と、自分の姉を名乗るシルのおっかない一面に触れたような気がしたベルは、その小さな身体をぶるりと震わせた。

 ちなみに。

「お礼なんていいんですよー。ただー? 強いて言うならー? ベルさんに、お姉ちゃんって呼んでもらいたいなー。みたいな?」

 と、シルとの別れ際にこんな要求をされた。周囲の目を気にしながら控えめに要望に応えると、ありがとうございますー! と思いっきりハグをされた。

 嬉しそうに笑うシルと照れ倒すベルが引っ付く様を眺めるアルテミスもまた、静かに微笑んでいた。

「さて。呆けていても仕様がない。折角だ、下を見てみよう」

「はい……」

「手を」

「へ?」

「これならば怯える必要もないだろう?」

「……は、はい……」

 当たり前みたいに差し出されたアルテミスの手を、幾度かの躊躇を挟んでから握る。女性らしい柔らかくしなやかな手から伝播した熱はベルの頬にまで届いたらしく、赤の差し色を加えた。

「歩こう」

「はっ、い……!」

 躊躇なく天辺の縁にまで歩いていくアルテミスに置いていかれないよう引け腰になりそうな両足にも心にも鞭を打ち、歩幅にも歩調にも意識して梃入れを施す。

「すまない。ゆっくり歩くとしよう」

「い、いえっ! 全然っ!」

 ベルの努力などアルテミスには透けて見えていたようで、謝罪の言葉と共に歩調を緩めた。そのままぴたりと寄り添うようにして二人は、バベルの天辺を巡った。

 天辺をぐるりと回る間、アルテミスは何も言わなかった。ベルも何も言わない。

 始めこそ高度への恐怖が勝っていたが、それもあっという間に消え失せた。

 手にじゃが丸くんを持って駆け回る少年少女たち。打ち鳴らされる楽器の音色に合わせて歌い踊る人々。肩を組んで酒と今に酔っている大人たち。

 平和に見えて何処か殺伐とした空気をいつだって内包しているオラリオ。

 しかし。今のオラリオは、ベルの知らない一面を見せている。

 それに驚く。それが嬉しい。それが楽しい。

「わあ……」

 見上げるばかりだった祭の景色を見下ろせたこの感動は筆舌に尽くし難いもので。

「すごい……はは……!」

 ベルの口から溢れ出した感動や高揚は、何度となくアルテミスの耳を撫でていた。

「綺麗なものだな」

 手を繋いだまま緩慢な足取りで一周を終えようかという頃合い。ベルと並んで下界の灯火に目を奪われていたアルテミスが、口を開いた。

「貴方もそう思うか?」

「はっ……!」

 はい。勢い良く全力の肯定で返そうとした。しかしその一言は喉元につっかえて、体内へと帰って行ってしまった。

「うん?」

「…………き、れい……です……」

 アルテミスの質問に正しく返せているのか、自分でもベルはわかっていなかった。

 低い所から届く祭の灯に照らされたアルテミス様の横顔が、とっても綺麗です。

 今日しか見られないかもしれない景色よりもずっとずっと綺麗です。

「はぅうぅ……!」

 言えない。言えるわけがないよ……!

「そう言ってもらえるならば来た甲斐もあったと言うものだが……まあいい。座ろう」

「はっ、はい……!」

 ベルの様子を不思議がるも追求は無し。手を離した二人はバベルの天辺、その中央に腰を下ろした。

「寒くないか?」

「だっ、大丈夫です! これのおかげでっ!」

 サイズの大きなポンチョの裾をパタパタして見せながらベルが笑う。生まれたばかりのドキドキに煽動された所為か、どうにもオーバー気味な反応になってしまった感がある。

「ならば良かった」

「はいっ! でも本当にすごい! こんな景色が見られるなんて! とっても大切で、とっても特別な思い出に…………むぅ……!」

「いきなりどうした、頬を膨らませて」

「なんでもありませんっ。ちょっとよくないことを思い出しちゃっただけですっ」

「なんでもなくないではないか、そうも肩を怒らせて。私で良ければ話を聞かせてもらえないだろうか?」

「へ?」

「今ならば他の誰の目も耳もない。それに、貴方の苛立ちの中身が気になってデートを愉しむ何処じゃなくなってしまいそうだ。ならば貴方の苛立ちを解消することは貴方の為でもあり私の為でもある。共により良いデートを目指そうじゃないか」

「…………」

「どうした?」

「い! いえっ!」

 やっぱり何か違う。酒場に寄ってからのアルテミス様、何かが違う。

「……じゃあ…………みんなには内緒にしてくださいね?」

「もちろんだ」

 ずっと感じ続けている違和感に慣れることなどないが、考え込んでいても仕方がないと割り切って、ベル的には少々恥ずかしい話を聞いてもらうことにした。

「少し前のことなんですけど、フレイヤ様に質問をされたんです」

「それは?」

 ベル。貴方にとって一番大切なものは、何?

「って聞かれました」

「貴方は何と答えた?」

「フレイヤ様!」

「ほうほう」

「と!」

「と?」

「アストレア様とうちのファミリアのみんな! シャクティさん! フレイヤ・ファミリアの人たちも! ヘルメス様やアスフィさん! 豊穣の女主人の皆さんも! それから……!」

 先ほどの膨れっ面も何処へやら。アルテミスが目を丸くしている前でベルは、自分の思う一番を指折り数えながら、思い付く限りの名をたくさんたくさん呼んだ。

「あとは村のみんなと、最後にお祖父ちゃん! って答えたんです!」

 両手の指は疎か両足の指を足してもまるで足らない、自分の中の一番大切なものを列挙し終えた少年は、アルテミスがぽかーんとしている前で朗らかに笑っていた。

「僕、真面目に考えて真面目に答えたんです。それなのにフレイヤ様ったら……いきなりお腹を抱えて笑い出したんです!」

 笑顔から一転。小さな二つの拳をぐーに握ってアルテミスに顔を近寄せるベルの頬は、真っ赤に染まっていた。

「なんで笑うんですかって聞いても、だって仕方ないじゃないってずっと笑ってるんです! しかも笑い過ぎて涙が出てきたーとか言って本当に泣いてるんです! あれ酷いと思うんです! 僕は真剣に答えたのにっ!」

「…………ぷっ」

「へ?」

「はは……あははははっ……!」

「あ、アルテミス様ぁ……!?」

 ぷんすかぷんぷんするベルの前で、アルテミスが大きな声で笑い始めた。瞳に涙を溜めお腹を抱えて笑う姿は、つい先日フレイヤが見せたそれと全く変わらない。

 ただ。ベルは知らなかった。

「そういうことだったのか……あはは……!」

 あのアルテミス様が。あんまり笑ってくれないアルテミス様でも、こんな風に笑うんだ。

 こうしてにっこり笑うと、もっともっと可愛いんだ……!

「大切という言葉にフレイヤが過剰な反応を見せた時からずっと引っ掛かっていたのだがなるほど……これは仕方があるまい……!」

「な、何がそんなにおかしいんですか!? 僕は普通に答えただけなのに……!」

「違う、違うぞ。おかしいんじゃない。嬉しかったのだ」

「う、嬉しい?」

「フレイヤは貴方を馬鹿にしていたわけじゃない。貴方の答えがとても嬉しかったのだ。貴方が迷うことなくフレイヤの名を最初に挙げてくれたことも、とても貴方らしい答えを返してくれたことも」

「そ、そうなのかなあ……?」

 首を傾げる少年にとっては当たり前のことなのだろう。

 何が。誰が。じゃない。上もなければ下もない。

 何もかもが一番。誰も彼もが一番。

 まだまだ短いベル・クラネルの人生に素敵な色を注いでくれる人々、その全員が一番大切。

 ベルの純粋さを知り尽くしているフレイヤでさえ予想外の答えだったことだろう。

 容易に想像が出来る。瞳をキラキラに輝かせたこの少年が、眼前で微笑む美の女神に先の答えを返した瞬間を。

 目を大きく見開いたフレイヤがお腹を抱えて笑い始め、ベルが慌てふためいて、近くにいたフレイヤの子供らやアストレアとその子供たちも笑いを噛み殺そうとして盛大に失敗しベルを怒らせてしまう。そんな、慈しみに溢れた光景が。

 なんたる無垢。なんたる純白。

 しかし、それ故に危うい。明確な悪意に晒されたら、容易く色を上塗りされてしまうのではないか。

 そういう危惧が、どんな瞬間にもこの少年には付き纏っている。

「彼女たちが過保護になってしまうのもわかるな……」

「はえ?」

「なんでもない。その件に関してはフレイヤを責めないでやってくれ。貴方には理解出来ないかもしれないが、彼女にとってこれ以上なく嬉しい答えだったのだ。私が彼女の立場なら同じように笑ってしまっていたことだろう。今のように」

「そ、そんなにですか!?」

「そんなにだ」

 先ほどの大笑いで浮かんだ涙をぶら下げたままのアルテミスの手が、納得いかなさそうにうんうん唸っているベルの頭を撫でた。

「まだ貴方の知らないフレイヤの笑いのツボに貴方が触れた。そんな程度の認識でいい。寧ろ貴方はあのフレイヤを笑わせられたんだと誇っていいくらいだ」

「笑わせたというか笑われたって感じでしたけど……でもっ。アルテミス様が言うならきっとそうなんですね! ありがとうございますっ!」

「……本当に大切なのだな。フレイヤたちが」

「はい!」

 さっきまで見せていた微かな苛立ちはどうでもよくなったのか、アルテミスの右手にされるがままのベルがにっこり笑って大きく頷く。

「そうだ! 僕、アルテミス様に聞きたいことがあるんです!」

「いいぞ。なんでも聞いてくれ」

「はいっ! じゃあじゃあ……!」

 例えば。

 好きな食べ物。苦手な食べ物。今まで行った中で思い出に残っている場所。今までにした冒険の中で印象に残っている冒険。などなど。

 自分に近しい誰かの話をすることにばかり夢中になっていたベルは一転して、アルテミス自身のことをたくさんたくさん尋ねた。

 本当はもっと前からこうしてたくさんのことを聞いてみたかった。しかし、緊張が勝っていた。聞いても怒られないかなとか、よくない方向にまで思考が伸びていたきらいもあった。

 けれど、もう大丈夫。アルテミス様なら、笑って答えてくれる。

 その確信を抱けるようになった今だから、ベルは思い切って踏み込むことが出来た。

 そうして二人は、語りに語った。

 静かになっていく祭の余韻を肌で感じながら。雲に覆われた月の下で互いの目を見つめ続ける一人と一柱は、これでもかと喋り倒した。

 そんな、終始和やかな雰囲気の中。

「ベル・クラネル。貴方の夢は、なんだろう?」

 穏やかな微笑みを湛えた女神が、ベル・クラネルの源泉に触れた。

「そ、その…………いつか、アストレア様やアリーゼさんたち、フレイヤ様たちのことも守ってあげられるような冒険者になるのが僕の夢なんです……!」

 少しだけ恥ずかしそうに。けれどちゃんとアルテミスの目を見ながら。ベル・クラネルは夢を語った。

「……大きな夢だな」

「僕もそう思います」

「けれど……うん。いい。とても貴方らしい」

「あ、ありがとうございます!」

「しかし実現はまだまだ先のことになりそうだ。何せ頼りないからなあ、貴方は」

 アルテミスらしからぬ揶揄うような響きが混じった文言を受けうぐぅと喉を鳴らすも、頼りない少年は即座に喰らい付いた。

「が、頑張ります! 今直ぐには難しくても、とっても頑張りますっ! とっても頑張っていつか……」

「うん?」

「あ、アルテミス様のことも……守ってあげられるように……なりたい……です……」

 ベルはありったけの勇気を振り絞った。

 紛れもない本心ではあるけれど、知り合って間もない女性のことを守るだなんて口にするのはなんかズレてるよなあくらいのことは、幼いベルにだってわかっていたから。

「……私のことを守りたいだなんて、おかしなことを言うものだ」

「だ、だって……アルテミス様は……女の子だから……」

「それは男女差別というものか?」

「違います違います! 全然そういうことじゃないです!」

「じゃあどうして?」

「え?」

「どうして貴方は、女の子を守りたいと言うのだろう」

 夜風に踊らされた髪を抑えながら、アルテミスは首を傾げた。

「その……女の子は男の子が守るものだからってお祖父ちゃんに教わってて……」

 祖父にそう教わったから。というのは当然ある。けれどその教えの外で、ベルは自然とそう思っていた。男の子が女の子を守るのは当たり前のことだと思っていた。

「でも今はそれだけじゃなくて……」

「聞かせてくれ」

「……僕、とっても可愛いお姉さんたちと一緒に暮らしているんですけど……ある時、ファミリアの何人かが、大きな怪我をして帰ってきたことがあったんです」

 ダンジョン内で冒険者依頼(クエスト)があるんだー。そう言って、晴れやかな笑みで出掛けて行ったその夜の出来事だった。

「いつも着ているお洋服にたくさん血が付いていて、ほっぺに大きな傷が出来ていて、腕とか足とかに包帯を巻いていて……」

 いやーやらかしちゃったなー。って、なんて顔してるのよーベルー。こんなのなんてことないんだから。でも、心配させちゃってごめんね?

 その姉は、目に涙を溜めていた自分を見て無理矢理に声を張り、無理矢理に笑っていた。

 自分にそれ以上の心配をさせないように。怖さを和らげるように。

 その夜のベルは、怪我をして寝たきりになっていた姉たちに付き添って一睡もしなかった。ベルにちょろちょろされたら気になって眠れないじゃんかーと笑われても、傷付いた少女たちの元から離れることをベルは酷く嫌った。

「あの時のことが、すごく怖かったんです」

 朝。同じご飯を食べて、おしゃれな服を着て面白いお話をしてくれた人が、一人で歩くことも出来ないような有様で。見た事のない姿で帰って来た。

 生きた心地がしなかった。代わりに自分が痛みを引き受けられるなら引き受けたかった。自分が泣いたら良くないってわかっていても涙を隠しきれなかった。

「あんな思いはもうしたくありません」

「だとして、貴方に何が出来るだろうか? 今の貴方の力では貴方の慕う者たちを守ることなど叶わないだろう」

「……悔しいし情けないことですけど……今の僕じゃみんなを守ることなんて出来ない。今の僕じゃみんなと肩を並べて戦うことすら許してもらえない」

 不快感を伴う音が口腔内で響いた。言葉に起こしたら余計に悔しさが込み上げてきて、自然と歯軋りをしてしまっていたらしい。

「ならばどうする?」

本拠(ホーム)にいる時、みんなが普通の女の子でいられるよう、あの場所を守りたい」

 自分を見下ろすアルテミスの目に視線を重ねて、ベルはそう言った。

「剣とか杖とか、そういうのがみんなには似合う。みんなが強いのもわかってます。でも、武器を持っていない時のみんなは、一人の可愛い女の子だから」

 末っ子と呼び自分を可愛がってくれるお姉さんたちは全員冒険者。しかし、いつだって冒険をしているわけではない。

 ダンジョンに潜らない日は可愛い洋服を着て、いつもよりお化粧を頑張る日がある。丸一日買い物して回る日がある。お料理の練習をする日がある。美容美肌を意識して一日中お肌と向き合っている日がある。一日中だらーっとしていたり、ずっと本を読んでいたりする日がある。

 ベル・クラネルの姉たちは、冒険者である以前に、女の子。

「みんなが僕のことを守ってくれていることはわかってます。だから僕も、みんなが守りたいものを守れるように。みんながみんなの正義を守れるよう、みんなの居場所を守って、みんなの正義を支えたい。みんなが、安心して女の子をしていられるように」

 その当たり前を、守りたい。

「そういう時間を僕が守りたい。支えたいって思うんです」

 アルテミスに向けていた目を雲の切れ間から月明かりが漏れ出している上空に向けて。

「そうしていつか、本当の意味でみんなを守れるようになりたいです」

 ベル・クラネルは、少しだけ形の変わった自分の願いを口にした。

「ごめんなさい、質問の答えになってなかったかもしれません。たはは……」

 照れ臭そうにはにかんで、後頭部をぽりぽりと掻いてみせるベル。

 正直に言うと、ベルは背伸びをした。それらしいことを言わなきゃと頑張ってみた。

 けれど、あくまで背伸び。誰かの言葉や思想を掠め取ったものでもない。少しでも高くとピンと伸ばした体の中にあるものだ。

 自分の弱さなんてわかっている。悔しいくらいにわかっている。冒険者になった今、ランクだステイタスだ魔法だスキルだ訓練だのと、強さを比べられる物に触れすぎて泣きたくなるくらい自分の弱さを痛感させられている。

 こんなんじゃ、自分がみんなを守れる日なんてずっと来ないかもしれない。

 なんて、言いたくない。認めたくない。

 アストレア、アリーゼ、リュー、アーディ。フレイヤ。フレイヤの子供たち。彼女たちの前で初めて口にしたこの願いだけは、絶対嘘にしたくない。

「大丈夫。貴方の思いは伝わった」

 ベルに微笑みを一つ落とし、緩んだ頬を放置したまま、アルテミスは言った。

「なら良かったです」

「貴方のその思い。それは、貴方の正義だ」

「正義?」

「そうだ。貴方しか持ち得ない、貴方だけの正義だ」

「……僕の……」

 正義とは何か。

 曲者揃いの姉の中でも屈指のスパルタ教官である輝夜に、ベルは問うたことがある。

 決まった正解はない。誰かと同じ正解もない。だから考え続けろ。そして、お前自身が答えを見つけろ。

 そう返された。

 今だって正義が何かなんてわからない。穏やかながらも目紛しい日々の只中にあるもので、正直に言えば輝夜に打ち明けて以降、碌に考えてもいなかった。

「流石は正義の女神の眷属。我知らずの内、今はまだ小さくともやがて大きな花のように咲き渡るだろう正義を胸の内に秘めているとは」

 それなのに、月の女神は言う。

 貴方はもう、正義を宿していると。

「誇っていい、ベル・クラネル。それはとても立派な正義だ。どうか大切に育てて欲しい。しかしあまり難しく考えてはいけない。正義に正しい答えも定義もない以上、生涯を賭して見つけねばならないのだろうから」

「え、えっと……」

「そのままの貴方でいい、という話だ」

「あう」

 つんっと、ぽーっと赤らんでいた頬を人差し指で突かれた。なでなでとも違う戯れ付くようなコミュニケーションに驚くベルの頬の色の赤みが仄かに増した。

「そもそもの話をさせてくれ。貴方から見た私は、女の子なのか?」

「へ?」

「確かに女だが、私は神だぞ?」

「か、神様でもっ、女の子は女の子です」

「何億年も生きているのに?」

「何お、く…………お、女の子ですっ!?」

 出て来た数字の途方も無さに呆気に取られながら発した言葉は前のめり気味になってしまった。

「アルテミス様は可愛い人で綺麗な人で素敵な人で! そ、その……やっぱり女の子ですよ……アルテミス様は……」

「……だとして、簡単には守られてやらないぞ? 何せ、今の貴方よりも私の方がずっと強いのだから」

「っぐ……!」

「夢を見るのもいいが……私を守ろうだなんて一万年早いぞ、坊や?」

「うぅ…………だ、だったら!」

 揶揄うような、挑発するような響きにあっさりと乗せられたまだまだ弱い少年は、アルテミスが微笑む前で勢い良く立ち上がって、二つの拳をぐーっと握り込んだ。

「僕だって強くなります! アルテミス様を守れるくらい強くなりますっ! いつか、アルテミス様がびっくりするくらい強くなって、アルテミス様に会いに行きます!」

「……ああ。いいな。それはいい」

 アルテミスの想像が、高く遠くへ伸びて行く。

 今のベル・クラネルの成長を願い、遠くから見守ろう。そうしていつか、ベル・クラネルと再び視線を重ねる日がやって来る。

 その時私は、どんな顔をするだろうか。

 たらればが許されるならば。この身に許されるならば。その先も見守りたいと思う。

 下界の命であるベル・クラネルと天界の命であるアルテミスでは、尺度が違う。だからこそ見届けられることもある。

 名が変わろうと姿が変わろうとも。ベル・クラネルの魂が何度生まれ変わろうとも。その全て、この目で観測する。

 産まれ直す度、何度だって会いに行こう。何度だって確かめよう。この身を女の子と言ってくれた少年の魂が、この身を守れるだけの器になれているのかを。そうだな、会えなかった年月分の稽古を付けるのもいいだろう。次の彼には傍迷惑かもしれないが。しかし、いいな。それはとってもいい。

 百年先。千年先。一万年先でも。私が覚えていよう。何度でも、彼を見つけよう。

 その為にも、この下界で生き続けねばならない。

 大陸の果てで開放の時を待つ黒き厄災を、越えねばならない。

「そうか……」

「アルテミス様?」

「……いや。貴方に守られる日を楽しみに、貴方の成長を待っているとしよう」

「はいっ!」

 罪人たるこの身が死ねない理由が、また一つ増えてしまった。

「……話を変えよう。私の勘違いでなければ、貴方は私に尋ねたいことがあるはずだ」

「え?」

「今朝からずっと。もっと言えば昨朝からずっと秘めている。そうだな?」

「そ、それ、は……」

「躊躇わなくていい。なんでも聞いてくれと言ったではないか」

 かっと目を見開いたりあっちを向いたりこっちを向いたりと散々に躊躇を重ねたベルは、いよいよと視線をアルテミスと重ねた。

「……どうしてアルテミス様は……僕とデートをしようって……思ったんでしょうか……?」

 それは、ずっと聞けずにいた、ずっと聞きたかったことだった。

「……どうして……か……」

 独り言を溢しながらぼんやりと上空を仰ぐも、やっぱり月は隠れたまま。

 きっと聞かれると思っていた。一応理由らしい理由は彼を誘った際に言葉にしたが、あんなもので彼が納得していないことなど理解している。

 というか、理由は話せないが動向を求める、などと自分は言っていなかったか? なんだそれは。なかなかに不審者ではないか。そんな文言しか用意していなかった自分も自分だが、彼も彼だ。どうして承諾してしまったのだ。そこはもう少し警戒心を持つべきだろう。

 とかなんとか、どうにも思考が脱線したがっていていけない。

 わかっている。

 これは、ある種の逃避だ。

 違う世界で繰り広げられた、知らない自分と知らない彼の冒険。その顛末。

 今ここにいる私を知らない彼が、私を救いたいと願い、行動を興した。

 それが、ここにいる彼とデートをしようと決意するに至った根源であること。

 私とベル・クラネルの間にある、私たちですら正しく識れない繋がり。その全てをここにいる彼に伝えようか。

 アルテミスは、本気でそう考えていた。

 勿論アルの名は出さない。アストレアにヘルメスにフレイヤ。彼女たちがその名を彼へと伏せる選択を選んでいる以上これは大前提として、それでも明かそうと思っていた。明かして何がどうなるでもない。しかし、明かさなければ理由を説明出来ないから。

 けれどそうじゃない。そういうことではないのだと理解した。

 酒場の看板娘の言葉の残響がいつまでも木霊している。

 自分の前にいる彼だけを見ろ。

 目の前にいる彼の為だけの言葉でいい。

 目の前の彼へではない誰かへ向いているこの思いは、ずっと大切に秘めておけばいい。

 もっと素直に。思うままでいいんだ。

「……貴方を、素敵だと思ったから」

「…………はぇ!?」

 そういう反応になるのも当たり前か。ほぼ初対面の女神から、貴方を素敵だと思ったから、なんて理由で丸一日デートしてくれとかなんだそれ過ぎるだろう。口にしているアルテミス自身もなんだそれは状態だ。

 正直に言ってしまえば、素敵云々は初対面の印象ではない。彼との初対面では、アストレアの眷属で初めての男性であり、しかもあのフレイヤと心を通わせているという強烈なインパクトに意識を持って行かれているあまり、彼自身を見ることが出来ていなかった。

 先の言葉はあくまで、今日一日で抱いた思いである。初対面の印象を語っていないことも、デートに誘った理由さえ正しく伝えられないことも歯痒く思う。

 しかし、ベル・クラネルという少年と目が合ってからこの瞬間までに感じたものならばたくさんある。両腕じゃ抱えきれそうにないくらいだ。何も嘘ではないのだ。

「まだ幼いながらとても素敵な人だと感じた。そうして話せば話すほど貴方が特別になっていって、私にとって大切な存在に……」

「アルテミス様?」

「…………質問に質問で返してすまないが」

「は、い!?」

 立ち上がったままのベルへと勢い良く顔を寄せるアルテミス。その勢いに驚いたベルが一歩後退る。

「繰り返しになるが、私は貴方を素敵だと思う。特別だと思う。大切だと思う」

「あ、ありがとうございます……」

「ならばこれは、恋だろうか?」

「……………………へぁっ!?」

 鼻先でアルテミスが見つめる前でぼんっと、ベルの頭が一瞬で沸騰した。

「な、なにっ、を……!?」

「情けないながら、私は何かと至らない身でな。知らないのだ、恋を。子供たちにも言われるのだ。貴方は恋を知らない。それはとても勿体無い。恋は素敵なものなのだからと」

「そっ、そーなんですか……!?」

「天界でも喧しい美の女神に言われたな。恋を知らない私は損をしているだのお高く止まっているだのダサいだの蛮族だの野人だの女神失格だの喪女神だの……!」

「あ、あるてみすさまぁ……?」

 瞋恚の焔を背景で燃え上がらせる貞潔を司る女神の威圧感にカタカタと震える小さき命。

 アルテミス様にこんなお顔をさせる喧しい美の女神様ってどんな人なの!?

 と、別ベクトルの恐怖も抱いてしまったベル・クラネルなのであった。

「あの女神のことはいいとして。貴方はどうだ?」

「へっ?」

「貴方は、恋を知っているか?」

「言葉は知ってますけど……」

「どういう意味だ?」

「す、好き……ってこと……です……」

「貴方は貴方の家族たちや、フレイヤたちのことが好きなのだろう?」

「はい! 大好きです!」

「ならばそれは恋か?」

「へ?」

「私は私の子供たちは勿論、下界の子供たちを好いている。勿論貴方のことも。ならばこれは全て恋か?」

「え? え、っとぉ……!」

 矢継ぎ早に飛んで来るちょっと恥ずかしくなるような質問の数々にタジタジになる九歳児。斯く言うアルテミス本人も幼い少年に何を聞いているのか、なんて思っていたりする。しかし、アルテミスの様子は真剣そのもの。

 前日に、アルテミスは貞潔を司っているとアストレアから聞いた。貞潔という言葉の大雑把な意味はヘファイストスが教えてくれた。

 誰かとお付き合いだのデートだのなんてありえない。恋愛アンチ。

 ヘファイストスはそうも言っていた。

 だったら……そうなんだ。きっと、本当に知らないんだ。

 なら、ここは頑張らないと……!

「それは……恋じゃなくて……そういう好きとは違くて…………えっと……恋って言うのは……誰か一人……たった一人にだけ感じる……すっごく特別で……すっごく大切な好き……って言ったらいいのかな……うぅ……!」

 頑張るぞと意気込んだはいいが恋について考えたことなどなかったベルの思考回路はショート寸前。照れ臭いし気恥ずかしいしなんだか気持ちがふわふわするしで、アルテミスと目を合わせることが酷く難しくなってしまっていた。

「たった一人にだけ感じる……」

「ぼ、僕もよくわからないんですけど……多分そういうものなんじゃないかなあって……思います……」

「…………ならば私にとってのたった一人は、貴方だ」

「……はぇ?」

「私は、貴方に恋をしているのだろうか」

「…………っええぇえ!?」

「?」

 そんなに困らせるようなことを言ったろうか? くらいの認識のアルテミスが小首を傾げる前から、際限のない驚きとドキドキに振り回されるベルが大きく後退りをしてしまった。

「な! なっ、なん……!?」

「教えてくれないだろうか」

 側から見ればほとんど告白劇のようなシチュエーション。しかしそこはそっち方面超絶ポンコツ神生ン億年女神と一般九歳男児。そういう雰囲気になる気配すら感じられない。

「あ、っと…………え、偉そうな言い方になっちゃうかもですけど……お気持ちはとってもとっても嬉しいですけど……ぼ、僕なんかじゃなんというかその……色々変と言うか……いきなり過ぎてどうしていいかわからないと言いますか……アルテミス様とだなんてとってもとっても嬉しいんですけど恐れ多いってやつと言いますか……! そ、そういうのじゃなくて……ですね……!」

 すっかり告白されたつもりになっているベル・クラネルの目がぐるんぐるんと回る。

「ぼ、僕は……アルテミス様のことをとっても特別で……だ、大事な……お友達だと……!」

 テンパりまくるベルが在らん限りの勇気を振り絞り、要らんことを言った。神意はどうであれ、恋の在処を問うている女の子に対して言うべきことでは絶対にない。

「とも……だち……?」

「は、はひ……!」

「…………そうか……」

 しかしそれは誰かにとって、眩しく輝く一条の光のようであった。

「……もう一度言う。私は、貴方を素敵だと思う。特別だと思う」

「あ、ありがとうございます……」

「そんな貴方と、友達になりたい」

「はえ?」

 きょとーんとした表情を見せるベル。

 あ、あれ? 恋が云々って話は何処に?

 とかなんとか、つい数秒前とはまた違う困惑混乱がベルを揺さぶる前で、アルテミスは胸の中につっかえていた何かが静かに溶け落ちていくのを感じた。

 ベルに伝えたい言葉などいくらでもあった。

 その中にある、最初に伝えるべき言葉の数々。その中の一つが、これだった。

 私は、勝手に自分を重くし、彼へ寄せる感情を勝手に重くしていた。

 違う世界の自分。違う世界の彼。その二人に意識も気持ちも引っ張られ過ぎていた。

 この世界に存在していないものを探す余り私は、目の前にいる少年との関係を語れるスタートラインに立てていなかった。

 だから、そこに立ちたい。

 恋を知らない私が恋を語る前に、立つべき場所に立ちたい。通るべきを通りたい。

 神と人。そんな隔たりの向こう側に。

 誰かに舗装されたものでなく。間に何も介すことのない、女神アルテミスと人間ベル・クラネルの繋がりを。

 ここにいる私とここにいる彼だけの関係を、築き上げていきたい。

 幼稚かもしれない。臆病かもしれない。それでも、疎かにしてはいけないと思う。

 私は、ベル・クラネルと友達になりたい。

 今の私の望みの一つが、そういうものなのだろう。

「どうだろうか?」

「ど、どうって言われてもその…………さっきも言いましたけど……僕はもう……アルテミス様のことをお友達だと……」

「ならば、いいか? 私は、貴方の友達を名乗ってもいいのか?」

「も、もちろんです! 僕の方こそ、僕はアルテミス様のお友達って言って」

「いいに決まっている」

「はわ!?」

 アルテミスの右手が伸びて、ベルの左手の甲を包んだ。

「ああ、やはりだ」

 こうして彼に触れても、処女神たるこの身が不快感を微塵も感じない。

 この短い時間の中で彼が、自分にとってどうしようもないほどに特別な存在になってしまった。

 そう証明するかのようだった。

「あ、あのあのあのっ……!」

「初めてだ。私に異性の友人が出来たのは」

「そっ! そうなんですかっ!?」

「ああ」

 テンパるベルの手を少しだけ引き寄せて。

「それが、こんなにも嬉しい……」

 普段あまり笑わない女神アルテミスは、ン億年の付き合いの神友に向けるものとは少し質の違う屈託のない眩しい笑みを、ただ一人の少年にだけ届けた。

「……えっ、と……ぼ! 僕も!」

「うん?」

「アルテミス様とお友達になれて、すっごくすっごく嬉しいですっ!」

 その笑顔の可憐さに心臓のリズムを盛大に取り乱しながら、それでも満面の笑みで、ベルも応えた。

「…………ありがとう」

 右手で掴んだ少年の左手を自らの胸元へと引き寄せて。

「ベル」

 きっと、アルテミスの神友さえも見たことがないだろう何処までも透んだ無垢な笑顔が、ベルの為だけに咲き誇った。

「っ……わ……!」

 直視していることが照れ臭くて恥ずかしくて居た堪れないのに、ベルの紅い瞳はその笑顔の英を視界から手放すことを嫌がって、真っ直ぐにアルテミスを見つめていた。

「ベル。約束をしないか?」

「約束ですか?」

「そうだ。私は明日、オラリオを離れなければならない」

「……そう、なんですか……」

「ああ。私には、どうしても成し遂げならない使命がある。絶対に失敗の出来ないことだ。それを越えねば私に未来はない。私の子供たちにも、私を救おうとしてくれた心優しき者の想いに応えることも出来ない。私に力を貸してくれる心強い者たちもいる。しかし……貴方にだから打ち明けられるのだが……不安が拭えない」

 不安だ。私は、怯えている。

 もしも失敗してしまったら。もしもこの身が違う世界で私が辿った顛末と同じく黒き怪物に取り込まれてしまったら。

 眷属たちの命も。下界の全ても。私の未来を望んでくれた違う世界のベル・クラネルの思いも。私を友と認めてくれたベルのことも。この身が全てを滅ぼしてしまうかもしれない。

 この身が臆した姿を自らの子供たちの前で晒すことなど絶対にしないが、不安は常に付き纏う。

 それを今ならば。この少年にならば打ち明けてもいいと、アルテミスは思った。

「そ、そんなに大変なことが待ってるんですか?」

「ああ。とっても大変なことだ……けれど私は、それを越える」

 浮かんだ恐怖を体内の深い所に押し込んで。

「乗り越えて……また貴方に会いに来よう」

 確かな決意を、アルテミスは口にした。

「そうだな…………五年だ」

「五年?」

「五年後、またここへ来る。貴方の暮らしているこのオラリオへ、必ず」

 今から五年。

 それは、アルと名乗った少年と、月の女神が出会うまでに要した年月。

 もしも未来を変えることが出来たならば。

 もしも女神アルテミスという魂とベル・クラネルの魂が、種族も年齢も世界も時間も何もかもを越えた何かで結ばれているならば。

「私は私の試練を越える。貴方も、貴方だけの試練の日々を越えてくれ。逞しくなっているだろう貴方とまた出会える日を夢に見て、離れ離れながらも共に生きていこう」

 生きる場所など関係ない。アルテミスという魂とベル・クラネルという魂が望んだ形で、約束は叶えられる。

「そうしてまた会えた時は、もう一度デートをしよう。その時までに私なりにデートらしいデートというものを学んでおく。貴方が飛び跳ねて驚くようなデートを遂行出来るほどに己を磨いておくと約束しよう」

「デートを遂行……?」

「五年後の神月祭を二人で回るのもいいな。シルを頼り、またここへ来るのも素敵だと思う」

「……ですね……うん! そうですね! 僕もとっても楽しみですっ!」

 五年という月日は、まだ九歳の少年にとっては途方もないほど未来の話に思えた。だから躊躇った。五年なんて言わないで、直ぐにでもまた来てくれたらいいのにと思った。

 けれど、その五年っていう時間がアルテミスにとってとても重要な年月なんだってことを、なんとなくだけれどベルは理解した。

 アルテミスが越えなければならないという使命が、とってもとっても怖くて大変なんだろうなってことも。

「だから……」

 右手で包んだままの友達の左手をきゅっと握り込んで。

「次に会った時は、五年分のデートをしよう。ベル」

 幼子同士が交わすような幼稚な約束を口にした恋を知らない女神は、恋をしている少女のように、笑ってみせた。

「はい! 約束です!」

「ああ」

「えっ……と……し! 失礼します!」

「ん?」

 頬の赤いベルが右手を伸ばし、親指と人差し指で、アルテミスの左手の小指を包んだ。

「こうして小指を握られると気持ちが落ち着くんです! アリーゼさんとリューさんが教えてくれました!」

「そうなのか」

「はい! 僕もこうしてもらって不安とか良くないものをアリーゼさんとリューさんに無くしてもらったことがあるんで間違いないです! こうすれば、アルテミス様の中にある怖いものはどっか行っちゃいますから!」

「怖いもの……」

「アルテミス様は大丈夫! どんなに怖い試練でも、どんなに強い敵が現れても、アルテミス様なら大丈夫です!」

「……ありがとう」

 確かに、心が凪ぐような感じがある。

 それなのに、心が落ち着かなくなるような。

 心が温かくなるような。躍るような。ドキドキするような。

 アルテミスが知らなかった感覚の数々が、アルテミスの胸の内を満たした。

「それで……僕も一つ、アルテミス様に約束します!」

「聞かせてくれ」

「僕、強くなります! そ、その……今直ぐには無理かもですけど……でもいつか!」

 保険を掛けてしまった己の弱さを恥じながら、しかし俯くことなく、自らを友と認めてくれた女神の目を見据え続ける。

「ただ強くなるだけじゃなくて、アルテミス様が世界の何処にいても、僕が何処で何をしているのか伝わるくらいすっごい強くなって! 胸を張ってアルテミス様のことを守れるような冒険者に!」

 アルテミスの瞳を独り占めする冒険者の雛は。

「英雄に!」

 どんどん膨らんでいく夢を。

「僕はなります!」

 オラリオのど真ん中で叫んだ。

「……大きく出たな、ベル?」

「か、かもですけど……英雄になるのは、ずっと前からの夢だから……あ、あはは……」

「……ならば、五年後に見せてくれ。夢に近付いた、立派な姿を」

「……はいっ!」

 大きく頷いたベルの左手の小指を、アルテミスの右手の親指と人差し指が包む。ベルは驚く様子も見せず、とても嬉しそうにそれを受け入れた。

「あ! 見てくださいアルテミス様!」

「うん?」

「月!」

 両手を介して安らぎを交換し合っている二人が揃って直上を見上げる。

「月が、とっても綺麗です!」

 見れば、さっきまで雲に覆われがちだった月が、全景を表していた。

「今夜は三日月か」

「ですね! わあ……はは……!」

 上弦の三日月が、二人の頭上で静謐なる輝きを放つ。

 それは、破滅を齎す偽りの月ではない。何の変哲もない、ただの月。

 見慣れている。飽きるほどに見てきた。それでも確かに、今夜の月は。

「とても綺麗だ……」

 良き日に来たものだと、アルテミスは一人思う。

 始まり。希望。

 下界の子供たちが月に乗せ、月に託した、ありふれた祈り。

 月の女神たる私が叶えなければ、嘘だろう。

「……ベル。素敵な思い出をありがとう」

 極東の指切りとはまた違う、指と指との誓いを交わした女神は、頭上を揺蕩う三日月のように双眼を細め、どんな分厚い雲でも覆い隠せないような晴れやかな笑顔を浮かべた。

「僕の方こそです! ほんとにほんとに、とっても大切な思い出になりました!」

「……大切?」

「はい! 大切!」

「…………ふふ……」

「あ! ま、また笑ったー!」

 指と指とで戯れ合いながら笑い合う二人を、月明かりが静かに包む。

 その儚い輝きは、誰かと誰かの道行きを優しく照らす道標のようであった。

 

× × ×

 

「準備は万端かい?」

「抜かりない」

 朝の光がオラリオ東門前の広場を照らす中。橙黄色の髪を揺らすヘルメスに、ぶっきらぼうに聞こえるくらいの平坦さで、アルテミスは返した。

「本当かい? 念の為もう一度確認しておくことを薦めるよ」

「問題ないと言った。いつの間にそうも心配性になったのだ、ヘルメス?」

「俺はいつだって可憐なお嬢さんの身を案じている紳士だよ?」

「気が多い、節操無し、すけこましの間違いだろう」

「手厳しいなあ」

 ヘルメスの苦笑を受けてもアルテミスはくすりとも笑わない。

「変わったわね。アルテミス」

 その無愛想な様にさえ変化を感じ取った正義の女神アストレアが、くすくすと笑った。

「そうだろうか?」

「ええ。これも、あの子の影響かしら」

 アストレアが目配せを送った先で、ベルが多数の女性に囲まれていた。その輪を構成するのはアストレア・ファミリアの面々ともはや姉ンジャーズの一員と化しているまであるアスフィに加え、アルテミス・ファミリアの面々。

 昨日、丸一日我らが女神を連れ回してイチャイチャデートをしていた(妄想)九歳男児に聞きたいことがありまくるアルテミスの子供たちが、昨日の出来事の一から百までをもベルから引き出そうとガン詰めし、アストレアの子供たちが待ったを掛けるという状況だったのだが。

「ベルー? 私ー? 昨日ー? ベルとアルテミス様が何をしていたのかがさーあ? すーっごく気になるなー?」

「え? や、それはぁ……」

「そんなに言えないようなことをしてたの?」

「教えてくれなきゃイジメちゃう」

「とことん泣かす」

「っていうかわたしが泣く」

「全部困るヤツだからやめて!?」

「あのベルが……純心なベルが女神と一夜を明かした……そうか……これも全てヘルメス様の悪影響……! やはりここで送還するしか……!」

「アスフィさん顔怖いですーっ!」

 ベル過激派の幾人かがベルに詰問をするべくアルテミスの子供たちと同盟を組んだことにより状況は一変。アスフィは酷い勘違いをしているし理不尽な怒りを自らの主神に向けているし。助け舟を出すのも馬鹿馬鹿しくなったのか、他の姉たちも愉快そうに笑うばかり。旅立つアルテミスたちを見送りに来ただけなのに大変だねえ。小兎がんばれマジがんばれ。

「貴方の目にそう見えるのならばそうなのかもしれないな」

 ベルが自らの娘とアストレアの娘たちに弄り倒されている光景を見て、アルテミスは目を細め微笑んだ。

「……オリオンの名を彼女から貰い受けたのは伊達じゃない、ってことかな」

「そうみたいね」

「何を笑っている?」

「あの光景が面白くてついね」

「そうそう」

「……なら良いのだが……さて……」

 万全に身支度を整えたアルテミスが旅の荷物を抱え直す。昨日は割と気の緩んだ格好で過ごしていたらしいアルテミスの子供たちも、一目で冒険者だとわかる身形になっている。

 アルテミスとベルのデートから十数時間。

 主神自ら宣言していた通り、アルテミス・ファミリアのオラリオ滞在は、今日で終いだ。

「っと、忘れるところだった。アルテミス、これを持って行ってくれ」

「これは?」

 ヘルメスから手渡されたのは、掌に収まる程度の大きさの皮袋。閉じられた口の隙間から見えたのは、水晶のような何かだろうか。

「最近友達になった魔術師(メイジ)から友好の証として頂いたものなんだ。彼はこれを、眼晶(オクルス)と呼んでいたっけか」

 ダイダロス通りの秘密。そして、異端児(ゼノス)

 誰かにとって心強き理解者にも泣き所にもなり得るだろう情報の断片を未来経由で掴んでいるヘルメスは、ギルド本部の地下で祈祷を捧げ続けているとある神の元にそれらの情報を引っ提げて乗り込んだ。何故その情報を知っていると、その場にこっそりと居合わせていた黒衣の魔術師(メイジ)が驚倒を滲ませたが最後。そこからは終始、ヘルメスのペース。

 もはや同盟関係と言ってもいいだろうアストレアにさえ伝えていなかった電撃的な訪問を終えたヘルメスは、心強い友を得たとニコニコ笑顔であった。

 一方で友達呼ばわりをされた黒衣の魔術師(メイジ)は、その日からしばらく元気がなかったとかなんとか。

「下界では神の力(アルカナム)が使えない以上お役立ちグッズが必要だと思ってね。その水晶は簡単に言うと、俺たちが使う『鏡』に近い役割を果たしてくれるものだ」

「本当か? そんな高度な物を下界の子供が作ったと?」

「天界ほどじゃなくとも下界は果てしなく広いってことさ。片割れが大陸の果てにあっても使えるか、そうでないならば使えるように改良してくれと頼んだのだが、まあ彼ならば大丈夫だろう。何せここ数日、何かに取り憑かれたように工房仕事に励んでいたらしいから」

「恫喝か」

「来る厄災の可能性を必死に説いて頼み込んだだけさ」

「怪しいものだな…………まあいい。ありがたく頂戴しよう」

「そうしてくれ。使い方はその袋に入っている紙片を読んでくれ」

「わかった。ありがとうヘルメス。アストレアも。貴方たちを頼らせてもらう。フレイヤにも感謝を伝えてくれ」

「ええ。フレイヤも見送りに来たかったみたいなのだけど……」

「オラリオ最大派閥の看板を背負っているなりの苦労があるのだろう。彼女の場合は、彼女本人の都合で色々とありそうなものだが」

 特に今日は、昨日の激務の疲労が色濃いだろうから。

 とは言わない。ほぼ確信と言って構わないだろうこの気付きは誰にも伝えないと心に決めているので。

 ふらりと星屑の庭へと赴いてくる日々が続いているもので感覚が鈍くなりがちだが、基本的にフレイヤはオラリオの街を堂々と闊歩することはしないというか、眷属たちに止められている。本人にそのつもりはなくとも、ふらりと歩いているだけで諍いの種になりかねないからである。ベルに会いに行く時も完全にお忍び。眷属たちの苦労が偲ばれるようだ。

「以前に言っていた通り、調査時点で白黒の騎士の派遣は確約。その後どう対処するにしても全面的な協力を約束する。どうか先走ることのないように。と言っていたよ」

「わかっている」

「アルテミスたちがオラリオを発ってから数日のうちには俺とアスフィもオラリオを発つ。色々と準備が必要でね。諄いようだが、くれぐれも先走らないよう頼む。俺の目標は、全てを失わない完全勝利なんでね」

「わかっていると言った。私だって、私に力を貸してくれる貴方たちや、アルの思いに応えたい。それに……約束もある」

「約束?」

「ベルくんとかい?」

「そうだ。言わないぞ?」

「聞くつもりもないよ」

「本当、すっかり仲良くなったみたいね」

「…………アストレア」

「何?」

「彼を、鍛えてやってくれ」

 微笑みを湛えた貞潔の女神は、正義の女神の目を真っ直ぐに見て、そう言った。

「断言する。彼は、いずれ潰れる。抱えた約束の重さを知り、現実に打ちのめされ、無力さに心を痛めるだろう。もしかしたらその日はそう遠くないかもしれない」

 昨夜。大きな三日月の下で、アルテミスは感じた。

 ベルは、ベルの身の丈に合わない約束を抱え過ぎていると。

 アストレアと家族たち。フレイヤ。そして、抱えたばかりのアルテミスとの約束。

 それらは、ベルが優しくて生真面目で純心であるが故に、ベル自身に対して牙を剥きかねないと、アルテミスはそう言っている。

「そうかもしれない…………いえ。来てしまうでしょうね。そんな日が」

「まあ、だろうなあ……」

 控えめながらアストレアとヘルメスも肯定。それでも三人の神は、一人として悲嘆の色を浮かべていなかった。

「しかし、そんな時に彼を立ち上がらせるのは、彼を押し潰したはずの約束だ」

「そうね」

「だね」

「重くても。辛くても。苦しくても。彼が結んだ多くの約束が。彼が大切にしている人々との繋がりが、彼を立ち直らせてくれる。私は、そう信じている」

「私もよ、アルテミス」

「……もしも彼が挫けてしまっても、もう一度力強く歩き出せるように。しかし決して強さの奴隷にならぬように。アストレア。貴方が導いてやって欲しい」

「わかっているわ。あの子があの子らしさを見失わないまま強さを追い求められるよう、共に生きていくわ」

「頼もしい限りだ。そも、貴方に任せていれば私の心配など杞憂だろうが」

「買い被りよそれは。私だってまだまだ至らないことだらけなのだから。とにかく。ベルたちと共に、この地でアルテミスとまた会える日を楽しみに待っているから。どうか無事でね?」

「ああ。五年後、またここへ来る。次に会う時に彼がどれだけの成長を果たしているか、今から楽しみだ」

「五年? だったらちょうどいいかな」

「何がだ?」

「きっと、ベルくんと仲良くなっているだろう君の神友が、この都市にいるはずなんだ」

「…………まさか……!」

「彼女の子供なんだよ、五年先の彼は」

「どうしてそれを言わなかった!」

「やーごめんごめん。そこを明かさないままでも話がとんとん拍子に進んでいくから伏せたままでいようかなあって」

「私もヘルメスに乗る形で。ごめんなさい」

 らしからぬ大声を上げるアルテミスに苦笑を向ける二柱。実際ヘルメスは戦いの野(フォールクヴァング)をアルテミスが訪れアルの話をした際に打ち明けるつもりだったのだが、アルテミスが何一つ疑念を口にしないまま話がサクサクっと進むものでその機を逸していたのだ。

「それこそ私にとって重要な情報だとわからないではないだろうに。これだから貴方は好かないんだ、ヘルメス」

「いやいや、アストレアだって共犯なんですけどぉー?」

「彼女はいいのだ」

「罪の有無を語るのに個人的主観を介入させ過ぎだろう……けどま、その分で浮いたプラスの感情を俺じゃなく彼に向けてくれるならその方がいいかな」

「自分より他者への好感を気にするだなんてらしくもない」

「未来の彼の思いはもちろん、俺たちの目の前で笑う彼の今も未来も守りたいと思っているものでね」

「……本当に、貴方らしくないな」

「貴方こそだろう。しかし……なんだ。彼と触れ合うとどうにも調子が狂わされてしまうのは事実なんだよな。困ったことにね」

 そう告げるヘルメスの笑顔は、それはもう晴れやかなものであった。

「あ、アルテミス様っ!」

 綺麗なお姉さんたちに頭をガシャガシャと撫で回されでもしたのか、白髪をボサボサにしてしまったベルが、バーサーカーと化しているお姉さんズの輪の中から全速力で飛び出してアルテミスの前に立った。

「何をやっている。酷い有り様だぞ、ベル」

「う、わわ……!」

 膝を折り、やられ放題されていたベルと目線を合わせた女神が、乱れに乱れた白髪に手を伸ばして髪を整え始めた。髪に触れられているベルも動揺しているが。

「あ、アルテミス様から男性に触れた……!?」

「まさかの頭なでなでっ……!」

「アルテミス様に髪を整えてもらえるだなんてぇ……!」

「本当に何があったの昨日……!」

「ベル・クラネル……許すまじ……!」

「あの子かわゆいなあ……ふへへ……」

 アルテミス・ファミリアの面々の驚きはベルの比ではないらしく、アルテミスの所業に驚いたりベルに憎しみを向けたり恨んだり呪ったり発情したりと、周囲の方がリアクションに困るような反応をそれぞれが見せていた。

「これでよし」

「あ、ありがとうございます……!」

「礼を言うのはこちらだ。見送りありがとう。アストレアの子供たちも」

「いえいえ! 私たちの方こそありがとうですよ! ベルと遊んでくれてありがとうございました!」

 ファミリアを代表してアリーゼが答えると、ずーっと不満の色を表情に浮かべていた姉の幾人かも、精々が苦笑くらいに表情を変えた。

「……アリーゼ・ローヴェル。アストレアの娘たち。貴方たちならば、黒い未来を覆すだけの存在になってくれるだろうと私は信じている。遠くない未来、オラリオの勢力図を塗り替えるだけの派閥にまでなるだろうともな」

「それはどーっすかねー」

「ライラ」

 ライラが口を挟むも即座に生真面目エルフのリューが止める。その様に微笑みを一つ落としたアルテミスは柔らかな表情のまま、アストレアの子供たち一人一人と目を合わせた。

「力を付けろ。心を磨け。アストレアの下、貴方たちらしく励んでくれ。貴方たちの繁栄を心より願っている。また会おう」

「はいっ!」

 一際大きな声のアリーゼを先頭に、横槍を入れたばかりのライラでさえ背筋を伸ばし、自分たちの未来へ期待を寄せてくれた女神へそれぞれの形で返礼をした。

「……ベル」

 アルテミスはもう一度、目の高さをベルと合わせた。

「はい」

 この小さな友人に伝えたい言葉など、探せば際限なく見つかるように思う。

 けれど、大切なことの多くは三日月の下で伝え合った。彼の夢も聞いた。彼の正義の形も知った。大切な約束も交わした。

 今更なんて言うつもりはない。いつだって何だって、言葉で伝え合うのは大切だ。けれど。

「また会おう」

「はいっ!」

 違う場所、違う手法、違う色で、同じ夢を描く。

 そうしていつか描き上がる合作の名は、約束。二人が願う未来。

 言葉、心、触れ合う指先で大切なことをたくさん分かち合ったアルテミスとベル・クラネルならば、それで充分だった。

「よし…………では行くぞ! お前たち!」

 凛とした返礼の数々が堂々と先頭を行くアルテミスの背中を追い掛けた。アルテミスの子供たちが振り返って別れの言葉をオラリオへ残して行く中で、女神アルテミスだけは振り返らない。

「また! また必ずっ! 必ず会いましょう! アルテミス様ーっ!」

 女神の背中を押す大きな大きな幼い声にも振り返らない。

 次に彼と目を合わせるのは五年後だと、アルテミスは決めているから。

「出発!」

 東門を衛る衛兵たちに任せていた愛馬たちを引き取って、まるで名残惜しさに後ろ髪を引かれることを拒むかのような迅速さで、アルテミスは愛馬に鞭を打った。

「アルテミス様」

「どうした、レトゥーサ」

 すると直ぐに、ファミリアの団長であるレトゥーサが併走した。

「次の目的地はどうされますか? 以前はラキアに寄って行くと仰っておりましたが」

「変更だ。目指すは大陸の果て。エルソスの遺跡だ」

「エルソスの遺跡? 初めて聞く名ですが……そこに何が?」

「私の罪」

「はい?」

「それと絶望。そして未来が、そこにある」

 アルテミスの未来。レトゥーサらアルテミスの子供たちの未来。下界の未来。ベル・クラネルの未来。

 そして、二人だけの約束。

 それと、アルの願いも。

 アルテミスが守りたいと願うもの全てが、そこにはある。

「すまないが今はこれ以上語れない。とにかく大仕事になる。気を引き締めていけ」

「はっ!」

「あ、アルテミス様アルテミス様っ!」

「なんだ、ランテ」

 真剣な話に割り込んだのは、アルテミスのいない一日を鉄の掟に触れるか触れないかギリギリの範囲で満喫していた眷属、ランテ。

「あの少年、ベル・クラネルとは昨日、一体どのようなお話をされたのですか!?」

「秘密だ」

「ひ、秘密っ!?」

「どうしても聞きたいと言うならば語り聞かせるのもやぶさかではないが、代わりにランテ。お前が昨日していたことの全てを私に語り聞かせるのが条件だ」

「し、失礼致しましたーっ!」

 鞭を打つ力を抑えそそくさとアルテミスから距離を取って行ってしまうランテ。どうやら、知られたらしっかりアウトな何かをしでかしていたらしい。

「まったく……」

「アルテミス様」

「今度は何だ、レトゥーサ」

「楽しかったでしょうか」

「何がだ?」

「ベル・クラネルとのデートです」

「…………楽しかった。とても」

「……何よりです」

 強い逆風の中でも、レトゥーサの目は捉えていた。目を細めて微笑む主神の横顔を。

「ベル……」

 ベル・クラネル。

 彼は、私の希望に。私の願いに。私の夢になった。

 彼には重い期待かもしれないが、私にそう思わせたのもまた彼なのだからそこは甘んじて受け入れて欲しい。

 けれど。

 彼は、私のオリオンにはならない。

 だって彼は、大切な友達だから。

 とはいえ、アルテミスだってわかっている。

 この身の内側で形成された少年への思いは既に、友情以上の何かであることを。

 それでも今は、友情以外の何かたり得ない。何故ならアルテミスは、その感情の名を知らない。それを記号化出来る言葉も知らない。

 しかし、いつか。

 アルテミスが、自身の内側で静かに暖まっていく感情に名前を付けられた時。その時、何かが変わるかもしれない。

 単なる友人を越えていて、けれどオリオンとも違う。

 とっても特別で、とっても大切な関係に。

 アルテミスがまた知らない、何か特別な言葉に置き換えられるような間柄に。

 ああそういえば。昨夜、ベルが言っていたな。

 恋って言うのは、誰か一人。たった一人にだけ感じる、すっごく特別で、すっごく大切な好き。みたいなものであると。

 それが本当ならば。この身は既に……。

「いや……」

 アルテミスはそこで思考を止めた。

 結論を急いではいけない。その答え合わせは、早くても五年後の話だから。

「五年か……」

 不思議だ。何億年も生きているこの身にとって五年など一瞬でしかないはずなのに、途方もないくらいに長い時間のように思える。

 その長い長い五年の間に知れることもあるだろうか。育つものもあるだろうか。

 今、胸中にあるものを理解し、遅々とした歩みでも健やかに育てられたならば、友情や親愛ともまた違う何かになるのだろうか。

 特別な彼に。大切な友である彼にだけ手渡すに相応しい名を付けることが出来るだろうか。

 一つ理解していることがあるとすれば。

 五年後。ベル・クラネルと顔を合わせた時。その答えに辿り着ける。

 それだけは、確信があった。

「……あの小憎らしい美の女神は……今の私を見たらどんな顔をするだろうか……」

「何か?」

「いや…………そうだ。少し、ファミリアの規則を変えようと思うのだが」

「規則をですか?」

「昨日の私の行動を思えば子供たちにこの身が司る事物を押し付け戒めるなどただの滑稽。威厳も何もあったものではない。次の休息の際、皆にそんな話をしてみようと思うのだが、どうだろうか?」

「それは構いませんが……アルテミス様はよろしいのですか?」

「構わない。この身がうつつを抜かすわけにはいかないが、私もきっと、知ってしまうだろうからな」

「といいますと?」

「これは恐らくなのだが…………五年後、私は」

 しかし、である。

 もっと言えば。

 あまり大きな声では言えないが。

 的外れだったらとっても恥ずかしいのだが。

 何処ぞの美の女神が聞いたら腰を抜かしてひっくり返ってしまうかもしれないが。

「ベルに、恋を教えてもらう予定だ」

 正解の半分を既に手にしているのではないかとも、アルテミスは思っていたりする。

「…………は、ふぅ……」

「なになになになになにー!?」

「わーっ! なんかいきなり団長が気を失ったー!?」

「落ちる落ちる馬から落ちるっ!」

「団長しっかりしてー!」

「っていうかアルテミス様の口からとんでもない爆弾発言飛び出しませんでした!?」

「さてな。いつまでも戯れていないで速度を上げるぞ、お前たち!」

「ええー!?」

「待ってくださいよぉアルテミス様ぁー!」

 鞭を打つ手に力が入る。反比例するように、頬から力が抜けて行く。

「待っていてくれ……ベル…………はっ!」

 青い髪を靡かせる一人の女の子は、まだ知らぬ何かに出会う日を待ち侘びて、静かな笑みと共に風になった。

 

 

 

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