キャラたちがと言うより、私が息抜きをさせてもらった短編の寄せ集め。
今はガッツリメインに出して動かすのは難しいけれど、先のことを考えてこの辺で出しておきたいなって人たちの一部に登場してもらいました。
時系列なんてものはあまり意識しなくて良いです。アルテミスとデートしたりオッタルとフォールクヴァンクってる裏でこんなことがあったっぽいー?くらいの認識でお願いします。
五つ目の短編はオマケです。さらりと流すつもりだったとある女神様との出会いに別角度からの肉付けをしてみようと思いまして。
ギブとテイクと公然の秘密
「し、失礼します……」
「そう固くなるな、と言われてもお前には難儀かもしれないが、せめてもう少しだけでも肩の力を抜け」
「そう言われましても……」
とある酒場の一席。
腰にまで届きそうな長い髪を揺らす一人のハーフエルフが、ラウンドタイプの眼鏡の奥で、緑玉色の瞳を忙しなくさせている。
「そうやって気を楽にしろと執拗に詰め寄る方が重圧になってしまうんじゃないかな」
「フィンの言う通りよ。リヴェリア、これもお主の宿命のようなもの。有名税だと思って納められておけ」
「リヴェリアママ圧強いわー怖いわー」
「誰がママだ」
ハーフエルフの緊張を何乗にも引き上げている面々が愉快そうに笑う。
正直、リヴェリア様お一人と向き合うだけならまだどうにかなったんだけどなあ……。
なんて心の声は誰にも届くことなく。
今年の春よりギルドに勤め始めた少女、エイナ・チュールは、ひたすら居心地が悪そうに肩を狭めていた。
「しかしまさか、アイナの娘がギルドに勤めておったとはのぅ」
愉快そうに笑うのはガレス。ガレス・ランドロック。『
「合縁奇縁とは言うけれど、僕らと彼女の縁は不思議でもなんでもなく連綿と続いていきそうだね」
これまた愉快そうに笑うのはフィン。フィン・ディムナ。『
「小動物感あったアイナちゃんとは雰囲気違うなあ。しかも自分まだ十四やろ? 将来に期待しかないわあ……ぐへへ……」
エイナの身体を上から下まで下卑た視線で舐め回して口の端を歪めるのは女神ロキ。ロキ・ファミリアの主神。
「それ以上はやめておけロキ。主神の両眼を潰すのは流石に躊躇ってしまうからな」
「って言いながらうちの目にナイフロックオンすんのやめてぇ!?」
優雅なピアニストのよう滑らかに卓上のナイフに指を走らせながら自らの主神を睨むのはリヴェリア。リヴェリア・リヨス・アールヴ。『
ロキ・ファミリアの主神に首脳陣が勢揃いで、見習いとはいえギルド職員と卓を囲んでいる。
これはナシでしょうと、職員としての見地から萎縮する。
高貴なるエルフ。ハイエルフであるリヴェリアと卓を囲んでいる。
これはすっごくナシでしょうと、半分とはいえ体内に流れている妖精の血が平身低頭を絶対としてしまう。
予定外もいい所だ。
エイナがギルド職員、事務部の配属となって数ヶ月。業務中、ロキ・ファミリアの話を聞かない日など一日として存在していなかった。必然、リヴェリアの話題もエイナの長い耳に滑り込んで来る。
いつかご連絡、ご挨拶をと考えてはいた。
膨大なマニュアルに膨大な仕事量がそれを後回しにさせる日々だった。
と言うのは方便。
生真面目なエイナは、ギルド職員という公正な立場を得た自分が、一人の冒険者であるリヴェリアに会いに行くことに尻込みをしていた。それが全て。
しかし、仕事帰りに件の三首領と女神ロキと出会した。たったそれだけのことで、密かに臆していたエイナの懸念は粉砕された。
「いい加減に思い悩むのはよせエイナ。今は職務から離れているだろう。ギルドの制服を脱いだらお前は何の柵もない、この街の住人の一人だ。私だってそう変わらない」
「わかってはいるのですが……」
「言い方を変える。私が、お前に会いたい。この気持ちを汲んでくれないか。それ以上のことはない。いきなり変われとは言わない。ただ、折り合いを付けろ。後は自分なりに噛み砕いてくれ」
「はい……」
「先は長そうだな」
背を丸めてしまっているエイナを見て嘆息するリヴェリアではあるが、不快とは縁遠そうな笑みを浮かべていた。彼女は、親友の娘との再会を心から喜んでいるだけである。
「まあいい。それより聞かせてもらえないか? 里を離れてからのお前のことを」
「は、はい! それじゃあ……」
「フィンさん?」
冒険者の集う酒場、豊穣の女主人に似つかわしくない可愛らしい声が、求められた自分語りを始めようと前のめりになるエイナの出鼻を挫いた。
「やっぱりフィンさんだ!」
「おや、ベル・クラネルかい?」
「そうです! お久し振りですフィンさん!」
全員の視線が集まった先で、ベル・クラネルが瞳をキラキラ輝かせて笑っていた。
「あの時以来だね、ベル・クラネル。その格好を見るに、君はここで?」
「はい! 毎日ではないんですけど、ここでお手伝いをさせてもらっているんです!」
他の従業員と違い若葉色を基調とした制服に身を包んではいないが、ホールを行き交う少女たちと揃いのエプロンを付けているベルがうんうんと頷く。
「それは知らなかったな。しばらく来ない間にそんなことになっていたとは」
「もしかしてフィンさん、ここの常連さんなんですか!?」
「胸を張ってそうだと言えるほど足繁く通っているわけではないけれど、折を見てお世話になっているよ」
「そうだったんですね!」
「いやいやいやいや! 二人だけの世界に入っとらんでうちらにも紹介してーなフィーン」
「ベル・クラネル? 何処かで聞いた名前じゃのう……」
「私も覚えがある。確か……」
「アストレア・ファミリア所属の冒険者ですね」
ベルの次に全員の視線を攫ったのは、淡々と情報を開示しただけのエイナ。
「知っているのか、エイナ」
「は、はい! 時々ですが耳に入って来るんです。ベル・クラネル氏のお話は」
そうなんですねー。なんて、冒険者らしい活動など何一つしていないにも関わらず自分のことが噂になっている理由にも気が付かない少年がほけーっと笑っている前で、エイナは自らの脳から当該少年の情報を引き出していた。
ベル・クラネル。
乙女の花園だなんて形容されるアストレア・ファミリアに入団した、史上初めての男性冒険者。誕生日を迎えていなければ年齢は九歳。申告漏れがなければLv.1。ベル・クラネル本人が冒険者らしい活動をあまりしていないのか、本人の活躍はまるで聞かない。
彼のことで耳に入って来るのは、アストレア・ファミリアに属していることを羨む声だけ。中にはギルド職員にすら羨んでいる者もいるくらいだ。アストレア・ファミリアは華があるから、男性陣たちに嫉妬の感情を向けられるのもまあ理解できる。
しかし、だ。
「そ、そうだ! ちゃんとしないと! えっと、今日はいらしてくれてありがとうございます! ごゆっくりしていってください!」
こんなにも可愛らしい少年がこういうお店でバイトをしていて、本職は冒険者、かあ。
わかんないもんだなあ。
と、脳内で呟くエイナだった。
「いけない! お仕事戻らないと! あ、あのフィンさんっ! もう少しで僕のお仕事終わるので、そうしたらちょっとだけお話させてもらってもいいですか!? フィンさんにお話したいことがあって!」
「ふむ……」
フィンが同じ卓を囲む全員を見やると、それぞれがそれぞれの形で肯定を示していた。
「構わないよ」
「あ、ありがとうございます! 自己紹介もその時させてください! 一旦失礼しますっ!」
ぺこりと頭を下げ、だだっと店の裏側に引っ込んでいってしまった。
「頑張ってくれとも言わせてくれなかったな」
「慌ただしい少年じゃのう」
「いつの間に彼と知り合ったのだ、フィン」
「少し前、偶然にね」
「なーんか冴えない少年やなあ。何がお気に召したんやろなーアストレアは」
「彼への中傷は僕が許さないよロキ? 何せ彼は、僕の協力者だからね」
「協力者ぁ?」
訝しむように自分を睨むロキの前で。
「そうさ。いろんな意味で、唯一無二のね」
フィンは、愉快そうに笑った。
ややあって。
「べ! ベル・クラネルって言います! アストレア・ファミリアです! よろしくお願いしますっ!」
同じ卓を囲む一人一人に向けてしっかりと頭を下げるベルを見て、エイナは小さく息を吐いた。
実はエイナは、内心ホッとしていた。
自分の話をしろと言われても何をどう話したものかとテンパりまくっていたもので、全員の興味がベルに向いたことは行幸。このまま話の主役が彼になってくれるといいなー! なんて考えていたりする。
「なんや硬いなあ自分。まあええ。うちはロキ。よろしゅうねー少年」
「よ、よろしくお願いします!」
「儂はガレス。随分と線が細いのうお主。ちゃんと食べとるか?」
「食べてます! いっぱい食べてます! いっぱい食べていっぱい鍛えて、ガレスさんみたいな身体になりたいと思ってます! 目指すならガレスさんみたいな強い人を目指しなさいって言われたこともあります!」
「大方想像は出来るが一応聞かせてもらおう。誰がそんなことを言っておった?」
「うちのアスタさんと、特にアリーゼさんがガレスさんのことを教えてくれたんです! アリーゼさん何度も言ってました! ロキ・ファミリアのガレスさんはとにかく凄くて憧れているんだって……!」
「しばらく顔を見ていないが、相変わらずみたいじゃの、あの馬鹿娘は」
「だからってだけじゃないですけど……僕もいつかガレスさんに会ってみたいって思っていて……だから今とっても嬉しくて……その……やっぱり僕もガレスさんみたいに逞しくなりたいなって……思って……」
「あの馬鹿娘と違って、お主は自分を表現するのが得意ではないみたいじゃの」
「もっとしっかりしないといけないって言うのはわかっているんですけど……」
「伝わっておるからそう下を向くな。儂みたいになりたいだなんて吐かす馬鹿モンがあの馬鹿娘以外にいるとはな。感謝するぞ、アストレアの末っ子。お主のおかげで、今夜の酒はえらく美味く感じるわい」
「は、はい……!」
正直、何にお礼を言われたのかあまりわかってはいないが、長い髭に包まれた口がニッと笑い、白い歯を見せてくれたことが嬉しくて、釣られるようにしてベルも笑っていた。
「ガレスに憧れるのはいいが、自分らしさを失わない程度にするといい。君がガレスのような体格になったら涙を流す者が現れそうだからな。リヴェリアだ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします! ほ、本物だ……本物のリヴェリア様だ……!」
「リヴェリア……様?」
「その……前にフィンさんと会ったんだよって話をファミリアのみんなにした時に、もしもロキ・ファミリアのリヴェリア様に会うことがあったらしっかりご挨拶するようにってリューさんとセルティさんに言われてまして……リヴェリア様はとっても高貴な人だからって……」
「やれやれ……ファミリアの者たちの言うことを聞くのもいいが、私はそうも敬われることを好かない。もっと自然に接してくれ。様付けも不要だ。そもそも種族も違うだろう。もしも様付けを続けるようならば、私も君をベル・クラネル様と呼ぶようにするが、それでも構わないか?」
「か、構います! とっても構いますっ!」
リューさんセルティさん、絶対怒る。多分ボコボコにされる。これも多分だけど、ヘディンさんとかメルーナさんとかにも、超ボコボコのボコにされる。
なんとなくそれを理解出来たベルが慌てて首を横に振る前で、エイナもうんうん頷いていた。
「そう思うならば改めてくれ。それに、我々は同じ冒険者だろう? 同じ穴の狢にそうも畏まる必要はない。理解したか?」
「じゃあ……えっと…………リヴェリア……さん……」
「それでいい。改めてよろしく頼む、ベル・クラネル」
「は、はい!」
こくこくと頷いて、改めて同席している人たちに目を向けるベル。
オラリオへ来る以前から名前を知っていたロキ・ファミリアの三首領に加え、彼らを束ねる主神までも同席。
「す、すごいことになってる……!」
とんでもない人たちと同じテーブルに座ってしまった! と、今更ながらにくらくら中のベル・クラネルである。
「エイナ。お前も」
「はい。はじめまして、ベル・クラネル氏。本年よりギルドへ配属となりました、エイナ・チュールと申します。以後お見知りおきくださいませ」
「ギ、ギルドでお仕事されてる人なんですね! カッコいい……!」
「あ、ありがとうございます……?」
ギルド勤めの何がカッコいいのかこれっぽっちもわからず内心首を傾げる現役ギルド職員。しかし、キラキラとした眼差しで見つめられることのそのものは悪い気がしない。
「えっと、エイナさんはロキ・ファミリアの方々のお友達なんですか?」
「お友達と言いますか……」
「僕たち全員、彼女のお母さんと付き合いが長くてね。そんな友人の娘さんと偶然出会って一席設けた次第なんだ」
「す、凄い偶然だあ……! うんめー、ってヤツですかね!?」
「かもしれないね」
「盛り上がっとるとこすまんけど話題変えさせてもらうでー。あー少年? うちのフィンと出会った経緯とか色々聞きたいことあるんやけども、最初に一つ聞かせてくれへん? さっきフィンが言うとったんやけど、フィンの協力者ってのはなんなん?」
「うちのファミリアのライラさんの素敵な所を僕がフィンさんに伝えるんです!」
「はあ?」
「ですよね、フィンさん!」
「ああ、そうだね」
迷いのないフィンの返答が聞けたことが嬉しいのか、えへへーなんて笑ってみせるベルとフィンに、胡乱な視線が殺到する。
「なんじゃ、あの小娘とはそのセンはないだろうと自分で言っておったくせに」
「大胆な宗旨替えをしたものだ」
「そういうことではないんだけどね」
「フィーンー? どーゆーことやそれー?」
「その刺々しい目をやめてくれロキ。彼に全開の善意を勢い良くぶつけられて僕も動揺してしまってついね。けれどその場凌ぎを口にしたつもりはないよ? 僕の野望の先まで視野を広げれば何もないとは言いきれないのは事実だからね」
「重婚もアリとか言いながら絶対出来へんタイプやろ自分は」
「耳が痛いからその辺にしてくれ」
「じゅーこん、ってなんですか?」
「所謂、男の夢ってヤツさ。帰ったらファミリアの仲間たちに聞いてみるといい」
「わかりました!」
あ。これ一悶着あるヤツ。
にぱーっと笑うベルを見て、エイナはそう感じた。
エイナの直感は余りにも的を得ていた。
「もしやベルって重婚オッケー派……!?」
「ちょっと待って色々話変わってくるんだけど……!」
「そういうことならとりあえず私が最初にベルと」
「黙れ」
「喋んな」
などなど。とてもベル本人には聞かせられないようなやり取りが星屑の庭内で散見されたとかなんとか。
「何処まで本気なのかマジでわからんのが怖いのよお前らは」
とは、瞳を妖しく輝かせ恍惚な表情を浮かべている家族たちの様子を眺めていたライラの談である。そのきっかけを産んだのが同族の勇者だと聞いたライラは、アタシ以外に嫁を貰おうとしてるだとー!? と憤慨し、結局新たな騒ぎの火種になったりもした。
「じゃあ聞かせてもらおうかな。彼女に関して、何か新たな発見はあったかな?」
「ありました! これはアリーゼさんに教えてもらったことなんですけど」
「うんうん」
「ライラさんは、とっても可愛い所にほくろがあるそうです!」
「ぶっ!?」
「……それは知らなかったな」
リヴェリアに倣って注文したアルブの聖水を吹き出しそうになったエイナの様子と、ニコニコ笑顔を維持しているベルを見比べ、フィンは深めの苦笑を浮かべた。
「なっ……なな……!」
おもろい流れになって来たやーんと、その手の話大好き系女神のロキが下卑た笑みを浮かべる傍らで、エイナはひたすらに困惑していた。
そのような下世話な話をニコニコ笑顔で語る!? この歳で!? こんなにも純心そうな少年が!? 乙女の花園なんて呼ばれているけれど、もしかしてアストレア・ファミリアって、なかなかどうしてアレな感じのファミリアなの!?
「でも可愛いとこってどこなんでしょう? アリーゼさんに聞いても自分で確かめなさーいって言うだけで全然教えてくれなくて。フィンさんならわかりますか?」
「なっ!? ななななな……!」
しかも
ベル・クラネル!
エイナもかまとと振るつもりはない。そういう知識だって最低限程度には備えているつもりだ。多分。あまり自信はない。
駆け出しとはいえ街の荒くれ者が集うギルドに勤めている身なもので、下世話な話は何かと耳にするし、それはライン越えでしょうなせくはらトークに巻き込まれたりもする。お陰様と言うのは不服な感があるが、本当に細やかなものではあるが耐性も付いたつもりでいる。これまた自信はないが。
しかし、自分より五つも歳下の少年がこんなにも真っ直ぐな眼差しでせくはらトークを展開していることが、ハーフエルフ的には衝撃だった。大ショックまであった。
そっか。こんなに可愛らしい少年でも男の子は男の子。誰だって通る道だし当たり前とはいえ……なんだかなあ。
幻滅とまでは言わないが、ベル・クラネルというかこの年代の少年が、下ネタとは別な切り口とはいえ下世話系トークをあっぴろげにしている事実が、エイナの気を重くさせた。
「ライラさんのお顔には目立つホクロなんてないと思うんだけどなあ」
「あっ」
瞬間、アツアツに茹っていたエイナの内側は、ヒエヒエに早変わりした。
「確かに、彼女の可愛らしい顔には目立つホクロはなかったかな」
「ですよね!? だから余計にわからなくて」
何処なんだろうと呟きながら首を傾げるベルを見ながら、どうやら自分の妄想がだいぶ先走っていたことに気が付いた半妖精の様子がおかしいものに変わる。
「エイナ……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
「ほほーん? エイナちゃんってばぁー、優等生ちゃんぶってるけどぉー、なかなかのむっつりスケベちゃんなんやなー!」
「はうっ!?」
「スケベなんは身体だけでおごぐがごご……!」
「黙れロキ」
「おごごがごががぐぁが……!」
早とちりを認めたエイナが耳の先端まで真っ赤に染め上げながら背を丸める横で、弄り時を得たと前のめりになるロキの顔面をリヴェリアが鷲掴む。あのリヴェリア様がアイアンクローをしている!? と、特に周囲のエルフの客たちは目を白黒させていた。
「その話はまた今度、二人になった時にするとしようか。ところでベル・クラネル? 最近何か特別なことはあったかな? 例えば、冒険者らしいこと、とかね」
「ぼ、冒険者らしいことですか? 冒険者らしいこと。冒険者らしいこと……うーんと……」
この話を拡げるのは色々な観点からよろしくないと判断したフィンがさらりと話題を変える。矛先を向けられたベルはうんうん唸り、程なくして困り顔を浮かべた。
「あ、あの……フィンさんなら全然問題ないと思うんですけど……その……」
基本人見知りをする上にオラリオ屈指の有名人たちに加え、とっても綺麗なギルドのお姉さんに萎縮気味のベルが、一人一人の様子をチラチラと伺った。
「ああ、なるほど。そういうことらしいよ?」
「他言無用だな。理解した」
「安心せい。他所様に秘密を言い触らして笑いを取るような趣味は持ち合わせておらん」
「ここまでハードル上げるんやからよーっぽどおもろい話が聞けるんやろなあ?」
「わ、私も、誰にも言いません……」
「じゃあ……えっと……んしょ……!」
察しの良い面々がベルの意図を汲み、卓の真ん中へと耳を近寄せた。倣うようにベルも身を乗り出して。
「オッタルさんと……戦いました……」
ベルの思う、もっとも冒険者らしい出来事ランキングの第一位を小声で発表した。
「うん?」
「ん?」
「何?」
「はぁん?」
「えっ?」
「す、すいません……本当にこれくらいしか冒険者っぽいことをしてなくて……」
そんな程度の話かよ、的な反応をされたのだと勘違いしたベルがしゅーんとしてしまう。
勝手に気落ちするベルを他所に、ベルを中心にしたザワつきが拡がっていく。
「……おい」
「……フィン?」
「待ってくれガレスリヴェリア……僕の想像を遥かに超越した次元の思い出話を放り込まれて僕も混乱しているんだ。まずは彼の話を聞こう。確認させてくれ、ベル・クラネル。オッタルって、あのオッタルで間違いないかい?」
「あのオッタルさんです。ちょっと色々ありまして、戦うことになったんです」
「ロキ?」
「ホンマみたいや。嘘言ってへんよ、この少年は」
神の目を以てベルの内側を覗き見した女神ロキが断言した。
つまり、この少年は本当に戦ったのか。自分たち三人が束になって挑んでもどうにか出来るか怪しいあの武人、オッタルと。
「戦ったって言っても、僕は何も出来ませんでした……三時間とか四時間とか戦ってたと思うんですけど、最後まで一撃も当てられませんでした……」
「あのオッタルと三時間以上だと……!?」
驚愕を隠さないリヴェリアの表情の動きが激しくなる。
「よく無事でいられたのぅ……」
驚愕を越えて戦慄すらしているガレスが複雑な感情を綯い交ぜにして大きく息を吐く。
「えっと……その……オッタルさんからは一撃ももらわなかったのでなんとか……」
「一撃ももらわなかった? 数時間戦って、あのオッタルから?」
「はい……」
「……ロキ?」
「あ、うちに振るのなし。下界の未知ってヤツの所為で酒の味わからんようになってしもたから」
「つまり」
「い、逸材……神童と言っていいのでは……!」
「?」
言葉足らずもいいところながら嘘は一切口にしていないものでなんとも言い難いタチの悪さを発揮している天然迷惑記念物が首を傾げる姿にすらも戦慄を覚えるエイナが身震い。ズレた眼鏡を直す手も震えてしまう。
「お、お腹痛い……!」
仕事もそこそこに、ロキたちの座る卓を堂々と覗き見している豊穣の女主人の看板娘がお腹を抱えながら笑いを噛み殺している姿に気が付いていたロキ。彼女にじとーっと睨まれても、シルは変わらず笑い倒すばかりであった。
「整理しよう。ベル・クラネルの言葉を額面通りに受け取ると、勝負にこそ負けてしまったが、数時間に及びオッタルと一対一で戦って、一度の被弾もなかった。ということになる。これで間違いないかな?」
「は、はい……」
「色々と裏があるのだろうし、そもそもオッタルが特別な理由もなく他派閥の人間と手合わせをするというのも想像し難い」
要するに、言葉が足りていないだけなのだろうけれど。なんて言葉を飲み込んで、フィンは滔々と語る。
「不鮮明な点が多けれど、そんなことは些事だ。経緯も結果もさて置いて、まずはあのオッタルに牙を向いていったという点に目を向けなければならないね。やれと言われたって出来ることじゃない。御見逸れするよ、本当に」
「あ、ありがとうございます……?」
わかっているようであまりわかっていないが褒められたってことは何となく理解したベルが照れながら小首を傾げる様を見て、フィンの口角が更に上がった。
「いやあ、やっぱり面白いね、君は。僕の目もなかなかどうして捨てたものじゃないな」
「上機嫌じゃのう、フィン」
「ファン、とまではまだ言えないけれど、彼のこれからに期待を寄せている身としては嬉しい限りの冒険譚が聞けたんだ。上機嫌にもなるってものさ」
微笑みながら赤ワインの揺れるグラスに口を付ける。一口味わう程度のつもりだったのに数度喉を揺らす程に煽ってしまったのは、相変わらず不思議そうに首を傾げている少年の影響で間違いない。
「んー期待するだけどうなんかなあ。なんやようわからんけど、ここで働いてる方がよっぽど向いてる感じするけどなー」
「そ、そう……ですか……」
「要らんことを言うでないロキ」
「あいたーっ!?」
「気を悪くさせてすまない、ベル・クラネル。これは年柄年中酔っ払っているダメ神だ。まともに聞いて実入りのある話など年に一度あるかないか程度だ。まともに取り合わなくていい」
「は、はあ……」
「そこまで言うことなくないー!?」
ガレスに足を踏まれリヴェリアに心象をズタボロにされてロキが喚く前で、なんと言っていいかわからないベルは曖昧に笑うことしか出来なかった。
「のうベル・クラネル。お主、冒険者らしい活動をしていないと言っておったが、ファミリアの団員たちとダンジョンに潜ったりはまだしとらんのか?」
「それが……ダンジョンに行くのはまだ無理で……」
「無理ってどういうことなん?」
「その……ファミリアのみんなと決めたことがありまして……それをやり遂げるまでダンジョンに行きませんって、僕から言い出して……」
「縛り……戒めみたいなことでしょうか?」
「はい……だからその日が来るまでに、もっと強くなるって決めたんです」
「その時とはいつだろう?」
「わかりません……僕次第です……とにかく今は、強くなるしかないから……」
「あの子と同じようなことを言うのだな……」
「あの子?」
「なんでもない。気にしないでくれ」
静かに身を引いたリヴェリアの様子が気になったけれど、追求していいものなのか判断の付かないベルには何も言えなかった。
「強くなりたいと願い、行動をする。大切なことだね。けれど根を詰め過ぎてはダメだ。強さの奴隷になってはいけないんだ。わかるかい?」
「ファミリアのみんなにも、毎日訓練だけしててもダメだって……こうやって酒場のお仕事をしたり、いろんな人とお話をしたり、他にもたくさんのことをして、人生を豊かにしてかないとダメなんだって教えてもらいました」
「そうか」
彼に限って、とは思っていたけれど、ファミリアの先達らがより良い方向へと導線を敷いてくれているらしいと理解したフィンは、自然と穏やかな笑みを浮かべていた。
「なあ思い出さんか? こやつを見ておると、あの頃のあやつを」
「ベル・クラネルの比じゃないくらいのお転婆問題児だったけれど、まあわかるよ」
「今でも変わらんよなあ」
「ほとほと困ったものだ……」
「お転婆?」
「問題児?」
何の話をしているのかピンと来ていないベルとエイナが揃って首を傾げる前で愉快そうに笑うロキに、苦味成分増し気味の三つの笑顔が続いた。
「個人の明言は遠慮させてもらうけれど、君たちともそのうち縁が出来ると思うよ。何せうちは、問題児だらけのファミリアだからね」
「アクのつよーい子の加入続いたもんなぁ」
「揃いも揃って将来が楽しみじゃがな」
「腕っぷしこそ悪くないが、それ以外の面は将又どうしたものか……それは君もだぞ、ベル・クラネル」
「えっ!?」
僕も問題児ってこと!? 初対面のリヴェリアさんにそう言われるようなことを早速しちゃったのかな!?
「ただ強くなるだけでは足りていない。心を鍛え、知識、知恵を身に付けねばならない。そうだろう、エイナ?」
「リヴェリア様の仰る通りです!」
「な、なるほど……!」
見当違いだったと理解して溜息一つ。ベルときたら、リヴェリアに失礼のないようにとファミリアのエルフたちから言い含められているもので、リヴェリアの一挙一動に妙な緊張が付き纏ってしまっているご様子。
「知識を知恵に。そういえば、彼女の口癖だったね」
「実際、あの小娘の知識や機転は儂らも唸らせるものがあるからのぅ」
「そ、そう! そうなんです! ライラさんすごいんです!」
前もそうやって前のめりに彼女のプレゼンをしていたなあとフィンが笑う前でうんうん頷くベルの横顔を見て、さっきの自分の愚かしい邪推を一層恥じながらも、弾けるように笑う少年の姿に穏やかな眼差しを向ける半妖精が一人。
「弟を見る姉のようだな」
「……………………わ、私ですか!?」
矛先が自分に向いていることにまるで気が付いていなかったエイナの反応は鈍かった。
「確かに、君のお母さんを見ている時のリヴェリアの横顔に通ずるものがあったね」
「は、はあ……」
「やめろフィン……しかしまあ、いい機会ではあるかもしれない。彼のこれからを憂うならば、エイナなりの勉強法を教示してみてはどうだ」
「私がクラネル氏にですか!? い、いえいえ! 私のような未熟な身で指導などと……!」
「探索アドバイザーが何を言うか……」
「かもしれませんけど! 知識に関してリヴェリア様たちにはまるで及びませんし……!」
「我々の方が先達でありそこそこ年季の入った冒険者だ。私たちだから出来ることもあるだろうが、あくまで私たちは他派閥。出来ることには限度がある。私が言っているのは、あくまで勉強法の話だ。それに、アドバイザーのお前と冒険者である我々とでは、ダンジョンと言う情報の塊への取り組み方はまるで違う」
「な、なるほど……」
「彼はまだダンジョンに潜ったことがない。ならば、ダンジョンに纏わる立ち位置だけならば私たちよりお前に近いだろう?」
「そうかもしれませんけれど……しかし……私はギルドの職員ですし……公私の区別は付けないといけませんので……!」
「ならば言わせてもらおう。この場で、誰よりも公私の区別を付けられていないのはお前自身ではないのか?」
「そっ! れは……」
「少なくとも私は、ギルドの制服を着ていない今のお前と対等な存在だと考えているのだが、どうやらお前はその限りではないようだ」
ハッとさせられた。あまりにも仰る通り過ぎことだらけだったから。
「私もこの場の空気に当てられて先の文句を繰り返してしまったな。これ以上同じ文句を垂れるつもりはない。私との接し方に関してはお前の内で折り合いを付けるとして、彼の話だ。彼にとってお前は人生の先達だろう。そう畏まらず、自然体に接してやれ」
肩に力が入り過ぎだと暗に諭してもらったことも、エイナは理解出来た。
「ベル・クラネル。君はどう思う?」
「む、難しいことはわかりませんけど…………アリーゼさんが言ってました。一緒に机を囲んで乾杯をしてお酒を飲んだら、それはもう友達なんだって!」
完全に置いてけぼりを喰らっているベルくん、実は空気を変えようと頑張っていたりした。側から見れば、エイナがお説教をされているみたいに見えたから。
「それで言うなら、お主とリヴェリアとエイナは友人ではないとなってしまうのぅ」
「え? なんで…………あ! お、お酒飲んでない! た、確かに……じゃなくて! 今のはそういう意味じゃなくて! ど、どうしよう……!」
「ビックリするほど素直やなあ自分……」
「わっはっはっはっは! こうも浮き足ってくれるとやり甲斐があるわい! 儂らのファミリアの連中じゃこうはいかん!」
「気持ちはわかるけれど意地が悪いよ、ガレス。友人……うん、それもいいね。ならばせめて、この不思議な縁が太く長く続いていくことを願って、もう一度乾杯でもしようか。もうお酒じゃないから相応しくないなんて意地悪は言わないから、ね?」
「は、はい!」
「じゃあベル・クラネル。音頭を頼むよ」
「うぇ!? 僕ですか!?」
テンパるベルに集中する大人たちの目。
こういう流れになった時、嫌ですとか無理ですとか言ってしまおうものなら、空気読めない! と言われて怒られてしまうことを、まだ短い酒場勤めで学んでいるベルは、へっぴり腰になりながらもしっかりとグラスを握った。
「じゃ、じゃあ…………かっ! んぱぃ……」
気恥ずかしさに屈した音頭は右肩下がり気味。
なんやねんそれぇと呆れたように女神に笑われたり、締まらんのうと言いながらも豪快に笑うドワーフに肩を叩かれたりしながら、五つの盃がぶつかり合い、軽妙なハーモニーを奏でた。
「これで僕たちは友人だ。もちろん、ベル・クラネルとエイナ嬢もね」
ならば、躊躇も遠慮も不要だろう?
勇者の瞳はベルとエイナに等しく告げて、誠に不平等なことに、エイナにだけは、次の行動を促していた。
話の腰が折れ掛かってしまっていたが。
確かに。確かにである。
あんまりにも純心なもので見ていて危なっかしいというか庇護欲を擽られるというか放っておけない感があるけれどそこまでは親身になれないというかいやでも職員としての立場がなければ私に出来ることなら全然したいけどでもでもそれはぁ……!
と、ギルド職員のエイナ・チュールは思考を硬くしてしまう。
しかし。
「…………クラネル氏」
「……あ! 僕ですか!?」
「そうです」
そんな呼び方されたの初めてと呟く少年の紅い瞳を真っ直ぐに見据え、ギルドの制服を着ていない少女が言葉を繋げる。
「ファミリアの方々が貴方の座学に関して指導をされていると思われますが、私も一枚噛ませてもらってもよろしいでしょうか?」
「えっと……どういう意味ですか……?」
「正直に申し上げますと、私はアドバイザーになったばかりで右も左もわからず試行錯誤の毎日なのです。冒険者の皆さんへ、私なりの接し方は有効なのか。私の思う最善は、冒険者たちの力になれるのか。私は、それを知りたいと思います。だから、クラネル氏のお力をお借り出来ればと思っております」
視線を重ねていた少年の頭上に多量のクエスチョンマークが浮かんでいるような気がして、エイナは笑うのを堪えた。ロキは何も気にせず笑っているが。
「要するに、時々でいいので、私の座学にお付き合いください、ということです」
「な、なるほど!」
ようやく理解が追い付いたベルが声を張る。
ただのギブアンドテイクだ。
ベルは知識と情報の深掘りと、勉強法の選択肢の追加。
エイナはアドバイザー業の探求と追求、果ては実践にまで繋がる。
それぞれにギブがあり、テイクも明瞭。なるほど、悪い話ではない。
「どうでしょうか?」
打算はある。どんなに綺麗な言葉を並べようともそれは揺るがない。半分とは言え、妖精の血が流れているエイナにはこのような提案をすること自体に抵抗がある。
しかし。
「僕で良ければ! とっても嬉しいです!」
出会ったばかりの可愛らしい男の子の力になりたいと思ったのは嘘じゃなく。
「こちらこそよろしくお願い致します、クラネル氏」
「はい! エイナさんっ!」
この瞬間、これから先もずっと嘘にならないだろうなって、そう思えてしまったのだから。
「でしたら……あの、ですね……」
「はい?」
「さっきのリヴェリアさんじゃないですけど……その……クラネル氏って言うのは出来れば……僕の方が歳下だし……その……」
別称をくれないか。固めな呼称がどうにも面映いと。背中を丸め、低い位置から自分を見上げている少年は、そう言いたいらしい。
「第三者的には、チュール氏と呼ばれるエイナを見るのも面白そうではあるがな」
「リヴェリア様っ……!」
冗談混じり……でもないだろう、本心を微笑みながら口にするリヴェリアに慌て散らしながら返し、まだ何か言いたそうにしている少年を視界に収め暫し黙考。
「じゃあ…………クラネ……ベル……くん。ベルくん」
その願いに応える策は、一瞬で捻り出すことができた。
「私が貴方のアドバイザーになることはないけれど、一人の友人として、ベルくんの助けになれるよう頑張るね」
三人の人生の先達と一柱の女神が笑う先で。
ずっと硬めの笑顔ばかりを披露していた少女が、飾り気のない笑顔を見せてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
エイナに引き出されたベルの笑顔もまた、とても眩しいものだった。
エイナはまだ知らない。聞いていない。
冒険者に情を移しすぎるなという、先輩からのアドバイスを。
けれど。もしも仮に今、そのアドバイスを耳にしたとしても、エイナは変わらない。
誰に何を言われたって、徹底的に冒険者に寄り添って、終わりが来ないよう最初からずっと未来まで、冒険者の生存の為に力を尽くす。
エイナ・チュールは、そういう少女だ。
「じゃあベルくん。ベルくんには今、具体的な目標とかってあるかな?」
「一日でも早くファミリアのみんなとダンジョンに行けるようになって、ファミリアのみんなやオッタルさんよりも強くなって……オラリオで英雄になりたいです……!」
少しだけ恥ずかしそうに。けれど躊躇いは然程もないまま、ベルくんと呼ばれた冒険者は、近々の目標と言うには大きいが過ぎる目標を口にした。
なるほど。一の次が万、からの兆。なんなら無限大。みたいな飛躍を望んでいるらしい。
ちょうどいい。
前。上。まだ輪郭さえも見えやしないずっとずっと視線の先。
そういう所ばかりを見ている少年の足元を、少年と共に踏み固める。その為の座学、その為の自分。その証明をしてみせよう。
苛烈に、しかし慎重なくらい臆病なくらい大袈裟に、とことんまでやりきってやろう。
「気が早いっていうのはわかっています……あ、あはは……」
彼の冒険者らしい活動が本格化する前に。いずれ始まる冒険の最中に、『冒険』をしなくて良くなるように。
「だったら尚更しっかり勉強しなきゃだね」
「はい! いっぱい頑張ります!」
この無垢な笑顔を曇らせないように。
いつだって無事に帰って来てくれるように。
その為にも、エイナ・チュールは自分を曲げたりなんかしない。
妥協なんて、絶対にしてやらないのだ。
「じゃあ、今日から一緒に頑張ろうね。ベルくん」
公的なギブとテイクの外。
私的なギブとテイクを与え合う機を得たアドバイザーと冒険者による、今はまだ目線の高さも目標の高さもまるで違う、不安定で不格好な二人三脚が、密やかに始まった。
* * *
「なあーフィーン」
「うん?」
エイナさんは僕が送っていきます!
いや、自分が送られる側では? と野暮過ぎるツッコミを入れそうになったロキを黙らせ、共に卓を囲んだ二人を送り出したロキ・ファミリアの四人が、去って行ったばかりの二人の印象に付いて語らっている最中。既に良い具合に出来上がっているロキがくだを巻くよう、フィンに絡んでいった。
「前に自分から聞いた冒険者の特徴とあの少年が似とるなーって思ったんやけどフィンはどう思ったー?」
「冒険者? 誰のことかな?」
「なんて名前やったっけ。二つ名みたいな呼ばれ方しとったと思ったんやけど……んあー思い出せへん……」
「頭の中で纏めてから話せロキ……」
「なんやったっけ……白い髪で……ヒューマンで……ナイフ使いの……うーんとうーんと…………あ! 思い出したわ!」
手にしたジョッキを机にどんっと置いて。
「『
思い出せてスッキリー! みたいな表情で、ロキは叫んだ。
「『
「そや! 前に自分が教えてくれたやん! 何処の誰かもしれん冒険者が自分らの動きに合わせてくれたーみたいなこと! 大抗争の最中に!」
その冒険者は凡そ二週間、不眠不休なのではというくらい時も場所も選ばずに暗躍。フィンや神々でさえ予測出来なかったような脅威でさえ悉く先読みをしてみせ、たった一人で潰して回っていたらしい。
あまりに神出鬼没でひたすら独善的な動きながらも、まるでフィンに利用されることを見越しているかのように動き回っていたとか。側から見ればフィンたちと彼は言葉はなくとも連携バッチリに見えていたらしく、一部の冒険者には『
彼に纏わる印象的なエピソードがある。
彼は、飛び込んで行った場所がどんなに苛烈な戦場になろうとも誰一人として殺めることはなかったらしい。情けなどかけるべくもない『
道化師ぃ? 何処がやねん。ええとこド級のお人好し。それか偽善者やろ。
その話を聞いたロキは、感謝の念を送りながらも密かにそう思っていたりした。
大抗争の終幕に多大なる貢献を果たし、それでも最後まで表舞台に顔を晒すことはないまま、『
そんな、都市の大恩人に特徴が似ていると、ロキはそう言っている。
「ンー…………すまないロキ。僕の覚えている範囲ではそんな呼び名の冒険者はいないかな」
「いやいやそりゃないやろ。自分がうちに教えてくれたんやで? 何処の派閥かもわからん凄腕の冒険者が手を貸してくれたーって。ガレスもリヴェリアも同じよーなこと言っとったわ」
「儂らが?」
「覚えがないな……」
「…………あーすまん、なんでもないわ。多分他の誰かと混ざっとるわ」
ロキの撤退は、極めて迅速なものだった。
子供たちの内側を透かして見れてしまう女神は、眷属たちが嘘を言っていないとわかってしまったから。
「まったく……飲み過ぎだ馬鹿者」
「こんな程度で潰れたなどと吐かしてくれるなロキ。夜はまだまだこれからじゃろう」
「そこまで長居はしないよ?」
リヴェリア。ガレス。フィン。
この三人が、自分たちと息を合わせて戦ってくれた冒険者を忘れる? この子らはそんな薄情な子ではない。
本当に心から、そんな人物のことなど知らないと言っている。
白い髪であることやヒューマンであることなどは判明したが顔は見ていないと当時から言っていたが、所属派閥辺りを始めとして、その他一切の情報が曖昧だったこともある。その後の足取りも把握出来ないまま年月は経過してしまった。記憶が薄くなることもまああるだろう。
しかし、『
自分はその名前をしっかり覚えている。終ぞ顔を合わせる機会はなかったけれど、子供たちの力になってくれたことへの感謝さえ伝えたかったくらいなのに。
気持ちが悪い。なんだこの違和感は。
まるで、その人物だけ何処かに置き忘れさられたかのような。
一枚絵の中から消えてしまったみたいな。
この下界に存在していた事実そのものがなかったことになっているかのような。
今わかっていることは、フィン、ガレス、リヴェリア。三人の下界の子供が『
天界の神である自分だけが覚えていること。
これくらいか。
しかし、たった二つのこの情報が要であり、何の意味も情報だとも思えない。
「何をぅ!? うちはまだ飲み足りてへん!」
子供たちに異変を悟らせないよう、平常運転な道家を演じながら、ロキは、一つの仮定を仮説とした。
『
『
これは何だ? 何がどうしたらこんな
蛇が出ると期待して、藪をガシャガシャしてみるかあ。
鬱陶しそうに顔を顰める三人の子供の前で、密かに指針を定めるロキ。勘の良すぎるフィンたちの頭の中に後に疑念の種となり得るかもしれない何かを植えてしまった以上、この気持ち悪さを放置することなどもう出来ないのだし。
さてさて、誰に何を問うたものか。
キーになるものは少ない。しかし皆無ではない。
『
そんな少年を男子禁制の派閥に迎え入れた正義の女神。
そんな少年を溺愛していると噂になっている美の女神。
大抗争の最中、『
候補はこの辺りか。
あの少年が本人であるというセンはないだろう。
当時のフィンが言うには、『
であれば、血縁はどうだ? こればかりは探りを入れてみるしかない。
ならば誰に探りを入れる? 少年本人に? あのド真面目な少年には隠し事など出来ないだろうが、空振りに終わる予感がプンプンする。
なら、こっちやな。
「偶には朝まで付き合ってーなー!」
ぎゃーぎゃー喧しい迷惑な女神と視線を重ねることを拒むかのよう。しかしながら極めて自然な振る舞いで厨房へと、汚れた皿を片付けに行く薄鈍色の髪を揺らす少女の背中。
「うへへ……!」
口元を豪快に拭いながら薄目を開いた道家の女神の鋭い眼差しは、彼女が終始聞き耳を立てていた事実を見落としていなかった。
* * *
「輝夜さん……」
「なんだ?」
「明日の訓練……中止でお願いします……」
「いきなりどうし…………おいなんだ。その分厚い本の山は」
「明日の夜までにこれ全部覚えなきゃいけなくなっちゃって……」
「はあ?」
「私の思うガイド方法が如何に実を結ぶのか僕で試させて欲しいって……」
「よくわからんが……何処の鬼だそいつは……」
「鬼じゃないです妖精です……」
* * *
晴天乱気流
「二人とも、ちょいこっち向いてー」
「んー?」
「なあに?」
くるりと振り返ったのは、アーディとベル。
「……うん。やっぱりだ。あんたらさ、髪短くしたらすっごい雰囲気が似たわ」
「ほんとー?」
「そうかなあ?」
「ほら!」
きょとんと首を傾げてみせる二人の動きまでそっくりなことが愉快だったのか、アストレア・ファミリア唯一のアマゾネス、イスカ・ブラがからからと笑う。
「なんかもう、ヴァルマ三兄妹って感じ。一番上がシャクティで、ベルアーディと続くと」
「なんで私が一番末っ子扱い!?」
「僕の方がお兄さんっぽく見えるってことかな……えへへ……」
「どっちもお子様って意味なんだけどなー。でもいいじゃん。短いのも似合ってるよ二人共。私の目に狂いはなかったってことよねー」
イスカに弄られたアーディも、緩みきった笑みを浮かべるベルも、見るからに髪が短くなっている。そんな二人の散髪を担当したイスカはいい具合のドヤ顔を披露。アーディとベルの笑いを誘った。
「ここまで短くしたのは初めてだなー」
とはアーディ。
以前より顕著に短くなった襟足。全体的にしっかりと梳いてボリュームをダウン。元よりボーイッシュな印象のあるアーディだが、可愛らしい童顔の少年と評した方が芯を食っているのではというくらいの爽やかさとなっていた。
「僕も!」
ベルも似たようなもので、以前とは違いどのアングルからでもしっかりと小振りな耳が見えるようになっているのが大きな変化だろうか。
「ま、どーせ直ぐ伸びるんだし、夏なんてそんくらいでいいのよ」
右手で両眼の上に日傘を作り、三人の頭上で煌々と輝いている太陽を見上げてイスカが笑う。
もう直ぐ夏が来る。
ベルにとって、オラリオで迎える初めての夏が。
「っていうかベルさあ、お買い物あれだけでよかったの? もっと買っといた方が良かったんじゃない?」
「ねー。ベルに似合う洋服いーっぱいあったのになー」
それぞれに両腕で紙袋を抱えているアーディとイスカがベルに疑問を向ける。
厳しい陽射しの下を行く三人は、ちょっと奮発してのショッピングを満喫していた。
主たる目的は、ベルの夏服の追加購入。
オラリオへやって来る際に色々と持ち込んだベルではあったが、そもそも洋服の絶対数がまるで足りていなかった。故郷の村では畑仕事ばかりの日々だったことも手伝っているのか、オシャレをするなんて概念がまるで頭になかったベルが持ち込んだ衣類はどれもこれも個性に欠けていたしヨレヨレだったりボロボロだったりと、とにかくポイントが低過ぎた。
そのダメ過ぎる美意識に梃入れを施そうと動いたのがファミリアのオシャレ奉行、イスカ。
今日はお勉強の日と宣言していたベル本人と、ベルの勉強を見ると言いながらベルとイチャイチャする以外のことを特にしていなかったアーディも連れ出し、三人で買い出しと相成った次第だ。
「だ、だって……ファミリアのお金で買ってもらうのは申し訳なくて……」
「みんながいいって言ってるんだから気にすることないの。そうでなくともベルはこれから大きくなるんだしマメに買い換えなきゃいけないのは確定なんだから。酒場のお給金だけで洋服買い替えたりベルの大好きな英雄譚を買い集めたりとか出来ると思う? これからは
「う、うーん……」
「素直に甘えときなってー。それに、ボロボロでピチピチな洋服着て歩いてたら、ノリノリなフレイヤ様に着せ替え人形にさせられちゃうかもだぞー?」
「そ、それは困る……!」
フレイヤに女児の服を着させられたことを密かに根に持ち続けているベルの目の色が変わる。最近のフレイヤなら本当にやりそう感があるのがまた怖い怖い。
「とにかくっ。ベルは細かいことは気にしなくていいの」
「私らも目的あったんだからちょうど良かったんだしさー」
「あれ? 何か買ってたっけ?」
「「水着!」」
「み、水着?」
イスカさん、いつも水着みたいな格好していると思うんだけど。
と思ったんだけども、今日までの触れ合いでそれを言ったら怒らせてしまいそうだと感じたベルは、その言葉を飲み込んだ。
「しれっと買っていたのだ。何せ、今年の夏はメレンに遊び行くって決めてるからねー!」
メレン。ベルも名前くらいは知っていた。
オラリオの直ぐ側にある港町。それ以上のことはあまり知らないが、イスカの話を聞くに、みんなで泳いで遊べる所もあるみたいだ。
「あ、ベルの水着も買っといたから!」
「僕のも!?」
「もち! 行くならみんなで行きたいじゃん?」
「……う、うん……!」
みんなでメレンに遊びに行く。それはとっても楽しそう。今から気持ちがワクワクしてしまうくらいだ。
「み、水着かあ……」
「おやおやー? ベルってば、誰の水着姿を想像したのかなー?」
「ち、違うよっ! そういうのじゃなくて! 僕、水着って初めてで……ずっと山の中で暮らしてたから……」
「じゃあ尚更忘れられない思い出にしないとじゃん」
「私たちの水着姿も綺麗な景色も楽しい思い出もぜーんぶまとめて脳に焼き付けてやっちゃうぞー」
「あぅあぅ」
イスカとアーディにプニプニされたベルの両頬は真っ赤に染まっているが、実は二人の水着姿を想像していました、などと言えるわけもなく、照れ屋な末っ子はひたすらに俯いていた。
「あ。ねーねーイスカー。この後寄り道してもいい?」
「ぼ、僕も! 寄り道したいとこある!」
「全然いいよ、行こ行こ。何処行くの?」
「「本屋さん!」」
「そんなことだろうと思った」
意図せず声の揃ったアーディとベルの姿に溢したイスカの苦笑は肯定の意を内包。三人の足は、星屑の庭とは反対歩行へと向いた。
あれが欲しいこれが欲しいあれが気になるそれも気になると、同じファミリアのイスカでさえ全然わからないオタクトークに花を咲かせるアーディとベルが先導し、夏の到来を予感させる強い日差しと暑さの中をスタスタ歩く三人。
アーディに紹介してもらって以降すっかり常連の一人になったベル行き着けの本屋はもう目鼻の先。ワクワクを隠せないベルよりもワクワクしているアーディはスキップ混じりで、その様は本当に末の妹のようだった。
「行かないって言ってんでしょ。しつこいのよあんた」
その向こう。ご機嫌なアーディたちが向かう店先から、険のある声が聞こえてきた。
「いいじゃんいいじゃーん。寄ってこーよー」
棘のある声とは対照的な無邪気さを孕んだ声も聞こえてくる。
「何あの子たち」
「店先でギャーギャー騒いだら営業妨害に……って、アマゾネス?」
イスカは気付いた。自分たちが目指す店の前で言い争っている二人の少女が自分の同族、アマゾネスであることに。
如何にもアマゾネスと言った具合の軽装に身を包んでいる二人の少女はどちらも黒い髪を有していて、一人は今のアーディとベルとそう変わらない長さで、もう一人の方は襟足の毛先が肩を撫でている。背丈もベルと変わらないくらいだろうか。一人はやたらと攻撃的な目付きをしていたりと大なり小なり差異はあるものの、少女たちは瓜二つな容姿をしているのが遠目にもわかった。
「うん? あの子らって…………あ! そうだよ! あの子らアレだ!」
「どれ?」
「少し前に話題になったじゃん! 自分たちに勝ったヤツのファミリアに入るとか言ってオラリオの冒険者たちとやり合ってたアマゾネスの姉妹! あの子たちだよ!」
「あーそんな話もあったねー」
そこまで興味がないのか、アーディのリアクションは薄め。
「そういえば、僕と同い年くらいの双子の女の子がファミリアに入ったんだってこの前フィンさんが」
「あ?」
「教えひっ!?」
少し前にとある勇者から聞いた話を口にしただけのベルに、えらく鋭い視線が飛んで来た。ベルは一瞬で萎縮。自分の前でニコニコしているアーディの背中に隠れてしまった。
「そこの白い髪」
「はうっ……!」
「おい、聞いてんのかてめぇ」
「なんだか穏やかじゃないねー。っていうか口悪いなーこの子」
「は?」
盾代わりにされたアーディがのほほんと笑う。たったそれだけで、口悪いと言われた少女の苛立ちが加速する。
「やめなよティオネー。お淑やかになるとか言ってたのに全然出来てないじゃん」
「余計なこと言うな馬鹿ティオナ!」
「ごめんねそこの人たち! ティオネが感じ悪くて!」
尚も苛立ちを放ちまくっている少女の前にもう一人の少女が立つ。その少女はもう一人の少女と違い苛立っている様子はなく、素直な謝罪を口にしながらも笑みを絶やさないでいた。
「ティオネにティオナ……やっぱりそうだ……!」
短い期間ながらオラリオを騒がせた末にロキ・ファミリアへ入団を果たした、幼くしてLv.3にまで器を昇華させた双子のアマゾネス。
ティオネ・ヒリュテとティオナ・ヒリュテであると、イスカは確信した。
「あーでもあたしも気になる! ねえねえそこの白い髪の男の子! フィンと知り合いなの?」
「へぁ!?」
しゅたたたーっと両手を広げながらティオナと呼ばれた少女がベル目掛けて駆けて来る。何処かアホっぽさを醸し出しながらも風のように軽やかで速い身のこなしはベルを驚かせ、アーディとイスカも関心させてしまうほどだった。
「どうなの!?」
「ぁ……えと…………は、はい……」
「そうなんだ! フィンと知り合いってことは、君も冒険者なの!?」
「っ……!」
酒場での仕事に好影響を受けているようで最近は改善されつつあったが、相変わらず人見知りをしてしまうベルはやたらと勢いの良いティオナに完全に萎縮。コクコクと頷くことしか出来なかった。
「何処のファミリア!?」
「そ、れは……」
「この子も私たちもアストレア・ファミリアだよー」
「そのファミリア知ってる! みんな強いんだってリヴェリアが言ってたファミリアだ! そんなに強い人たちがここで何してるの!? もしかして! どっかのファミリアとこーそーしにいくとか!?」
「こんなのほほんムードで抗争に行きますかっての。私たちはこの本屋さんにお買い物に来ただけだよー。と言う訳で邪魔しないでねー。これからいろーんな冒険譚を買い漁るんだから。そうだよねーベルー?」
「う、うん……」
「そうなの!? あたしもここでいろんな童話とか英雄譚を買おうって思ってたとこなの! あ! じゃあじゃあ君たちも英雄譚好きなの!?」
「え、えっと」
「好きだよねー。もうすっごく大好きだよねーっ。特にこの子は好き過ぎてアレがアレなことになっちゃうくらい好きなんだから!」
「あ、アーディさんっ!」
「きゃーベルが怒ったーっ。怒った顔もめちゃかわー!」
「ふぐぅ……!」
ベルが唯一所持しているスキルのことを遠回しに揶揄われたベルが怒ってみせてもベル・クラネル厄介勢のアーディには寧ろ逆効果。はしっと抱き寄せ、豊かに実った双丘へとベルを招き入れてしまった。
「いい加減やめなよその弄り方。まーたケンカになっても知らないぞー」
「そうなんだーっ!」
苦笑混じりのイスカの苦言は、アーディとベルの前で瞳を輝かせている少女の大声に飲み込まれてしまった。
「あたしはね、アルゴノゥトが一番好き!」
「おおー! 私とおんなじだ! いい目をしてるじゃーん!」
「ほんとー!? なんか嬉しいーっ! じゃあ君は!? 君もアルゴノゥト好き!?」
「ほ、ほべば……!?」
「うん! 僕も大好きなんだー! って言ってるみたい!」
「じゃああたしたち仲間だ! やったーっ!」
「いぇーい!」
ボーイッシュな見た目とは不釣り合いなくらい豊かな胸に顔を押し付けられているベルを真ん中に、アーディとティオナがなんか知らんけど盛り上がる。
「ふん……」
そんな光景の傍で。不機嫌そうに目を釣り上げている少女が一人。
「気に食わねえ……」
妹が他派閥の冒険者と交流を深めている。とても楽しそうに。
姉にはわかる。あの二人は、あのバカと相性がいいと。
きっと、派閥の垣根なんて越えた、無二の友人にだってなれると。
そうはなれないだろう自分を置き去りにして。
「聞かれたんだから自分で答えろっつの……なんなのあの白い髪……ふにゃふにゃしやがって……」
ティオネの苛立ちは、妹と可愛い冒険者の間で主体性の感じられない同調や相槌ばかりを繰り返している少年に矛先が向いた。
「本当に雄かアレ……ウジウジしてるだけの雑魚い雄……一番嫌いなタイプだわ……」
「双子の妹に仲介してもらわないと諍いも収められない世間知らずが何か言ってるー」
八つ当たりにも似た苛立ちを吐き散らかす少女の前に、同族の少女が立った。
「は?」
「あ、間違えちゃったかな。貴方の方が妹さんだったっけ?」
「姉は私、あのバカが妹。見てわかんないとかその目、節穴なんじゃないの?」
「節穴はそっちでしょ」
「あ?」
「少なくともこの場でちゃんとしてるのは貴方じゃなくてあの子の方じゃん」
「なんだよそれ」
「あの子は会話をしている。ちょっと強引だけどね。貴方は独り言を誰かに拾わせようとして、不機嫌で人を動かそうとしているだけ。碌に挨拶もしないでハナっからケンカ腰。今この場を見たら誰だってあの子の方がしっかりしているって言うでしょ。それと、うちの末っ子を見る目もダメダメのダメだねー。ふにゃふにゃしてるのは認めるけどさ」
そんなとこも可愛いんだよねーと、イスカがにへらっと笑う。その緩んだ笑顔さえも気に食わないティオネの苛立ちは更に加速していく。
「さっきからなんなの? ケンカ売ってんの?」
「そんな売り甲斐のないもの売らないよ」
「どういう意味よ」
「勝つって決まりきってるケンカなんてする価値ないって言ってんの」
言いながらイスカは、右手を顔の前に掲げていた。
その右手は、何かを掴んでいた。
「ちっ」
躊躇いなく振り抜かれたティオネの右拳を受け止めていた。
ティオネは認めた。
強い。
こいつは、口先だけのアマゾネスではない。
「ふーん」
わ、マジ? 強い。想像以上。
イスカは認めた。
この子は、自分とは比較にならないほどの素質を内に秘めていると。
ほんの数年の間にこの少女は、自分よりも遥かに強くなるだろうと。
悔しさはある。けれど悔しいなどと言っていられない。
才能がないことを受け入れ、それでも誰かを守る為に強くなると誓って不断の努力を欠かさない弟が身近にいるのだから。
イスカは同時に、感傷に似た何かを。何処か暗澹としたものを感じていた。
少女の打撃に加減などなかった。
最初から、こちらを殺すつもりで撃ち込んで来ていた。
冒険者に年齢など些事でしかないとはいえ、この歳でこうも人を撲殺することに躊躇いを抱かないのか。
「ど、どうしたの……!?」
「ちょっとイスカー? 何事なのそのガチ感は」
「なにやってんのティオネー」
あの明るく笑っているティオナと言う少女もそうなんだろう。
ベルは勿論として、アーディだって殺意を隠さない少女に微かばかりの驚きを見せているのに、あの子の落ち着き様ときたらどうだ。
日常茶飯事だったのだろう。人の死に触れて生きることが。
闘争の中に身を置き続けることが。
「はあ……」
少女たちの出自が少し見えた気がしたイスカは、ティオネの拳と確かな殺意を受け止めたまま息を吐いた。
いけない。切り替えないと。変に引っ張られて憐憫を感じるだなんて、自分以上にこの子たちの為にも良くない。
「もういい? 私たち、この本屋さんで買い物したいの」
「知るか。ケンカ売ったのはそっちだろ」
「だから売ってないってばー」
「売ってただろうが。そこのチビ貶した途端にしゃしゃり出て来やがって」
「家族貶されて黙ってるのは違うじゃん? 逆の立場なら同じようにするくせにー」
「はあ?」
「貴方が必要以上にイラついてるのだって、可愛い妹が取られちゃうかもーって嫉妬心が」
「ふっ!」
「ほーら図星」
「んなわけあるか!」
左足を一撃で破壊しかねないような右のローをひょいっと躱しながらイスカが笑うと、右手の拘束を無理矢理振り解いたティオネとの追いかけっこが始まった。
「なんか盛り上がってるけどあたしたちは中入ろ! 一緒に本見ようよ! おすすめとか教えて欲しいなー!」
「いやいや放っといちゃダメでしょアマゾネスちゃん」
「け、ケンカはよくないですっ……!」
「まずは『
「『
「ほんとにー!? やっぱオラリオの本屋さんは違うなー!」
「そ、それどころじゃないですよっ! なんでアーディさんもそっち側いっちゃうの!?」
慌てふためくベルの前で二人のアマゾネスの追いかけっこが加速していく。
「動きも速いし先読みもいい。やるねー同族のちびっ子。でもこの都市で粋がるにはちょっと弱過ぎるかなー」
「殺すっ!」
荷物を手放そうとすらしないままティオネのアタック全てを躱わしてみせるイスカの余裕綽々な姿にティオネのボルテージは青天井。
「ひらひら避けるばっかりで戦う意志すらねーのかお前は!」
「いやだからないんだってば」
「舐めやがって……! そこの白い髪のヘタレた雄みたいな軟弱者しかいねーのかテメーのファミリアは!」
「あ、それはよくないなー」
「あんな陰気でウジウジしたヘタレ雑魚なんか庇うような馴れ合いファミリア風情がっ!?」
瞬間。ティオネの身体は、石畳の路面に叩き付けられていた。
「っは……っ……!」
無理矢理引き摺り出される呼気。痛む背中。抑えられ軽く絞められる首。細くなる呼吸。
「そこまでね」
その全てを一瞬の間に自分に叩き込んで来たアマゾネスの女が、自分を見下ろしている。
「ぐ……ぅ……?」
その隣に、誰かがいた。
「取り消してくれる?」
アーディ。
ティオナと語らい、ベルを抱えていたはずのアーディ・ヴァルマが、自分を見下ろしていた。
彼女の右手はグーの形になりきる前に、手首をイスカの手で抑えられていた。
そこまでね。
イスカの言葉が向いていたのはティオネではなく、アーディにだった。
「い、いつの間に!?」
さっきまでアーディの胸の感触に包まれていたはずのベルはティオナの隣にポツンと立っていて、アーディが持っていた荷物を持たされていた。それに気が付いたのも、イスカがアーディの動きを阻害してようやくのこと。
「まったくもぅ……」
暴れるティオネと暴れたいアーディをなんとかして同時に抑えてみせたイスカの肌を、ティオネに追い掛けられている間は一つとして見せることのなかった汗の玉が滑り落ちていく。
「な……ぅ……!?」
「二度言わせないで。取り消して?」
こっわ……!
アーディさん怖いっ……!
イスカとベルが震える。この瞬間も崩れない人好きのする笑顔も今は、恐怖の種でしかなかった。
「私はいいの、何言われたって。でも、他派閥だった私を当たり前に受け入れたみんなのことを……私の家族を侮辱するような発言は許せないかなー」
ここ最近、何かとベル・クラネル過激派だのと弄られることが多いアーディ。弄られると言ってもただの事実でしかないのだが。
アーディに
そんなベルを傷付ける輩は絶対許さず、ベルを悪い道に導こうとする者も許さない。歓楽街になど連れて行って大人の階段を無理矢理登らせたろうと画策する輩が現れたならば、そんなことになる前に歓楽街ごと消滅させてしまうかー、なんて飛んだ思考も有していたりいなかったり。
ベル・クラネル過激派筆頭? 上等だ。姉は正義。アーディお姉ちゃんは断固として揺るがないのである。
ベルに嫌われるのはもう二度と御免だし想像するだけで心が壊れそうになるくらい怖いけど、ベルの為になるのならば鬼にも鬼姉にでもなってやろうじゃないのさ。
それが、アーディ・ヴァルマの基本スタンスなのである。
そもそもの話だ。
ベル然り。アストレア・ファミリア然り。シャクティ・ヴァルマ然り。ガネーシャファミリア然り。
対象がベルになりがちなのでベル関連ばかりが取り沙汰されるアーディの逆鱗は、ベル・クラネルに。もっと言えば、家族にある。
寂しさを滲ませながらも、
確かに付き合いも長く、親交も深くはあったが、以前と変わらぬ様相で、しかし以前よりも心を寄せ合った接し方を当たり前にし、新たな環境になって覚えた一抹の寂しさや不安をあっけらかんと吹き飛ばしてくれたアストレアの眷属たち。
どれだけ感謝の言葉を尽くしても足りない。どれだけ思いを伝えても伝えきれない。
アーディは、家族が大切だ。大切にし過ぎるくらい大切にしている。
だからアーディは、家族を傷付ける者を。家族を馬鹿にする者を許さない。
それだけじゃない。
アーディには、特別に想う人がいる。
顔も名前も思い出せない『彼』だ。大切な大切な『彼』だ。
『彼』に、ベルを託されたこと。
『彼』に、ファミリアの仲間と共にベルを守ると誓ったこと。
『彼』自身のことは思い出せなくとも、それでもアーディは覚えている。アーディの根っこになっている。
ベルを守り続けることは『彼』との繋がりを途切れさせず、守り続けること。
いつか『彼』のことを思い出せるよう願っている。
いつまでも『彼』の背中を探している。
いつかまた『彼』に会いたいと夢見ている。
『彼』と再び出会えた時、貴方に託されたあの子は立派になったんだよって。互いを守り合って一緒に生きているんだよって、家族みんなで伝えたい。
それはアーディだけの願いじゃない。ベル以外の団員全員が胸に秘めている、夢よりも夢みたいな夢。
その夢を叶える為、ベルを。家族を。
アーディ・ヴァルマは守り続ける。傷付させたりなど絶対にしない。
彼女の決意は固い。その意固地なまでの頑なさは、同じ派閥のアリーゼにも誰にも備わっているものではない。
それに伴って、家族絡みのことでは、沸点が他の団員よりも低めだったりもするのだが。
丁度今、発露しているように。
「ダメよアーディ。おすわり、からのおあずけ」
「やだなーイスカー。流石にそこまでガチじゃないって」
「いやいや無理ある無理ある。この子も怯えちゃってるじゃん」
冷や汗たらりのイスカに抑えられ身動きの取れ出来ないティオネは、柔和な笑顔を帳消しにするような絶対零度の眼差しを向けるアーディに、確かに萎縮していた。
「んーと。んーとぉ」
そんな光景を見ていたティオナが、なんだかアホっぽく唸り始めた。
「あ、あの……?」
「んー…………うん! わかった!」
「わかった?」
「多分ティオネが悪いんだろうけど、それでもティオネを傷付ける人のこと、あたしは許せないや!」
「へ?」
「ティオネのこと、離してよ!」
困惑したり驚いたりと忙しいベルの隣にいたティオナが、奇怪なオブジェ宛らな様相になっている三人の少女目掛けて飛び出した。既に握り込まれている二つの拳は、自分は臨戦体制であると存分に謳っている。
「すっかり悪役じゃん私たちー。アーディの所為だからねー?」
「悪いのはこのちびっ子でしょ」
「きっかけはそうかもだけど拡げたのはアーディでしょーが」
「それ言ったらイスカの物言いも問題アリだったじゃん」
「そう? っていうか、私が止めなきゃこの子のことブン殴ってたでしょ?」
「ベルも私たちも馬鹿にされちゃったら流石にね」
「気持ちはわかるけどダメ。アーディも悪いんだから。ケンカは両成敗するもんだって知らないの?」
「知ってるけどさあ、別にこれってケンカでもなんでもないしなー」
「いやまあそうだけども」
「なんで当たらないのーっ!?」
実際、ケンカにすらなっていなかった。
イスカとアーディが語らっている最中、何度となくティオナが仕掛けていた。イスカとアーディはその全てを空振りさせながら雑談を交わしつつ、イスカに至っては変わらずティオネも抑え込み続けるという芸当を披露。
ティオネもティオナも強い。充分過ぎるほどに強い。しかし今は。あくまで今は、イスカとアーディの方が上を行っていた。
「くっそーっ!」
遮二無二拳を振い続けるティオナ。
「ティ、オナっ……!」
その様を見ていることしか出来ないティオネ。
「い、イスカさん! アーディさんっ!」
何が起きているのか目で追いきれず慌てふためいているが、そうしてばかりもいられないと二人の姉を止めるべく駆け出すベル。
「君たち姉妹はオラリオを盛り上げるのが上手だね、本当に」
「へ?」
そんなベルの隣に、誰かが立った。
その誰かはベルに一瞥を寄越し、ベルと視線を重ねるよりも早く姿を消した。
「失礼するよ」
「おっ、と」
「あらま」
「ふぎゃ!?」
イスカとアーディよりも低く早く駆け抜けたその誰かは、尚も暴れているティオナの首根っこを掴みその場から飛び退いて、再びベルの隣に立った。
「あ…………フィンさんっ!」
「やあ。最近よく会うね、ベル・クラネル」
ティオナを掴んだまま爽やかに笑い掛けてくる金髪碧眼の
「その後、彼女との座学はつつがなく行われているかな?」
「順調は順調だと想うんですけど……とにかく大変で……とにかくすごいです……本当に……」
「それは何よりだね」
ベルの表情の変化から苦悩や苦労を感じ取ったフィンの笑顔が苦笑に変わった。
少し脱線する。
「ご挨拶をしないわけにはいかないと思いまして」
ある日のこと。ベルが、とっても美人なハーフエルフの少女を星屑の庭に連れて来た。
少女の名はエイナ。エイナ・チュール。ギルドの職員らしい。
そんな少女は折り目正しい挨拶を主神であるアストレアから団員全員へした後に、言うなれば自分は、ベル・クラネルの家庭教師になったのだと、アストレアたちの前で打ち明けた。
「私というものがありながらぁ……!」
「やっぱり胸ですか身長ですかお尻なんですかそうなんですかそういうことなんですかどうなんですかベル」
「意外に気が多いわねーベルったらー」
ファミリア内に於いて、ベルの学問方面の面倒を主に見てくれているリャーナ、セルティ、マリューらが怒ったり悲しんだりなんだりかんだり色々ありながら、エイナとベル、駆け出しコンビの二人三脚は、アストレアと眷属たちに認められる所となった。
しかしである。
二人の関係を肯定する裏で、姉たちは警戒した。それもただの警戒ではない。ド級の警戒である。
エイナなるハーフエルフちゃん、超可愛い。しかもスタイル超いい。しかもしかも、性格的な部分で絶対にベルと相性がいい。
家庭教師と言う名の肩書き。十四歳とは思えない抜群のプロポーション。勉強会というお題目をいいことに簡易的に構成される二人きりの密室。
「越えるなこりゃ。一線、ってヤツ。一戦交えてよぉ!」
愉快そうに唇を曲げるライラの文言に不安を煽られた姉たちは、ライラにアレしてコレして二度と不蜂なことを言えない身体にした後に、二人の勉強に際してルールを一つ押し付けた。
二人の勉強会は、星屑の庭で行うか、ベルの勤める酒場の裏で行うこと。
ギルド本部の個室なんて危険が危ないのでダメ。エイナの家などという伏魔殿にベルを連れ込むなど以ての外。とのこと。
酒場を会場の一つに選定したのは理由がある。
あの酒場には、特にベルに対する言動行動が自由極まり過ぎるものでどうにも信頼が起き辛くはある、ベルの姉を名乗る不審者、シル・フローヴァがいるから。
必要以上にベルとイチャイチャしたり抱っこしたりおんぶしたりあーんをしたりベルの着替えを手伝おうとしたり膝枕をしたりさせたりベルに女児の服を着せようとしたりお姉ちゃんと呼ぶことを強要したりと、とにかくやりたい放題やりまくる超絶不審者であるシルは、ベル・クラネル過激派の姉たちに言わせれば最も警戒すべきヤベーヤツなのだが、ベルに不埒な真似を働く輩を許しはしない、という信頼は一応ある。
この先も長く付き合いことになるだろう不審過ぎる激カワ少女シルを、姉たちは信じたのである。
姉たちの提案に生真面目なギルド職員は気後れしたどころかどうかそれはご勘弁をと願ったのだが、一部の団員たちに強く反発され倒し、結局折れることとなった。
以降、多くて週に二度。一月に両手の指に至らない程度の数にはなるが、エイナが星屑の庭、若しくは豊穣の女主人に足を運ぶようになった。
尚、その話がフレイヤ・ファミリア内に広まった日。リャーナたちと同じくベルの学力向上に一役も二役も買っている何処かの白いエルフの機嫌が少し悪かったとかなんとか。
話を戻そう。
「状況的に、うちの団員が襲われているように見えるね。その場合は僕にも考えがあるんだが、真相はどんな塩梅かな?」
「そちらの団員にいきなり襲われましたー」
「ベルを筆頭にうちの団員全員を馬鹿にされましたー」
微塵も動揺している素振りのないイスカが右手を上げて、さっきまでとは別人みたいにふわふわなテンションになっているアーディも右手を上げて同調。その下では、開放されたばかりのティオネが大慌てで立ち上がり、顔色を忙しなく変えていた。
「ち、違います団長! 私は」
「ティオナ。君にはどう見えた?」
「うーんと……なんがごちゃごちゃ言い合っててー。それからティオネがそこのアマゾネスにいきなり殴りかかってたー」
「ティオナっ!」
「ベル・クラネル?」
「えっ、と…………はい……」
「あぁ?」
「ひうっ……!」
「ティオネ」
「ご、ごめんなさい団長……」
イスカは見た。
「ほほーん?」
フィンに嗜められ背を丸めてしまったティオネの横顔が、微かに赤らんでいるのを。
「色々と誤解がありそうではあるが、派閥間の争いに発展するような事態ではないと理解したし、うちの団員に非があるのだろうことも理解出来た。イスカ・ブラ。アーディ・ヴァルマ。ベル・クラネル。すまなかった」
「団長っ!?」
ティオナを解放したフィンが、イスカとアーディの前で頭を下げた。
「団員の不始末は団長である僕の不始末。本当にすまなかった」
「っ……!」
尚も頭を下げ続けるフィンを止めたいティオネだが、何も言えなくなってしまった。
理由はなんであれ、自分の行いの所為で、フィンは頭を下げている。
団長の顔に泥を塗ったのは、自分自身。
それがわからないティオネではなかった。
「彼女たちにはよく言い含めておく。二度とこんなことが起こさないと約束する。それで矛を納めて貰えるだろうか?」
「あーはいはいオッケーだよー」
「ベルはどう?」
「僕は全然何も……」
「ありがとう。であるなら、堅苦しいのはもういいかな?」
「最初から要らないっての」
「そういうとこ本当に団長してるよねー。うちの団長にも見習ってほしいわ」
「君たちの団長は僕とはまるで異質な人を導く才に富んでいると思うけれどね」
「それ、絶対アリーゼ本人に言わないでよー?」
「調子に乗るの目に見えてるもん」
「容易に想像の出来る絵だね」
落ち込むティオネの前で笑い合う三人の冒険者のやり取りは過飾なく、実にフランクなものだった。
「フィンとその人たち、仲いいんだねー」
「同じ戦場を駆け抜けた間柄だからね。僕は彼女たちを尊敬しているし、派閥こそ違うけれど、戦友だと思っているんだ」
「へー!」
思ったままを素直に口にしたティオナに笑い掛けながら、フィンはティオネに目を向けた。
「だから、彼女たちが謂れのない侮辱を受けることは、僕にとっても気分のいいものではないんだ。それを覚えておいてくれるかな、ティオネ?」
「はい……」
「そうだそうだー」
「『
「ぐぬぬ……!」
「大人気ないね君たち……」
フィンの小さな背中に隠れてティオネを弄るイスカとアーディの図。ティオネはキレていい。
「っていうか、めちゃくちゃ都合良く現れなかった? なんかあったの?」
「ちょうど彼女たちを探している最中だったんだ。リヴェリアの座学から二人が抜け出したと聞かされたから、事務作業の息抜きも兼ねてね」
「なーる」
「ち、違うんです団長! 私はあのバカを連れ戻そうと」
「あー! あたしの所為にしたー! ティオネだって勉強つまんないーって言ってたじゃん!」
「そ、それはっ……!」
「何れにしても。君たちは派閥の活動から抜け出して、出先で他派閥との間で問題を起こしている。そうだね?」
「うん……」
「はい……」
「他派閥との諍いは起こさないようにと、君たちが入団してから今日まで何度も言い含めたつもりだったけれど、どうやら僕の言葉が足りていなかったらしい。僕の指導力不足と言わざるを得ないね。君たち以上に僕が改めなくてはならないかな。ああそれと、僕を団長だと認めてくれるならば、僕の顔を立てる。なんてことも出来るようになってくれると僕としてはありがたいかな」
笑顔を見せたまま、重苦しくない程度に語るフィンの姿に何も言えずに俯く姉妹。特にティオネの落ち込み具合はわかり易かった。
「申し訳ないと思わせるのが上手よね」
「意外と嫌な責め方するのよねー『
「聞こえているからねそこの二人……お説教の続きはリヴェリアにしてもらうことにするとして」
「うげーっ」
「終わった……」
「彼女たちを悪く言わない。今はそれだけを約束してくれればいい。理解してもらえたかな。ティオネ。ティオナ」
「わかりました……」
「わかった!」
「ありがとう。じゃあ、お願いついでにもう一つだけ。聞いた限りでは、ティオネは彼のことも罵ったらしいけれど、間違いないかい?」
「……はい……」
俯いたまま頷くティオネの様子を見ながら、いきなり自分に矛先が向いたことにベルは驚いていた。
「君が彼をどう言ったのかはなんとなく想像出来るけれど、その認識は誤りだ」
「誤り……?」
「そうさ。何せ彼は、僕が単身で挑んでも勝てないだろう冒険者にたった一人で立ち向かい、何時間も戦い続けた勇敢な冒険者なんだから」
「ふぃ、フィンさん!? その話は……!」
「謙遜しなくてもいいじゃないか。それとも、あの話は嘘だった、とか?」
「そ、そんなことないです! 嘘じゃないです! 本当にあの人と戦いました!」
「ほら」
「あっ……!」
「素直なのは君の美徳だけれど、素直過ぎるのは少し心配な点かな」
「うぅ……」
「ちょっとベルー?」
「あの話、他派閥の人間にしたのー?」
「あぅあぅあぅあぅ……!」
いつかの夜の話をフィンにしていたことを初めて知ったイスカとアーディに頬やら脇腹やらをつんつんされるベル。
「こいつが……?」
「へー!」
その間抜けな光景を眺める姉妹の反応はまるで違うものだった。
「フィンより強い人と戦うなんてすごーい! ねえ君! 君のレベルっていくつなの!?」
「……1です……」
「Lv.1でフィンより強い人と戦ったの!?」
「しかも数時間に渡って戦い抜いて、まともな被弾は一度もなかったらしいよ」
「すっごーいっ!」
「フィンさぁん!?」
「君すごいんだねー! 全然強そうに見えないからビックリしちゃったー!」
「で、ですよね……」
「アーディ、すてい。悪口言ってる自覚もない天真爛漫系女子だから。無敵系のそれだから」
「イスカは私を何だと思ってるのかなー?」
コントを繰り広げる妹たちの流れに一人乗らないでいるティオネは、ティオナと同様にあの少年の来歴に驚いて、更に別の驚きに頭を支配されていた。
「団長より強いヤツがいる……」
圧倒的な力で自分を打ち負かした雄、フィン・ディムナよりも強いヤツがいる。
自分たちのファミリアと肩を並べるほど強い美の女神が率いるファミリアの存在こそ知っているティオネだが、この雄より強い冒険者がいるということを彼女はまだ知らなかった。
「今もいるし、昔はもっといた。自虐なんてらしくもないかもしれないけれど、僕なんてまだまだ半人前だよ」
「は、半人前だなんて……!」
「いいんだ、半人前で。まだまだ強くなれるってことだからね。君たち姉妹と同じさ。それこそ……」
ティオネとティオナに笑い掛けた
「彼に負けないような冒険を成し遂げることが出来たのならば、僕たちはもっともっと強くなれるかもね」
「うぅ……!」
「そんなに照れなくてもいいじゃないか」
執拗に弄られ居心地が悪そうにしているベルを見て、笑みを明るくしていくフィン。
「…………」
羨ましい。
ティオネは、ベルに対してそう思った。
フィンは、自分の前であんな風に笑わない。
自分では、フィンのあんな姿を引き出すことが出来ない。
それが羨ましくて、悔しかった。
「ところで、君たちアストレア・ファミリアは何を?」
「買い物。ベルの夏服とか色々とねー。んでこれからそこの本屋さんでお楽しみタイムと」
「そういえば、ベル・クラネルは英雄譚や童話が好きなんだと言っていたね。具体的にどんな話が好きなんだい?」
「知りたい? 知りたいのー!? なら私が代わりに答えてあげよう! ベルが一番好きなのはねー」
「あ、アーディさんっ!」
「なになに!? 何の話が一番好きなの!?」
変な弄り方をされる気配を察知したベルが慌てて止めに入り、ティオナとフィンの興味を余計に攫っていく。
「さっきのは話半分に聞いといてね」
その光景から取り残されていたティオネの隣に、イスカが並んだ。
「何?」
「あの子が格上の冒険者に挑んだって話。ベルは全身全霊で戦っていたけど、相手の方は手抜きも手抜きだったんだから」
「それくらいわかるっつの」
フィンより強い冒険者とまともにやり合ったのなら、Lv.1の冒険者らしいあの少年が五体満足でいられるわけがない。冒険者でなくともわかる理屈だ。
「けどね? 凄かったのよ、あの子。怪物染みた冒険者相手に一歩も退かないで勇敢に戦い抜いたの。身内贔屓なんて思われるかもしれないけど、本当に凄かったんだから。私も胸がときめいちゃった」
「…………」
アマゾネスという種族は、強い雄に惹かれやすい種族だ。
そんな種族で、自分よりも強い女戦士が、自分より遥かに弱い雄に胸がときめいた、と言っている。
「…………の……?」
「うん?」
「あの雄にホれてるのかって……その……」
「うん。好き。大好き。家族としても愛してるし、男としても愛しちゃってるかなー」
「愛しっ……!?」
直球過ぎるイスカの物言いに何故か照れるティオネ。斯く言うイスカはにへらーっと笑うばかりだった。
「あの子はうちの末っ子だけど、いつか私だけを選んで欲しいなーって思ってる。本気で」
「……奪えばいいだろ……そこまで欲しい雄だっつーなら……」
「ってなるよね、
わちゃわちゃの真ん中にいる少年が右に左にと振り回される光景に頬を緩めているイスカの横顔を、ティオネは黙って見つめていた。
「当たり前の話だけど、あの子はアマゾネスじゃない。種族としての生き様も違うし、そもそもあの子と私じゃ性格が全然違う。これも当たり前のこと。その当たり前を大切に出来ないと、自分だけを愛してもらえない。自分の気持ちを押し付けることばかりに躍起になって、相手の個性や気持ちを蔑ろにするのはやっちゃいけない。そんな風に思うようになっちゃった」
「…………」
わけがわからない。
なんなんだ。この、アマゾネスらしくないアマゾネスは。
けれど、なんだろ。
羨ましいな。
恥ずかしい話しちゃってんなーと頬を掻いているイスカのことを。
変わらずあの少年を見据え続ける横顔がほんのりと赤らんでいることも。
全部が羨ましい。
ティオネは、そう思ってしまった。
「それに、憧れない?」
「何に?」
「自分の好きな人が、自分だけを選んで迎えに来てくれる、的なヤツよ」
「…………別に……」
嘘だった。
ちょっとだけ、憧れている。
自分だけを迎えに来てくれる、王子様。
そんな、優しい物語に、少しだけ。
「自分からグイグイ行って無理矢理捕まえるのもいいけど、『
「な!?」
「競争率高いよ? あんたのとこの団長さんはさあ」
当たり前に見透かされたことに動揺し倒すティオネの新鮮な表情が愉快だったのか、イスカの語気がご機嫌な色に染まる。
「好きになっちゃったんだね。あの
「……悪いかよ……」
「まさか。いいよね、フィン・ディムナ」
「あ?」
「そんな顔しないでよ。私にその気はないって。私はベル一筋だっての。ただ大変よー? あの勇者のケツ追っ掛けるのは」
「わかってるっつの……」
「わかってるならさっさと強くなりなさい。モタモタしてる間にあんた愛しの勇者様が何処ぞの雌に食い荒らされちゃうかもしれないわよ」
「モタモタしてるつもりはない……けど……」
「けど?」
「…………雄の愛し方なんて……まだしらねーし……」
瞬間、二人の間に空白が産まれた。
「……今のは」
「可愛いーっ!」
「ぐっぅ……!?」
それを埋めて尚余る熱量を帯びたイスカが、叫び声を上げながらティオネに飛び付いた。
「何この子ー! いきなりめちゃ可愛いこと言い出したんだけどー!」
「や、やめっ……っが……!」
「いやいや首締まってる、締まってるってイスカ。どしたの急に」
「ちょっと聞いてよアーディ! 『勇者《ブレイバー』も! この子ってば今さあ」
「こっ、殺すうううううううっ!」
「また始まったーっ!?」
「照れることないのにー!」
「照れてねえ! とりあえず死ねえええ!」
イスカの拘束を気合いで振り解いて追いかけっこの再演。しかし今度はギャラリーの誰もが二人を止めようとしなかった。
「……なんか……仲良くなったみたい?」
「だねー」
「そっかー! ティオネは友達が出来たんだねー!」
「友達じゃねー!」
「いやいやもう友達よ友達! あんたのこと応援したくて仕方なくなっちゃったもん!」
「うるせーっ!」
「だったらあたしもちゃんとじこしょーかいっていうのやんなきゃ!」
「話聞け馬鹿ティオナ!」
きゃっきゃ騒がしく追いかけっこ中のイスカとティオナから視線を逸らしたティオナが、ベルとアーディの前に躍り出た。
「あたし、ティオナ! ティオナ・ヒリュテ! あたし、君たちと友達になりたいっ!」
無垢な願いを叫ぶ少女の声を聞いて、ドタバタしていた二人のアマゾネスも動きを止めていた。
「みんなの名前、教えてほしい!」
「私はイスカ!」
「私がアーディ!」
快活に笑うティオナに引っ張られるよう、テンション高めのイスカとアーディがこざっぱりした自己紹介を終えると、その場の全員の視線が、アストレア・ファミリアの末っ子に集中した。
「あ……ぅ……」
これがティオナではなく、誰か面識の薄い大人とかであったなら、アーディが介入し、代わりにベルの名を口にしていたかもしれない。
しかし今はそれをしてはいけない。
ベルは変わろうとしている。内向的である自分を良くないと思い、そんな性格も可愛いのだときゃっきゃする姉たちの前で、ベルなりの前進を続けている。
「がんばれ」
そんなベルにしてあげることなど、小さな背中をポンと叩いて、前進の一助になる。これくらいでいいのだ。
「……ぼ、僕…………ベル……ベル・クラネルって言います……」
「ベルかー! いい名前だねーっ!」
「あ、ありがとうございます……」
「よろしくね! ベルっ!」
「よろしくお願いします……!」
至近距離で花開くティオナの笑顔にまだ少し気圧されながら、それでも目を逸らすことなく挨拶を返せたベルの頬が、少しだけ緩んだ。
「ティオネ。君はどうしたい?」
「…………ティオネ・ヒリュテ……よろしく……」
「よろしくーっ!」
「く! くっつくなっ!」
ぶっきらぼうな自己紹介を終えたティオネにイスカが張り付く。ティオネは苛立ちも露わにしているにも関わらず。
「よ、よろしくお願いします……!」
「よろしくねー」
「すっかり仲が良くなったみたいで何よりだね」
「あたしもみんなと仲良くなるなるー!」
不快とは縁遠い、夏の空に映えるような爽やかな笑顔の数々が、ジャレ付く二人を包んでいた。
* * *
翌日。
「ああああああああでぃぃいぃぃいぃぃい! いすかああぁああああああぁぁあ! べえええぇぇぇぇえええるぅううぅぅぅ! 遊びに来たよおおおおお!」
翌日なのである。
「え、ええー?」
「マジ?」
「ビックリしたあ……」
団員たちが朝食を終えたばかりの星屑の庭の外から届いた大声量が、二人の少女と一人の少年の頬をヒク付かせた。
数分後。
「この本ね、昔読んだヤツとオラリオで買ったヤツだと内容が少し違うんだよー!」
「そ、そういえば、アルゴノゥトもお祖父ちゃんが見せてくれた本とアーディさんが見せてくれた本だと内容が違ってました……」
「アルゴノゥトもそうなの!? えー何それ気になるー! そのおじーちゃんが見せてくれた本って今あるかな!?」
「お祖父ちゃんの所に置いて来ちゃったのでここにはないです」
「じゃあさじゃあさ! 今度ベルのおじーちゃんの所に遊びに行っていい!?」
「うぇ!?」
「楽しみだなーっ!」
「もう行く気マンマン!?」
大きな長椅子の上。一冊の本を間に挟んで、小さな冒険者が二人が、ぴたりと寄り添って笑い合っている。ベルがティオナに寄っているのではない。ティオナの方からベルに寄りまくっているのである。
終始ベルが振り回され気味だけれど、初めて出来た同年代の同行の士と好きなことをひたすらに語らえることがとても楽しいのか、ベルの口数もいつになく多い。
「じ、実家への挨拶を既に取り付けている……だと……!?」
「なんという行動力……!」
「なんだかとんでもないポテンシャルの女の子をベルの懐にまで飛び込ませてしまった様子だけど、気分はどうかしらー? イスカお姉ちゃんにアーディお姉ちゃん?」
「「嬉しいんだけど、ちょっと複雑」」
そんな二人が触れ合う様を見守るイスカとアーディがぶすーっとした表情を披露し、いきなりのことに驚いている他の団員たちの笑いを誘った。
「まあいいんだけどさあ……んで? あんたは付き添い? 優しいんだねーティオネお姉ちゃんはー」
「うるせぇ。団長に言われたから仕方なく一緒に来ただけだっつの……」
イスカの近く。少しばかり居心地悪そうにしているティオネが、小さく頷いた。
「あんたも大変ねー。ま、いい機会かなー。暇ならさ、組み手でもしていく?」
「組み手?」
「あんた愛しの団長さんにはこっちから申し込んだって言っとくよ」
「でも……他派閥の人間とやり合うのは良くないって団長言ってたし……」
「昨日とは別人かってくらい塩らしいわね……んじゃ、あんたが私に勝ったら、ブレイバーのプライベートに関する情報をあげる」
「え?」
「私じゃなくて、フィンとの玉の輿を狙っている、のライラがね!」
「余計なこと言うなイスカコラ! ぜってー面倒なことに」
「やる。ヤる。あの
「ほらこうなるじゃん!」
なんもしてねーのになんで殺意向けられてんだー!? とライラが叫び散らす。
「許せない許さない許すわけがない……団長のお嫁さんは私って運命付けられてるんだから……!」
「その運命ってヤツを手繰り寄せる第一歩、刻んでみるー?」
「やってやるよ……!」
「うん! その意気その意気ーっ!」
早速中庭に飛び出して、徒手空拳二人のハイレベルな攻防が早速展開される。
「わ! ティオネとイスカが楽しそうなことしてるー!」
「ま、混ざって来たらどうですか?」
「いい! 後で行くから! 今はベルと一緒にいたい!」
「はぇ!?」
「えへへー!」
夏の太陽に劣らないような眩しい笑みをベルにだけ披露して、ティオナはベルの手に触れた。それだけのことで、一部の姉たちの目付きが悪くなる。
「楽しいなあ楽しいなーっ! オラリオに来てよかったーっ!」
「ティ、ティオナさぁん……!?」
「あ、ティオネ待った。ティオナがベルとイチャイチャし始めたからちょっと行ってくる。ってことで選手交代。あとよろしくねーライラー」
「はあ!?」
「団長を狙う意地汚い雌……潰す……!」
「いやほんとにどっかいくなふっざけんなバカイスカごらぁ!?」
移ろう季節の香りが愛おしい夏の入り口。
二人の少女は、幾つかの大切な出会いを果たした。
この出会いを経たアマゾネスの姉妹は、強くなる為の新たな動機を経た。
それらは少女たちの意識に差異を産み、衝動の種を蒔き、情熱の薪となるだろう。
月明かりのように、闇の中でも道を照らしてくれる姉。
太陽のように、自分を照らしてくれる妹。
互いを照らし合い、守り合って来た二人の少女は、
二人には初めてだった。自分たちのことを、友達と呼んでくれる存在が生まれたことが。
二人ぼっちだった姉妹は、自分たちの友となってくれた少女たちと一人の少年に手を引かれ、二人ぼっちの世界から乖離する為の大きな一歩を踏み出した。
* * *
ベル・クラネル○○事件
一人の賞金稼ぎがいた。
一人の暗殺者がいた。
二人は、孤独だった。
家族。仲間。友達。ファミリア。
二人は、何もかもに縁がなかった。
二人は、疲れていた。
二人は、血生臭い家業から足を洗うことを考えていた。
故に、今度の仕事を最後の仕事にしよう。そんな風に思っていた。
そんな折、二人に仕事が舞い込んだ。
賞金稼ぎの少女への依頼は、誘拐。
暗殺者の少女への依頼は、誘拐。最悪暗殺。但し、必ず首を持って来いとのこと。
気の乗らない依頼だった。
そもそもオラリオでの仕事に碌な思い出がない。何せ右を見ても左を見ても人間やめてます感あるバケモノ揃いなのだ。仮にそのバケモノをどうにかこうにか仕留めたとしたら望まずとも名前が売れてその後の活動に支障を来たす。それで何度雲隠れをしたことか。
だがしかし。今回は楽な仕事になりそうであった。
何せ標的が、Lv.1の駆け出し冒険者だと言うのだから。
しかしまあ、冒険者間には派閥を越えたパイプが繋がっていることも儘ある。数値化出来ないリスクが多く、リターンは金以外に何もない。
結局、何処までいっても割に合わないのだ。長い目で見てしまえば尚更に。
熟考した二人は、改めて次の仕事を最後にすると決意し、クライアントの前で首肯した。
したのだが。
余りにも少ない標的の情報を収集した結果、二人はこの仕事をパスすることにした。
標的そのものはクソ雑魚だと判明したのだが、年齢を聞けば九歳だと言うではないか。聞くに、背景に後ろ暗いものもなさそう。
善性悪性を問う以前の段階の少年を攫うだ殺すだの何だのと気が引けるなんてレベルじゃない。その気などスッキリさっぱり消失した。
二人の意思を曲げさせた強い要素は他にもある。
それは、標的の所属ファミリア。
標的の所属は、アストレア・ファミリア。最近団長がLv.5に到達したらしい新進気鋭の有力ファミリアだ。標的のおチビさんを除けば団員全員がLv.3以上で構成された、正に少数精鋭を体現している派閥。
ほら、割に合わない。
標的がファミリアで一番よわよわだろうとも背景がヤバ過ぎた。それによくよく調べれば標的は、あのフレイヤ・ファミリアに頻繁に出入りしているらしいではないか。しかもしかも、女神フレイヤと実に親密な関係にあるとか。
背景ヤバいどころか激ヤバ越えてミラクルヤバいじゃん。
その情報を得て、ようやく標的が標的たらん理由を二人は理解した。
あの女神フレイヤのお気に入りとなれば、フレイヤ、アストレアの両ファミリアはもちろん、フレイヤを目の敵にしているファミリアの主神連中に売り込むこともできる。
要するに、有力ファミリアへの交渉材料なのだ、件のお子様は。
良くも悪くも裏世界の面々が一目置くわけだと二人は嫌な納得の仕方をした。
特に賞金稼ぎの方は、標的に対してなかなかに興味が湧いていた。
何がどうしたら他派閥でありながらクセスゴもいいところな美の女神のお気に入りになれるのか。女神フレイヤのお眼鏡に適うような何かがあるのかと。
興味もあるけど、まあそれは置いといて。
殺さないまでもヒョイっと攫っちゃうのはアリかニャあ。
なんて考えたのは、暗殺者。
何故って、これを足掛かりにショタハーレムを築くのもいいニャぁ。なんて思ったから。夢はでっかい方がいいよね。
標的は絶対に殺さない。というより、男児を傷付けるなど自分が絶対に許せない。だってショタは宝。世界の宝だから。傷付けるなど言語道断。ただ愛でるのみなのである。
栄光あるショタハーレムの最初の一人として、仕事から足を洗う記念にお持ち帰りしてしまうと心に決めたのであった。
賞金稼ぎの方は少年への興味から。
暗殺者の方は野望の成就の為。
二人は次に、標的の情報を目視で集め始めた。腕の立つアストレア・ファミリアの面々に気取られないよう最大限留意しながら。
標的がフレイヤ・ファミリアと深い仲であるのは知っていたが、ヘファイストス・ファミリアとも繋がりがあると直ぐに判明した。ヘルメス・ファミリアとも。
最近では農業系ファミリアの最大手、デメテル・ファミリアとも縁が出来たらしく、女神アストレアらと共にデメテル・ファミリアの運営する農園に顔を出しては仕事の手伝いをしたりしているらしい。
そのことに複雑な思いを抱いたのだが、賞金稼ぎの少女は考えすぎないようにどうにか努めた。
その少年はファミリアの団員に訓練を付けてもらう傍らで、とある酒場でお手伝いをする日々を過ごしているらしく、丸一日を
いつだって落ち着きのない兎のようにちょろちょろと動き回り、いつだって充足感に満ちた笑顔を振り撒く日々を過ごしていた。
「楽しそうだなあ……」
標的には、たくさんの居場所がある。
それを羨ましいと思ってしまったのは、賞金稼ぎ。
「いいニャあ……うへへ……」
標的は、なかなかいい尻をしている。
見た目は少々芋臭い感あるが、なかなかぐっどでぷりちーでちゃーみんぐな尻をしている。自分好みの少年見つけちまったニャー。
と、一人ニヤつくのは、暗殺者。
そんな折、厄介な情報が二人の耳に飛び込んで来た。
あの『黒拳』が、同じ標的を狙っている。
あの『黒猫』が、同じ標的を狙っている。
ああ、実に面倒極まる状況だ。
殺しはしない。依頼に応えようとも思わない。最後の仕事と心に決めておきながら締まりが悪いが、依頼ももはやどうでもいい。
「とりあえず……現場行くかあ……」
やると決めたら即やるが基本理念なのに、今日までどっち付かずのままだった暗い表情の賞金稼ぎが、とりあえずと動き出す。目的もないままに。
「とりあえず誘拐してー場合によってはそのままオラリオからトンズラもいいニャー」
殺さないが誘拐する気満々。極上の未来を夢見る明るい表情の暗殺者が、とりあえずと動き出す。夢よりも夢見たいな目標を抱えて。
居場所を探す少女と寂しがり屋の少女が目指す先は、豊穣の女主人。
哀れなる標的。ベル・クラネルがバイトに勤しんでいる酒場である。
* * *
「ベルさん! 少しだけこっち手伝ってもらってもいいですか!?」
「はーい!」
今夜も豊穣の女主人は大盛況。ホールの人手は相変わらず足りていない。
故に、こんな風にして表側にベルが駆り出されることも稀にある。
他の従業員たちと揃いのエプロンを身に付けたベルが右に左にドタバタ跳ね回る。常連客たち、特に女神たちにはごりっごりに可愛がられ、揶揄われ、ちやほやされている。それをよく思わない客たちには睨まれて、ベルを睨んだ客らは他の従業員たちの威圧感に屈して白旗を上げ、酒のお代わりを店員に強制させられる。
「楽しそうだなあ」
カウンター席に一人座る賞金稼ぎ。ルノア・ファウストは、その光景に目を細めていた。
「えっとえっと……こっちか!」
周囲の面々。特に異様な雰囲気を纏っている店主に悟られないよう、一人だけ場違いな感じの少年の様子を観察していると、ドタバタとこっちにやって来た。
「お、お待たせしました! ご注文のリズ……うん? えっと……リゾット! リゾットです!」
「うん、リゾットで合ってるよ。ありがとう、店員さん」
「いえっ!」
注文品の名に自信がなくなったのか、首を傾げていた少年からリゾットを受け取り感謝を伝えると、にっこり笑顔が返って来た。
あー。こりゃ女神の来客が増えるわけだー。
親がならず者であったり、出生や育児環境が荒んでいたりといったケースが非常に多いこのオラリオでは、幼子だろうとこうもピュアピュアしていて健常に過ごせている子などそう多くいるものではない。
そんな稀有な子が不慣れな仕事で懸命に汗を流す姿など、親心も母性も纏めてブッ刺すハッピーセット。神々にリピーターが多いのも納得なルノアであった。
「……ねえ君」
「なんでしょうか!? 他のご注文ですか!?」
「あー違うんだけど……ほら。このお店の店員さんで男の子は君だけっぽくて、しかも随分と若いじゃない?」
「は、はい……」
「肩身が狭い環境に見えるけど……どう? ここのお仕事、楽しい?」
「すっごく忙しくて大変ですけど、とっても楽しいです!」
迷いのない答え。裏のない笑顔。
「そっか」
満たされているんだね。
「……羨ましいなあ……」
私とは違う。
何かを楽しいと最後に感じたのがいつだったかも思い出せない自分とは、見えている世界も、生きている世界も、まるで違う。
「へ?」
「ううん、なんでもない。お仕事、頑張ってね」
「ありがとうございます。えっと……これからも豊穣の女主人をごひーきに!」
舌足らずに店の宣伝をし、しっかりとお辞儀をしてからとたたと去っていくベル・クラネル。裏に入るなり
「可愛いじゃん……」
自分の好みではないけども。ああいう子が幸せを掴めないのはおかしい、なんて思ったりなんだりもする。
況してや、こんなにも住む世界の違う子を、自分の両手で汚していいわけがない。
「はーあ……なんだかなあ……」
元より断った依頼だ。ベル・クラネルをどうこうするつもりもない。
ただ、結末を見ておきたかった。
あの子をどうにかしてやろうと自分と同時期に動き回っていた誰かさんに狙われた少年の行く末だけでもいいから。
手出しをするつもりはない。ボディガードを気取るつもりもない。
誰かを守ろうだなんて、なかなかどうして自分らしくないし。
「……めっちゃうまいじゃん……」
口に入れた途端に幸福指数を跳ね上げてくれたリゾットへの賞賛とは不釣り合いなくらい不景気なルノアの横顔を、薄鈍色の髪を揺らす店員がこっそり見つめていた。
同時刻。
「お届けものでーす」
「んニャ? おーい白髪頭ー! 配達屋さん来たニャ! おミャーが相手するニャー!」
「え? アーニャさんとっても暇そうなのに……」
「おミャーにはわからんだけでミャーはバチクソ忙しいニャ! さっさと行くニャ!」
「わ、わかりましたぁ……」
なんだか理不尽を押し付けられた気はするけども、そこは真面目くんなベル・クラネル。膨大な量の洗い物は一旦後回し。店の裏口へとことこと駆けて行く。
「お待たせしましたー!」
「こんばんはー。配達ですー」
溌剌と笑うベルに、朗らかに笑い掛ける飛脚のお姉さん。
「ニャふ……」
その笑顔が、なんだかだらしない感じに歪んだ……ような気がした。
「へ?」
「ああ、失礼失礼。可愛らしい店員さんが対応してくださるんだなあと思いまして」
飛脚に扮した暗殺者。クロエ・ロロは、下卑た笑みを引っ込め、被り慣れた仮面を纏い直した。
「みんな忙しいみたいで。アーニャさんだけサボってるようにしか見えないんだけどなあ……」
「色々と大変なんですね。これ、郵便です。確かにお届け致しました」
「ありがとうございます!」
「はうっ……!」
手紙を受け取る。たったそれだけなのにほわわーっと笑い掛けてくれる標的のなんたる無垢なことか。物騒な騒ぎしかないオラリオには不似合いなくらいな純心さではないか。
ここ数日、手を替え品を替え安全圏から少年を観察してはいたが、眼前で澱みのない笑顔を見せられるとなかなかクるものがある。クロエ的にぽいんと高い。
「あの……どうかされましたか?」
「なんでもありません。お仕事は楽しいですか、小さな店員さん?」
「楽しいです! 大変なことは多いですし、いろんなことを失敗してばっかりなんですけど、ここで働いているお陰で毎日がとっても楽しいんです!」
「……そうですか……」
毎日がとっても楽しい。
自分とではこうも違うのか。
お互い、自分で選んだ生き方だろうに。
っていかんいかん。よくない方向に気が行っちゃってる。
「あ、あの!」
「はい?」
「その……配達屋さんのお仕事って……楽しいですか……?」
「……捨てたものではありませんよ? 貴方みたいな可愛らしい方にも出会えますから」
「はうっ!?」
「冗談です。では私はこれで」
「ご、ご苦労様ですっ!」
勢い良くお辞儀をし、勢い良く店内に駆け戻って行く少年の頬は真っ赤っ赤。しかしやはり、いい尻をしている。なんかこう、ぷりんぷりんな感じだ。
「……何言ってんだかニャぁ……」
嘘ではない。今の稼業をしているからこんな機会にも恵まれた。
しかし、本当を口に出来たとは言えない。
「……切り替えるニャ」
本職の方の思考回路に切り替えながら、変装用の帽子を目深に被り直す。
店内にアストレア・ファミリアの団員は一人もいない。全貌も背景も見えてこない手練の従業員たちはいるものの、少年と同派閥の面々がいないだけで随分とハードルは下がる。
平常通りなら閉店よりも早くあの少年だけは退勤するはず。彼はまだ若い。帰りが遅くなり過ぎないようにという配慮だろう。
「やーっぱ、仕掛けるなら今日だよニャー」
今夜は色々と都合が良さそうだ。同業者に邪魔をされる前にさっさと済ませるべきを済ませよう。
「んーなーんかニャー」
しかし、帽子を被り直しても、纏った仮面はズレたまま。
「とりあえず、少年の退勤までこそこそしてるニャあ」
語尾が仕事用のそれに戻っていないクロエが、ぶらりと下を向いている尻尾を引き摺るようにその場を離れて行く姿を、薄鈍色の髪を揺らす少女の目がこっそりと覗き見ていた。
* * *
「お疲れでした! お先に失礼します!」
「はーい! またお願いしますねー! あ! 帰る前にぎゅーってさせてください! あとお姉ちゃんって呼んでくだ」
「し、失礼しまーす!」
「あーっ! ちょっとベルさん!? ベルさーん!」
シルの訴えをスルー出来るだけのスキルが身に付いて来たベルが、シルに追い付かれる前に裏口から颯爽退勤。ぺこりと頭を下げるのも忘れない。
「ふーっ……今日も大変だったなあ……」
なんてボヤきながらも笑顔は崩れない。充足感に満ち満ちているのが傍目に見てもわかると言うものだ。
「今日のお仕事で貰えるお金がこれだけだから……買える! 訓練用のお洋服とずっと前から欲しかった冒険譚が纏めて買えるっ……!」
指折り計算をしたりガッツポーズを作ったり独り言のボリュームが大きめだったり、一人になったとてそこそこに騒々しいベルの足取りは軽やかなものだった。
「さて、とっ」
そんな、ご機嫌に揺れる背中を見下ろす影が一つ。
従業員の多くがどう見たってパンピーではない故に店を出て直ぐに仕掛けるのはリスクだが、あの少年に対し異様なまでに過保護な姿勢を見せているアストレア・ファミリアの団員が迎えに来る可能性も大いにある。実際、今日まで何度かあったことだ。ここまで碌な動きも見せない同業者の存在も気に掛かる。
それに、ここであの少年を攫ってしまった方が少年の為にもなる……かもしれない。
だって、彼は誰かに狙われ続ける宿命にある。あの歳で裏社会の面々に商品価値を付けられるというのはそういうことだ。
自分がやらなきゃ『黒拳』がやる。
『黒拳』がやらなきゃ誰かがやる。
間違いなく、自分が手を出すより遥かに惨い未来が少年には待っている。
あの子を救うつもりなど毛頭ないけれど。あの尻を拝めなくなるのは世界にとって損失以外の何物でもない。
結論。
ベル・クラネルが店を出て直ぐ、一瞬で終わらせる。
「ふっ……!」
夜の闇に紛れ、クロエ・ロロは疾駆した。
命は取らない。傷付けもしない。ちょっと眠らせて自らの城にお持ち帰りするだけ。眠っている間に色々楽しむかもしれないがそれくらいは許されてもいいだろう。
「ちょっと苦しいのは我慢してニャ」
全ては一瞬のことだから。
クロエがベルの背後を取ったのも、また一瞬のこと。
Lv.1の冒険者は、Lv.4の暗殺者の襲撃に気が付けず。
痛みを与えぬようにとわざわざ用意した、一瞬で気持ちよーく眠れる薬品を染み込ませたハンカチが、ベルの口を覆う。
「ちょい待ち」
寸前、誰かの声が聞こえた。
「!」
クロエはその声に従うことなく、ベルの背中から全力で飛び退いた。
「へ? え?」
クロエの判断は正しかった。渦中の真ん中にいるベルの頭上を小石サイズの何かが駆け抜け、何の罪もない家屋の壁を崩したから。
「いやほんとに小石だし……!」
出来たでほやほやのクレーターの真ん中に埋まっている物がマジの小石だったのを認めたクロエは瞬時に理解した。
「動きはっや……!」
小石を投擲したルノア・ファウストもまた、ベルの背中から瞬時に飛び退いてみせた不審者の正体を理解した。
「『黒拳』……!」
「『黒猫』……!」
「へ? え? えっ!?」
何かと引き合いに出される日陰者同士の邂逅は、何かとお騒がせな少年を間に挟んで果たされた。
「何してんの、あんた」
ベルを挟んだ向かい側にいる同業者へ言葉を投げ付けるルノア。
いや、何してんのは自分へのセリフだろ。
と、脳内セルフツッコミを入れるルノア。
本当に何をやっているのか。まるでこの子のボディーガードじゃないか。
「そっちこそ何のつもり? 横取りとはお行儀が悪いんじゃない? それとも何? その子の騎士でも気取るつもり?」
黒猫が不機嫌そうに睨んでくる。
いや本当に仰る通りだわ。
今日のルノアは、一から百までらしくない。
最後の仕事のつもりで受けて、結局断って、それでもふらふらとこんな所にまで来てしまったことも。
何もかも中途半端にしてしまい、仕事のけじめを付けられていないことも。自分自身へのけじめも付けられていないことも。とにかく何もかもだ。
それらは、いつかちゃんとしなければならない。
「そんな堅苦しいの気取るとか柄じゃないし。これはそういうのじゃなくて……」
それよりも今だ。考えるのは後回し。
「あ! リゾット食べてたお姉さん! それと……配達屋のお姉さん……!?」
自分なんかのこともちゃんと覚えていてくれる少年が、目の前で酷い目に遭うのを見るのは嫌だと思っちゃったんだから。
「美味しいリゾットを食べさせてくれたお礼! そんだけ!」
だから、今思い付いた適当な理由を口にし、数多の血を吸って黒ずんでいる両手の拳具をがちんと突き合わせ、ルノアは口の端を釣り上げた。
ルノアらしさが久し振りに表面化した瞬間であったかもしれない。
「アホくさ。まあいいわ。貴方を瞬殺して、それからこの子を……!」
「僕!?」
状況に付いていけないベルの頭上を、クロエの投擲した三本の投げナイフが走り抜けた。
「んなもん当たるかぁ!」
タイミングをいやらしく変えて放たれたそれらは額、心臓、肝臓をそれぞれ狙うも、ルノアは二つの拳で全て叩き落としてみせた。
「ま、そりゃそうよね……!」
投げナイフ程度でどうこうなるわけないと見越しているクロエは既に走っていた。右手には、先端の曲がった黒色のダガー。
『黒拳』を手練と認めているクロエの狙いは、外道の武装、バイオレッタによる毒の付与。
『黒拳』は強い。豊穣の女主人の近くでダラダラと長期戦になるのも都合が良くない。
故に一瞬。
『黒拳』に毒を付与し、少年を眠らせてトンズラ。
「ヘタに動かないでね!」
ベルに声を掛けながらルノアが走る。
『黒猫』を手練と認めているルノアの狙いは、一撃離脱。
『黒猫』は強い。絡め手やら何やらでこっちを行動不能にして少年を連れ去るつもりだろう。長期戦になるのはお互い都合が良くない。
故に一撃。
『黒猫』をどうにかこうにか殴り飛ばし、少年を抱えて退避。
「え? えっえ、えっ、えええ!?」
間でテンパるベル目掛けて二人の少女が駆け出した、みたいな構図。
『黒拳』と『黒猫』の激突は必至。
勝負は一瞬。勝敗は一撃。
「はえ?」
その一瞬が迫る中。ベルが変な声を上げた。
それは多分、奇跡の類だった。
「は?」
「ニャ?」
駆け出した二人のLv.4の目には見えた。
ルノアの叩き落とした超切れ味の鋭いナイフが舗装された石畳を跳ね、ベル・クラネルの履き物、ショートパンツの側面をさっくりと切り裂く瞬間を。
「あっ……わ……!」
しかもしかも。これまた何の奇跡か。ショートパンツの下まで。ベルの肌はこれっぽっちも傷付けることなく、下着だけが器用に切り裂かれた。
片側がさっくりと切れてしまったショートパンツが落ちて、それに寄り添うように、頼りない作りの下着がはらりと落ちる。
「わわ……!」
「ほニャニャニャ……!」
全開の殺意を放っていた賞金稼ぎと暗殺者の動きがべらぼうに鈍る前で。
「う、うわああああっ!!」
甲高い声で叫び、両手で前を隠しながらベルは座り込んでしまった。
「ご! ごめんごめんごめんごめんっ! 違うの違うの! 狙ってやったわけじゃないの!」
「しょ、少年の……なっ、ななな生ケツ……!」
瞬間、殺伐としていた路地裏は、コント部屋に早変わり。
急制動してベルの目の前で弁明を始めるルノアと、急制動してベルのド背後からケツを眺めて涎を垂らし始めるクロエ。
「う、うう……あぅぅ……!」
二人の間で蹲るベルは、頬を真っ赤に染めて涙さえ見せ始めてしまった。
「偶然! 本当に偶然なの! いや謝って許されることじゃないってのはわかってるけど! あ、あんまり動いちゃダメだよ!? 見えちゃうから! あとお願いだから泣かないで……!」
彼の比ではないくらいルノアの顔も赤くなっている。なんなら直視しないよう両手で目を覆ったりもしている。戦闘中であることなど既に頭から飛んでいるらしい。
「ふひ……ふへへ……ミャーの目に狂いはなかったニャあ……ニャふふふふ……!」
恍惚とした表情で涎を垂らしているクロエは、ベルの尻を舐め回すように見つめている。誰かさんと同じく、白い肌を真っ赤に染め上げながら。
仄暗い稼業に身を起きながら清い身体であり続ける二人には、ちょっと所ではなく衝撃的な光景だったりした。
「きゃわわなショタの生ケツっ……! たまらんニャ……! せ、折角だから前も」
「何をやってんだ変態猫ーっ!」
「ぐミャあああああ!?」
反射的に変態をしようとしたクロエの頬に、反射的に粉砕をしようとしたルノアの拳がクリーンヒット。勢い良く吹き飛ばされたクロエは。
「あ」
激しい音を立て、激しい被害を撒き散らしながら、豊穣の女主人の裏口に突き刺さった。
見るに、裏口は半壊。倉庫らしき物も潰れてしまった。
「あー」
やっちゃったヤツじゃんこれ。
「おい……」
「ひっ……!」
時既に遅し。
瓦礫を吹き飛ばしながら、一人のドワーフが、早速現れてしまったから。
「く、くび……とれ……ニャぅ……!」
左手で、『黒猫』の頭を鷲掴みにして。
「何の騒ぎですか!? って、ベルさん!? 何がどうしてそんなゆか……大変なことに!?」
「今愉快って言おうとしましたよねシルさん!?」
泣きながらツッコミを入れるベルと駆け寄ったシルの横を、怒れるドワーフが素通り。
「あ……あぁ……!」
恐怖で固まっているルノアの前で止まった。
「何処の誰だか知らないが……」
あ、死んだ。さらば今生。よろしく来世。
「この……アホンダラがあああああ!」
振り下ろされた拳骨は、悲鳴を上げることすら許してくれなかった。
* * *
ベル・クラネルのベル・クラネル公開事件から一夜明けた朝。
「お、おはようございます……」
「おはようございます」
「おはようございますベルさん! 今朝はリューさんもご一緒なんですね!」
早くても昼からのヘルプ。基本は夜の営業前からのバイトなベルだが、今朝は珍しく朝一番に豊穣の女主人へと足を運んだ。ベルの隣……ではなく。居心地悪そうに縮こまっているベルの前には、リューの姿も。
「昨晩色々あったと伺ったので。ベルが現状を確認したいと言うので同行したのですが……本当に色々とあったご様子ですね……」
「あ、あはは……まあ色々と……」
「うわあ……」
遠目から既に見えていたが、明るくなってより鮮明になった破壊の跡はなかなかどうして凄まじく、ベルの頬も引き攣ってしまう。
裏口は半壊。ゴミ捨て場や倉庫もぺしゃんこ。しっかりばっちり営業に影響のあるような被害を被っていた。
「それで、犯人の目星は?」
「そこにいます」
「はい?」
「あっ……!」
「ベル?」
首を傾げるリューの背中に、頬を赤く染めたベルがまたも体を隠してしまった。何がどうしたのだろうとベルが見ている先を探ると、見覚えのない二人の少女が、見覚えのある制服を着用し、大工仕事に勤しんでいる姿がリューの目に映った。
「なんでミャーまでこんなこと……ミャーは被害者ニャ! おかしいニャ!」
「ピーピー言ってないで働けよ変態猫……」
豊穣の女主人の制服に身を包んだ、クロエとルノアである。
「あんたら、明日からうちで働きな。勿論給料は払うが、あんたらの給料から修理費はさっ引く。諸々込みで一億ヴァリス。きっちり納めてもらうからね」
昨晩、既に半死半生のクロエとルノアにそう告げたミア。当然二人はミアに抗議したが、二人仲良く拳骨を頂戴し反論ごと擦り潰された。
尚、クロエとルノアのクライアントは、ベル・クラネルがベル・クラネルをご開帳した昨晩の内に壊滅したらしい。
なんでも、戦乙女の横顔が記されたエンブレムを身に付けた一匹の猫と四人のパルゥムが動いたとかで。
彼らの行動は異様なまでに迅速に行われた。ドタバタ騒ぎの予感を察知していた誰かが事前にその可能性を伝え待機してもらっていたのではないかと勘繰ってしまうくらいの、文字通りの怒涛であった。
何が何だかわからないが、二人の正体を知る者たちはこの世を去ったか、易々と表舞台に上がって来れない身になったのは間違いない。
それぞれけじめらしいけじめは付けられていないかもしれないが、それを後に回して先のことを考えていい時間が出来た。肩の荷を下ろせる時が来たと言っていいだろう。
自由を得たのだ。クロエも、ルノアも。
「ニャーっはっはっは! ミアかーちゃん怒らせるからそんなことになるのニャ! いいザマニャ! 今日からおミャーらはミャーの子分ニャ! さっさと修理を終わらせてミャーの分まで働くニャ!」
「は?」
「あ?」
「ん? なんニャ?」
二人をおちょくりに来たアーニャを睨むクロエとルノア。昨晩に負けず劣らずの殺意を発する二人を見てもアーニャはのほほーんと首を傾げるだけ。
そうか。こいつはアホなんだ。
クロエとルノアは納得した。
「何? もうみんな仲良しになっちゃったの? すごいねー」
「「「なってない!」」」
「ギャーギャー喚いてないで働きなバカ娘共!」
「「「ひゃい!」」」
ふらりと現れたシルの一声に過剰反応を見せる三人にすかさず店主の怒声が飛ぶ。特にクロエとルノアの怯え方は凄まじい。すっかりトラウマになっているご様子。
「また怒られちゃったじゃんか……って! き、君は……!」
「プリケツ少年!」
「そ、その呼び方やめてくださいっ!」
昨晩の概要を全然聞かされていない所為で首を傾げざるを得ないリューの背に隠れながら抗議する小兎。既に涙目である。
「そ、その……昨日はごめん! 君を傷付けるつもりはなかったの! 結果的にしっかり傷付けちゃったけども……とにかく本当にごめん!」
リューの背後でもじもじしているベルを発見するなり、ルノアは勢い良く頭を下げた。
「えっと……昨日はいいモノ見せてくれてありがとうニャ!」
「何言ってんだバカ猫!」
「ごミャぁ!?」
「ひぃっ……!」
いい笑顔でベルに笑い掛けたクロエの脇腹にルノアの肘鉄が突き刺さるも、ダラダラと汗を流しながら歪んだ笑みを浮かべるクロエと目が合ったベルから絞り出される心底怯えたような声。あの二人がここにいる理由がわからなすぎるベルは、縋るような眼差しを訳知り顔のシルへと向けた。
「し、シルさん……あの二人は……」
「こっちのパンチ力ありそうなお姉さんがルノアさん。隣の変態的な
「え、ええー!?」
ベルが驚き倒す前で何も言えずに曖昧な笑顔を浮かべるしか出来ないルノアとクロエ。
しっかりバッチリ殺り合っていた間にいたベルとしては何言ってんの冗談でしょと声を荒げてしまうのもさもありなん。
「でも昨日のアレは……!」
「そ、それはですね……えっと…………そう! 実はルノアもクロエも、ここで働くことは前から決まってたんです! 昨日のアレはですね、ベルさんを驚かせようと思って仕込んだイベントだったんです!」
「い、いべんと?」
「昨日はあんなに激しく争っていた二人が実は、ベルさんの同僚になる二人だったのです! っていう、ドッキリ? みたいな感じです!」
「いや何言ってんの看板娘さん……」
「いくらプリケツ少年がピュアケツ少年だと言ったってそんなの信じるわけ」
「そうだったんですねっ!」
「あー」
「あー」
「全然わからなかったです! すっかり騙されちゃいました!」
そうだったのかー! なんて笑いながらリューの背中から飛び出して来る九歳男児。
全力全開前のめりで信じてくれちゃうじゃん。いやまあ、暗殺だの誘拐だのと対象だったんだよチミは。なんて言うよりも全然いいんだろうけどさあ。
「ふふーん」
シルって呼ばれてた看板娘ちゃんもドヤってるし。なんなのこの店。変なのばっかじゃん。
とか思うルノアなのだが。
「僕、ベル・クラネルって言います! これからよろしくお願いしますルノアさん! クロエさん!」
なんかもう、どうでもよくなった。
「あーうん。よろしく……ね」
「よろしくだニャ!」
「そ、それと……昨日のことは……早めに忘れて欲しいです……」
「うん、忘れる。約束するよ」
「それは無理な話ニャふっ!?」
「あんたねぇ……はーあ……」
肘鉄をクロエに入れて溜息一つ。
何でこうなるかなあ……けどまあ、こういうのも……悪くないのかな……とりあえず、日を改めてデメテル様に報告に行くかあ。
ここで働くことの過酷さをその日のうちに思い知り早速後悔することになるのだが。
「あたたた……ニャふぅ……」
肘鉄をルノアに入れられて溜息一つ。
何でこうなったニャ。けどま、ぐっどなプリケツも拝めたし、今後はもっとやりたい放題出来そうニャし、これはこれで悪くないかもニャあ。とりあえず、日を改めてニョルズ様に報告に行くかニャ。
あのドワーフの下で働くことの苛烈さをその日のうちに思い知り早速後悔することになるのだが。
後悔とは似ても似つかない何かが、彼女たちの中に根を張った。
「私の名はリオン。リュー・リオンと申します。うちのベルが世話になりますので、私もご挨拶を」
「んニャ? そこのおミャー、リューって言うのニャ? ポンコツポンコツ言い過ぎてそんな名前だったなんて知らなかったニャ」
「ま、まだ言うか! 貴方こそポンコツだろう! 私がここへ来た際、貴方はいつも店主に拳骨をされている! 人にどうこう言う前に己を顧みなさい! アーニャとやら!」
「ポンコツにポンコツって言われてもなんだかニャあ」
「無敵ですか貴方は!?」
「そんなにポンコツポンコツ言われるのが嫌ならポンコツじゃないって証明しろニャ!」
「いいでしょう。その安い挑発に乗せられてあげます。聞きましたねベル。今日は私も貴方と共にこちらで働かせていただきます」
「えっ? あ、ああ……そうなんだ……そうなんですね……」
「……どうしてそうも嫌そうな顔をしているのですか?」
「へぁ!? な、なんでもない! なんでもないですっ!」
「すっかりアーニャとリューさんも仲良しになりましたねー」
「「なってない!」」
「ほらぴったり! ミアお母さんミアお母さん! 今日はお昼の営業も夜の営業もリューさんが手伝ってくれるって!」
「え? いや、せめて昼だけで」
「リューさんのポンコツっぷりがクセになるって仰ってた常連さんが沢山いるんですよー! じゃあ今日は開店前の準備から手伝ってもらっちゃいまーす!」
「ポンコツっぷり……?」
「し、シルさん? それはやめた方が……お店の為にも……」
「何ですか? 私に言いたいことがあるならはっきり言いなさいベル」
「なんでもないですーっ!」
「何このコント……はは……!」
空風が少女たちの髪を撫でる。
季節はすっかり豊穣の秋。
賞金稼ぎとして一人きりで生きていた頃には感じたことのなかった何かを得て、ルノア・ファウストは、ルノア・ファウストが諦めてしまっていたものを。
「右見ても左見ても変なのしかいない……ニャふふ……!」
暗殺者として一人きりで生きていた頃には触れたことのなかった何かに触れ、クロエ・ロロは、クロエ・ロロの日常から剥がれ落ちてしまっていたものを。
ルノアの笑顔を、ルノアはルノアの日常に取り戻せた。
クロエの笑顔を、クロエはクロエの日常に取り戻せた。
寂しがり屋な二人の少女は、寂しいなどと思う暇もない日々を手に入れたのだった。
* * *
妖精の心、小兎知らず
思い知らされるばかりの日々を過ごしている。
齢十四にしてLv.1の冒険者である彼女は、強くそう思う日々の渦中にあった。
年齢云々で全てを語るつもりはないし、自らを卑下するなど愚かにも程があるが、しかし未熟は未熟。受け入れていかねばなるまい。
戦闘の経験。冒険の経験。勝手気儘な主神から無茶振りをされる経験。そして、諜報の経験。
この身には、まだまだ足りないものだらけだ。
「おう! 俺に注いでくれや! エルフのお嬢ちゃん!」
「畏まりました」
出来の良い笑顔を貼り付け、殿方の求めに応え、殿方の機嫌を取る。
あのいつもヘラヘラしている主神から恩恵を授かって以降一番上手くなり、器用に熟せてしまうようになったのはこの辺りの技術なのではないかと本気で思ってしまう。
こんなはずではなかった。
こんな、密偵活動に従事する為に冒険者になったのではない。
「は…………っ……」
十四歳のエルフの少女、ローリエ・スワルは、吐き出しそうになった溜息を無理矢理に飲み込んで、同席している冒険者たちへと可憐な笑みを振り撒いた。それだけで同席している者全ての笑みが一層下卑たものとなり、実にエルフらしい精神を宿している生娘の神経を逆撫でし、きめ細かな肌を粟立てた。
「それにしても、あんたみたいな別嬪さんが俺らのサポーターになってくれるとはなあ!」
「俺らにも向いて来てるんじゃねえか!? 運と風向きってヤツがよお!」
「いい目をしてるぜあんた。何せ俺らはこれからもっとデカい派閥になっていくんだからな!」
良い年の男たちが乱暴に笑い合う光景すらローリエの肌に合わない。
しかし、彼らの文言が大言壮語と言い切れないのは事実だ。
主神の命によりローリエが接していたのは、第二級冒険者以上で構成された男三人のパーティ。
揃いも揃ってローリエと致命的な相性の悪さを有した荒くれ者ではあるが、実際腕は立つ。
旗揚げから数年以内に団長を筆頭に幾人かの上級冒険者を輩出。後進も数名確保しているなど、数年後には今より名を上げることは間違いないだろうと目されているファミリアだ。
故に、早いうちに弱味なりなんなりを握っておきたい。それが我が主神ヘルメスの望みであるなら、果たすべきを果たさねばなるまい。引き受けておきながら放り出すなど、実にエルフエルフしているローリエには許されないことであった。
「なああんた、いっそ本格的にうちのファミリアに入らないか?」
隣に座る男……彼らの派閥の団長が、ローリエの肩に腕を回した。
「っ……」
反射的に無粋極まるその行為を咎めるべく腕を払い退けてやりたい衝動と、生理的嫌悪と称してよいだろう悪感情の奔流がローリエの体内を荒らしに荒らした。
「……申し訳ありませんが、今は色良いお返事をお返しするには」
悟られないよう唇を噛み、直ぐに百点以上の笑みを貼り付けてみせる。
本当、こんなことばかり上手くなってしまって嫌になる。
「堅苦しいなあエルフってのは! うだうだ悩んでないで俺らに付いて来てくれよ!」
ぐいっと、ローリエの細身が野太い腕の持ち主にまで引き寄せられた。
「こ、困ります……」
耐えろ。耐えねばならない。まだ肩に腕を回されただけだ。これくらいで叫び声を上げていては何もかもが立ち行かなくなる。
そもそも絶対的に自分には不向きな任務を押し付けた主神にこそ問題があるとはいえ、それはそれ。
ヘルメスから託された任務が気に食わなかろうと肌に合わなかろうと、主神から託された任務すら最低限モノに出来ないで不平不満だけを押し付けるなどあってはならない。
文句を言うならば。主神の顔面を一発殴るにしても。やるべきことをやりきってからだ。
「なんだいなんだい、エルフってのはお堅いなあ本当に!」
「あの、肌の接触は流石に……!」
「ま、どうせ直ぐに慣れるさ」
気持ち悪い。手近な酒瓶で一人一人の頭をカチ割ってやりたい。もうやってしまおう。いやいけない。ただでさえ大聖樹に顔向け出来ないような行いばかりしていると言うのに。
「男社会で甘い汁を啜ろうと思ったら、女がやらなきゃいけねえことなんて……なあ?」
ローリエの肩を抱く男の手が、ローリエの頬に伸びてくるのが見えた。
「……っ!」
「あのっ!」
生理的嫌悪と我慢の限界を越える直前。声を張り上げそうになったローリエの代わりに、誰かが叫んだ。
その声の主は、白い髪を揺らす、小さな少年だった。
この酒場、豊穣の女主人の一員なのか、若葉色の制服こそ未着用なものの、他の従業員たちと揃いのエプロンを身に付けていた。
「そ、そのお姉さん嫌がっています! やっ、やめてください!」
「君は……」
ヒューマンの少年は、二つの拳を小刻みに震わせていた。
怖いのだろう。臆病な子なのだろう。常連でもなんでもない私などでも放っておけないようなお人好しなのだろう。とてもとても、優しい子なのだろう。
「なんだお前?」
「ここの店員か?」
「そうです! とっ! とにかくやめてください!」
「はあ?」
「女の人を傷付けるのはいけないことなんです! だからダメです!」
「おいおい水差してくれるなよ……」
「うるせぇガキだなあおい」
「あ! わ……!」
ローリエから腕を引いて団長が立ち上がり取り巻き二人も続く。恰幅の良い冒険者に囲まれた少年の怯えたような表情が男たちの隙間から見て取れた。
「俺らがどんな話してようが俺らの勝手だろう? そっちこそ、それが客への態度かよ?」
「そ、それは……!」
「お前みたいなガキとあーだこーだ言い合うつもりはねえ」
「帰ってママの乳でも吸ってろガキ」
「む、無理です! 殺されますっ!」
二人のママの顔が脳裏を過り、二人のママに熱狂的な愛を捧げている人々の顔も過った。特に、同じ屋根の下で暮らしていない方のママにそんなことしようものなら、来世か再来世くらいまで残りそうな呪いとかを魂に刻まれたりしそう。向こうのママの子供たちから。想像した絵面があまりにも怖過ぎて、今ここにある恐怖など急速に萎んでいった。
「じゃあ早いか遅いかだな」
「俺たちを不快にさせた落とし前くらい付けてもらわねえといけねえもんな」
「ま、待ってくれ!」
椅子を飛ばして立ち上がったローリエが慌てて止めに入る。
少年の献身は嬉しい。本当に嬉しい。感謝を尽くしたい。しかしあまりにも向こう水。
「一発で済ませてやる。感謝しろ」
ローリエの懇願も届かない。
「わわわ……!」
逞しく鍛えられた右腕が、少年目掛けて振り下ろされた。
「はいギルティ」
と思ったのだが。
「ごふっ!?」
今にも少年の額に届きそうな拳が動きを止めた。見れば、拳の主の動きもぴたりと止まっていた。というか、気を失っていた。
「一発で済ませてあげたよ。感謝してね」
「る、ルノアさん……!」
「啖呵切るのは男らしくていいけどさ、自分を守るとこまでバッチリ出来てたらもっとカッコ良かったんじゃないかな。ベル?」
「あ、あぅぅ……」
尻餅を付いている少年をベルと呼ぶようになった少女、ルノアに笑い掛けられたベルは、元より小さな身体を更に小さくして丸くなってしまった。
というか、あの巨漢を軽々と抱えているのだが。あのルノアとかいう店員、バケモノ?
「て、てめぇ!?」
「何しやがる!」
「こっちのセリフだっての。うちの従業員に手を出そうとか何様?」
「お客様だっつの! 大体」
「あーはいはいそういうてんぷれ的なの聞きたくないニャ」
ギャーギャー喧しい男の脇を誰かが通ったと思ったら、その男は音もなく意識を飛ばしていた。
「クロエさん……!」
「相変わらず行き当たりばったりだニャあ。けどま、デカしたニャ。迷惑な客は叩き出すに限るニャ。ご褒美にミャーがお尻をナデナデして」
「自重しろ馬鹿猫」
クロエと呼ばれた
う、うん? 今、何をやった? どうやって意識を刈り取った? まるで見えなかったのだが……!? ぐにゃりと折れた身体を受け止めたルノアと言う店員には見えていたと言うのか……!?
「な、なんなんだお前、らっ!?」
「んニャ!? 誰か今ミャーのこと馬鹿猫って言ったニャ!?」
目にも止まらぬ早業に驚倒しているローリエの前。本当にいきなり、唯一の生き残りである荒くれ者の腹に、鋭い蹴りが突き刺さった。
「ルノアが言ったニャ!?」
「あんたに言ったんじゃないし。ってか流れで適当に蹴り入れんのやめたげなよアーニャ……」
「このクソ忙しい時にそんなつまらんヤツらの相手してる暇ないニャ!」
こちらも
いや。いやいやいやいや。仕事の片手間に一撃必倒とか。しかも腹部への蹴りで? どれほどの力が集約されていたというのだ……! 体捌きも目を見張るほど軽やかではないか……!
あの猫二匹とヒューマン。間違いなくただの従業員ではない。上級冒険者なのは確定として、Lv.3……それ以上の可能性も……!
「ほら、こいつら捨てにいくよ」
「へーへーニャ」
「それ捨てたらさっさとこっち手伝うニャ! あ! 財布は抜いとけニャ! 白髪頭もさっさと仕事するニャ!」
「わ、わかりました!」
当たり前みたいにそれぞれ仕事に戻っていく。今し方見目麗しい少女たちに叩きのめされた連中も店の外へと思いっきり放り投げられているし。他の客たちは何事もなかったみたいに食事を続けているし。あんな程度、日常茶飯事の光景だとでも言うのか……!?
「私たちのベルきゅんに手を出そうだなんて!」
「出禁よ出禁っ!」
「あの子たちの主神には見当付いてるわ。さてどうしてくれましょうかねえ……!」
中には随分と熱量高く怒り散らしている客もいたが、揃いも揃って女神であった。あの少年に手を出したことにお冠なご様子だが……彼はこの店の看板娘ならぬ、看板息子といったところなのであろうか……?
「な、何が何やら……」
「あ、の……」
「え?」
自分の見たもの全てに理解が追い付かずに呆けているローリエの眼下で、白い髪が揺れた。
「その……ごめんなさい……」
「……どうして貴方が謝る?」
「偉そうなこと言ったのにちゃんと守れなかったから……お姉さんのこと……」
「…………」
一部の女神が烈火の如く怒っている理由。その一端が理解出来た気がした。
嫌味なく。含みもなく。
本当に良い子なのだろう。この少年は。
「……嬉しかった」
「へ?」
「貴方が声を上げてくれたことだ。貴方が怒ってくれなければ、望まぬ未来が私に降りかかっていたかもしれない。そうならなかったのは貴方のお陰だ。貴方に感謝を」
「い、いえっ! 僕は……えと…………どっ、どういたしまして……!」
漸く自分を見上げてくれた少年の瞳は、燃えるような
それはとても綺麗で、とても美しかった。
「……四人席では他の客に迷惑が掛かってしまうな」
「えっ?」
「同行者がいなくなってしまったが、少し身体と心を休めたい。カウンター席に空きがあるようだが、席を移動しても構わないだろうか?」
「も! もちろんです! あ! 何か飲みますか!? お酒の方は僕はあんまりわかりませんけど、食べ物の方ならいっぱいおすすめ出来ます! 全部美味しいのは僕が保証します!」
「……ローリエだ」
「はい?」
「私の名だ。ローリエ・スワルと言う。君は?」
「……ベル! ベル・クラネルって言います!」
自分を見上げる満面の笑顔にこの店が繁盛している理由の一端を見出し、エルフの少女ローリエも、花のように微笑んだ。
* * *
「ベルさん、そろそろ上がりの時間ですよね? 帰る前にそのお姉さんにお付き合いしてあげたらどうです? 賄い出しますよー?」
薄鈍色の髪と弾けるような笑顔が印象に残る従業員に促されたベルは彼女の提案に全力で頷き、エプロンを外した後にローリエの隣に座った。
果汁たっぷりの林檎ジュースを受け取ったベルと、気が乗ったからと蜂蜜酒を追加で注文したエルフのローリエ。不慣れな感じの乾杯を二人で交わした席は、意外な盛り上がり方をした。
「仕事を選べる立場でない。そんなことは理解している。ああ理解しているとも。それにしたってもう少しこちらの内情に気を配った配置をして欲しいものだ……! エルフの向き不向きなど途方もない数の下界の民を見て来た神ならば当然理解しているだろうに……!」
「本当にヘルメス様はもう……今度会った時怒っておきますから!」
などなど。
蜂蜜酒の所為、と言えるほど飲んでもいないが、確かに口が軽くなってしまっているらしいローリエが、自身の所属ファミリアを明かしたことが盛り上がりの契機だった。
ローリエ自身、所属ファミリアを明かすつもりなどなかった。しかし、溌剌と自己紹介をしてくれた少年の名に覚えがあると気付いたことが引鉄となった。
「ベル? ベル…………確か、アスフィ団長がその名を……」
「アスフィさんとお知り合いなんですか!?」
自派閥の団長の名を口にした途端にえらい食い付きようを見せたもので、釣られるように所属ファミリアを明かしてしまったのだ。
「体が痛い……眠りが浅い……疲れが抜けない……ベル……ベルはどこですか……私に癒しを……ベルぅ……!」
都市外での任務より
しかしまあ、あの苦労人が彼に癒しを求めてしまう気持ちが理解出来た。
聞き上手でも話上手でもないけれど、全力で話を聞いてくれるし全力で応えようと全力で頭を働かせてくれる。その様がえらくわかりやすい。わからないことはわからないと素直に口にしてくれる姿勢にも好感が持てる。
何より、優しい。
先ほどの件で気落ちしたりしているのではないかとこちらを気にしてくれているのがわかりやすいし、任務で色々と大変だったのだと愚痴を溢すと、頑張ってたんですねと明るい笑顔で労ってくれる。
あの主神に無理難題ばかりを強いられる日々を過ごしている彼女にはさぞ鮮烈であったことだろう、彼との出会いは。自分にとってそうであるように。
んでんで。
「私はエルフの身でありながら必要に迫られたとは言え、肌に触れることを許したり……婀娜めいた真似をしたりと……ああすまない。貴方の前でする話ではないな……とにかく……私は醜いエルフなのだ……」
すっかりローリエは、ネガティヴスイッチが入ってしまっていた。
「え、えっと……」
繰り出されるネガティヴのオンパレードの数々は、無自覚に人にポジティブを与えるのが得意なベルをえらく困らせていた。反応に困る的な意味でも。
「誇り高いエルフがあんなに……これが社会の闇……!」
「やっぱヘルメス様のとこはぶらっくニャ! ちょーぶらっくにゃ!」
割と最近、労働環境に難のあり過ぎる酒場に勤め始めたルノアとクロエが二人のやり取りを盗み聞いて背筋を震わせる前で、酔っているとまでは言えないローリエからとにかく愚痴が出てくる出てくる。その愚痴の矛先のほとんどがヘルメスか、ローリエ自身に向いている。
あのふざけた主神はだの、エルフの身でありながらだの、エルフにあるまじきだのと、とにかく自罰的。
一にエルフ。二にエルフ。三四にエルフ、五にヘルメス。ってな具合で繰り出されるネガティヴ。しかも内容が内容なだけにフォローがし辛いったらない。
「そ、そんなことは全然ないです……ローリエさんは……醜くなんてないです……はいっ……!」
故にベルは、曖昧な否定と弱腰な励ましに終始するばかりであった。
「……それは……私がエルフだからだろうか」
「へ?」
「私がエルフで、それなりの容姿を有しているからそう言っているのか?」
「え、ええっ、とぉ……」
「うわあ……」
「いやーな絡まれ方してるニャあ……」
「シルが変に気を回すからあんニャことになってるニャ」
「だ、だってぇ……」
シルたちの表情も引き攣るような絡み方で綺麗なエルフが九歳児を困らせている画は、眺めている側から見てもシンドイものがある。
どのみち、そろそろ割って入ってベルを帰らせないといけない。門限に引っ掛かってしまうからだ。
門限を少し越えるくらいならば一応問題ないのだが、あまりにも遅くなるとベルに対してとーっても過保護な一部の姉たちが迎えに来てしまうのだ。
ベルが酒場勤めを始めて間もない頃のある夜。
「あーそう。そういう感じですかー。それで、どなたから送還します?」
ベルを膝に乗せたり抱っこしたり頬にちゅっちゅしたりあーんを強要したりと、門限があるから帰らなきゃいけないんですと喚くベルを無理矢理引き留めてひたすらに愛でていた女神たちの前に立った、ベル・クラネル過激派筆頭にしてネーサンズ12のリーダーにして姉ンジャーズのボス、アーディ・ヴァルマに本気の眼差しで凄まれて以降、女神たちがベルの帰宅を妨げることはなくなったとかなんとか。
「やる。あの娘はマジでやる……!」
「アストレアのとこ移籍してから狂気染みた顔するようになったわよね……」
「天真爛漫を絵に描いたような娘を狂わせるベルきゅん恐ろしい子……あっ、なんでもないです許してくださいアーディ様」
それ以降、アーディが酒場に顔を見せただけで店内の空気が一変するようになったとかならないとか。
自称、ベルのお姉ちゃんのシルに、ベルに手伝いを依頼しているミアは勿論として、あのアーニャでさえベルの門限には気を配っているくらいだ。故にそろそろ割って入らないとなのだが、さてどうしたものだろうか。
「そ、の…………ローリエさんは……エルフの人で……すっごく綺麗な人です……それは本当にそうだと思います……」
「そうか、ありがとう。しかしやはり」
「で、でもでもっ」
「でも、なんだ?」
「ローリエさんが優しくて、綺麗で、とっても素敵な人なのは……ローリエさんがエルフだからじゃなくて……ローリエさんが、ローリエさんだからですっ」
「えっ?」
「ぼ、僕っ……ローリエさんのこと、好きです!」
瞬間。アーディ様がやって来たのかと勘違いしてしまうほどに、店内の空気が変わった。
「えと……えっと……ローリエさんがエルフだからじゃなくて……ローリエさんがローリエさんだから好きなんですっ!」
「…………」
トゥンクっ!
知らない音! 知らない音がっ! 鳴った!
「……ひゃえっ!?」
知らない声! 知らない声がっ! 出ちゃったっ!
「ひゃぇっ、とか言ってるニャ」
「めっちゃ顔赤くなってんじゃんあの子。なんか頬抑えてるし」
「耳まで真っ赤ニャ……あ。酒一気飲みしたニャ」
「こ、これは……!」
四人娘は勿論多くの視線が見守る先でどんどこどんどんとエルフの様子がおかしくなっていく。気付けば蜂蜜酒は空になっているし全然乱れていない髪を直そうとしてばかりいるし何度もモジモジと手と手を擦り合わせているしそもそもベルの方全然向いていないし。
「だ、だからっ! 自分なんかって言うの、ダメだと思いますっ!」
流石にちょっと恥ずかしいながらもしかし、ベル的には他意などなく、ベルなりに真剣に答えた。言葉選びを頑張った感はあるが何一つ嘘はない。
「……わ、わかった……」
その、あまりに真摯で誠実な想いの丈……的な何かは、ローリエに届いた。
男女間の清い関係など知らず、況してや恋なんてものなど知らなかった、ハイパー操カチコッチン系エルフのローリエに、クリティカルなヒットを果たしたのだ。
「た、確かにっ? 自虐的でいたとて得たものなど君の愛ぃぃぃぃやいやなんでもない! 本当になんでもないのだ! とにかくっ。その気持ちが嬉しい……とってもとっても嬉しい……本当に……嬉しい……!」
「?」
散々擦り合わせていた両手をようやく持ち上げたと思ったら、何故か知らないけれど、左手をパーの形にして自らの眼前に掲げ始めた。誰の目も集めるような美貌を有した少女は、うっとりのその手……薬指あたりを見つめていた。
「が、ガンギマってる顔してるニャ……しかも左手の薬指に幻見えてるっぽいニャ……!」
「ベルの言い方もアレだったかもしれないけどさあ……ろまんてぃっく的な要素全然なかったと思うんだけど……」
「どっかのポンコツエルフに負けないポンコツ臭がヤバいニャ……!」
「あ、あはは…………はあ……」
「は、話を変えよう……わ、私は……基本的に酒を嗜まない。食も細く、こういった場には不似合いな存在だろう……それでも構わないだろうか? また貴方に会い……いやいや! また、この店を訪ねても……!」
「もちろんです! ローリエさんが来てくれたら嬉しいです! いつだって大歓迎ですから!」
「はうっ!」
「はうっ?」
「なんでもない! なんでもないのだ! そ、それと! 先程の礼をちゃんとしたい!」
「いやいや! お礼なんてそんな」
「私がしたいのだ! そうでなければ気がすまない! だから……その……いつかでいい。いや明日とかだととても嬉しいのだが……どうしよう……そうだ! 買い物! 買い物などどうだろうか!? これから冬になる! 君に似合いそうな冬服を買いに行くなど……そ、そうして……揃いのマフラーなどを購入っていやいや待つのだ私! それは流石に早過ぎるだろう私っ……!」
「顔真っ赤にしてグネグネ身体捻ってるニャ……」
「すっかりその気になってニャいかあれ」
「あんたの弟(仮)がヤベー怪物生み出しちゃったけど、どーすんの、シルお姉ちゃん?」
「ぐ、ぐぬぬぬ……!」
「え、えっと……よくわかりませんけど……僕で良ければお付き合いさせてください! お買い物!」
「はううっ!」
「あ、あの……?」
「こ、こちらこそっ、よろしく頼む……どうか末永く……ぅ……!」
「わかりました!」
尻窄みになっていく語尾は拾え切れなかったけれど、こんなことがあるんだなあと嬉しそうにほわほわーっと笑うベルの前。
「や、やった……っ!」
お付き合い! してもらえる! やたーっ!
恋的な何かを知ったエルフが歓喜に抱かれ身体を震わせる異様な様子に、ベル以外の店内全員が戦慄を覚え、新鮮な学びを得た。
曰く。エルフって、やっぱヤバい。
その後。
思惑通りにベルとの買い物の約束を取り付けることに成功し、即日に実現を果たしたローリエ。
「その怨みがましい目をやめてくださいローリエ……」
「お招きに預かり光栄です、同胞」
のだが。
二人が買い物に行くという事実を知っていた何処ぞの酒場の看板娘のリークにより、何故か自派閥の団長アスフィとベルの所属ファミリアの上級冒険者のエルフが同行することとなり、ローリエが不機嫌を顕にしたりと色々あったのだが。
「いや待て……これはもはや……両ファミリア合意の間柄と同義なのでは……!?」
より良い未来しか見えていない彼女はそう解釈し、跳ねるようなステップを踏みながら、二人のおまけが添えられたベルとのお買い物デートを終始ほにゃほにゃ笑顔で心行くまで楽しんでいたとか。
その後のその後。
「うん? どしたーアスフィ? ローリエ? ローリエなら今の諜報が終わったら都市外に出てもらおうと……はあ? 行かない? 都市外には絶対出ないって言ってるって? いや待て、何がどうしてそうなる? ん? アストレア・ファミリアへ
大慌てのヘルメスが地に額を擦り付けてローリエを説得した結果、
「ベルくんとお義父さまの文通を我々のファミリアが任されているらしいですが、今後私が受け持ちます。えっ聞こえません。何か問題が?」
「お義父さまとか言っちゃってるしっ……!」
外掘りを更に埋めることに成功したと喜ぶほにゃほにゃエルフさんは、ベルと祖父の文通以外の仕事を碌にないようになってしまったとかなんとか。
その後のその後のそんな裏では。
「絶対的に良くて、なんなら絶望的にいい」
「何がでしょうか?」
「ベルとエルフの相性」
「…………」
「あんな脳内お花畑過ぎる変質者予備軍でしかもヘルメスの子供との交際なんて、私は認めないから」
か、過保護過ぎる……!
ヘルンは頑張りに頑張って、言っちゃいたくて仕方がない言葉をどうにかして飲み込んだ。
「あの子と交際だ婚姻だを望むなら、この私を納得させるだけの器を示してみせなさい……!」
五歳下の九歳児にものの一時間程度で骨抜きにされてしまうと言う、初恋モンスターに成り損ねた何処かの女神様が頭を痛めるほどのチョロさを発揮したクソ雑魚ポンコツ系エルフのローリエが越えなければならない壁は、果てしなく高い。
「次はいつ、ベルくんとお出掛けしようかなあ……にゅふふぅ……!」
思わぬ形で爆誕した新世代の初恋モンスターの明日はどっちだ。
* * *
特別をする日
「母の日、って知っているかしら、ベル?」
きっかけは、最近縁の出来た女神、デメテルの一言だった。
そんな日、そんな文化があることすら知らなかったベルは首を横に振り、その日がどういったものなのかをデメテルに尋ねた。
「私に何か手伝えることはあるかしらー?」
興味津々なベルに概要を伝えたデメテルは、早速やる気に火が付いたらしいベルに、そう声を掛けた。
ベルは何度も頷いた。デメテルの厚意に全力で甘え、今日まで馴染みも縁も関係すらもなかった日に全力を注ぐことをベルは誓った。
誓ったんだからとベルは張り切った。頑張った。一人で全てをやりきるんだなんて格好の良いことをしようなどという気持ちはなく、頼れる人も物も神も、とにかく頼りに頼った。
「こういうの、ベルは好きそうだなと思って」
知り合って間もないながらもベルの性格をバッチリ掴んだデメテルが早めに情報と言う名の種を蒔いてくれたことで、少々とはいえ余裕を持って当日を迎えることが出来た。
その日は自分以外の団員全員が
「まあ……! ありがとうベル。とっても嬉しい……これ以上どう表現したものかわからないけれど……本当に嬉しいわ……ありがとう……」
ちょっと得意気にさえ見えるベルが仕掛けたサプライズ。それを受けたアストレアは心底幸せそうな笑顔を子供たちに見せて、何度も感謝を告げ、数度に渡ってベルを抱き締めた。
一番最初に渡すのは、絶対アストレア様!
そう決めていたベルは出掛けて行く姉たちを見送った後、心地の良い充足感に耽溺してしまいそうな己に鞭を打ち、次の行動を開始した。
「彼女たちに渡しに行くのよね?」
アストレアにそう問われたベルはうんうんと何度も頷いた。
「とっても喜んでくれるわよ。私が保証する」
アストレアにお墨付きが貰えたベルの瞳はきらりと輝き、支度を急ぐ自分の両手も気持ちも逸らせた。
ベルは言った。
目的を果たしたら直ぐに帰ってくる。そうして今日は、アストレアのお手伝いやお世話を頑張る日にするんだと。
「私のことはいいの。私はいつもベルと一緒にいられるのだから」
慈愛に満ちた微笑みと共に本心を語るアストレア。彼女は、これまでもこれからもベルを支えてくれるだろう人々との時間を大切にして欲しいと願っていた。
本当は一抹の寂しさを感じているけれど、それでもアストレアはベルの背中を強く押した。
「いってらっしゃい、ベル」
喜びの余韻に心を撫でられ続けているアストレアに手を振られ、全力のいってきますで返したベルは、勢い良く
ベルが次いで向かったのは、昼の営業を終え、掃除と夜に向けての仕込みをしている真っ最中の豊穣の女主人。
「ん? 何やってんだい坊主。あんた今日は非番だって言ってたじゃないか」
裏口から厨房へと飛び込んで行くと、そこにはミアがいた。娘と呼んでいる従業員たちに、母と呼ばれているここの店主が。
不思議そうにベルを見据えながらも手を止めずに仕込みを続けるミアに、ベルは突然やって来た目的を叫びながら、ミアに渡したかった物を手渡した。
それを受けたミアは、まず困惑を見せた。
「ありがたく受け取るけれど、あんたはあたしを母と呼ぶ必要はないよ。というかやめな」
どうしてとベルが問う。
「鬱陶しい嫉妬を何処ぞのバカにされても面白くないからね。それに、あんたには二人も母親がいるんだろう? そいつらを大切にしな。それが、息子のあんたがやるべきことさ」
自分の思っていた展開とは違っていたらしく困惑を隠せないでいるベルと、その困惑さえも愉快の種なのか、口の端を高く維持しているミアのやり取りは、今日は休みを貰っているシルを除いた多くの従業員に見守られながら進む。
「ただ、気持ちは嬉しい。感謝するよ、坊主」
そう言ってミアは、いつもの豪快な笑みをベルに見せた。
その力強い笑顔が見られて嬉しいベルもにっこりと笑った。
笑顔のベルには何やら次の目的があるらしい。ソワソワを隠せないベルの内側を見抜いたミアに、仕込みがあるんだからさっさと行きなと乱暴に促され、ミアやアーニャたちに頑張ってくださいと声を掛け、これまた勢いよく豊穣の女主人を飛び出して行った。
ベルの次の目的地。まずは
すっかり歩き慣れた道を落ち着きなくドタドタと走る。
体が軽い。気持ちも軽い。なんだかとってもいい気分。
そんな折だった。
「あ……!」
ベルの紅い瞳は、放っておけないモノを見つけた。
* * *
夕方に差し掛かった頃合いから、迷宮都市に空からの落とし物が降り注ぎ始めた。夜を連れて歩くよう、次第に軽快になっていく雨足は今も歩みを止めず、好き勝手にオラリオを闊歩しては悪戯好きの子供のようにあちこちを濡らして回っている。
「嫌な雨……」
夜も深まってきたと言うのに寝着に着替えず、白と若紫を基調としたドレスに身を包んでいる女神フレイヤが呟く。その呟きに答える侍従は一人もいない。少し前までヘルンがいたはずなのだが。
「はあ……」
もう何度目かもわからない溜息が、部屋の主人を眠らせまいと多くの魔石灯が煌々と輝いているフレイヤの神室を満たすも、その音も窓を叩く音に上書きされて静かに消えていった。
「……滑稽ね……」
自虐心に満ちた独り言。届けたいのは自分にだけ。
何が滑稽か。今この瞬間、今の自分の有り様全てが。
子供の日。
ある日、そのワードを聞いた。
その日からフレイヤには、誰にも言えない楽しみが出来た。
「今の私を見たら、デメテルはなんて言うかしら……」
脳裏に浮かぶは一人の友人……神友の姿。
そもそも。母の日というキーワードをベルの耳に入れたのはデメテル。
思えば、デメテルと自分が何時以来かもわからないくらい久し振りに視線を重ね、言葉と笑みを交換し合うきっかけをくれたのも、ベルだった。
デメテル・ファミリアの
多くの神々からオラリオでも屈指の善神、神格者と認められているデメテルが、ドが付くほど真面目で何処までも純粋で善良なベルを気に入り、その豊満が過ぎる胸元へと抱き寄せたのは出会って数秒後のこと。
それ以降、時折ではあるが、ベルはデメテルの元で畑仕事を手伝うようになった。故郷で祖父らと畑仕事に精を出していたことも手伝いベルの手際は良く、その人柄も含め、デメテルは勿論として、彼女の眷属たちに気に入られるのも早かった。一部の女性眷属たちの気に入りようは尋常ではないらしく、ベルが来ると作業の進行度がバカみたいなくらいに向上するとかなんとか。
そうして親交を深めていく中でベルは、アストレアとデメテルの何気ないやり取りに意識を引っ張られた。
「最近、フレイヤとは会っている?」
振り返ってそのやり取りを眺めていると、苦笑を浮かべたデメテルが首を横に振る瞬間を目撃してしまった。
「会いに行ってもフレイヤの子供たちに門前払いをされるばっかりで、ね……」
ベルは気になった。気になって気になって仕方がなかった。
「よしっ……!」
だからベルは、その日のうちに行動を起こした。
ちょっと行ってきますとアストレアとデメテルに叫んで、だだっとオラリオの街を駆け抜けたベルは、躊躇いなく
「フレイヤ様! 僕とお出掛けしましょう!」
情熱的にさえ見えるデートの誘いにフレイヤは心底驚倒し、しかしその申し出を躊躇わずに受けた。
何勝手してんだ潰すぞ小兎ごらぁ、と苛立ちを溜め込むヘディンらに密かに警護されながら、目深にフードを被ったフレイヤの手を引くベルは、フレイヤへと碌な説明もしないまま歩き続けた。
「ここは……」
こうなったら付き合うしかないと腹を括ったフレイヤは果たして、ベルが連れて行きたかった場所。デメテル・ファミリアの
「フレイヤ……!?」
外が騒がしいと表に出てきたデメテルは目を見開いて驚き。
「ふふ……」
しっかり手を繋いでフレイヤを連れて来たベルの姿に、アストレアは愉快そうな微笑みを浮かべていた。
「フレイヤ様は、デメテル様と会わなきゃダメです!」
ベルの真意がわからず、これは何? と素直な疑問を口にしたフレイヤに向け、更にベルが叫ぶ。
「友達は大切にしなきゃいけないんです! ケンカしちゃったなら、仲直りしなきゃいけないんですっ!」
ケンカをした覚えはないのだけどと困惑するフレイヤと、ケンカはしてないわよー? と首を傾げるデメテルの言葉を聞かず、ベルはズンズンと進んでいく。
「前にアーディさんとケンカみたいなことをしちゃった時に、仲直りは大切だって、ちゃんと目を見て伝え合わないといけないんだって、シルさんって人が僕に教えてくれたんです!」
それを言われてしまったら。その名前を出されてしまったら。フレイヤは動かざるを得ない。ベルの認識が正鵠を得ていなかったとしても。
「色々と誤解があるようだけれど……とりあえず、中に入れてもらえるかしら? それと……貴方が作った甘味が食べたいわ、デメテル」
「いきなり来るなり勝手なんだから…………待ってて、用意する」
そうして、豊穣を司る二柱は、多くの言葉を交わし合った。その時間はとても有意義で、素直に楽しいと思える時間だった。
「ベルと貴方、どういう関係なの?」
アストレアの隣で甘味を頬張りほくほく顔を見せているベルを見ながら、デメテルがフレイヤに尋ねた。
「ベルは、私の息子なの」
少しの躊躇いもなく答えたフレイヤは、付き合いの長いデメテルでさえ目を奪われるような穏やかな微笑みを浮かべていた。
「……そういうプレイ?」
「もうっ……!」
割と本気でそっちのセンを疑ったデメテルの肩を小突いて、フレイヤとデメテルは笑った。戯れ合う二人を見て、ベルとアストレアも笑っていた。
フレイヤ本人的にはそんなつもりもなかったのだが、事実として細くなってしまっていた縁が、ベルの介入によって逞しく舗装され直した。
それからしばらく後。デメテルと二人でお茶を楽しんでいる席で。
「ベルったら、母の日に向けて色々と準備をしているみたいよー?」
フレイヤとベルの関係を正しく理解したデメテルが、悪戯っぽく笑い掛けてきた。
「ま、あの子らしいわね」
フレイヤは曖昧な言葉を返した。内側で、密やかな昂りを感じながら。
そうか。ああ、そうなのか……!
フレイヤは喜んだ。けれどそれを表に出すことは努めてしなかった。ベルがソワソワしていて、それを隠そうと躍起になる様を見せられても、自分が浮かれてしまわぬように悟られてしまわぬようにニヤけてしまわぬようにと、普段よりも表情筋に頑張ってもらいながら、前向きに暦を見送る日々が続いた。
あの子にも自分にも縁遠かったはずの日が、堪らなく待ち遠しくなってしまっていたのだ。
こんなこと誰にも言えない。だって恥ずかしいもの。
からの、今夜。
ベルは、自分の元へやって来てくれない。
あの子が自分の元へ来てくれないからとてあの子に失望することなどない。絶対にあり得ない。
ただ、浮かれてしまっていた自分の滑稽さに呆れているだけ。
そもそも具体的な約束を交わしたわけでもない。それに、あの子にはあの子の付き合いがあり、あの子だけの時間の過ごし方がある。そうでなくとも多感な歳頃なのだ。ふと目に留まった何かに心惹かれることなど幾らでもあるだろう。
それは歓迎すべきことだ。あの子の日々に知らない色が加わり、あの子だけに見える景色が彩り豊かになっていく。我が事のよう、とても嬉しく思う。
けれど。でも。だって。
期待しちゃったんだから、会いたいじゃない。
ベルと一緒に、今日までなんてことのなかった一日を、特別な日に変えてみたかったのに。
あの子のことだから、アストレアとはそれらしいことをしたでしょうに。
どうして私とは、そうしてくれないの?
嗚呼、止め処ない。
駄目。いけない。
これ以上考え込むのは本当に良くない。
自分だけならいざ知らず、自分以外の誰かを悪者にしてしまいそうだ。
「はあ…………」
今度の溜息は、今日一番重いものだった。
今夜はもう休もう。
寝椅子からだらりと投げ出していた足に力を入れ、魔石灯を全て沈黙させるべく一歩を踏み出して。
「失礼致します!」
勢い良く扉が開け放たれた音と、眷属の叫び声に行動を阻害された。
「不躾ね、ヘルン」
「申し訳ございません……!」
飛び込んで来たのは、長い髪を揺らすヘルンだった。
見れば、髪やドレスが濡れている。外にでも出ていたのだろうか。私の足下を汚すなんてと言いたかったが、そんなことを口にすることすら億劫だった。
「貴方の無礼を問うのは明日にする。下がりなさい。今は誰かと話す気分じゃ」
「ベル・クラネルが、星屑の庭に戻っていないそうです……!」
「え?」
胸中で、嫌な音が鳴った。
大切なモノに罅が入るみたいな、出来れば聞きたくない音が。
「星屑の庭にて女神アストレアに確かめました……雨が降る前に出掛けて以降、一度も
ヘルンがフレイヤに何も言わずに神室を離れていたのは、アストレア・ファミリアの
ヘルンも来ると思っていたから。数日前より浮かれ倒していたあの少年が来ないはずがないと、一方的に信じていたから。
「どういうこと!? 今夜は酒場の勤めはないと言っていたはず! 門限なんてとっくに過ぎている!」
「女神アストレアが言うには、雨が降る前に
「ベル……!」
「現在女神アストレアが捜索に出ています。眷属たちは
「オッタルたちを集めなさい! 経緯の説明と捜索範囲の擦り合わせは貴方に任せる!」
言うが早いか、開け放たれたままの扉目掛け、フレイヤは駆け出した。
「フレイヤ様!?」
あの、女神フレイヤが、走った。
ヘルンの受けた衝撃たるや、凄まじいものがあった。
「私も探しに出る!」
「お待ちください! 我々に」
「行くったら行くの!」
ヘルンの言葉を待たず、家臣を困らせるお転婆娘のようなセリフを吐き出して、走り辛そうなドレスを纏ったフレイヤは神室の扉を飛び出して。
「恐れながら」
「!?」
直ぐ様足を止めさせられた。
「捜索の必要はございません。フレイヤ様」
飛び出した先にいたのは、ヘイズだった。
「どういう……あ……!」
ヘイズの背後。そこに、フレイヤの心を掻き乱して止まない少年がいた。
「ベル!」
「…………」
何も言わないベルは、頭の上に真白いタオルを載せていた。長時間雨に晒されたのか着衣に濡れていない所などなく、見慣れた衣類は水を吸い、どれもこれも色を変えていた。
「発見したのはヘディン様です。正門の直ぐ近く、誰にも見つからないような奥まった場所でしゃがみ込んでいたそうです」
「そんな……どうして……!?」
「話せますか、ベル?」
「…………」
ヘイズに頷き返したベルは、ゆらゆらと揺れる二つに結われた薄紅色の髪のカーテンの脇を通ってフレイヤの前に立った。フレイヤの目を見ることを恐れているかのよう、俯いたまま。
「…………星屑の庭を出た後……迷子の女の子に会ったんです……」
豪奢な絨毯に視線を落としたまま、訥々とベルは語った。
星屑の庭を出て直ぐ、迷子の少女と出会った。家族でオラリオに越して来たばかりだと言う少女は、共働きをしている両親が家を空けている最中に家を飛び出し、あちこちを走り回ってる間に迷子になったらしい。
どうしていいかわからず彷徨っていた所でベルと遭遇。家の場所があんまりわからないと言う少女にベルは困り果てるも、一緒に探すことを約束。着ていた上着を少女の頭に被せて手を繋ぎ、雨の止まないオラリオの街を回った。
「どうして一人でお家を出ちゃったのって聞いたら…………母の日だから……お母さんに渡す贈り物を探したいって……言ってて……」
ずっと尖り気味だったベルを見下ろす瞳から力みが抜けてしまうのが、フレイヤにもわかってしまった。
「お家を探している最中に……その子のお腹が鳴ったのが聞こえて……それに……ずっと元気がなかったから……フレイヤ様に贈ろうと思ってたお菓子を……」
「……食べさせてあげた?」
「……何とかして……元気にしてあげたくて……」
弱々しく頷きながら答え、ベルは続きを語り出した。
母の日にかこつけてフレイヤへと手渡す為に用意していた甘味を食べ、少しは元気を取り戻したらしい様子の少女が退屈してしまわぬようにたくさん話し掛け、今日まで得たオラリオの豆知識なんかを披露したりしながら歩いた。何時間も歩きに歩いて、少女の家を見つけるより先に少女の両親と出会うことが出来た。散々に頭を下げられたしお礼をすると言われたが全てを断ったベルは、今度は迷子にならないようにねと涙を流していた少女に笑い掛け、頭を撫でてやった。
それが、約一時間前の話。
「デメテル様やマリューさんたちに手伝ってもらったから……今から戻って一人で作るなんて無理だと思って……でも今日フレイヤ様に会わないのは嫌で……でもでもお菓子を食べて欲しくて……それで……どうしていいのかわからなくなっちゃって……」
「ずっと、動けなくなっていた?」
こくこくと二回頷くベル。水気が抜け切っていないらしく、ベルの髪から飛び跳ねた雨水がフレイヤの足元を濡らした。
「……ごめんなさい……」
「……どうして謝るの?」
「フレイヤ様に……お菓子……持って来れなかったから……」
「……っ……!」
ベルには見えていない。フレイヤの目が、大きく開かれた瞬間を。
フレイヤが、拳をぎゅっと握った瞬間も。
どうしてフレイヤが怒っているのかも。
何も見ず、何もわからないまま、小さな身体を震わせていた。
「…………用意出来たの?」
「え?」
「その女の子は、お母さんに渡す贈り物を用意出来ていた?」
「……一緒に歩いてる時に……とっても綺麗な赤い花が咲いてるのを見つけて……それを渡してました……」
「お母さんは喜んでいた?」
「馬鹿な子なんだからってほんの少しだけ怒ってから……ありがとうって笑って……抱っこしてあげてました……」
「そう……」
私は女神。悠久の時を生きる神だ。
下界の人間たちは全て等しく私たち神々の子供。
しかし。私はまだ駆け出しだ。
一人の子供の、二人しかいない母親になったばかりの一年生だ。
ここは、私よりも長く『母親』を務めている先達に倣うとしよう。
「…………よく頑張ったわね」
「え……?」
穏やかな声、穏やかな笑みになるようフレイヤは最大限に留意しながら、ベルの前で膝を折った。
「貴方の献身が一人の少女を助けた。優しい貴方らしい、とても素敵な結末ね」
「ぼ、ぼく……ぜんぜん……なにも……」
「神々の子供の一人が、一人で寂しい夜を迎えなくて済んだ。貴方のお陰よ」
怒るのは大切。褒めるのも大事。
「ありがとう、ベル」
けれど。感謝を告げる方が、きっともっといい。
ベルの頭の上に載せられたタオルに両手を置いて、わしゃわしゃっと髪を拭いた。
「まだこんなに身体が冷たいじゃない。ヘイズ、この子をお風呂に入れてあげてくれる?」
「畏まりました」
「あ、の……ぼく……」
「まずは身体を温めないとダメ。話は後でしましょう。私はここで待っているから。いい?」
「……はい……」
「よろしい」
ぷにーっとベルの頬を摘んで直ぐ開放。笑顔を絶やさないフレイヤが数歩下がる。まだ何かを言いたそうにしている小さな背中にヘイズの手が添えられ、ベルはその場を離れて行った。
「…………はあ……っ……」
今度の溜息は、今日一番大きく、一番長く、一番重いものだった。
踵を返し神室に入ったフレイヤは、らしくもない雑多な所作で寝台に座り込んでしまった。
「フレイヤ様……」
ヘルンが敬愛して止まない美の女神は、ベルの前で見せていたものとは対極的な、酷く陰鬱な表情を浮かべていた。
「……お菓子のことなんていいのにとか」
叫びそうになった。
「どうしてこんなことにとか、どうして私たちを頼らなかったのとか」
もっと上手くやれたでしょうって、咎めそうになった。
「どうして傘を買わなかったのとか、どうしてそんなびしょ濡れになっているのとか、風邪を引いたらどうするのとか」
どうしてもっと自分を大切に出来ないのと、怒ってしまいそうになった。
「心配を掛けさせないでとか」
とにかく、本当にたくさんたくさん。
「大声で、お説教をしてしまいそうになった」
言いたいことがあった。
「少し、手が震えたの」
それが何に起因したものかは自分でもわからないけれど。確かにフレイヤの手は、ベルの前で震えていた。
「こんな私、滑稽かしら」
「いえ。全く」
「……そう……」
「女神アストレアに報告に行って参ります。今夜はこのままこちらで休ませる旨も併せて。酒場の方にも顔を出します。彼を探しているかもしれませんので」
「お願い」
「失礼致します」
「ヘルン」
「はい」
「何から何まで本当にありがとう」
「勿体なきお言葉」
去り際、フレイヤに向けて一礼をしたヘルンは、控えめながらも微笑んでいた。
「……本当に馬鹿な子……」
ヘルンの手で作られた密室。誰もいない空間を満たす女神の独り言。
「ん……!」
勢い良く背後に倒れ込むフレイヤ。長い髪が無造作に寝具の上に広がって、形の良い二つの双丘が揺れる。
「馬鹿な子に掻き乱されている私も……」
立派な馬鹿。
「もうっ……」
飲み込まれた胡乱な言葉の代わりに吐き出された声は、気難しい小娘のような響きを有していた。
* * *
「改めて、昨夜はごめんなさいヘルン。貴方にはたくさん迷惑を掛けてしまったわね。ヘイズも、本当にありがとう」
「いえ」
「お気になさらないでくださいー」
翌朝。朝一番で
「?」
二人に案内されながら、アストレアは小首を傾げた。てっきり、フレイヤの神室に向かうのだとばかり思っていたのに。
「こちらです」
「ここは……」
二人が案内したのは、足繁く
「ここに二人が?」
「あちらに」
「……あ」
アストレアの藍色の瞳は、その光景を捕まえた。
「この様な場所で寝落ちをしてしまうフレイヤ様を初めて見ました」
そう語るヘイズは、何処か嬉しそうに笑っていた。そういえば彼女は、以前に星屑の庭にてフレイヤが酩酊状態になった際、そのことを喜んでいたか。
「今朝は大変だったんですよー。フレイヤ様の寝顔を一目見ようと団員たちが押し掛けてきて。ヘディン様によって直ぐに戒厳令が敷かれたので事なきを得ましたけれど」
「そう……」
ヘイズの言葉を聞きながら、少し前に見た光景をアストレアは思い返していた。
あの日は、ベルとアーディが初めてのすれ違いをして、その夜に二人なりの仲直りを果たして、二人一緒に夜を越えていた。
慈しみに溢れていたあの一枚絵に劣らない芸術……と言うには少々荒れ気味な絵だけれど、確かに愛おしい光景が、三人の前には展開されている。
「声は掛けない方がいいわね」
「ええ」
「もう少しこのままにしておきましょう」
アストレアも、ヘルンも、ヘイズも。
あの光景の邪魔をしたくないと、思いを等しくしていた。
何処かの姉弟のようにぴたりと寄り添って、とかではない。
大食堂の隅にある四角いテーブル。その片面にはフレイヤ。両腕で作った枕に尊顔を乗せ静かな寝息を立てている。彼女の肩に掛けられた毛布が規則正しいリズムで揺れる様は、彼女の眠りが穏やかなものである証左と言えるだろう。
その向かいにはベル。フレイヤに毛布を掛けてあげることしか頭になかった所為で自分用の毛布を確保し忘れたベルは、机上に頬を預けてスヤスヤと眠っていた。その頬には、生クリームのような何かが付着しているのが見てとれた。
机上はよく見なくとも荒れている。使用されたまま放置されている皿やカトラリー。柑橘系の何かを飲んでいたのか、なみなみと注がれたまま放置されている二つのグラスは見るからに危なっかしい。
深夜に食するには罪深そうな代物をお供に、深い時間まで二人で語らっていたのだろうと一目でわかる光景であった。
「……達成出来たみたいね」
「母の日の目標、とかでしょうか?」
「ええ……」
フレイヤ様に会いに行って、ケーキを食べてもらうんです! アストレア様とミアさんに作ったのと同じのを!
昨日、そう言って出掛けて行った少年の緩み切った寝顔を見やる母親は、確信を胸に小さく頷いた。
「嫉妬致しませんか、女神アストレア?」
半身だけ振り返ったヘイズが、にこやかに微笑みながらアストレアに問いを投げた。
「私?」
「ああもベッタリしている姿を見せられると。ちなみに私はめちゃくちゃ嫉妬しています。ベルに対してですけどねー」
「二人が触れ合うことは私にとってこれ以上ない喜びだもの。嫉妬なんて抱くわけもない。それに」
ヘイズと一緒になって振り返ったヘルンの目を順番に見て、アストレアは言った。
「最後には必ず、あの子は私の元へ帰って来てくれるもの」
なんてね。
そう付け足した正義を司る女神は、お転婆と称するに相応しい、勝気な少女のように笑ってみせた。
「…………」
「……食えないお方です。貴方も」
「貴方たちの女神には敵わないわ。あ……」
二人の少女と一人の女神が微笑みを交わし合っていると、寝坊助二人の片方が身じろぎをしたのが見えた。
「ぅ…………ぅ?」
小さな身体をぶるりと震わせたベルが薄目を開け、緩慢な動作であちこちに視線を向ける。
「……ぁ……フレイヤさっ……!」
大きな声を出してはいけないと気が付いたのか、両手で自らの口を慌てて塞ぐベル。キョロキョロと周囲を見渡して見渡す澄んだ
「っ……!」
なるべく物音を立てぬよう席を離れ、星屑の庭では誰より早く目を覚ますのが当たり前になって久しい末っ子がごしごしと目を擦りながら歩み寄ってくる。
「寝起きの所為か、いつもより圧倒的に幼く見えますねー」
「本当にね」
「おはよう……ございます……」
笑い合うヘイズとアストレアの会話におずおずと割って入るベル。その視線は忙しなく揺れ続けている。
「おはよう、ベル」
「あ、あの……昨日は……」
「話は聞かせてもらったわ。貴方は何も謝ることはない。フレイヤだってそう言っていたのではなくて?」
「……はい……」
「私も同じ思いよ。貴方の無事と、貴方が手を差し伸べた少女の無事が嬉しいの。だからそんな顔をしなくていいの。それより、フレイヤには渡せたの? 貴方が食べて欲しがっていたケーキは」
「……僕が納得いくのを作れるまで待ってるって言ってくれて……何回もやり直ししちゃったけど……」
「フレイヤは喜んでくれた?」
こくんと頷いて、昨夜の光景を思い返しながら更に二度頷くベル。
「それ以上のことはないでしょう。だからそんな顔をするのはおしまい。フレイヤが目覚めた時に貴方が暗い顔をしていたら、目覚めたフレイヤも暗い顔をしてしまって、可愛い姿が見られなくなってしまうかもしれないもの」
「……ん……!」
こくこくこくと三度頷いて顔を上げたベルは、無理矢理気味な上に不出来気味ではあるけれど、どうにかこうにか笑顔を作ってアストレアと視線を重ねた。
「あの……ですね……」
「うん?」
「……ちょ、ちょっと待っててください……!」
作ったばかりの笑顔がふにゃりと歪んだと思ったら、アストレアたちをその場に縫い留めたまま何処かへと駆け出して行ってしまった。
「厨房に入って行きましたね」
ヘイズの呟きに小気味の良い足音で返しながら厨房へと駆け込んで行く小さな背中。何をしているのやらと見守っていると、両手それぞれに何かを持って、今度は慎重な歩みで、三人の元まで戻って来た。
「こ、これ…………ヘルンさんと……ヘイズさんに……」
おずおずと差し出されたベル両手には、雅な造りのシルバーディッシュ。
ちょこんと載っているのは、デメテルの農園で収穫された果実を載せた、小振りのシフォンケーキだった。
「ケーキ?」
「私たちにですかー?」
「はい……」
二人のお姉さんを見上げるベルの視線の不安定さは、気恥ずかしさがそのまま現れているよう、ふわふわと彷徨っていた。
「……ベル・クラネル。貴方は確か、甘いものが苦手なはずでは……?」
「そうですけど……女の子は甘いものが好きなのよって、デメテル様が教えてくれて……甘いものの作り方もたくさん……」
「そもそもどうして私たちに?」
「昨日……たくさん迷惑を掛けちゃったし……いつものお礼もしたくて……いい機会だって思って……」
ヘルン、ヘイズの問いに続けて答えるベル。彼の頬は赤く染まっている。
「そ、その……ヘルンさん。ヘイズさん。いつもありがとうございますっ!」
二人の少女がそれ以上何かを言うよりも早く、皿を突き出したまま、小さく頭を下げた。
「…………」
「…………」
寝癖混じりの白髪の坊やが頭を下げ続ける上で視線を重ねるヘルンとヘイズ。
「…………」
「ふふ……」
二人の表情から困惑が消えたのは、間もなく。
「ありがとうございます、ベル。いきなりのことで驚いてしまいましたけど、とーっても嬉しいですー」
「ありがとうございます……」
「い、いえっ!」
ヘイズに笑い掛けられ、ヘルンに感謝を告げられる。それだけのことがとっても嬉しいベルのボリューム調整は失敗気味。
「良くできてるじゃないですかー。ベルもなかなかやりますねー」
「確かに……いい仕上がりですね……」
「ありがとうございますっ! やった……!」
皿を受け取った二人の反応は上々。時々ではあるが、料理の面でも自分の面倒を見てくれているヘイズの好反応は特に嬉しくて、またも大きな声を出してしまった。
「ん…………っ……ベル……?」
少し離れた所から、ベルの声に反応を見せた神物がいた。
「あ……!」
「行ってあげてください」
「は、はい……!」
ヘルンに促されとたたと駆けていくベルの向かう先では、寝起きの女神が目を擦りながら小さく欠伸をしていた。
「おはようございますフレイヤ様」
「ん……おはよ……ベル…………もしかして私たち……あのまま眠ってしまった?」
「はい……僕も起きたばっかりで……」
「そう……」
ふにゃふにゃしてるフレイヤ様可愛いーとヘイズがキャッキャしているのに気が付いたらしいフレイヤの目が、二人の子供と一人の女神が自分たちを見守っているのを確認。
「あら?」
ヘルンとヘイズが甘味の鎮座している一枚の皿を手にしている光景を目にした瞬間、フレイヤは大凡のことを理解した。
「上手くいった?」
「食べてもらうのはまだですけど、二人とも驚いてました……!」
「やったじゃない」
「えへへ……!」
アストレアたちが笑う前で、フレイヤとベルが両手を合わせハイタッチ。寝起きでまだまだだらしのない笑顔と笑顔を交換していた。
「先ずはフレイヤへの贈り物を作り、その後は貴方たちに贈るケーキの作成に取り組んだ。フレイヤに試食をしてもらいながら。この夜の真相はこんな感じかしら」
「みたいですねー」
「またフレイヤ様の手を煩わせて……」
「そのフレイヤ様が嬉しそうにされているのですから私たちが野暮言うのはナシですよー」
「わかっています……」
「いやー嬉しいものですねー。素直にびっくりしちゃいましたよー」
「ベルのことだから、レミリアやメルーナたち、フレイヤの子供たち全員に何かしたいと考えていることでしょうね」
「母の日を拡大解釈し過ぎではー? けれどアストレア様の言う通りなのでしょうね。もしかしたら今も、フレイヤ様と内緒の相談でもしてるのかも?」
頬の赤いベルがフレイヤの耳に唇を寄せて何かを伝え、ベルを真似るようフレイヤもベルの耳に唇を寄せて何かを伝える。悪戯心を刺激されたのか、フレイヤは意識的にベルの耳に唇で触れてベルをあたふたさせ、その反応一つでフレイヤが咲かせた笑顔の花はあっという間に満開にまで育っていた。
「あんな近くで見つめ合っちゃってー。フレイヤ様に魅了されちゃっても知りませんよー。それにしても、『
ベルとフレイヤが間近で笑い合う光景に確かな嫉妬を覚えるヘイズ。
しかし、そんな感情は直ぐに洗い流されていく。
「あのお方にも貴方たちにも、あんなにも普通な子が、こんなにも特別な子になってしまっているんだなーと思い知らされるようですねー」
「それは貴方にとってもそうなのかしら。ヘイズ?」
「ええ。私にとっても特別ですよ、あの子は」
すっかり目が離せなくなってしまいましたとヘイズが笑う側で。
「……私は……貴方の母親ではないのですが……」
ベルが作ったケーキを見下ろして、ヘルンが小声で呟いていた。
誰に打ち明けるでもないが、狐疑逡巡とした日々をヘルンは過ごしている。
フレイヤは、ベル・クラネルの母親。日に日に距離が近くなり、会話に遠慮がなくなっていく様子は、正しく親子のそれと言って良いだろう微笑ましいものだ。
だとして、自分は?
週に何度も向かい合わざるを得ない少年の純朴さに苛立ったり呆れたり複雑な感情になったりと、忙しのない日々を生きている自分。
ベルの知らないところで、フレイヤの意識に引っ張られてばかりの日々を生きている自分。
不可思議な感情の波に心は晒され続け、対策すら満足に練れないまま、対応を要求される日々に終始している。
そうして思う。
自分は母ではない。名乗るつもりもないし、彼だってそう思うことなどないだろう。
けれど、彼の母として過ごす日々がある。
派閥内での自分の役割を全うすべく務めるならば、そんな日があってしまうのだ。
いよいよわからない。考え過ぎるだけ無意味とわかっていながら自然とそこにばかり思考が引き寄せられてしまう。
彼は私を好ましく思ってくれている。彼自身が好んでいないはずの甘味をこの私のために用意したこの状況一つがその証明。
私は、その好意に寄り添ってはいけないと感じている。
しかし、全てを拒むことはもっと許されないとわかってしまう。
誰の為に? 自分と、彼と、何よりも誰よりも、女神の為に。
母ではない。姉ではない。保護者とも言えない。
答えは出ない。出ていたならばこんなにも悩まない。
じゃあ、なんだ? どうしたことだ?
何もわからず、何も正しくないとわかっているのに。
嬉しいなどと、どうして私は思ってしまっている?
「…………」
思い悩み続け、今も困惑を隠しきれてないヘルンの横顔には、細やかながらもしかし、隠しきれない喜びの色が確かに浮かんでいた。
「その割には嬉しそうに笑うじゃないですかー」
当然、それを見落とす
「なっ!?」
「そんな風に笑えるんですねーヘルンも」
「私は別に……!」
「相変わらず損な性格してますねー。貴方には貴方だけの複雑な事情があるのでしょうけれど、こういう時に素直に嬉しいと言えないなんて勿体ないことですよー?」
「余計なお世話です……」
「……むふー」
ふいっと顔を背けるヘルンの横顔が仄かに赤らんでいるのを見るや、ヘイズの笑みがわるーい笑みに変わった。
「お話中すいませんー! ちょっと聞いてくださいフレイヤ様ー! ベルー! 今ヘルンがー! ベルから貰ったケーキを見ながらー! とーっても嬉しそうに笑ってー!」
「ヘイズっ……!」
今日もヘルンの答えは出ず。こうしてヘイズに茶化されてしまうことで余計に意固地になって楽な答えを出せなくなり、ベルに対して更に当たりがキツくなってしまうのだが、ヘルンのあるべきは変わらない。
ただ女神の為に。女神が全て。この身全てを女神に捧ぐ。
だから。女神の過ごす全ての日々を彩るべく、女神の笑顔を引き出すことが最も上手な少年の日々を支える一助になる。
それがフレイヤに必要なことで、ベル・クラネルにとっても必要で。
ヘルン自身にもまた必要なことなのだと、頭よりも心が知っている。
今はまだ、間に女神を挟んでようやく存在意義を認められるくらいかもしれない。純粋な彼に心を開いてみせることは難しいかもしれない。
しかし。いつかきっと。ヘルンの中で、何かが変わっていくのかもしれない。
「聞いたかしらベル? ヘルンがとっても喜んでいるそうよ。よかったわね」
「はっ、はいっ……!」
「ち、違うのですフレイヤ様! 私は決して喜んでなど……!」
「そ、そう……でしたか……あぅ……」
「待て、待ちなさいベル・クラネル……! 今のは決して感謝をしていないという意味ではなく……!」
今日までの日々で、ヘルンが隠し持つ、多くの表情が見られる時間が増えた事実のように、少しずつ。
「あーヘルンがベルのことイジメてますー。言ーってやろー言ってやろーアーディ・ヴァルマに言ってやろー」
「やめなさいっ! 死人が出る!」
顔面蒼白になったヘルンが慌てふためいて、ヘイズとフレイヤが愉快そうに笑い、どうしていいかわからずあたふたしながら、しかし次には目を細めて笑い始めたベル。
それは、何処までも穏やかで、微笑ましく、慈しみに溢れた光景。
「素敵な家族よ。貴方たちも」
ヘルンが探している答えの一つを知り得ているかのような呟きを溢した正義の女神は、その光景の一部になるべく、歩みを進めた。
* * *
「初日は普通に参加。二日目と三日目はうちとの共同で出店を出す。最終日はノリ次第! って感じでいいですかねー?」
「いいと思うわ! あ! 二日目と三日目の出店、リーダーはベルにやってもらうから!」
「ぼ、僕!?」
「もちろん! ベル以外にいないでしょ! 大丈夫! ベルが出突っ張りになるようなことにはならないようにシフトの調整もするし、リオンは裏方から外すから!」
「大丈夫ってそういう意味!?」
「大丈夫とはどういう意味ですかアリーゼ」
「とにかくっ!」
じとーっと睨むリューからの訴えをさらりとスルーしながら両手に腰を当て、アリーゼが胸を張る。
「今年も来るわよ!」
ニッと口の端を吊り上げる団長の姿に団員たちと、豊穣の女主人の従業員であるシルの視線が集まる。
「聖夜祭の季節が!」
季節は静かに移ろう。
冬になった。
気まぐれな空の手によって雪化粧を施される迷宮都市はお祭りの様相も重ねていく。
「聖夜祭かあ……!」
ベル・クラネルにとってずっと忘れられないだろう初めてのお祭りが、やって来る。