連載中の少年漫画の世界にTS転生したら多分死ぬ味方最強キャラの弟子になった 作:木蛾
"音断ち"
森の中を、小柄で痩せた、年の頃は10にも満たないであろう少年が駆けていた。その後ろを、5mはあろうかという見上げるほどの大きさの熊が、森中に轟くような咆哮を上げながら追いすがる。特異な個体であることは、その巨体と比較しても異常に肥大化した四肢を見れば容易に理解できる。
森の王者として君臨していたその巨熊は、先ほど不遜にも縄張りに侵入し、自身に攻撃した矮小な人間を決して許そうとはしなかった。
少年は木々をなぎ倒しながら後ろから迫る巨影から逃れるように木から木へと伝い、人間としては異常ともいえる速度を出していたが、その差はだんだんと縮まっていく。何とかサイズの差を活かす三次元的な立ち回りで攪乱することで追いつかれることを防いでいた。
逃げる以外の選択肢を取ろうにも、少年が手にしている武器は粗末な弓と腰に下げた錆の入った果物ナイフだけで、それは立ち向かうにはあまりにも頼りなさ過ぎるように見えた。例え矢を射かけたところで毛皮に刺さりすらしないだろうし、それはナイフも同様である。狙うなら急所であるが……。
元々その少年はそれは理解しており、不意打ちの一発で熊を仕留めるつもりであった。しかし、質の悪い弓では遠くから射かけた矢も、音や勘によるものか察知されてしまい、当たる前に急所から外されてしまった。
命懸けの追走劇は、距離が詰められるとともに次第に少年の逃げ場が無くなっていく。熊は獲物を追い詰めるためにルートを絞っていたのだ。
ついには少年の目の前に崖が現れ、その背後に熊が迫る。崖以外の方向に逃げようにも熊に近づかなければならず、即座に捕らえられてしまう。
万事休すかのように見えたその時、少年は躊躇うことなく崖から飛んだ。
追い詰めたと思い、進行方向の先回りに備えていた熊はそのことに不意を突かれ一瞬怯む。しかし、ここで足を止めれば逃げ切られてしまうことは理解できた。手傷を負わされたわけではないし、臭いは覚えた。再びこの森に入ってきても縄張りに入ることは決して許さない。──しかし、逃げられてしまうことは恥である。侮られたままであることは一度もその生涯で敗北したことのない王の誇りを大きく傷つけることとなる。
森に慣れ親しんだ熊はこの程度の高さでは大した傷を負わないことを把握していた。
むしろ、空中では体勢を変えることは叶わず、軌道からして着地する前に少年に爪が届くと踏んだ。自身も走る勢いそのまま躍りかかるように崖から飛び出す。
少年は落ちながらも回転し、獲物の方を振り向いていた。それどころか、弓に矢をつがえて構えている。
元より逃げるつもりではなかったのだ。空中で体勢を変えられないのは、熊も同じである。それこそが狙いであった。誘導していたのは熊ではなく彼だった。
引き絞った弓を射る。
矢は吸い込まれるように口腔に入り、内側から頭蓋の隙間を抜けて脳髄を的確に貫いた。
どれほどの弓の達人であったとて億に一つも成功させられないであろう、頂点の絶技である。
熊は、前足を伸ばせばすぐ爪が届く距離にある少年の至近を何もせず通り過ぎ、そのまま地面に叩きつけられ、先ほどまでの暴れようが嘘のように動かなくなった。無傷で着地した少年はそれを見て小さく息を吐く。
少しの間、達成感に浸っていたが、熊に改めて近づくと致命的な問題があることに気が付いた。反転して一気に憂鬱な気分になりながらぼやく。
「どうやって持って帰ろ……」
◆
「何帰ってきてんだ能無しが!」
村に帰ってきた少年を迎え入れたのは父の怒声と拳だった。
腹を殴られ嘔吐する少年に罵声を更に浴びせかける。
「あの熊を狩ってきただァ?てめぇごときが、そんな装備でできるわけねぇだろうが!」
「いっ、いやっほんとにやったんだよ……えっ、えっと、これ見て……」
少年は剥ぎ取った熊の爪の先を見せるが、返答は二度の殴打と一度の蹴りであった。父はうずくまる少年に唾を吐きかけ、家に戻っていった。
初めて狩りを教えられた時に、獲物の前で得意げに親から告げられた『これくらいの大物を狩ってくれば認めてやる』という言葉を実践するため、自分の知る限り最大の大物を狩ったが失敗だった。以前、身一つで森に放られた時に投石だけで鹿を狩って帰ってきた時は自分を気味悪いもので見るような目で見た後に、納屋に一週間監禁された。
どうすれば、昔の優しい父に戻ってくれるだろう。
少年の父は家事をしない。いつだろうと飲んだくれてばかりである。洗濯も炊事も、少年の仕事だった。
森で採取してきた諸々を使って夕飯を作るために教会から薪を分けてもらおうと、痛みの響く腹を抑えながら歩いていると、広場に人だかりが見えた。
道すがら旅の吟遊詩人が、子供にせがまれて叙事詩を唄っていたのだ。この村は北の辺境に位置しているため非常に珍しい。つい足を止めて少年も聞き入ってしまう。
内容を要約すると──かつてジークという名前の英雄がおり、その男は平民出身であるが国に仕えた戦士であった。無双の剣技で成り上がり、民に寄り添い、数多の勝利を王に齎した、というものだ。
良く言えば王道で、悪く言えばありきたりな内容であったが、娯楽の少ないこの村では皆楽しそうに聞き入っている。
吟遊詩人の語りが終わると聞いていた少年少女たちは群がり、思い思いに質問をぶつけてくる。
詩人がしばらく四方八方から飛んでくるそれに付き合っていると、遠くから恰幅のいい女性がよく通る声を響かせた。詩も終わったし休憩はもう終わり、という内容だ。
やいのやいの言いながら子どもたちが名残惜しそうに去っていく。
人が捌けた後には、みすぼらしい小柄な赤毛の少年だけが一人残っていた。
「君は行かなくていいのかい?」
詩人が話しかける。すると、詩人には意外なことにか細いがハッキリとした声が返ってきた。
「…俺の父は狩人なんだ。昔は結構な凄腕で、それ一本で食ってたんだって。だから、他の家の手伝いをすることはあっても、自分の農地は持ってなくて……」
そう話す少年は弱っているように見え、満足に食べられていないようであった。
「俺は……英雄みたいにはなれないな。だって、親にも愛されてないんだ。英雄って、今聞く限り好かれてて、そして本人も色んな人のことが好きなんでしょ?」
吟遊詩人は、その少年の姿を見て哀れに思い、慰めの言葉をかけることにした。
「今語った英雄はね、正に君みたいな髪色だったそうだよ。だからってわけじゃないけどさ、君もなれるさ」
そう言って吟遊詩人は少年の頭を撫でようとすると、少年は怯えたような顔を一瞬した。それを見て、あまりいい扱いを受けていないだろうことは察することができたが、詩人にできることは言葉を紡ぐことのみである。刺激しないよう手を引っ込めて、言葉を続ける。
「…怪物なんて倒さなくたっていいんだ。一生懸命生きて、たまにでも人のことを思って、誰かの心に君が残れば、語り継がれなくたって英雄さ。少なくとも、僕の詩に聞き入ってくれるその姿は僕の心に響いた。なら、君は僕にとっての英雄だ」
少年は訝しげな目で詩人を見る。適当に調子のいいことを言っているだけだと思った。
それに対して詩人は若干の反骨心が湧いた。客に、それもこんな片田舎の年端もいかない子どもに満足してもらえずに帰すなんてことは芸者としての名折れである。
「そうだね……それでも不安なら、名前を教えてよ。いい思い出と一緒に人の記憶に残るっていうのはとても大切でね、誰かが覚えている限り、その人の中で生き続けられるのさ。まさにさっきの英雄ジークなんてその好例だ。名前を教えてくれれば、僕が君を語り継いであげるさ」
詩人にとってみれば、過去の偉人の受け売りの擦り倒されたちょっと含蓄のあることを何も知らない田舎の子どもに言って気持ちよくなるための他愛のないやり取りであり、しばらく旅を続ければ忘れるようなものであった。しかし、そんなことは露知らない少年は、自分にアクションを求められたということからちょっと嬉しくなり少し期待も込めて名前を告げた。
「それじゃあね。小さな英雄に幸あれ!」
吟遊詩人はそう言い残すと、その村を後にした。
少年は少しだけウキウキした気分のまま教会を訪れる。顔馴染みの若い神父は周辺の掃き掃除をしていたため、すぐに見つけることができた。
「神父様、こんにちは」
「おや、こんにちは。……その青痣は」
神父は目ざとく少年の怪我を見つける。聞いてこそいるが、その原因の見当はついていた。
「これは…森に籠ってたから……」
「……何にせよ、手当てしますよ。中に入ってください」
連れられるままに入ると、教会の中で礼拝している人はおらず静寂に満ちていた。
この村は信心が深い人間は少なく寄進もないため、教会側としてもわざわざ修理するような重要性も見いだせず、ところどころボロボロになっていた。神父個人は積極的に農作業の手伝いなども行いその人格から慕われてこそいたが、彼の次にはもう神父も派遣されることが無いかもしれないような有様である。
「あーっ、来てたんだったら言ってよぉ!」
神父が薬を塗って手当てをしていると、元気な声が外から響いた。籠を抱えた少女が、飛び込んでくる。
「ドロシー君、聖堂内ではお静かに」
「あっ…ごめんなさい、神父様!」
その騒がしい声の主はドロシーという名の見習い修道女であった。関わることで彼の父に目を付けられることを恐れ、村で孤立している少年の面倒を見ている、姉代わりのようなものだった。明るく村でも愛される彼女は、少年とは対極の存在であったが、ドロシーは親を早々に亡くした孤児であり、村にあまり居場所のない少年をどこか自分と重ねてみている節があったのかもしれない。
「また怪我したの?もう、やんちゃなんだから!包帯持ってきてあげる!」
「…狩りをしてきたことによる、名誉の負傷らしいですよ」
どこか気まずそうにする少年を横目に神父がそう補足しながら、包帯を受け取る。
少年が目線を籠に這わせると、ドロシーはよく見つけたと言わんばかりの得意げな顔をした。
「あっ、これ気になる?手伝いのご褒美にもらってきたんだ~」
ドロシーが籠に入れていたのは、リンゴだった。
「そうだ、あなたにもあげる!」
「あ、ああ…うん……ありがとう」
「ふふふ、どういたしまして!」
少年の手当てが済み、神父から薪と心ばかりの芋、そしてもらったリンゴを持って帰路につこうとする。このリンゴも暴力の理由になるんだろうな、という予感はあった。けれど父に見せないという選択肢は少年の脳には無かった。
すると、一人になったところで追いかけてきたドロシーが名案を思い付いたといった様子で少年に話しかける。
「ちょっと…そのリンゴ、ここで食べていかない?」
「えっ…でもそれじゃあ…バレた時、怒られちゃう」
「いいのいいの。狩りの訓練から帰ってきたらしいじゃん、ご褒美だよ!怒らないって!それに、一緒に食べると楽しい気持ちになるんだよ!」
キラキラした目で見つめてくるドロシーを説得することを諦め、助けを求めるように神父を見るも、彼もドロシーに賛同しているようであった。
「本当はあなたのお家で一緒にご飯とか食べたいけど……神父様はあなたのお父さんのことになるとちょっと歯切れが悪くなるんだよね。私には仲間外れや人の悪口言っちゃダメって言ってるのにおかしいよ」
少年はそれに対して返す言葉を持たなかった。自分の家には近づかない方がいいと言うには、彼は進んで孤独になることへの抵抗があった。
逃げるようにリンゴを齧る。甘い味が口内に広がった。
ドロシーは少年が口にリンゴを運んだのを見て自分も口に運ぶ。
「おいしいね!」
少年は甘いものがそこまで好きではなかった。けれどその言葉に頷くと、ドロシーは少年が喜んだと思い、笑みを浮かべてそれを自分の喜びとして受け取った。
英雄になれずとも、せめてこんな人になりたいと、少年は思った。
少年が家に帰ると、遅いという言葉と共に暴力を振るわれた。森の獣たちに比べれば遥かに緩慢なそれは、もう慣れたものではあるが避けることもせず素直に食らう。
父に怒鳴られると刷り込みで身がすくむということもあったが、流そうとしていることが伝わると余計逆上させると知ってからは、より無防備に打たれるようになった。父がスカッとさえすればすぐ終わる。
「お前さえ生まれなければ……なんでのうのうと生きてんだよ」
それは、少年がいつも父から言われている罵倒であった。
少年を生んだ時から、彼の母親はみるみる内に体が弱くなり、4年ほど前に死んだ。
それから村一番の猟師だった父は落ちぶれ、自身の息子が育ち自分に似るにつれ当たるようになった。
そう、これは自分が犯した罪を償うための罰なのだ。これも、人のためになることだ。これで自分も一歩、良い人間に近づくことができた。そう少年は考え、父の蛮行を受け入れていた。
その翌日、少年は再び森に分け入っていた。目的は森の王者を運ぶことで、かつて父に教えられた作り方で編んだ手製の紐を使って村のすぐ近くまで移動させることができた。これくらいの距離なら父を呼ぶこともできるかもしれない。褒められることを想像して少し笑みがこぼれる。
その日はあと一息でキリのいいところまで運べるということから、少し遅くなってしまった。陽が傾きだしていた。家に帰るのが遅れると暴力は苛烈になる傾向があり、今日はとりあえず7発かな、なんて思いながら急いで走る。
家の前まで来て、直感的に彼は異変を感じた。ドアを開けた形跡があり、中からくぐもったような声がする。しかし、見識も狭く父に討った大物を見てもらうことで頭がいっぱいの少年は気づかない。
「ただいま…!父さん、見てほしいものが……」
そのまま帰宅し、父に自分の成果を報告しようとした少年が見たのは、自らの父が、ドロシーに対して
驚きの声を上げると視線が少年に集まる。
「なっ、なに…やってんだよ…!」
「あぁ…なんだ、お前か。どこか行け」
いつも訪れていた時間に来なかったからか、神父のやんわりとした制止も振り切り少年の家に訪れたドロシーは、久しぶりに見る少年の父の変わりように面食らったが、持ち前の明るさで会話を試みてしまった。
少年の父は最初追い返そうとしたが、楽しそうに息子のことを語る少女に激昂した。
それに加え、彼は、昨日帰ってきてどこか幸せそうにする息子に苛立ちを感じていた。どうすれば、子にさらなる制裁を与えられるだろうかとずっと考えていた。
この少女の弁によれば、息子と親しいらしい。そして、最悪の発想をし、行動に移した。
孤児であるらしいこの少女に手を出したところで、誰も声を上げないだろうと考えたのもある。自分の家には自分と息子以外寄り付かず、関わり合いになりたくない村人たちから深く追及されることはないとも考えた。
無論、そんな訳がない。彼は預かり知らないが、村人と関わりの深い彼女を長期間隠し通せるわけもなく、バレれば良くてもこの地方で生きることが不可能になることは確実である。短絡的な犯行であった。
全身が震え、つかえながらも少年は声を出した。
「やめた方がいいんじゃ……くっ、苦しそうじゃんか…!」
少年はその時、初めて父に反抗した。だが、父の反応は冷徹なものであった。
「もう一度言う。消えろ、目障りだ」
父は少年のその様を見て、どこか楽しげですらあった。その時、少年はドロシーが自分のせいでこんな目にあっているということを理解した。
刷り込まれた恐怖に突き動かされるように本能で後ずさりした時、ドロシーと目が合った。涙が浮かんでいる。
少年にだけ見えるようにドロシーの口が動く。
『たすけて』
◆
異常なまでの高揚感が少年の身を包んでいた。
多分これは、人のために尽くしたからだ。
思ったよりも強敵だったが、あぁ、楽しかった。
異変に気付いた村人が家の中に押し入った時に見たものは、果物ナイフを握った少年が、寝台に横たわり裸の父親の死体の横で──笑っている姿だった。
きれいな毛布にくるまったドロシーが隣の部屋の隅で頭を抱え震えながら縮こまり、保護した大人に小さく言った。
「あの子が……殺したの──ずっと、笑いながら」
村衆が集まって状況説明が行われた際、まず少年を即刻殺すべきだという意見が村の大勢を占めた。
尊属殺しは大罪であり、村では鼻つまみ者のような扱いを見ていた少年の父も、暴力を振るうのはこれまでは息子に留まり、実際に家から出ることは少なく彼らの中ではかつての立派な姿が印象深かったということもあった。
状況の渦中にいたらしいドロシーは茫然自失としており、証言を聞けるような状態ではなかったということも、少年の死に進む方向に作用した。
「そうは言うが、こいつも親殺しは認めてる」
「それでも今暴れることすらなく、おとなしく捕まっているんです!10にも満たない子どもがですよ、どう考えても事情がある!被害者も問題があるということは知っているでしょう!」
「……逆に、そんな年端もいかない子どもが、落ちぶれたとはいえ元熟練の狩人を殺したんだぞ。争った形跡もある。今回みたいに衝動に任せられたら誰もかれも殺されるかもしれない。どう考えてもこいつは危険だ」
「そんなものは論点ずらしだ!彼は優しい子で…」
「笑いながら親を殺す奴がか?」
神父のみが必死に擁護をしていたが、少年が元より孤立していたことに加え、神父は数年前にこの村に赴任して、尊敬こそされていてもよそ者という意識がぬぐい切れていなかったこともあり、どう見ても劣勢であった。
少年は何も言わず、縄に縛られたまま、無表情でただ黙って俯き続けていた。その姿も周囲は不気味に思っていた。
結局、彼がまだ小さな子どもであるということから自分たちの手で直接始末するのは後味が悪いということもあって、森に遺棄するということに決まった。
高い崖から、縛ったままの少年を落とす。まず落下死するし、そうでなくとも弱った体一つで生き抜くことなどできない。
少年と元々関わっている人間は少ない。神父以外からの反発は無く、その夜中に淀みなく実行された。
少年は朝日が昇った時、大量の落ち葉の上で目を覚ました。生きていたのは落ちどころがよかった故の偶然か、類稀なる才能による必然か。
少し緩んだ縄を解いて、少年は村から離れるように歩いていく。生きる理由もないのになぜそうしたのかは分からない。
行く当てなどない。深い森の中でそのまま獣に堕ちていき、死ぬ運命だった。
◆
十数人ほどの規模の傭兵団、『梟の団』は、少し遠出しての仕事を終え、拠点に帰ろうとしている道中で野営をしていた。
「ラミゼル、離れすぎるなよ~」
「もう、子供扱いしないでよ!」
団長からラミゼルと呼ばれた金髪の少女が、桶を持って水汲みに近くの川沿いを歩いていく。流されないようないいロケーションを探していると、森の中に不自然な赤い色が目に入った。
不思議に思い、不用意にも近づいていくと、そこに痩せこけた小柄な少年が木にもたれかかって倒れているのを見つけた。
足音に反応したのか、薄く目を開けて少女を見返してくる。宝石のような金色の目だった。
「あなた、大丈夫?近くの村の子?」
それを聞いた後、その少年は黙り込んでいたが、しばらくすると絞り出すように掻き消えそうなほど小さな声で呟いた。
「……気にしないでくれませんか……」
「んえ?」
ラミゼルはその言葉に驚いたが、何を言いたいのかはよく分からなかった。
ほんの少し沈黙がその場を支配していたが、少年の腹が小さく鳴った。
「なぁんだ、お腹が空いてるから不機嫌なのね」
「いや…ちが……」
「違くないわ。たっぷり食べてたっぷり寝れば、元気になるから!」
有無を言わさぬその口調に気圧され、喉に否定の言葉を押し込められてしまう。そしてそれに間髪入れずに言葉を飛ばしてくる。
「私はラミゼル!あなたの名前は?」
「名前…」
今まで呼ばれていたそれを口にしようとしたが、名付けた存在を想起した瞬間吐き気がした。奴とあらゆる繋がりを断ちたかった。
その時、脳裏に一つの名前が浮かんだ。自分と同じ髪色をした、人のために戦った英雄。
「……ジーク」
「ジークね、分かったわ。立てる?私の家族のところに案内してあげる!」
誰かに覚えられることが生だと詩人は言った。
■■■■は、きっとその時死んだ。
◆
孤児と思われる少年を団長の娘が連れてきたのを見た『梟の団』は、あまりいい顔をしなかった。
慈善事業でやっているわけではないし、この時代孤児なんて無数にいる。そんなものを一々受け入れていては団が持たない。
流石にそのまま放り出すほど無情というわけではない。水と食事を与えた後、とりあえず身元を特定して故郷なり親元なりへ帰そうとしたが、その少年──ジークは、故郷の村から追放され身一つで飛び出してきた、もう自分は村に帰ることは叶わない、というようなことだけ言うと泥のように眠りについた。
訛りからして北にある方の出であろうということは推測できたが、比較的近い村でも数ヶ月は歩かないと辿り着かないような地方である。仮にその言葉を信じるとしたら、何も手にしていない栄養失調気味の小さな子どもがどうやってここまで移動してきたのか、皆目見当もつかなかった。
ラミゼルは帰る所が無いのならと傭兵団に加えることを提案したが、血なまぐさく後ろ指をさされることも多い仕事の上、そもそも明日の無事も分からないような集団である。少年の未来を考え、即座に却下された。
結局、団の拠点に着いたら、そこで最寄りの街の教会にでも預けるということに決めて、ジークを短い間だけ同行させることとした。ここの近場の村やらに預けるとすると、彼を追放したその故郷に当たってしまう可能性があると考えたのもある。
ラミゼルは、珍しい自分との同世代との邂逅に興奮しているようで、移動しながらも矢継ぎ早に話しかけていた。
「ここには、話が合う相手が全然いないのよ。この梟の団には子どもが一人もいなくってね、私はいつもお仕事中は留守番してるの。それに女の人だって私以外にはお母さんともう一人しかいないのよ!?それ以外はみんなお酒とか賭け事が大好きなむさくるしいのばかりで、ほんとやになっちゃうわ!」
「……うん…それは大変だね」
「そうでしょ!?それに……」
敬語を使うことを禁止されてラミゼルに付き合うジークは、どこか所在なさげであった。それは元気のいい少女という属性からドロシーを想起したことに加え、団長はいつも騒がしいお嬢様の慰め係ができた、などと笑いながら揶揄していたが、自分が何の足しにもならない物資を削るだけの穀潰しであり、周囲から歓迎されていないということを感じ取っていたからである。
その扱いに変化があったのは、道中、再び野営をしているタイミングである。
夕飯として出されたシチューを各々が食べているとき、二人の男が口論に発展した。
ジークはおろおろとしていたが、喧嘩の内容はくだらないものであり、周囲も止めようともしない。隣に座ったラミゼルも特に気にしていないため、喧嘩の様子を伺い怯えながらもラミゼルとの会話に付き合っていた。
男は名前をミクイと言い、その団の中で最も強い団員だった。優れた観察眼で相手の動きを見抜く戦法を得意とし、一対一なら負けなしの、梟の団にミクイありと謳われる程度にはそれなりに名の知れた剣士であった。
口論をしていた男のうち、片方が椀を思いっきり地面に叩きつけた。椀が砕け、地面の石も飛び散る。
「きゃっ!」
ラミゼルがそれに驚き、目を瞑りながら体を跳ねさせ、手から椀を取りこぼす。シチューも物理法則に従い、跳ねて零れ落ち始める。
飛び跳ねた石のうち一つは、子ども二人のところに飛んでいった。団員たちは音のしたところに注目してその小さな石の行方すら追っていない。
ジークが倒れこむような動作をすると、飛んだ石は先ほどまで彼の胴のあった場所である脇の下を通過する。
そのまま流れるような動きで空中に跳ねた椀を手に取り、椀から飛び跳ねたシチューを椀の中に全て回収した。
ミクイにはその全てが把握できたわけではない。しかし、危機を正確に察知し驚異的な反射神経を持ってそれに対応をした、ということは理解できた。
その一瞬の後、喧嘩をしていた団員は周囲から責められ、本人も我に返ったようでばつの悪そうな顔をしていた。
「いやね……短気な人、私嫌い」
「……落としてたよ」
「えっ、ああっ、ありがとう!ナイスキャッチ!」
何が起こったのか理解していないラミゼルに椀を手渡し、会話を再開する二人にミクイは近づき、少年の方に声を掛ける。
「君、剣を握ってみるつもりは無いかい?」
団員たちからは酔狂か、先ほどの喧嘩の後を引かせないための機転だと思われた。屈強な男たちに囲まれる中、ジークは木の剣を握らされ、どこか気まずそうな顔でミクイと相対する。
「ずるいわよ、私にはまだダメだって言ってたくせに!」
「まあまあ落ち着けお嬢、大切にされてるんだ。それに、あいつの気まぐれは今に始まったことじゃないだろ」
わいわい騒ぎ野次を思い思いに飛ばしてくる中、ミクイは無視してジークに剣の握り方から立ち方まで丁寧に教える。ミクイはそれを見て感心した。飲み込みが非常に早い。
「君、剣を握ったことはないのかい?それか、家族か近しい人に剣士がいたとか」
「な、無いです」
「そうかい……いいね」
手本を数回見せて振り方を教え素振りをさせると、剣がジークの手からすっぽ抜け、周りから笑いが起きる。ジークは俯いてしまった。
「大丈夫大丈夫、彼らは大声で笑えれば何でもいいんだ。大きさが君に合った木剣が無いのはすまないね」
ミクイは慰め、再び丁寧に教える。
それに倣って何回か振ってみると、最初は引っ張られるような形であったが、正確にミクイの動きを模しているということが、目が優れていたミクイには分かった。目が良い証拠だ。ミクイは思わぬ自分との共通点に笑みを浮かべる。
最初の失敗も体格の違いによって起こるズレだ。そしてそれを自分のものに矯正することも、徐々にではあるができている。
その後に、ミクイに対して何度か剣を振らされ、実践しながら受けも流れで教えられた。その吸収の良さにミクイは舌を巻く。
「やっぱり才能があるよ、これを腐らせるなんてもったいないな……」
「俺たちよりもかぁ?」
「うん、そうだね。もしかしたらボクよりあるかもね」
そりゃないぜ、などと返す団員たちと談笑するミクイを横目に、ジークは何となく手の木剣を見る。なんか、乗せられている気がする。しかし、剣を操る感触は中々悪いものではなかった。
体験のような剣の訓練が終わった後、ラミゼルに話しかけられる。
「頑張ってほしいわ!もしあなたが強くなれそうならお父さんに頼んで梟の団に入れるかも!それにあなたが訓練するのが認められるなら私にも許しが出るかもしれないし!」
「別に、俺は入りたいわけじゃないよ……これだって断るのが忍びないからやっただけで……それに、あの人の褒め言葉だって、適当に乗せようとしているだけで真に受けるようなものじゃないだろ」
「いや、ミクイさんはめったに褒めないわ。私も最近になってようやくちょっと触らせてもらえるようになったけど、すごい厳しいのよ。というか、今日だけで訓練の進みは追い越されちゃってるし……」
「……本当に?」
二日後、ジークは傭兵団に入ることを許された。というより、元々入るつもりではなかったため、入るよう勧誘された、と言った方が正しい。そしてその理由は、至極単純なものである。
ミクイが型の復習としてだけでなく、自分と実戦形式で自由に打ち合ってみないかと言ったのが始まりだった。
ミクイは、ここ二日ジークと付きっきりで訓練を行う中で、改めてその才能には目を見張るものがある、と感じ始めていた。そしてこの才能を逃がすのは惜しいとも考え始めた。
ミクイは若い頃団長に拾われたという経歴があり、自分と重ね合わせているのやもしれなかった。
ミクイは確かに見る目が合ったのだろう。しかし一つ、非常に大きな見誤りをしていた。彼は、ジークのことを、もしかしたら自分と同じかそれを少し上回るくらいの才能の持ち主だと踏んでいた。
「あの…手を抜かなくていいですよ」
ミクイが仰向けに倒れていて、その前に立ったジークが木剣を喉元に当てている。
「……あ、あぁ……。すまない、確かに油断があったかもしれないね」
手の動きに注目するあまり、上手いこと不意を突かれ、足を使って崩された。教えてはいないが、勝利への貪欲さを甘く見ていたのかもしれない。これでは威厳もクソも無い、自慢の観察眼が鈍ったかな、などとミクイはどこか浮ついた面持ちで立ち上がり、頬を叩き気合を入れてジークと鍛錬を再開する。
「……どうして今、足払いができたんだい?僕の重心移動に完璧に合わせてたけど、さっきの説明と照らし合わせて自分のそれでタイミングを掴んだのかな?」
「え?いや、別にそういうのじゃないですよ……。だって、単に明らかにがら空きで、誘ってるみたいでしたから……そういう隙を突く訓練じゃないんですか?」
その日ジークは、一対一の模擬戦において、梟の団の全員を打ち負かした。
ジークの初陣は、それからすぐに訪れた。
求められるままジークが仮加入してから、一週間ほどで山の麓にある梟の団の拠点に着き、加入のための簡単な儀礼を済ませようとした最中、団は息つく間もなく賊の討伐のために駆り出されることになった。
近くの街からの要請で、自分たちがいない間に増長した連中を討伐してほしいとのことである。
その件で出動するのは6人で、才能があるとはいえ子どもであり、少なくともジークとラミゼルは留守番することになる流れであった。
しかし、傭兵という仕事に慣れさせるために見学させるだけでも連れていくべきだ、と強く主張するミクイに、対抗しようとするものは少なかった。慣れている地での小悪党との戦いで、更に、ジークという綺羅星を上手く育てられればもっと自分たちが成り上がっていけるという追加の説得によって、ジークの同行は本決まりとなった。
ジークは、悩んでいた。ずっと流されるままこの傭兵団に入っていいものか、自分は使い潰されるだけなんじゃないか。
その時ジークは、基本的に移動する団員の中心に寄せられていたが、見つけた賊たちは進行方向の前方に固まって休息をとっていたため、ジークを後ろに下げて奇襲を仕掛けた。
団員たちは視界の悪い野戦であり、子供が背後にいるという普段無い状況に対する意識が薄かったためか、森の中を迂回していた賊の一人に、ミクイ以外気が付かなかった。
視界内のおおむねの賊を始末し終えたと思った瞬間、戦場に一人の賊が現れる。
「てめぇら、このガキがどうなっ、えっ?」
賊はナイフを突きつけ、後ろの方で待機していたジークを人質に取ろうとする。
その瞬間ジークはするりと賊の腕に絡みつき、よろけたところで賊が右手に持っていたナイフを首に突き刺さした。
「うっ、がぼっ」
賊は倒れ、自らの血で溺死する。
流れるようなその動きを認識するまで、梟の団の団員たちは一瞬間が空いた。冷や汗を流す団員が何とか声を絞り出す。
「おっ…お前……」
「ジーク!君はやっぱりすごいよ!」
遮るようにミクイからそう声を掛けられたジークは、故郷では慰めのようなもの以外褒められることがほぼ無かったため、生まれて初めて誇らしい気分になった。
これなら傭兵になるのも悪くないな、と思った。
拠点に帰還すると、何やら準備が整っていたようで、早速
剣を地面に刺して仁王立ちする団長の前に言われるがまま膝をつく。
「加入したいなら、基本的には聞かれたことにただ肯定するだけでいい。強制力があるようなことは言わないし、もし気になることがあれば都度質問をしてもいい。そして引っかかるようなことがあれば、ここに入る話は無しにして近くの教会に預けたっていい」
前置きをした上で、団長は朗々と語りかける。芝居掛かった儀礼であり、本当にこんなもの必要なのかとジークは疑念に思いながら地面をジッと見ていた。
「梟の団は仲間を第一とし──」
団長が語り掛ける流れに乗っ取って、何回かジークが肯定を繰り返す。
「梟の団は、誠実を信条とする。そのことを心に刻め」
「誠実?」
その時ジークは初めて引っかかり、オウム返しをした。傭兵団として、意外な単語だったからだ。
「あぁ、俺たちは暴力を売って生きている。だからこそ、相手が誠実である限りこちらも誠実であり続けなければならない。それこそが、俺たちがまともであるための
「……どうすれば、誠実でいられるんですか?相手が誠実であるとはどう判断すれば?」
「やけに食いつくな、別に普通の解釈で構わないが……そうだな、具体的には依頼人が虚偽の申告をしたりや意図的な秘匿をしたり場合を除き絶対に受けた仕事を途中で投げ出さない、とかだ。仕事以外でも約束は守れ。他には単に略奪をしないとか……まぁ、善く生きろ。相手の誠実さの判断は、一番わかりやすいのは金だな。相手が報酬を提示しそれを履行できる限り、こちらは不義理をするな」
「……分かりました」
そう答えるが、ジークは不安だった。親を殺した自分が誠実であることなんてできるのか、と。親が過ちを犯すまで見過ごしていた自分に誠実さを見極めることなんてできるのかと。
「これで、俺たちは家族だ!堅苦しい敬語も無しでいい!」
団長から抱擁される。ついぞ、実の父にはされたことが無かった。
ジークが感情に浸りかけたその時、おもむろに抱え上げられ、目立つ台に乗せられる。
「よし、記念だ!酒開けろ!」
「うおおおおお!!!」
団長の一声で団員たちが一斉に盛り上がる。一部の団員は呆れたような顔をしていたが、それでも全員どこか楽しげだった。
「ぐあああっ!!??」
台に乗せられたジークに団員が酒を掛ける。ジークはべしょべしょになり、いくらか口にも入る。
薄い安酒ではあるが、それがむしろ実の父の匂いを思い出して吐き気がした。
「ほんとバカばっかで悪いね」
団長の妻であるらしい中年の女性がジークを布で拭く。その時には団員はもうジークに注目しておらず思い思いの面子で酒を飲み交わしていた。
ジークの入団祝いに乗っかって団員たちが乱痴気騒ぎをする中、放置され乗る事ができずおろおろとし始めたジークに、いそいそとラミゼルが近づいていく。
「家族になった記念日だから、プレゼントあげる!そうね……私の知ってることならなんでも答えてあげるわ!私、物知りなのよ!」
この機会にかこつけて自分の知恵を披露したいという思惑は見え見えだったが、ジークはお言葉に甘えて少し気になっていたことを聞くことにした。
「えっとじゃあ……なんでラミゼルはそんな…えっと、持って回った話し方をしてるの?団長は貴族だったとかそういうことはないんだよね」
ラミゼルは知識を問うものでなく少しがっかりした様子だった。
「ん~?そんなの決まってるでしょ。私、大人のお姉さんだから!」
しかし気を取り直し、ハッキリとした態度で答える。あまりの勢いに一瞬納得しかけてしまったが、気を取り直して反論する。
「……まぁ、それはそうなのかもしれないけど……大人のお姉さんがみんなそんな喋り方してるわけじゃないじゃん。答えになってないよ」
「それはね、私は立派なレディなのに皆ときたら私をいっつも子ども扱いするの。だから、ちゃんとこうしてアピールしないといけないのね。それにね、話し方を意識することが、理想の自分に近づく第一歩なのよ!セシーが言ってたわ!」
セシーというのは梟の団における数少ない女性の名である。話が耳に入ったのか酒に口をつけながらヒラヒラとラミゼルに手を振りながら呼びかける。
「よっ、色女!」
「ありがとぉう!」
周りからそういう扱いを受けているということはまだ子どもであるということなのではないか、とジークは思ったが、口には出さなかった。
「何よがっかりした顔して、亡国のお姫様じゃなかったのがそんなに不満!?言っとくけど、あなたもそのウジウジした話し方を止めたらもっとカッコよくなるから!私の弟として、シャンとしなさい!」
「……弟」
「怒ってるのにニヤニヤしないで!」
◆
「ジーク、またお手柄だってね!」
「まぁな」
「何よ、クールぶって。私が実戦を許された暁には一日で追い抜いてやるんだから!」
加入から1年が経っていた。ジークは八面六臂の活躍をしており、戦場でも目立つその髪色から『赤毛』というシンプルな異名ともに恐れられ、その地方では知らない者はいないほどの存在となった。
粗暴ではあるが陽気な団員たちに囲まれる生活をしていく中で、自身の能力が強く肯定されていることもあってジークの性格もどこか明るいものへと変わっていった。
この会話をしている時間は早朝であり、ジーク、ラミゼル、ミクイの三人で集まり、各々が動きやすい恰好で木剣を持っていた。鍛錬中である。
気合を入れて素振りをするラミゼルを見るジークは、笑いながら揶揄う。いつもラミゼルにイジられているジークにとって上に立てるこの時間はやり返せる数少ない機会だった。
「ラミゼルは弱いんだから、一生無理。
「おや、それは君より弱いし実績でも追い抜かれそうなのに師匠を続ける僕への嫌みかい?」
「アハハ。ごめん、そんなつもりは無かった」
ミクイは才能ではジークに大きく負けていたが、実戦に関しては一日の長があった。ジークも技術や立ち回りの面ではまだミクイから吸収できることがある。
そのため、ジークは模擬戦において勝率で大きく上回り、実力は既に超えていると太鼓判を押されているが、彼に師事し続けていた。
そこにラミゼルも加わった3人は、団内で剣の鍛錬を最も熱心に行うグループだった。
横で話す二人にも構わず集中して剣を振り続けるラミゼルを横目に、ジークはミクイと打ち合う。
軽く流すようなもので、会話しながらやっていた。
「何でミクイさんはラミゼルの面倒をよく見てるんだ?他の団員にもいろいろ聞いたけど、ミクイさんより前に入った人にもこんなに指導にあたったりしないらしいしさ。強さを見込まれて頼まれたって結構適当だったって」
「それは当然、少なくとも僕くらいには彼女が強くなりそうだからさ。その頼んできた…多分エクラのことかな?彼よりね。もっと言えば、早い段階から干渉した方が、僕の教え方にはあってる。正統剣術とはかなり違うから。慣れで楽にもなるしね」
ミクイの戦い方である、自分と対峙している敵のみならず周囲の状況をよく観察し、勝機を見出すやり方は一般的なそれとは大きく異なる。才能がある上で慣れなければその戦いをすることだけに集中力を大きく取られてしまう。戦闘経験の無い空っぽの器に注ぎ込む方が都合がいい。
「その強くなりそうだからって、俺もそう?」
「もちろん。とはいえ、君はラミゼルとも違うけどね。ラミゼルはあくまで彼女から頼まれたからだけど、君はどうしても教えたくて仕方が無かった」
「それもそうだな。俺が初めて仕事に連れられた時、梟の団に留め置くためわざと敵を見逃すとか、俺を引き込むために必死だったし」
「あっ、気づいてたんだ」
ジークが木剣でミクイの動きを誘導する。まんまと乗った。ここからは詰めていくだけだ。
「……ミクイさん、自分の悪だくみを看破されたのにずいぶん嬉しそうじゃん」
「僕を上回ってる証拠だからね。弟子を自分より強くなるっていうのは誇らしいことさ。君もいつか弟子を取ればわかるよ」
「そりゃ無理だよ。話を聞くに弟子っていうのは自分より強くなりそうじゃないと楽しくないんでしょ?今までの戦場で俺より才能ありそうな人とか見たこと無い」
「言うね。僕も、君を見るまで僕より才能がある人間は見たことが無かった」
ジークはミクイの攻撃を読み切った。あと5合で自分が勝つ。ミクイはそのことに気づいてない。
「弟子に負けて悔しくはないのかよ」
「その気持ちも一切無いわけじゃないけど、僕は第一にこの梟の団のことを考えてるからね。別に自分の団内で強いっていう立場に固執してるわけじゃない。まぁでも、流石に想定外というか、ちょっと心配事はあるかな」
ジークの予測通り、ミクイは木剣を弾き落とされた。
それを目で追った後、肩を竦めジークを見つめる。
「君はこんな片田舎で収まる器じゃない。飛び出していきかねないと思ってるんだよ」
「何言ってるんだよ、俺はここを出る気なんかねえって」
「それはなによりだ」
ここでの彼の人生はこれまでと比べ、非常に充実したものであり、梟の団──家族のために戦うことが自分の生きる意味なのだと思うに至ることは、ある意味当然の帰結と言えた。
自分は『ジーク』の名に恥じない人生を送れていると思っていた。
「ほんと、あなたは天才すぎよ。私も才能ある~なんてみんなには言われるけど……あなたがいたら霞んで仕方ないわ…」
「あはは、そうだろうな」
「他人事みたいに言って……弱くなりなさい!」
同い年どころか、誕生日も誕生年も知らないジークに予測から与えられた年齢ではニ個下のジークが戦ってるんだから、と無理を言って稽古をつけてもらえるようになったラミゼルはかなりの天才だったらしい。まだ実践経験は無いが、模擬戦では体格も筋力も大きく劣っているにもかかわらず現役の傭兵たちといい勝負をしている。
とはいえ近くにいる存在と比べれば何とも言えないようなものである、という扱いを受けてしまっていたのは、彼女にとって大きな不満のタネであった。
「言っとくけどね、こんな田舎の傭兵団ではブイブイ言わせられても世界の中にはあなたより強い人なんていくらでもいるんだからね!」
「ラミゼルだって別に世界とか知らないだろ……」
「私はあなたよりも長く傭兵団にいて色んなところ行ったことあるし!魔法使いだって見たことあるし!」
「はいはい……まぁでも、そうだな。多分合ってるよ」
「え?」
いつものじゃれ合いのつもりの言葉を急に肯定されて、ラミゼルが少し驚く。
「俺なんかが世界一の天才のわけないし……それに、もっと強い奴がいてほしい。みんなのために強い敵を倒すのって楽しいんだ」
「……全く、戦闘バカね!勝ち続けてるからそんなこと言えるのよ」
「悔しかったら負かしてみろ!」
「言ったわね!」
宙を舞うラミゼルの顔はどこか晴れやかだった。
それまでの田舎の木端傭兵団とは次元の違う天才の加わった梟の団の快進撃は、留まるところを知らなかった。
◆
それから更に年月が経ったある日、梟の団が町を訪れ、買い出しをしている最中のことだった。
一番最初に異変に気が付いたのは、ジークであった。
唐突に弾かれるように空を見上げ、冷や汗を流す。
「なんだ……あれ……?」
うわ言のように呟く姿に、ジークを荷物持ちとして一緒に買い出しを行っていたラミゼルが目線を追う。そこには特に変わったことのない、少し曇った昼の空が広がっているだけであった。
「なによ、別に何もな──」
その瞬間、ジークが持っていたものを全て捨てラミゼルを抱えて飛び退る。
街中に、赤い閃光が降り注いだ。
それに当たった人間は死に、建造物は破壊される。そして、その着弾地点から人間の姿をした何かが現れ、生き残った市民たちを殺していく。中には殺した人間を食べている者もいた。
自分一人であれば、戦ったかもしれない。だが、この状況で放置してはラミゼルが死ぬ。
倒壊した建物の陰に二人で隠れ、狂騒に包まれている街の様子を伺う。
銀髪の男が赤い翼を広げて中空から街を見下ろしていた。
「人間諸君、その命貰い受ける!我らが大いなる主君『血の魔女』の糧となることを誇りに思うがよい!」
魔女。それは、この時代における恐怖の象徴と言ってよかった。
在野の人間が対抗するのは不可能と言ってよく、行動原理も意味不明なまま人を害する。
更には神出鬼没なことが多いため、国単位で対処しようにも後手後手になってしまうことが現状であった。
『血の魔女』はそんな魔女の中でも有名で、最悪と呼ばれていた。
その理由はいくつかあり、魔女としては非常に珍しく人間に力を分け与え配下としたことなどがあるが、最大の理由は人間を無軌道に虐殺することにあった。
彼女は文字通り血を欲し、非戦闘員などの区別もなく、人間を一様に殺す。
この街、ひいては偶然そこにいた梟の団も、数多の犠牲の内の一つとなった。
大量に現れた血の魔女の眷属──通称『吸血鬼』が町民を殺していく。『鬼』は、魔女によって力の一部を分け与えられ、逸脱した元人間の呼び名である。
ジークはラミゼルを抱え、団員たちと合流するため、集合地点として約束していた場所に、吸血鬼たちに見つからないよう走った。空にも地上にも敵がひしめいているにも関わらず常に死角に位置取れるのは、驚異的な空間把握能力の賜物だった。
未だに空を頻繁に見ながら汗を滝のように流し、うわ言のように呟く。
「空にいるアレ……ヤバすぎる……俺たちがまだ死んでないのは、何でだ…?遊んでんのか……?」
「……うっ、うん…私でも分かるわ……あの男は、格が違──」
「は…?男?何言ってんだ?
そこで、吸血鬼と交戦をしている団員たちを発見する。ジークが援護に入り、その場は収まった。
「ジーク!それに、ラミゼルも!無事だったか!」
団長とジークたちが合流する。周囲を梟の団の面々が警戒しているが、その人数は5人ほどだった。まだ来ていないだけ、なんて都合のいいことは無いだろう。
団長は、周囲を警戒しながらもジークと目を合わせ、肩に手を置きながら言った。
「お前たちがもし生きて来れたらこれを言うと決めていた。ジーク、ラミゼルを連れて逃げろ」
「は…?何言ってんだ、俺が一番強ぇんだぞ!俺が戦わなくてどうすんだ!」
「そうだジーク、お前が一番強い。既に囲まれた状況で人一人連れてここから逃げられる人間はお前しかいない。そして、生かす人間も軽いラミゼルが最適だ。それに……お前たちは若い。だから生きろ」
「ちょ、ちょっと!何言ってるの父さん!」
ラミゼルが声を上げるが、団長はそれに応えない。
ジークは、一瞬黙った後、小さく言った。
「……それは、命令ですか。
「…いいや、お願いだ。
団長との会話で冷静になったジークは、状況を理解できていた。おそらく自分がいても僅かに生き残れる時間が長引くだけで全滅するということも、逃げに徹すればラミゼル一人抱えても自分なら逃げ切れるということも。
「私の意思を無視しないでよ…!弱くても、団員よ!私も戦う!」
ジークの心は、決まっていた。空にいる何かには、絶対に今の自分は敵わないと確信していた。
騒ぐラミゼルを、動けないよう抱きかかえる。
「……絶対に、仇は討つからな。父さん」
「いや、それは無理だよ」
静観していたミクイが口を挟む。
「だって、今ここで僕が全員倒すからね」
ミクイは脂汗を浮かべながらも笑った。空気が一瞬弛緩したが、その後思い思いに雄叫びを上げ奮起する。
「おいおい手柄を独り占めする気か?譲らねぇぞ!」
そしてその勢いのまま、ミクイの言葉を皮切りに全員が次々と戦場に走っていく。
注目がそちらに集まり、ジークの目には見える、隙と言える空間が生まれた。
「下ろして!」
「ラミゼル、明日からはお前が『梟の団』団長だ。ジークのこともよろしく頼むぞ。紛れもなく、お姉さんなんだからな」
ラミゼルは目に涙を浮かべながらもがくが、抜け出すことはできない。渦中にいながら、蚊帳の外であることが悔しくてたまらなかった。
「……またな!」
ジークはラミゼルを抱えて逃げる。振り返らず、一目散に走る。
ほんの僅かな針に意図を通すような、包囲の隙間を縫っていく。あと少し遅れれば逃げ切れなかっただろう。
それを見届けることもなく、団員は最後の戦いに身を投じる。
「団長、遅いっスよ!もう巻き返しは効かないぜ!」
「すまんな、遅れは取り返してやる!」
脅威とみなされたのか、どこからともなく吸血鬼が集まってきている。今でも手一杯であるため、絶望的と言っていい。
一人の団員が疲労から体勢を崩し、そこに手刀を振るわれ首を飛ばされる。
背後からミクイは流れるように心臓を突き、その吸血鬼を殺した。悼む暇はない。
「ミクイ、やるじゃねぇか!」
「団長には負けませんよ!あなたが、僕を最強だと言ってくださったんですから!」
二人以外の返答は無い。その言葉をかけ合った時、街に残った梟の団の生き残りはもう二人だけだった。
それでも笑う。もう希望は繋いだからだ。
そこから二人は疲れも見せず戦い続けたが、膠着していた戦場の風向きが途中で変わることとなった。
ミクイは吸血鬼たちが消極的になっているという異変に気付き、それが起こる直前に大きく避ける。
血の刃が降り注ぐ。ミクイも何発か食らったが、団長は完全な意識外からの攻撃を無防備に食らい、腹部に大穴が空く致命傷を受けた。
液体の混じった強い息を吐く音を残して、団長は死んだ。
「多少は、骨があるようだな」
「スーラン様……」
空中で指揮を行っていた銀髪の吸血鬼が降りてきていた。
手で周囲の吸血鬼を制し、こちらを見据えている。おそらく雑兵とは格が違う。
呼吸を合わせる。一対一、自分の領域である。
血で武器を作り出し、それを自在に操ってくる。一つ一つの強度こそ低いが、壊しても即座に再生する。
圧倒的な物量に防戦一方となり、腕を切り飛ばされる。大量の血を流し視界が朦朧とする。その時点で、未来は無かった。
だが、こいつだけは殺す。そう考えたミクイは、その吸血鬼の攻撃の癖を読み、剣を投げた。体を動かすだけで避けるがそれは想定内である。体を切られるのも構わず間髪入れずにナイフを投げる。体勢で避けるのが難しいと考えたのか、目の前に盾のように血を張ることで防がれた。しかし、それで視界は狭まる。
地を滑るように体を動かし後ろを取った。懐から短剣を鞘走る。
届く──そう思った瞬間、死角から走る銀の刃が、ミクイの喉を貫いた。
振り返り、倒れ伏すミクイの死体を見て、銀髪の吸血鬼は少し驚きを覚えると同時に、それとは別のことによる恐怖を感じていた。
必死に自分たちの戦いに横槍を入れた下手人に対して、膝をついて弁明を行う。
「申し訳ありません真祖様。あなた様の手を煩わせてしまうとは……」
「疾く終わらせると貴様が言ったから待っていたのだ、愚鈍め」
純白の凍えるような美貌の女が、抑揚のないしわがれ声で答える。
そして、自分が手を下した男を一瞥した。
「貴様、今心臓を貫かれておったぞ」
「何をおっしゃいます。真祖様の血を直接分けられた私はその程度では死なぬではございませんか」
「それは慢心だ。きっといつか貴様を殺す」
そこで女は会話に飽きたのか打ち切り、吸血鬼にも今自分が殺した剣士にも目もくれず歩を進める。
それまで行われていたチマチマした殺しなど余興であったかのように、近くにいる生きていた人間の体が破裂していく。
女は街の中心まで行くと空へと手をかざし、何かを呟いた。
すると、街に溢れていた虐殺による血が独りでに動き、女の手に集まっていく。
「不味い」
「仕方のないことです、たまたま道にあったからお食事としただけでしょう」
「……そうだな。我の残した分は好きに食え。部下を増やしたいものは勝手に増やせ」
それだけ言うと、女──血の魔女は霧となって消えた。
部下たちに指示を出しながら側近の銀髪の吸血鬼は思う。
最後に戦った長身の剣士は少しは骨のある相手だったが、主君に仕え戦い続ける悠久の時の中ではこの程度の使い手は掃いて捨てるほどいた。
次なる主の慰め方に意識を飛ばしているうちに、忘れ去るような出来事だった。
森の中に、ラミゼルとジークはいた。追手の気配は無く、ジークがラミゼルを下ろすとラミゼルはジークの頬を叩いた。
ラミゼルが無防備に倒れたジークの胸ぐらを掴む。
「もしあなたがあの場にいれば、勝てたかもしれない!なんで私なんかのために…」
「…勝てなかった。雑兵をより蹴散らすのはできるさ。けど……空にいたやつ。……あれは無理だ」
「それでもっ、私は死んでもよかった!」
「無駄死にでもか?」
「みんなと戦って死ねるなら無駄じゃない!」
ラミゼルはしばらく泣いた後、精神的にも疲れていたためか糸が切れるように眠った。
体を休めるために横になったジークの目にも、涙が浮かんだ。悔しさが胸中に渦巻いていて、今すぐにでも奴らを殺さないと発狂しそうだった。
それは、家族を殺されたことから湧き出てくるものか──はたまた、初めて戦いにおいて敗北を喫したことを実感したからか。その真意は、本人にすらわからなかった。
翌朝、薄明の中で目を覚ましたラミゼルは、取り乱しようが嘘のように落ち着いてジークに語りだした。
「……ねぇ、ジーク。一個だけ、お願いを聞いてくれる?」
「…内容による」
「そう。じゃあ、お願いじゃなくて団長命令」
ラミゼルは、滅びた街の方向を睨みながら言葉を紡ぐ。
「血の魔女を、最悪の魔女を殺す。私と、あなた……『梟の団』が、必ず」
ジークは、小さく頷いた。
「あぁ、皆の無念を果たすため……絶対に」
人のため、愛する者のために戦う。それこそが、『ジーク』の正しい姿だ。
◆
小汚い男が、狭い路地で曲刀を持つ大柄な男に追い詰められていた。一見今にも危害を加えようとしている大柄な男の方が悪に見えるが、小汚い男の浮かべる軽薄でどこか侮るような不快な笑みからすると、どうにも一概にそうと言えるわけではなさそうであった。
「おいフィッチ、今日こそ年貢の納め時だ。こっちにも面子ってもんがあるんでな、払ってもらうぜ。金か首か、二つに一つだ」
「いやっ、えーあっ、手持ちが今、あっ、無くてっ」
「は?……ああ悪い。よし、それがお前の選択だな。尊重するぜ」
「いやっ、ちがっ、あっ、そ、そうだ情報をやる!もちろんタダだ!」
フィッチと呼ばれた男は、呆れた金貸しの男がそれに対して反応する前に、名案を閃いたという清々しい顔をしながら矢継ぎ早に捲し立てる。
「なぁ、知ってるか?戦場を渡り歩くとんでもなく強いガキ二人組の話」
金貸しの男は会話を打ち切ろうとしたが、交換条件を飲むと言ったわけではないし、タダでもらえるものはもらっておく心づもりで続きを促す。このフィッチという男は、その情報収集能力だけは確かだったため、話す内容によっては得をできるかもしれないと思ったのもあった。
「なんだそりゃ?怪談か?」
「ちょっと近いかもな、でも実在してるし俺も見たぜ。仇を追ってるとかなんとかで、色んな地方を移動しながら金稼ぎも兼ねてなのか戦い続けてる。一日たりとも休まずに、だ」
フィッチの語り口によれば、その二人はまだどちらも10代前半とも見える容貌で、傭兵業の報酬に情報を求めているらしい。
「金髪と赤毛の二人なんだけどな。とくにやべぇのは赤毛の方で、元々北の方ではちょっとは名の知れた傭兵だったそうだが、そいつ一人で隣の港町の盗賊ギルドが壊滅したって噂だ。あんたらもこんな後ろ暗いことやってたらヤバいかもしれないぜ」
「へぇ、そりゃすげぇ……で、金返せよ」
「だから今の情報分でチャラにしてくれよぉ!」
「今の話をどう金に換えるんだよ!脅しみてぇなことも言いやがって!」
ついにフィッチの命運は尽きたかと思った時、その場に似つかわしくない小柄な闖入者が現れた。
全身を覆うローブにフードを被っており、その詳しい容姿は分からない。
「ねぇ、あなた結構な腕の情報屋なんですって?」
少女の声がした。
「私たちに協力するなら、借金を立て替えてあげてもいいわ」
二人は、団が自分たちを残して無くなってから、休むことなく戦い続けていた。
その戦い様は狂気じみたものであり、二人とも理由を語ることは無かったが、無くなってしまいそうな梟の団の名声を少しでも世界に留めおくためであったのかもしれない。
その戦いの中で、ジークは明らかに異常に強くなっていった。一対一では負けなしという領域を飛び越え、1年が経つ頃にはたった一人で王国騎士団と渡り合えるとすら言える次元に到達していた。
ジークの戦う過酷な戦場に身を投じるため、ラミゼルは大量の薬を使うようになった。
二人とも、笑うことも、泣くことも無くなった。
そしてその中で、情報を集めることが得意な人間を囲い込むことを思いつき、白羽の矢が立ったのがフィッチという男だった。
ジークとラミゼルは、フィッチに片端から吸血鬼の情報をかき集めさせ、血の魔女を挑発するかのように皆殺しにした。どんな吸血鬼であろうと見逃すことは無く、交渉の余地は無かった
フィッチは後にこの時期について、『金は死ぬほど入ったが休むことは許されなかった。二人とも常に鬼気迫る様子で、裏切るどころか手を僅かでも抜けば殺されて、全部終わったら何も無くとも殺されると思った。あんなプレッシャーの中で働くなんて二度とごめんだ』と語っている。
ラミゼルは吸血鬼と戦う中で対吸血鬼にチューニングアップした毒を作り、拷問による実験を重ねその精度を高めていった。
フィッチを雇ってからしばらくして、彼は血の魔女自身の動きについての情報を持ってきた。それも、こちらに向かっているということである。
先行してきた吸血鬼を捕らえて話を聞くと、やはり梟の団を煩わしく思い、ついに対処に重い腰を上げたということらしい。
望んでもいないことである。好都合と捉え、直接出向く。
ラミゼルとジークは吸血鬼数体から聞き出した情報からアタリを付けた位置に赴くと別れ、お互い吸血鬼をしらみつぶしに殺した。
姿を消していても見つける方法も攻撃を当てる方法も、慣れたものである。
突如始まった交戦に吸血鬼たちは慌て、その隙を突いてより数を削られていく。
血の魔女は面倒を嫌うが、それ以上に短気である。自分に都合のよくいかない状態が長時間続くと我慢できずに自ら姿を出し、その力を無遠慮に振るうことで望みを叶えようとする。
目論見通り血の魔女が現れる。それと同時に薄く霧が発生した。それを吸うと、一般的な人間は即死か昏倒する。
ラミゼルの調合した薬により耐性を得ているジーク達は、その中を動くことができた。
ジークは一直線に血の魔女に突撃する。あらゆる存在は障害物足りえない。
察知できる速度を追い越して飛び込んできた男に対して、傍に控えていた吸血鬼が肉壁となる。
毒が剣には塗ってあり、急所を突いたわけでもない反射的に動いたその第一世代の吸血鬼は即死した。
更に、一瞬止まった隙を突いて不届き物を排除しようと動こうとした3体の首が刎ねられる。
状況すら理解できないその僅かな時間で、長年の経験から直感的に血の魔女はジークの剣を絡めとった。
ジークは瞬時に剣を手から離し、血の魔女の腹に蹴りを放つ。直撃した脇腹が抉り取られ、内臓が破壊された状態で吹き飛ぶ。
剣を回収し、四方から飛んでくる攻撃を全ていなし、逆に弾き返して凄まじい勢いで吸血鬼の頭数を減らす。
血の魔女は、数百年ぶりに恐怖を感じていた。自身を超える強者。それが、自らに明確な害意を向けている。
眷属がゴミのように蹴散らされていく時間で再生をしながら衝動的に叫ぶ。
「貴様……一体何者だ…!」
「……俺が何者か、か」
血の魔女が求めているような答えは、ジーク本人も持ち合わせていなかった。
その強さに一切の理由も背景も歴史も無く、突如として世界に現れた突然変異の怪物。
その異常な存在は、静かになった空間で名乗りを上げた。
「『梟の団』副団長、ジーク。今度はこちらが、その命を貰い受ける」
「ふざけるな……!」
血の魔女は、かつての魔神との抗争以来、封じていた全力を出す。
巨大な翼と共に展開した空を覆うほどの濃密な赤い血の霧。一息吸えば屈強な戦士でも即死し、霧を伝わせることで取れる戦略も大きく広がる。
それを見たジークの胸中に広がった感情は、憎悪でも恐怖でも、期待した興奮でもなかった。
その戦いは、ほんの僅かな間に終わり、誰も横槍を入れることは叶わなかった。
近くにいた味方すら区別なく鏖殺する縦横無尽に駆け巡る血の鞭と銀の短剣。
それらをいかようにしてかすり抜け、的確に切り落としていく。
半径数十メートルを消し飛ばしながらもたった一人の男を殺すことは叶わず、血の魔女の数百年に及ぶ栄華は終わった。
ジークは、そのまま
その日、血の魔女と吸血鬼の98%が死亡し、魔神の支配期すら乗り越え一つの国すら飲み込みかけた巨悪は滅びた。
朝日が昇るころになって、ジークは戦闘を終えた。腹が立つほどの快晴だった。
唯一の味方にして生存者である一人の元に、静寂が支配する中歩み寄る。
多量の薬の副作用かどこかボーッとしているラミゼルの傍には、銀の長髪をした吸血鬼の死体が一つ転がっていた。
ジークの存在を認めたとき、ラミゼルは達成感や安堵がないまぜになったような顔で、目に涙を浮かべた。
「…終わったのよね……」
「あぁ」
「……ごめん、立てないから肩貸して」
手を伸ばしてきたラミゼルに肩を貸して歩きながらジークは思う。
自分は、泣かなかった。おそらく、ラミゼルが感じているであろう感情が湧き上がってこない。なんというか……
案外、つまらなかった。
◆
二人はその後まず、団員たちの墓を作ることにした。
根無草の多かった梟の団であるため、かつて拠点があった場所に墓石を立てる。死体は無い。かつて彼らが死んだ都市に戻った時、肉片一つ見つからなかった。
ジークがラミゼルの泣き顔を見るのは、この時が最後となった。
こんなものを作っても意味が無いと内心思っていたが、全て終わった実感が湧くかと思って協力した。
ジークは、この時も泣かなかった。
それから二人は、王都に移住することにした。
新しい人生を始めるのならと、国で最も仕事も娯楽も集まる王都が最適だと考えたからだ。
復讐を果たしてから、憑き物が落ちたかのようにラミゼルは明るくなった。
奴らを殺すためにつけた知識を応用して薬屋の手伝いをして、いずれは自分の店を出したいのだと語った。
ジークがやることは変わらなかった。戦場に行き、殺して金を得る。
ジークは、未だに戦場に取り残されていた。
二人が落ち着いたタイミングで、ジークから今後について話をしたいと切り出した。
「ふふ、血の魔女討伐でお金はあるけどね。ずっと戦い漬けでノウハウが無いから、ちゃんと学んで出発したいの。私の店を開いた暁には雑用として雇ってあげてもいいわよ?」
「そんな話をしに来たんじゃない。梟の団再興は、いいのか?」
「……無理よ。分かってるでしょ?私の体のこと」
ラミゼルの笑顔は明るいものであったが、その中に潜む諦観をジークは読み取った。
彼女はまだ幼いと言ってもよい身で吸血鬼との戦いに参加するため、そしてジークに追いつくためにも、異常ともいえる量の薬物投与を行っていた。それは、非凡とはいえ人の領域に収まるラミゼルには必要なものであったが、地獄の責め苦のような苦痛も伴うものだった。
苛烈な妄執が成せる業だったが、2年ほどの戦いの中で薬は確実に彼女を蝕んでおり、寿命も著しく削られている。治療薬を飲み続け延命しても、あと10年も生きられないだろうというのが大方の見方だった。
この時、ラミゼルの年齢は17歳であるが、復讐という燃料を失った彼女にとって、もう残りの人生は余生のようなものであった。
「もう梟の団は終わり、とは言わないわ。今後のことはジークに託しても……」
「そんなん、意味ねえよ。俺は……」
「……ジーク、新しく拠り所を作りなさい。私以外にも大切な人を作るとか、色々手を出して趣味を見つけるとか、何でもいいわ。……これが、最後の団長命令」
交流を断つことこそしなかったが、家での会話も少なくなり、更にお互い家に帰る頻度も少なくなっていった。
ジークは一人になった。というよりも、元々一人だったらしかった。
明日飢えることに怯えなくていい。それどころか暖かい毛布で寝られるし、高い牛肉だって毎日食べることだってできる。かつての村での生活を思えば、遥かに上等なアガリだ。社会的に見ても成功してるし恵まれている。なのに、何をしても満たされない。
ラミゼルの忠告に従い、様々な娯楽に手を出してみた。
実用性の無い美術品には価値を感じられなかった。美食も最初こそよかったが、慣れると基準が上がっただけで大して満足できなくなった。
教養のある人間の話を聞き、字を習い本を乱読し、劇の鑑賞も詩作もやった。自分では使えない魔法についてすら、ある程度知識を付けた。
何でも手を出すということで娼館にも行ったが、
比較的マシだったのはギャンブルで、金を命に見立てれば戦場の代替行為として考えることはできなくは無かった。一時期はのめりこんだが、胴元の操作を利用するイカサマやら目や器用さをフルで使った大立ち回りやらをしたら、大抵の賭場からは門前払いを食らうようになった。賭場を荒らしたことに加え、そもそもジークは個人であるにも関わらず暴としての後ろ盾が強すぎるためかまともな相手とはできない。
無論、手を抜けば賭場に出入りすることはできたろうが、そんなものは楽しくなさすぎてやる価値を見出せなかった。
最終的には、同じ鼻つまみ者のクズどもと連むためのツールとしてとしか成り立たなくなった。
結局どれも遊びで、暇つぶしにしかならない。
死の可能性が僅かでもある苛烈な戦場に身を投じている間だけ、その心をほんの僅かに慰めることができた。
多くの人間と関わる中、自身の胸の内を誰にも悟られないために被った軽薄な仮面は、染み付いて取れなくなった。
魔神レテュールとの戦いでは。第三王子にして当代の勇者、アダムとの共闘をした。
その際に見た国の保持する神器を装備したアダムの実力は、もしかしたら自分を満足させてくれるものかもしれないと考えたが、その場合は国を相手取ることになってしまう。
その先に待っているのは、獣のような生き方だけだ。まだ、それに堕ちるには踏ん切りがつかなかった。
集まる名声も金も嫉妬も敵意も、研ぎ澄まされていく強さの前ではどうでもよかった。
ふと善なる強者を殺そうとする衝動が溢れるようになると、その度に梟の団の教えを脳内で反芻することになる。──誠実たるべし。
国中どころか世界を飛び回り人民に仇なす悪を殺すようになり、いつしかジークは英雄視されるようになっていく。
それらの戦いの中で死ねれば、彼は幸せだったのだろうか。
◆
"轟獄竜"メネトリカの侵攻を止めるための戦いは、国家の総力を挙げてのものになる手筈であった。
人間の領域に突如現れたメネトリカが、国を均すかのように放ち続けたその異名の由来となった轟音の
ジークはその時、メネトリカの出現した地点と、比較的近い都市にいた。
その都市は、恐慌状態に陥って脱出する人間で溢れていたが、そんな中ジークは急ぎ傭兵をかき集め、演説を行った。
そこは最近になって発展したところで駐屯軍や騎士はおらず、派遣されている魔法使いも文官で荒事などできない。治安維持も私兵に依存しており、ジークがその時いたのもそれに付随して発生した問題を解決するために雇われたからであった。
「──という方法で奴の気を引き、その隙に俺が接近する。俺なら奴を殺せる。参加するものは残ってくれ。一人当たり金貨5枚払う」
静まり返った傭兵の内の一人が、声を上げる。
「……お前、何を言っているのか分かってるのか。作戦なんて言えるようなものじゃない、拙い絵空事だ。……それに、確実に囮は死ぬ」
「あぁ、だが何もしなければ、結局のところ遅かれ早かれ死ぬぜ。奴は明確に目的意識を持って人間を殺しまわっている。そしてここに来るのは時間の問題だ」
それは全員が理解していることだった。今から移動しても本格的に討伐の準備を整えている防衛ラインまで到達することなどできない。
「……じゃあ、次に根本的な問題だ。お前が強いことは知ってる。だが奴の鱗を突破する手段はあるのか?」
「やったことは無いが、剣が届くなら俺は無敵だ。斬れる」
「……仮に鱗を斬れたとして竜の身体能力に勝てるわけがない。そんな無根拠な自信を頼りにしろってのか」
傭兵たちはジークの顔を見る。誰も、彼が何を考えてるのか分からなかった。
「あぁ、一度も竜と対峙したことのない俺に根拠はない。……それでも、俺のために死んでくれ」
「……誰も立候補しなかったらどうする?」
「一人で行くしか無いな。できる限り頑張るさ」
「……本当にお前を奴の元へ連れていけば勝ってくれるのか?」
「絶対に。
その都市にいた傭兵たちの内の数十人は、その賭けに乗ることにした。
成功しようが失敗しようが自分たちは死ぬ。しかし、竜の移動速度や攻撃範囲からして逃れられるとは思えない上、ただ肉壁になろうとしても数秒も稼げない。街に定住する傭兵の中では、もしかしたらこの町にいる家族を守れるかもしれない、と考えた者やジークの提示した金を家族に残すことを目的とした者もいた。
ただ捨て鉢になっているだけの者もいた。
ジークは、それらを区別することなく一人一人の顔と名前を覚えた。話した者にはその理由も覚えた。それが、誠実さだと思った。
メネトリカは、進む道の人間を一人として逃がさず狩り殺すためか、
王国の先遣隊の犠牲により分かったことの一つに、メネトリカの
まず、全方位をカバーするもの。常在的に吐いているのはこれで、大抵の兵士は食らっただけで動くこともできず鼓膜が破れ心臓が破裂か止まるかして死ぬものの、練度の高い戦士や魔法使いであれば、強いショックにより気絶するか行動が強く制限されるかするものの死亡はしない。
そしてもう一つは、前述の
これには弱点があり、溜めが必要であり、打った後も反動なのか僅かに隙ができる。
ジークが接近するにしても、この都市の周囲は平地が広がっているため、真っ直ぐに行っては視認できる範囲から近づくことになり、攻撃が通る前に強い指向性を持つ
圧倒的な遠距離から放たれる不可視の即死攻撃は、ジークの足をもってしても避けきれると確信できるものではない。
つまり、傭兵たちに課す仕事は一つ。
的になり、隙を作るということのみである。
異常な曲線を矢が描き、メネトリカの鱗の隙間を縫って貫く。致命傷には程遠いが、メネトリカが反応した。垂れ流していた
その後、傭兵たちは火砲や矢を飛ばす。それらはどれも命中精度も悪く初撃よりも威力も低いものだったが、そこが発生源だと誤認させればいい。それに派手にやることで、動いている存在を視界から外すことができる。
メネトリカは作戦通り傭兵たちに注目した。
メネトリカは思う。
自分たちの住処を守るためにのこのこ出てきたのだろう。時間稼ぎにすらならないというのに健気なものである。
前回同じようなことをされたときには、最初に手を抜いて後々面倒だった。今回は初撃で終わらせる。
飛ぶことを止め、地面に強く爪を食いこませると、一度息を吸い、圧縮した空気と共に鱗片を飛ばす。
正面が大きく抉られ、人間たちどころかその周辺の地形すら変わる。生存者など一人もいるはずが無かった。
そう考えた一瞬の後、竜の生まれ持つ感覚は、一人の剣士が自身に近づいていることを察知した。
殺し損ねか。人間など羽虫と変わらない。
たまたま零れ落ちただけであろうその人間にも特に感情を動かさず、咆哮を叫びながら超音速の爪を振るおうとした。
戦いは壮絶を極めた。地形は変わり、周辺の森の木々は破壊つくされ、山肌は剝き出しとなった。それをたった一柱の竜と一人の人間が引き起こした。
王都に報告した魔法使い曰く「神話の光景であった」らしい。
勝者は、ほう、と一つ息を吐く。これまでで一番の大仕事だったかもしれない。
無傷のジークは、斃れた竜の上に立ち、振り返った。
傭兵たちがいた場所には、僅かばかりの物言わぬ肉片が転がっているだけであった。
風の吹き抜ける音だけが、荒野に響いている。
ジークはその光景を、絶望と共に眺める。
何の悲壮感も湧かない。悔しくも、申し訳なくすら思わない。
せめて胸を埋め尽くす清々しい達成感は、彼らへの追悼によるものであってほしいと、祈り続けていた。
後日、ジークは
その剣に追随する者は存在せず、あらゆる敵を切り伏せた戦場には喝采も、嘆きも、身じろぎ一つすら起こらない。ただ畏れのみがついてくる、孤高の英雄。
その名は──。
◆
神歴587年。とある村。
長身の男が一人、村の家々から少し離れた林の中の墓地に佇んでいる。
「普通、父と息子っていうのは、子が大人になったら酒を飲み交わすものらしいぜ」
安酒の瓶を開ける。彼の父がいつも飲んだくれていたものだ。
ラッパ飲みで呷るが、喉を刺す焼けるような感触に吐きそうになる。
「こんな酒よく飲めてたな。マズすぎ」
墓石に残った酒をかける。小さな水音が静かな森に響く。それも木々が風でざわめく音にかき消され、すぐに流されていった。
「……俺はあんたが嫌いだ。あの時殺した選択だって後悔したことはない。だから、最後にこれだけ言いに来たんだ」
彼は死後の世界を信じていない。こんな石如きに言葉をかけたって死人に届くとは到底思ってない。ただの自己満足のために言葉を紡ぐ。
「生んでくれてありがとよ」
父の墓を後にし、誰にも気づかれずに故郷の村を去っていく。その男──ジークにとって、誰にも気づかれないように目的を果たすことは容易だった。長身も目立つ髪色も枷にもならない。ならなくなってしまった。
振り返ることは無い。ずっと心のどこかに引っかかっていたことにケリをつけるために、わざわざ招集に応じないという休暇の申請をしてまで訪れたが、もう来ることは無いだろう。
何か感慨が湧くと思った。自分のかつて暮らした村に来たら、父親の痕跡を見たら、自分のせいで傷つけてしまった姉のような存在を見たら。そして、自分の根源は、誰かを助けたいという感情だったということを確認したかった。
少なくとも、自分の父との記憶を改めて反芻したら幾ばくかの怒りくらいは湧くと思った。
何も感じない。あれを父だと認めても腹すら立たないし、悲しくもならない。予想はしていたが、やはり全てまやかしだった。
自分が父を殺したときの自分は、笑っていた。それはきっと、ずっと自分を支配してきた強敵を打ち負かしたことに対する感情だったのだろう。
彼女のような存在になるなど、到底不可能だということを確信した。自分はただ殺しが好きなだけの怪物だったのだ。
ジークは最強になった。成長は止まらず、敵う者はいなくなった。
自分が強く生まれたのは、世界を救うためなのかもしれないし、逆に滅ぼすためなのかもしれない。しかし、そんなことは知ったことではない。思う存分、"最強"を謳歌してやる。
ジークはその時、ずっと葛藤を続けていた胸中に抱える感情を完全に処理し終えた。
囚われることなど無い。喧伝こそしないが隠したい過去ですらない。
故に、これらの過去は全て、彼にとって語る価値の無い無駄話である。
その村で長いこと聖職者として赴任している神父は、最近怠っていた墓掃除をすることを、目覚めて早朝に町の散歩をしている中でふと思い立った。最近は収穫の手伝いやらなにやらで忙しいこともあったが、墓地は教会の管轄である。荒れていては村人に示しがつかない。
教会に戻り朝食の用意をしていると、こちらも長い間勤めている修道女から挨拶をされる。
「神父様、おはようございます」
「ドロシー君、おはようございます。やけに遅かったじゃありませんか」
15年ほど前にあったとある件から塞ぎこんでしまったこともあったが、持ち前の明るさは鳴りを潜めてしまったとはいえ立ち直り、聖職者として立派に務めを果たしている。自分などとは比べ物にならないほどとても強い人だと神父は思う。
だが、今日はどこか様子がおかしかった。
「実は少し奇妙なことがありまして……お時間よろしいですか?」
「おや、なんでしょう」
手を止め、ドロシーの話を聞く体勢に入る。この村では、奇妙なことなんて何年も起きていない。
「手紙が、私の部屋の前にあったんです。宛名は私ですが差出人の名前が無くて……神父様が置いたものではありませんよね?」
「当然違います。妙ですね……鍵はかけていましたし、開けられた形跡もない。それに、不審人物が入ったとするなら荒れていなさすぎる。手紙の内容はどういったものでしたか?」
「それは……」
ドロシーが言いよどむと、神父は引き下がった。
「大変申し訳ない。個人的な内容なら言いたくないこともあるでしょう」
「…いえ、こちらこそ申し訳ないです」
引っかかりを感じたものの、仕事はしなければならない。神父がドロシーを連れて、墓地に訪れる。
「おや、これは……?」
それぞれが分担して手入れを行っていると、空の酒瓶が一つの墓の前に突き刺さっているものを見つけた。
「神父様、どうかしましたか?」
「あっ、ドロシー君……いえ…」
神父は咄嗟にその墓の前から動こうとした。更に彼のことを意識させてしまい、わざわざ彼女のトラウマを掘り返さなくてもいいかという考えが脳をよぎり、言葉を詰まらせてしまう。しかし、それは悪手で、その様子で察してしまったようだ。
「あぁ……そういうことですか。あの人のお墓に何かあったんですか?」
「…すみません」
「……配慮は要らないと、昔から言ってるじゃありませんか」
神父はその言葉を聞きながらもなお後悔した。話を進めることで気まずい空気を打破しようと違和感の正体である酒瓶を手に取った。
「この酒は……行商人が変わってからここ数年は売られていないものですね。かつてこの人が好んでいたものだったとは思いますが……」
視界にちらりと違和感を捉え、墓前を再び見る。燃えるような赤い髪の毛が落ちていた。墓に眠っている人物のそれと酷似したもの。
神父はそれを見たとき、不吉さを感じた。
神父の目を追いそれの存在を認めた瞬間、ドロシーが崩れ落ちる。
神父が慌てて抱きかかえ、急いでこの場から離して教会に戻そうとした時、耳にかかる声があった。
ドロシーが、か細く呟いていた。それは神父に向けられたものでないことはすぐに分かったが、予想していたようなものではなかった。
「ずっと……私も、謝らなきゃって……。あの時庇わなくて、本当にごめん……ごめんね……」
ドロシーが嗚咽する。しかしその表情は、どこか安心したようなものであった。
「あなたが生きていて、本当によかった……」
◆
故郷を出て、ジークが万が一にも村人に見つからないように大きく迂回しながら歩いていると、微かに嗅覚への刺激があった。最初は山火事かと思ったが、自然の火のそれと僅かに違うように感じる。
小さな違和感に頼って、高所に駆け上がり、発生源の方を見る。風下の方角だ。故郷もかなり田舎であるが、更にそれより奥まったところに、存在も知らなかった村であったろうものがあることが把握できた。
木々に邪魔されて見づらい上、豆粒ほどの大きさだが、彼には捉えられた。やっていることもおおよそわかる。炎の防壁で逃げ場を無くし人間狩りを楽しむ魔女──心当たりはあった。焔の魔女。比較的最近発生した魔女だ。まだ自分に討伐命令は出ていないため大して情報を集めてもいないが、血の魔女には遥かに及ばないとはいえその悪辣さとともに名は急速に広まっている。
感知が遅れたためか人の動く気配はもうほとんど無いが──流石に生存者が少ないからと暴れている存在を無視することは立場上できない。最初にして最後の里帰り休みでも、仕事からは逃れられないらしい。
まあどうせその内自分の獲物になるであろう存在だ。そう考え、最大限期待する方に賭ける。
「はぁ……わざわざ自主的に一仕事するんだから、強くあってくれよ……」
与えられた英雄として役目を果たすために駆ける。自分が他者に対して誠実であるためには、もうこれしかない。
せめてそこに、自分の渇きを少しでも慰めてくれる存在がいることを願って。
・猜疑の牙
戦いにおいて武器や道具を用いることを嫌う血の魔女が唯一愛用していた、呪われた銀の短剣。所有者の血をある手順で染み込ませることで、一定時間の間、癖はあるが思考によって自在に動かすことが可能。また、所有者の血を依り代に何度でも再生する。血の魔女は、これをいかなる時でも自分の近くに漂わせていた。
血の魔女は初めに人間を素体に眷属を作るに際し、いくつかの弱点を意図的に作った。その中の"銀に弱い"という性質は、彼女があらゆる存在を信じていなかったことの証左に他ならない。