秋季演習が開始された日以来、訪れようにも訪れることができなかった地に瑞鶴は足を踏み入れていた。古めかしい建物はいつも新参者を拒む圧迫感を醸し出し、生茂る常磐木は静けさを惹き立たせる。
「えっとね。管理している妖精さんがいるんだけど」
「うん」
中では飛龍が先行して歩んでくれた。瑞鶴も臆さず入り口からついて回る。
「あれ、倉庫の方にいると思ったんだけど……」
左手の格子からは広々とした射場が見える。枯山水が施された矢道、その奥に鎮座する的の数々。初めて来たときにはあまり気にする余裕がなかったが、単純な構造ながら風情ある景色だった。
だからこそ瑞鶴は漠然とした緊張感を抱いた。心の鍛錬は些細な所から始まっている。この粛々とした室内に慣れるのもその一環。
「あっ、いたいた」
そんな思いもよそに、飛龍は弓と矢を運んでいた妖精を一人捕まえる。軽く会話を済ませたかと思えば、彼女は最低限の装備一式を持ってきた。矢筒に納められた矢の羽根は深い緑色。色の濃さは良い機体の証だと加賀から聞いていた瑞鶴は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「分かってるとは思うけど、これが借りれる装備よ。ちなみに矢の中身は戦闘機ね。紫電改四」
「えっ?」
聞き間違いなのではないかと瑞鶴は耳を疑った。紫電改四など聞いたことがない。瑞鶴にとっての主力機は零式艦戦五二型だ。
「どうしたの?」
しかし飛龍の反応を見れば、誤っているのは瑞鶴だということは一目瞭然だった。恐る恐る受け取りながら返答する。
「いや、え〜っと。紫電……改四じゃ、私には荷が重いかなぁって」
「そう? でも瑞鶴って発艦センスがいいから、ちょいちょい〜って使えると思うんだよね」
「簡単に言ってくれるじゃない……」
事実として、高性能な機体というのは発艦時の負担が少ない。扱いやすさという点において弓を引く軽さが及ぼす影響は十分瑞鶴も理解している。
問題は別にあった。使い慣れてしまうと簡単に離れられなくなってしまうのだ。瑞鶴の場合、戦闘機隊は“岩本隊”で固定である。後継機体は紫電改四でないと加賀から直接伝えられている以上、手元を狂わせる真似は避けたい。
─どうしよう……。
渋い表情の瑞鶴に飛龍は何かを感じたのか、もう一度妖精の元へ駆け寄ると別の矢筒を持ってきた。今度はやや薄い緑色だ。手に馴染む感触がした。
「一応、烈風もあるんだけど。こっちにする?」
「そうする。ありがとう」
使い慣れていた機体であれば感覚が変わることはない。多少の差異があるにしても修正は効く。瑞鶴は迷わず手に取った。
「飛龍はこの後どうするの」
「ん? 私も道場で時間潰そうかなって」
思いの外、行き当たりばったりな回答で瑞鶴は面食らった。とはいえ実害があるわけでもない。軽く相槌を打つ程度で済ませて二人は射場へ向かう。
木造で床が綺麗に磨かれている空間はすかすかだった。半ば貸し切り状態だ。思う存分没頭できることに瑞鶴の顔に笑みを浮かぶ。
「いつまでやる?」
「ず〜っとはできないから……一、二時間くらいかな」
「おぉ、勤勉だねぇ」
飛龍はそう言葉を口にすると離れていった。ここからは一人の世界だ。瑞鶴は前を向いて遠くの整然と並べられた的と相対する。目を閉じて深呼吸。一射目に全てを注ぐ。戦場において二度はない。加賀の訓辞を心の中で復唱し、弓を引く。きりきりと引き絞り、腕の震えが止まった瞬間。矢が手から解き放たれて矢道を飛んだ。空を切って真っ直ぐと藁でできた的に吸い込まれていく。
「よし……」
的中。まずまずだ。残心を取った上で続いての二射目のためにもう一度同じ動作を繰り返す。やや離れた場所でスパンという快音が響く。飛龍の矢だと直感的に瑞鶴は悟った。
─私ももう一回
意識を矢尻に乗せる。雑念を奥底へしまい、矢を弓につがえる。行ける。全身の揺れが収まる瞬間を待つ。
そんな時だった。ふと背後に人の気配を感じ、思わず動作が止まる。振り返ると白と青の衣服が目に入った。胸の徽章を見る。鶴だ。
「…………」
“鋼鉄の仮面”の名の通り、一切の感情の起伏が見えない彼女はちらりと瑞鶴に視線を向けたかと思えば、すぐに奥の方へと行ってしまった。集中が乱れる。
─呼吸よ、呼吸。
飛龍の方を覗き見てみるが、全く意に介していない。見習わなければ。一度構えを解いて、頭を振る。
「ふぅ」
もう一度弓を握る手に力を込める。視線の先の的の一点を見つめて外さない。緊張の糸が張り詰めた瞬間、右手の指をパッと離す。
─よしっ!!
心の中でガッツポーズをとる。言われた通りにこなしてきた技術はしっかりと身についている。これであれば岩本隊の発艦も問題ない。余裕の生まれた瑞鶴は、ちょうど正面に見える加賀の姿を眺めた。敵についても情報収集は欠かさない。
しかし瑞鶴の火はふっと消された。
─何……あれ。
殺気の一切ない無の境地。先ほどの二射で感覚が鋭くなったから分かる、別格の練度。今さっき入ってきた者の集中力とは言い難い、洗練された構えから放たれる矢は容易く的へ命中する。一連の流れが早い──にも関わらずその一射に魂がかかっている。瑞鶴は呆然とするしかなかった。
─嘘でしょ。
まだ届かない。射るまでの速度が瑞鶴よりも明らかに上回っている。
─いや、でも。
瑞鶴は目を背けなかった。学べることがあるはずだ。同じことをしているはずなのにどこか違うのか。それが理解できればより高い場所へと登ることができる。
─飛龍とは……。
比較対象。客観的に評価するために飛龍へと視線を向ける。彼女もまた集中している。周囲の様子を気にしていない。加賀も同じだった。
─何かが違う、どこ?
飛龍から再び焦点を戻す。加賀は一定のリズムで構えを取り、おおよそ五、六拍置いてから指を離していた。三、四回見たから分かる。飛龍と比べてこの点やや機械的だ。雑とも称すことができるが、そんな風には思えない。
─反復動作……?
体に染み付いていると言えばいいのだろう。加賀の行っている一連の流れは、迷いがなく淡々とこなしている。これは実力や才能があるからではなく、日々研鑽を積む中で自然に身についたものなのだとしたら納得はいった。
─ってことは繰り返し私もすればいいの?
安直すぎる。単純に建造年数が一年にも満たない瑞鶴が、恐らく五年以上、海で戦ってきた相手に経験量で上回ることは不可能だ。瑞鳳の発艦速度を瑞鶴が完璧に再現できないように、加賀のあの動作を真似ても劣化版を生み出すだけである。それでは勝てない。
瑞鶴はもう一度、見慣れた友の方に立ち返った。飛龍は瑞鶴と似た射撃で、一射ごとに不規則な間がある。それだけ集中して一撃にかけているともとれよう。実際、それで何度も的中している。参考にしやすいのはどちらかと言えばこちらだった。
─呼吸がズレてるのよね……。
両者、正確なのは事実だ。好みの問題なのかもしれない。しかし瑞鶴にはどこか引っかかる部分があった。核心が掴めるようで不透明だ。
─とりあえず、やるだけやってみるか……。
止めていた足を動かして、定位置に。瞳の奥に記憶した映像を元に組み直す。己の構えを作り替えて寄せてみる。放った矢はどこか力なく飛び、的にサクッと刺さった。
「う〜ん」
手応えがない。だんだんと沼にはまっていく感覚が瑞鶴を包み込む。どん詰まりと言うほどではないにせよ、足踏みをしているだけなのは確かだ。
「微妙な当たり方だけど、何か考え事?」
悩ましく思う中、飛龍が休憩がてらやってくる。時計の針は三十分進んでいた。
「うん。もっと早く、正確にしたくて」
「あ〜、最初はそう思うよねぇ」
「飛龍は違うの?」
初心を脱した者が陥る罠だというかのような物言いに問いかける。
「ま〜ね。本当は今、教えたくはないけど……特別にヒントだけあげる」
この先相対するかもしれない敵でもある。答えは自分で見つけろという意思表示に瑞鶴はコクリとうなずいた。
「実戦と訓練は違う……。これさえ忘れなきゃ多分、見えると思うよ」
飛龍が振り返って見つめる。加賀と瑞鶴は目があった。いつから聞いていたのか、背筋が凍る感触が一瞬襲うが押さえ込む。
「加賀さんっていっつもこの時間に来るんですか?」
声をやや張り上げて飛龍は問いかける。ため息をついたかと思えば歩きながら彼女は返した。
「そんなの言うわけないでしょう。それと──」
ピシャリと一言、言い捨てる。
「“未改造艦”をむやみやたらに連れてこないで」
そのまま扉を閉めて、廊下へと行ってしまう。瑞鶴はしばらくの間、ぽかんと立っているだけで、何が起こったのかさっぱり理解できなかった。飛龍が呆れたように呟く。
「本当、いけずな
「弱……」
舞鶴の加賀より瑞鶴が劣るのは事実である。その点は潔く認めるべきではあるが、直接面と向かって口にする配慮の無さには、少々怒りを覚えていた。
─
文句を言い返してやりたいところではあるが、くだらないことに時間を割いている場合ではない。試合で見返せばいいとなだめつつ、瑞鶴は飛龍の言葉について考えていた。実戦と訓練の違い。師匠である加賀からも教わった題材だ。
─『命がかからないというだけで艦娘はどこまでも冷静に、冷徹になれる』
初めて話題に触れた時の加賀は自虐的なニュアンスも込めたのか、そう語った。何を経験してその言葉が出たのかは知らないが、記憶の奥底にある、過去の“彼女”の行為が何よりの結果の写し鏡でもある。戦闘機の実弾射撃もその一つだ。
けれども飛龍からはそのような意図は感じられなかった。どちらかと言えば純粋に“勝つため”の話をしている。
─実戦と訓練……か。
実際のところ定義は曖昧だ。瑞鶴の中では実戦とは外洋に出て、深海棲艦を退治すること。しかし海の上に出ることを実戦と呼ぶのであれば、この秋季演習だって当てはまる。
─でも練習航海は違うわよね。
はっきりと線引きをするため、頭の中で条件を付け加える。兵装を使うことは実戦と呼ぶための必要条件だ。問題は海上演習をどう扱うか──。
「悩むねぇ。そんなに真面目に受け取ってもらえるとは」
感心している様子の飛龍にすかさず問いかけた。
「飛龍は考えたことないの?」
「いや、私なりに答えは持ってるよ。あくまで受け売りに過ぎないけど」
己の答えは持っていない。暗に示す回答に瑞鶴は肩を落とした。
「駆逐艦の演習でも見ればいいんじゃない? 違い、分かるかもよ」
「そうしてみる。どうせこのまま弓を持っても射れる気がしないもん」
二人は廊下に出て、妖精に道具を返した上で外に出た。閑散とした通りは試合の始まっている証拠だ。遠くで軽快な音楽が聴こえる。夕暮れの色彩が微かに空へ現れていた。
「飛龍は大湊のみんなと見る?」
「ん? あぁ、別に気にしなくていいよ。一緒に動いてたのは暇だっただけだし」
「そうなの?」
「そう。矢矧と違って│本土《こっち》に顔見知りはいないから」
存外彼女も孤独なのだろうかと邪推が流れる。瑞鶴は首を振って掻き消しつつ、足を突き出した。
言われた通り、いつもの観戦席に戻ると赤城と川内の影がそこにはあった。
「あら、瑞鶴さんと……大湊の飛龍さん?」
「ご無沙汰してま〜す」
赤城の声に反応して川内も振り返る。
「遅い。全く……大遅刻じゃん。時雨の初戦、終わったんだけど」
「ごめんごめん」
苦言を軽くいなしつつ、隣に座る。飛龍もそれに倣った。
「提督さんは?」
「阿武隈の表彰式でいないよ。優勝したでしょ」
「あっ、そっか」
瑞鶴の返答に飛龍が興味津々の目で尋ねた。
「勝ったの!?どうやってあの”鬼神”を倒したのよ!!」
「見てないの?」
「うん。矢矧が負けてから提督が拗ねちゃって」
「うわっ、確かにやりそう〜」
「本当勘弁してほしいわよ。他の艦種って見てて面白いのに」
ため息混じりの愚痴を呟くと、赤城が口を開く。
「川内さんの技術を流用したんです。魚雷の直接投擲。甲標的運用特化と思わせての隠し玉で、討ち取ったという形ですね」
「あ~。矢矧は『地力で負けた』って言ってたけど、その通りだったのね」
「へ〜、分かる物なんだ」
矢矧の態度が珍しかったのか、川内がくいつく。
「自分に厳しいから。「次は負けない』って言ってたし」
「阿武隈に伝えとくかぁ……。「合同演習の時は背中に気を付けろ』ってね」
「味方撃ちするわけじゃあるまいし」
軽い冗談に飛龍は笑う。川内が言うのでは誤解されるのではと瑞鶴は思ったが、口には出さなかった。
「それで──二人は何をやってたわけ?」
唐突に川内は問いかける。瑞鶴に向けられた視線だったので、瑞鶴が答えた。
「道場で鍛錬」
「あ~、あのちょっと古い建物の?」
「よく覚えてるわね」
「そりゃ、二回目ですから」
「二回目でも普通覚えてないでしょ」
冷静な瑞鶴の指摘に川内は「まっ、天才にかかればこんなもんよ」と茶化すと飛龍がまた笑った。
「少しは画面をみたらどうですか」
見かねた様子で赤城が口を開く。瑞鶴は提督の職がかかっていたことを思い出して、姿勢を正して座り直した。
「でも今、誰も演習の試合にいなくない?」
「他の有力候補も見ておくべきです」
画面には第一から第四の全ての海域の試合が独立して流されていた。それぞれが勝手に進んでいくため退屈はしない。
「真面目だな〜」
「まぁ、私たちも目的があってこっちに来たわけだし……赤城さんの言う通り、しっかりと見ないとね」
「目的?」
川内は気になるのか、反応を示す。
「そう。元はと言えば演習で瑞鶴が勝つための鍵を掴むために来たんだから」
飛龍がそう答えると他の二人の目つきが鋭くなった。赤城のまとう雰囲気がより重くなったのが瑞鶴には分かる。飛龍もそこで異変に気づいたのか、首を傾げた。川内が一言、告げる。
「瑞鶴、目標はどこまで行くつもりなの?」
「優勝」
「へ〜……って、え?」
呆気に取られた声で二度見する。
「本気で言ってるの? 瑞鶴、今改だけど」
「うん」
川内は飛龍を見た。流石に瑞鶴が優勝をしようとしているとは考え付かなかったのか、同じく目を見開いている。
「相手は改二艦。性能全然違うよ?」
「北の海であった相手も一緒でしょ?」
「確かに……」
反論に黙り込む。瑞鶴はしっかりと一線で働いた、戦い抜いた存在だ。経験の量では劣っていても、質では決して引けは取らない。同じ部隊で制空権を一任していた身である川内に説得力を持たせる根拠はない。
「というか、瑞鶴の周りが異常だから普通に見えてるだけで去年の合同演習の頃から少しおかしかった気もするけどね」
「そっか、未改造かあの時って」
「そうそう。普通、先手を取られて互角になんか持っていけないから」
飛龍の言葉に瑞鶴は顔を赤らめる。ここまで認めてもらえるとは思っていなかった。舞鶴の加賀で得た心の熱が、自然と抜けていく。
「あの、皆さん。試合」
そんな中、赤城の声が淡々と響く。会話だけ聞いていたのか目は画面に釘付けだった。ただし空気を締めるには十分だ。川内が座り直して前を向く。
「……とにかく、まだ瑞鶴には早すぎる。来年か再来年でしょ」
「そうかな〜……」
川内の言い分は分かっている。だが時間が有限だ。吐き出せないこの悩みは抱え込む以外ない。
瑞鶴は勝つためのヒントを得るために、映像へと目を向けた。
先週はとんでもないミスをしてしまいすいません。どこかで埋め合わせができたらとは思っているんですが、中々機会には恵まれなさそうです。もう少し駆逐艦の話が続きます。お楽しみ。
ちなみに余談ですが練習用の矢と実戦用の矢で空母の矢は分けられています。艦載機になるかならないかということですね。なので今回飛龍達が借りたのは練習用なのでそのまま的に突き刺さるという感じです。