“絶対王者”──雪風に付けられた名は今日に至るまで、誰にも汚されたことはなかった。相手が呉の“神速”だったとしても、はたまた横須賀や南方の“精鋭”だったとしても例外はない。
「すぅ……はぁ」
深呼吸。心を落ち着ける。自然と感覚は研がれていった。刹那、熱い塊が頬をかすめる。鼻に抜ける煙の匂い。接敵の合図。
「今度は壊れないっぽい?」
“北の番犬”、夕立。単冠湾という寂れた島の出自ながら、圧倒的戦闘センスと実力で一時代を築き上げた本物だ。本営の総評は──『駆逐艦としては例外の抑止力が期待できる』──全駆逐艦を差し置いてそう言わしめる実力は、ある意味で神聖化されつつあった。
「やはり正確、ですね……」
確たる証拠として、連続して放たれる砲撃は精密と呼べる領域をとうに越している。雪風の呼吸と足捌き、反撃を想定した完璧な狙いは外すので精一杯、得意の魚雷を狙う隙間がない。特に連装砲を絶え間なく射撃するトリックが厄介だった。
緒戦から防戦一方。状況は少々不利と捉えるのが無難である。反撃は後に持ち越す他ない。
「雪風だって……負けません!!」
今は虚勢を張る。砲撃の練度は敵が一枚も二枚も上手だ。距離を取りたい。雪風は応戦するふりをしながら夕立を振り切るために機関を一杯に上げる。主機が唸って、体がぐんと加速した。
「逃さない」
無論、追ってくる。一瞬離れた隙を使って、雪風は魚雷の弾道計算を行った。数秒もかけない。半ば反射的に叩き出された道を、寸分の狂いなく実行する。
「魚雷、発射です!!」
二本のタイミングを僅かにずらす。様子を見ながら旋回し、次の攻撃に備えて夕立との間に猶予を設ける。
「それだけじゃ、勝てないっぽい」
とっくに見切った魚雷を夕立は軽く避ける。直撃コースから外れて真横を過ぎた瞬間、爆発が起こった。
「っ!?」
調整可能な高感度魚雷。舞鶴の最新技術を詰め込んだ汗と血肉の結晶だ。佐世保の提督が見に来るほどに仕上げられた魚雷は、雪風のために作られた。初見殺しとまではいかなくともある程度の先手は打てる。成果を期待して注視する。
何が起こったのか理解できないのか、小破判定を受けた夕立は一度立ち止まりキョトンとしていた。思いの外、損害が少ない。焦りの感情も見えない。代わりに笑みが溢れた。
「面白い兵装……」
ここからが正念場。雪風は事前のブリーフィングで自身の提督からそう伝えられていた。未だ本気を掴めない彼女は、唯一この秋季演習で未知数なのである。
「『瞳に気を付けろ』……ですね」
小声で復唱。頭に叩き込む。瞬時に赤く目が光り、夕立が動いた。弾道計算。魚雷を使って道の自由度を制限する。来たる攻撃は見えた。主砲を手に取り、魚雷を一発仕込ませる。
「見え見えです!!」
軽い衝撃が体を襲う。夕立は魚雷の感度を警戒してか、大きく回り込んで回避していた。その膨らんだ軌道を狙う。当たる。直進する砲弾は相手を捉えていた。
「ふふっ、いい狙いだったけど」
夕立の姿勢がガクンと下がる。砲撃は外れた。だがこれも予測済み。雪風の手は先を行く。数秒前に放った黒頭の鉄魚が爆破寸前の所まで到達する。当たれ──心の中で願う。
「甘いっぽい」
しかし夕立は俊敏だった。低くした姿勢で安定した重心を利用し、切り返すことで魚雷の感知範囲から逃れる。仕込みを想定していたかの行動だ。
「一筋縄には行きませんか」
夕立はこのまま突っ込んでくる。雪風は反航戦の形で対応した。相対速度の差で振り切る。砲撃主体の相手にはこれが一番効くのだ。
「おっとっと」
反応が早い。夕立は急減速で動きについてきた。雪風は体を捻ってもう一度魚雷を撃つ。今度は距離が近く、それでいて加速するスペースはない。必中だ。
「魚雷、命──」
「それを待ってた……っぽい」
瞬時に夕立が主砲で打ち出された魚雷を撃ち抜く。非常に近い距離で爆破した結果、強い風圧と衝撃が雪風を襲った。
「うぐ、至近弾……?」
小破。海水がバシャりとかかり、脳内にエラー文が流れる。艦娘に備わっている自爆防止機能が雪風を守ってくれたのだ。視界は晴れる。離れた場所で夕立が主砲を構えているのが見える。
「止まってるだけじゃ的当てっぽい」
「こんなところで沈むわけにはいきません!!」
連撃がくる。雪風は無理やり抜け出して、より遠くへ免れた。一発被弾はしたが中破にまでは至っていない。不幸中の幸いだ。
「まだ幸運は残っていますね」
そう呟きながら左胸の鶴と錨が描かれた刺繍を指でなぞる。吉鳥の加護は外れていない。
「よそ見厳禁!!」
何度も砲撃がやってくる。雪風は体の重心の動きを巧妙に隠しながら、左右に揺れることで難なく回避した。見返ると勢いに任せて夕立が突っ込んできている。速すぎて魚雷が間に合わない。咄嗟の判断で雪風は踵を返して前に進んだ。
「同じ手は食らわないっぽい」
急減速からの雷撃。雪風は艤装の限界を超えて、すぐさま背面から切り返して魚雷をかわす。たった少し、視界から夕立が消える。すぐさま姿を捉えなおそうと体をねじった。
「あれ?」
けれどもいない。見当たらないのだ。下と左右のどちらにも。思考が止まる。その瞬間、背後の日の光が暗くなる。背中に鈍い痛みが走った。バシャンと水しぶきの立つ音と声が遅れて聞こえる。
「『艦娘が空を飛ばない道理はない』。これできっちり覚えたっぽい?」
振り返った先で、片膝をついた夕立が話す。今、何が。雪風の頭脳が乱れる。攻撃の手が完全に停止していた。
「言ってる意味が……分かりま、せん」
「はぁ、時雨はすぐに看破したのに」
時雨。雪風に食らいついてきた駆逐艦の名だ。今になって引き合いに出される理由が分からなかった。考えが空回りして永遠に続く。勝手に口が動く。
「それがなんだというんですか」
「何でもな〜い」
掴みどころがなさすぎる。そこで雪風は夕立の戦闘に引っかかる感触があった理由がわかった。技術で当たっていないのではないのだ、と。
「はぁ……」
埒が明かない。息を深く吐いて心を空っぽにする。捉え切るのだ。彼女の一挙一動を、呼吸を。
「制限解除、
脳内でパチっと電気が流れる音がする。雪風の頭はリセットされ、一気にスッキリした。
「やっと本気っぽい?」
「出し惜しみはなしです」
問いかける夕立の瞳が紅の光を帯びる。そしてお決まりの文句が言い放たれる。
「素敵なパーティ、しましょ?」
ガクンと夕立の体が前に倒れる。攻撃の兆し。無数の軌道が現れて瞬時に消える。
「お見通しです!!」
射撃と同時に増える分岐。魚雷を三本流し込む。一通りに定まった。そこへ致命の雷撃。感知範囲は広い。避ける余裕はない──。
「遅い遅い〜」
急減速と急加速。いとも容易く彼女は軌道を曲げて回避する。鋭敏な航行は駆逐艦としての容量をとうに越していた。立ち止まる気配すらないまま、砲撃をお構いなしに放ってくる。
「これでもまだ修正が必要ですか……」
雪風は距離を取り続けながら戦術を更新する。しかし追いつかれるのも時間の問題だ。これでは適応が間に合わない。
「一か八かの賭けに……いや」
運にかけるのはしかるべき時である。焦るには早すぎる。徽章をなぞって落ち着きを取り戻しながら、魚雷を放つ。見える分岐を潰しては更新し、頭の中にある情報を書き換える。数分もの間、雪風はそうして夕立の情報を得た。耐えて耐えて、耐え忍ぶ。猛攻を防ぐことだけを考えて行動すれば、時間は稼げる。
「逃げてばっかでつまんないっぽい」
受身すぎたのか、追撃の手が緩む。雪風は間髪入れず、舵を切って低重心姿勢を展開する。連装砲から火が吹き出た。
「っとと」
夕立は体を軽く翻して逃れる。
「それで終わり〜?」
「大体……わかりました」
分析したら次の行動は。無論、反撃だ。
「解析完了。
「ぶつくさ何言ってるっぽい」
主砲を構えてくる。雪風の体は瞬間的に動いていた。
「もう、負けられないんです!!」
主砲の応酬。まともな撃ち合いが初めて行われる。実力は互角。先手先手で雪風が動く。最初の状況とは大きく異なり、夕立も回避に専念しなければならない場面が増えた。
「付き合う気になった?」
再び夕立の目に色が戻る。足捌きにもキレが出てくる。
「愉悦……ですか。」
対する雪風は夕立への分析結果を噛みしめながら、砲撃を交わしては撃つ。何度も航跡が交差しては離れて、他には現れない。夕立についていくのが精一杯であったはずが、やや追い越していた。
「真逆なんですね」
「ぶつぶつうるさい」
夕立は持ち前の動体視力で雪風の動作の全てを捉え、攻撃を行う。敏捷に見える足は、緩急の産物であり“神速”の島風には遠く及ばない。所詮は贋物──。
雪風は魚雷を九本、ふんだんに使って夕立に対する鉄の絨毯を作り出す。列になって広い感覚で敷き詰められた魚雷群は到底直進しながらでは回避不可能だ。
「薄鈍な魚雷はもう当たらないっぽい!!」
直角に曲がる。感知範囲から抜ける最善手。二つの予測のうちの一つが当たった。
「待ってましたよ!! その瞬間を」
主砲の射撃。目標魚雷。同時に機関一杯へと引き揚げて、夕立に接近する。眼前での爆発が水のカーテンを作り出す。
「うわ……!?」
夕立の声が聞こえる。一か八かの賭けはここだ。雪風は残していた魚雷を一本、発射管から飛ばす。
「当たって下さい!!」
その言葉の後に響く爆発音。命中だ。水の視界がすぐに晴れて、状況は明らかになった。中破の夕立が眼前にいる。迷わず雪風は追撃の判断を下す。連続して砲撃を行う。主砲の連続射撃も複製した。このまま物量で押し切れる。
だが、夕立の態度は一向に変わらなかった。瞬時に回避し距離を取る。敏捷さが明らかに高まっている。
「ふふ、あはは!! やっぱり面白いっぽい!!」
無邪気に笑うその顔に一切の負けに対する恐怖なし。背水の陣だというのに全く感情の揺れを感じないと思った直後、夕立の瞳が強く輝く。
「これでや〜っと、本気でいられる」
燐光は止まない。今までは感情の昂りに連動して光を帯び、即座に消えていたはずの赫耀の眼が揃って見つめる。
「奥の手……ですか」
雪風は言葉を繋げる余裕は残ってなかった。未知の情報を前にして冷静にいられるほど、無謀な艦娘ではない。
「さぁ、第二ラウンドを始めましょ?」
にっこりと笑う顔から漏れ出る嬉々とした殺意が、雪風の体を硬らせる。一瞬、分析に移った。視界に現れるのは理解できないという文字。突如として立ちはだかる得体の知れない敵を前にして、感情のダムは限界の
「っ……」
歯を食いしばる。泣き言をこぼす暇はない。雪風は戦意を奮い立たせて、“狂犬”に立ち向かう。目で追える。敗北が決まったわけではない。
「夕立、初めてっぽい。ここまで楽しいの」
「そう、ですか!!」
延々に蛇行する軌道は雪風の計算を狂わせる。普遍的に当てはまるはずの式が役に立たない。率直に言って意味が分からなかった。何故船としての理に反する行いを繰り返して、無事にいられるのかが。不確定の可能性と期待値を考慮に入れてもなお、裏切られる。幸運であって幸運でない状況は雪風に多大な疲労を蓄積させた。
「舵角修正、魚雷装填」
けれども必殺の魚雷は未だ健在だ。勝つために得意な土俵に引き摺り出すしかない。それを見込んでか、夕立が深く切り込んでくる。雪風は後方には下がらず、そのまま魚雷を発射した。
「巻き添えです!!」
装備は絶対に味方する。食らえばひとたまりもないのは夕立だ。
「百も承知っぽい!!」
もう一度、
「っ!?」
雪風の視界は遮られた。やや遠くでパシャンという着地音が聞こえる。音を頼りに再び魚雷を放つ。しかし発射して間も無く、発砲音と共に水柱が上がった。
「撃ち抜きましたか」
その場から即座に退避する。もう一撃が過去の残影に突き刺さる。水飛沫を迂回して二人は睨み合う。次弾装填の隙が両者ともに生まれた。
「よくもまぁ、こんな無茶できますね」
「
「司令官は正気とは思えません」
「『褒め言葉をどうも』っぽい」
戦闘は再開する。夕立が切り込み、雪風がいなしながら反撃の機会を伺う。同じ対話の繰り返しに思えても、徐々に徐々に形勢は夕立へと傾いていった。
「はぁ……はぁ……」
息が切れる。体力と気力が削られる。雪風の全開は限界が近づいていた。膨大な情報処理を行う脳に負荷がかかるのだ。対する夕立はピンピン。残りの魚雷数も両手に収まるか否か程度なのにも関わらず、決め手が出ない。
「もう終わり〜?」
彼女はこの後に及んで戦闘を楽しんでいる。しぶとすぎてうんざりする。雪風は最終手段を取る事にした。手癖で魚雷を一本流す。軽々しく夕立は避ける。
「魚雷の無駄遣い──」
隙だらけだ。雪風は静かに口を開いた。
「強制起爆」
夕立の左手後方で高らかな爆発音が起こる。風圧で髪が巻き上がる。
「っ?」
振り向いた。
「魚雷、全弾発射です!!」
雪風は急発進をして魚雷を鶴翼状にばら撒く。余すことなく流れる魚雷は、一つも夕立へと頭を向けていなかった。魚雷接近の音に反応して、夕立が動き出す。迷わず直進を選んでいた。
「外殻、起爆」
十本目と九本目──右端と左端の魚雷が爆破する。夕立は中央に寄る。想定通り。
「連鎖起爆、開始!!」
一定時間で外側から発破をかける。八本目と七本目で進路を狭め、やや早めに六本目と五本目を起爆し夕立の足を急かす。四本目と三本目を遅れて爆破し内側に釘付けにする。これで中央以外に突破口はない。いくら被弾しないと言えど、爆風を少しずつ受ければ大破の判定を勝手に取られる。
「一本勝負です」
避けられたら終わり。保険はない。雪風はその場で信管を調整し、磁気の感知範囲を最大限に広げる。
「当たってください!!」
渾身の一撃。夕立は直線上にいる。賭けは成立した。連鎖する水柱が一本の道を示す。加速して彼女は突っ込んだ。
「飛び越えれば……!!」
夕立の足の浮力が一瞬消えて、海へと吸い込まれる。しかし沈む速度が緩やかだった。
「っ!!」
動作不良。度重なる荒い操作に艤装が限界を迎えたのだ。
「幸運の女神は雪風にキスをしてくれたようですね」
震える腕を押さえ込んで、準備していた連装砲を構える。勝利の咆哮。主砲が夕立を襲う。
絶体絶命──まさしくそんな時だった。夕立の眼が猛禽類が如くの鋭い瞳孔へ切り替わる。魚雷を握る手に炎が舞った。
「自傷行為、部分容認」
その言葉の後に爆炎が起こる。
「なっ」
雪風は絶句した。自身の手を下すことで敗北すらも認めないのか。姑息とまではいかないが、イレギュラーな手に呆然と見つめる。
だが、その思考停止が命取りだった。雪風は完全に失念していたのだ、終了のブザーを。試合が終われば当然鳴らされるはずの音がないのに、気づけなかった。
「ここまで追い詰めたのは褒めてあげる。だけど──」
飛沫と声と、煤の匂い。沈黙を打ち破る存在に雪風が足元を見ると、夕立が主砲を構えている。爆発の影響なのか、髪の毛の一部が焦げて黒ずんでいた。
「誰にも勝利は渡さない」
瞬時に雪風は行動の意味を理解した。彼女の本質。戦闘に対する愉悦は仮初に過ぎないのだと。奥底で研ぎ続けられた信念が、初めて顕になっていた。その力強い目にほんの一瞬、吸い込まれる。遅れて自身の立たされた状況に戸惑う感情がやってきた。
「っ……!?」
間に合わない。躊躇いなく放たれる二撃は正確に重要区画を照準している。
第一演習海域の海にブザーの音が鳴り響いた。
来週も試合が続きます。