ブルーアーカイブ Day After Day   作:燃え殻の灰

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実は私、ベアトリーチェの見た目はめっちゃ好きなんです


幕間3 毒婦 挿絵あり

 

 

 アビドス自治区、フライトナーズ本社ビル

 

 復興の進む市街地の一角に建つフライトナーズ本社ビル。その最上階では、今日も長官が大量の書類を相手に悪戦苦闘していた。

 運び込まれる様々な書類を次々とさばいているが、やはり数が多い。

 

「……次の書類はこれか?」

 

「はい。こちらは第三商業区の建設会社から、アビドス市街地再開発事業への参入申請です」

 

「事業計画書と過去五年間の実績は?」

 

「添付されています」

 

「ふむ、資金源は?」

 

「確認済みです。不審な流れはありません」

 

「なら担当部署へ回せ。忘れずにアビドス対策委員会にも同じ資料を送っておけ。最終的な土地利用の許可は向こうにも確認が必要だ」

 

「了解しました」

 

 長官の指示を受けた職員が書類を抱え、足早に長官室から出ていく。

 

「……ふぅ」

 

 扉が閉まると、長官は僅かに肩を落としたがまだまだ休む暇などない。執務机の上には、まだ処理されていない書類が山のように積み上がっている。

 以前であればカイザーPMC関係の報告書や治安維持活動の申請が大半を占めていたのだが、最近は明らかに様子が変わっていた。

 様々な企業からの面会依頼に共同事業の提案。技術協力の申し出に投資計画等々、多岐に渡る申し込みや申請が届くようになった。

 

 そして──。

 

「長官、こちらもお願いします」

 

「む、今度は何だ?」

 

 職員から差し出された新たな書類を受け取り、内容へ目を通し、数秒後に長官は深いため息をこぼす。

 

「はぁ……またか」

 

「はい。そのようですね……」

 

「またなのか?」

 

「はい……何度見直しても同じ内容です」

 

 何度見直しても内容は変わることもなく、やれやれと言った様子で長官は書類を机へ置く。

 書類の表題には、

 

『連邦捜査機関S.C.H.A.L.E特別顧問との面会に関する仲介依頼』

 

 と記されていた。

 

「私は先生の仲介役ではないぞ!! 直接申請しろ、直接に!!」

 

 長官室に怒声が響くが、職員は慣れた様子で耳を塞ぐことすらしなかった。

 

「本日だけで何件目だ!?」

 

「こちらで23件目です。昨日は36件になりますね」

 

「ええい、そもそも何故私の所に申し込んでくるのだ……」

 

「長官が先生と親しいことが、財界でも知られ始めたからではないでしょうか」

 

「そこは分かっている! だが、S.C.H.A.L.Eにも窓口は……あるが……ええい、多忙極まりない先生はそこらは後回しにするか……」

 

「恐らくは。各学園だけでなく、市民達の窓口としても機能してますので、企業とのアポイントは後回しになるかと」

 

 長官は頭を抱えた。

 

 アビドスを巡る一連の騒動が落ち着いて以降、フライトナーズの評価は急速に高まっている。カイザーPMCとは異なり、正式な手続きを守り、市民への威圧的な行動も行わない。

 災害救助から地域警備、各学園との合同訓練まで幅広く活動し、アビドス復興事業にも深く関わっているとなると当然、他の企業からの問い合わせも増えた。

 それ自体は歓迎すべきことだ。しかし問題は、その企業の多くが別の人物にも興味を抱き始めたことである。

 S.C.H.A.L.Eの先生。キヴォトス外部から現れた正体不明の人物。

 連邦生徒会から権限を与えられ、各学園の自治区へ自由に出入りし、トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム、アビドスを始めとする数多くの学園と独自の人脈を築いている。

 それだけならばまだいい。

 企業や財界が最も注目しているのは、先生の持つ桁外れの資金力だった。

 アビドスの復興に直轄部隊ネストの運営と大規模な装備調達。各地への支援活動。そしてアビドス砂漠に建設された巨大基地。

 どれ一つ取っても、通常の個人資産で維持できる規模ではない。しかも、その資金の出所がほとんど分からない。

 当然、金の匂いに敏感な企業家たちが放っておくはずがなかった。

 

「こちらは先生の個人資産運用を請け負いたいという投資会社です」

 

「却下だ却下」

 

「まだ1ページ目ですが……?」

 

「年間利回り27%を保証すると書いてある時点で却下だ! そんなうまい話があるか! そもそも先生の個人資産の桁を考えろ、天文学的金額(カンストしてる)だぞ。あれ以上増やせるか」

 

「こちらは?」

 

「……先生所有の技術を共同研究したい?」

 

「どうやらネストの技術研究に興味を持った企業からの申請ですね」

 

「具体的には?」

 

「ネストの基地の装備や大型兵器の技術開示を──」

 

「却下!!」

 

 長官は書類を机へ叩きつけた。

 

「一体どこから基地の話を聞きつけてくるんだ!」

 

「グレートウォールについては随分と噂になっていますので」

 

「存在が知られていることと、内部技術を寄こせと言うことは別問題だろう!」

 

 そもそもグレートウォールの維持も先生の莫大な資金力で成り立っているので、他の企業が真似ようとしても無理である。

 

「次の書類は?」

 

「先生との食事会を希望する金融会社です」

 

「……一応聞くが目的はなんと?」

 

「今後の友好的な関係構築と書いてはありますが……」

 

「本音はなんだと思う?」

 

「先生から各学園への取引を仲介してほしい。恐らくはそんなところかと思います……」

 

「まあ、そうだろうな」

 

 長官は椅子へ深く腰掛け、天井を仰いだ。

 

「まったく……どいつもこいつも……先生との繋がりを求めているか」

 

 先生と繋がる。それだけで、財界にとっては巨大な意味を持つ。

 先生本人の資産だけではなく、先生を経由すれば、普段なら接触が難しい各学園の上層部へ話を通せる可能性がある。

 ゲヘナにトリニティ、ミレニアムの三大学園を始めとした多数の学園、そして連邦生徒会である。それだけの組織と強固な関係を持つ人物など、キヴォトス中を探してもほとんど存在しない。

 企業家からすれば、──先生とのパイプを持つ。それだけで、一つの巨大な資産なのである。

 

「だからと言って、私を経由するな……」

 

 長官は眉間を押さえた。その時だった。

 

「失礼します」

 

「今度はなんだ?」

 

 入ってきた職員が気まずそうに言葉を続ける。

 

「あ、いえ……贈答品が届きましたので」

 

「贈答品?」

 

「はい」

 

 職員の後ろから、大きな木箱が台車で運び込まれる。長官が嫌な予感を覚えながら蓋を開く。中には高級酒に高級時計。希少な茶葉。

 そして、一通の手紙が入っている。嫌な予感がしながらも長官は無言で手紙を開いた。

 

『日頃よりフライトナーズ様の活動には──』

 

 前置きは見え透いたお世辞なので、さっさと読み飛ばす。

 

『つきましては、S.C.H.A.L.Eの先生との面会の機会を──』

 

「送り返せぇぇぇ!! 全部だ! 一つ残らず送り返せ!!」

 

 長官の怒声が響いた。

 

「よ、よろしいのですか? かなり高価な物もありますが……」

 

「だからこそだ!! こんな物を受け取ったら後で何を要求されるか分かったものではない!」

 

「分かりました!」

 

「それから送り主へ伝えろ! 先生と面会したいなら正式な手続きを踏め! 私に賄賂紛いの物を送ってくるなとな!」

 

「了解しました!」

 

 職員が大慌てで木箱を運び出して扉が閉じると、長官は机へ突っ伏した。

 

「……まったく、どういう教育を受ければ、こんな発想になるんだ……」

 

 その時、執務机の通信端末が鳴った。

 

「今度はなんだ……」

 

 疲れ切った顔で画面へ視線を向ける。しかし、表示された名前を見るなり、長官は僅かに姿勢を正した。

 

「……噂をすれば、か」

 

 通信を繋ぐ。

 

『やあ、長官』

 

「先生か」

 

 画面に映し出されたのは、S.C.H.A.L.Eの先生だった。いつものS.C.H.A.L.Eのコートに穏やかな表情。

 しかし、その顔を見るなり、長官は大きくため息を吐いた。

 

『……どうやら随分と疲れているみたいだね』

 

「誰のせいだと思っている」

 

『……話の流れからして私?』

 

「貴方以外に誰がいる!」

 

 先生が少し首を傾げているので、長官は机の横へ積み上げられた面会依頼を指差した。

 

「見えるか?」

 

『これはまた……書類の山だね』

 

「全部、貴方絡みだ」

 

『私?』

 

 長官は数枚の書類を手に取り説明を始める。

 

「投資会社は貴方の資産を運用したい。軍需企業はネストの兵器技術が欲しい。建設会社はアビドス復興事業へ参入したい。金融会社は各学園との取引を仲介してほしい」

 

『なるほど』

 

「さらに私へ贈答品を送り付け、貴方との面会を斡旋させようとする馬鹿まで出てきた!」

 

『それは迷惑を掛けたね。何か差し入れしようか』

 

「分かっているならどうにかしてくれ!」

 

 先生は少し困ったように笑う。

 

『とは言っても、全員と面会するわけにもいかない。私もそれなりに忙しい身ではあるし、1つの企業と面会したら他の企業とも面会しないといけなくなる』

 

「当然だ。うちは兎も角、他の企業1つに肩入れしたら要らん噂を流されるだろうな」

 

 長官の表情から僅かに苛立ちが消える。

 

「だが、問題はそれだけではない」

 

『何かあった?』

 

「最近、妙に先生について探りを入れてくる企業が増えている」

 

 先生の表情が僅かに変わった。

 

「単純に取引したい連中も多い。しかし、中には資金の出所が妙な企業もある」

 

『資金の出所が妙な企業か。どんなところがある?』

 

「設立から一年も経っていないのに、巨大な資本を動かしている投資会社。実態の確認できない持株会社。ブラックマーケット経由で資金を動かしている企業……。最後の方は薔薇……代表が色々と調べている」

 

 長官は一枚の資料を画面へ送信する。そこには怪しいと思わしき企業のデータが映し出されている。

 

「先日の【財団】の件もある。無関係とは言い切れんので調査は進めている」

 

 先生は送られてきた資料へ目を通す。

 

『確かに、少し気になるね』

 

「だろう?」

 

 長官は椅子へ座り直した。

 

「そこでだ、一つ提案がある」

 

 一通の封筒を取り出す。よく見ると上質な紙で作られ、金色の縁取りが施された豪華な招待状だった。

 

「数日後、キヴォトス財界の交流パーティーが開かれる」

 

『財界の?』

 

「各地の企業経営者、金融関係者、投資家、それに一部の政治関係者も参加する大規模な会合だ。フライトナーズにも正式な招待が届いている」

 

 長官は招待状を開いて見せる。

 

「名目上は、アビドス復興と今後の経済交流を祝う晩餐会らしい」

 

『名目上は……か』

 

「うむ、実際には人脈作りと商談だ。財界の連中が集まって、誰と誰が組めば儲かるか探り合う場所になる」

 

『なるほど』

 

「そして──」

 

 長官がもう一枚の紙を画面へ映すと、先生の目が僅かに細められた。

 

『……私の名前があるね』

 

「そうだ」

 

 招待状には──連邦捜査機関S.C.H.A.L.E特別顧問殿にも、是非ともご臨席賜りたい。と記載されている。

 

「先方は、どうしても先生を招待したいらしい。先生の事だ、直接送られても気が付かないか、欠席の返答をしただろう?」

 

『その通りだ、長官に言われてようやくと言った所かな。しかし、向こうはずいぶん熱烈だね』

 

「当然だろうな。今の財界で最も直接会ってみたい人物の一人が貴方だ」

 

『そんなに?』

 

「自覚を持て! 連邦生徒会に顔が利き、各学園の重要人物と個人的な付き合いを持ち、莫大な資産を所有して、アビドスでは大規模な復興事業まで行っている!」

 

 長官は再び怒鳴りながら、指を一本ずつ立て説明していくが、先生は相変わらず涼しい表情のままだ。

 

「そのうえ、何処から持ってきたのか分からん技術で巨大兵器まで作っている! それで興味を持つなと言う方が無理というものだ!」

 

 先生は僅かに笑った後、再び招待者一覧へ目を落とした。

 そこにはキヴォトスの多数の企業名。銀行や軍需会社。

 市民達に密接に関係する物流業者。アビドス復興に商機を見出した建設会社に投資会社。そして慈善事業団体。その中には、先生にも覚えのない名前がいくつも並んでいる。

 

『……長官』

 

「なんだ」

 

『私も参加しよう』

 

 一瞬、長官が黙った。

 

「……本気か? 正直、貴方はこういう場を嫌がると思っていたが」

 

 

『ああ、嫌いではないよ。ただ、少し疲れるだけだ』

 

「同じようなものだろう」

 

 先生は小さく笑いながら、招待者一覧を眺める。

 

『でも、向こうが私を知りたがっているのなら、こちらから向こうを知る良い機会でもある』

 

「……なるほど」

 

 長官も、その意図を理解した。

 

『財団がキヴォトスのアンダーグラウンドへ入り込んでいるなら、地下社会だけを調べれば良いとは限らない』

 

「表側にも協力者がいる可能性がある、と?」

 

『あるいは、財団自身は興味がなくても、利用されている企業が存在するかもしれない。財団はそういう搦め手も使ってくる存在だ』

 

「確かにな」

 

『それに──』

 

 先生は一覧の一角で指を止める。

 

『これだけ多くの企業が一度に集まる機会は珍しい』

 

「情報収集にはうってつけ、か」

 

『そういうこと』

 

 長官は腕を組み、少し考える。

 

「ならば私も予定通り出席しよう。元々フライトナーズ代表として招待されている」

 

『頼りにしているよ』

 

「言っておくが、私は貴方へ群がる企業の相手を全部する気はないぞ」

 

『はは、その時は一緒に逃げようか』

 

「何故私まで逃げる前提なんだ!」

 

『冗談だよ。適当に流す術も心得ているさ』

 

 先生が楽しそうに笑う。長官は深いため息を吐いたが、その雰囲気は僅かに緩んでいた。

 

「……まあいい」

 

 改めて長官は招待状へ目を落とす。顔を見せるだけでも十分だろうし、先生の事だ。それなりに上手く熟してくれるだろうという信頼もある。

 

「財界の連中に、一度貴方自身を見せておくのも悪くないかもしれん」

 

『見せ物にされたくないが、仕方がないか』

 

「我慢しろ。今の貴方は、それだけ注目を集める存在になっているということだ」

 

『困ったものだ』

 

「誰のせいだと思っている!」

 

『私かな?』

 

「その反応はやめろ!!」

 

 長官室に怒声が響き、通信画面の向こうで先生は声を上げて笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 

 煌びやかな高級ホテル、その最上階に設けられた大ホール。天井には巨大なシャンデリアが幾つも吊るされ、暖かな光が磨き上げられた床へ反射している。

 壁際には色鮮やかな料理や酒が並び、会場の一角では楽団が静かな音楽を奏でている。

 そんな大ホールで談笑するのは、普段なら滅多に一堂に会することのない者たち。キヴォトス各地に巨大な影響力を持つ企業の代表や役員たちが、グラスを片手に笑顔で言葉を交わしている。

 もっとも、その笑顔の裏側で交わされているものが友情だけではないことくらい、この場にいる誰もが理解していた。

 情報や契約。利益と人脈。誰と繋がれば、自らの会社がより大きな利益を得られるか。そうした思惑が、華やかな会場の至るところで交錯している。

 

「……なるほど」

 

 そんな会場を歩きながら、先生は周囲を興味深そうに眺めていた。普段のS.C.H.A.L.Eのコート姿とは違い、今日はパーティー用に仕立てられた黒のフォーマルスーツ姿である。

 その隣には、同じく普段より上等なスーツに身を包んだフライトナーズ長官。

 ふと、先生が会場の一角へ視線を向ける。

 

「あそこにいる人物は?」

 

「どれだ?」

 

「あの、大柄なオートマタの人。何人かに囲まれているが……随分と羽振りがよさそうだ」

 

「ああ」

 

 長官は視線だけで人物を確認し、即座に答える。

 

「貨物輸送を行っている企業の代表だ。鉄道と陸上輸送を主力にしている」

 

「へぇ」

 

「最近は大型列車による大量輸送事業にも手を出そうとしていたな」

 

「大型列車?」

 

「貴方のところのグレートウォールに影響されたらしい」

 

「……あれを?」

 

 先生が僅かに眉を上げる。

 

「正確には、グレートウォールほどの武装は必要ないが、同規模の大型貨物列車を建造したかったそうだ」

 

「それで?」

 

「頓挫した」

 

 長官は肩を竦めながらあっさりと言った。

 

「車体を巨大化すれば、それだけ重量も増える。駆動系、軌道への負荷、制動装置、動力源。何もかも既存技術の延長で済ませようとして無理が出た」

 

「なるほど。あの代表は見た目通り羽振りが良く豪快。しかし中身は自身の輸送という領域に固執してる……と言った所かな」

 

「その通りだろうな。表向きは羽振りが良いが内情は火の車らしい。起死回生に技術を盗もうとしてるのだろう」

 

「グレートウォールは内部構造からして特殊だからね」

 

「だから余計なことを言うな。聞き耳を立てている連中がそこら中にいる」

 

 一見すると、誰もこちらなど気にしていない。しかしよく観察すれば、談笑しながら時折こちらへ視線を向ける者が何人もいる。

 油断も隙も無いなと苦笑しながら、先生は肩を竦めた。

 

「じゃあ、あちらの猫人は?」

 

「南部を中心に物流倉庫を運営している会社の会長だ。企業規模はそこまで大きくないが堅実だ。災害時には自社倉庫を避難所として開放した実績もある」

 

「良い会社なんだね」

 

「少なくとも、私の知る限りではな」

 

「あの犬人は?」

 

「医療機器メーカー。ミレニアムとの共同研究を狙っている。技術力は悪くないが、最近少し資金繰りが怪しい」

 

「その隣にいるスーツのオートマタの人は?」

 

「本人よりそちらを見るとは、なかなか目が良いな。あれが財務担当だ。実際に会社の財布を握っているのはあの人物だ」

 

「なるほど。どうりで会長より、あの人の方に向かう人が多いわけだ」

 

「あぁ。会長は見え透いたお世辞にご満悦の様だな。あれでは先が思いやられる」

 

 長官は鼻を鳴らした。融資は見送るべきか……と小声でつぶやいてる辺り。中々厳しい財政状況の様だ。

 様々な企業の情報を聞きながら、やはり企業とは何処の世界でも、己の利益の為になんでもする存在のようだ。と先生も苦笑いを浮かべている。

 それが悪いとは思わないが……度を越した事をやらかすようなら、止めなければなとも思っている。

 そんなやり取りをしていると、一人の犬人が二人へ近づいてきた。

 

「これはこれは、フライトナーズ長官。それに──S.C.H.A.L.Eの先生ですね。お会いできて光栄です」

 

 犬人の視線が先生へ向く。先生は差し出された手を自然に握ると、にこやかに会釈を返す。

 外面は完璧だな。と内心思いながら長官はやりとりを見守っている。

 

「こちらこそ」

 

「アビドス復興における先生のご活躍は、我々の間でも大変な話題になっております」

 

「私は手伝っているだけですよ。実際に復興を進めているのは、アビドスの生徒たちや現地の皆さんです」

 

「ははは、またまたご謙遜を」

 

 犬人は穏やかな笑みを浮かべているが、探るような視線は隠しきれていない。勿論、犬人とて百戦錬磨の企業人だろうが、ここにいるのはS.C.H.A.L.Eの先生だ。その程度の視線にはすぐに気が付く。

 

「それでも、先生の資金面での支援が非常に大きかったと聞いております」

 

「必要なところへ必要な支援をしただけです。私だけの力ではありませんよ」

 

「いやいや、それが簡単にできるものではありません」

 

 犬人の笑みが、僅かに深くなる。

 

「実は弊社も資産運用事業を手掛けておりまして。もし先生がお持ちの資産の一部でもお任せいただければ、より効率的な運用を──」

 

「ありがとうございます」

 

 先生は穏やかな笑顔のまま答えた。

 

「ですが、今のところ資産管理で困ってはいないので」

 

「そうですか。しかし将来的には──」

 

「その時は、こちらから相談させていただきますよ」

 

「……ええ。是非とも」

 

 犬人は笑顔を崩さずに名刺を渡し、軽く頭を下げて去っていく。そして少し離れた場所まで行くと、別の役員らしき人物と何かを話し始めた。

 

「悪い人ではなさそうだけど。流石に露骨すぎる視線だったね」

 

「充分隠している視線だ。あれに気が付けるのは早々居ないだろうさ。恐らく先生にも気が付かれていないと思っているぞ」

 

「それはまた。見縊られたものだね」

 

「先生は外見上は穏やかだからな。多分だが、更に押せば契約できると思われているぞ」

 

 渡された名刺を見ながら曖昧に笑う先生を見て、長官は小さくため息を吐いた。

 外見上は穏やかだし、雰囲気も柔和な先生は他の企業人から見たらカモに見えるのだろう。しかし内面を知ってる長官からしたら、そんな事はない。

 舐めてかかったら、焼き尽くされる。先生とはそんな人物なのだ。

 そんな事を考えていると、次の客が既に近づいてきていた。

 

「先生、初めまして」

 

 今度は軍需関係企業の役員であり、ちらりと長官の方に視線を向ける。カイザーグループとは市場を争っている企業だな。と思いながら長官は何も言わずに会釈だけする。今回は先生が目的だろうし、ここで余計なやり取りをすることもない。向こうも同じ判断の様で、特に何も言わずに、にこやかに会釈する程度だ。

 

「弊社では現在、次世代型の無人戦闘車両を開発しておりまして」

 

「それは興味深いですね」

 

「ありがとうございます。そこでなのですが、ネストが運用している装備について、是非とも技術交流を──」

 

「軍事技術については、基本的に外部へ公開していません」

 

 先生は笑顔のまま即答した。キヴォトス由来以上の技術の知識を持つ先生と、それを運用できるネストは軍需企業から見て宝の山なのだろう。

 

「もちろん全てとは申しません。一部の基礎技術だけでも──」

 

「安全保障に関わる部分なので、申し訳ありません」

 

「……そうですか」

 

「ただし、災害救助や民生利用できる技術であれば、将来的に共同研究を検討する余地はあると思います」

 

「なるほど! それでしたら是非とも!」

 

「正式な企画書をS.C.H.A.L.Eへ提出してください。担当者と確認します」

 

「承知しました。上の方にも話を通しておきますので、よろしくお願いいたします」

 

 嬉しそうに頭を下げ、役員が去っていく。続いて、今度は小柄な猫人がやってきた。

 

「先生。トリニティ総合学園への商品納入について、ご相談したいことがありまして」

 

「おや、私にですか?」

 

「ええ。先生から一言ご紹介いただければ、話も早いかと思いまして」

 

「それでしたら、トリニティ側の正式な窓口へ申請してください」

 

「あら。しかし先生なら、ティーパーティーともお知り合いでしょう?」

 

「知り合いではありますよ。だからこそ、私個人の都合で取引へ介入するわけにはいきません。公平ではなくなってしまいますから」

 

 個人的な交流を商売に使う気はないと、言外に語るように先生は柔らかく笑う。

 

「……なるほど」

 

「良い商品なら、正式な手順でもきっと評価してもらえますよ」

 

「……そうですね。失礼いたしました」

 

 猫人は少し残念そうではあったものの、笑顔を保ったまま去っていった。

 それからも、様々な企業の代表や役員が先生のもとへ挨拶に訪れてきた。先生は全員と握手を交わし、相手の話を最後まで聞く。決して横柄な態度を取らずに、話の途中で遮ることもしない。

 笑顔を絶やさず、時には冗談も交えながら会話を続ける。

 

 だが──。

 

「ネストの技術を──」

 

「軍事技術は公開できません」

 

「先生の資産を──」

 

「現状で問題ありません」

 

「ゲヘナとの取引を仲介して──」

 

「正式な窓口へお願いします」

 

「アビドスの土地利用について──」

 

「アビドス対策委員会へ確認してください」

 

 あくまで穏やかに返答しながら、決して一線を越えさせないし、譲る気もない。

 それでも企業側は、先生の柔らかな態度を別の意味で受け取っているらしい。去り際に交わされる視線に小声の会話が漏れ聞こえてくる。

 その多くが、

 ──思ったより話しやすい。

 ──強く押せば可能性がある。

 ──噂ほど恐ろしい人物ではない。

 そう考えていることくらい、長官には容易に察することができた。

 

(どいつもこいつも……誤解しているな)

 

 長官は内心でため息を吐き、傍らに立つ先生を見る。

 確かに穏やかで人の話を聞く。身分や肩書きで相手を判断しないし高圧的な態度を取る事もない。……いや、敵対者には取るがそれは別にいいだろう。

 それだけを見れば、取り入りやすい人物に見えるのかもしれない。しかし、長官は心の中で呆れていた。

 

(この先生に取り入れられるわけがないだろう)

 

 先生は相手の意見を尊重するし、必要なら譲歩もする。しかし、それは意思が弱いからではなく、むしろ逆である。

 一度「ここから先は譲らない」と決めた境界線について、先生は驚くほど頑固になる。特に──生徒が関わった時は

 金で動くことはない、何故なら、有り余っているから。地位で動くこともない、先生にとって地位など意味がないから。権力では連邦生徒会や各学園と強い繋がりを持つ先生に通用しない。

 もし脅しや武力に出た時点で、悉く焼き尽くされる。その全てをカイザーPMCが身を持って証明している

 

「先生」

 

 一人の企業役員が新たに近づいてくる。

 

「先生は各学園の生徒たちから、大変な信頼を得ていらっしゃるとか」

 

「えぇ、実にありがたいことです」

 

「いや、素晴らしい。若者というのは流行にも敏感ですからな」

 

 役員はグラスを片手に笑う。

 

「先生から弊社の商品を少し推薦していただければ、学生市場への浸透も一気に──」

 

 先生の笑顔は変わらなかった。

 

「それは、生徒たち自身が決めることですよ」

 

「……はい?」

 

「何を買うか。何を好きになるか。何を必要だと思うか」

 

 声は穏やかだが、何故か役員の背筋に悪寒が走る。

 

「それを決めるのは、私ではなく生徒たちです」

 

「あ、ああ……もちろんですとも」

 

「良い商品なら、私が何も言わなくてもきっと選んでもらえますよ」

 

「……ええ。その通りですな」

 

 役員の変わらずに笑みを浮かべているが、先程までより僅かにぎこちない。どうやら先生から何かを感じ取ったようだ。

 

「では、失礼いたします」

 

「はい。良い夜を」

 

 役員がは足早に立ち去るが、先生は何事もなかったようにテーブルのグラスへ手を伸ばした。

 長官は横目で立ち去った役員を眺めながらため息をこぼす。あそこの企業との付き合いは見直しだな、と心の中で呟いている。

 

(今の程度すら読めんのなら、商売人としては二流だ)

 

 先生の穏やかな言葉に柔らかな笑顔。だが、その奥にある線を踏み越えた瞬間、空気が変わる。

 先生は生徒を自分の所有物とは考えていない。ましてや、人脈を使って生徒を市場へ誘導するなど論外なのだろう。

 さて、目ぼしい所には挨拶したか……と、長官が会場を見渡すと、視線が止まった。

 

「……先生」

 

「ん?」

 

 先程まで呆れていた長官の声が、明らかに低くなる。それは面倒であり、出来たら関わりたくないと言った声色だ。

 

「面倒なのがいる」

 

「面倒?」

 

「あそこを見ろ」

 

 長官の視線を追うと、先生は僅かに目を細める

 会場の一角で複数の企業関係者に囲まれながら、穏やかに会話を交わしている黒いスーツの人物。不自然なほど整った立ち振る舞いでワイングラスを持ちながら、相手の話へ丁寧に頷いている。

 

「ああ、黒服か」

 

「まったく……何故あいつまでいるんだ」

 

「財界との独自の繋がりがあるんだろう。色々と裏でやっているようだしね」

 黒服も二人の視線に気付いたらしく、会話を続けたまま一瞬だけこちらへ目を向ける。そして、口元へ薄い笑みを浮かべながら、手にしたワイングラスを僅かに掲げた。

 

「……あいつ、絶対に楽しんでいるだろう」

 

 長官の声に苛立ちが混じっているのを聞き、先生は小さく笑った。やはり長官と黒服の相性はよくないようだ。

 会場の向こうから、黒服がゆっくりとこちらへ歩いてくるが、相変わらず、何を考えているのか読み取りづらい表情を浮かべたままだ。

 

「おやおや、これは奇遇ですね。お二人も来ていたのですか」

 

 黒服は手にしていたグラスを僅かに掲げた。

 

「さっきからこちらを見ていたのに、それを言うのか?」

 

「ふふ。社交辞令というものですよ」

 

 何時もの調子の黒服に対して、にこやかに話す先生は流石と言うべきか。しかしその隣の長官は、まるで苦虫でも噛み潰したかのような表情を浮かべていた。

 

「……何故、お前がここにいる。黒服」

 

「おや。随分なご挨拶ですね、長官」

 

「良いから質問に答えろ」

 

「くっくっく、私にも独自のパイプというものがありますので」

 

 黒服は何でもないことのように答える。

 

「投資家、技術者、企業経営者。こうした方々との交流は、私の活動にも有益なのですよ」

 

「また何か悪巧みでもしているのか?」

 

 先生が苦笑しながら尋ねるが、黒服は胸元へ手を添え、大袈裟に心外そうな仕草を見せた。

 

「まさかまさか……そのような事など考えておりませんよ。先生とS.C.H.A.L.Eを敵に回すような愚は犯しませんよ」

 

「……調子の良いことだ」

 

 長官が睨み付けるが黒服は愉快そうに笑うだけで、どこ吹く風である。やはりこの二人の相性は良くないようだ。

 

「やはり、皆さんといると退屈しませんね」

 

「私は疲れる一方だ!」

 

 長官の声を聞きながら、先生は近くのテーブルからグラスを一つ手に取り、あまり目立たないように三人は会場の端へ少し移動する。

 表向きには、単なる財界人同士の雑談だが、その実。この場にいる三人はいずれも、キヴォトスの表と裏へ深く関わる者たちだった。

 

「黒服は、この辺りの企業とは長い付き合いなのか?」

 

「ええ。企業というものは興味深いですよ」

 

 黒服は会場を見回す。喉から小さい笑い声がこぼれており、それを聞くたびに長官の機嫌が悪くなっていく。

 

「利益を追求しながら、その利益を得るために他者と協力する。時には敵対し、時には昨日までの敵と握手する。実に面白いものですね」

 

「貴様が言うと胡散臭さしか感じんな」

 

「酷いですねぇ」

 

「日頃の行いだ」

 

 愉快そうな口調の黒服と、苛立ちを隠せない長官のやり取りを聞きながら先生が小さく笑う。

 そんな何気ない会話がしばらく続いた後に黒服が思い出したように口を開いた。

 

「そうそう、先生、長官。せっかくですし、面白い方をご紹介しましょう」

 

「面白い?」

 

「ええ」

 

 黒服が視線を会場の反対側へ向けるので先生と長官も、それを追った。

 華やかな参加者の群れの中心に、一際異様な姿があった。

 白いドレスに紅い肌。女性を思わせる輪郭を持ちながら、明らかに通常の人間とは異なる異形。その女性は数人の企業役員に囲まれ、優雅な仕草で、時折笑みを浮かべながら会話を交わしていた。

 しかし、その笑顔を見た先生は僅かに目を細めた。それは見た事がある悪意を覆い隠すための笑みだ。

 

「……あの人物は?」

 

「ベアトリーチェ。私と同じ、ゲマトリアの一員ですよ。我々と違い何処かに拠点と勢力を所有していると聞きますが、詳細は分かりません」

 

「ゲマトリア……。また厄介そうな者が来ていたものだな……」

 

 長官の表情がさらに険しくなる。先生は何も言わず、しばらくベアトリーチェを観察した。

 彼女は相手の言葉へ笑顔で頷きながらも、その視線には不思議な冷たさがある。相手を見ているようだが、人として見ているというより──価値を測っている。

 自分にとって使えるか。使えないか。それだけを判断しているような目を隠している。

 

「なるほど。見ただけで人を判断するのは良くないが……あれは、魔女とか毒婦とか……そういう類の人だろうね」

 

 先生が静かに呟くと一瞬だけ黒服が沈黙するが、直ぐに肩を震わせて愉快そうな笑い声が零れている。

 

「くくっ……流石は先生ですね」

 

「何がおかしい」

 

「いえ、申し訳ありません。あまりにも的確でしたので」

 

「やっぱり?」

 

「ええ。私から見ても、なかなか厄介な人物ですよ」

 

「貴様がそれを言うのか……」

 

「長官。それはどういう意味でしょう?」

 

「そのままの意味だ!」

 

 黒服は楽しげに笑う。だが長官は、ベアトリーチェの姿を改めて見ているうち、何かを思い出したようだった。

 

「……待て」

 

「どうした?」

 

「あの見た目……ウォルターやハウンズと争っているという、『マダム』と呼ばれている奴か?」

 

「聞いたことがあるのか?」

 

「フライトナーズの情報網に何度か引っ掛かっている。ハウンズと敵対している勢力の指導者らしい、という程度だったが」

 

「その認識で、おおむね間違っていませんよ。どうやら一時期、ウォルターとジナイーダの二人はベアトリーチェの元にいたようです」

 

 実際ウォルターとジナイーダは、キヴォトスに来た直後はベアトリーチェの勢力圏内に滞在しており、一時期彼女の元に身を寄せていたのだ。

 

「詳しい事情までは私も知りません。ただ、何らかのいざこざがあり、ウォルターとジナイーダは、現在のハウンズ構成員を率いて彼女の元を離反した」

 

 黒服はベアトリーチェを眺める。彼女の事だから何かしらウォルターとジナイーダの逆鱗に触れたのだろう。勢力圏内で大暴れされた挙句、多数の損害を出したと聞いている。

 それでも執拗に狙い続けたようだが、ハウンズがスピリット・オブ・マザーウィルを拠点にしてから、追撃を止めたようだ。

 先生は再びベアトリーチェを見る。白いドレスに紅い肌。周囲に笑顔を振り撒きながら、企業役員たちと談笑する姿は一見すれば、多少風変わりなだけの社交界の女性にも見える。

 しかしウォルターとジナイーダの二人が離反して、数人の生徒達を率いてハウンズを結成したと聞くだけで、彼女がどんな人物か察するには十分である。

 

「つまり、厄介極まりない人物、ということか」

 

「ええ、極めて厄介でしょうね。なにやら独自で色々と画策しているようでして」

 

 楽しげな笑みを浮かべている黒服へと長官が嫌そうに尋ねる。

 

「……お前と同じゲマトリアに、そんな奴が何人いるんだ」

 

「さて、みなそれぞれ己の関心があることにしか興味を示しませんので。生憎、他の者達が何をしているかは把握しておりませんね」

 

「肝心な事は知らんのか貴様は……役に立たん……!」

 

「おやおや、随分と酷い事を仰る」

 

 先生は二人のやり取りに小さく笑っているが、その視線だけはベアトリーチェから外していない。

 その時、企業役員の一人と会話していたベアトリーチェが、ふと顔を上げた。その瞳が真っ直ぐに先生へ向けられる。

 僅かな沈黙の後、ベアトリーチェの口元へ、ゆっくりと笑みが浮かんだ。その姿は美しいが、人ではない。少なくとも、普通の人間とは明らかに異なる存在である。

 それでも周囲の企業役員たちは、その異形を気にする様子もなく談笑していたがベアトリーチェは、話していた企業役員たちへ軽く会釈して会話を終わらせる。

 

「それでは、失礼いたしますわ」

 

「ええ。また後ほど」

 

「是非とも先程のお話を──」

 

「考えておきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い肌を持つ異形の女が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 その身体を包んでいるのは、白薔薇の意匠を贅沢にあしらった純白のロングドレスだった。胸元から腹部へかけては大胆に深く切れ込み、白いレースの隙間から紅い肌が妖しく覗いている。腰から脚へ流れるラインもまた大きく開かれ、歩くたびに白と紅の鮮烈な対比が揺らめいていた。

 腕は白薔薇のレースに包まれ、腰や胸元、背中には細い銀の鎖が幾重にも垂れ、その先で赤い雫のような宝石が静かに揺れる。背中は大胆に開かれ、紅い肌の上へ白薔薇の装飾と銀鎖が繊細な模様を描いていた。

 床を這うほど長い裾には無数の白薔薇が咲き誇るように連なり、彼女が歩を進めるたびに、まるで白い花園そのものが滑るように広がっていく。

 優雅で気品に満ちている。だがその美しさは人を安らがせるものではない。触れれば静かに侵される毒のような、冷たく甘い妖気を纏っていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「……来るぞ」

 

 長官が低く呟く。

 

「そのようだね」

 

「先生。先程言ったことを忘れないでくださいね、彼女は、なかなか愉快な方ですが、同時に危険な人物でもあります」

 

 黒服が楽しそうに口を挟んだ。

 

「……先生より危険人物が居るとは思えんがな……」

 

「それに関しては私も長官に同意しますね」

 

「二人とも、随分ひどく私の事を言うね」

 

 黒服が肩を竦める。

 

 その間にもベアトリーチェとの距離は縮まっていく。

 白いドレスの裾が床を滑り、その歩みには急いでいる様子など一切ない。歩幅に姿勢。そして視線の全てが計算されているかのように優雅だった。

 そして先生たちの前まで来ると、ベアトリーチェは片手に持っていた白い扇子を静かに閉じた。

 

「初めまして」

 

 僅かに頭を下げる。

 

「連邦捜査機関S.C.H.A.L.Eの先生。そして──フライトナーズ長官」

 

「どうも」

 

 先生も穏やかに頭を下げ、長官も社交の場である以上、無視するわけにはいかない。

 

「……初めまして」

 

「ふふ、お二人のお噂は、色々と伺っておりますわ」

 

 ベアトリーチェの瞳が細められる。二人を値踏みするかのような視線に、長官の背筋に悪寒が入る。やはり毒婦、魔女の類か。と

 しかし、先生は相変わらずにこやかな表情で首を傾げる。

 

「どのような噂ですか?」

 

「まあ」

 

 ベアトリーチェは目元を僅かに細め、優雅に扇子を開き、笑みを浮かべた口元を隠す。

 

「それを淑女の口から語らせますの?」

 

「そこまで言われると余計気になるな」

 

「好奇心はほどほどになさいませ、先生」

 

 声は柔らかい。丁寧で上品で非の打ち所のない淑女の姿である。

 

(……なるほど)

 

 長官は何も言わず、ベアトリーチェの様子を観察していた。彼女の視線は、先生の顔だけを見ているのではない。服装、立ち姿での外見的特徴。会話の途中で僅かに動く指先や視線の先。

 先生と長官の距離感と黒服に対する立ち位置。こちらの反応を、一つたりとも見逃すまいとしている。

 

(先生の言っていた通りだな。これは……毒婦の類だ)

 

 長官は内心で警戒を強めた。実際財界や企業にも、こういう人物は多数いるし、相手したこともある。

 笑顔で近づき相手を褒め、丁寧に話を聞きだしてどこまで利用できる相手なのかを測る。これが財界が魑魅魍魎の巣と言われる由縁でもある。

 しかしベアトリーチェから感じるものは、それ以上である。

 単なる商売人の値踏みだけではなく、まるで利用価値があるか、ないか、人そのものへ値札を付けているような視線だ。

 

「おやおや」

 

 しかしそんな不穏な空気を壊したのは、やはり黒服だった。

 

「自身を淑女と仰いますか」

 

「…………」

 

 ベアトリーチェの視線が、ゆっくりと黒服へ向く。先程まで先生へ向けられていた優雅な微笑はそのままだが目だけが冷たい。

 

「誰かと思えば、黒服ではありませんか」

 

「お久しぶりですね、ベアトリーチェ」

 

 黒服はいつもの調子でグラスを軽く掲げる。

 

「……何故、貴方がここに?」

 

「おや。私が参加していてはいけませんか?」

 

「質問に答えなさい」

 

「さてさて、私にも付き合いというものがありますので」

 

 黒服は楽しそうに笑うたびに、ベアトリーチェの視線が鋭くなる。おい、やめろと言った様子の長官にもお構いなしで黒服は言葉を続ける。

 

「付き合い?」

 

「ええ。企業経営者、投資家、技術者。様々な方とお話しする機会がありますので」

 

「相変わらず、何を考えているのか分からない方ですこと。まあ、好き勝手にお過ごしなさいませ」

 

「ふふ、褒め言葉として受け取っておきましょう」

 

「褒めていません。相変わらずの態度ですこと」

 

 ベアトリーチェの目が僅かに細く鋭くなるが黒服はまるで意に介していない。むしろ相手の機嫌が悪くなっていくことすら楽しんでいるようだった。

 

(……本当に仲が悪いな、こいつら)

 

 グローバルコーテックスで黒服の扱いには多少慣れたつもりだった。だが、どうやらゲマトリア内部でも黒服は同じらしい。

 

「黒服。貴方は以前から、余計な一言が多いですわね」

 

「そうでしょうか? しかし、そう思うのは貴女にも思い当たることがあるからでは?」

 

「ほほほ、相変わらず口だけは回るようですね」

 

 表面上は穏やかに話しているようだが、流れる空気に冷たいものを含みつつお互いに毒を吐き合う二人。

 しかし、そんな時にパチリと小さい音がした。

 先生が何気なく開いた手のひらの上でほんの僅かな火の粉が舞う。燃え広がることもなく熱を放つこともない。

 ただ一瞬だけ赤く輝き、火の粉はそのまま消える。

 ベアトリーチェの視線が黒服から先生へ戻った。

 

「……ここで騒ぎを起こすのは、まずいと思うが」

 

 先生の声は穏やかであり笑顔も変わらない。

 しかし、長官、黒服、ベアトリーチェの三人には分かった。今の火の粉は偶然ではなく、黒服とベアトリーチェの間に漂い始めた険悪な空気へ、先生が極めて軽い制止を入れたのだ。

 先生本人には、威圧しているつもりなどないのかもしれないが、その力の一端を垣間見ることはできた。

 ベアトリーチェは火の粉が消えた場所を一度だけ視線を向けて、扇子で口元を隠す。

 

「まあ、騒ぎなどと」

 

 瞳が、ゆるりと弧を描き、隠した口元には笑みが浮かんでいるのだろう。

 

「私はただ、今をときめくお二方へご挨拶に伺っただけですのよ」

 

「それなら良かった」

 

 先生も穏やかに笑う。

 

「せっかくのパーティーだからね。騒ぎなど起こすより楽しんだ方がいい」

 

「ふふ、随分と平和主義なのですね、先生は」

 

 ベアトリーチェは扇子の向こうで笑った。

 

「そう見える?」

 

「ええ」

 

 その言葉とは裏腹に、ベアトリーチェの視線は先生から離れない。まるでどこまでが表面で、どこからが本性なのかを確かめようとしているように。

 

「もっとも噂では、随分と荒事にも慣れていらっしゃるとか」

 

 ベアトリーチェは続ける。

 

「否定はしない。必要なら戦う。力も選択肢の一つでしかないよ」

 

「あら……必要なら、ですか。それだけの力をお持ちなのに?」

 

「何でもかんでも力だけで解決しては、いずれは破綻する。私はそうやって壊れた場所を何か所も見てきたよ」

 

 何処の世界でも、力を持ちすぎた存在を排除しようとする。その全てに抗い焼き尽くしてきたのが先生だ。

 だからこそ、力だけでは何も変えられない。意思こそが全てを変えるのだ。

 

「ふふふ……面白い方ですこと」

 

 ベアトリーチェの笑みが深まり、二人の視線が重なる。長官には、その間に見えない刃が交差したように感じられた。

 黒服は相変わらず愉快そうに見ているので、うらやましい奴だと言うように長官はため息を零す。

 ベアトリーチェはそんな二人を一瞥した後、再び先生へ視線を戻した。

 

「そういえば先生は、生徒という存在を随分と大切になさっているそうですわね」

 

 先生の目が僅かに細くなる。先程までと同じ微笑だが、先生の雰囲気が、ほんの少しだけ変わった。

 

「ええ勿論。私にとって何よりも大切な生徒たちだからね」

 

 

「それはそれは実に興味深いですわ」

 

 ベアトリーチェは静かに呟き扇子がゆっくりと閉じる。先生は何も答えずにただ、ベアトリーチェを見つめている。

 お互い本音で語り合ったわけでもないが、長官と黒服には分かった。この二人は、恐らく根本から決定的に相容れないのだ、と。

 そんな予感を余所に、会場では楽団が一曲を終えた。ホールの中で拍手が起こり、殺伐とした四人の間に少しばかりの穏やかな空気が流れ込んできた。

 そして、次の曲を奏でるため、楽団員たちが静かに楽器を構え直していく様子をベアトリーチェは、一瞥した。

 

「ところで、先生」

 

「何かな?」

 

 紅い異形の女は、意味ありげに微笑んだ。ベアトリーチェは、次の曲を奏でようとしている楽団へ視線を向けた。

 静かだった弦楽器が、再び柔らかな旋律を紡ぎ始め、会場中央のダンススペースへ、何組かゆっくりと歩み出していった。

 ベアトリーチェは白薔薇のレースに包まれた指先で扇子を閉じ、僅かに首を傾げる。

 

「ダンスは出来ますか?」

 

 優雅な声音だが、その瞳には明らかな挑発が浮かんでいる。

 

 ──まさか、このような場へ出席しておきながら、踊れないなどとは仰いませんわよね? 

 

 口にせずとも、その意図は十分伝わってくる仕草だ。

 

「……は?」

 

 長官が思わず声を漏らし黒服も珍しく僅かに驚いたような雰囲気である。

 だがベアトリーチェは二人など気にも留めず、先生へ片手を差し出した。白薔薇のレースの手袋から覗く紅い指先。細い銀鎖の先では、小さな赤い宝石が雫のように揺れている。

 

「一曲、お付き合いいただけます?」

 

 長官と黒服の視線が、一斉にベアトリーチェの方へ向く。

 

 ──誘うのか!? 

 

 そんな二人を余所に、先生は差し出された手を見つめていたが、薄く笑いながら躊躇なく、その手を取った。

 

「勿論、私で良ければお相手しよう」

 

 長官と黒服が、今度は揃って先生を見る。

 

 ──受けるのか!? 

 

 先生がベアトリーチェを中央へエスコートする。純白のドレスの裾が、床の上を静かに滑り、その長いトレーンには無数の白薔薇が連なり、まるで雪の上に咲いた花園そのものが彼女の後を追っているようだった。

 

「……本当に踊るのか」

 

「実に興味深い」

 

 長官が呆然と呟き、黒服が楽しげに答える。

 

「貴様は他人事だから楽しめるんだ!」

 

「長官も楽しめばよろしいのでは?」

 

「無理を言うな!」

 

 

 そんな二人の声が遠ざかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場中央では先生とベアトリーチェが向かい合った。

 先生の片手が彼女の手を取り、もう片方が腰へ添えられる。紅い肌にその腰を縁取る白薔薇のレース。細い銀鎖と赤い宝石。触れる先生の手に合わせるように、それらが小さく揺れた。

 ベアトリーチェもまた、先生の肩へ手を置く。

 

「意外ですわね。本当に踊れるとは思いませんでした」

 

「随分失礼だな。これでもそれなりの教養はあるつもりだ」

 

「ふふ。お許しくださいませ」

 

 曲が始まる。一歩また一歩と先生が踏み込めば、ベアトリーチェが滑るように後退する。床を這っていた長い裾が遅れて引かれ、白薔薇の装飾が大きな弧を描いた。

 先生が手を持ち上げ、ベアトリーチェが回る。白いドレスが大きく翻り、腰から脚へ深く入ったスリットが開く。

 一瞬だけ紅い脚が覗き、再び純白の布に隠れた。胸元から腹部へ伸びる白薔薇のレースとそこへ渡された銀鎖。その先端に吊られた赤い宝石が、回転に合わせて煌めきを散らす。

 華やかで妖艶であり、どこか毒々しい。まるで美しい花が、自ら毒を持つことを隠そうともしていないようだった。

 

「先生、一つ、お尋ねしても?」

 

「どうぞ」

 

 先生の導きに合わせ、ベアトリーチェが半歩下がる。

 

「貴方ほどの力を持つ方が──何故、そこまで生徒という存在へ気を遣うのです?」

 

「生徒たち?」

 

「ええ」

 

 再び一回転。長い黒髪が白いドレスの背中へ流れ、腰の銀鎖が揺れる。

 

「貴方については、私も多少聞き及んでおりますわ」

 

 先生の腕の中へ戻る。

 

「戦場では常人では扱えない兵器を操り、巨大兵器すら相手取る」

 

「噂というのは怖いな。尾ひれ背ひれがついて知らず知らずに大きくなる」

 

「全て事実なら、噂とは呼びませんわ」

 

「さて、どうだろう」

 

 ベアトリーチェは紅い瞳を細めた。

 

「それほどの力を持ちながら、何故あれほど弱い者たちへ歩調を合わせるのです?」

 

「弱い者……と言うと?」

 

「生徒たちですわ」

 

 ベアトリーチェは当然の事実を口にするように笑みを浮かべている。

 

「先生と比べれば、あの子たちはあまりにも脆弱でしょう?」

 

「…………」

 

「私には不思議でなりませんの」

 

 ベアトリーチェの手が先生の肩を滑る。

 

「先生の在り方は、まるで獅子が足元を這う蟻を踏み潰さぬよう、一歩一歩に気を遣っているよう」

 

 白いドレスの裾が二人の周囲へ弧を描く。

 

「それでは、力を持つ貴方の方が、弱者によって雁字搦めにされているようなものではありませんこと?」

 

「……さて」

 

 先生は苦笑を浮かべている。それはまるで何もわかっていないな。と言うように。

 

「それは、君たちの尺度で見た場合だ」

 

「あら?」

 

 先生が手を掲げベアトリーチェがその下をくぐり、大きく身を翻した。白薔薇のトレーンが床の上へ扇状に広がる。

 

「私にとって、生徒たちは大切な存在だ。そんな大切な相手を気遣うことに、理由が必要かな?」

 

 再び二人が向き合う。

 

「ですが、大切だからこそ、全て貴方が決めて差し上げればよろしいのでは?」

 

 ベアトリーチェは微笑みを浮かべるが、先生の瞳が僅かに細くなる。

 

「進む道も、何を選ぶかも、誰と関わるかも」

 

 一歩、ステップを踏むと、ベアトリーチェの白いレース越しの指が、先生の手へ絡む。

 

「貴方なら、あの子たちに最も正しい道を用意して差し上げられるでしょう?」

 

 言葉は優しいが、その奥にあるものは明白だった。

 

 ──選ばせる必要などない。

 

 ──弱者は、強者に従えばいい。

 

 ──使い道を決めるのは、力を持つ者。

 

「……そうか」

 

 先生は小さく息を吐く。

 

「やっぱり、君とは随分考え方が違うな」

 

「そうでしょうか?」

 

「うん、生徒たちは、君が考えているほど小さな存在じゃないよ」

 

 先生は穏やかに微笑んだ。

 

「小さくない?」

 

「生徒たちには希望と可能性という翼がある」

 

 先生が一歩踏み込む。

 

「……翼?」

 

「そうだ。決して小さな存在じゃない」

 

 ベアトリーチェをもう一度回す。純白の布が大きく花開き、その内側から紅い脚が覗く。

 先生が彼女の手を引くと白薔薇をまとった異形の女が、その胸元へ戻ってくる。

 

「あの子たちは、いつか自分の翼で未来へ羽ばたいていく鳥たちだよ」

 

「…………」

 

 二人の視線が重なりベアトリーチェの笑みが、ほんの僅かに止まった。

 

「随分と夢見がちなことを仰いますのね」

 

「そうかな」

 

「ええ、そんな事はあり得ませんわ」

 

「私はそうは思わない」

 

「何故?」

 

「見てきたから」

 

 先生の声には迷いがない。

 

「失敗しても、もう一度立ち上がる子を。間違えて、傷ついて、それでも前へ進もうとする子を」

 

 優雅にステップを踏む二人。

 

「そして誰かと争っても、最後には自分の意思で手を取り合おうとする子を」

 

 音楽が徐々に高まっていく。

 

「私は、あの子たちが自分自身で未来を選ぶ姿を何度も見てきた」

 

「だから、ただ見守ると?」

 

「違うよ。私が飛び方を決めてやるつもりはない」

 

 先生は首を横へ振り、ベアトリーチェの瞳を真っ直ぐ見つめる。

 

 

「ただ、あの子たちが飛び立とうとした時──その翼を誰かに折られないよう、側にいるだけだ」

 

 先生の手が彼女の腰へ回る。

 

「…………」

 

「それが先生の役目だと思っている」

 

 しばらくベアトリーチェは何も言わなかったが小さく笑う。

 

「……なるほど」

 

「うん?」

 

「だから貴方は、自ら鎖へ繋がれるのですね」

 

「鎖?」

 

「ええ」

 

 ベアトリーチェが先生へ身体を寄せると、白薔薇のレースに包まれた胸元で、赤い宝石が揺れた。

 しかしその瞳に嘲りが浮かんでいた。

 

「力を持つ者が、弱者のために自らを縛るなど、私には滑稽に見えますわ」

 

「そうか」

 

 しかし、先生は怒らないがほんの僅かに声を落とす。

 

「ならば君の尺度で話してみようか」

 

「私の?」

 

「君は力の大小で、存在の価値を測っている」

 

「随分乱暴ですこと」

 

「違う?」

 

「……さて」

 

 ベアトリーチェは答えないが先生は薄く笑った。

 

「なら、その尺度に合わせて答えるとしよう」

 

 曲が終盤へ入ると同時に先生が一歩深く踏み込む。

 

「──っ」

 

 ベアトリーチェの身体が大きく後方へ傾き先生の腕が、その細い腰を確実に支える。

 長い黒髪が床へ向かって流れ純白のトレーンが一気に広がった。白薔薇に覆われた裾が、まるで巨大な花が開いたように二人の周囲を包む。

 深いスリットから紅い脚が覗き、銀鎖の先に吊られた赤い宝石が大きく揺れた。

 先生はそのまま身を屈めると二人の顔が近づく。

 ベアトリーチェが先生の瞳を覗き込むと、その瞳が僅かに見開かれた。

 覗き込んだ先生の瞳は深く底がない光すら飲み込む深淵の瞳だが、その遥か奥で火が燃えている。

 静かに決して消えることのない全てを焼き尽くしかねない、紅蓮の火。

 ベアトリーチェの笑顔がほんの一瞬だが完全に止まった。そんな彼女を嘲笑うかのように先生が静かに囁く。

 

 

 

 

 

 

「翼ある鴉が、お前のような地を這う存在を気にすると思うのか?」

 

 

 

 

「…………」

 

「君は、生徒たちを小さな存在だと言った」

 

「……ええ」

 

「なら、君自身はどうなんだろうね」

 

 ベアトリーチェの瞳が鋭くなるが先生の手は彼女の腰を支えたまま。

 

「私にとって、生徒たちは大切な存在だ」

 

 

 パチリと音を立てて二人の間に、小さな火の粉が浮かぶ。

 

「だけど今のお前は、私にとって何者でもない」

 

「…………」

 

 初めてベアトリーチェの瞳から、余裕が消えた。

 

「お前程度の存在を理由に、私があの子たちへの向き合い方を変えることはない」

 

 先生の瞳の奥で、火が揺れる。

 

「お前は、私が生徒たちの未来を信じることを止める理由にすらならない」

 

 音楽が最後の旋律を迎えると先生がベアトリーチェの身体をゆっくりと起こす。

 床一面へ広がっていた純白のトレーンが引き戻され、白薔薇が再び彼女の足元へ集まっていく。

 曲が終わると会場から拍手が上がる。

 

「…………」

 

 ベアトリーチェは先生の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。その身を飾る白薔薇のレースに純白のドレス。赤い宝石。その姿は、踊り始める前と何一つ変わっていない。

 

「……なるほど」

 

 やがてベアトリーチェの口元へ、再び完璧な微笑が戻った。

 

「ええ、よく分かりましたわ、先生」

 

 裾を摘み、優雅に一礼すると、その動きに合わせ、床を這う白薔薇のトレーンが静かに波打った。

 

 

「それなら良かった」

 

「ふふ……」

 

 ベアトリーチェは背を向ける。そして、長い純白の裾を引きながら、人々の中へ歩み去っていった。

 背筋はまっすぐで歩幅も一定であり、気品も、優雅さも崩れていない。

 ただ、その紅い瞳に宿るものだけは、来た時とは違っていた。

 屈辱と怒り。先生への警戒。そして自分を取るに足らない存在と言い切った人物──先生への、強烈な興味。

 白薔薇を纏った毒婦はその感情を誰にも見せることなく、静かに人混みの中へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──おや、随分ご機嫌斜めの様で。先生とやらとは接触出来ましたか? ──

 

 

「黙りなさい」

 

 ──おっと。どうやら何かあったようで──

 

「人となりはある程度把握できました。ですが予定を変更します」

 

 ──予定を変更ですか。当初は排除する予定でしたが──

 

「先生の力を、いえ、先生を手に入れます。私をコケにしたことを後悔させないと気が済みません」

 

 そう語るベアトリーチェの瞳には様々な感情が混ざり合ったドロドロの憎愛が渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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