そしてすいません、繋ぎ回です。
「もう大丈夫か?」
手渡した手巾を突っ返され、べとべとになったそれを背嚢に仕舞う。
泣きわめく少女を慰めるのに門前は適さないが、それでも弱みを中にいる少女に見せたくないという猫人の言葉を尊重してこうして隣り合って座っているわけだ。
俺の敷いた外套に腰掛けた給仕服には見覚えがある。
確か、そう『豊穣の女主人』の制服だ。
となると俺の隣で未だに鼻を啜るこの少女はシルの同僚ということになる。
呼吸が落ち着いてきたのかひと段落した彼女が俺の肩に頭を寄りかからせた。
「ありがとにゃ……嬉しいのと悲しいのが一遍にきちゃって、こんな状態で中に入るのはいやだったから」
「そっか」
例え猫人特有の語尾にキレがなくとも深くは聞かない。
それを根掘り葉掘り聞くには余りに流した涙が美しかったから。
だから、俺はただ寄り添うことにした。
「おミャーがユート・アピスであってるかニャ」
「ああ、そうだ。俺がユートだよ。君は?」
「ミャーはアーニャだニャ」
「そっか」
暫し、無言の時間が流れる。
三角座りで隣り合ってるのに色気が無い。
星空に照らされながら、俺たちは静かに時を過ごした。
それに耐えきれなくなったのか、水気の和らいだアーニャが口を開いた。
「……おミャーは、兄様とどんな関係なのニャ?」
「んー……殴り合って認め合った、ライバル、みたいな?」
「らいばる……兄様と?」
「何か変かな?」
「正直、信じられないニャ。だって、兄様は凄く強いから」
「そうだな、めっちゃ強かった。あとちょっとで死んでたわ」
「そりゃそうニャ。兄様は都市でも数少ない第一級冒険者で、都市最高派閥のフレイヤ・ファミリアの副団長で……私とは大違い」
「何かあったのか?」
「話したくないニャー……」
「そっか」
そうだよな、と思ってまた口を閉じる。
無言が長く続く、流石に寒くなってきて、いつまでも寒空の下に女性を置いておく気にはなれなくて。
けれど、まだここに留まっていたい彼女へ紫棘の外套を羽織らせた。
「ミャ」
「身体、冷えてきたでしょ。まだ中に入りたくないみたいだし貸しとくよ」
「おミャーは中に入らないのかニャ。シルも、子供たちも待ってるニャ」
「住人一人ほっぽり出してのうのうと過ごせるほど無神経じゃないんだよなぁ」
「住人って、別にミャーは手伝いで来てただけニャ」
「残念ながら、子供たちを世話してくれて、しかもシルの友達でってなると俺にとっても他人じゃないんだな、これが」
「損な性格だニャー……」
「かもなー……」
軽口を叩き合って、仄かに笑う。
随分と調子が戻ってきたみたいだ。
「しかもアレだニャ。おミャーは誑しな気がしてならないニャ。てか一々やってることがイケメンすぎだニャ」
「それほどでも」
「ここで茶化すとか信じらんないニャ」
「それほどでも」
「うぜーのニャ」
そう言って彼女は立ち上がった。
赤くなった目を最後に一度だけ拭って俺へ外套を投げ返す。
「シルが惚れ込んだ男と聞いてどんなヤツかと思えば、案外悪い奴じゃなかったニャ。任せられるほどじゃニャーけど、妥協してやるニャ」
「ありがとう、アーニャ」
「こっちのセリフニャ」
「なんかいったか?」
「何もいってないニャ」
そう言って調子を取り戻した彼女は笑った。
猫のように、気まぐれに。
三日月の笑顔を浮かべながらアーニャは俺の手を引いた。
「ていうか、おミャーの方が小さくて子供ニャ。だから気を使ってばっかでいる必要ないニャ」
「気を使うさ。だって俺は強いからね」
「……否定できないのが嫌なとこだニャー」
ちょっと引かれただけで簡単に宙に浮く。
俺の小さな身体は矮躯に見合ってとても軽い。
アレンやオッタルのような成熟した身体が欲しくないと言えば嘘になる。
多分アーニャが言いたいのはそういうことなんだろう。
どんなに大人びた言動をしていても、小さい以上は庇護の中にいるべきだと。
けれど、その庇護という名の城壁は現在、砂上の楼閣のようなものと化している。
少なくとも、今中にいる子供たちは被害を被ってしまった。
いつでも壊れるものの中にいるほど恐ろしいことはない。
……俺も、もう誰かに守られたくはないな。
大事な人が傷つくのはとても怖い。
二人で手を繋ぎ中に入る。
光とともに暖かな家が俺たちを受け入れ───「遅かったですね」
「シル?」
優し気な笑顔で迎え入れてくれた、少女の顔は何故か影を差していた。
繋いだ手からガタガタと震える気配がする。
「違うニャ、シル。これはあの、そういう感じのアレじゃないニャ」
?? アーニャが何を恐れているのかわからない。
俺は彼女の手を一度放し、背嚢を玄関先に置いた。
「ただいま。シル」
「……おかえりなさい、ユートさん」
もう一度彼女の顔を見れば、影は消えていた。
あれはなんだったのだろうか。
「危なかったニャ……ユートよくやったニャ」
「?」
「分かんねぇーならもうそれでいいニャ……」
「さぁ、みんな待ちくたびれてますから、ユートさんもアーニャも早く中に」
「? うん、わかった」
言われるがままに中に入る。
どこか気安くなったアーニャの駄目だコイツという顔だけが妙に印象に残った。
◆
「それじゃあユート兄ちゃんの無事の帰還を祝って乾杯!」
『かんぱぁーいっ!!』
子供たちの代表──ソナタの音頭と共に無数の杯が音を立てて重ねられる。
絢爛豪華に立ち並ぶ豪勢な食事はユートが予め『豊穣の女主人』から注文した食材を用いて作られたものだ。あらゆる才能を有するユートは前世の料理経験も相まって料理がとても得意であり、子供たちにもまた好まれていた。
立ち並ぶ長机と五十余名の椅子はかつて大きなファミリアであった『アピス孤児院』の食堂の余白を大きく埋め、差し出された出来立ての料理の数々を空いた腹の中に存分に詰め込んでいる。
「ユート兄ちゃん! 今日の冒険どうだった?!」
「かいそーぬしは倒せた?」
「おいソナタ、お前ユート兄ちゃんに近いぞ!」
「はぁー? まとめ役の俺の特権だが?」
「狡いぞぉー!」
喧騒の中にあっても人気なのはやはりユート本人であろう。
孤児院の稼ぎ頭であり、自分たちを掃き溜めから引きずりあげてくれた恩人であり、そしてどこまでも自分たちに寄り添ってくれた人であるからだ。一つ一つの質問に丁寧に応えながらも、ユートもまた今日はどうだったのかを子供たちに聞いて回る。
「ソナタは今日どうだった?」
「今日は年長組で【ソーマ・ファミリア】のとこの荷運びとかの手伝いをしましたね、午後からは帰って幼児組の世話とか……後は普通に外で遊んだりとかです」
「そっか。働いて世話してってみんな小さいのに偉いなぁ……ソナタたちには俺も助けられてるよ」
「何言ってるんですか、ていうか年齢だけなら俺たちみんなユート兄ちゃんより年上ですよ」
「そうだったっけ」
「そうです。まぁ喧嘩で負けるわぐうの音が出ないほど恩を過重積載されるわで敬称がてら兄って呼ばせてもらってますけどね」
そう言って舌を出すソナタに苦笑いを浮かべる。
もともとスラムの子供たちを仕切っていただけあって一番鼻っ柱が強かったのがこのソナタだ。最終的に年長組の中でもスラム出身の奴らとともに襲撃を仕掛けてきた一幕があった。全員ぶちのめしたことでこうして良好な関係を築けている。
「将来的には俺も冒険者になるつもりです……学区とかにいけたらいいんですけどね」
「学区?」
「ご存じないんですか?」
「ソナタは俺を何だと思ってたのさ」
「ああいや、すいません。そうですよね、ユート兄ちゃんにだって知らないことはありますよね」
「それで、その学区ってのは?」
「端的に言えばまあ学校なんですけど、冒険者の為の学校、みたいな感じです」
「へぇ、そんなところが……」
「興味あります?」
「正直、かなり」
「おいソナタ。お前ばっかり話しすぎだって」
俺が学区に興味を持ち始めた辺りで横から赤い髪が飛び込んでくる。
跳ねた赤髪の中から狼のような耳が生えた彼女は年長組のシシリアだろう。
勝気な少女は特徴的な剣歯を剥き出しにしながらソナタと俺の合間に顔を突き出した。
「ユート兄! 俺も冒険に連れていくって話、どうなった!?」
「まだ早い」
「じゃあいつになったらいいんだよ!」
「十五」
「あと五年もまたなきゃいけないのかよー……」
拗ねたように手に握っていた骨を齧り不満をあらわにする。
最近歯がいずいと言ってナイフを齧る癖が出始めたシシリアはよく硬いものを噛んでいる。
種族的な特性なのだとしたらそれ用の品を買い揃えてあげるべきだろうか。
脳内で消耗品の買い出しを算出しながら「それまで鍛えとけ」と赤髪を撫でてやる。
「……あんま子供扱いしないでくれよ」
「はっはっは、俺より強くなってから言うんだな」
「だから冒険者になりたいんだってーの」
「十五まで待て」
十五になれば自分で自分の人生を歩ける最低限の能力が揃うだろう。
そういった意味で設けた基準だ。
それまでに俺が勉強や体術を教えてやることになっている。
勉強面はソーマのところで働きながら教えてももらっているみたいだけどな。
ここまで何で俺が色々としているのか、基準を設けたのかっていえば……あれだ、冒険者という命がけの職に就く前にそのほかの道があることに眼を向けて欲しいっていう意味だ。
そこまで考えていると、それでも食い下がろうとするシシリアとソナタが喧嘩をしそうになっていた。
止めようとすると隣にいたシルが「任せてください」と俺に囁き席を立つ。
「うわっ!」
そしてそのままシシリアを抱き上げた。
ぺろりと服が捲れて傷跡の残る腹が僅かに覗いた。
ばたばたと足を動かすシシリアへ向けてシルが微笑みかける。
「もうっ。食事中ですよシシリア。ソナタも挑発しないの」
「……はぁーい」
「……すいません」
似たような態度で凹む二人。存外に相性がいいのかもしれない。
すごすごと席に戻る二人をしり目にシルへ眼を向ければウインクを一つ返された。
「ふふっ。二人には悪いけど、これでユートさんを独り占めできますね」
「……なるほど、悪い子だな」
「えー、ちょっとその言い方はどうかと思います」
「えっ、あっ、そういうつもりじゃなくて」
「冗談です」
「……やっぱ勝てねぇわこれ」
「いいんじゃないですか? なんでも勝ってばかりだと大事なことも見落としちゃいそうですし」
何というか、小悪魔みたいなことをすると思えば聖母みたいなことをして、かと思えば賢者のように遥か達観した視点で物を言う。ミステリアスなところに惹かれる自分がいることを、俺は今更ながらに自覚した。
押し殺せ。噛み殺せ。
もう二度と、誰も さないと決めた。
だから、笑え。笑って接しろ。軽薄ともとれるほど理想の自分をトレースしろ。
「なるほど。シルって実はめちゃくちゃ賢いんじゃないか? その発想は俺には無かった」
「実はって何ですか。こう見えてユートさんよりずっと年上なんですよ」
「ああ、そうだった、な」
「もしかして同い年くらいにでも思ってました?」
年下くらいと思ってた。
「いやいや、そんなことあるわけないじゃん」
「そうですか」
顔を見合わせ、少し沈黙。けれど同時に耐え切れなくて噴き出した。
子供たちの嬉しそうな喧騒の中で、俺たちもまた笑う。
嬉しい筈だ。楽しい筈だ。言葉を交わし、心を合わせた。暖かい筈だ。
ああ、でも、どうか誰か教えて欲しかった。
───俺は、ちゃんと笑えているかな
幸せなのに、幸せじゃない。
矛盾塗れの心が憎かった。
こんなに幸せなのに、それを感じ取れない自分が嫌いだ。
それでも俺は笑わなきゃいけない。
人に笑顔で安心を与えるのが、彼女の言う英雄なのだから。
楽しい食事の時間が終わり、子供たちは各々が風呂に入り、歯を磨き、そして床に着く。
俺もまた元気が残った子供たちと戯れた後、寝室へと戻っていった。
◆
「……びっくりするほど幸せそうな場所だったニャー」
居場所を見つけられた子供たち。
それは、とても幸運なことなのだとアーニャ・フローメルは知っていた。
全てを奪われ、兄以外に居場所を失い、その兄からも見捨てられたから。
あの絶望を、あの悲嘆を、魂を切り裂くような慟哭を覚えているから。
シルに拾われなければ死んでいたであろうその場面を思い出し血の気が引いた顔を両手で覆った。
冷たい。それが顔なのか手の冷たさなのか判別がつかない。
冬場のオラリオの外気が貸し出された寝室を席巻し、どうも寝付けない。
「……それだけじゃないニャ」
そう、それだけではない。
何故なら、見捨てられたと思った筈の兄から慮る言葉を告げられたからだ。
嬉しかった。それなのに、どうしてか兄の背が遠すぎて痛かった。
心に刺さった痛痒がどんな名前なのかも判別できないのに、ただ痛みだけが鈍く響く。
きゅっと両手を心臓に置いて鼓動を確認しても無感情に拍動は一定のリズムしか訴えない。
「それもこれも、ユートのせいだニャ」
お門違いかもしれないけれど、どうにもモヤモヤとした感情が消えない。
その責任を被せることが出来るのは一人しかいなかった。
ユート・アピス。シルのお気に入りの冒険者という幸運児。
幼くしてレベル3という一角の人物でありながら優しく、正義感に溢れ、苦しんでいた少女に乞われ見返りを求めず一つの【ファミリア】を潰した、今のオラリオで最も新しく痛快な英雄候補。
いや、どんな御伽噺だと思うけれど、実際に会って話してみればあながち的外れでもなかった。
初対面のアーニャを慰めるために寒空で一緒にいてくれるし、寒くないように明らかに高そうな外套を何の躊躇もなく被せてくれるし、子供たちとの交流を見ていれば人格に瑕疵は見られない。
強さも、まぁ、
少なくとも、弱者に慈悲を寄せるほどの心を有しているとは思えない。
……いや、あれでちゃんと優しいところもあるんニャよ? と誰にも届かぬ弁護。
「? あれ、アイツ完璧じゃないかニャ?」
幼な過ぎる嫌いはあるが、容姿も収入も人格も申し分ない。
もしかしたら今回の兄の言葉も、ユートが切っ掛けだったのかと思えるほどに──
「誰ニャ」
枕元に置いた予備の槍を取り出し廊下から響いた足音へ向かう。
敵? いいや、違う。寧ろ慣れ親しんだ足音だ。
咄嗟に警戒をしたがそれが勝手知ったる恩人にして同僚のものだと察知、肩を落とす。
「シル……こんな時間に何をするきだニャ」
そっと覗き込んだ廊下には蝋燭を片手に寝間着姿のシルが歩いていた。
誰も起こさぬように厳かな足運びは手慣れていて、これが初めてではないのだろう。
行き先はユートが寝ている一番端の寝室だ。
「まさか……! これが東方に聞くヨバーイってやつかニャ!?」
小声で叫ぶという器用な真似をしながらアーニャは眼を見開いた。
ヨバーイ。東方の女性の最終決戦兵器と聞いたことがある。
つまるところ認知させれば全て勝ちという男らしすぎる戦法だ。
友の雄姿を見届けるのは当然の権利だとアーニャはそっと尾行を始めた。
「……にしても、何でユートはこんなデカい屋敷の端っこを使ってるんだニャ?」
かつて大きなファミリアが使っていただけあって良い寝室はたくさんある。
特に団長用の部屋は大きく、備え付けられた天蓋付きの寝台は豪奢に尽きた。
今は子供たちの取り合いの的となっていたが、順当に行けばユートが使って然るべきだ。
「着いたニャ」
そっとシルが扉を開き中へ入る。
それと同時にアーニャは扉前へ移動して耳をそばだてた。
「……?」
しかし甘い睦言など欠片も聞こえない。
むしろ、これは───
「叫び声?」
ただ事ではない。
苦しそうに呻く男の声が聞こえてる。
それが自分を、曲りなりにも暖かく迎え入れてくれた友のものだというならば。
止まる遠慮を、アーニャ・フローメルは持っていない。
「シル、何があったニャ」
「アーニャ。ついてきちゃったか」
「シルこそミャーに内緒でコソコソ出来ると思うのは舐めすぎだニャ」
それで、と言葉を閉じて件の少年を見やる。
「───そいつも、なのかニャ?」
「……うん、そうなの。それも、たぶんとびっきりの」
その寝台は簡素だった。いっそ薄すぎて折れてしまいそうなほど。
まるで、いつでも捨てて構わない使い捨てを買ったかのように。
朝に見ていれば何故と考えたことだろう。けれど、今ならば納得できる。
その寝台は
「これ、掻き毟った痕かニャ?」
「それもあるかな。首とか、胸とか、魘されてる間に自分で傷つけちゃうの……それだけだったら、まだ何とかなったんだけどね」
「まぁ……考えてみればミャーたちには『耐久』があるからニャ」
つまり、ただ掻いただけでは皮膚が削れるくらしか血が流れない。
それではこの一面にある血の泉は説明がつかないだろう。
「……これと、これかニャ」
アーニャが手に取ったのは剣だった。
血に濡れたそれは少年の肉体に刻まれた跡と刃幅が酷似している。
つまり剣を抱いて眠り、それで自らを傷つけたのか。
そして剣でない方の傷は……古傷が開いたものか。
「こいつ、何考えて剣なんて抱いて寝てるのニャ?」
「この子ね、剣を抱いてないと眠れないの」
「……そいつは、難儀だニャ」
「こうして落ち着いたときに剣を取り上げないとずっと自分を傷つけるから、夜に回収しに来てるんだ」
「こいつも、随分とエライもんこさえてたんだニャ」
未だ魘されながら自分の首に爪を突き立てる姿は痛ましいというほかない。
涙を流し、悪夢に苛まれ、心を痛め、それでも人に明るく振る舞う。
「……どうすればいいのかニャー」
似たような事態になったことのあるアーニャは、シルとの交流や忙しい日々によって自分というものを取り戻していった。壊れた硝子のようになった心を拾い集める作業とも言えるそれは、時間と環境が解決してくれた。
けれど、この少年が心を取り戻す
忙しい日々を送っている。幸せな環境を築いている。
それなのに、夢に出るほど苦しむ何かが消えてくれない。
「分からないけど、時間が解決するのを待つしかない」
「……ユートは幸せもんだニャ」
シルの言葉はつまり、ユートの心の問題にどれほど時間がかかっても付き合おうというのだろう。
余りに献身的であると同時に、シルやアーニャを送り込んだミア・グラントはこの少年の心の内に感づいていたのだろう。でなければ貴重な労働源を出向させるなどという真似を許すものか。
「仕方ないニャ。ミャーも気が向いたら手伝ってやるニャ」
「ありがとう。アーニャ」
「……まぁ、幸せになって欲しいくらいにいいヤツだからニャ」
二人とも、と言葉にせずにそれだけは胸の内に仕舞い込んだ。
「私はもう寝るニャ。シルも、あんまり甘やかしすぎないことニャ」
どれほど手を差し伸べても、その手が見えなければ手を伸ばすことは出来ないし、手を取る意志が無ければ意味はない。結局のところ救われる側にだってやらなきゃいけないことはあるのだ。
あの少年はまだ、救われる準備が出来ているようには見えなかった。
「……ミャーも、ちょっとは頑張るかニャ」
離れてしまった兄との距離を思い出しながら何となしにそう思う。
レベル4の自分とレベル5の兄。その差はあの時よりも更に広がってしまった。
向こうが歩み寄ったとしても自分がその距離に居なければ兄と手を繋ぐことは出来ない。
だから、そう。自分も兄との関係を繋げる準備が必要なのだ。
その準備は、あの少年のいるここで過ごすことで出来そうな気がした。
だから、そう、別にやりたいわけじゃないけれど。
この孤児院の手伝いくらいは、してやってもいいかなと思った。
どうしてか、そう思えたことが誇らしかった。
◆
「そーら! おミャーら起きるニャ!」
日が昇り朝露が木々から零れる時節に猫人の声が高らかに響いた。
希望の朝が今日もまた訪れたことに子供たちは安堵しながら、いそいそと寝台から出る。
すっかり孤児院の一員となってしまったアーニャはきびきびと子供の面倒を見ながら朝の支度を整えていく。部屋前に出されたシーツを回収し洗濯場に放り投げ、年長組の点呼を取りながら手分けして小さな子供たちの面倒を見ていく。
「アーニャ姉! こっち終わったよ!」
「でかしたニャ! もうそろそろ朝食出来るから子供たちを食堂に連れてくニャ!」
がってんしょうち! と元気よく返ってきた応えに満足げに破顔する。
ここの子供たちは何というか、希望に満ちている。
まるで暗い日々なんて訪れることはないことを信じているように元気がいい。
その信じる理由を思い浮かべ───血塗れの寝台が浮かぶ。
いちばんしんどい奴が、いちばん頑張ってる。
だったら自分だって頑張らなきゃいけないのだ。
アーニャ・フローメルは今日も生きる。
兄との確執はとうに消え、けれどそれを掴むにはまだ自分が出来ていない。
だから、今度は兄から迎えに来てもらうのではなく自分から会いに行こう。
そこでまた怒られたらどうしようとか、今は考えない。
だって、そういう不安とかを押し殺して戦ってる少年の姿を見たから。
あの姿を見て、昨日の姿を見て、そして兄の言葉を思い出して。
そういう不安と戦うことの大切さを、学んだ気がしたから。
「おはようニャ。ユート、今日のご飯はなんだニャ?」
「あ、おはようアーニャ! 今日の朝飯はパンと目玉焼き、ミニトマトとオリーブトッピングのサラダかな。栄養豊富で美味しいフレッシュジュースも作ってあるから冷蔵庫の中にあるやつ取ってってくれる?」
「分かったニャ。てかジュース作ったっておミャーは何気に多芸だニャ」
「そんなに難しいもんじゃないし、良かったら教えようか?」
「美味しかったら店のメニューとして母ちゃんに紹介してやるニャ」
「そいつは光栄だなっと」
目玉焼きを次々作りながら笑顔を浮かべるユートの顔を見る。
昨日あれほど幸せそうだったその顔が、今は作り笑顔に見えて仕方が無かった。
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高評価、感想など頂きましたら今後の励みになります。
今日の一口情報:ユートの剣を抱かなければ寝られない悪癖はユゴス時代に培ったもの。ステラとの日々で解消されたものであるが、ステラ死亡後に再発した。
たぶんユートがオラリオ来て一番曇ってるのはシル。