いつか曇りの英雄譚   作:横に長いベンチ

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平穏は既に遥か遠く

 ────落ちていく。

 

     落ちていく。

 

 上から下へ。

 

              下から上へ。

 

 眠りから眼を覚ませば? ……ううん、そうじゃない。

 微睡からの覚醒の浮遊感じゃなくて。

 この墜落はもっとおどろおどろしいものだ。

 

 ほんの少し前から、気が付いたらそうだった。

 

 落ちていく。落ちていく。

 糸の切れた人形のように。

 翅を捥がれた蝶のように。

 悪意に晒された子供の無力さは、どんな愚かに例えようとよく似合う。

 

 それより前のことはたくさん覚えてるのに。

 こうして落ちていく過程は覚えていない。

 

 それでも──

 気が付けばいつの間にか、こうして落ちていってた。

 それが始まり。それが私の今の全て。

 

 落ちていく。私は落ちている最中だった。

 どこにでも行けると錯覚していた翅は焼け落ちて。

 代わりに足に巻き付く縛鎖が蛇のように鎌首をもたげていた。

 

 ここはどこ?

 これはなに?

 

 世間知らずの私には何も分からないけれど。

 

 それでも、ここが仄暗い闇の穴の中であることは分かっていた。

 

 周囲を埋め尽くす屍の群れ。

 無数の命の成れの果て。

 かつて夢見た煌びやかな世界はそこには無くて。

 ただただ無慈悲な酸鼻が地平線の彼方にまで続いていた。

 

 落ちていく。

 

 心と、身体が。

 

 悪いことをすると、英雄に倒されちゃうって知っているのに。

 心が、身体が、生きるために悪いことを止めてくれない。

 

 英雄。

 正義の味方、救世主、都合の良い終幕装置。

 きっとこの世にはいないもの。

 本を開けばいつだって会えるのに、現実にはどこにもいない。

 影も形も掴めない、居るかもしれない居ないもの。

 

 ……オラリオ?

 

 世界の中心だっていう迷宮都市には英雄がたくさんいるんだっけ。

 それも神様から恩恵を背中に刻まれた、本物の英雄が。

 迷宮から生まれ出る怪物たちを退治しにいく、英雄たちが。

 けど、けれど。きっと彼らは英雄じゃない。

 英雄だったとしたら、こんな地獄を正しに来てくれるはずだ。

 私みたいに無力な子供たちを助けに来てくれるはずだ。

 

 だから、この世に英雄はいない。

 

 まぁ、いいよね。

 

 少なくとも、期待なんてしなくていい。

 

 期待をすれば、それだけ辛い。

 

 希望があると、縋りたくなる。

 

 もう、そんな元気だってありやしないのに。

 

 いいんだ。私は、もう、取り返しのつかないところまで落ちていく。

 落ちていく……誰が?

           私と、幼いころの私の夢が。

 落ちていくの。夢も、希望も無い穴の底へ。深淵へ。

 

 「……あ、」

 

 燦燦と輝く太陽が見下ろしていて、思わず手を伸ばした。

 思わず口から声が零れた。小さくて無力な、女の子の声が。

 私の声が、零れて、手を───

 

 届かない。届くはずもない。

 それでも手を伸ばしていた。

 おっかしいの。私はもうとっくに諦めている筈なのに。

 だってもう、落ちるしかない筈なのに。

 なのに、おかしいね。私の手は勝手に空へ手を伸ばしてる。

 

 ──あんなに遠い(きぼう)へ。

 ────届きもしないのに。

 

 「──助けて」

 

 誰にも届かない。無力な声。

 太陽がどこかでせせら笑っていた。周囲に憎らしいほどの白を侍らせて。

 太陽。誰にでも降り注ぐもの。誰にでも必要とされるもの。

 ただ泰然としてそこにあるだけなのに、どうしてこうも権威を感じさせるのか。

 偉ぶるやつは嫌いだ。いつだって地を這う人を見て嗤っているから。

 太陽も嫌いだ。この砂漠都市の太陽は痛いくらい人を凝視するくせをして、落ちていく人を見て嘲笑っているように感じるから。

 

 ……落ちていく。

 翅を捥がれた蝶は、無力に踏みにじられるものだ。

 誰も踏みしめる大地をみやしないくせに、簡単に踏み躙ったものを辱める。

 落ちていく。落ちていく。落ちて……。

 

 ────ふと。

 琥珀色の双眸が闇の中から飛び出してきた。

 

 「────────ぁ」

 

 喘ぐようにそれを見る。

 小さい。年の頃は十にも満たないだろう。灰黒色(ブラックアッシュ)の髪の毛をバンダナで纏めた褐色肌の少年は砂漠都市ではよく見る容貌をしている。

 ただ、()()。私が見てきた何物とも違う色をしている。

 それは見目の色では無く、覇気だ。意志だ。魂の色だ。

 悲嘆にくれた青と、憤るような真紅。労わるように優し気な橙。

 色鮮やかで見ていて飽きない彼は、腰に差した剣闘剣(グラディウス)を見せびらかすように立っていた。

 

 「おい。その辺にしとけよ」

 

 お腹の底に響くような強い声だ。

 私はそれを聞いて耳を疑っていた。

 助けるつもり? 私を? この砂漠都市の住民が?

 横を見れば、無感情に見届ける傍観者。

 横を見れば、ものを言わぬうち捨てられた死体。

 地獄の底であるユゴスの都市に、人の心を見出すことが出来るとは思えなくて。

 私は、地面にしりもちをつきながら少年を見ていた。

 魂を奪われたように、一挙手一投足を見逃さぬように。

 

 「だからその辺にしとけって言ってんだよ小児愛者」

 

 「んだとっ! このっ! クソガキがぁっ!」

 

 静謐に告げられた言葉は激昂を以て返される。

 地獄の住人は当たり前のようにその暴力を少年を振るおうと拳を振り上げた。

 たった一瞬の暴力の邂逅。大人と子供。よく見る光景、よくある結末。

 けれど、腰の剣を差す彼はこの都市にいる数少ない──その結末を覆せる例外だ。

 すれ違いざまに何をしたのか私の眼では追うことすら出来なかった。

 バァンと大きな音がしたと思ったら、私を踏み躙ろうとした男は蹲っていた。

 生きている。息はある。致命傷には至らないだろう。

 敵を生かしたまま、最小限の戦闘での勝利。格が違う。

 それは風格と、品格と……とにかく格と着く何から何までがこの都市に見合っていない。

 

 「──すごい」

 

 思わず口から零れた言葉は希望にあふれていて。

 思わず口を手で覆わざるを得なかった。

 哀れみを湛えた瞳は暴漢にすら向けられていて、背筋が痺れるほど鮮烈な人だった。

 強くて、優しくて、それでいて遠雷のように鮮烈な男の子。

 英雄は実在した。御伽噺の中だけの存在じゃなかった。

 

 この日からきっと。

 ああそうだ。この日から。

 

 私は本当の意味で落ちてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 「……ステラ」

 

 誰かが耳元で囁く。

 それは私の名前だ。そう、私の名前はステラ。ステラ・アピス。

 もう彼以外に呼ぶ人のいない私の名前だ。

 

 瞼を開ける。

 いつかの夢を見ていたようだ。

 思い出すのも恥ずかしくなるくらい桜色の記憶。

 紅潮した頬を撫でつけながら視線を彷徨わせる。

 清潔な白いシーツに包まれた彼が寝息を立てているのを聞いて、落下は夢だと思い直す。

 安心を求めるように彼の頭に触れれば、男の人特有の硬い髪が指を押した。

 ざらざら、針金みたいな硬さ。灰と黒の間みたいな色も相まって本当に金属のよう。

 手入れ何てされてなくて、偶に血と汗で固まっていることもある。

 そう。私の隣で眠るこの小さな少年は剣闘士だ。

 それも使い捨ての下級じゃなくて、滅多にいない上級剣闘士。

 かつて剣闘で栄えた滅びた都市の名残。搾取される側なれど、確とした武力を保有する唯一の勢力。それがこの家から真っ直ぐ主街路を通ったさきにある円形闘技場だ。

 他から連れてこられた奴隷が剣闘士になる例もあれば、生まれた時から剣闘士として育てられる例もある。残虐な舞台(ショー)の見世物にして哀れな宿命を背負った道化人形たち。今のこの都市で剣闘士とはそういうものだ。

 下級剣闘士はその中でも一番酷い待遇を受ける人々のことを指している。

 彼らの一日の始まりは一対一の殺し合いであればまだいい方で、時に連れてこられた怪物と戦うこともあれば、集団で最後の一人になるまで殺し合うこともある。

 栄誉か、死か。試合に臨む彼らにはその二択しか残されていないのに。

 そのくせ下級剣闘士の報酬金はとても安い。

 寝床は自分の殺した怪物の皮を敷くことを許されるだけで、食料は奴隷とか、引退した剣闘士とか、自分より下位の人間から奪うことでしかまともに手に入れることは出来ない。

 下級剣闘士っていうのは、そういう人とは思えない生活と、人とは思えない殺し合いが続く地獄の螺旋なのだと教えられたことがある。

 

 それでも、か細い糸は残されている。

 下級剣闘士はいつ如何なる時でも中級剣闘士へ成る試練を受けられる。

 その試練の内容は既に神々から恩恵を刻まれた中級剣闘士を殺すこと。

 つまりそれは、人の身で偉業を為すことに他ならない。

 恩恵を得た人間とそうでない人間には大人と子供のような差がある。

 だから大多数の剣闘士は下級の地位を甘んじて受け入れ、程なくして死んでいく。

 その運命を打ち壊し、勝ち取った人間だけが好待遇を受けることが許されるのだ。

 

 上級剣闘士はその中でも更に稀な存在だ。

 レベルという、魂の位階を昇華させた人間だけがその地位を得られる。

 その強さは個人で百の兵士に匹敵する……らしい。

 遥か彼方にある迷宮都市オラリオでも位階を昇華させられる人間は少ない。

 まして、世界の危機たる迷宮の無い場所でのレベルアップなど類を見ない。

 現にこの都市にいる上級剣闘士は彼を含めて僅か三名。

 後は一人、最上級剣闘士という、位階を二つ昇華させた人間がいる。

 円形闘技場最強の男、残虐な性格と残虐な戦闘を得意とする血濡れの男。

 武力を持つことを許された下級から上級の、凡そ百人にも及ぶ剣闘士たちがこの腐りきった都市で反乱を起こさない理由がその男が存在するからなのだ。

 最凶の男インヘルカは恐怖の象徴としてその悪名をユゴスに轟かせている。

 

 ……忘れもしない。憎い男。

 私の家を焼いた、アポピスの手先。

 かつてこのユゴスの都市はアピス様の庇護のもと緩やかな繁栄をしていたというのに。

 闇派閥(イヴィルス)の代頭とともに突如として現れた闇と混沌の化身を自称する神によって繁栄は瞬く間に打ち壊された。今からたった5年前の話だ。

 そしてアポピスとインヘルカは奪い取った都市の円形闘技場(コロッセオ)に眼をつけた。

 闇と混沌の象徴として、名誉と矜持の闘技場は形を変えた。

 私はたった一人の付き人を連れて野に降りて……その最後の付き人でさえも都市に生まれた闇に呑まれて死んでしまった。

 彼の最後は無念だけが浮かぶ皺だらけの顔だった。

 

 「……ユート」

 

 その名前を口の中で転がした。

 闇から私を引きずりあげた私の英雄。

 都市の闇に生まれ、都市の闇に肩まで浸かり切っているのに、哀れみも優しさも投げ捨てなかった得難い人間性をもった人。

 あれだけの武力を持ちながら、ただの一度だって誰かにそれを振り翳さなかった。

 きっとこの子だ。この子なのだ。遠きオラリオにやがて至る、闇の時代を照らす英雄は。

 私が子供の頃に何度も夢想した英雄は、きっと彼だった。

 彼ならば、或いはこの都市を混沌の手から払うこともできるかもしれない。

 

 しれない、けれど。

 

 私の英雄を、この汚泥に塗れたユゴスの都市に留める理由が見つからない。

 ぶっきらぼうでつっけんどんで、なのに行動の端々から優しさをみせてくれる彼のことだ。

 私が頼めば、きっとこの街を救うために尽力してくれる。

 けれど、今の彼は未だ幼い。インヘルカには今のユートではきっと勝てない。

 せめて彼があと一年、あと一年だけでも早く生まれてきてくれたのなら。

 それならば、インヘルカだって怖くなかったのに。

 

 「大好きよ……」

 

 縋るように抱き締める。

 私の英雄。私の夢想。彼を見ていると何故か死に別れた弟を思い出す。

 もし成長できていたのなら、こんな風に立派に育っていたのだろうか。

 インヘルカに足を持たれ、逆さづりにされた一歳になったばかりの弟。

 腹から臓腑を飛び出しながら、私と同じ薄緋色の双眸を絶望に染めていた。

 もう、大好きな子のあんな姿を見たくない。

 

 「だから、私はあなたにこれ以上の助けを求めないの」

 

 だってもう、救われているから。

 落ちるしかないと思っていた日々から、救い上げてくれたから。

 

 だから、ねぇ。

 

 きっと、オラリオで英雄になって。

 私みたいに、希望の無い人の(ひかり)になってあげて。

 

 私は行かない。行けないの。

 だってこの魂はこの都市に紐づいているのだから。

 

 あと何度、彼とこうして眠ることが出来るだろう。

 

 やがて来たる離別の時を、まるで断頭台への行進のように感じながら。

 

 私は、彼の額に唇を落とした。

 

 無防備に眠る彼は嬉しそうに眉間に寄せた皺を解していた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ……瞼を開く。

 記憶の中にあるふかふかの寝台とは違って、硬い寝床の寝心地は最悪だ。

 すっかり固まってしまった体を伸ばしながら上半身を起こす。

 すると、誰かの気配を感じた。

 半年も経てばこの気配にも慣れたものだ。

 臨戦態勢に入りかけた身体を沈めて、愛おし気に体を倒して横を見る。

 そこにいたのは扇状に広がる綺麗な赤髪と、薄緋色の瞳。

 砂国では珍しいくらいの白い肌が、陽光を受けて煌めいている。

 

 「あ、起きた。ユートってばお寝坊さんね。もう太陽が真上まで来ちゃってるわよ」

 

 「仕方ないだろ? 昨日も試合だったんだ……死闘だったんだぜ?」

 

 「もう。そんな調子じゃあ市場(バザール)に繰り出す約束も忘れてしまったのね」

 

 「……悪かったよ」

 

 両手を挙げて降参の姿勢を取れば、鼻腔に食事の匂いが届く。

 寝室の扉の向こう側では、ステラが昼食を用意してくれたのだろう。

 たった半年で家の中の権力差は大きく開いてしまっていて、今では食事や炊事も彼女がいなければままならないほど頼り切りになってしまっている。

 このまま金銭が貯まってオラリオまで出ていかれてしまっては、自活能力を取り戻すのに苦労することになるだろう。

 たった半年なのに手放しがたいと思ってしまうほど、俺にとって彼女は唯一無二だった。

 それは家事の方もあるが、それ以上に精神的な支えであるのが大きい。

 彼女がいなければ、俺はこうして穏やかに昼まで寝ていることだってできなかっただろうから。

 ……我がことながら、情けない。

 前世も含めたら実年齢は二十と四か五はあるというのに、年下の筈の女の子に縋っているなんて。

 恥ずかしくって顔から火が出そうだったので、シーツに顔を埋めて息を吐いた。

 

 「いいって。疲れてるのは本当みたいだし。……そうだ、地下窟でまた英雄譚が安く仕入れてあったのよ。アルゴノゥトだなんて、懐かしくて涙が出そう」

 

 「アルゴノゥト?」

 

 聞き覚えのない単語だ。

 この世界の英雄譚は、前世で聞いたことのある神話などと近しい伝承ばかりだった。

 今思えば、神様の名前も聞き覚えのあるものばかりだ。

 案外、前世の世界と近しい何かがあるのかもしれない。

 ただ、そんな知識を総動員したとてアルゴノゥトの名前は出てこなかった。

 首を傾げて問うてみれば、眼をまん丸にしてステラは驚いている。

 そんなに有名な話だったのだろうか。

 

 「んんっとね、アルゴノゥトってのは喜劇の英雄譚なんて呼ばれてるくらい、主人公が情けないんだ」

 

 「ん? 情けないのか?」

 

 「そう! そうなの! 情けなくて、頼りなくて……けれど必ず最後には幸福な結末(ハッピーエンド)を掴んでくれる。そんな素敵な英雄のお話よ」

 

 「ふぅん……喜劇(ファルス)、か。面白そうだな」

 

 「ええ、そうでしょう? 私の小さい頃のお気に入り……勿論、今の一番はユートよ?」

 

 「はいはい」

 

 「もう! 本当なのに!」

 

 苦笑するように流す。

 ステラの趣味は英雄譚の収集だ。

 近場にある違法商店、通称『地下窟』で俺から渡した給金を一部使って購入している。

 俺たちが今使っている寝室にも彼女の趣味が積み重なっている。

 枕元の丁度上らへんを見てみれば、幾つもの本が重なっていた。

 暇な日や、二人で過ごすときはこの本を読むのが日課の一つだ。

 そして彼女はその本たちにすら出てこない、彼女の理想の英雄とやらが俺なのだとよく言っていた。

 過大評価もいいところだ。

 多分、彼女は助けられたときに俺を白馬の王子様か何かと錯覚してしまったのだろう。

 そうでなければ、彼女の言うどこかの完璧超人と俺は決して重なるところが無いのだから。

 

 「それじゃあ聞かせてくれよ。ステラの理想の英雄って奴をさ」

 

 「また聞きたいの? いいわ、何度でも聞かせてあげる」

 

 ──曰く、どんな小さな声も聞き逃さずに誰かを助ける絶対の救世主。

 ──曰く、どんな空腹や怪我も癒してくれる万能の魔法使い。

 ──曰く、どんな悪に相対しても決して屈さず必ず勝利する無双の英雄。

 

 曰く、曰く、曰く。

 歌のような調べで語られるそれは堰を切った雪崩のようだった。

 夢中になって喋る姿は十歳という年相応のように見えて、ほんの少し笑顔になれる。

 けれど内容は身に覚えのない自己への賛歌だ。それを自覚しては笑ってもいられない。

 俺はもういい、と言って彼女の口を塞いだ。

 聞いていられなかった、というのもあるが……

 

 「それ以上は……その、面映ゆい」

 

 「……ユートってやっぱりいい所の出身だったりしない?」

 

 「なんだよ、藪から棒に」

 

 「だって、”面映ゆい”だなんて言葉。その歳の子供は使ったりしないよ?」

 

 「お生憎様、生まれも育ちも円形闘技場(コロッセオ)だよ」

 

 「そういうニヒルを気取った返しだってある程度の教養が無いと出来ないのよ? 私の見立てでは裕福な中流家庭出身だって見てたんだけど……本当の本当に剣奴出身なの?」

 

 「本当だってば。神に誓ったっていいよ」

 

 「うーん……腑に落ちないなぁ……」

 

 時折的を得たことを言う彼女の方こそ、良い所の出ではないかと俺は思う。

 そもそも指摘とはその知識が無ければ出来ないものだ。

 逆算して考えればそういう俺の一挙一動を指摘できる彼女こそが高度な教育を受けたと自分自身で証明している。

 それをいちいち指摘するほど大人げなくはない。

 無いが……まぁ、胸の内ではそういうことなのだろうと納得している。

 そもそも、この街で文字の読み書きができる子供がどれほどいるかという話だ。

 そんな俺の思惑なんて知ってか知らずか、俺が奴隷生まれだなんて信じられない理由を滔々と語り続ける彼女の額にデコピンを放つ。

 

 「いてっ。いったぁ~……」

 

 「あんまし詮索すんな。隠し事なんざ殆どねぇよ」

 

 「……あるんじゃん」

 

 「そりゃあ、言えないことの一つや二つ、あるさ」

 

 「……まぁそれは私もだし、お相子だね」

 

 ね、と歯を見せて彼女は笑う。

 砂漠のぎらつく太陽とは違う、陽だまりのような淡い笑み。

 美しい眼が俺を貫いた。

 この辺では滅多に見れない薄緋色の瞳だ。

 沈黙の中で視線を交差させて、一秒、二秒……と時間が経過する。

 仕方なしに俺から折れることにした。

 この瞳に見つめられてはどうにも逆らう気が失せる。

 このきらきらとした希望の映る瞳には、世界がさぞ美しく見えているのだろう。

 そうでなければ、誰が見つめられただけで負けを感じるというのか。

 これでも剣闘では無敗の身上であるというのに。

 

 「……その内、な。その内教えてやるから」

 

 「本当? じゃあその時に、私の秘密も教えてあげるわ」

 

 嬉しそうにそう言うと、彼女は寝台からひょいと飛び降りる。

 着地は猫のように静やかに。

 ひらひらとした白いシルクの寝間着を翻して、彼女は居間へと続く扉に手をかけた。

 少し開けば少々の時間が経ってもなお鼻梁を擽る食事の香り。

 香辛料がよく効いた味の濃いユダスの伝統料理だろう。

 起き抜けにはややきついかもしれないが、果実水で流し込むとこれが案外合っている。

 ステラと初めてした食事も、確かこれを出されたのだったか。

 

 「さ、もうそろそろ食べなきゃ折角用意した食事が傷んじゃうわ」

 

 「そうだな。それを食べたら……バザールでも見てこようか」

 

 俺の言葉に彼女は破顔する。

 いつだってそうだった。

 彼女はよく笑うのだ。

 その笑みは何の瑕疵も無い、清らかな曲線を描く。

 いっそ優美なほどのそれは、世界が美しいものなのだと疑っていない証左だった。

 そんなステラの微笑みがあるからこそ。

 俺は世界に彩りを得ることが出来ているのだ。

 

 俺の世界に色彩を与えた彼女はそれを自覚することなく居間へ向かう。

 俺もそれに続き、水瓶で顔を濡らして後を追った。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 暗夜行路を歩く。

 名前とは裏腹に、燦燦と輝く太陽に照らされ白光した砂礫の地面が目についた。

 唯一まともに治安が通った場所であるからか、真面に商売が行われるのは暗夜行路だけだ。

 俺たちは今日、久々の余暇を楽しむために暗夜行路の商売街区に足を運んでいた。

 

 「賑わっているな」

 

 「そうね。裏側とは正反対」

 

 思わず口にした主観を肯定するステラは憮然とした表情を崩さない。

 俺は彼女が荒廃したユゴスの都市を快く思っていないのは知っているので黙りを決め込んだ。

 ステラはそんな俺の手を取って慣れたように腕を組むと、エスコートでもするかのように絨毯の敷かれたバザールを練り歩く。

 目まぐるしく変わる品々は他所では禁制品な品ばかりだが、それに紛れて興味深いものもある。

 特にアクセサリーの類はこの都市の工芸品として有名だったらしく非常に美しかった。汚泥に咲く華もあるということだろう。

 

 「あ、見てこれ。アルゴノゥトよ。家にあるのとは違ってこれは絵本形式なのね」

 

 「英雄達の船(アルゴノゥト)

 

 昼日中に聞いた言葉を鸚鵡返しに口内で転がす。確か喜劇の英雄譚だったか。

 彼女はその場にしゃがみ込んで置かれた本を手に取った。

 俺もつられてしゃがむと、古い装丁の薄い絵本を覗き込む。

 若い──あまり強そうではない少年の絵だ。

 猛き英雄というよりも、羊飼いのような純朴な少年と言われた方が馴染む。

 お道化るような台詞の数々と、失敗談の数の多さは暗い雰囲気の都市内であってもクスリとさせられるほど愉快な絵ばかりでステラが気に入るのも納得できるものだった。

 

 「なるほど、確かに面白いな」

 

 「そうでしょ?」

 

 ふふん、と得意げな顔をするステラの頭を徐に撫でる。

 さらりとした絹のような手触りの赤髪をすり抜けて頬に手を当てる。

 不意に、何かこの綺麗な顔を飾り立てる何かが欲しくなる。

 幸いにしてこのバザールは独特ながらも美しい工芸品が多い。

 プレゼントするのも偶にはアリだろう。

 

 「どうしたの?」

 

 「ああ、いや。何でもない」

 

 少し考え込んだ俺を案じて顔を近づけてこられる。

 ふわり、と覇王樹の花のような甘い香りが鼻梁を撫でた。

 綺麗だと素直に思う。これであと数年もすれば、誰もが振り返る美女になることだろう。

 その咲き誇る姿を見届けることは、きっと出来ないけれど。

 それを飾るものくらいは、送ってもいいだろう。

 この赤に似合う色ならば、きっとそれは金色だ。

 富と繁栄の象徴にして、決して腐らぬ永遠の黄金。

 それはきっと、高貴で勝気な赤によく似合う。

 俺は店の奥にある鷹の羽をあしらった金の耳飾りに眼を向けた。

 

 「……いや、そうだな。店主、この金の耳飾りは幾らだ」

 

 「……9万ヴァリス」

 

 言葉少なに返答され、俺は自分の懐から取り出した袋を投げた。

 ずしりと金貨の詰まるそれを確認すれば、店主は顎でしゃくって持っていけと指示をする。

 釣りを返そうとしない辺り対応は最悪だが、まぁ端数だ。気にはすまい。

 

 「ステラ。これを君に」

 

 「……いいの?」

 

 「ああ。君の顔を見ていたら、その美しさを際立てるものが欲しくなった」

 

 「……上手ね。でも、ありがとう」

 

 「礼には及ばないさ。俺が勝手にやったことだし」

 

 「あのね、こういうときは素直にお礼を受け取った方が貰った側も嬉しいのよ?」

 

 「そうなのか。それじゃあ、その礼は貰っておくよ」

 

 「……つけてもらっても、いいかしら」

 

 「分かった」

 

 強請られ、彼女の耳元に飾りを近づける。

 針は無い。耳の形に嵌めるタイプだ。俺はそれを持ち前の器用さで取り付ける。

 耳を覆う金の装飾と、それに連なる黄金の羽。

 仄かに覗く紅玉の意匠は誇り高い鷹の羽をよく表していた。

 両耳を着け終わって、少し離れて彼女を見た。

 ……うん。やっぱりよく似合っている。100点が120点になった。

 

 「うん。よく似合ってる」

 

 「そんな……嬉しいわ」

 

 俺が微笑むと、彼女も微笑む。

 だから俺もなるべく笑うようにしている。

 ほんのひとときでも長くステラが笑っていていられるように。

 ……本当は疵の舐めあいに過ぎないのだと、俺たちは分かっているけれど。

 それでも、お互いを想いあっているのは本物の気持ちだとおもうから。

 だから俺は、何度でも微笑むんだ。

 例え死神のような過去が追いかけてきていたとしても。

 その暗闇でさえも翼にして、背負うのだ。

 

 陽光に照らされたのとはきっと別の赤を頬に差した彼女は鈴のような声をあげた。

 玉響に鳴るその音色を聞き届け、俺は彼女の手を引いた。

 小さくて、柔らかくなったてのひらは女の子のもので。

 俺は嬉しくなって跳ねるように足を運ぶ。

 

 陽下、でたらめなステップを踏みながら暗夜の舞台を踊り歩く。

 祭りのように熱に浮かされながら、叶わぬ将来を願って。

 

 「ユート。私、楽しいわ」

 

 「俺も楽しい。君と一緒なら、きっとどこででも」

 

 視線が陸み合う。

 互いが互いに分かっていた。

 この夢のようなひとときは、きっともう長くないことを。

 彼女はここから出ていく資金が貯まるまでそう長くはかからない。

 俺はきっと、彼女を送り届け、その先で暗闇のなかに舞い戻るのだ。

 

 ……剣闘の王に打ち勝つか、或いはその心臓が止まるまで。

 俺はこの都市から逃げることは能わない。

 

 警告するように胃の腑を傷つける呪いが蠢いた。

 

 蛇のように、蟲のように。

 おどろおどろしく、悪意に溢れて。

 

 

 

 

 

 

 

 俺たち二人の予感は、それから少しして事実となった。

 

 神の試練が、俺たち二人に近づいていた。

 

 或いはあの試練こそ、俺の運命を決定づけるものだったのかもしれない。

 

 何度だって悔やむ。

             何度だって願う。

 

      けれど、それは泡よりも淡い夢。

 

   英雄になる条件は、いつだって決まってる。

 

 

     少年が、すべてを奪われることだ。

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