いつか曇りの英雄譚   作:横に長いベンチ

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蛇の眼、血濡れの王冠

 円形闘技場の貴賓席。

 そこはかつて、ユゴスの都市を治めていたアピス神とそれに仕える一族が座る天座。

 質素質実であった落ち着いた色合いの飾りは既に取り払われ、下品なまでに豪奢な金と、赤と、そして宝石によって彩られていた。

 眼下で繰り広げられる幼子たちの殺し合いに見向きもせず、一人の褐色の少年が酒杯を呷り、傍らに添えられた壺から瑞々しい葡萄を鷲掴んで頬張った。

 その雰囲気は人に非ず。蛇のような縦に裂かれた瞳孔は怪しく深紅に染まっている。

 艶やかな黒髪を蠍の尾のように一つに纏め、僅かな布だけで飾りたてることで少年の背徳的な肉体美を惜しげも無く晒すそれは外見から想像のつく年齢とは思えぬ退廃を醸し出す。

 血の匂いと、酒の匂いと、葡萄の甘露で染められた頬には深い愉悦だけが浮かんでいた。

 ユゴスの都市を平和に統治していたのがアピスであるとするならば。

 ユゴスの都市を混沌に貶め耽ているのがこのアポピス神である。

 司るものは、死と混沌。好むものは、怨嗟と慟哭。

 好むことへの理由は無い。ただ生まれた時からそうだっただけである。

 そしてこの都市を自分の好みに貶めたのも特に理由は無い。

 殊更に嫌いだった煩悩神(ゼウス)嫉妬女神(ヘラ)がいなくなり、自由に動けるようになったからと各地で悪さをしていた矢先、円形闘技場という目立つ建物が目についたからにすぎない。

 ただ目について、欲しいと思ったから自分好みにした上で手に入れただけだ。

 混沌を好む神は、欲求には素直に従う。

 それは彼の眷属(こども)たちも全く同じであり、そしてその欲求は大概が無辜の民を虐げる。

 故に彼らはこう呼ばれるのだ。

 

 ────闇派閥(イヴィルス)と。

 

 ぺろりと長い舌で指に付着した果汁を拭うと、その瞳を横に動かしアポピスは口を開いた。

 

 「おい。葡萄が消えた」

 

 「ただいま取り換えて参ります」

 

 「頼んだ……あっそうだ。下の試合ね。退屈だからついでに()()()()()()()

 

 「その役目、私が行っても?」

 

 「マルー」

 

 胸の前に両手で輪を作り肯定した神に従い、傍に控えた男の片方は消えていく。

 厨房に葡萄の代わりを伝えた後に闘技場に飛び入り参加するのだろう。

 もう一人の傍仕えに対しでろんと椅子へもたれ掛かった神は絡む。

 

 「はぁ……やっぱ下級の試合は退屈だなぁ。

  金稼ぎになるから定期的にやってはいるけどさ。

  人間(こども)たちはなんで幼子同士の殺し合いなんて見たいんだろ。

  お前、なんか理由知らない?」

 

 「そいつぁ俺たち人間が混沌を好んでいるからでしょう」

 

 「ふぅん? なら混沌の神である俺は多少の退屈さくらい許してやるべきか?」

 

 「ははは、やりたいようにするのが混沌ってもんじゃないですか」

 

 「それもそっか。眷属に言われるだなんて僕もまだまだだなぁ」

 

 階下で五歳にも満たない子供が虐殺される中、それが当たり前であるように嗤う。

 それが異常な光景であると指摘する存在はいない。 

 この都市は既に、混沌の手に落ちていた。

 それも、恐ろしいほどの迅速さで。 

 アポピスは軍神ではない。策謀家ではない。ただ混沌を愛しているだけだ。

 そこに狡猾さは無く、無垢な悪意だけがある。

 つまり、都市を瞬く間に落とした狡猾な男がいる。

 

 「────なぁ、そう思わないか。インヘルカ」

 

 「全くだな」

 

 「っ!? インヘルカ様、いつの間に……」

 

 「雑魚が俺の前で口を開くな」

 

 慌てて傍仕えの男は口を手で押さえた。

 レベル4。脅威の少ないオラリオの外において埒外の強さを誇る存在。

 そして、()剣闘王。

 前の剣闘王を殺し、その席に首を添えて座った男。

 

 ユゴスの都市は精強だった。

 平和ながらも日々お互いの力を高め合う円形闘技場があるユゴスは。正確に言えばユゴスの土地に根付いていたアピス・ファミリアは複数のレベル2を有し、近隣諸国でも抜群の戦力を誇っていた。

 それを単騎で殲滅したのが、このインヘルカだった。

 未だにその隔絶した強さと残虐性は忘れられておらず、多くの戦力が未だに眠るユゴスの都市の抑止力となっている。

 ……とはいえ。既に反乱分子すら都市の闇に呑まれて消えたとは思うが。

 傍仕えの男はインヘルカの来歴を知らない。

 ただ、アポピスに見初められ、生まれながらに混沌の種を蒔かれたとだけ聞いている。

 年齢も知らないが、筋骨隆々の外見から見て二十半ばか三十の間だろうとは思っている。

 銀髪と整った野生獣らしい顔立ちは深い傷跡が刻まれている。

 

 「退屈と言えばさー。面白い子いるよね」

 

 「ああ。あの子供か。アレはいい。既に戦士として出来上がっている。

  もうそろそろ、食べ頃のように思うが」

 

 「ええぇー。まだ殺しちゃ駄目だよ。せっかくレベル2になったんだよ?」

 

 「俺のやりたいようにやらせると言ったのはお前だが?」

 

 「……えぇー。でもぉ。ユートってまだまだ伸びると思うんだよなぁ」

 

 「なら猶更早く壊さなきゃだろ。

  完全に熟れる前の果実を地面に叩きつける快感は、そう味わえない。

  まして、あれほど極上の素材だぞ」

 

 「良い趣味してるー♡

  でもそっか、それならあの子もこれで見納めになるのか。

  できるなら盛大に、大々的に死んでほしいな」

 

 「そういう余興を演じてやるくらいの甲斐性はある。セッティングまで好きにしろよ」

 

 「ホント?! マジかぁー。インヘルカってば分かってるぅ」

 

 アポピスは椅子の下を覗き込むとそこにあった木箱から一枚の羊皮紙を取り出した。

 分厚く長いそれに書き連ねられた文字はこの都市を監視する眷属からの報告書だ。

 特に最近はお気に入りだったユートの周りを調べさせていた筈だと傍仕えの男は思い出す。

 

 「ふんふん……給仕の女の子を雇ってるんだ。

  ユートくんってばかわいー♡

  ん? この子どっかで見たことあるなぁ」

 

 「どいつだ」

 

 後ろからインヘルカが覗き込む。

 そして眼を見開いて、その酷薄な笑みをより深めた。

 

 「最後の一人を見つけたぞ」

 

 「え? マジ? この子が? へぇ、なんか運命的じゃない?」

 

 「剣闘王の息子と、ユゴスの太守の娘。二人いっぺんに壊せるとはな」

 

 「うんうんっ! いい混沌(じゃあく)だねぇ! さいッこうのショウになりそう!」

 

 二人の悪魔が笑う。

 血の匂いに彩られた、吐き気を催すほど甘ったるい葡萄を添えて。

 ケタケタケタケタと。

 

 それは奇しくも、ユートの感じていた死神と同じ笑い声だった。

 

 違うのは、既にその鎌は首筋に突き付けられている点だけだった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 その日は嫌な予感がした。

 砂漠にしては珍しい湿った空気もそうだったし。調味料が切れているのもそうだ。

 何か、取り返しのつかないことに陥りそうで。

 俺は腰に下げた剣闘剣(ハディード)から手を離せない。

 ……ハディードは、良い剣だ。

 頑丈で、切れ味が悪く、刺突に向いた形状をしている。

 先端以外の切れ味を排した武骨なグラディウスは分厚く重く、高耐久。

 大雑把な作りであるが故に非常に頑強で中級剣闘士に配られる上等な武器だ。

 その頑丈さから、これがメンテナンスが必要になる頃には持ち主は死んでいるなんて嘯かれるくらいには信頼性が高い。

 かく言う俺もその頑丈さには信頼を置いていて、心の安寧を保つために手を添えることは多々あった。

 

 それでも。

 

 それでも。心の暗雲は晴れない。

 むしろ曇天は雨天の直前のように荒れに荒れて、どうも落ち着かない。

 俺は起き上がり、ステラの寝る部屋へと向かった。

 このどうしようもない焦燥感が現実のものとなるとしたら。

 それは彼女の身に何かが起こったことに他ならないのだから。

 

 「ステラ。入るぞ」

 

 「うん。どうしたの?」

 

 扉を開けば見えてくるのは白いローブに身を包んだステラだ。

 寝間着にいつもみすぼらしいものを使っていたので見かねてプレゼントした、絹糸で編まれた上質なローブ。

 片耳に飾られた鷲の羽をあしらった耳飾りを見て、僅かに心が和らいだ。

 俺は感じていた不安を押し隠していつもどおりに振る舞う。

 

 「ああ、いや。ちょっと顔が見たくなっちゃってな」

 

 「ええ? もう、ユートってば仕方ないわね」

 

 「ああ本当に────伏せろ!!

 

 一息に踏み込んでハディードを振りぬいた。

 武骨な音が空を鳴らし、断層を生みながらステラの真後ろを切り裂いた。

 切れ味の悪い武器であっても、技で補えば人外の鋭利さを実現できる。

 ────その技量すら無に帰す、圧倒的な力に阻まれなければ、だが。

 

 「インヘルカァぁあアアア!!!」

 

 「でけぇ声出さなくても聞こえてるぜユゥゥウウウウト!」

 

 自分の知る限り最強の男と邂逅する。

 考えていなかった訳ではない。

 この悪辣な都市であればいつ如何なる瞬間でも最悪の想定はして然るべきだ。

 だが────────だからこそ納得できない。

 

 「なぜ俺では無くステラを狙った!」

 

 「あ゛ー……言わない方がお前の心が傷つきそうだな!」

 

 「貴様ァアアアア!」

 

 敢えての捨て身で特攻する。

 すべてを俺に引き付けさせる。

 後ろに攻撃は通さない、後ろに視線は通さない、後ろに何も通さない。

 決意は既に、死への恐怖を上回っている。

 上段切り。裂帛の気合で為された一撃。鉄塊で出来たような強度だったデススコルピオでさえも叩き割った一撃。

 それはいとも容易く受け流された。

 技術によるものではない。圧倒的な身体能力差によって為されたもの。

 精神では打ち克てないほど隔絶した肉体の差。

 考えないようにしていたが、今の俺の身体は矮躯に過ぎる。

 子供(6さい)の肉体と大人の肉体に同じ量だけ力が上がる恩恵を刻めば、当然のことながら勝つのは大人の方だ。もともと有している力が違い過ぎる。

 まして、相手は自分より2つも上の……っ!

 

 (だからどうした!)

 

 既にこういう事態に陥ったときの段取りはステラとしている。

 階下に仕込んだ金と、商人から購入した渡航券。

 それらを持ってステラはオラリオへと逃げると約束している。

 俺が足止めしている間に逃げるのだと。

 

 本当は、俺が付いていきたい。

 外の世界は武力を持たない子供が生きていける世界ではない。

 平和な現代日本とは違い、怪物と盗賊が跋扈する異世界だ。

 せめて、武力を持った俺が付いて行ってやるべきだった。

 それでも。インヘルカ(レベル4)が出張ってきた今、俺が死ぬ気で足止めするしか片方が助かる道は無い。

 

 (隠し場所には魔剣も入れてある! ステラなら使い方は分かるはずだ! 気休めだが、無いよりはマシと思え! そして、今からステラのことを考えるな! インヘルカに集中し────)

 

 嫌な予感がした。それに従って首を傾ける。

 無理な体勢がたたって脚の筋を痛めるが、直後に正解だったと悟る。

 無造作に振り切られた片刃の刃歯鋸(チャークー)が俺の頭があったところを通っていた。

 背筋が凍り付くような切れ味を誇る鮫の牙(ドロップアイテム)製のそれは、浅く抉っただけの肩肉を大きく損壊させていた。

 削がれた血肉がべちょりと地面に投げ捨てられる。

 空気に触れた露出した筋肉が熱を感じ、遅れて電流が走ったような痛みが全身を伝う。

 俺はそれを無視した。無視せざるを得なかった。痛がってる暇なんて無かった。

 

 「なんだ! 殺し合いが出来るくらいにはなってたか?!」

 

 返答している余裕なんてない。

 脂汗が滲む全身を必死に動かして応戦する。

 刃と刃と刃と刃。密着するほどの接触距離(クロスレンジ)は息をつく暇すらない。

 目まぐるしく沸き出る鮫の口蓋を必死に撃ち落とし、時に避ける。

 掠るたびに抉られる血肉が次々と地面に投げ捨てられ、刻みつけられた俺に体は哀れなほどに襤褸雑巾のような様相と化していることだろう。

 運動で温まった筈の身体が冷えていると錯覚するほど汗がでている。

 眉にかかる汗の珠が鬱陶しい。噴き出る血液が煩わしい。勝てない俺が恨めしい。

 何でだ? どうしてこうなる。

 俺は、死にたくないはずじゃなかったのか?

 死にたくないから、生きるために勝ってきたはずじゃなかったのか。

 それなのに、頭に浮かぶのは自己の生存ではなく、ステラの安否だけだった。

 考えないようにしているのに、そればかりが浮かんでいた。

 

 俺は、自分の命すら投げ打とうという気にすらなっていた。

 

 「────────ッハ!」

 

 いいことじゃないか。それくらい。

 もともと、子供たちを殺した身で楽に死ぬ自分が許せなかっただけだ。

 足掻いて、足掻いて、足掻き切って。

 その矢先で自分がしたことを悔いて死ぬ筈だった。

 それくらい苦しんで生きなければ贖罪にもならないと思っていた。

 でも、彼女が生きてくれてるんなら。

 それなら、俺が殺した彼らも少しはゆるしてくれるのかなぁ─────

 

 「いいぞ! お前の親父より楽しいじゃないか!

  オイ、まだ落ちるなよ、こっからは俺も本気で……あークソ。

  うるせぇな、生け捕りね、分かったよ」

 

 俺の前で虚空に呟くインヘルカを見て思う。

 コイツ、通話してやがる。つまり、別で仲間が動いている。

 通話方法なんざどうでもいい。つまり、俺はコイツに勝たなきゃならねぇ。

 じゃなきゃ、コイツを殺した後に、ステラを助けに行けねぇ。

 

 「殺す」

 

 

 

 

 「やって見ろぉ♡」

 

 

 

 

 ()()()と。

 蛇が這いずるように、削がれた肩に手が添えられた。

 再び痺れるような痛みが全身を貫いて────────

 ふぅ、と耳に甘い息を吹きかけられた。

 

 「ダメだよ、そんな動いちゃ。出血多量で死んじゃう」

 

 「ア、ポ、ピスゥ!」

 

 「覚えててくれたんだぁ♡」

 

 蛇のような瞳孔が横目に見える。

 獲物をつけ狙うような気味の悪さと、ゾッとするほど美しい美貌がちろりと舌を出した。

 邪神アポピス。俺の身体に恩恵と呪詛を刻み込んだ、都市崩壊の要因。

 構成するすべてが人間を侵食する。

 構成するすべてが人間を嘲笑する。

 何度殺してやろうと願ったか、何度死んでしまえと祈ったか。

 それが無駄だと分かるのに、一日もいらなかったけれど。

 

 「ああ、可愛い子だ。恐怖を感じている、死を怖がっている。

  それなのにそれらを押さえつける精神力がある。

  君の生まれと育ちなら、高潔に育つことなんてない筈なのにね。

  可愛いね、それほど血で汚れても、光に手を伸ばそうとする。

  ざぁんねぇん♡ 君は一生、混沌(ぼく)のものだ」

 

 「だ、そうだ。同情はする」

 

 「あがっ!」

 

 臓腑を燃やすような痛みが再燃した。

 疼いていたそれが動くその熱はまるで、蟲が蠢いているような不気味さを感じる。

 一定の行為に抵触した場合にもたらされる呪詛。

 元はユゴスが犯罪奴隷を剣闘士として雇っていた時に生まれた、契約の呪詛。

 それが悪用された結果生まれた、上級以上の剣闘士を縛る鎖。

 都市から神の許しを得ずにでること。

 神に殺意を抱くこと、そしてそれを実行しようとすること。

 他にもあるが、おそらくこの「神の殺意」~云々に抵触したのだろう。

 俺は腹を抑え。

 

 それでも倒れず剣を構えていた。

 

 ヒュウと口笛を吹いたインヘルカは酷薄に嗤う。

 頬に付着した俺の血を舌で舐めとり、頬を紅潮させる姿はアポピスに酷似していた。

 この主神(おや)あって、この眷属()ありってところか。

 

 「マジでアポピスの言う通り殺すの勿体ないかもな」

 

 「でしょー? 気が変わったんならいつでも言っていいよ」

 

 「馬鹿言え。こういう可能性を使い捨てるのも混沌(おれたち)の特権だろうが」

 

 下衆だな。下衆ばかりが力を持っている。

 理不尽を感じる暇はない、理不尽を嘆く暇はない。

 刃を握り、そして────────

 

 「ステラ・アピスを捕らえました」

 

 カラン、と金属が地面に落ちた音がした。

 

 音が遠い。

 信じられない。

 俺がこいつを瞬殺できなかったから。ステラが掴まって。

 いや、まだだ、俺がこのアポピスを殺せばまだ──

 

 「取り敢えず、お前はもう寝てろ」

 

 「グギィっ!」

 

 俺の意識を刈り取ろうと振るわれる脚撃を身を捻って躱す。

 尋常ではない痛み。暫時会話をしてしまったせいでアドレナリンが切れたのか。

 剥き出しの神経を空気が触れるたびに視界が点滅した。

 意地になって抵抗する。

 煩わしそうに顔を苛立たせるインヘルカの眼を盗んでアポピスを殺せばまだ道はある。

 俺は諦めない。俺は挫けない。俺は負けない。

 ステラが信じた英雄は、そういうヤツだから。

 俺は、彼女の期待だけは裏切りたくない。

 

 「オイオイ。まだ抵抗するのかよ、最高かよ」

 

 「おれはぁ、まげねぇ゛」

 

 「本当に尊敬する。お前は、強者だ」

 

 インヘルカはまるで感心するように鋸から手を離し拍手を打った。

 そして、俺に気安く接するように近づき。

 

 インヘルカは俺の前から消えていた。

 

 ……いや、違う。

 

        これは、俺の意識が途絶えて……

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 ────────眼を、覚ます。

 

 いつもの温かい朝ではない。

 その証拠に、隣に彼女の姿は無い。

 目を擦り、あたりを見渡せば見覚えのある空間に鎖で繋がれていた。

 湿った空気と見慣れた暗闇。粛清部屋などと呼ばれる地下空間。

 つまり、ここは円形闘技場の真下ということになるのだろう。

 肩の痛みは無い。腹の痛みも無い。

 まるでこれまでステラと過ごした日々が夢だったかのように、何も無い。

 けれど、記憶が覚えている。魂が覚えている。

 俺は、負けたのだと。

 

 尋常ではない虚無感が全身を包み込む。

 何が、守るだ。

 何も守れやしないのに。英雄になんぞ成れはしないのに。

 それでも、奮起した結果がこれだ。

 

 ……ステラは、どうなるのだろうか。

 俺では無くステラを狙った理由への心当たりは少ない。

 ステラは類稀な美貌をしているとは思うが、それでも幼い。

 売りに出すにしろ、殺すにしろ、上級剣闘士である俺の給仕を奪うには理由として弱すぎた。

 つまり、それらで測れない価値が彼女に在ったということになる。

 だとすれば、生まれか。

 血筋が尊いものであるとするならばこうなることも頷ける。

 ユゴスの貴人はその殆どが根切りにされたと聞いていたが、生き残りだったのだろう。

 思い当たる節は幾らかある。

 読み書きができること、食事のマナーがしっかりしていることなど、家事能力が高いが故に目につかなかった貴族としての要素は多々あった。

 ここは日本とは違うのだ。そういう教養が与えられるのは裕福な生まれだけだ。

 そういう観念が日本の頃から動いていなかったから生まれてしまった事件。

 もっと早く、彼女を逃がすべきだった。

 一緒に過ごす時間が甘美に過ぎて、甘えた結果がこれだ。

 

 「クソッ!」

 

 ガンと石畳の地面を殴った。

 ぴきりと罅が入り、人外の膂力の反動で右拳が傷む。

 

 「……現状確認だ」

 

 まだステラが死んだと決まったわけではない。

 根拠は俺を生け捕りにしろと命令されていたインヘルカと、捕らえたと報告されたステラの身柄だ。

 このことから、殺すには何か段取りを踏みたいのだと考えられる。

 可能性としては、俺とステラを一緒に処刑することをアポピスが提案したとかか。

 予想がつく限りの俺の出自とステラの出自を加味すれば納得もできる。

 そしてそういう余興を興行として定期的に行おうとするのは知っている。

 題材は闘技場に現れた超新星と剣闘場の血濡れ王との一騎打ちってところか。

 血濡れ王に捕らえられた姫君を賭けた一騎打ちは、さぞいい稼ぎ場になることだろう。

 そして、俺が敗北したら俺の屍の上でステラを辱めるつもりだろう。

 そういう手口は、何度か見たことがある。

 

 「上等だよ……!」

 

 逆に言えば、未だ生きる道はある。

 インヘルカさえ殺せば、呪詛は解ける。

 この呪詛は誰にでも扱えるわけではない。

 剣闘王の座に位置する人間にのみ扱えるという制約がある。

 そしてインヘルカを殺し呪詛が解ければ、アポピスを殺せる。

 この都市に俺より強い戦士はインヘルカを除いていない。

 邪魔する奴ごと殺して、ユゴスの都市を闇派閥から解放する。

 そして、明らかにユゴスに入れ込んでいるステラを都市から解放するんだ。

 逃げ場が無くなったことで覚悟を決めざるを得なくなるとは皮肉な話だ。

 ……もう、とうに俺の死への恐怖は払拭された。

 あるのは戦意と、ステラを想うこの心だけだ。

 

 「オラリオへ一緒に行く……か」

 

 かつての約束。

 決して叶わぬと互いが互いに知っていた、罪深い約束。

 それを持ち出して、願う。

 これから待つ戦いに勝利することが出来たのなら、きっと。

 かなえられるはずだから。

 だから、今だけは。

 死に向かうことを許してくれ。

 

 「……使うしかない、か」

 

 能動的に使うことは無かった技能(スキル)を思い出す。

 使いこなせればレベル4という、圧倒的な格上に一矢報いることもできるだろう。

 死に近づけば近づくほど、不利になれば不利になるほど強くなる。

 それが俺のスキル、【死線舞踏(ダンス・マカブル)】。

 生存欲求がある場合、大幅に強化率が低下するという欠陥スキル。

 もう、死は怖くない。未練はあれど、押し殺せる。

 約束を果たすために死兵になれよ。

 

 「なぁ。ユート」

 

 『そうだね。ユート』

 

 死神が嗤う。

 久方ぶりにしゃれこうべが這い出てくる。

 こちらに来いと手招きをしているそれに向かって手を振った。

 俺はもう、お前を拒まない。拒めない。

 その手を拒むことは即ち、死を拒むことに他ならない。

 

 「暗闇を同胞(はらから)とし、沈黙に耳を澄まし、死に思いを馳せよ」

 

 かつて剣闘場に刻まれていた言葉。

 『死を忘れるな(メメント・モリ)』。

 伝統と矜持によって彩られた時代の、剣闘士の薫陶だ。

 俺は今まで一度だって目を向けなかった父の残した言葉を回顧する。

 顔も見たことのない、父の言葉を。

 

 「続きは、何だったかな」

 

 後に続く言葉はアポピスによって壊され残っていない。

 だから、この言葉はここまでだ。

 ただ死を想うだけの言葉。

 これに続く言葉は、いったい何を想い残されていたのだろう。

 

 「死人に口なしだ」

 

 分からない、分からなかった。

 こんな風に、俺も死ねば言葉一つすら満足に伝えられないのか。

 まぁ、それもいいか。

 死んでも、勝てれば、それでいい。

 

 「生きてるか。ユート」

 

 「……ご機嫌ようだな。伝令男(コールマン)

 

 見慣れた伝言役の男だ。

 剣闘試合の成立を告げる赤紙約。死神の招待状。

 忌み嫌われている男はその風聞の通り、悪魔のような濡れ髪と不気味な様相をしていた。

 痩せた頬を持ち上げて、吐くように告げる。ごろごろと不安を誘う声で。

 

 「アポピス様から伝言だ。明日の昼日中、剣闘試合を行う。

  勝てればすべてを開放する、だそうだ。

  負ければすべてを混沌に染める、だとよ」

 

 「そうか……それで、ステラは無事か?」

 

 「……知らん」

 

 使えない。

 伝言役にしかその脳味噌を使えないのだろうか。

 こんなのが外の情報を持ってくる唯一の綱とは、笑いにもならない。

 

 「……それじゃあ、外での試合の宣伝文句でも言ってくれよ」

 

 「それなら言える。

  『血濡れの王(エイリーク)』と『不屈(アンブレイカブル)』が幼い姫君の命を賭けた決闘だって。観戦券は既に千枚は売れてるって言ってた」

 

 「そうか。ありがとう」

 

 頭を下げて、折れ曲がった背骨を治そうともせず不気味な男は闇に消えた。

 あんなのでもこれで見納めになると思えば感慨深いのだから不思議なものだ。

 

 ……明日か。

 

 それまで、ステラが心身共に無事でありますように。

 誰にも届かぬ祈りを天に輝く星々へ捧げた。

 神では無く、星に願いを。

 ただ、両手を握り、願うしか出来なかった。

 

 ただの惨めな。

 どこにでもいる子供でしかなかった。

 

 俺は、英雄じゃないから。

 それでも、明日だけは英雄になれますようにと。

 そう願った。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 「随分と満足そうな顔をするな。インヘルカ」

 

 「そうか? そうかもな。

  アイツの父との戦いは楽しかったからな。

  五年ぶりに真面な殺し合いが出来そうだ。

  ……それに、蹂躙は最後に残ってる」

 

 「アピスの小娘か。

  どこぞで野垂れ死んでいるものと思っていたけど……

  まさか、ユートを誑し込んでたとはなぁ。

  何とも業が深い一族だとは思わないかい?」

 

 「あんたに言われたらお仕舞だ」

 

 「それもそうか……

  彼女には自殺防止の猿轡を噛ませてある。

  衣装や飾りも僕好みのものを着せた。

  さしずめ英雄譚に出てくる囚われの姫君ってところかな?

  君が暴君で、僕が悪神。対するユート君は英雄ってところか」

 

 「だとしたら。負けるのは俺たちか」

 

 「まっさかぁ。レベル2がレベル4に勝てるものかよ。

  それに、あの子に恩恵を刻んだのは僕だよ?

  あの子の歪みも、強さの程度も識っているさ……

  その上で敢えて言おうか。あの子は君に勝てないよ」

 

 「……なんだ、つまらん。

  久方ぶりの殺し合いかと思えば、また蹂躙になるか。

  まぁ、それならそれで愉しみ方が変わるだけだがな」

 

 「やっぱり君は僕に似ている。

  生まれながらの混沌性。僕が拾わずとも闇派閥に属していただろう悪性。

  或いは君のような人間が生まれてきたことこそ、この世界の歪みが深刻になってる証左かもね」

 

 「あまり褒めるな」

 

 「あ、褒めてるって分かるー?」

 

 「まぁな。ああ、そうだ。戦う前にユートの恩恵を更新しておけ」

 

 「ん? 面倒なんだけど、どうして?」

 

 「(レベル4)と戦ったんだぞ? それなりに力は上がる筈だ。

  俺は殺し合いを楽しみたいんだ。凌辱の愉しみは別で発散したい」

 

 「へぇ……らしくないじゃないか。

  普段の君なら未熟な才能を壊すことを愉しむだろう?

  それとも、何か感じるものでもあったかい?」

 

 「……俺の呪詛に抗う奴は、今まで誰もいなかった。

  俺と戦って絶望しなかった奴も今までいなかった。

  だからこそ、真っ向からへし折った時の貌が見たい。

  あれほどの戦士が折れた瞬間を見たい。

  それだけだ。それだけが今の俺の、興味だ」

 

 「で、ステラの方はついで扱いか。

  とんだとばっちりだね。

  まあ、彼女がユゴスに執着する以上はこういう末路は決まっていた、かな」

 

 「執着? ()()にか?」

 

 「彼女の一族はそういうものさ。

  アピスも残酷なことをする。

  都市に愛着を持たせたら、投げ捨てることなぞ簡単に出来はしない。

  僕だったら何かを愛させることなぞしない。

  重荷になるからね。

  僕だったら何かを愛することなぞしやしない。

  空を飛べなくなるからね。

  けれど、彼女は知っている。

  かつて愛と平和に満ち満ちて、誇りと伝統に溢れた荘厳な都市の姿を。

  家族とともに過ごした、希望と自由に彩られた光の都市の姿を。

  だからきっと、ユートの元で過ごした後は都市とともに自害でもしていたんじゃないかな。

  どうしようもないほど愛した都市に絶望して、ともに心中しようとさ。

  ユートとの日々はそこに至るまでの思い出作り……とか?」

 

 「ふむ……愚かだな。

  いや、年齢を考えれば当然のことか。

  好きなものを次々背負って、それが原因で飛び立てなくなった哀れな鳥。

  捕らえられて鳥籠に入れられたら、後は羽を毟られ地に堕ちるだけ。

  全く、蹂躙し甲斐がある」

 

 「あの子に僕は興味ないから好きにしていいよ。

  僕的には趣向を凝らして毒杯でも先に飲ませておけばいいと思うな。

  ユートが億が一に君に勝てたとしても、時間が経ちすぎていれば救えないように」

 

 「……まぁいいだろう。

  お前の余興を演じると言ったのは俺だ。

  それに、そういう悪意は嫌いではない」

 

 「解毒剤は君が一応持っておこうか。

  君を素早く殺して、解毒剤を奪う。

  うんうん。それだけの不可能を可能としなければね」

 

 「神の試練というやつか?」

 

 「いいや。これは神の試練じゃないさ。

  神の悪意ってヤツだよ。

  だって僕は混沌の神だからね。

  お涙頂戴の決まり事なんてゼウスのジジイにでも食わせておけばいいと思わないかい?

  それに……きっとあの小さな才能の心が散る瞬間は美しい筈だ」

 

 「なるほど……やはり奴には同情する。

  こんな神に見初められるなんてな」

 

 

 蛇が嗤う。

 王が嗤う。

 鳥は囚われ。

 少年は剣を────

 

 明日、全てが決まる。

 都市の命運も、少年の行く末も。

 そしてその小さな、本来ある筈の無かった蝶の羽搏きは。

 世界を大きく変えうる漣となって波及する。

 

 それが光となるか、闇となるかは

         全知零能たる神すら知りえぬ──

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