『ハリー・ポッターとか読んだことのないわたしが曇らせて死ぬ話』   作:銀杏鹿

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〔少年の日の思い出〕5

 

 

 "僕を押し出して"、身代わりに切り裂かれた彼女が、箒から落ちる。

 

 恐怖は僕の体と頭を鈍らせ、それが致命的に動きを遅らせた。

 

 我に返って、前屈みになって箒の柄を下に向けて、一直線に急降下する。それでも、中々追いつかない。

 

「っ!」

 

 彼女の背に地面が迫っている。

 

 高く飛んでいた筈なのに、落ちるのは一瞬だった。

 風が耳元で痛いくらいに鳴った。もし、彼女を掴めずに失敗すれば、僕も止まれなくて地面に激突する。多分死ぬかも知れない。

 

 だとしても。

 ヒッポグリフが追いかけてきたとしても。

 もうやるしかない──!

 

「くそ、くそぉぉぉ!!」

 

 ──そして、地面スレスレの所で僕は彼女と地面の間に割り込み、間一髪で箒を引き上げ、水平に立てなおし、森の中の草地へ、転がるように不時着した。

 

「……は、はは。生きてる……」

 

 全身が痛いが、なんとか生きている。受け止めた。僕はやったんだ。

 

「なあ──」

 

 だが、抱き止めた僕のローブにも血が滲んだ。

 それ程までに彼女は血を垂れ流していた。

 

「お、おい……大丈夫だよな?お前なら呪文ですぐに治せるんだろ……?」

 

「っ……あいにく……杖もありませんし」

 

「杖ならある!母上のを借りたんだ!」

 

「それに、人を治すのは……得意では」

 

「怪我一つ治せないくせに、なんで身代わりになんか……!」

 

「……わかりません……自分でも」

 

「馬鹿だ!お前は今世紀最大の馬鹿だ!僕は避けられた!本当は乗れないお前より、ずっとずっと箒だって上手いんだ……!お前は僕の後ろで、大人しく見てれば良かったんだ……!」

 

「……泣いているのですか?」

 

「泣いてない!」

 

「では、これは、なんでしょう……か」

 

 彼女は僕の頬を撫でた。生暖かくて鉄臭い液体が僕の顔をベッタリと濡らした。

 本当に涙が流れていたとしても、僕には全く分からない。

 

「こんなことで死なれてたまるか……!」

 

 何本か折れてそうな骨が悲鳴を上げて抗議したが、それを無視して彼女を運ぼうとした。

 

「早く──」

 

 だけど。

 

 僕らの前に羽ばたきと共に舞い降りたのは、怒り狂った様子のヒッポグリフだった。

 

 そして、僕は思い出した。それが子供に相手できるような存在ではないことを。巨大な猛禽類を前に、魔法使いだとしても子供にできることなんて限られる。

 

「ぁ、ぁぁ……!」

 

 血に濡れた鉤爪が、此方を向いている。

 死ぬ、そう直感してしまった。

 何か、何か呪文は、こんな時に使えるような、何か。

 

 手は震えて、杖をまともに握れなかった。

 

 覚えたはずの呪文は、一つとして声にならなった。何も思い出せない。二人に、教わったのに。なにも。何を教わったのかすら。

 屈辱的な思いまでして覚えた筈なのに、何一つ。

 

 死にたくない、死にたくない、死にたくない!僕はこんなところで──

 

「っ」

 

 手が震えて、杖を落としてしまった。

 

 もう、ダメだ。僕には、何も──

 

「……わかりました」

 

 落とした杖を、彼女は握って、ボロボロなのに、僕の前に。ヒッポグリフに立ちはだかった。

 

「な、あ……」

 

 声が出なかった、やめろと言うべきだった。

 彼女も震えていたから。

 

「最初から……こうすれば良かった……」

 

 彼女は自分に杖を向けて、何かを引き摺り出す──それは青白く光る、一匹の蝶。

 

「……こんなものが……あったから」

 

 ひらひらと舞うそれは、彼女の元を離れて何処かへ去って行く。

 

「……ドラコ君。……今日はヒッポグリフについて……復習……しましょう」

 

「な、何を」

 

 そんな言葉しか返せない僕に、彼女はいつも勉強を教える時のように、語り始める。

 

「ヒッポグリフは……気高い生物です……」

 

 血を垂れ流しながら、それでも毅然と立ち。

 

「お辞儀を……するんですよ」

 

 そうして、彼女は化け物にお辞儀をした。

 

 僕には分からなかった。一方的に傷付けられた彼女が獣に何故頭を下げるのか。

 

「私達は……彼らのテリトリーを犯した……ですから」

 

 猛禽に礼儀が通じるとは思えなかった。

 

 彼女の言う教科書のような対応が、今の状況に当て嵌められるとも思えなかった。

 

「私達は……"貴女"や"貴女の家族"を害するつもりは……ありません」

 

「──」

 

 ヒッポグリフは彼女に近付く。

 

 どう見ても無謀だった。これ以上傷を負えば、いくら魔法があってもタダじゃ済まないのは明白だった。

 なのに、僕は一歩も動けなかった。

 

「やめろ……」

 

「大丈夫です……勉強したことや……礼儀は……役に立つんです……絶対に……」

 

 近寄ったヒッポグリフは、鋭利な嘴を振りかぶるように首をもたげ──

 

「やめてくれ──」

 

 そして。化物は嘴を振り下ろした。

 

 僕はそれを直視できなかった。目を閉じてしまった。

 

 自らの過ちの結果を見るのが怖かった。

 

 目を閉じたって、何も変わらないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も聞こえなかった。

 

 乱れた呼吸と、心臓の脈打つ音だけが頭の中で響いていたから。

 瞼の向こうで何が起きているのかなんて、何も分からなかった。

 

 だから、彼女がどうなったのかを確かめるには、目を開くしかなかった。

 

 例え、何が起きていたとしても。

 

 僕のなけなしの勇気は、一度閉じてしまった目を開き──

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ヒッポグリフは。

 

 まるで彼女にお辞儀を返すように、頭を下げていた。

 

 僕は目の前の光景が信じられなかった。

 

「──!」

 

 それから、甲高い鳴き声を上げ、飛び去って行った。

 

「……っ」

 

 緊張が切れたのか、彼女は崩れ落ちる。

 僕は受け止めることもできなかった。

 

「どうしてお前は……」

 

「……わからない……どうして……?わたしは……こわかった……?うしなうことが……?何を……?」

 

 僕が縋りついた彼女は、血の気のない真っ白な顔で首を傾げて混乱していた。直前の自分の行動理由すら忘れてしまったようだった。

 

「お前は……」

 

 何もわからなかった。なぜ僕を守ったかも、一体何が怖くて、何を失いたくなかったのかも。

 

「でも、これで……お勉強、忘れない……ですね。ドラコ君は……教えても……すぐ忘れますから……」

 

「忘れられるわけ……ないだろ……こんなの……!」

 

 僕は今更思い出していた。彼女に教わったことを。

 

 空の上で聞いた言葉を。他に教わったことを忘れても、それだけは忘れられそうになかった。

 

 謝れなかった。謝っても彼女の傷が消えるわけでも、償えるわけでもなかった。

 僕の命を守った相手に、守らせてしまってすまないなんて、そんなことは言えやしなかった。

 

 馬鹿な嫉妬なんてしなければ。

 勝負なんて挑まなければ。

 箒の勝負に夢中にならなければ。

 彼女達に教わったことを、覚えていたのなら。

 

 何一つ、僕は正解できなかった。

 これが、その結果だ。

 

「ふっ、ふふ」

 

 何がおかしいのか笑う彼女を背負い、木漏れ日の指す森を……まるで何事もなかったような森の中を急いだ。

 

「でも、もう、こわくない……これで、なにも……」

 

 彼女の声は、本当に恐怖なんて忘れてしまったようだった。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 父上や母上は、森の中まで僕らを探し、迎えに来てくれた。

 

 僕は謝ろうとしたけれど、それよりも早く抱きしめられた。

 厳格な父上が、狼狽している姿を見たのは初めてだった。

 母上は泣いていた。僕のローブに染みついた血を見て、気を失いそうになるくらい心配していた。

 アストリアの言う通りだった。僕はいらない子供などではなかったのだと、それだけで十分理解できた。

 

 姉の方の傷は、アストリアが簡単に治してしまった。

 両親がすぐに来れたのも、姉の危機を察知する道具を彼女が自作していたからだった。本当に優秀な子だ。

 

 だから僕は何も失わなかった。

 

 

 

 

 

 

 彼女が回復した頃、屋敷の中庭で、なぜ僕を助けたのかもう一度尋ねた。

 

「私が……?ドラコを?いつ?」

 

 彼女はまるで、他人事のように聞き返した。いくら聞いても首を傾げるばかりで、誤魔化しているようには思えなかった。

 

「そんなことより見て?」

 

 いつのまにか僕に敬語を使わなくなっていた彼女は、自信満々な表情で箒を用意していた。

 

「上がれ!」

 

 そして箒は、彼女の手の平に収まった。

 

「──っ!?」

 

「これで本当に乗れるでしょう?」

 

 驚く僕に馴れ馴れしく、そして自慢げに箒を見せる。あれほど言うことを聞かなかった箒があっさりと言うことを聞く姿を。

 

「やりましたね、お姉様!」

 

 アストリアは姉の方に抱きついて、無邪気に喜んでいた。

 

 僕はその光景が信じられなかった。

 

 どれだけ練習しても、彼女は箒を浮かべることすら出来なかった筈だった。

 だから無理やり呪文で操作していた筈なのに、まるで"そんな必要"がなくなったようだった。

 

「あ……あぁ」

 

 そして、僕はようやく気がついた。

 一体何を失ったのか。

 

「どうして泣いてるのドラコ?そんなに感動的?」

 

 小馬鹿にするように微笑む"ダフネ"。

 

「ああ、そうだ……そうだよ……」

 

──"彼女"は何かを恐れることは、二度とないのだ。

 

 彼女は、もう飛ぶことを恐れたりしない、だから箒は言うことを聞く。

 

 妹を取られることも、恐れたりはしない、だから馴れ馴れしく話しかけてくる。

 

 あの時、彼女が引き摺り出した"何か"は蝶の形をしていて、彼女は"それ"を手放した。

 

 きっと、誰にもわからない。

 彼女は前から"飛べた"から、何も変わったようには見えないから。

 

 危機を乗り越えて、僕も、父上や母上の愛情を知れて、アストリアと和解して、"ダフネ"は箒に乗れるようになった。

 文句のつけようがないハッピーエンドだ。

 

 でも、もう"姉の方は"。

 僕がグリーングラスと呼んでいた、あの少女は。

 僕を"ドラコ君"と呼んでいた彼女は。

 

 嫌いだった。あの見下したような態度が気に食わなかった。

 追い出したかった。だからと言って、消えて欲しいなんて思ってなかった。

 

 だけど。嫉妬したり、死を恐れたり、人間らしく僕を憎んでいた彼女は──もうどこにも居ないのだ。

 

 何を思って僕を助けたのか、知る術は存在しないのだ。きっと、もう誰にも分からない。この体験を誰かに話したって、誰にも。

 

 差し出す筈だった僕の手は、行き場をなくした。

 

 ただそれだけを、僕だけがそれを理解する。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 それは記憶にだけ残っている。

 

 僕を馬鹿にしていた憎らしい顔。

 止めどなく流れる赤い液体。

 いつもと変わらない風。

 鉄のような匂い。

 知っていたはずの森。

 

 全て、まるで同じ顔の他人のようだった。

 

 ただ、空だけが青く、青く澄んでいた。

 

 

 

 


 

 

ダフネ(沈丁花)の花言葉

 

 

・不老不死

・永遠

・青春の喜び

・実らぬ恋

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