色付いた葉が落ち始め、年の終わる足音が聞こえ始めた師走の頭。
あるトレーナー室の一角で乾いた音が鳴り響いた。
床に中身と破片をまき散らし無残な姿となったマグカップと、それを受け取るはずだった空いた自らの手を呆然と見つめる。
水を打ったように静まり返る室内には、じわじわと足元を侵食するコーヒーの音さえ響いているかのような錯覚すら覚えた。
自らの起こした事態に一気に血の気が引いていくのを感じる。
先ほどまで眠気でモヤのかかっていた視界は一気に晴れたが、傍らの担当バのことが気がかりでとても落ち着いてなどいられなかった。
「ご、ごめっ…!」
動転し、慌てて立ち上がろうとする自分を小さな手が制する。
「大丈夫です。お怪我はありませんか?トレーナーさん。」
小柄な体を屈め、長い髪の先が床に擦れることなど気にも留めずに丁寧な所作で破片を拾い上げていくウマ娘。
彼女はドリームジャーニー。昨年に自分と担当契約を結び、共に旅路を歩んでくれる今の自分にとって唯一の担当バだ。
足元に向いた視線のせいであちらの表情を伺うことはできない。
だが言葉こそこちらの身を案じてくれているが、声色からは僅かに苛立ちか怒りのようなものが滲んでいる。
「ジャーニー、俺が落としたんだ。俺が片付けるよ。それに君が怪我でもしてしまったら…」
気を散らして落としたのは自分なのだ。それなのに淹れてくれた彼女に後始末までさせてしまうのは申訳がない。
しかし、彼女は有無を言わせぬ口調でこちらの言葉を遮った。
「いえ、トレーナーさんはそこで座っていてください。私が片付けます。」
優しい声とは裏腹に『何も言うな、何もするな』と言わんばかりの圧を孕んだ態度に、怯んだこちらの体は簡単に動かなくなってしまう。
そのまま罪悪感を抱えつつも何もできないまま、残骸を回収し、飛び散った中身をふき取る彼女をバツの悪いままただ見ていることしかできなかった。
流れる時間が今だけ引き延ばされたように酷く億劫に感じる。居心地の悪さだけが募っていく中、現実逃避をするかのようにただ自分の無能を恥じることしかできない。
どのくらい時間がたっただろうか。
「さて、お待たせしました。トレーナーさん。」
気付くといつの間に後始末を終えたのか、手を拭きながらジャーニーが戻ってくる。
座ったままの姿勢で小柄な彼女に見下ろされる形になり、無言の圧と後ろめたさでこちらの体は縮こまることしかできなかった。
「本当にごめん、ジャーニー。俺がもっとしっかりしていれば…。」
委縮した口からは月並な言葉しか出てこない。その謝罪に彼女が反応を返すことはなく、おもむろにずいと顔を近づけた。
「お気になさらないでください。それよりもトレーナーさん、少し質問があります。昨日は何時まで仕事をしていましたか?」
質問とは言ったが、まるで尋問のような雰囲気に面喰らいながらも昨日の自分の記憶を思い返していく。
「ええと、確か…夜中の1時だったかな…。」
「ええ。夜間警備の人に締め出されるまで、微塵も帰る素振りは見せませんでしたね。あの様子だと自宅にも仕事を持ち込んでいたのではないですか?何時に寝たんですか?」
こちらの行動などお見通しだといわんばかりにすべてを把握されている彼女にうすら寒い何かを感じ、背筋が冷える。
もちろんすぐに寝たさ、と誤魔化そうとしたが、目線を外す前に淡い蒼の彼女の瞳と目が合ってしまった。
まるですべてを見透かすような視線の前ではどんな言い訳も意味をなさないように感じ、喉元まで出た言葉が形を失い霧散する。
結局は、観念し正直に口を開くほかに道はなかった。
「…朝の4時、です…。」
「一昨日も、その前も、でしたね。」
「…はい。」
そこでようやく、彼女の声から苛立ちの色が取れ、憐憫の色が顕わになる。
「有マ記念に向け、トレーナーさんが各出走バのデータを取集してくれることは本当にありがたく思います。
おかげで私は自分の時間を浪費することなく、最大限トレーニングに充てることができる。
しかし、日を追うごとに窶れていくあなたを見るのは余りに心苦しい。」
あなたが心配なんです、とジャーニーはそっと俺の頬に触れた。
洗ったばかりでまだ少し冷たい彼女の指の温度が心地よく、早鐘を打っていた鼓動が幾分か和らぐ。
ふと上を見上げる。
そこにはもう怒りの色などどこにもなく、心配そうにこちらの顔色を伺う彼女がいた。
そこでようやく、彼女の苛立ちの矛先は自分の失態にではなく、悪化したこちらの状態に向けられているのだと気づいた。
「心配をかけてしまっていたんだな…本当にすまなかった、ジャーニー。」
よく言えましたと言わんばかりに、彼女は優しげに微笑を浮かべる。
「ええ、理解できたようで何よりです。その謝罪に免じて、マグの破損は不問といたしましょう。」
茶目っ気を出しわざとらしく人差し指同士でペケを作る彼女に雰囲気が和やかになり、少し肩の荷が下りた。
すると重圧から解放された反動からか、目を背け続けた疲労が眼底を襲い思わず目頭を押さえてしまう。
自分が思っていたよりも体は悲鳴を上げていたようで、体の節々から軋んだ異音が鳴った気すらした。
心配そうにこちらを見ていたジャーニーだが、ふと何かを思い返したように自分のカバンをまさぐり始める。
「そうだ…、トレーナーさん。良ければこちらを試してみませんか?」
そういって差し出されたのは美麗な装飾が施され、半透明に濁った液体が詰まった小さな瓶だった。
ラベルはファッショナブルなデザインで、一目見て決して安いものではない製品であることが伺える。
「こちらはスキンケアやフェイスマッサージに使われる乳液で、オルのリフレッシュに使えないかと思って買ってきていたものなんです。
ヒトにもウマ娘にも両対応のものですし、良ければこれで疲れを癒してみませんか?」
「…でも、それはオルフェーブルのために買ってきたものなんだろう?それに、俺のせいでジャーニーの時間を消費させてしまうのは申訳がないよ…。」
魅力的な提案に一瞬理性が揺れるが、家族思いの彼女の愛情を掠め取ろうとするようなことはどうにも気が引けた。
それにあの有マ記念が迫る今、自分の回復なぞに時間を浪費していいのかと、焦りが背後にちらついてどうにも落ち着かない。
しかしジャーニーは、少し困ったように笑った。
「それが、オルはどうにもこの香りがあまり好みではないようでして…別のものを取り寄せた今、この乳液の使い道は特にないんです。」
それに、と付け加える。
「あとこれは後程伝えるつもりだったのですが、先ほどトレーナーさんから頂いた先日のタイム表、記入欄が一段ズレていました。そんな状態ではたして満足にお仕事ができますか?」
「えっ!?嘘…!?」
慌ててジャーニーから用紙を受け取り、目を凝らす。
するとたしかに最上段に謎の空白があり、計測結果がチグハグなものになってしまっていた。
一目でミスが分かるだけまだマシだが、何の意味もないものをジャーニーに渡してしまっていた事実に落胆する。
「『急いては事を仕損じる』という言葉もありますし、一度体を休めて体調を万全にしてから、また一緒に頑張りましょう。ね?トレーナーさん。」
彼女の蠱惑的な誘いと、仕事への焦りで気持ちの天秤が揺れ動く。
しかし、ミスばかりでどうにも空回りな自分のせいで、これ以上彼女に迷惑をかけたくはなかった。
意を決め、肩の力を抜く。
今は彼女の案に従おう。
「分かった。すまないが頼んでもいいかな…?」
「ええ、お任せください。あなたの疲れ、しっかりと癒してさしあげましょう。」
ようやく折れたこちらの様子に、彼女は安堵したように表情を綻ばせた。
◆
「顔の上、蒸しタオルを失礼しますね。」
トレーナー室の応対用のソファーで横になり、目の上にタオルを被せられる。
柔らかい布の感触と暖かい蒸気が、眼前を覆い眠気を誘う。
気持ちよさのあまり、熱くはないかと声をかける彼女に間の抜けた返事をしてしまい苦笑されてしまった。
「では、これからトレーナーさんのお耳をマッサージさせていただきますね。」
頭上から、乳液を両手ですり合わせる音が聞こえる。
ゆっくりと彼女の指が両耳に触れ、それから掌が耳全体を覆った。
そのまま回すように掌を動かされ、彼女の手を伝った乳液が耳に染み込んでいく。
指が縁を周り、軽くつままれては内側の溝をなぞるように進んでいく。
耳の穴周りを指先が回り、パクパクと数舜塞がれる音が頭の中に響いた。
視界が塞がれているからか、その分手の動きがやけに鮮明に感じ取れる。
絹擦れの音、彼女の息遣いすら聞こえるほどに聴覚も研ぎ澄まされているような気がした。
「人の耳には、たくさんのツボがあるようです。私もあまり詳しくはないのですが、こうして擦るだけでも効果はあるようですよ。」
指越しに、彼女のハスキーな声が聞こえる。
彼女の低く落ち着いた声色は聞いているだけで心地よく、少しずつ意識は手綱を手放し始めていた。
この甘美な時間を放り出すのは勿体ないが、底まで沈んでしまおうかと思い始めた時だった。
ふいに、耳を折り畳まれしばらく塞がれる。マッサージというよりは手遊びのそれを含み始めた手づかいに、再び意識の輪郭が形を成していく。
「ジャーニー…?」
「ああ、すみません。トレーナーさんの耳は私にはないものですから、つい興味が出てしまって。」
クスクスと笑いながら、彼女はグニグニと耳をまさぐる。
いくらか遠慮のなくなった手つきに、心地良さから一転してまな板の上の鯉になったような気持ちになり、冷や汗が腕を伝った。
「あ、あまり痛いことはしないでね…?」
「…おや、ずいぶんと初い反応ですね。おかわいらしい。」
スッと手を放され、おどけたような声が聞こえる。
安堵したのもつかの間、右耳からゼロ距離で彼女が囁いた。
「トレーナーさんは、私にどんなことをされると思っていたのですか…?」
そのままフウ、と耳に息を吹きかけられ、予想だにしない刺激に思わず生娘のような悲鳴が出てしまった。
「これはこれはいい反応…、しっかりと拝見させていただきました。」
あまりの痴態を晒してしまい、顔から火が噴き出るような感覚になった。いや、噴いているに違いない。
きっと顔色も茹でたタコのように赤くなっていることだろう。
いやに楽しそうな彼女の声色に、自分は彼女の玩具になってしまっているのだとようやく悟った。
慌てて目元のタオルをはぎ取り起き上がろうとしたが、緊張と早鐘を打ち暴走した心臓で制御を失った体は最早震えることしかできない。
そんな様子を彼女は楽しそうに眺めながら、濡れていない手の甲をこちらの左胸に押し付けてきた。
「おや、すごい心拍だ…。少しからかいすぎましたね、申し訳ありません。」
私の手が跳ね飛ばされそうだ、と笑いながら彼女は手を耳の位置に戻した。
「すみません、少し興が乗ってしまいました。マッサージに戻しましょう。」
再び、手つきが優しいものへと戻り安堵する。
失念していたが、彼女は見かけによらず意外と遊び心があることを忘れていた。
冷静沈着なようで、意外な方向にも興味が向けば躊躇わずに手を伸ばす。
知った当初はあの破天荒な友人たちに囲まれてのものかと思っていたが、どうやらそれは生来の気質らしい。
まさかその矛先が自分に向くとは思わなかったが、と心の中で苦笑した。
小さく華奢な手があやすような手つきで耳をなぞっていく。
緊張で暴れ狂っていた鼓動も、宥められるように段々と落ち着きを取り戻していくような気がした。
急展開に冴えてしまっていた視界が、次第に微睡んでいく。
ぬるま湯に浮かぶような意識の中でふと、不意に一つの考えが浮かぶ。
最初、彼女は不甲斐ない自分に苛立ちを募らせ、しかしそれは自己を後回しにする自分の姿勢に心配しているのだと思っていた。
それも間違いではないだろう。しかし、また別の意味もあった気がする。
もしかしたら彼女は私を叱ってくれていたのかもしれない。
そう思うと、彼女のあの圧があった態度がまた別のもののように思えてきた。
そういえば、彼女は最初から優しい子だったな、とふと思う。
担当契約前のいざこざから何となく彼女の薄暗い面ばかりを意識してしまっていたが、こちらを思いやる気持ちは最初からずっと本物だったはずだ。
スリから財布を取り返してくれた時だってそうだ。彼女から向けられていたものはいつだって厳しくも慈愛に満ちていた。
きっと彼女はこの先も、私に何かを隠していくだろう。
しかしそれはきっと、私を傷つけるものではないはずだ。
それに不用意に怯えるのはもうやめよう。信じていいんだ。
どうしてこんな当たり前のことすら気付かなかったんだろうな、と悟られぬよう溜息を吐いた。
至らない点ばかりの自分を恥じる。彼女の隣に立つには、もっと研鑽を積まなければ。
「ありがとう、ジャーニー」
「このくらい、お安い御用ですよ。」
自然と感謝の気持ちが漏れ、クスリと彼女が微笑む。
その優しさに安心し、今度こそ少しだけ意識を手放すことにした。
◇
気付けば、いつの間にか彼の息遣いが変わっていた。
深く規則的に、ゆっくりとした呼吸が鼻から抜けている。
「…トレーナーさん…?」
小さな声で呼びかけてみるが反応はない。
気付けば手が止まっていた。静止した空間の中で彼の胸だけが、規則的な上下運動を繰り返している。
互いの息遣いの音だけが、静寂な部屋の中を反響する。
ふと、視線が彼の首元で止まる。呼吸がしやすいよう、胸元を少し緩めてありいくらか肌色の良くなった彼の首筋から目が離せない。
魔が差した。
蓋をしていたほの暗い嗜虐心が鎌首をもたげ、ドロリとしてネバついたなにかが背を伝うような感覚に身震いする。
無意識のうちに顔が近づいていき、髪が彼の顔にかかる。
僅かな接触に彼が身じろぎをするが、それ以上動くことはなかった。
ダメだ。
やめろ。
休んでもらうために少々強引な手法を取ったのに。
これ以上覇気のないあなたを見たくなくて自分を後回しにしたのに。
全てを無に帰すのか。
理性はそんなことをするべきではないと警鐘を鳴らしているが、下卑た笑みを浮かべる欲求がじわじわと意識を侵食し、つばと一緒に呑み込んでしまった。
小さく、しかし煌々と揺れる情欲の灯火は消えることなく、衝動を駆り立てる。
口が開き、湿った吐息が彼の首にかかる。
二人だけの空間で彼女を止めるものなどいるはずもなく、欲求のままに首筋に歯を突き立てようとし─────
カチャリ、と音を立てて眼鏡が落ちた。
彼の頭上から覆いかぶさるような態勢で無理に動いたことで、次第にズレていったことに気付かなかったようだ。
完全な意識外からの物音に体が止まり、次第に頭が冷える。
いったい自分は何をしでかそうとしていたのか。急いで体を引きはがそうとし、彼が寝ていることを思い出し体が止まる。
奇妙な態勢での硬直状態。そして慌てているのが自分だけであるという珍妙な現状に思わず笑ってしまった。
気を取り戻し、寝ている彼を起こさないようにゆっくりと体を持ち上げる。
「まあ、私だけ好き勝手してしまうのはフェアじゃないですし、ね?」
聞こえていないと分かっていながら、声が漏れる。
まだこの気持ちを彼に見せる必要はない。おのずとその時はくるのだから。
それまでは、この曖昧な距離感の旅路も楽しんでみせよう。
「それでは、これからもよろしくお願いしますね。『私の』トレーナーさん。」
踵を返し、音を立てずに部屋を出る。
燻ぶった熱が背中を押し、衝動が足を突き動かす。
情動の赴くまま、はやる気持ちを抑えながら足早にグラウンドへと向かった。
外はすでに日が傾き始め、人気もまばらになり始めていた。
木々の隙間から一陣の風が吹き、木枯らしが熱く火照った体を吹き付ける。
風が年の瀬が近づいていることを知らせ、応えるように窓枠がカタカタと揺れた。
残された時間はもうあまり多くはない。
コース上で冷たい空気を深く吸い込み、熱い肺を満たす。
そのままにしばし息を止め、雑念と共にゆっくりと吐き出した。
体温だけではない熱を持った吐息が白い霧となり、あたりを漂っては霧散していった。
「…有マ記念、そこで必ず示してみせる。」
そこにはもう淡い恋に揺れる少女の姿はどこにもなく、一人のアスリートがここにいた。
力強く大地を蹴り、芝を散らす。
彼女が走り去った場所には蹄の跡が続き、轍のように道を照らしていた。
ジャーニーに耳を揉んでもらいたかったのでかきました。
ジャーニーasmr待ってます。