一之巻「慄く鬼」
深夜、雷雨がけたたましい轟音を打ち鳴らしていた。その稲光が窓の格子から堂の中を照らした。暗い堂の中で、ぎらりと光が何かに反射した。注視して見ると、堂の中には二つの人影があった。一人は部屋の中央近くの大きな座布団に正座している。重厚な袈裟を着た姿は僧侶だろうか。否、その顔には目鼻立ちがなく、幾何学模様を思わせる隈取のような文様が浮き出て、辛うじて顔のように見える。そしてその頭頂部には額の厳めしい鬼面から伸びる、太く短い二本の「角」が突き出していた。その僧形の影は「鬼」であった。
再び、稲光が部屋の中を照らした。その光が僧形の鬼の近くに座るもう一人を映し出す。その影は古代の剣闘士を思わせる重厚な鎧に身を包み、どっしりと正座していた。兜を被ったようなその顔は太い隈取のようなものに覆われ、まるで憤怒をこらえた表情をしているようだ。僧形の鬼同様に額の鬼面からは太い一本の角が伸びていた。この鎧の影も「鬼」であった。
がらりと、堂の扉が開け放たれた。扉の奥からゆらりと蝋燭の火が現れる。その火はゆっくりと部屋の中心に近づく。その火のゆらめきが、燭台を持つ影を照らし出した。全身を分厚い肉で覆った巨漢であった。掲げられた火が顔を照らす。その顔は額の鬼面を中心に左右で赤と青に色分けされていた。鬼面から巨大な二本の角を伸ばすその巨漢の影も「鬼」であった。
巨漢の鬼は何かを持ち運んでいた。人など軽々入る大きさの巨大な箱は棺と見て間違いないだろう。その棺の陰からもう一つの影が姿を見せた。体躯こそ巨漢の鬼と比べてしまうと見劣りするが、枝分かれする巨大な角を頭頂部から伸ばしている。その「角」の影もまた、鬼であった。
巨漢の鬼と角の鬼が担いできた巨大な棺が実に静かに部屋の床に置かれた。鎧の鬼がその蓋を掴み力を込める。ぎぎぃと、嫌な音をして棺の蓋が開け放たれた。そこに横たえられていたのもまた、強靭な肉体に鋭い角を戴く「鬼」であった。
この世には人を喰らう怪物「魔化魍」がいる。それらは大自然の中の邪悪な念から生まれ、暗い闇の中に潜み無辜の人々を喰らって自らの糧としている。だが、そうした魔化魍と戦う者がいる。彼らは心身を鍛え抜き、その鍛錬の果てに己の肉体を異形の「鬼」に変貌させ、特殊な楽器「音撃武器」から放たれる清めの音色を以て、世間一般には妖怪として伝えられる異形の怪物「魔化魍」と対峙しているのである。鬼たちは彼らに助けられた人々が設立した、鬼の補助を行う組織「猛士」に属し、人知れず魔化魍の脅威から人々を守っているのである。
だがその一方で、鍛え上げられた鬼の強大な力に呑まれ、人に仇成すようになった者たちがいる。人々を守るために鍛えられたその力を振るい、守るべき人に害をなす存在。そのような鬼たちから人々を守るために、あえて同族を殺す役割の鬼がいる。人々の平和を守る正義の光の裏にある、秩序を守るためにあえて汚れ仕事を行う闇の存在は、魔化魍たちと戦う鬼たちには知られていない。
「猛士」内部ではその役割に応じて将棋の駒に見立てた呼称が存在する。例えば指揮官は「王」、事務作業などを行う者は「金」、医者などの技術者は「銀」、鬼の移動など現地での手助けを行う者は「飛車」、普通に生活しながら鬼の手助けを行う協力者は「歩」そして鬼たちは「角」と呼ばれている。
そして、同族殺しや超法規的な任務を行う暗部の者たちは、その決して表に出ない役割から、現在使われていない将棋の駒「酔象」の名から取り「象」と呼ばれていた。
「カッキさん。それにしても、最近はやけに俺らの出番が多いっすね」
「全く、クダキくんの言うとおりだねぇ。ボクもこの仕事長いけど、ここまで鬼狩りしたのは久しぶりだよ」
お堂の部屋の中で、四人が食事を囲んでいる。中心には僧形の男が座り、そして力士のように大柄な男、中背の日焼けした中年の男、そして眼鏡をかけた女が座っていた。皆葬式を終えたかのような喪服姿だ。いや、ほんの先程まで実際に葬儀を執り行っていたのである。食卓を囲んで談笑、というより談合、という言葉がふさわしい暗い雰囲気だ。中央に座る僧形の男が口を開いた。
「最近の皆さんの働きには恐れ入ります」
「いやぁ、ヒツギさんにも手をかけさせるよ。悪いねぇ」
「いえ、カッキさんのように自ら戦うことは私にはできませんから」
ヒツギと呼ばれた僧形の男は、カッキと呼ばれた中年の男に微笑む。それを受けてカッキは僅かに表情を緩めた。
「今回戦ってくれたのは、オノノキちゃんだから。褒めるならこっちに」
「そうでしたね、オノノキさん。ありがとう」
ヒツギとカッキは共にそう言ってオノノキ、端に座る眼鏡の女、を労う。だがオノノキと呼ばれたその女は暗い表情を隠さない。
「十一人、今年度に入って。『象』の過去の記録も見たけど、このハイペースは類がない」
オノノキは手にしていたお椀を置き、じっと目を伏せて考え込んだ。その様子を見て、クダキと呼ばれた大柄な男が声を掛けた。
「かといって、実際に起きてることは仕方ねぇじゃんか」
「クダキさん。でも考えないと、対処法」
オノノキは眼鏡を上げ、クダキの方を見た。レンズ越しの視線がしっかりとクダキのがっちりとした顔立ちを捉えている。そこにカッキが思いついたように口を挟んだ。
「もしかして、オノノキちゃんはあの情報を?」
「そう。組織立って動いてると思う、今回の敵。しかも大物」
その言葉にクダキはその巨木のような腕を組んで考え込んだ。
「『七座一門(ななくらいちもん)』に名門の『神室家』だしな……あっ!カッキさん、すんません」
「いいよ……だけど身内から堕ちた鬼が出るのは堪えるねぇ」
カッキは数多くの優秀な鬼を輩出してきた名門の家「神室家」の出身だ。そして今年度に入って彼らの任務の対象となった、堕ちた鬼達の中にはそのような名門の鬼さえ含まれていた。カッキのその言葉を最後に、四人の間を暗い沈黙が包み込んだ。
その沈黙を裂いたのは、オノノキの懐から鳴り出した携帯電話の呼び出し音だった。彼女は慣れた手つきで携帯電話を取り出し、相手を確認する。
「重蔵先生からだ。出ます」
そう言い残すと彼女は携帯電話を耳元に当てながら駆け足で部屋の外へと出ていく。その様子を三人は見送った。
「しっかし、重蔵サンからとは。こりゃあ本当に今回のヤマは大きそうっすね」
汁物をすすると、クダキはため息交じりに呟いた。その様子をカッキは横目で見ながら口を開いた。
「そうだねぇ。ヒツギさんもここからが大変だよぉ」
「いえ、私のことは気にせず。とはいえ、これから先一体どうなるか」
ヒツギはそう言うと茶碗を置いた。その目には憂いの色が灯っている。人智を超えた強大な力を持ちながらその力を悪用することなく心も鍛え抜かれたはずの「鬼」たちがこの年度に入ってからというわずかな期間で十人以上も道を踏み外すというのは例がないことであった。
「まっ、どんなことがあっても俺らは俺らの仕事をするだけっすよ」
そう言うとクダキは片方の手をグーにしてもう一方の手にパシッと打ちつけた。クダキの表情はヒツギとは反対に憂いの表情はなく、むしろこの状況を楽しんでいるようにも見えた。その二人を見て、一番の年長者であるカッキはどこからか取り出した酒をぐいっと飲み干した。それと同時に部屋にオノノキが戻ってきた。
「オノノキちゃん、どうだった?重蔵さん何か言ってた?」
カッキの問いにオノノキは携帯電話をしまいながら答えた。
「全員呼び出しです。これから移動します」
東北地方某所の山間にある温泉旅館「滝夜温泉」。その駐車場にヒツギは慣れた手つきで車を停めた。そのドアが開け放たれると、オノノキたちはまっすぐにそのフロントに向かう。喪服を身に着けた四人の男女の登場に宿泊客は何事かと彼らの方を見るが、彼らが足早に建物の方に消えていくと何事もなかったように落ち着いた旅情を再び楽しみ始めた。しかしそれとは対照的に、オノノキたちは険しい表情のまま暗いフロアへと突き進んでいく。
本館から離れた従業員棟、その奥の支配人室の扉をオノノキはノックした。
「重蔵先生、オノノキです」
「やっと着いたか、とにかく入れ」
オノノキが扉を開けると、その広い部屋の奥に一人の老人が座っていた。白髪交じりの髪、皺が刻まれた顔立ちから見るに、年齢は六十代後半ぐらいだろうか。だが椅子に腰かけた背筋はぴんと伸び、着込んだ高級そうなスーツの上からも、がっちりとした筋肉の存在が感じ取れる。
「重蔵さん、お疲れ様です」
「お疲れーっす」
「お疲れ様です」
オノノキに続き、カッキらも部屋の中に入る。支配人室は大きな窓から日が射しており、五人で入っても十分以上に広い。壁に備え付けられた棚には調度品に混じり、鬼面が刻まれた石が取り付けられた武具がいくつか並んでいる。そして老人が座った机の上には小洒落た卓上名札で「支配人・地蔵田重蔵」と記されていた。
「全員来たな。まあ座ってくれ」
そう言うと重蔵は腕でソファを指し、オノノキらに座るよう促す。それに従い、彼女らはソファに腰かけた。腰を落ち着けたところで、カッキが口を開いた。
「猛士東北支部じゃあなく『皐月会』本部ってことは結構深刻な話、ですか?」
「察しがいいな、その通りだ」
そう言うと重蔵は机の上に置かれていたリモコンを操作した。そうすると部屋のカーテンは閉まり照明は落ち、代わりにスクリーンが現れた。重蔵が手元のパソコンを操作すると、スクリーンにはスライドショーが映し出された。
「さて、ここの進行はオノノキに任せるぞ」
「分かりました、重蔵先生」
重蔵に呼ばれたオノノキは立ち上がり彼の近くに移ると、パソコンの操作を変わった。
「状況が複雑化してきたから、基本的な所から始めます。解説」
オノノキはそう言うとスクリーン上の画面を切り替えた。
オノノキらは、人を守る鬼でありながら人に仇成すようになった者や、猛士の活動に対し害意をもってそれを妨げる者などを秘密裏に始末する暗部の鬼「象」である。オノノキ、カッキ、クダキの三人は本州の東北から中部、関東地方の一部を担当し活動する本州北部地域部所属である。そして、重蔵は彼らの上司に当たり、かつて「戎鬼(ジュウキ)」という名で同様の任務に当たっていた。ヒツギは彼らとは異なり、魔化魍の犠牲者の魂を弔う役割を持つ鬼である。そのため「象」に所属はしておらず、猛士葬祭局という別部署の所属となっている。
そして、人々を守るために戦う猛士の活動とはその方向性を異にした非合法的な活動内容のため、「象」の鬼たちは全国各地にある猛士の支部を拠点にしておらず、別の場所をアジトにしていた。本州北部地域部のアジトは重蔵が支配人を務める温泉旅館「滝夜温泉」なのだが、ここにさらに複雑な関係性がある。滝夜温泉は本州北部地域の「象」の隠れ蓑であると同時に、歴史上国内にいくつか存在した独自の音撃組織「皐月会」の拠点でもあるのだ。かつてはまつろわぬ鬼が集い、猛士とも反目していた時期もあった皐月会であるが、現代では魔化魍に襲われた孤児を積極的に迎え入れ、温泉旅館で住み込みの仕事を与えるだけでなく、音撃戦士や猛士の一員としての修行をつけている。オノノキもこの組織の出身であり、重蔵を師としている。
そしてオノノキら今悩ませているのが、この一年で爆発的に増加した「鬼」による犯罪だ。鬼は五体や感覚全てが人間の遥かに超える、文字通り人外の存在である。その能力を存分に使えば、警察のような公的機関の追及を逃れ凶悪な犯罪を行うことなど容易い。本来、そのようなことがないよう鬼は十分に精神面での鍛錬を行っているのだが、このような事例が起きている以上、鬼を犯罪に誘い込む「何か」があるのかもしれない。
ここまで説明し、オノノキはさらに画面を切り替えた。その画面には簡単な説明書きと共にいくつもの顔写真が添付されている。全てオノノキらが対処した鬼達であった。
「上はボクと同じアラフィフから下は学生くらい。年齢も元の所属も使う音撃武器の種類もバラバラ……接点なんてなさそうなのにねぇ」
スクリーンを見ながらカッキがぼやいた。クダキもその意見に無言で頷き同調する。その様子を見てオノノキは僅かに口元を緩めた。
「そう。『鬼』として見ると何の接点もない。けど、鬼以外の経歴に着目して見ると……」
オノノキはそう言うとさらに手元のパソコンを操作する。すると彼らの経歴の最後の方が強調して表示された。
「あぁ、成る程。『もう戦えない』鬼たちってことすね」
クダキがそのスクリーンを見て口を開いた。彼の目に映る画面には、鬼たちが怪我や年齢による引退、あるいは猛士からの脱退、修行の放棄といった形で戦いの一線から身を引いていることが記されていた。つまり、本来ならば戦えないはずの人物が「鬼」に変身していたということなのだ。
「なればなぜこのような人たちが鬼に……?」
「それはまだ分からないです。けどそういう鬼を離れた人材まで手駒にしてる上に、鬼のメカニズムの詳しいってこと」
ヒツギの疑問に対しオノノキはそう返すと重蔵の方を見た。オノノキの視線に重蔵は無言で頷いた。
「ここから先は重蔵先生から皆に」
「ああ、そうだな」
重蔵は立ち上がると、オノノキに席に戻るよう促す。彼女が座ったことを確認すると、パソコンを操作し画面を切り替えた。
「今回の『敵』の正体はまだつかめないが、恐らくこれまで私たちが戦ってきた単発の相手とは違う。相当に猛士を知っている人物を中心とした集団、組織かもしれない。そこで私たちも今回は捜査方法を変える」
そこで一度重蔵は言葉を区切った。
「君たちには通常の鬼と同様に、通常の支部預かりという体で活動してもらおうと思う。奴らは私たち以上に猛士の内部に詳しい。そこで皆にも今まで以上に組織の内側で活動してもらいたい」
重蔵のその言葉にクダキとカッキ、ヒツギは目を見開き驚きの表情を隠せない。オノノキも驚きの表情を浮かべている。彼女だけは直前の電話で重蔵から知らされていたが、こうして直に聞くまでは流石に信じられなかった。
「いやいやいやいや。ボクたちの仕事内容、殺人上等逮捕待ったなしの闇中の闇ですよ。そんなボクが『正義のヒーロー』面で人命救助しちゃっていいんですか?」
カッキは「象」としての活動が極めて長い。五十近い年齢は一般的な鬼ならとうの昔に引退し別の業務を受け持っているだろうが、カッキは「象」の鬼として常に社会の闇の最前線で戦ってきた。そんな自分が?という驚きは他の誰よりも大きかった。
「なぁに、別に変わったことをしてもらうわけじゃない。普段の仕事の舞台が普通の支部に変わっただけだ。ヒツギ君は変わらず葬祭局からの出向だがね。それに、カッキ君も正義のヒーロー面して歩いたって全然いいだろう」
重蔵の言葉にカッキは頭を下げた。陰に隠れたその表情は衝撃と感動が入り混じった複雑なものだ。いかに社会の闇で活動しているとはいえ、そうした正義の側を当たり前のように歩ける状況に憧れたことがない訳ではないのだ。
「ということで来週ぐらいには東北支部に活動の拠点を移してもらおうと思うから、準備していてくれ」
重蔵がそう言うとスクリーンも切り替わり、猛士の組織図が大きく表示された。東北支部の欄から少し外れて伸びた枝にはオノノキらの名前が「角」、即ち鬼相当の人員として赤く強調され記載されていた。
「しかし俺たちが普通の鬼やるなんてねぇ」
「最初は普通の鬼だったでしょう。クダキさんも」
「まぁそうだけどよ、気持ちってもんがさ」
オノノキとクダキは軽口を叩き合っていたが、そこに重蔵の鋭い目線が突き刺さる。
「遊びに行くわけじゃあない。敵は意識的に鬼を狙う。そいつらを事前に守るのもお前たちの仕事だからな」
「はい」
そのまま重蔵は今後の流れについて簡単に説明した。その説明をオノノキらは聞きながら、時には手元の手帳やメモを確認する。一通り説明が終わるころには、到着してから一時間程度経っていた。
「さて、とりあえずの説明はこれで終わりだが、この後はどうする?」
「『鳴神月鬼』の葬送は完了し、本日中に親族と顔を合わせることができるかと」
重蔵の言葉にヒツギが返した。オノノキら「象」の任務は単に闇に心を呑まれた鬼を倒せばいいというわけではない。落命した鬼をあくまで人として弔い葬ることまでが仕事なのである。遺体の消滅、などはできる限り避けなければならない。あくまで外見は鬼であっても、死者を悼み弔い葬る気持ちが重要なのである。
「喪主は息子か?村の生き残りだっていう。まだ子供なのに」
重蔵の言葉にオノノキは表情を暗くする。今回その堕ちた鬼を倒したのは彼女であった。彼女一人では初めての任務であった。
せっかく滝夜温泉まで来たからひとっ風呂浴びていこうというカッキとクダキを置き、ヒツギとオノノキは車に乗り込んでいた。ヒツギは先に葬送の儀式を行った鬼の葬儀の手筈を調整する仕事があった。オノノキはその手伝いであった。
「しかし異動とは大変ですね。滝夜温泉から東北支部もそれなりの距離がありますし」
ヒツギは車を運転しながら助手席に座るオノノキに話しかける。しかし、オノノキはヒツギの方を見ず、眼鏡越しに手元の資料を睨んでいる。
「厄介なんでしょ。皐月会本部に鬼が集まっているのも。もう対立の意思はないのに」
「そうですよね。組織立って争うような時代ではないですからね。重蔵さんも優しい方ですし」
ヒツギの言葉に、オノノキは手元の資料をめくりながら頷く。いつしか車は山道を抜け街中の方へと入っていた。
「皐月会が猛士と対立していたのなんて百年も前のこと。けど上層部は未だに皐月会を嫌っている。角だけじゃなく歩や銀にも皐月会出身者は多いのに」
「それこそオノノキさんや東北支部の霧子さんもそうですよね」
オノノキも皐月会出身の音撃戦士である。皐月会本部の滝夜温泉で住み込みで働く若い子供たちは魔化魍により家族を失った孤児たちである。そうした子供たちに、重蔵やオノノキは鬼や魔化魍に関する知識を教え人々を守る術を教えている。また、従業員の人々も「歩」として魔化魍に関係して現地調査などを業務の合間に行っている。物心つく前から皐月会に所属し鍛錬を積んできたオノノキは、その実年齢以上の経験を積んだ、いわば鬼のサラブレッドだ。そしてこのような平和的な方針に皐月会が転換したのは、重蔵が総帥となってからだという。それ以前までは土着の技術をただただ保存する閉鎖的な組織だったらしい、とオノノキは聞いていた。
「……ところで、先程から何を?」
「リストアップした、ここ五年間の鬼の引退者のリスト。何かつながりか手掛かりがあるかも」
「それは例の『敵』……?」
「さぁ……どうだろう」
まるでわからないといった風に、オノノキはヒツギの方に顔を上げておどけて見せた。その時だ。オノノキはその視界の端に何かを捉えた。すぐさま顔を下に向け資料を見直す。
「ん、オノノキさん?」
「ちょっと止めて!」
「え、えぇ……」
オノノキの声に、ヒツギはハザードランプを灯し車を路肩に止めた。止めるや否やオノノキは助手席のドアを開けて飛び出していった。
「ちょっと!」
「先に行ってて!重蔵先生には私から連絡しとく!」
ヒツギに早口でそう伝えると、オノノキは道に沿って駆け出して行った。その振り上げられた左手首には、鬼面のレリーフが彫り込まれたブレスレットが煌いていた。
一人の男が足早に街中を歩いていた。アウトドア用のウェアを着こなし、口元をマスクで覆っている。髪は眉にかかる程度の長さ。なんてことはない、特に目を引くような所はなく、別段不自然な所はない。だが、彼は何となく焦っていた。その感情の原因に心当たりがないでもないが、その感情を制御するでもなく速足で歩いていた。近道を求めてか、いつしか男の足は薄暗い路地裏に向かっていた。
「ねぇ」
「!?」
突然、男の耳元で声が響いた。それに驚き男は思わず振り向いた。その瞳に映ったのは、黒い喪服に身を包んだ女だった。身長はかなり高い。高身長の部類だ。毛先が遊んだショートカットの黒髪の一部には金色のメッシュが入っている。その髪の隙間からは眼鏡を通して鋭い視線が見え隠れしていた。不吉そうな女だ。彼はそう思った。
「な、何の用ですか……」
目の前の女が放つ威圧感に呑まれ、男は息苦しさからマスクを取った。露わになった素顔はまだ若く、少年と言っても通じそうだ。
「『峰 実尋(みね みひろ)』君で合ってる?それとも襲名予定の『御剣鬼(ミツルギ)』と呼んだ方がいい?」
女が口を開いた。そしてそのまま自らの本名、そして鬼としての名前をつらつらと述べた。本名はともかくもはや自分しか知らない鬼としての名を知っているこの女は一体何者なのだ。いや、それ以前に鬼を知っているということは、一般人ではない。
「もしかして猛士の方ですか……?」
「良かった、人違いじゃなくて。御剣鬼門下、実尋君だったね。私はオノノキ。よろしく」
オノノキの口調だけは柔和なものだった。オノノキはそのままゆっくりと実尋に近づいていく。数歩オノノキが近づいたところで、実尋は左手を庇うように一歩後ずさりした。その様子に、オノノキは少し首をかしげる。
「ぼ、僕はもう猛士には関係がないんです……失礼します」
意を決した実尋はオノノキの横をすり抜ける、ほとんど身体を当てて突き飛ばすようにして無理やり逃げようとした。その様子にやや驚いたようにオノノキは身体を避けた。そしてそのまま実尋の身体の横に入り彼の左手を掴んで締め上げた。ずり落ちた袖からは、オノノキが身に着けているものと同様の、鬼面が刻まれたブレスレットが巻き付いていた。魔化魍を祓う音撃武器として弦楽器状の「音撃弦」を用いる鬼たちが変身の際に用いる「変身鬼弦」である。
「この変身鬼弦、君の?猛士に関係がないなら私の方から返しておくけど」
オノノキにより拘束を振りほどこうと実尋は身体を揺らす。だが、オノノキによる締め上げは強固であり、振りほどこうとしてもまるで振りほどけなかった。
「そんなの、あんたに関係ないでしょう……!」
流石に苛立ちを覚えた実尋は全身に力を込め無理やりに体を動かし、強引にオノノキを引きはがした。先程とは大きく異なる膂力。引きはがされたオノノキは自らの腕を確認し不思議そうな表情を浮かべた。
「……今関係ができた。もう少し聞かせてよ、話」
オノノキはそう言うと正面に立つ実尋の姿を見る。その姿は先程までとは異なり、苛立ちが皺として険しく刻まれた顔からはどこか冴えない、少年のようにさえ見えていた姿は消えていた。その瞳は見開かれ暗い色が灯っている。震える唇で実尋は言葉を紡ぐ。
「僕は怖い、戦うのが。だけどこいつは魔化魍じゃない!魔化魍じゃないなら戦える!」
「……止しなよ、ここで戦うの」
失敗したかな、とオノノキは続けた。だがその表情には焦りはない。実尋の様子からは片時も目を離さず、だが、その指先は携帯電話の液晶画面を幾度も弾いていた。
「連絡はしたし、警告もしたからね」
だが、オノノキの言葉に実尋はまるで耳を貸さない。そもそも、いきなり自分を襲ってきた不審者の言う事を真面目に聞く人間がどれほどいようか。そのまま実尋は左手の変身鬼弦に手をかけた。鬼面がスライドするとその内側からは数本の弦が現れた。実尋はその現に指をかけ、力強く弾く。じゃらん、という音と共に変身鬼弦から特殊な音波が広がった。そして実尋は変身鬼弦を自らの額に近づける。すると彼の額にも黄金の鬼面が浮かび上がった。そして鬼弦から放たれる音波は彼の全身を覆っていく。特殊な音波をキーに、彼の全身の細胞が「鬼」へと変わっているのだ。力の高まりと共に彼の全身を鉱石が包み込む。そしてその内側から力強い叫びが聞こえたと思うと、黒い体色に剣のように鋭い一本角を生やした鬼「御剣鬼」が姿を現した。
その変身を見ながら、オノノキも同様に彼女の変身鬼弦・音戒(おんかい)を展開し、同様に弦を弾き鬼へと変身する。彼女の全身を紫電を伴う暗雲が包み込み、周囲に雷を落とす。一層強い雷撃が暗雲から放たれた。その勢いが変身直後の御剣鬼を吹き飛ばす。雷撃の衝撃に眩む御剣鬼の視界に現れたのは、暗い体色に顔面を悪魔のような不気味な表情で彩る紫色の隈取、そして頭部から生えたまるで兜虫のように枝分かれする鋭い角が特徴的な鬼「慄鬼」であった。
ただいるだけで見るものを威圧するかのような存在感を放つ慄鬼。彼女が手を虚空に突き出すと、どこからかギター型の音撃武器「音撃弦・降三世(ごうざんぜ)」が現れ、彼女の手に握られた。それに呼応し、御剣鬼は路地裏のビルの壁面からパイプを引きはがし武器として構えた。
「魔化魍は怖い、魔化魍じゃない、魔化魍は怖い、魔化魍じゃない……!」
御剣鬼はうわごとのように繰り返す。そしてそのまま勢いよく慄鬼向けて突撃していく。そのを見て、慄鬼は一度ため息をつく。
「おーし、やるか。仕事」
そう呟くと、慄鬼は手にした音撃弦を力強く突き出した。御剣鬼が振りかぶったパイプとそれはぶつかり合い、ばちばちと火花を散らした。
―続―
用語:「象」
裏切り者の鬼や構成員、秘密を知りすぎた外部の人物を始末することを主な仕事とする部署。猛士各地の支部や本部、関連施設などに出現するが、「象」であることを知る人はほとんどおらず異様なオーラこそあれど鬼である「角」や事務担当「金」の出向だと大体は思われている。支部の指揮官「王」クラスの一部が象については知る程度。基本的に裏切り者が出てくるのは二、三年に一度ぐらい。それ以外の時間は精神を崩しかけた鬼へのカウンセリング、情報を知りすぎた人物の口封じや、類い稀な殺傷能力を活かすための未知の魔化魍の調査、開発中の音撃武器や魔改造ディスクアニマルの試験などをしている。サポートについては現地支部の金や銀、飛車、歩の協力を受ける。
所属する鬼は鎧や外套、他では見られないような装備品などを身につけている異形揃い。鬼によっては最早「異能」の域に達した技を使う者もいる。仕事着として基本的に「鬼を弔う者」として喪服を着用しているが、その着こなしは様々。
「象」の名前は現在では使われていない将棋の駒「酔象」に由来し、猛士の暗部であることから名付けられた。その性格上、構成人数は極めて少ないが、現役で戦える支部長とでも言うべき超ベテランのエキスパートばかりである。情報網についても独自のパイプラインを持つ。