悲痛な声が響き渡り、小さな体が奥へと押し込まれる。壁を揺らし叩く暴風雨は一層激しくなり、けたたましい雷鳴の音が暗雲の中に響き渡る。
「でも、お父さんとお母さんは!?」
「大丈夫だ、僕たちにはやらなきゃいけないことがある」
「ここにいれば安全だから」
不安な叫び声に二人分の声が優しく返す。そしてその声の主は、小さな声が響く部屋の扉に手をかける。
「行かないで!お父さん!お母さん!」
「……那由多、君だけは大丈夫だ」
涙ながらに訴えかける子供に対し、親は優しく微笑み、その扉をゆっくりと閉じた。吹き荒れる風と雨の音ばかりが彼らの耳に伝わる。
「……これで死ぬかもしれない。来るのはまつろわぬ鬼、皐月会の戦士だ」
男は閉じた扉を前にぼそりと呟いた。その声に女が返す。
「けど、戦うしかないわ。どれ程の相手が来ても、皆を、那由多を守るために。そういう約束をしたもの」
「奴らこそが敵だという■■■■の言葉を信じて、今まで通りやるしかない」
二人の白装束の男女はゆっくりと振り返ると、和傘を手にしてその場を立ち去る。その背中に、彼らが護るべきものを残して。
彼らが見据える正面には一人の女が立っていた。白無垢を着る彼らとは対照的に、全身を真っ黒い喪服で包んだ眼鏡の女だった。
「ごきげんよう、皐月会の戦士」
「こんな形で会えるとは思っていませんでした」
彼らの言葉に、眼鏡の女はただ険しい表情を返した。大きな雷鳴が空を裂いて響き渡った。
まるで雷神と化した蜘蛛のような異形の鬼の前に、慄鬼は息を吞んだ。その背丈は周囲に点在する小屋よりも大きい。その細長い手足はしかし脆さなどはまるで感じさせない。まるで硬さと強靭さを兼ね備えるカーボンファイバーで編み込まれたような筋肉だった。その腕には二本の音撃棒と和笛という二人分の音撃武器を携えていた。そして残された、他の腕より一際長い一対の腕は大きく開かれ、その自由自在を示していた。
「「鬼幻術・雷糸(らいと)!」」
一際長い腕のその指先一本一本から、雷で編まれた糸が放たれる。大気の絶縁性さえ破断するその雷は、強力な熱エネルギーを伴い、雨風に吹き晒されている草木をも焼き払い、慄鬼に襲い掛かる。
「ッ!」
慄鬼は空中に飛び上がり、すんでのところでその糸を回避する。その勢いで、手にした音撃弦を大きく振り上げ鳴神月鬼に切りかかる。
「「鬼闘術・神太刀・電(かんだち・いなづま)!」」
だが、音撃棒を持った二本の腕が構えた手刀が、慄鬼の斬撃を受け止めてしまう。そのまま鳴神月鬼は慄鬼を手刀で切り払い、吹き飛ばした。地面に叩きつけられんとする慄鬼であったが、空中で体勢を整え、地面を転がりながらその衝撃を逃がした。
「……神月鬼。流石、『神』の名を戴くだけある。これが神室家の雷電能力者」
「「お褒めの言葉、ありがたいわ。あなたもまつろわぬ鬼たち、皐月会の最高峰として、相当の実力者ね」」
手刀により切り裂かれたはずの慄鬼の両腕の傷は、既にふさがっていた。血も流れていなかった。慄鬼の卓越した再生能力によるものである。
「「もっとも、このままとはいかないが」」
鳴神月鬼の鳴鬼の方の顔に彼らは笛を構える。それと共に鳴神月鬼の指が複雑な印を結び始める。
「「鬼幻術・彩ノ神・供花千本(さいのかみ・くげせんぼん)」
その言葉を言い放つや否や、鳴鬼は口にした音撃魔笛「星憐(せいれん)」から清廉な音色を放つ。その音に呼応するかのように、彼らの足元から無数の花が咲き乱れていく。どす黒い荒天に似合わぬ、色鮮やかな花々がどんどんとその可憐な鮮やかさを咲き誇りながら、慄鬼に迫る。
「!これはッ!」
だが、慄鬼は迫る花々のその危険性に気づいた。鳴神月鬼の印と魔笛の音色により生み出されたそれらの花は、まるでドリルのように旋回しながら地面を貫き刃のような花を咲かすのである。事実、掘り起こされた土や石が刻まれながら宙に舞う姿が、慄鬼の網膜に映りこんでいた。そして風に吹かれ散った花弁がそれらを切り刻み塵へと変えていく。
慄鬼は高速で後退し距離を取るが、彩ノ神は笛を吹き鳴らす鳴神月鬼を中心に同心円状に広がり、彼女を追い詰める。その様子は、荒れ果てたその地の本来の姿を、美しい花々で隠して魔笛を鳴らす匠のようであった。
「こっちも同じ、このままとはいかないのは……。鬼幻術・電駆刃(いなづまかりば)」
対する慄鬼も印を結び呪文を唱える。すると、彼女の周囲に雷電により模られた大剣が幾本も現れた。それらは高速で旋回すると、慄鬼に迫る花々を切り払い灼き払った。そしてその旋回半径を次第次第に大きく広げ、鳴神月鬼に鋭い斬撃を浴びせかける。
しかし鳴神月鬼はそれに臆することなく、迫る雷電の大剣を音撃棒「来迎(らいごう)」で打ち砕いた。飛び散る稲光が大地を焼き、鬼らの顔を照らし出した。
「七座一門の力、これが。『いのち』を生み出し自在に操る、始祖の力」
「「如何にも。偉大なる祖は御嶽さえ造り出したという鬼幻術『彩ノ神』。だがまだ今見せたのはその僅かなほんの一部だけ」」
鬼幻術「彩ノ神」。それが他の鬼幻術と明確に一線を画すのが、植物という新たな生命を生み出しそれを自在に操るという点だ。他の鬼幻術、それこそ鳴鬼と一体化している神月鬼が雷電というエレメントを操るように、通常は炎や風、雷といった自然現象から鬼はその力を借り、鬼幻術の媒介とする。だが彩ノ神は違う。植物という大自然そのものを自らの手で生み出し操るのである。
そして植物という大自然そのものからメタモルフォーゼの力を引き出す鳴神月鬼は、他の火や雷、岩や水といったものとは異なる、生命としての木々の力を纏うことで高い柔軟性と密度を兼ね備えた肉体を実現している。
「やっぱり強い。伝説の力だ。どうして戦わなくちゃ」
慄鬼はそう言いながら手のひらに音撃管「北斗星(ほくとせい)」を取り出すと、そこから空気弾を連射し、彼らの糸が届かないよう距離を取りながら鳴神月鬼を攻撃する。しかしその威力は鳴神月鬼の巨体の前ではちっぽけであり、せいぜい足止め程度の時間稼ぎにしかならない。
「「どうして、だと?鬼たちが人を守るように、鬼を守るために戦う!」」
音撃管からの射撃をその腕で力強く払いのけ、鳴神月鬼は叫ぶ。
「……だったら、頼ればいいじゃん。私たちみたいなの」
「「あなたたちは鬼を殺すばかりだ!ならば鬼を守るのが私たちの役目だ!」」
慄鬼の言葉を意に介さず、鳴神月鬼は叫ぶ。更なる連撃が慄鬼に襲い掛かる。それらを辛うじて躱しながら、慄鬼は鳴神月鬼から大きく距離を取った。無数の空気弾に紛れ込むように高速で放った鬼石が鳴神月鬼の身体に食い込んだのを確認し、音撃管に音撃鳴「夜月(よづき)」をセットすると、慄鬼は呼吸を整え大きく息を吸い込む。
「音撃射・疾中真空(しっちゅうしんくう)!」
音撃鳴がセットされた音撃管から鳴神月鬼に向け、空気を振動させながら清めの音が放たれる。その音は鳴神月鬼の体内の鬼石と共鳴し、その五体にダメージを与える。
「「……これが、鬼狩りの音撃……!」」
通常は魔化魍を鎮めるために放たれる清めの音。だが、慄鬼ら「象」の鬼が鬼狩りを行う際に放たれる清めの音はそれとは性質が異なる。通常の魔化魍にもたらす形象崩壊作用を鬼の肉体に対して発揮できるよう「調律」が異なっているのだ。これは、葬送用の音撃が通常のそれとは異なり、魔化魍を祓うのではなく犠牲者を弔うための音撃であるために、その波長が異なることと似ている。
鳴神月鬼の身体の、鬼石が食い込んだ部分が炸裂し、その衝撃に鳴神月鬼はよろめき膝をついた。地面に長腕をつく鳴神月鬼。慄鬼はそれを見逃さずに音撃弦を構え突撃する。
「!」
だが、鳴神月鬼の腕から放たれる呪力に共鳴し、無数の花々が地中から生えた。それらは力強く伸びて慄鬼を打ちのめしその攻撃を阻んだ。全身を串刺しにされ、強い力で地面に叩きつけられた慄鬼が立ち上がった時には、既に鳴神月鬼の身体に傷はなく、ダメージは回復していた。
「……再生能力。効かないか、このぐらいの音撃じゃ」
「「こちらこそ、皐月会の鬼がこれほどの実力とは驚いた」」
間合いを取った両者は互いに睨み合う。だが、立ち上がった鳴神月鬼と片膝をつく慄鬼では、どちらが優勢かは如実に表れていた。
「……言ってたじゃん、鬼を守るって。私たちじゃあできないって。……何から守るの?」
音撃弦を支えに立ち上がる慄鬼の問いかけに、鳴神月鬼は二つの口の動きを合わせて答える。
「「……無論、人間からだ。鬼が人間を守るように、人間から鬼を守るのが私たちの役目となるのだ」」
「……!」
力強く言い放ち、ごうと吠える鳴神月鬼。その言葉に慄鬼は沈黙する。鳴神月鬼はさらに続ける。
「「あなたたち『象』の鬼が殺してきた鬼たちも皆、鬼を守らんと立ち上がった戦士だ……!散っていった彼らのためにも私たちは戦わなければ!」」
事実、鳴神月鬼より前に、慄鬼らは全国各地でこの一年、九人もの鬼を倒してきた。皆、鬼として心身を鍛えながらも、様々な理由から魔化魍と戦う一線を退いた者たちだ。鳴神月鬼が言うには、彼らもまた鳴神月鬼同様に鬼を守るべく再び戦いに臨んだのだという。
だが、その言葉は慄鬼にとって吞み込めるものではなかった。そもそも人々を守るのが猛士の鬼の仕事である。だが、そうした綺麗事だけでは済まないような闇の仕事を行うのが慄鬼らだ。慄鬼らの仕事こそが、鳴神月鬼の言う「鬼を守る」ことだ。そのために道を外した鬼たちを倒している。鬼を守るために同族殺しの汚名を被っているのだ。しかし、その仕事の対象は基本的に同族である鬼であり、人間を対象とする場合は少ない。
しかしそれこそが、鳴神月鬼、正確には鳴神月鬼の背後に潜み同じような鬼たちをまとめ上げた存在、にとっては不満なのである。つまり、人間を守るという役割を帯びた鬼たちを、他ならぬ人間の悪意から守るために、その人間をこそ倒すべきだというのが彼らの主張である。だが、鬼と人間社会との関係性の歴史は必ずしも平穏であったわけではない。人間による鬼への迫害、怒り狂った鬼による人々の虐殺、鬼と人間両者を巻き込む大規模な戦乱……。そうした血塗られた歴史の果てに、現在のそれなりに調和がとれた状態が保たれているのだ。
「……大変なことになるよ、そんなこと続けてたら。大勢が苦しむことになる、自分たちだけじゃなく」
音撃武器を依然鳴神月鬼に向けながら、慄鬼はゆっくりと口を開いた。その様子に鳴神月鬼は静かな目線を向ける。
「「…………」」
周囲全体に電流が張り詰めた緊張感が走る。お互いが口を噤んだまま周囲を不気味な静寂が包む。その沈黙を裂いたのは、慄鬼が発した小さな言葉だった。
「……本当は分かってるんでしょ。自分たちの子供も危ないって事」
だが、慄鬼のその言葉に鳴神月鬼はその様子を一変させる。
「「あなたに私たち家族の何が分かる!」」
大気を震撼させるほどの凄まじい怒号と共に、鳴神月鬼はその六本の腕、三十本の指を用いて不気味な印を一気に結ぶ。そして全身の力を集中させ全ての腕を慄鬼向けて突き出す。
「「鬼幻術・彩ノ神・獅子頭大権現(ししがしらだいごんげん)!」」
その言葉と共に、慄鬼が立つ大地が大きく揺れ動いた。思わず足元に注意し体勢を整える慄鬼。
「ッ!」
足元に目線をやった慄鬼は驚いた。足元は単に揺れているだけではない。巨木の幹により大きく持ち上げられているのである。そしてその巨木は慄鬼の足元だけではなく彼女の周囲全体を包むようにして聳え立っている。その姿はまるで樹木で出来た獅子の顔そのものだ。
大口を開いていたそれは成長の勢いを増し慄鬼の全身を丸呑みにしてしまう。鳴神月鬼は六本の腕による合体印を解き、それぞれの腕で複雑な印を結び、呑み込んだ慄鬼にとどめを刺すべく更なる技ですぐさま追い打ちをかける。
「「合体鬼幻術・彩ノ神・自在天雷林(じざいてんらいりん)!」」
慄鬼を口腔内に捕えた獅子の顔全体に強力な雷電が突き抜ける。しっかりと噛み締めた牙の隙間から、その余波である電撃が漏れ出し周囲を灼き、眩しい煌めきが辺り一面を照らした。
「「……終わったか」」
わずかに口を開いた獅子の牙の隙間から見えた、焼け焦げた腕を見て、鳴神月鬼はそう呟いた。あくまで、その獅子の牙に焼け焦げた腕を咥えさせたまま、その腕を見据えながら鳴神月鬼は口を開いた。
「「あなたには分かるまい……。未だ人間に蔓延る悪意、鬼への迫害が……」」
そのまま鳴神月鬼はゆっくりと、自らの苦悩を語り出した。
千年の歴史を謳われる七座一門、その一員として生まれた男「七座 永政」。彼は七座一門開祖が扱ったという秘伝の鬼幻術・彩ノ神により、植物という大自然そのものに影響を及ぼす才を有していた。その恵まれた才能こそが、開祖の伝説の復活をこそを願う七座一門にとっての宿願であり、その力を発現した彼にはその当主としての輝かしい栄誉と責任が待ち構えていた。
若干二十歳で七座一門の当主を襲名した七座永政。その彼を迎えたのは、人々を魔化魍の脅威から守る組織、猛士の歓迎であった。猛士に属する鬼としては最も長い、平安時代からの歴史を誇る七座一門、その新たな当主には、その開祖にして音撃戦士の祖の一人でもある伝説の呪術師、「七座 名憑」の伝説と同様にその身をもって人間を守護することが望まれていた。永政が変身した姿は「音撃戦士鳴鬼」と呼ばれ、そして彼は代々伝わる秘蔵の音撃武器である「音撃魔笛」を手に、人間を守るという鬼としての役割をこなしていた。
そこには喜怒哀楽も感情の機微もなく、ただ「そうあるべき」と自らに課された役割を歯車のようにこなす男の姿があった。選ばれた者であるからには、その役割を果たさねばならない。その一心が永政の身体を動かしていた。彼は多くの鬼たちの鑑となり、その高い音撃の実力と秘伝の鬼幻術・彩ノ神により数千の魔化魍を葬り去ってきた。大自然そのものを操るその戦いぶりは、正しく伝説の再現のような姿であった。
一方、東北部の名門の一つとして数えられる神室家の令嬢として育った「神室 栞奈」。有り体に言えば異能力者の家系である神室家。鍛錬を積み鬼として変じた状態でも扱うその異能により、猛士内部の鬼の中でも存在感を示してきた家系だ。その家系からは異能を備えた鬼が多く輩出され、特に「神室 勘治郎」こと火炎を操る鬼である「音撃戦士渇鬼」は、使い手の少ない音撃槌による絶大な攻撃力をもって魔化魍のみならず同胞さえ焼き尽くす恐るべき鬼として、その名を闇の中に轟かせていた。
栞奈もその家系に生まれたのだが、その純朴な性格から、鬼として生きる以外の道も示されていた。だが一族に類を見ない雷電を操る異能の強力さが、否応なく彼女を戦いの道へと巻き込んでいった。鬼の修業は過酷であったが、彼女は弱音を吐かず一流の鬼へと自らを鍛え上げ「音撃戦士神月鬼」へと肉体を変えた。「神」の名を戴くその鬼は、その名が示す通りの強力な雷電を身に纏い戦場を駆けた。
そんな二人が出会ったのは、人里への災害が予想された強力な魔化魍への対処だった。その魔化魍の名は「イキメン」。まるで甲殻類の殻や茸の傘のような形状をしたそれは、その表面の隆起や模様がどこか人間の顔のように見える。そして、人を喰らうだけにとどまらず、その死体に取りつき自らの肉体へと変える凶悪な怪物だ。
鳴鬼と神月鬼がイキメンと対峙した際、既にそれは三つの村落を「喰らって」いた。本体こそ等身大魔化魍と同サイズのイキメンであるが、纏った死体で作り上げた肉体は、一般的な魔化魍と比較しても一際巨大と呼べるサイズに成長を遂げていた。巨大な猩々の上半身の腹から蟒蛇の尾が生えたようなその巨体が暴れるたびに、纏った死体がきしみ死したはずの肉体が悲鳴を上げる。その絶望的な状況を前に、神月鬼は鳴鬼に声を掛ける。
「……どうする?あいつ相手にして」
「これだけの巨体を真っ向から相手にするのは難しい……。あの本体を狙うしかない」
鳴鬼はそう言うとイキメンの頭部を指差した。両腕を地面に突き立てて大きく咆哮するその顔は、その巨体に比してあまりにも遠く小さい。無数の死体がその小さな顔を支えていた。
実のところ、イキメンはその本体に限って言えば戦闘力は魔化魍の中でもあまり高くない。頑丈な甲殻こそ厄介だが、良く知られる甲殻類がその殻に覆われていない腹部が弱点であるのと同様にイキメンもその腹部が弱点だ。その弱点を操った死体で覆い隠している。イキメンの厄介さはそこだ。言ってしまえば、寄生した死体さえ取り除いてしまえばその戦闘力は、他の魔化魍と比較しても並以下である。だからこそイキメンは死体に取りついた状態を維持しようとする。そして人間は同族の死体を前にすると攻撃を躊躇してしまう。
イキメンは本体の戦闘力こそ高くないが、そうした総合的な防御力の高さによる対処は極めて厄介である。そしてイキメンの出現事例の乏しさもあり、極めて危険な魔化魍の一種として、猛士のデータベースにも記されている。
「音撃織管のような大量破壊兵器があれば話は別だが……」
そう零しながら鳴鬼は自らの記憶にあるイキメンの討伐事例を思い出していた。それは江戸時代における報告であった。猛士に属さぬまつろわぬ鬼、平和を憎み天下泰平に牙を剥いた一人の邪悪な鬼「救世鬼」が、巨大なパイプオルガン型音撃武器「音撃織管」を扱い、パイプオルガンの機能を用いてあらゆる管弦楽器の音色を組み合わせた、軍勢の如き音撃の旋律によってイキメンの肉体を構成する人間の死体ごと力づくでその肉体を滅ぼしたのだという。現代においては音撃織管はロストテクノロジーとなっており、その使い手は七座一門当主である鳴鬼の知る限りいない。そしてそれほどの高火力の音撃武器は鳴鬼も神月鬼も持ち合わせていなかった。
空を仰ぐイキメンは大きく身体を反らせると、その顔を振って周囲を確認する。そしてある一方を見つめると、その方向に向けて動き始めた。その動きを注視する神月鬼はすぐに一つの可能性に思い至る。
「あいつ、また新しい餌場を見つけたみたい。……少し距離はあるけど、隣の村だわ」
「……一刻も早く奴を止めなければ、また犠牲者が増える。急がなければ」
鳴鬼はそう言うと、イキメンに向けて駆け出した。神月鬼もそれに続く。走りながら鳴鬼は指を鳴らすと、その音に呼応して、色とりどりの無数の音式神が姿を現した。「朽葉姫蜂(クチバヒメバチ)」「葵山猫(アオイヤマネコ)」「天色隼(アマイロハヤブサ)」「納戸茶蜥蜴(ナンドチャトカゲ)」……その多くが今回の任務のために特別に支給された音式神であった。
それらの音式神がイキメンに向けて襲い掛かる。無数の音式神による攻撃がイキメンの肉体にダメージを与える。だが、そのダメージはイキメンの本体には蓄積されない。痛みなど感じることなく、イキメンはその歩みを進めようとした。
だが、痛みがないということは違和感がないということ。左腕にのみ集中してダメージを与えられていたイキメンは、その肉体の損傷にまるで気づかなかった。死体で構成された左腕は、あくまで動物の死体程度の強度しか持たない。対して、音式神の攻撃は魔化魍の肉体に損傷を与えるほどの強力なものだ。その攻撃に死体が耐えられるはずもなく、左腕は根元から崩れ落ちてしまった。そのまま倒れ込むイキメンの身体に、鳴鬼と神月鬼は飛びついた。その瞬間、彼らの足元から悲鳴が鳴り響いた。
「ぎゃあああ!」「痛い!痛い!」「助けて!」
「……まだ生きて!」
思わず神月鬼は自分の足元を見る。その目には、もう到底人間としての原形をとどめていない肉の塊があった。イキメンの寄生によって辛うじて生をとどめているだけの存在だ。例え、イキメンを清めても彼らが助かることは決してない。
「あんたら、鬼だね!どうか助けておくれ!」
その中には、襲われた村で避難活動を行っていた現地の「歩」の姿もあった。辛うじて動く手先だけを振り、何とか助けを求めている。ただ死んでいないだけのその絶望的な姿に、鳴鬼と神月鬼はただ頷くことしかできなかった。そして本体であるイキメンの方に向け、肉体をよじ登っていった。……彼らを見殺しにしたのだ。だが、鳴鬼と神月鬼に待ち構えていたのはそれだけではなかった。
ようやく肩口にたどり着いた鳴鬼と神月鬼は、そこに立つ一つの影を目撃した。その姿は鳴鬼や神月鬼同様の鍛え上げられた輝く肉体を有し、頭頂部には鋭い角を生やしていた。
「……ッ!」
「まさかこんなことが……!」
その影は、彼らより前に先行した音撃戦士たちの成れの果てであった。互いの部位を組み合わせ、無理やりに欠損を補填したいびつな姿は、まるで継ぎ接ぎだらけの人形のよう。既に死した肉体を弄ばれ、かつての誇り高き音撃戦士たちは魔化魍を守る手駒として同胞の前に立ちはだかった。
死した鬼はその腕から鬼爪を生やし臨戦態勢を取る。腕もその内部がおかしくつなぎ合わせられているのか、通常四本の鬼爪が無数に前腕部から飛び出したいような姿となっていた。その刃物の塊のような腕を振りかざし、鬼は鳴鬼らに飛び掛かる。辛うじて、神月鬼の鬼闘術・神太刀・電がその腕を受け止め切り裂く。
「ここは私に任せて!鳴鬼は本体を!」
「……分かった!」
神月鬼は装備帯から音撃棒を抜き取り両手に握る。その背中越しに、鳴鬼の姿は小さくなっていった。
ようやくイキメンの本体近くにたどり着いた鳴鬼であったが、その眼前には隣の村が迫っていた。最早目と鼻の先の村でのざわめきが、鬼の発達した聴覚を通じ聞こえてくる。今はこのイキメンの動きを食い止めなければ。そう考えた鳴鬼は両腕で複雑な印を結びながら口から呪文を唱える。
「彩ノ神・獅子頭大権現!」
隣村を囲む森が一瞬震えたかと思うと、次の瞬間、巨大な獅子の姿となり魔化魍イキメンの身体を抑え込み動きを封じる。樹木により構築された強靭な前脚や爪がイキメンの肉体を押さえその爪を喰い込ませるたびに、鳴鬼の耳に絶望の断末魔が届けられる。
「このまま一度押し返す!」
鳴鬼と獅子が同時に咆哮したと思うと、巨大な力がイキメンの肉体を押し返す。その瞬間に、悲鳴の大合唱が始まった。その歌声に、鳴鬼は目鼻立ちの無いその顔に苦悶の表情を浮かべる。
一方、体勢を崩したイキメンの肉体上で戦っていた神月鬼も、獅子頭大権現の力による振動を感じ取っていた。一気に不安定となる足場。だが死した鬼はまるで動じていない。神月鬼がよく観察してみると、死した鬼はその足元から伸びる菌糸でイキメンの肉体と接続されていた。その糸を介して肉体を操作されているのだろう。そのため、イキメンの肉体がどれほど動こうとも平然と立っていられるのである。
「……だったら!」
一際大きな振動と共に、イキメンはその身を立ち上がらせた。その瞬間神月鬼は覚悟を決める。
「おおおおっ!」
イキメンの肉体から飛び降りた神月鬼は、その勢いを乗せて吶喊する。鬼棒術「双棒落雷(そうぼうらくらい)」。強力な落下エネルギーを伴うその一撃は、神月鬼をまるで光の矢に変え地面と水平に立つ死した鬼の肉体に強烈な音撃棒の一撃を見舞った。その攻撃に死した鬼は耐えきれず、足元から剥離する。
「……よくも殺したな」
死したはずの鬼の口から放たれたその言葉は、地表面向け落ちていくその身体と共に爆ぜた。辛うじてイキメンの肉体にしがみついた神月鬼の脳内に、鬼の末期の言葉がただ反響していた。
神月鬼のその耳に、不意に笛の音が聞こえた。その音の方向を見ると、鳴鬼がイキメンの本体向けて清めの音を放っていた。神月鬼は急いで鳴鬼の方へ駆け上った。
「鳴鬼!」
「神月鬼!来てくれたか!僕の鬼幻術もあまり持たない!このままとどめを刺す!」
「極めて了解!」
そう答えると、神月鬼は腰の装備帯から音撃鼓「両界(りょうかい)」を取り出しイキメンの本体に取り付け、それを音撃棒で叩きつけ清めの音をイキメンの肉体に浸透させる。それは、鳴鬼が事前に打ち込んだ鬼石と共鳴し、内外から清めの音を魔化魍に流し込む。
最初はバラバラだった鳴鬼と神月鬼の清めの音は次第に調子を合わせ始め、巨大な一つの旋律となり、一際大きな音が鳴り響くと、魔化魍イキメンはその動きを止め、枯葉や土塊へとその姿を変え四散した。その場には、二人の鬼と、魔化魍の犠牲者のおびただしい数の死体が残された。その量に、鳴鬼と神月鬼は戦慄する。顔の変身を解いた二人はその凄惨な有様に、思わず震えるお互いの身体を抱き寄せ合った。命がけの仕事を終えた達成感などは全くなかった。そこには絶望だけがあった。
しかし、その絶望はその場だけでは終わらなかった。死地から生還した彼らを待ち受けていたのは、犠牲者の遺族たちによる責め苦であった。人間は得たものより失ったものを数える生き物である。並べられた犠牲者と対面した遺族の悲痛な叫びだけでも鳴鬼と神月鬼の心を抉るには十分なものだった。しかし、猛士の存在を知る遺族の言葉はそれら以上に重みがあった。
「あんたらを信じてたのに!どうして助けてくれなかったの!」
彼らに対してそう言い放ったのは、犠牲となった「歩」の家族。猛士の活動は僅かに知っていたが、その活動に参加することはなく、魔化魍とは無縁の生活を送っていた。犠牲となった「歩」とはメールでのやり取りばかりだったという。そのため魔化魍の現地調査を行うことが、協力員と言えども命がけだということはつゆ知らず、単なる山歩きのようなものだと考えていた。まさか家族がそんなことで命を落とすとはまるで思いもしなかったのである。そのやり場のない怒りを鬼へとぶつけていた。
最もきつかったのは、命を落とした鬼の親族からの心無い言葉であった。
「まさか同じ鬼を殺すとは、同族殺しの汚れた鬼め!」
他の多くの鬼や猛士の人員は鳴鬼と神月鬼を庇ったものの、死した鬼の親族は挙って彼らを責め立てた。鬼の任務の過酷さを知るはずの彼らとて、その心は感情に支配されている。その激情が、鳴鬼と神月鬼の心を傷つけた。人を襲う魔化魍を倒し、人間を守っても、その人間から、さらには同じように戦う鬼たちからも悪意の矛先を向けられる。その経験によって生じた心のヒビは、鳴鬼と神月鬼の中で次第に大きくなっていった。
そのヒビを覆い隠し共に立派な音撃戦士として戦う彼らは、お互いに同じ悩みを抱える仲として次第に距離を縮めていった。互いに結ばれ、多くの人々から祝福を受けたその時も、その心のヒビの奥の闇は、決して消えることなく彼らを見つめていた。共に名門と呼ばれる音撃戦士、そうした悩みを周囲に出すことは許されず、また周囲も彼らを理想的な音撃戦士として、鬼としてあるべき理想を押し付けてその内面を見ることはなかった。
「……あの時のことを覚えてる?イキメンとの戦い」
「忘れたことはない。あの後も含めて」
生まれたばかりの赤子、那由多の寝顔を見ながら二人は話した。その表情は暗いままだ。
「人々を守るために戦う僕たち、だけど……」
「今は、この子を守ることを一番に考えましょう……。私たちの愛の結晶」
「そうだね……」
二人は那由多の頬を撫でる。外部にどれ程悪意が満ち溢れていても、子供を守るためなら戦える。例え自分たちがどうなろうとも。そう思った彼らの気持ちはこの段階では本物だった。
「おかーさん、これようちえんでもらった!なんてかいてるの?」
「あらー、どうしたの那由多。ちょっと見せてね……」
幼稚園に通うようになった那由多から手渡された手紙を受け取ると、栞奈はその内容に目を通した。その文字に目線をやるたびに、次第に彼女の目は見開き表情が失われていく。
「……!」
「どうしたの?」
「な、何でもないわ!幼稚園からの連絡みたいね!ありがとう那由多」
那由多は母親の普段とは違う様子を疑問に思ったが、おもちゃ遊びを始めるとその疑問は頭の中から抜け落ち、すぐに忘れてしまった。だが、栞奈はその手紙にゆっくりと目を落とし、その内容を確認する。読み返すたびに手紙を握る指に震えが走る。
永政が帰宅すると、栞奈はその手紙を彼に見せた。その内容に彼は絶句する。
「……これは」
「……那由多がもらってきたものよ」
その内容は筆舌に尽くしがたい。那由多の両親が殺人者であり、その家族に対するあらゆる罵倒の言葉がその手紙の中にびっしりと書き込まれていた。しかも、同様の手紙が彼らの家のポストにぎっしりと詰め込まれていた。そして、同様の嫌がらせは数か月にわたって続けられた。その内容は猛士の内部でなければ知らないようなものも含まれていた。何度か引っ越しを行っても、その嫌がらせは続けられていた。正体の分からないその嫌がらせに、心身を鍛え上げられた彼らも次第に耐えきれなくなっていった。
状況が動いたのはしばらく後であった。風呂に一人で入ろうとした那由多の様子を不審に思った栞奈が、彼の服を脱がすと、そこにはいくつもの痣が生じていた。聞くと、幼稚園で殴られたのだという。子供の喧嘩とは言え、怪我をしている状態では流石に親として黙ってはいられない。すぐに栞奈は幼稚園に確認の電話を掛けた。すると、むしろ那由多こそが加害者であるという。納得のいかない栞奈は、永政の帰宅を待って、那由多を加害者だという子供の家へと向かった。
そこに待っていたのは、欲望ばかりが肥え太ったような肉体を、不釣り合いな高級な装身具で彩った夫婦であった。その後ろに隠れるように小さな子供が立っている。確かに、その身体には怪我の痕跡が見て取れた。
「ですから、うちの息子はそちらから殴られたと……」
「こんな夜中に近所迷惑だろうが!あんたらの子供が怪我させたんだろ!謝れよ!」
しかし、互いの主張は平行線で、向こうの親から掛けられる怒号が永政と栞奈の精神を削いでいった。その大声に混じって、親の後ろに立つ子供がふと口を開いた。
「お父さん、お母さんもう寝ようよ……」
「うるさい!お前は黙ってろ!いつもみたく殴られたいか!」
「いつも……?まさかその傷は」
「ああそうだよ、俺たちがつけた傷さ!この傷を使って邪魔なあんたらの息子をいじめてやったのに」
自分たちの子供に手を上げた向こうの親は栞奈の疑問に悪びれもせず答える。その言葉に永政と栞奈は言葉を失う。
「そんな、自分の息子を……!」
「けど、息子があんたらの息子をいじめたのも事実。親が自分の息子を庇って何が悪い!殺人者が一丁前に人権気取ってんじゃないよ!」
女親が叫んだその一言に、栞奈の感情のブレは極限まで大きくなった。そのため普段は封じている異能が不意に発現してしまった。
栞奈の腕を中心に広がる電撃が、女親の身体に伝わり感電させる。そのただならない様子に男親は玄関に置いてあったゴルフクラブを栞奈向けて振りかぶった。そのゴルフクラブの先端にはすでに血痕が付着していた。その先端は栞奈を守るために間に割って入った永政の頭部を打ち据える。生身の状態で殺意のこもった攻撃を受け、鬼として鍛え上げられた永政と言えども頭を押さえうずくまる。
「あなた!」
「……いや、大丈夫だ」
永政は辛うじて立ち上がると、男親の方を見た。女親も感電のダメージから復活し、永政らを睨みつける。
「どんな武器使ったか知らないけど、そっちから攻撃仕掛けてきやがって!」
女親の拳が栞奈の顔に直撃する。だらりと鼻から血を流し、彼女は相手を睨みつけた。鬼として、人々を守るものの残された最後の矜持として、永政も栞奈も自ら反撃することはなかった。しかしその矜持も彼らの暴行の前に音を立てて崩れていった。
だが、その最後のかけらが砕かれようとしたその時、騒ぎを聞きつけた近隣住民と警察により、夫婦は取り押さえられた。永政らも警察の取り調べを受けたが、一方的に暴行を受けていたこと、栞奈の異能を証明できないことなどから罪には問われなかった。だが、こうしたトラブルは彼らにとって日常茶飯事だった。その繰り返しは、彼らが人々に見切りをつけるには十分だった。
そうした日々が続いたある日、彼らの部屋のインターホンが鳴った。鬼としてはあり得ない程の苛立った態度を隠さず永政は部屋の扉を開け放った。
「あなたは……!」
「……あぁ。ワシは大丈夫だ。それよりも二人とも心配したぞ。お子さんは元気かな」
そこには一人の老人が立っていた。もはや通常の任務どころか外出すらできなくなってしまった彼らを心配し、猛士の重鎮である「■■■■」が自ら訪ねてきたのである。彼の目には、かつて名門と謳われた二人の鬼の見る影もない疲弊した姿が映っていた。
「……なるほど。それは許せないな。ワシに正直に言ってくれてありがとう」
掃除もされていないゴミだらけの部屋の中に座り、老人は永政たちの言葉を聞いていた。犯した罪、自分たちへの嫌がらせ、猛士への不信感、鬼として人々を守ることへの迷い……その全てを打ち明けてしまった。
「いや、僕たちも■■■■さんに言って少し気が楽になりました」
「ありがとうございます」
「礼なんかいいさ。君たちほどの鬼がこんなところで燻ぶっていては、ワシも心が痛むというもの。単なるジジイのおせっかいだと思ってくれ」
老人はそう言ってはにかむと、別の話題を切り出した。
「ところで、君たちほどの鬼なら『象』を知っているだろう」
「ええ、猛士の表にはできない闇の任務をこなす鬼の集団だとか……噂程度に」
「その組織に、栞奈さん、君の親戚が所属しているのは知っているかな?」
老人が突然に告げた事実に、栞奈は驚きを露わにする。
「え!?そんなことは知らないです……」
「音撃戦士渇鬼、彼はそうした闇の任務をこなす鬼の一人だ」
「そんな……勘治郎おじさんが……!」
自分の良く知る親戚がそのような闇の任務に従事しているとは到底信じることができず、絶句する栞奈。その肩を抱きかかえ、永政は老人に言葉を返す。
「……それが一体どんな話で?」
永政の言葉に、老人は僅かに口角を上げた。その表情は、まるで獲物を見定めた猛禽を思わせた。
「君たちが言うように、猛士の組織はもはや腐敗している。鬼に救われた命で鬼を死に追いやる堕落した組織、そしてそんな組織を守るために同じ鬼を殺す者たち……。そんな組織は潰して、新しい組織を作ればよい。今ワシはそのための仲間を集めている。君たちと同じ、正しい意味で守るべきものを見定めることができる鬼たちだ。組織が成立したら、君たちにはその規律を守る新たな『象』になってもらおうと考えている」
「「……!」」
老人は手提げかばんからファイルを取り出して見せた。そこには鬼を迫害する人物のデータがプロファイリングされていた。いわば「鬼の敵」のリスト。それをパラパラと見せながら老人はさらに続ける。
「鬼はただ生きていくのにも敵が多すぎる。鬼は自分たちを守るためにその敵を排除しなければならない。人間共がそうするように」
もし興味があるならいつでも連絡してくれと、老人は優しく言葉を締めた。そして散らかっていた部屋を綺麗に掃除していくと、連絡先だけを残して彼らのもとを去った。その後ろ姿を永政と栞奈は見送る。
「……信じられる?■■■■さんの話?」
「いや……。だが、もう僕たちには鬼として戦うのは難しいかもしれないな」
栞奈の問いに、永政はぼんやりとした表情で答えた。その言葉に、栞奈も沈黙で返した。
ふと、老人が去っていった方向を見ると、そこには先日の夫婦が立っていた。その手には紙束が握られている。彼らは永政らの視線に気づくと蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。その様子を不審に思った彼らが後を追うと、そこには彼らが落としていったのだろう、ビラが散らばっていた。栞奈はそれをつまんで持ち上げる。
「……!」
「これが仕返しか……」
そこには、かつての手紙同様に彼ら親子に対する罵詈雑言が書き連ねられていた。おそらくそのビラは周囲に配られているのだろう。彼らは鬼として鍛えられた脚力を存分に振るい、夫婦を人気のない路地で見つけた。
「クソッ!何でもう追いついてきてんだよ!」
「……このような行動はやめてください。迷惑です」
男親の怒号に臆することなく栞奈は言葉を返した。だが彼女の言葉はまるで響かず、女親は手前勝手な理屈を続ける。
「人殺しに人殺しって言って何が悪い!あんたらのせいで子供をぶってるぐらいの私たちが犯罪者扱いされてんのよ!責任取りなさいよ!」
「てめえらが取れないなら息子に取ってもらうかぁ?ガキだがバラバラにして臓器は売れるだろ」
「……!」
流石にその言葉に永政も動揺を隠せない。それどころか、男親は懐から折り畳みナイフを取り出すと、二人を見比べ、どちらかと言えば弱そうな栞奈向けて突撃した。
「くたばれや!」
「栞奈!」
男親の手にしたナイフはその握り手まで深々と栞奈の腹に刺さっている。その傷口を手で押さえながら、栞奈は数歩後ずさりし、背中から壁にもたれ込む。
「けっ!面倒掛けさせやがって。死ぬときは一人で死ねや!」
女親がそう言い、うずくまる栞奈に唾を吐きかける。その汚らわしい粘液が彼女の髪にこびりつき、美しい鴉の濡れ羽色を汚す。
「……許さない」
栞奈の方を僅かに見てから、永政は夫婦の方を見やる。その手には変身音叉が握られていた。その角から発せられる特殊な音波により、永政は鬼へと姿を変えた。
「ヒッ、なにこいつ!バケモン!」
「クソ!バケモンが!」
怯え上がる夫婦に向け、鳴鬼は手をかざす。するとどうだろう。夫婦の足元から無数の植物が繫茂し、彼らをビルの壁へと拘束した。その拘束は強力であり、夫婦は指先一本動かすことさえできない。
「鳴刀・音叉剣!」
その掛け声と共に鳴鬼が手にした変身音叉は直刀へと姿を変える。彼はその鋭い切先をどちらを先にしようかと交互にゆっくりと夫婦に向けた。しかし、その背後から伸びる腕があった。
「……待って。鳴鬼」
「栞奈……」
よろよろと立ち上がった栞奈は永政に寄りかかるようにしてその腕を押さえた。その動きに、夫婦は口角から唾を飛ばしながら命乞いをした。だが、栞奈の腹部には彼らが突きさしたナイフが突き刺さったままだ。
「おい!こいつを何とかしてくれ!助けてくれ!」
「早く!助けて!」
夫婦の声など初めから聞こえていないのか、栞奈は鳴鬼の耳にだけ聞こえるぐらいの声で囁いた。
「あなただけを人殺しにさせない。一緒にやろう」
その言葉と共に、栞奈はその姿を神月鬼へと変える。変成した肉体が深々と突き刺さったナイフを身体からはじき出した。
「た、たすけて……」
「助けたら、私たちの子供を襲うんでしょう?」
「ヒッ……!」
「……二人で殺してやる」
鳴鬼と神月鬼は音叉剣を横に構えると、並んだ夫婦の首に万力の如き力を込めて非常に緩慢に押し付け始めた。彼らの断末魔の叫びには次第に血が混じり、小さくなっていく。だが鳴鬼と神月鬼はゆっくりゆっくりとその刃を彼らの喉元へと沈めていった。
……夫婦が息絶えたのは、それから数時間後のことであった。その表情は執拗なまでに苦痛を味わいつくした、絶望を焼き付けたものであった。
「二人とも、必ず来てくれると思ったよ。子供のために戦う、親としてのその純粋な願い。素晴らしい」
数日後、二人の姿はとある薄暗い一室にあった。彼らの前にはあの老人が座っている。
「「私たちはひたすらに人々を守ってきた……。だけど周りは私たちを守ってくれなかった……。それだけなら耐えられるが、何も関係のない子供にまで攻撃を加えてきた……。許せない。鬼が人間を守るために魔化魍を倒すように、私たちは子供を守るために危険を排除しなければならない……!」」
「人として、鬼として何と素晴らしい思いだ。安心しなさい。君たちは今からその思いを遂げるに相応しい生き方を得る……!」
静かな一室に声だけが響く。
「君たちは正しく戦うべき理由を見つけた。ならばそれに従い戦うのだ」
老人は手にしたファイルを開いて彼らに見せつけた。そこには「鬼の敵」がリストアップされていた。だがその情報を見ても、永政も栞奈も眉一つ動かさない。もはやその情報は鬼が守るべき人間などではなく、自分たちが守るべき子供に危害を加える敵なのだから。
こうして、鬼に危害を加える人間を始末する処刑人「鳴神月鬼」が誕生したのである。その異形はまるで機械のように淡々と人間を殺していく。それが自分の守るべきもののための戦いだと信じて。
「黙って聞いていれば……。なんか作為的すぎるでしょ、流石に」
「「!」」
強く食いしばった樹木の牙を持ち上げ、慄鬼が姿を現した。だがその身体は満身創痍で立っているのがやっとの状態だ。その口元からは血が流れだし身体に赤黒い線を作っている。
「「一体何が言いたい……」」
「仕組まれてたんじゃないの、ってコト。その老人に。……一体誰なの?」
鳴神月鬼の半生になど全く興味がなかったと言わんばかりの冷徹な口調で、慄鬼は言葉を続けた。根拠はないが、特殊任務をこそ生業としてこれまでの人生を生き抜いてきた慄鬼のカンがそう告げていた。その言葉を受けた鳴神月鬼は動揺を隠せず狼狽える。確かに、他の鬼には聞かない不幸の連続に、人為的な作為さを感じたことはないわけではなかったからだ。その疑問を逡巡するのに呼応して、体表に光り輝く鬼文字が踊る。
「「いや、そんな馬鹿な……。そんなはずは……。まさか……!」」
その言葉と共に鬼文字が脈動し、一層その輝きを大きくする。それに伴い全身を焼くような痛みが襲う。否、実際に身体から火が噴き出ているのだ。
「……その姿!」
「「こんな、こんなことが……!だとしたら……」」
鳴神月鬼の肉体は斑に深い紅色が混じり、そこから火が噴き出している。実際に熱を持ち、鳴神月鬼はその身体を焼かれ、その痛みに悶える。
「鳴神月鬼!」
「「さっきまで殺そうとした相手の心配とは、呑気なものだ……」」
ゆっくりと、鳴神月鬼は立ち上がった。その凛とした立ち姿にはある意味気品さえ感じられた。その身体には炎のみならず強力な雷電が落ちていた。
「「この感覚……これが『我執染汚意(がじつぜんまい)』か……。どうやらあなたの言うとおりだったようだ。私たちの運命は仕組まれたものだったのかもしれない」」
「……もっと頼ってくれればよかったのに。周りを」
鳴神月鬼の痛ましい姿に、慄鬼は嘆きに近い言葉を返した。
「「……無理だった。あなたには分からないことだろうけど、家族を持つと新しく見えることも、前のように見えなくなることもある。だけど今は今見えるものを頼ろうと思う」」
鳴神月鬼はそう言うと、慄鬼向けてかすかにほほ笑んだ。
「「鬼を闇の内から操るものがいる。人を襲う鬼たちの長だ。鬼たちの心の闇に忍び込み、彼らを言葉巧みに操るの」」
大地に叩きつけるように降りしきる雨の中で彼らはそう言う。私たちのように、彼らはそう続けた。暗雲の中に轟く雷鳴が相対する鬼たちを照らした。
「……答えて。それは誰」
「「……誰もその名を言えぬほどの、強き鬼の呪い。己の命だけにとどまらず、無数の他者の命を捧げなければ止まれない」」
私たちのように、彼らはやはりそう続けた。鳴神月鬼は全身を震わせごう、と咆哮する。その周囲には打ち倒された家屋の残骸と鮮血の海が広がるばかりだ。
「「だが、如何に堕ちた私たちとは言え奴を許すことはできない。無辜の人々のみならず鬼たちまでも死の渦に巻き込む奴を。だから手掛かりを残した。あなたなら必ず奴にたどり着けるはず」」
そう言い残した鬼の視線は諦観と悲哀が混じったものだった。その視線が慄鬼に突き刺さる。
「「どうか私たちの子供だけは……!」」
それが鳴神月鬼の鬼としての、人間としての最期の言葉だった。一際大きな雷鳴が鬼の言葉をかき消してしまった。
遂に鳴神月鬼は手にした音撃武器全てを構えた。六本の腕を広げ、雷鳴を背に立つその異形は、まるで仏像のような荘厳ささえあった。
「「音撃奏・鬼禍霹靂(きかへきれき)」」
束ねられた強烈な音撃の帯が慄鬼向けて襲い掛かる。それだけではない。鳴神月鬼が扱う大自然のエレメントが暴走し、無数の木々と雷撃が慄鬼に迫る。だが、慄鬼はその攻撃をあえて避けようとはせず、手にした音撃弦に音撃震をセットし、鳴神月鬼の懐に飛び込む。やはりというべきか、鳴神月鬼の音撃が慄鬼の身体に食い込む。
「ッ!だけど!」
しかし、慄鬼は無理やりに鳴神月鬼の懐に飛び込み音撃弦の切先を彼らの身体に突き立てる。だが、慄鬼の全身には音撃が響いており、立っているのもやっとの状態だ。
「できるッ!私はッ!」
慄鬼は全身に浸透した音撃のエネルギーを指先に集中し、さらに音撃弦に流し込んでいく。鳴神月鬼から放たれた音撃を、他ならぬ彼らに還しているのだ。
「音撃斬・永訣挽歌(えいけつばんか)ッ!」
必殺の音撃を慄鬼は放つ。堕ちた鬼を清めるその音撃は、鳴神月鬼から放たれた音撃奏と共鳴し、彼らの身体を包んでいく。次第に鳴神月鬼の音撃は弱くなり、それに伴い慄鬼に伝わる彼らの生命力も次第に小さくなっていく。
「「那由多……」」
静かに鳴神月鬼は言葉を紡ぐと、その言葉を最後に息を引き取った。全身の筋肉が弛緩し、慄鬼の身体にその骸が覆いかぶさる。慄鬼が音撃弦を引き抜くと、鳴神月鬼はその肉体を濡れた大地に投げ出した。依然雨は強いが、東側の空は僅かに明るくなり始め、その明かりが斃れた亡骸を照らした。その姿を慄鬼は見下ろす。既に疲労から、全身の変身が解かれていた。風雨に濡れ乱れた髪の隙間から覗く視線が、鬼の姿のままの鳴神月鬼をじっと見つめていた。
「那由多……か……」
オノノキはそう呟くと全身の衣服を復元し、歩き出した。彼女の仕事は単に鬼を倒すことではない。彼らを弔うため、そして彼らの遺言を全うするため震える足で歩みを進めた。
「ころしっ、たんだ!私が!二人とも!」
「お父さん、お母さん……」
「そんな……。永政兄さん、栞奈ちゃんが……」
「……」
オノノキは最後には嗚咽混じりになりながら、那由多とナエギに鳴神月鬼の真実を伝えた。その想像を絶する最期に二人はただ事実を受け止めるしかなかった。
「……今は頼るしかない、二人の言葉に。お父さんとお母さんは那由多君のために戦った立派な鬼。だからきっと残してる。こんな事態を引き起こした本当の黒幕の手掛かりを」
鼻水を啜りながら、オノノキは那由多に向けて話しかけた。その言葉に那由多は考え込む。
「……けど、分からないです。本当に。鬼のことは分からないですけど、オノノキさんたちが調べたならそれだけなんじゃ」
「……もしかしたら、あれが」
那由多の隣で考えていたナエギは、ふとあることに気づいた。
「オノノキ、もしかしたらあれかも」
「ナエギさん、あれって一体」
「説明するより見てもらった方が早いかも。ちょっと一緒に来て」
言うが早いか、ナエギはオノノキと那由多の腕を引っ張り部屋の外へと連れ出した。その姿を重蔵が追う。
「……おい、待ってくれよ」
数時間後、彼らの姿は墓地の一角にあった。一際高いところに立つ墓石には「七座家之墓」と刻まれており、墓誌には永政と栞奈の名前も記されていた。
「こんなことまずしないんだけど……」
「一体何を……?」
ナエギは墓石を慣れない様子でずらし、埋められていた骨壺をやや強引に取り出しその中身をオノノキらに見せた
「鬼の遺骨って、こんな模様出るの!?」
「これは……!」
火葬された遺骨に刻まれた無数の異様な文様。それをじっと観察するオノノキら。じっくりとその様子を見る重蔵が思いついたように口を開いた。
「……鬼の遺骨にこのような文が出ることはまずありえない。これは鳴神月鬼のダイイングメッセージだ。だが……」
だがしかし、長年特殊任務に従事していた重蔵であってもこれは読み解くことのできない、七座一門に秘密裏に伝わる特殊な暗号であった。
「……これを読めるのは恐らくただ一人、直忠だけだ」
「直忠先生……」
「南貝 直忠(なんがい なおただ)」。七座一門に属する技術者であり、現在は猛士の技術職の重鎮。七座永政が鬼としての七座一門の当主ならば、彼は技術面でのトップである。オノノキや霧子が携わる音撃戦士の装甲強化計画の責任者でもある。
「オノノキ、この文様を直忠に送ってくれ。彼なら何かわかるはずだ」
「分かりました」
「この情報が非常に重要だ……。これで我々が動けば敵も必ず動いてくるだろう」
「敵、猛士の内部にいる……。永政兄さんたちの仇……!」
墓地に立つ彼らの姿を強い夕日が照らしていた。墓石の影は那由多に向けて寄り添うように伸びていた。
「今日はもう遅い。皆疲れただろう。温泉でゆっくりしていくといい」
滝夜温泉に戻った彼らに、重蔵はそう告げた。その言葉に従い、オノノキとナエギは共に女湯の露天風呂に浸かっていた。
「……なんか、ごめん。あーしはあーしのことばかり考えてて、オノノキのことを考えられてなかった」
星空を見ながらナエギは口を開いた。その声色は陽気な様子はなく真剣なものだった。その横顔をオノノキは見つめていた。不意に、ナエギの顔に水が掛かった。
「……ってぶぇ!いきなりなに!?」
「やるかもーって、普段のナエギさんならこういうこと」
ナエギの目線の先には手で水鉄砲を放つオノノキの姿があった。その大真面目な表情とやっていることの馬鹿馬鹿しさのギャップに、思わずナエギは噴き出した。
「ふ、あはははは!いやーいきなりウケるし!意外とお茶目なんだ!」
「ふへへ」
「あはははは!」
他の客もいない静かな露天風呂で、二人は笑いあった。ひとしきり笑い合ったしばしの後、笑いつかれたナエギはオノノキに向けて話しかけた。
「あーしあんたたちのこと誤解してた。必ず黒幕を倒して、永政兄さんと栞奈ちゃんの仇を取って」
「うん、ナエギ」
「ってえー!いきなり呼び捨てじゃん!まあいいけど」
談笑する二人を、空にまたたく星々が優しく照らしていた。
・音撃戦士鳴神月鬼
身の丈(身長):9尺5寸(288cm)
目方(体重):63貫(236kg)
変身者・ナルキ(七座 永政/ななくら ながまさ) 享年32歳 男性
カミヅキ(神室 栞奈/かむろ かんな) 享年28歳 女性
変身アイテム
変身音叉・音和(おんわ)
変身音叉・音荒(おんこう)
音撃武器
音撃魔笛・星憐(せいれん) 音撃鳴・歪(ひずみ)
音撃鼓・両界(りょうかい) 音撃棒・来迎(らいごう)
特殊装備
鳴刀・音叉剣
特殊技能
鬼闘術・神太刀・電(かんだち・いなづま)
鬼幻術・雷糸(らいと)
鬼幻術・彩ノ神・供花千本(さいのかみ・くげせんぼん)
鬼幻術・彩ノ神・獅子頭大権現(さいのかみ・ししがしらだいごんげん)
合体鬼幻術・彩ノ神・自在天雷林(さいのかみ・じざいてんらいりん)
必殺音撃
音撃奏・鬼禍霹靂(きかへきれき)
那由多の親である闇に堕ちた鬼の夫婦。音撃戦士慄鬼が初めて鬼祓を行った鬼。夫婦二人分の肉体が合体しており、その体は六腕を持つ蜘蛛が雷神と化したかのような異形。変身音叉を二重に鳴らして変身するため、単純なスペックは通常の鬼の二倍の強さ。鬼祓いの初戦の相手としては強すぎる相手である「異能」にして「異形」の鬼。六腕を用いた無数の印と詠唱を組み合わせて放つ大技「彩ノ神・自在天雷林」は、術により生やした木々に強力な電撃を流し込み周囲を滅却する。
ナルキこと「七座 永政」は長い歴史を自称する「七座一門」の筆頭である「七座家」当主を若くして継いだ男。一門の秘伝である植物を操る鬼幻術を有する。
カミヅキこと「神室 栞奈」は東北地方のそれなりに歴史のある鬼の一族「神室家」の出身。カミヅキは「神」の名を冠するだけあり鍛錬を積んだ強力な鬼で、特に雷の気の扱いに長ける「異能の鬼」。ともに歴史ある家系の出身であり、世にも珍しい鬼の夫婦。
死に際に慄鬼へと自らを闇に堕とす原因となった黒幕の手掛かりを自らの骨に刻み付けることで、黒幕の影響からある程度逃れつつ手掛かりを残すが、既に暴走は止められず慄鬼の手により死亡する。
「全く、あいつらのせいで全部台無しだ!」
「全部想ちゃんが早く始末できなかったからでしょ!責任取ってよ!」
「元はと言えば舞彩!お前がうるさくてバケモン呼び寄せたのが悪いんだろが!」
留置場の壁を隔て、一組の男女が口喧嘩を繰り広げていた。彼らは旧煤ヶ澤村死体遺棄事件の主犯格、想と舞彩である。
カッキが呼んだ警察に連行された彼らは大量の死体について警察から取り調べを受けていた。しかし遺体の数が多く、その取り調べは長期にわたって続いていた。そのあまりの長さに、彼らはストレスをため込んでいた。そのストレスがこうして壁越しに爆発していた。
「大体そもそもお前といて上手くいったためしがない!」
「それはこっちのセリフよ!」
「まあ……言い争いはやめてもらおうか。夫婦喧嘩は犬も食わん」
不意に聞こえた第三者の声に、想と舞彩は驚きを露わにする。
「だ、誰だ!」
「こんなところに一体!」
「話すなら一度ずつにしてくれ……。老体にはこたえるわ」
扉の窓からわずかに見えるその姿は一人の老人だった。目深にかぶった帽子からは表情を読み取ることはできない。
「とにかくどうやって入ったんだ!そもそも何の用だ!」
大声でがなり立てる想に対し、舞彩はその声色に聞き覚えがあった。
「待って……。この声、あの時お金が手に入るって電話してきた……あなたまさか!?」
「我執染汚意(がじつぜんまい)。もう用事は済んだ。達者で死ねよ」
「ま、待って!」
「待ってくれ!助けて!」
老人が閉じ切っていた留置場のドアを力づくで開けると、警察署全体に警報が鳴り響き始めた。そしてその轟音と喧騒は、老人の姿と男女の断末魔の叫びはかき消したが、人間の肉が焼け焦げるおぞましい匂いをかき消すことはしなかった。
―続―