「準備してから行くから、よろしく」
既に合羽を羽織ったサカマキたちにそれだけ言うと、オノノキは合羽を着て車の方に出ていった。その背中を那由多は思わず追いかける。
「待ってください、オノノキさん」
「手伝ってよ。那由多くんも」
「そうじゃなくて、何で僕は待機なんですか」
那由多の顔に強い雨が打ち付ける。その様子を見ながら、オノノキはゆっくりと口を開いた。
「危ないから。雨だし」
オノノキの言葉に那由多はむっとしたような表情を見せると、静かに口を開いた。
「……本当にそれだけなんですか」
オノノキは那由多の剣幕をしかし正面からは取り合わず、車のトランクを開けた背中越しに言葉を返した。
「未知の魔化魍だから、相手が。那由多くんが出て行っても、守り切れる保証ないし。だから、待っているのが君の仕事」
トランクから大型コンテナを下ろしながら、オノノキは少しだけ真剣な口調で続けた。
「……糺さんもそうだけど、自分に万が一のことがあってもこの人がいるから大丈夫、って思えるから戦えるんだ。だから、今日はここにいて待っていてほしい。那由多くんには」
それにね、と言いながらオノノキは地面に降ろした巨大なコンテナの蓋を開けた。
「手伝ってほしいの、これを付けるの」
オノノキが手招きすると、那由多と糺はその中身をのぞき込んだ。
「……!」
そこには鈍く金属色に輝く、異様な鎧が詰め込まれていた。那由多はその姿に思わず目を見開いた。
「……新型の鎧ですか?」
糺の言葉にオノノキは頷く。
「ばーじょん・つー。改良してるんだ。鷹、狼、猿以外の式神の力を出せるように。だけど、まだ直接呪力で呼べないから、着てかないといけないんだ。ここから」
オノノキはそう言うと、取り出した鎧をトランクの中に置いた。その重量に車が沈み込んだ。鎧が次々と置かれていく車のトランクに目を向けた那由多は、そこにさらに別の荷物が積み込まれていることに気が付いた。
「オノノキさん、これは何ですか?」
「秘密兵器、その二」
その時ようやく、オノノキは那由多の方を振り向き、微笑んでみせた。
一方で、サカマキと沙門は降りしきる雨の中、山の中の道なき道を走っていた。視界は薄暗く、日が出ている時間帯とは思えないほどだった。
「師匠!」
沙門が前を走るサカマキに声をかけた。スニーカーに泥が跳ねる。
「何だい?」
「……勝ち筋、あるんすか」
その不安げな言葉に、サカマキは足を止め振り返った。
「……勝ち目のあるなしは、戦わない理由にならないよ。魔化魍が動けばより多くの人が巻き込まれてしまう。」
「……」
それは静かに諭すような言葉だった。そしてそのままサカマキは続ける。
「……だからせめて一人でも多くの命を救いたい、その思いで戦うんだ。知らない相手でも、勝ち目がわからなくても」
サカマキが大きく息を吐くと、かぶっていたフードが目元を隠した。
「けどね……。助けられなかった人たちは、本当は私を恨んでいるんじゃないかな。どんなに頑張っても、救えなかった命の方が焼き付いてるんだ」
そのままさらにサカマキは続ける。
「沙門君を見ているとね、あの時フルツバキに襲われて助けられなかった人たちのことを思い出すんだ。こんなに頑張っても一人しか救えないなんて……」
そこまで言いかけて、サカマキははっと顔を上げて沙門の方を向いた。
「……なーんて、あんまり滅多なことは言うもんじゃないね。行こうか」
顔を上げたサカマキの顔は雨に打たれて濡れていた。その顔はまだ鬼の弟子としても半人前の沙門にさえ、無理に強がっている様がわかる程だった。
かくして、二人は雨風が吹きすさぶ太陽光発電所にたどり着いた。オノノキが考えた、魔化魍の居場所の近くである。
「地面シャバシャバっすね。水が溜まりすぎて川の浅瀬みたいだ」
「そうだね。枝や葉っぱがないから、直接地面に雨が当たってる」
周囲を警戒しながら二人は進んでいく。静かな足音は、地面に荒々しく叩きつけられる雨粒の音に隠されてしまった。その横を通り過ぎ、サカマキは切り立った急斜面の下をのぞいた。
「……いた。先輩の言ったとおりだったね」
深い谷の底には雨水が沢に沿って勢いよく流れていた。その中に、静かにその魔化魍は立っていた。
節足動物を思わせる形状の六本の腕、昆虫の大顎を思わせる形状をした角、ごわごわとした硬質な長い毛を生やした全身は細身であり、疫病で息絶えた鹿のような皮ばかりの顔が、その体毛の中から顔を出していた。人間の数倍以上の背丈を持つその魔化魍は、一説には平安時代にはすでに出現していたとされ、絶滅を免れて現代まではびこってきた魔化魍「ツジガミ」だった。
しかし、ツジガミはしんとして動かない。こちらに気づいていないのか、あるいは動けない理由でもあるのか。吹き荒れる雨風の中でも微動だにしなかった。
「……なら、先に攻撃させてもらおうかな」
この状況下に不釣り合いな不敵さでサカマキは笑った。まるで、オノノキを待たずにこの魔化魍を一人で倒そうとしているようだった。
「沙門君はディスクでの援護をお願い。私が下に降りたら、飛行型を出しておいて」
「けど俺、まだディスク使えるようになったばっかっすよ!」
不安げな沙門の声を、しかしサカマキは一蹴する。
「だからやってみて。練習しないと、ね」
それだけ言うと、サカマキは大きく深呼吸し、手首に巻いていた変身鬼弦「音漣(おんれん)」を展開し、弦を露出させた。
「沙門君は上から状況を見ておいて……。何かあったら先輩に連絡して。……何かあったら、だけど」
大きく息を吐き、精神を集中させると、サカマキは鬼弦を弾いた。そしてそのまま鬼弦を額にかざすと、特殊な音波が彼女の体を包み込み、その姿を異形のものへ変質させていく。
「シャーッ!」
裂帛の叫びとともに、周囲に渦巻いた水を切り裂き、鮫の魚人が鬼となったような異形の音撃戦士「逆巻鬼」が姿を現す。両手足に生えそろった刃の切っ先を水滴が照らしている。背中から伸びた尻尾がゆらゆらと動き、その鰭が雨粒を弾いていた。
「ッ!師匠!」
ひときわ強い水しぶきが沙門の顔に打ち付けた。動揺して声を上げた沙門が顔を上げた時には、既に逆巻鬼の姿はそこにはなかった。
この速度は師匠が練習の際にごくたまに見せる加速技「加速霊柩・醒(かそくれいきゅう・せい)」によるものに違いない。そう直感した沙門は谷底をのぞき込んだ。すぐさま突風のような衝撃、そしてわずかに間をおいて、音撃弦が硬質なものとぶつかる甲高い音が鳴り響いた。
「糺さんは、鬼になろうとは思わなかったんですか?」
雨が打ち付けるテントの中で、那由多は糺に問いかけた。変身したオノノキを送り出した今の二人は、出撃した彼女たちの帰還をベースキャンプで待っていた。
「鬼にか……。あんまりなろうと思ったことは、なかったな。思えばずっとサカマキのサポーターだったからね」
「じゃあ、どうしてサポーターに?」
テントの中に座る那由多は同じく座っている糺に問いかけた。糺は普段通りの静かな口調で答える。
「子供のころからずっと、サカマキと一緒だったからね……。けど、あまり運動は得意じゃなかったし、殴る蹴るってガラじゃなかったからさ。結局サポーターに落ち着いたってわけ」
そう言うと糺は「コーヒーでも飲む?」と那由多に問いかけた。那由多は無言で頷くと、糺は手慣れた様子で準備を始めた。
「……それに、サカマキは結構危なっかしいところがあるからね。先代にも、地蔵田さんにも言われたことがあったなあ」
ふと漏らした糺の言葉に、那由多は驚いた表情を見せた。
「……地蔵田さん?皐月会の?」
地蔵田といえば皐月会総帥の地蔵田重蔵のことだろう。オノノキの師でもある彼は、那由多にとっては師匠の師匠、大師匠というべき存在だ。
「ああ、那由多くんは知らなかったんだっけ……。サカマキは一時期オノノキさんと一緒に地蔵田さんの下で学んだんだよ。ちょうど独り立ちしようとしていた頃から」
「……初耳です。僕は」
雨はまだテントを打ち付けている。水を入れたケトルをガス台の上にのせると、糺は小さく息をついた。
「先代の逆巻鬼さんが亡くなったあたり……。その人が子供のころの自分たちを魔化魍から助けてくれてね。サカマキは弟子になるっていうんで、僕もついていったんだ。こう言うのもなんだけど、先代はかなりハンサムで、当時のサカマキは師匠に恋をしていたんじゃないかなって思うよ」
「……」
「師匠を失った直後の彼女は、とても荒れていてね……。突然、どこから知ったのか『皐月会に行く!』なんて言い出してね。そこでオノノキさんと地蔵田さんに出会ったんだ」
そう言った糺に那由多が尋ねた。
「そんな前からの知り合いだったんですね。けど確か、サカマキさんの方がオノノキさんより年上ですよね?」
「オノノキさんは子供のころから修行していたと聞いたから、サカマキにとっては年下の姉弟子、ということになるね。オノノキさんとの修業は傍から見ていても過酷だった……」
糺が苦しそうな表情をしながらこぼしたその言葉に那由多は首を傾げた。今現在自分に課されている修業は、そこまで過酷なものだとは思えなかったからである。
「本当?って顔をしてるね」
不意に、糺が那由多に声をかけた。まるで、彼の思ったことなどお見通しかのような言葉に、那由多は動揺をあらわにした。
「嘘、してました?」
「那由多くんはまだ若いし、サカマキが修行していたのは免許皆伝寸前の、もう変身できる時期からだったからね。そこからさらに強くなろうとしていたから、鬼として出来上がった体を一度壊すようなものだよ」
「その成果があの体なんですか……」
糺の言葉に那由多はサカマキの異形の体を思い浮かべた。オノノキは鎧をまとっての異形であるので、その姿は恐ろしくはあるが理解はできる。しかし、鮫の頭部や尻尾、鰭をもつ魚人の鬼のような姿は「人間」から直接は結び付かない異形であった。
「けど、ずっと『助けられなかった、助けられなかった』って言うんだよね。先代にも、地蔵田さんにも、次誰か一人でも多く助けるんだと言い聞かせられて、たまに僕も言うんだけどね……」
糺はそう言うと、静かに目を細めて続ける。
「那由多くんは、どういう鬼になりたい?」
「それは……」
糺の言葉に那由多が言いよどんでいると、ケトルが沸騰したことを示すように音を立て始めた。糺は落ち着いた様子でガス台の火を消すと、コーヒーを注いだ。
「ありがとうございます」
手渡されたコーヒーを受け取ると、那由多はそう言ってコーヒーを口にした。
「しかし、今日は雨だね」
コーヒーを注いだマグカップを手にしたまま、糺は小さくつぶやいた。
落下速度に体重を乗せた逆巻鬼の音撃弦の斬撃が、ツジガミの頸部に直撃する。毛皮を切り裂き、甲殻に直撃した甲高い音が谷間に鳴り響く。
「……ッ!」
だが、それでも魔化魍ツジガミには大したダメージになっているとは、逆巻鬼には思えなかった。半分ほどまで切り裂かれた首からだらりと頭が垂れ下がりながらも、その、この世ならざる視線が彼女をとらえ続けているのである。
音もなく、ツジガミの腕が逆巻鬼に伸びた。掌底で超圧縮していた水分を花開かせる大技「水錬」を咄嗟にカウンターで放つ彼女だが、魔化魍はそれを意に介さず、六本の腕による連撃を加える。
「師匠!」
上空から沙門の叫びとともに弦を弾く音が聞こえる。それと同時に彼の手から放たれたディスクアニマルたちが鳥の形に変形し、ツジガミ向けて急降下する。
が、しかし、猛士の工学技術を結集したディスクアニマルたちをツジガミは片手間で粉砕する。砕け散る極彩色の鮮やかな破片が雨水の中に消える。
「加速霊柩・醒ッ!」
その破片が地面に届くよりも早く、逆巻鬼は超高速で移動し、今度は迫る腕の関節目掛け、何発もの水錬を放つ。
だが、ツジガミの不規則に動く毛皮が水から関節を保護し、致命的なダメージを避けてしまう。その様子に逆巻鬼は歯噛みした。
三本の腕を束ね、ツジガミが地面もろとも逆巻鬼を叩き潰そうとする。すんでのところで回避する彼女であったが、その破壊力はすさまじく、泥まみれの地面に大きな陥没を作った。
「加速をつけた水錬なら、毛皮も切れると思ったのに……!」
小声でそう吐き捨てると、逆巻鬼は両腕に力を込めた。すると、彼女の鬼闘術「爪牙自沐(そうがじもく)」により生えそろった腕の刃が一層鋭さを増した。さらにそこに気を込めると、両腕の牙を水滴が覆った。
「シャーッ!」
加速をつけてツジガミ向けて突撃すると、逆巻鬼は両腕を毛皮に突き刺した。そしてそのまま腕を開くように、毛皮を力づくに引き裂いた。ぶちぶちと音を立てて毛皮が飛び散る。
「鬼幻術・鬼打水(おにうちみず)!」
逆巻鬼の口から放たれた強烈な水流が露出した甲殻にひびを入れた。
「そこだッ!」
そのひび割れを見逃さず、逆巻鬼は音撃弦の切っ先を魔化魍向けて突き立てる。だがしかし、音撃弦はそのひびに突き刺さることはなく弾かれてしまった。
「ひびが小さかった!」
体勢を整えるべく、逆巻鬼は大きく飛びのいて距離をとると、深く息を吐いた。
「師匠!」
頭上から沙門の心配そうな声が響く。肩を大きく上下させながら、逆巻鬼はその叫びを聞いた。
(結局、私一人だと先輩の言うままか……!)
そう考え、逆巻鬼は瞳をぎらつかせた。水錬をひびに何発も打ち込めば雨だれ石を穿つように必ず突破できる。だが、それでは時間がかかりすぎる。この雨を心配して、頭上の太陽光発電所に誰か来るかもしれない。そうしたら犠牲者が出てしまう。そんなことは……!
「そんなの、嫌だ!」
心をさらけ出すように、逆巻鬼は絶叫する。その慟哭が雨風吹き付ける森林を震わせた。
その時、強烈な光と轟音が周囲に鳴り響いた。その音に沙門は屈み周囲を確認する。
「何だ!雷!?」
沙門が振り返ると、そこには鋭い角を頭部に戴く異形のシルエットを雷が照らした。
「遅れてごめん。来たよ」
「先輩……!」
雷光を受けて黒く輝く、重厚な鎧をまとった慄鬼が静かにその姿を見せた。だが、その姿は沙門が以前見かけた慄鬼の姿とは違った。頭部の鋭い角はそのままだが、顔の立体的な隈取のような文様は顔の中央部から蜘蛛のように放射状に延び、細かく複雑化しこの世ならざる異様な迫力を見せていた。黒光りする鎧をまとった右腕には音撃弦とは似ても似つかない異形の武器が握られていた。
「逆巻鬼ごめん。遅くなった。それじゃあさっきの作戦通りに」
そう言うと、慄鬼は左腕を眼下の魔化魍向けて突き出した。その指先から小さな電流が奔る。
「鬼幻術・電手鞠(いなづまてまり)」
慄鬼の指先から放たれた無数の小さな雷球がツジガミの体にぶつかり、そこから放たれる雷が毛皮を焼いていく。
「すごい……」
傍らに屈む沙門がその威力に感嘆の声を漏らす。強く吹き荒れる雨風の中でも雷撃はツジガミの全身の毛皮を焼き捨て、甲殻をあらわにさせた。しかし表面こそ焼けているが今さその硬度は健在だった。
「ふふー。じゃ、試験開始」
そう言うと慄鬼は右腕に持つ謎の武器の電源を入れた。
「!?」
瞬間、絶叫のような爆音が木立を揺らす。そのあまりの音の大きさに、沙門は両耳をふさぎ本能的にしゃがみこんだ。
(……チェーンソー!?)
慄鬼が両腕で抱えるその異形の武器を、沙門はかろうじて見た。
その異形の塊は正面に輝く鬼石を戴いてこそいるが、そこから延びる角は無数の切っ先が並び、それが高速で動いている。その動力は後部に搭載された巨大なエンジン。燃料を燃やしながら、慄鬼がロープを引くたびにけたたましい轟音を響かせている。
大型電気鋸型試作音撃武器「業ノ花弁(ごうのはなびら)」。鬼に変身したうえで鎧を装備しなければ持ち運ぶこともままならないそれは、チェーンソーの駆動音そのものを鬼石と共鳴させ清めの音に変換する、いわば「単に音撃が出せるだけの兵器」であった。
「おもた、これ。やっぱ動かすと厳しい」
一言、そう呟いたかと思うと、慄鬼は谷底の魔化魍向けて躊躇なく飛び込んだ。
「先輩!」
「うおっと!」
揺らぐツジガミの背中に着地した慄鬼は、足の鎧に気を通し、不安定な足場でも体勢を整える。そしてそのまま素早く、しかし落ち着いた様子でその甲殻に切っ先を突き立てた。
「!」
喉を切り裂くような絶叫を思わせる鋭い爆音が木立を揺らす。その音と共に、業ノ花弁は容易く甲殻を切り裂いていく。慄鬼はまるで魔化魍の体でチェーンソーアートをするかのように細かく腕を動かし、どんどんと甲殻を切り裂いていく。
それだけではない。業ノ花弁は鬼石と共鳴することによって清めの音を放っている。斬撃そのものが必殺音撃であると言えるのだ。その証拠に、ツジガミは大きく力を失い、六本の腕を地面につき倒れ伏した。
「……こんな感じか、単音なら。改良しないと」
だが、業ノ花弁による音撃は魔化魍を大幅に弱体化させつつも、清めるまでには至らなかった。まだ開発途中の音撃武器にしては、微妙なデビュー戦である。ただ爆音を鳴らしているだけで清めの旋律としては成立していないから、ある意味当然のことであった。
「逆巻鬼!とどめを!」
その叫びより早く逆巻鬼は音撃弦を振るい、露出した関節を切り裂いていく。折り曲げる必要のある関節には、構造上甲殻ですべて覆いつくすことはできない。毛皮のない今なら、弱い肉の部分が露出しており、音撃弦で切り裂くことは容易かった。
高速で魔化魍の手足を切り刻んだ逆巻鬼は音撃弦を構え、慄鬼が切り裂いた背中に飛び乗った。
「音撃斬!」
音撃震を取り付け、まさに必殺の音撃を放とうとしたその時、逆巻鬼は直感的にわずかな違和感を覚えた。
「先輩!沙門君を!」
「ッ!了解」
同じく違和感を覚えた慄鬼は、崖の上にいる沙門の方に向けて一気に飛び去った。その一瞬ののち、山が低く唸り声をあげて震え始める。
「まさか、崖崩れ!?」
揺れる地面の上で沙門は身動きが取れない。しかし、彼の目線の先では次第に地面が滑り落ちるように動いていた。
「師匠!慄鬼さん!」
不安げな沙門の眼前を巨大な影が通り過ぎたかと思うと、その影は彼の体をつかみ空中へ飛びあがった。
「うおおおお!」
「叫ばないで、そんなに」
突然の浮遊感に全身を緊張させる沙門だが、その様子を意に介さず、慄鬼はただ眼下の逆巻鬼の姿を心配そうに見つめていた。
「失敗はないと思うけど、逆巻鬼に限って」
小さくそう呟くと、慄鬼は翼をはばたかせて滞空を続けた。
並みの鬼以上に強化された五感をフル活用して、逆巻鬼は周囲を改めて確認する。
(ここまで崩れてくるのは、二分、ってところかな。脱出するのも含めて一分以内に清めないと。魔化魍は土砂崩れで死なないから、一気に清めないと)
息を整えるように大きく深呼吸すると、逆巻鬼は心を落ち着かせて正面に倒れる魔化魍を見据えた。
「加速霊柩・醒ッ!」
尻尾が地面を叩くと、逆巻鬼は一気に加速しツジガミの懐に接近した。すでに必殺音撃を放つ準備は整っている。
「……音撃連斬・斬裂邪悪(きりさきじゃあく)!」
肉が露出した魔化魍の背中に音撃弦を突き立てると、逆巻鬼は高速で弦をかき鳴らした。その音が鳴り響く間に、今度は切り裂かれた腕の断面に音撃を加える。その音が終わる前にさらに別の傷口に対して音撃を逆巻鬼は放つ。
それもただ同じフレーズを鳴らしているのではない。逆巻鬼は音よりも早く動いて弦を弾き、今この瞬間に一つのメロディになるように音撃を重ね合わせているのだ。彼女はいわば一人で合奏をしているのだ。
「シャーッ!」
十人分のフレーズが合わさったと同時に、逆巻鬼は高速で現場から離脱した。ツジガミの体が炸裂すると同時に、谷底を土砂崩れが襲う。清められた魔化魍は土塊に還り、土砂崩れに押しつぶされ滅び去った。
だが、逆巻鬼に迫る危機はこれで終わったわけではない。加速したまま駆け出し、彼女は土砂崩れの範囲外に逃れるべく走っていく。時に巨大な尻尾を用いて方向転換しながら、また時には手足の牙を巧みに用いて姿勢を安定させながら、逆巻鬼は移動していく。
しかし、土砂崩れは速度ももちろんのことだが規模も人間サイズからすれば非常に大きい。例え鬼の身体能力を持っていても、そのサイズ自体は人間よりやや大きい程度。土砂崩れより早く、そしてより遠くまで逃れないといけないのである。
「逆巻鬼!」
頭上から慄鬼の叫びが聞こえる。ということは沙門も無事なのだろう。弟子に死なれては師匠としては情けないなと思い、逆巻鬼は自嘲した。
「危ない!」
慄鬼の叫びより早く、流されてきた巨大な樹木が逆巻鬼の体に迫った。咄嗟の判断で、彼女は両腕の牙を振り、樹木を受け流そうとする。
「!何この手ごたえ!」
その樹木は樹とは思えない異様な手ごたえであり、逆巻鬼は思わず動揺した。しかし、衝撃を受け流しきれなかったと判断した逆巻鬼は、逆に樹木に加わる力の流れに逆らわず、樹木に飛び乗り土砂崩れをかわした。
しばらく後、土砂崩れは収まり、雨もやみ始め雲の切れ間から太陽が姿を見せた。
「師匠!大丈夫っすか!」
「沙門君、何とかなったよ」
空中から降り立ってきた慄鬼に抱えられた沙門が師匠の無事を喜んだ。逆巻鬼も顔の変身を解き、リラックスした様子だ。
「人里に下りる前に倒せてよかった。発電所もあまり被害はなさそうだし」
「やっぱり、太陽光パネルで貯水力が下がってるって話なんすかね?」
「そうかもしれないね」
軽口を叩くサカマキであったがその表情はどこか暗い。少しだけ伏せられた視線はオノノキが持つ巨大な武器に向けられていた。
(私もあれを使えれば……!)
無意識にサカマキは拳を強く握っていた。だが、その様子には気づかずオノノキはサカマキが乗っていた樹木の方に駆け寄った。
「……やば、神代木じゃん。もらえないかな、音撃弦の素材に」
サカマキが視線を向ける音撃武器を地面に置き、オノノキは静かに、だがテンションの上がった様子で目の前の神代木を検分する。
神代木、というのは、土砂崩れや洪水などで地中に埋もれ、何百年から千年以上もの長い時間を経た樹木の総称である。酵素の少ない環境下で木肌が灰褐色から墨色へと変化していき、独特の風合いを見せる。人の手で育てることも、計画的に生産することもできないうえ、掘り出しても使える状態であるかはわからない。非常に希少な木材である。
「土地管理者誰だろ。ここまで車入れるかな……」
「……」
顔まで泥まみれになることもいとわず、しゃがみこんで木をじっくりと確認するオノノキの背中を、どこか毒気を抜かれたようにサカマキは眺めていた。
―続―
・魔化魍ツジガミ
身の丈(身長):23尺4寸(7.1m)
目方(体重):1600貫(6.0t)
特色/力:六本の腕による強力な攻撃、頑丈な毛皮
分厚く長い毛皮に身を包んだ鹿の身体から昆虫のような手足が伸びている異形の姿をした魔化魍。その腕は六本あり、頭部からは甲虫の顎を思わせる形状の角が生えている。その巨体と多数の腕を生かした広範囲への攻撃を得意とする。また巨体に見合わず敏捷性も高い。