「た、助けてくれ~ッ!!」
一人の男がそう叫びながら森の中を走っていた。雨でぬかるんだ地面の泥をはね上げたズボンの裾は泥まみれで、息継ぎのために開かれた口の中には水分を失い粘ついた唾液が見て取れる。だがその顔色は必死で走っているにもかかわらず青褪めたものだった。
(クソッ、一体なんでこんなことに……!)
男は今自分がどうしてこのような目に遭っているのかについて考えていた。気分転換にと思い入った山中だが、何故だか道を外れ迷ってしまった。その道を外れた先には同じように道に迷った人たちがおり、道もわからず天候も非常に悪いということで彼らとやむを得ず野宿を行った。だがその深夜、大きな悲鳴で目が覚めた。その目の先に立っていたのは不気味な二つの人型の影。おおよそ人とは思えぬ異様な気配を纏ったその二つの影の手には、人間の体の一部が握られ、周囲には血が滴っていた。
「お兄さんも今起きましたか……」
「うちの子の餌になってもらいますよ……」
その声のただならぬ雰囲気に、男は震える自らの脚に鞭打ち無理やりに駆け出した。止まれば殺される!その恐怖心だけが彼の身体を動かしていた。
そうして夜を徹して走り続けたのだが、日も昇り遂に体力も限界に達していた。朝日の眩しさが目に入り男は思わず立ち止まる。照らされたその顔は若々しく、青年といったところであろうか。青年の口から大きな息が漏れる。
「……随分逃げてきたけど、流石に大丈夫か……?」
青年の呟きと共に、彼の足元を風が吹き抜け枯葉を揺らした。
「見つけましたよ、お兄さん」
「随分探しました」
その声は、夜聞いた声とそっくり同じだった。青年が思わず後ろを振り返ると、山の斜面の上に一組の男女が立っていた。共に花模様をあしらった暗い色の着物をはだけさせている。とてもじゃないが山登りに適している服装とは思えない。そしてその着物から露わになった両腕の先は黒ずんだ血の色に彩られていた。間違いない。奴らだ。それが人喰いの怪物「魔化魍」を育てる「童子と姫」だとは、この青年には知る由もない。
静かに童子らは青年の下に歩み寄る。あれほど逃げたのに。青年は恐れと絶望から腰を抜かしその場にへたり込んだ。逃れようとするものの、這いずるのがやっとだ。青年がわずかに後ずさりする間に、童子らはどんどんと歩み寄り距離を詰めてくる。
「た、助けて……!助けてくれ~ッ!!」
ついに童子らの顔が目前に迫ったその時、青年は持てる全力で叫んだ。こんな山中に誰がいるかなんて定かではない。だが彼の生きようとする思いが彼の声帯を震わせ叫ばせたのだ。そしてそれは無駄ではなかった。
「もちろんだとも!」
その声と共に、迫っていた童子らが大きく吹き飛んだ。恐怖で閉じていた目を開けると、そこには一人の女性が立っていた。すらりと伸びた背筋に堂々とした力強い背中。その立ち姿は大きな滝を彷彿とさせる大きな力の強さを感じさせた。
「大丈夫かい?青年?」
女性が青年向けて振り返る。薄く焼けた肌の色に清潔感のあるショートヘア。ぱっちりとした瞳がこちらを見つめている。
「……はい、何とか!」
「それは良かったよ。ここは危険だ、すぐに逃げた方がいい」
女性は青年に自分の来た方向を指差しながら伝える。するとそこからまた別の女性が姿を現した。手にはギターのようなものを二本担いでいる。
「おー、間に合ったみたいじゃん。サカマキ」
「何とかね。けど、ここからが本番だよ」
サカマキは現れた女性、オノノキにそう話すと童子と姫の方を見やる。すでに彼らは怪童子と妖姫へと姿を変え、臨戦態勢であった。樹皮や枝を思わせる質感の両腕、花弁のように変化した顔。間違いない、フルツバキの怪童子と妖姫であった。
「先輩はその青年を頼むよ。私はこいつらをやる」
「おっけ。けど大丈夫?自分の武器も忘れてたじゃん、さっき」
手にした音撃弦を持ち上げながら話すオノノキのその問いかけにサカマキは笑って返し、左手に巻いていた変身鬼弦を露出する。
「ははっ、その通りだね。だけど音撃弦は先輩が持ってきてくれたから大丈夫。それに……」
そこまで言うとサカマキは手元の変身鬼弦・音漣(おんれん)を力強く打ち鳴らし、額にかざした。鬼弦から放たれる音波が彼女の全身に行き渡り細胞一つ一つを戦闘のために組み替えていく。その際生じた莫大なエネルギーの奔流がサカマキの服を散らし、素肌を晒したのは一瞬。彼女の足元から巻き上がる水流の渦が彼女の全身を覆う。
「こいつらは、私の獲物だ!」
その力強い声と共に渦は一気に広がり怪童子らを弾き飛ばす。そしてその渦が晴れた先には異形の戦士「逆巻鬼」が立っていた。
「その姿は鬼、か……?」
「何と歪な……?」
逆巻鬼の姿に怪童子らは疑問の言葉をこぼす。その姿は彼らが思う「鬼」の姿とは大きく異なっていた。
逆巻鬼の姿は、仁王像のように鍛え上げられた全身の筋肉と頭頂に戴く角こそ通常の鬼と同様だったが、四肢の末端にはまるでヒレあるいは牙か爪を思わせるカッターのような部位が大きく発達している。また、背部には鮫のようなヒレを有する巨大な尻尾がうごめいている。そしてその頭部は人間のものでも鬼のものでもない。額に黄金の鬼面こそ頂いているが、大きく裂けたように開いた口、三角形状のシルエットはまさに「鮫」そのもので、ヒレと同化するように三本の角が生えている。鮫が鬼となったような異形の姿、それこそが音撃戦士逆巻鬼なのである。
「シャーッ!」
逆巻鬼はその口を大きく開き鋭い牙を露わにする。それと共に彼女の全身の鋭い切先が陽光を浴びてきらめいた。
鬼の額につく金色の鬼面については、様々な研究がなされている。例えばその鬼面が顔面全体を覆うほど発達する事例や、そもそも鬼ではなく別の動物の形状を取っている事例、などがある。例えば、戦国時代に活躍した鬼などには鬼面ではなく様々な動物の面があるといわれ、現代でもその系譜を残す音撃戦士「鐵葉鬼」も牛の面があったという。また発達した鬼面についても、慄鬼の鬼面は他の鬼と比べてもやや大きく発達している。オノノキが確認した皐月会本部資料の中にも、初期の「象」として活躍した鬼の中に鬼面が肥大化した鬼がいたという記録が残っている。
だがその一方で、何らかの強い感情を持ちながら鍛錬をすることで、その果てに自らの顔の形状自体を変えてしまうという事例がごくわずかながら報告されている。そうした鬼たちは鍛錬の果てに、その変形した動物を想起させるような特殊な力を有するという。一説には、通常の鬼よりもさらに一歩進んだ大自然のメタモルフォーゼの力を引き出した存在とも考えられているが、何分モデルケースに乏しく、その研究については進んでいないというのが現状である。無論、発現したからと言ってノーリスクで扱えるような力ではない。通常の鬼よりもなお「人」から遠ざかる自らに向き合い、正しく力を扱えるよう絶えず鍛えなければならないのである。だからこそ、音撃戦士として魔化魍と戦っている者は磨き上げられた強さを持つ強力な鬼であると言える。音撃戦士逆巻鬼もそうした「異形」の鬼の一人だ。
「サメがないている……」
「何であろうと、鬼は倒す……!」
怪童子らはその両腕を木の枝のように伸ばし逆巻鬼を攻撃する。だが、逆巻鬼の全身、特に四肢の先端に生えたカッターがそれらを千々に切り刻んでしまう。異形と化した彼女の肉体は、全身を刃物のように変質させる鬼闘術「爪牙自沐(そうがじもく)」を永続的に発動させているのだ。この術は、音撃弦を扱う鬼たちが親指にピック状の爪を生やす能力の発展系に当たる。逆巻鬼の肉体は常に束ねられた無数の刃物と同様の危険性を帯びているのだ。
焦る怪童子が力強く腕を突き出して伸ばし、逆巻鬼の動きを封じんとする。だが、逆巻鬼は腕のカッターを用いて怪童子の腕を真っ二つにおろしながら怪童子に迫る。
「ッ!」
遂に逆巻鬼の腕が怪童子の肩口まで捉えた。深々と逆巻鬼の腕の先までが怪童子の胴体に突き刺さっている。怪童子は声もなく苦悶の息をこぼし、無事な方の腕がもがいていた。だが、逆巻鬼はそれを意に介さず、その鋭く発達した爪にさらに力を込めると、怪童子の肉体を思い切り引き裂いた。そのズタズタの切断部から白い血飛沫が噴き出している。それを逆巻鬼は軽く尻尾で吹き飛ばすと怪童子は地面に倒れ伏し爆裂した。
次いで妖姫が大きく変形させた腕をまるで網のように振り回し逆巻鬼を捕えようとする。だが、逆巻鬼はそれを跳躍して避け距離を取ると、その大きな口に気を込めた。それに伴い周囲の水分が逆巻鬼の近くに集まる。
「鬼幻術・鬼打水(おにうちみず)!」
その掛け声と共に、強烈な水流が逆巻鬼から放たれ妖姫に直撃する。まるでレーザーのように収束したその勢いは皮や肉を抉り妖姫の肉体を彼方へと散り散りに吹き飛ばして流してしまった。
身体についた白い返り血を拭いながら逆巻鬼は頭部の変身を解除する。その表情は疲労の色を感じさせない余裕の微笑みであった。
「どうだったかな、先輩?」
「ぐー。つよつよで先輩としても鼻が高いよ」
「ありがとう。……ところで、そっちの青年は大丈夫だったかい?」
「……はい、何とか」
そこでサカマキは座り込んだままの青年に手を伸ばそうとしたが、自分の手が魔化魍の返り血まみれなことに気づくとその手を引っ込めた。代わりにオノノキが青年の肩を支えると、彼は足を震わせながらも立ち上がった。
「ありがとうございます、助けてもらって……」
「ふふん、まだ終わりじゃない」
オノノキの言葉に驚きの表情を見せる青年。そのまま彼女は続ける。
「いるよ、もっと大物が」
「……けど先輩、魔化魍がどこにいるのかまでは確認してないけど」
「あー、それもそっか。悲鳴を聞いてすぐ来たもんね」
腕を組み考え込む彼女たち。その表情を見て青年がおずおずと口を開いた。
「あの、俺が奴らに襲われた場所ならわかりますけど……よければ一緒に行ってもいいですか」
「え、まじで」
彼の言葉に対し、先程とは逆に驚きを見せるオノノキ。だがサカマキはその提案に心配そうな表情を見せる。
「けど、君は大丈夫なのかい?今まで逃げてきて疲れただろう……?」
サカマキのその言葉に青年は生唾を呑み込む。だが、決意を秘めた目で言葉を発した。
「いや、大丈夫です。それにあそこにはまだ誰かいるかも……」
昨晩の惨劇が脳内にちらつきながらこぼしたその言葉に、オノノキとサカマキも表情を変える。
「ちょっとヤバいじゃん。それは」
「……それじゃ、教えてくれないか?君がどこから来たのか」
とそこまで聞き、サカマキは何かに気づいたかのようにばつの悪い表情を浮かべた。
「……っと、人に聞く前にはまず自分から名乗らないとね。私はサカマキ。こっちはオノノキ先輩だ。青年、君は……?」
少し困ったような表情で問いかけるサカマキに青年はやや間を置いて答えた。
「俺は沙門といいます。『篠原 沙門(ささはら さもん)』。すみません助けてもらって」
沙門に対し、サカマキは微笑みながら返した。
「大丈夫さ、まだ助ける途中だからね」
沙門は深夜に逃げ回っていたとは思えない空間把握力で、オノノキらを案内していた。山野を昼夜問わず駆け回る鬼にとって、このような能力は必要不可欠のものであるが、一般人でこれほどまで山歩きができるのは優れた感覚の持ち主というほかない。聞けば、沙門は趣味でよく山に登るのだという。しかし一晩中走り続けてきただけあり、流石に体力はボロボロであった。そこで、彼をオノノキがおぶり案内をすることにした。
その道すがら、沙門は鬼や魔化魍について幾度となく質問した。流石に目の前で先程のような戦いが繰り広げられては気にするなという方が酷である。その上、目の前を歩く女性、サカマキの姿は今も首から下が異形なのだ。その質問のたびにサカマキとオノノキは情報を取捨選択して答えた。妖怪として伝えられる人喰いの怪物「魔化魍」、そしてそれと秘密裏に戦う「鬼」と「猛士」などについて……。相当に内容は端折られたものであったが、若い沙門はそれらに強く興味を惹かれるようであった。
「……そういう魔化魍?と戦うのがサカマキさんたち『鬼』なんですか!?すっげぇ~、知らなかったです!」
「それはあまり表にならないように活動してるからね。けど実際に鬼について知った人たちの中には、私たちに協力してくれる人もいる」
「えっ、そういうのに俺もなれたりするんすか?」
その言葉にオノノキが答える。
「んー。君ぐらいの若さなら『鬼』を直接目指すってのはどう?」
「俺が『鬼』に?」
その言葉に沙門は驚きながら目の前を歩くサカマキの鬼の肉体をまじまじと見る。その視線に気づいたサカマキは彼らの方を振り向いた。
「……何?」
「いや、そんなつもりで見てたわけじゃ」
そんなことを話しているうちに沙門の案内で、彼が昨晩に寝ていたという場所にたどり着いた。そこは、木々の合間から顔を出したほら穴、とでも言うべき小さなくぼみだった。だが、サカマキがその穴の中を覗き込むとそこには誰もいなかった。しかし地面をよく観察するとわずかに血痕などが見て取れた。確かに沙門が見たように誰かがいたのだろう。あくまで過去形だが。
「……間に合わなかったか。けど動くのが苦手なフルツバキならこのあたりにいるはず」
そう言いながらサカマキは変身鬼弦を鳴らし再度全身を鬼の姿へと変えると、オノノキへと話しかけた。
「先輩、電気出せる?ちょっとでも大丈夫」
「お安い御用」
そう答えるとオノノキはおぶっていた沙門を傍らに降ろす。そして何やら目を閉じ集中し始めると、その場の空気が一気に張り詰めた。そのただならぬ様子に沙門は思わず固唾を呑んだ。
「ハアッ!」
オノノキの気合がこもった一声と共に、沙門はまるで全身を雷に打たれたように感じた。否、実際に電流が走ったのである。その力は微弱であったが、範囲は広く山野を瞬く間に駆け抜けた。
「……よし、見つけた。やっぱり近いよ」
「お、見つけた?私のバチバチのおかげだね」
「それじゃ早速行こう」
そう言うと逆巻鬼はずんずんと森の中に進んでいく。オノノキも沙門を担ぐとその後を追いかけた。
「あの、さっきのって何をしたんですか?」
沙門の問いかけにオノノキは少し悩む様子を見せ、その後考えながら口を開いた。
「あー、ロレンチーニ?みたいな奴?何か周囲に電気を流して見つけるらしいよ。私は使ったことないけど」
「はぁ……」
「それよりも、見る?このまま最後まで。危険しかないけど、これから」
オノノキは一度立ち止まると振り返り、背負った沙門の顔を見る。その真剣な表情に沙門は驚いたが、沙門はあくまで前方を見据えながら答える。
「ここまで来たら最後まで見てみたいっす。乗り掛かった舟ですし」
「ふーん。私はどっちでもいいけど、逆巻鬼は?」
「もうここまで来たら、隠し事はできないだろう。最後まで見て、そこから先は彼自身に判断してもらう、というのはどうだろう?」
「このままって事じゃん。結局」
オノノキはため息をつくと、沙門を背中から降ろした。体力はそれなりに回復はしていた。
「ここからは自分の足で歩かないと。背中の上じゃ格好つかないじゃん」
「……はい!」
そう言うと沙門は自分の足を一歩踏み出して前を行く逆巻鬼を追いかけた。
魔化魍フルツバキは先程のほら穴からそれほどの距離がない、やや開けた場所に生えていた。それは異様な雰囲気を放つ巨木であった。でこぼことした樹皮は最早巌といって相違ない不気味な形状であり、生き血を流したような真っ赤な色の花がいくつも咲いておりまるで黒々とした葉の合間に点々と咲いたそれらの花はまるで返り血を啜っているかのようなおぞましい姿で、遠目から見ると真っ赤な目玉をいくつも持つ黒い怪物のようだ。すでに童子と姫が斃れたことを感知しているのか、逆巻鬼らが現れるや否や見上げるほどの巨体の全身の枝葉を大きく振り回し鬼たちを威嚇した。
「おー、結構育ってる。気を付けて、逆巻鬼」
「もちろんだとも。沙門くんをしっかり見ておいて」
「お守り、ってコト?」
そう言うと逆巻鬼は音撃弦を手に取った。彼女が扱うのは先端が鋸状にカスタマイズされた音撃弦「波濤(はとう)」である。
「あの木が人喰いのバケモン……?でも一体どうやって食べるんですか……?」
沙門が魔化魍フルツバキの全体を見ながら疑問を呈する。それにオノノキが返す。
「枝や根を突き刺して養分を吸い取る。実際の植物がそうするように」
「へぇ……」
オノノキの言葉を聞くと沙門は思わずフルツバキの根の方に目を向けようとした。しかし、その目線をオノノキが遮る。
「あ、ちょっと早いかも」
「え……?」
オノノキの気遣いも奏功せず、沙門はその魔化魍フルツバキの足元に広がる惨状を見てしまった。そこに転がっていたのは、何人もの人々の干からびた死体。体液を吸い取り捕食活動を行う魔化魍の犠牲者特有の姿だった。さらにその下にはいくつもの骨が散らばっていた。相当数の人々を喰らい育ったその魔化魍の姿に、思わず沙門は言葉を失いその場にへたり込んでしまった。だが、逆巻鬼は静かに怒りを燃やす。大きく開いた口から闘気が吐息として漏れだした。
「……行くよ」
フルツバキ目指して駆け出した逆巻鬼は片手に構えた音撃弦を振り回し、時には腕や尻尾を使いフルツバキの自在に伸びる枝や根を切り刻んでいく。だが、人の腕程度の太さの枝ならまだそのまま切断できるのだが、流石に一般車の車体ほどの太さを持つ枝を一気に断つということは難しい。
木々の間をまるで泳ぐように滑らかに動き回る逆巻鬼に対し、フルツバキは無数の枝や根を伸ばしその姿を捕えんとする。その枝を切り刻んでいく逆巻鬼だが、次第に太く強靭な枝や根だけが残り、逆巻鬼へと攻撃を仕掛ける。だが、太い根が高速で振り回されるというだけでも、そのもたらされる運動エネルギーは激甚であり、空を切った根が地面を抉り木々をなぎ倒していく。吹き飛ばされる木々の葉から、昨夜降った雨粒が吹き散らされていく。
「ちょっと乱暴が過ぎるかな」
そう言うと逆巻鬼は、虚空に飛び散る雨粒に向けて自らの手を伸ばした。そうして手のひらに小さな水たまりを作ると、深呼吸をしながら水をこぼさないように拳をぎゅっと握る。その横から、振り回されるフルツバキの太い根が迫る。
「咲け、『水錬(すいれん)』」
逆巻鬼はフルツバキの根に先程水を貯めた手のひらでそっと触れた。するとどういうことか、逆巻鬼が触れたところからフルツバキの根に無数の切り傷が生じ、血の噴水を上げながら刻み飛ばされた。周囲に魔化魍の白い血の雨が降り注ぐ。それを逆巻鬼は同様に手のひらに溜め込んでいく。
「咲き乱れろッ!」
手のひらに溜め込んでいた返り血を逆巻鬼は物凄いスピードでフルツバキ向け投擲する。それらは鋭くフルツバキの樹皮に突き刺さり、さらに血を吹き上げさせる。瞬く間に周囲は魔化魍の返り血で白い血の海になった。
鬼幻術・水錬。自分の手のひらの中で水を液体のまま超圧縮し、それを様々な形状で自在に解き放つことで強力無比な破壊をもたらす鬼幻術の一種である。水という極めて形状が変わりやすい物質を水の状態のまま力をかけて加圧していくため、術者には高い鬼幻術の能力と極めて繊細な操作が要求される。数ある鬼幻術の中でも奥義と呼べるほどの会得が難しい技だ。経験を積んだ鬼がようやく必殺技クラスとして扱うようなそれほどの大技を逆巻鬼は容易く連発する。これが自らの肉体を鬼よりもなお異形に変形させるほど過酷な修行を積んだ逆巻鬼の力なのである。
「さっきから一体何が……」
驚くばかりの沙門にオノノキが返す。
「これが魔化魍と戦うってことだよ、沙門くん。まあ、逆巻鬼は全力じゃないみたいね。見たところ」
「これが、全力じゃない……?」
目の前での異形同士の戦闘を前に、沙門は絶句する。ほんの先日まで生きていた日常から離れた非日常に、彼はとにかく驚くばかりであった。
逆巻鬼の猛攻の前に、フルツバキの姿は枝や根を落とされ丸太のようになってしまっていた。だが、魔化魍の再生能力で無理やりにそれらをいくらか再生したフルツバキは決死の猛攻を逆巻鬼に仕掛ける。
「予想以上に再生能力が高いね……けど!」
逆巻鬼はそう言うと、音撃弦を構えオノノキに向け声を放った。
「先輩、そろそろ決める!」
「おっけ、ふぁいと」
オノノキのその声よりも早く、逆巻鬼は魔化魍の懐に飛び込み、再生したばかりの枝や根を音撃弦で通常より遥かに大きく加速のついた斬撃で切り飛ばした。そのまま木の幹を切り上げ大きな傷をつける。そして逆巻鬼は音撃弦に音撃震「海鳴(うみなり)」をセットし、音撃弦を音撃モードへと変形させる。そして木の幹の切り傷に音撃弦を差し込んだ状態で構え、清めの音を放つ準備を整えた。
「音撃斬・斬雨邪悪(きりさめじゃあく)!」
逆巻鬼の指が音撃震の上に配置された弦を次々に弾き、清めの音の旋律を生み出していく。そのたびに音撃弦の先端に設置された鬼石がそれを増幅させ魔化魍の体内へと流し込む。その音撃の渦が魔化魍の全身を包み込み、邪悪なエネルギーに満ちた魔化魍の肉体を清めていく。
「シャーッ!」
逆巻鬼のその咆哮と共にフルツバキの肉体は土塊と化して滅び去った。周囲から邪悪な気が消え去ったことを確認すると逆巻鬼は顔の変身を解いた。その顔には大きく汗をかき、髪が額に張り付いてしまっている。その首から下も返り血にまみれている。
「どうだったかな、沙門くん?」
サカマキの言葉に、沙門はただ無言で頷くばかりだった。ただ、これまでの人生の中で経験したことのない衝撃が彼の全身に渦巻いていた。
魔化魍退治を終えたサカマキらはキャンプを撤収し帰路についていた。その車中に沙門は座っていた。魔化魍に襲われて大変だったからと家まで送ってもらえることになったのだ。その道中で、沙門の今後についてが話題となった。
「災難だったね、沙門くん。でも無事でよかった」
ハンドルを握る糺が後部座席に座る沙門に話しかける。
「えぇ。皆さんが助けてくれましたから……」
そう言いながら彼は隣に座るサカマキの方を見た。彼女は静かに眠っていた。その姿には先程戦っていた時の獰猛さはかけらもなかった。
「それでどう?興味ある、『鬼』に?」
助手席に座るオノノキが振り返り沙門に話しかけた。その問いかけに沙門は少し考えて、口を開いた。
「正直、さっきの戦いは怖かったです……。けど、何か俺にできることがあるなら、力になれるなら……!」
オノノキには、沙門の目や言葉は震えているように感じられた。だが、その内側に何か強い意志を感じたオノノキは正面を向きやや考え込んだ様子を見せると、懐に手を入れた。
「もし、帰った後でもそういう気持ちが残っていたらこの名刺にある住所に連絡を……」
だがそのまま、オノノキは懐をまさぐり始める。まるで物を探しているようだった。十数秒経ち、オノノキが再度口を開いた。
「ごめん。名刺ないわ」
だが、沙門のすぐ隣から名刺が差し出されていた。腕を出していたのは眠っていたはずのサカマキだった。
「これは……!」
「ここに連絡すれば大体つながると思うから、もし興味があれば連絡してもらえるかな?」
「……はい!」
サカマキに対し沙門は嬉しそうに返事をする。その様子を糺はバックミラー越しに微笑みながら見守っていた。そのまま車の走行音に紛れるぐらいの声でオノノキに話しかけた。
「ありがとうございます。サカマキに気を遣ってもらって」
「え、何のこと?」
「知ってますよ、オノノキさんほどの人が名刺程度忘れるわけがない」
糺のその言葉に、オノノキの手元から忍ばせていた名刺入れが座席に転がり落ちた。
「よく見てるね。糺君は」
「いやぁ、長い付き合いですから。オノノキさんとも」
「まいったねぇ」
糺が運転する車が、夕暮れ道の水たまりの上をしぶきを上げながら走り去っていく。眩しい夕焼けがその水滴に映り込んだ。
―続―
・魔化魍フルツバキ
身の丈(身長):29尺7寸(9m)
目方(体重):2000貫(7.5t)
特色/力:自在に伸縮する枝、養分を吸い取る棘
巨木のような外見の魔化魍で、幹のような表面からは何輪もの花が咲いている。
自在に伸縮する枝や根には無数の棘が生えており、これを獲物に突き刺すことで養
分を吸い取り捕食する。枝を締め付ける力も強い。
・フルツバキの怪童子
身の丈(身長):6尺6寸(2.09m)
目方(体重):24貫(90.0㎏)
特色/力:樹皮のように堅牢な体、木の枝のように自在に伸びる腕。
フルツバキの童子の戦闘形態。特に両腕が木の樹皮のような甲皮に覆われており、機動力を持ちながら防御力を兼ね備えている。また、両腕は木の枝のように自在に伸ばし相手を捕えることができる。
・フルツバキの妖姫
身の丈(身長):5尺6寸(1.7m)
目方(体重):20貫(75.0㎏)
特色/力:樹皮のように堅牢な体、木の枝のように自在に伸びる腕。
フルツバキの姫の戦闘形態。特に両腕が木の樹皮のような甲皮に覆われており、機動力を持ちながら防御力を兼ね備えている。また、両腕は木の枝のように自在に伸ばし相手を捕えることができる。