お兄様のことが大好きな雨の魔女トネリコ或いは冬の女王モルガン 作:今井綾菜
『明日、オックスフォードにある巡礼の鐘を鳴らしに行きます。あなたには今日の厄災祓いの対価として牙の氏族に私の邪魔をしないように話をつけて貰います』
あのあと、後に【ソールズベリーの厄災】と名付けられるそれを祓った私が牙の氏族の彼に求めた対価はオックスフォードの鐘を鳴らしに行く為の安全の確保だった。
“そんなことでいいのか”と口にした彼にほんの少しの苛立ちを感じながらも私はすぐに踵を返し、そのままログハウスのある小島へと戻っていた。
数時間ほどゆっくりと疲れをとって……旅の準備を始める。
きっとこのログハウスにはしばらく帰ってくることはない。
ほんの数時間前まで、あの日を思い出して泣いていたのが嘘みたいだった。
そうだ、あの影を祓う時……背中に感じたあの感覚はきっと間違いでも幻でもないとそう信じているから。
「……巡礼の鐘、そのはじまりは」
小さな窓から、オークニーを見つめる。
本来なら……いいや、100年前なら今頃街明かりが灯って美しい景色がここからなら見られただろうと思いを馳せながら旅の始まりを告げる鐘を見つめた。
「お兄様達が送り出してくれたオークニーの鐘に」
旅の支度、とは言っても持っていくものなんてほとんどない。
さっきの戦いで帽子はどこかに飛んでいってしまったし、衣服も……近くの街で買い替えなければならない。
ワンドと選定の槍さえ持っていけばそれで問題なかった。
きっとこれから……辛い旅が待っているに違いない。
そう思うと、前に進もうとする足が……心がほんの少しだけ……いいや本心を言うならこの一歩を踏み出したくないとすら思う。
けれど、けれど……
「あの時、ちゃんと勇気をもらったから」
しっかりと前を向いて、ログハウスの扉を開いて一歩前に出た。
100年間引きこもっていたログハウスに『ありがとう』と告げて。
100年ぶりの里帰りのためにオークニーの街へと跳んだ。
100年ぶりに訪れたオークニーは人気はなく朽ちた建物が多く。
そして、雨の代わりに灰の降り注ぐ白い町となっていた。
「…………」
声なんて、出るわけがなかった。
いつだってオークニーの門を潜れば明るい声が聞こえてきた。
『トネリコ様!おかえりなさい』
『トネリコ様!どんな物語を聞かせてくれるの!?』
『トネリコ様!殿下が先ほどたくさんりんごを買っていかれましたよ!』
『トネリコ様』
『トネリコ様』
『トネリコ様』
ああ、そうだ。
ここに来たら、思い出してしまうから。
あの頃の、優しい思い出が……溢れ出してしまうから。
「みんな……帰ってきたよ。みんなに助けてもらった命を、みんなに返すために……戻ってきたよ」
誰もが優しかった。
誰もが懸命に生きていた。
誰もが、妖精の罪に気づいていた。
そして…………
「私を拾ったあの日から……みんなは、わかっていたんだもんね」
街にこっそり繰り出しては通っていたくだもの屋さん。
いつも新しい本が手に入ったら教えてくれた本屋さん。
お兄様と一緒に出かけた時に食べた串焼き屋さん。
いつだって少しだけ多くサービスしてくれたカフェ。
子供達が私の読み聞かせのために集まった噴水広場。
ぜんぶ、ぜんぶ。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ。
踏み躙られたのに、それでも……
それでも、私は彼らを救う為の旅を始める。
それを望んだオークニーの妖精達は全てを捨てて自分を守ってくれたのだから。
「ああ……ほんとうに」
街を歩き、領主館へ向かう。
降り積もった灰を踏むたびに、自分の足跡がくっきりと残っていく。
建物は朽ちて最早住むことなんてできない。
大好きだった街並みはもう見る影もない。
街を歩くたび、懐かしい遺物を見るたびに心が締め付けられる。
そうして、歩き慣れた道を進んだ先に。
「ただいま戻りました、お兄様、お姉様、お母様」
あの頃に比べたら随分とボロボロになった
扉は壊されたまま放置されていた。
あの日、流れ込んだ妖精達は部屋を虱潰しに探したのだろう。
たくさんの部屋が蹴破られて散々散らかされたまま放置されている。
思わず表情が冷たいものに変わるのが……自分でもわかった。
「…………」
あの時はお兄様に手を引かれるまま鐘つき堂まで駆け抜けたからゆっくり見て回る余裕なんてなかった。
……明日まではまだ時間がある。
旅に出る前に、ゆっくり見て回ろうと慣れ親しんだ自宅の中を歩いていく。
お兄様が増築した厨房。
ここで作られたたくさんのお菓子と料理を食べた。
どれもみんな美味しくて大好きだった。
お姉様が他の氏族と会談するために使っていた大部屋。
たった一度だけだけど、こっそり入った時は優しく注意されたっけ。
大きくなったら入れてくれるって言ってたけど、またこっそり入っちゃった。
お母様が執務をしていた領主室。
小さい頃はお兄様と一緒にお母様の部屋に行くのが楽しみだった。
お仕事をしていても私が行ったら出迎えてくれたのを覚えている。
領主室から繋がるお母様の私室。
寝れない時はお母様のベッドに潜り込んだこともあった。
あの優しくあたたかな抱擁が今でも思い出せる。
お姉様が過ごしていた私室。
私がいる図書館から本を貸りて行っては読み耽っていたみたい。
最後に貸した本がお姉様のデスクの上に乗っかっていた。
「……もう、これは返して貰いますからね」
デスクに乗った本を持って今度はほぼ自室となっていた図書館。
「ああ……ここはあの頃のままなんだ」
魔術的な保護が施されていた図書館。
扉やガラスの全てが破壊できないようにプロテクトがかけられていた。
「まったくもう……守るものなら他にもいっぱいあったでしょうに」
図書館の扉に指先を向ける。
誰にも通れないように、扉にかけられた魔術を解除する。
カチャリ、と錠前を解錠した時のような音を立ててゆっくりとその扉を開いた。
ふわり、と香るのはあの頃と同じ木と本の匂い。
ここだけ時間が止まったようなそんな錯覚すら覚えるその光景に思わず涙がこぼれかける。
100年前と同じ、何もかも同じな図書館をへとゆっくり歩いていく。
手に持った本がしまってあった場所は、まだ覚えていた。
「お姉さまに貸していたこの本は、28列目の上から3段目の右から11冊目」
手に持った本をそのまま本棚に戻す。
ああ、旅立つ前に図書館は綺麗な状態にしてしまおう。
あの日に読んでいた本も手に取って戻していく。
少しだけ散らかっていた思い出のテーブルの上も綺麗に片付けて。
慌ただしく出て行ったあの日から旅立つように。
あの優しい日々の思い出は、この胸の中にいつまでも、いつまでも。
図書館から出て、再び鍵をかけた。
「……最後はお兄様の部屋、だよね」
図書館からは少しだけ離れた部屋にたどり着く。
私が何度も何度も訪ねたお兄様の私室だ。
「失礼します」
いつものように、今は扉は壊されてしまってないけれど入室するための言葉を口にしてそのまま部屋へと入っていく。
他の部屋とも同じように、荒らされてしまっていたが別れの時に私室を訪れるようにと言っていたこともあって何かあるのだろうとは思っていた。
それを見つけるのは部屋を見て回ってすぐのことだった。
兄のクローゼット、その中に一つだけ小綺麗に保管された箱が存在していたからだ。
「これかな?」
クローゼットから箱を取り出して部屋の中央まで運ぶ。
あの時は自分を狙っての行動だったからか幸いにもこういうものは一切手をつけられていなかったのが幸いした。
綺麗な装飾を施された衣装ケースほどの純白の箱。
中身はなんだろう、と箱を開けた。
「───ぁ」
中に入っていたのは衣服と
震える手で手紙を開く。
一眼見ただけで兄の字だとわかる。
「……お兄様」
『トネリコへ』と記されたその手紙はまるで自分がいなくなってしまうことを理解していたのか、それともただの照れ隠しで書いたのかは読み進めていけばわかるだろうとほんの少しだけ微笑みながら手紙に視線を落とした。
『───トネリコへ。
この手紙を読んでいるということは、僕は君に直接この衣装を手渡せなかったようだね。
本当なら君が旅立つその時に、僕からのプレゼントとして旅装束を渡そうと思っていたのだけれど……うん、どうやらそれは失敗したらしい。
キミさえ良ければその衣装は着てくれると助かるよ。
なにせ、ルクレティアと激しい議論を重ねた上で完成したトネリコに似合う服装のはずだからね。
さて、プレゼントの話はここまでにしておこうか。
なにぶん、僕もキミに対して手紙を書くというのは少し照れ臭くてね。
僕がキミに直接渡せてないということはおそらく僕は他の氏族によって殺されてしまったのだろう、だから……キミに最後にどんな言葉を言うかなんてなんとなくわかっている。
だからその辺りは少しだけ割愛させてもらうよ。
僕はキミが楽園から流れ着いたあと、別の世界の知識を持っていることに気がついていた、僕の千里眼は君の異変には特に敏感みたいでね、君の様子がたまにおかしかったことから推察できていたんだ。
本来なら、僕に師事しなくても君は立派に育って行ってくれたことだろう。
だけど、トネリコが僕から魔術を教わって嬉しそうにする姿が僕も嬉しかった。
“必要のないこと”だったとしても僕にとってその時間はとても大切な時間だった。
ありがとう、トネリコ。
僕は君の兄であれて本当に幸せだった。
僕は君に会えたことで愛を知れた、形だけの真似事ではなく……君を愛おしいと思うこの気持ちだけは妖精である僕にとって唯一本物であると本当にそう思えるんだ。
だから、君が前に進むとそう決めたのなら。
どうか自信を持って、残酷な現実に負けないでほしい。
でも、ほんの少し休みたいと思ったなら……このオークニーに、君の図書館に帰ってくるといい。
あの場所だけは、絶対に君を迎え入れてくれるよ。
君としたたくさんの約束、僕はどれだけ果たせたかな。
君の建てた国に行く約束は守れなかったね、それだけは本当にすまない。
君の旅の果てに君の優しさに包まれた国が出来ることを心の底から願っている。』
手紙はそこで終わっていた。
大好きな兄らしい、本当に彼らしい手紙だった。
ポタポタと手紙に雫が落ちる。
「おにい、さま……!お兄様ぁ!!」
嗚咽が漏れた。
もう、我慢の限界だった。
「たくさん……愛してもらったのは……私の、方だったのに……!」
「必要ないことなんて、何もなかった、のに……!」
「わたしこそ……あなたの妹で、あなたが兄でいてくれて……幸せ、でした」
「私も、私も愛しています……お兄様……心の底から、愛しています……!」
きっとこれが、兄を想って流す最後の涙になると……彼との思い出を思い出すときは今度からは笑顔でいるからと。
だから、今だけは、これを最後にするから。
****
あれから数十分が経ち、トネリコは鏡の前で自分の姿を一回転させる。
兄が贈ってくれた衣服に着替えて格段に動きやすくなったのと同時に袖周りはあんまり変わらないかも、なんて少しだけ苦笑する。
「動きやすいしデザインも可愛いんだけど、少しリボン多くない?文句があるわけじゃないんだけど……ちょっとリボン多くない!?」
ほんの少しの空元気、でもこの服に着替えたことでもう昨日までの寂しさは消え去っていた。
ひとしきり自分の今の姿を見て、今度は窓の外に見える“
最後に家族と別れた場所。
オークニーの巡礼の鐘が存在する、鐘つき堂だ。
兄の私室を最後に一瞥する。
もう、迷いはない。
トネリコの足取りは此処にきた時よりもずっと強く確かなものになっていた。
久しぶりに来た鐘つき堂は降り積もった灰で真っ白に染まっていた。
きっと最後にみんないたであろう場所を払えば僅かに染みついた赤がいまだに残っていた。
「お兄様、お姉様、お母様。私はこれから巡礼の旅を始めようと思います。だから、一番最初にオークニーの鐘を鳴らしに来ました」
「お姉さまの言った通り少し辛い旅になるかも知れません。でも、もう立ち止まるのはやめようと思います。パン屋さんは私には難しいかなぁとも思うのでそれは旅が終わった時に考えてみようと思います」
「お母様、私は妖精を許すことはきっと出来ないと思います。でも、お母様の願いは……笑顔でいることは出来るだけ頑張ってみたいと思います」
「お兄様、旅装束ありがとうございました。お兄様が願ってくれたことは全部は難しいかも知れないけれど、旅を共にできる友人が出来るように精一杯頑張りたいと思います」
家族に一言ずつ……あの時の言葉に今の自分ができる決意を告げて。
巡礼の鐘の鳴らし方は、生まれた時から知っていた。
「行ってきます」
ただ一言、それだけ告げて。
その日、ブリテン全土に巡礼の鐘が鳴り響いた。
旅の始まりを告げる“はじまりの鐘”。
これより始まるのは数千年に及ぶ巡礼と厄災祓いの物語。
裏切りと絶望の物語。
それでも、救世主として歩むきっかけは……
トネリコの物語は此処でおわり。
これより先は私たちの知る巡礼の旅と結末を。