商店街の福引で美少女スキンが当たった話 作:緑立
所変わって館内の休憩スペース。周辺の床よりも一段高い畳敷きのエリアにちゃぶ台と座布団が等間隔で並んだトラディショナルな空間である。湯上がりのサイボーグたちが思い思いにだらけている中で、館内着を纏い、定番のコーヒー牛乳を確保したFS91とタチバナは、ちゃぶ台を囲んで座っていた。
「……さてキューイチ、さっきも言ったが、重大な問題が発覚した。我ながら今の今まで気づけなかったのが信じられねぇが、とにかく大問題だ。とりあえず浴場からの撤退で急場は凌げた、……つっても、まだ根本的な部分は解決してねぇからな、今からそれについてお前に説明する。いいな?」
「一体どのような問題が生じたのでしょうか? 私には全く想像も付きませんが」
FS91のすっとぼけた様子に、タチバナは気が滅入りそうになった。溜息を一つ落とし、どうにか持ち直して言葉を続ける。
「……今からここは、保健体育の時間だ。お前ももう起動から15年だ。色々と知っといた方がいいだろ?」
「……ほけん、たいいく」
FS91は、余りにも予想外なタチバナの言葉に困惑を隠せなかった。
「保健体育でしたら、私は既に戦前に用意された学生向け教育カリキュラムを全て受講しています。もう13年前の事です。今更学習することなどないと思われますが……」
「安心しろ、お前が習ったのは基礎で、俺がこれから話すのはその応用編だ。教科書には載ってねぇ。……本当は俺だってこんな話を友人にすんのは勘弁なんだが、本来こういう事をお前に教えるはずだったミシマの馬鹿はくたばりやがったから、あん時隣にいた俺がやるしかねぇ。そういう訳で、今から保健体育の授業を始めるぞ。傾聴の準備をしろ、キューイチ」
「はあ、よく分かりませんが、分かりました」
FS91は、不承不承ながらもタチバナの勢いに押されて承諾した。そしてタチバナは軽く咳払いをして、"授業"を開始した。
「……キューイチ、さっきまでお前は男湯に入ってたが、何か違和感はなかったか?」
「違和感……ですか? 取り立てて感じなかったように思いますが……」
「じゃあもっと具体的に考えてみろ、周囲からの視線を感じはしなかったか? やたらジロジロ見られるとか、あからさまでなくともチラチラ視線が飛んできたりだとか」
「ええ、それは確かに。しかし、それになんの問題があるのでしょうか?」
「大問題なんだよ! 特に、それを問題だと思えないお前の感性が!!!」
タチバナはFS91に指を突きつけた。
「キューイチ! お前、今日に限らんでも最近行く先々で視線を感じるだろ!」
「ええ、ですがそれはスキンを換装したためではありませんか? コミュニケーション能力の向上により、顔を合わせての会話や交流が発生するのは至極当然な事のように思われますが」
「ああそうだ! スキンを換装したからだ! だが、現実にはお前の理解以上の事が起こってんだよ! 面倒なことにな! ……冷静に比較してみろ。俺も今のお前と同じように"顔"があって、ちょっと前のお前よりもコミュ力は高ぇが、俺のことをジロジロ見てるようなヤツなんていねぇだろ? ちょっとログ漁って比較してみろ」
海馬から過去数週間の記憶データを攫ってくるために、FS91はしばし沈黙した。タチバナは黙って待ち続ける。
「……確かに、タチバナの言うとおりの傾向が確認できました」
「だろう? ついでに言うとお前に視線を向けていたヤツの大半は男だったはずだ、違うか?」
「……確かに、その通りでした」
「つまり、顔を持ってる連中の中でも、お前にだけ起っている現象なんだ。この視線の誘引はな」
「なるほど、まだ結論は分かりませんが、とにかくこのスキンが何かしらの問題を引き起こしているのですね?」
「そういうことだ」
さて、問題を俎上に持ってくるところまでは行った。タチバナは既に一仕事終えたような疲労感に襲われていたが、コレも友人のためだと気合いを入れ直す。
「……あー、後はあれだ。この間お前のファンだとか何とか抜かしてた野郎も居たっけか。お前、自分になんでファンが付いてるのか分かってねぇだろ? それも今回の問題に関係してるから説明しとくぞ」
「確かに傭兵にファンとは、私には理解できない価値観でした」
「まあ常識的に考えてもそうなんだがな。……ざっくり言えば、ウチの会社が売ってるVRトレーニング用データセットのせいだ」
仮想現実を用いた訓練は弾代が掛からない上、思考にアクセラレータを噛ませれば数時間に数十時間分の訓練を押し込むことができるという滅亡した世界に優しい低燃費仕様であった。カンバラ社ではこうした仮想現実訓練用のデータセットを販売しており、その中には社員の戦闘データをベースとした戦闘AIも含まれていた。当然ながらFS91のデータもそこに含まれている。
「……近接戦闘アリーナ不動の二位、FS91-682。その打倒は各コロニー防衛隊のメレー狂い共にとっちゃ長年の目標だ。んで、毎日アホみたいな数のサイボーグがブレード一本でお前に挑みかかっては秒で微塵切りにされる地獄絵図のアリーナにアプデが入ったと思ったら、スムーススキンの近接軽サイボーグが美少女スキンの近接軽サイボーグにジョブチェンジしてたと、そりゃあ話題になるわけだ」
「話題になってるのですか」
「ああなってんだよ! データセットで見た連中から出先でお前を見かけた連中からなにからもうあっちこっちで、"なんかやたら可愛いサイボーグがいるぞ"ってな!!!」
「……かわ、いい」
FS91は、余りにも予想外なタチバナの言葉に困惑を隠せなかった。
「……それは、好意的な反応なのではありませんか? 私が現在着用しているスキンは生身の人間の少年期から青年期の中間的外観を有しています。庇護感情を喚起するのは自然なことだと考えられますが……そうした感情から来る視線をわざわざ問題視する理由が分かりません」
「ああそうだな! そうした感情から来てりゃあ今俺はこうやって苦労してねぇんだがな!」
「タチバナの態度がここしばらくおかしかったのも、私に対して庇護感情を抱いていたためだと推測していましたが、違うのでしょうか?」
「…………………………」
「タチバナ?」
「…………………………ああ、俺に関してはその理解で間違いない。だが、俺は、例外だ。よく覚えておけ。一般的な連中がお前に向けている感情を教えてやろう」
さあ、こっからが"保健体育だ"。タチバナは覚悟を決めて口を開いた。
「性欲だ」
「……せい、よく」
FS91は、余りにも予想外なタチバナの言葉に困惑を隠せなかった。
「生物学的な人間の生殖の適齢期は、その個体の栄養状態にも寄るが、ざっくり15~25歳の十年間、つまり性成熟を終えてからしばらくの間ってことになる。ここまではいいな?」
「……はい、学科で習ったとおりです」
「……つまりだな、人間のオスは、その時期の見た目をした女に対して、強い性的な魅力を感じるんだ」
「……強い、性的な、魅力」
「今のお前の外見的な年齢は? 17、18歳程度の女のもんだろう? さっき自分でも言ってただろ? 少年期から青年期の中間的外観とかなんとか。……ここまで情報が揃えば後は三段論法だ」
百式軽サイボーグ兵士、識別番号FS91-682は、生殖適齢期の女性の外見を有している。
生殖適齢期の女性の外見とは、男性に強い性的魅力を感じさせる外見である。
つまりFS91は、男性に強い性的魅力を感じさせる外見を有している。
「……よって、お前は男から性的な視線を向けられているんだ。理解したか?」
「なるほど、納得できる論理展開です」
タチバナは深いため息を吐いた。そして後ろ手に身体を支えながらゆっくりと上体を反らし、彼は天井を見上げる。
「……我ながら、迂闊だった。お前を酷い環境に連れ込んじまった。今日に限った話じゃねぇ、風呂ん中だろうが外だろうが、男所帯の傭兵暮らしじゃそういう視線がある事には変りねぇ訳だからな。……この話を聞いて、嫌だと思うんならスキンを変えろ、身分保障をすぐに更新し直すのは今のご時世面倒だが、それでも必要だろ? 勿論、払いは全部俺が持つ」
FS91は、少し考え込んだ。この数週間で自分の外側と内側に生じた著しい変化について、振り返る時間が必要だった。
「……私は、自分に起こっている変化がポジティブなものだと感じています。以前までは、漠然とした将来に対する不安を押さえ込むために、感情恒常化アプリを利用することが多かったのですが、最近はそれを用いずとも精神の安定を確保することが出来ています。変化には、目の前の現実に目を向けざるを得なくさせる効果があるのでしょう。だから私は、"今"を直視できる現在の私をポジティブなものだと感じているのです」
そしてFS91は、笑いながら言った。
「つまり私は、もうしばらく、この変化を体験していたい」
タチバナはFS91へと向き直り、そして苦笑した。
「……そのプリセットは?」
「No.03"親しみ"です」
「……いい顔だな。まあ、その、なんだ、お前がそう言うんならこれ以上は言わねぇよ。だが、男湯とかに入るのは無しだ。風紀が乱れる。今後は着服で混浴か、適切な配慮ってやつがされた浴室を利用するようにしとけ。そういうのは多分、ユカリが詳しいはずだ。確認しとくといい」
「分かりました。リマインダーに登録しておきます」
ようやく"保健体育"が終わり、タチバナは肩の荷が下りた心地だった。ダラリと全身を脱力させ、ちゃぶ台にもたれ掛かる。体格の関係から、殆ど前屈のような体勢であった。彼はその体勢のまま、ここまでほとんど口を付けてこなかったコーヒー牛乳を口に流し込んだ。
「あー、美味い。風呂上がりっつーにはちょっと時間が経っちまったが、やっぱりコレだ! 定番っつーかな、マンネリ知らずのコンビだぜ! 風呂とコーヒー牛乳!!!」
FS91もまた瓶の蓋を開け、差し込んだ給食装置のチューブで薄いブラウンの溶液を吸い上げた。
「……コーヒー牛乳はいつ飲んでも美味しいですよ? 風呂上がりに限らずとも」
その言葉を聞きつけるや否や、タチバナは勢いよく起き上がった。
「バッカ野郎お前! こういうのはテンプレートってもんがあるんだよ! "食文化"ってヤツだ。銭湯と瓶のコーヒー牛乳ないしフルーツ牛乳ってのは、遠いショウワの御代から続くニッポンの伝統なんだぜ? その良さが分からねぇとは……全く、最近のサイボーグは人間離れしくさって、良くないぜぇそういうの?」
「生憎、私の稼働開始は戦後なもので。ロートルとは埋めがたいジェネレーションギャップがあるようです」
「言いやがったなこの野郎! ……よし分かった、お前に日本の食文化と伝統の良さってモンを分からせてやるよ。さっきよぉ、変化がポジティブでどーのこーの言ってただろ? ついでだ、もっと変化をくれてやる」
タチバナはコーヒー牛乳をグイッと飲み干すと、空き瓶をちゃぶ台の上に置いた。
「食道と口を増設しろ、キューイチ。いろいろ迷惑かけたからな、金は俺が持ってやる」
「食道ですか? 食事ならこれで間に合っていますが……」
FS91は給食機構のチューブを指先で弄びながら言葉を返した。
「キューイチ、飯を喰うってのはなぁ、人間にとって大事なことなんだよ。一緒に食べる時間を共有して、同じ物を口に入れて噛んで飲み込んでる相手の顔を見て、その合間合間に会話する。人間のコミュニケーションのいっちばん原始的な形ってのはそういうもんだろ? 味も生成で誤魔化すんじゃなくって、ちゃんと舌でそのものの味を感じるようにしろ」
タチバナは頭を引っ掻きながら続ける。
「せっかく生身の見た目になったんだ。この際、人間らしさってもんをとことん追っかけてみるのもいいんじゃねぇか? お前は生身未経験でサイボーグ人生を始めたんだ、一度経験してみのも悪かねぇだろ」
「確かに、そういう変化も経験するべきなのかも知れませんね。ポジティブな結果を期待できます。分かりました。改造手術の予約をしましょう。リマインダーに登録しておきます」
数週間ぶりの"いつも通りのやり取り"が終わり、これから先の予定も一つ立てる事ができた。FS91は、アプリによって生成されたものではない安堵感が胸を埋めていくのを感じながら、今日のタチバナとの会話を反芻していった。自分の客観的な評価に触れることができたのは予想外の利益だった。細かく解析して今後に役立てていかなくてはならない。
「……しかし、私が性的感情の対象ですか」
FS91が致命的な気付きに至ったのは、それから数秒後の事であった。
「ん? どうしたキューイチ?」
この数週間の精神の不安定から解放され、ようやく消費したスマート弾頭やらパーツ代やらの値段に顔を青くしていたタチバナは、しばらく目を離した隙にFS91に生じた変化に思わず問いを発した。
「……」
FS91の視線が、泳いでいる。
それはもうもの凄い勢いで、右へ左へ、上へ下へ、回遊魚も斯くやという泳ぎぶりであった。
「……キューイチ?」
異変は視線だけでは収まらなかった。おもむろに身を揺すりだしたと思ったら急に立ったり座ったり。仕舞いには畳の上で横になり、バタバタ、ゴロゴロと転がり始める。
その間、FS91は徹頭徹尾無表情であった。
「お、おい! マジで大丈夫かキューイチ!!! 神経系の異常か!?」
「だ、大丈夫ではありません!!!」
「とにかく何事だ!? 被害状況を報告しろ!!!」
「わ、私は男性の性的感情の対象となるような容姿をしたまま男湯に入りました!!! そして多くの男性にこのスキンを見られました!!! そうですねタチバナ!!!」
「あ、ああそうだが……それがなんだって!?」
「それはつまり!!! もの凄く恥ずかしいことなのではないでしょうかっ!!!!!」
「気づくのが遅ぇよバカッ!!!!!」
「俺のクッソ丁寧な説明を理解すんのにどんだけ時間掛けてんだよお前は!!!」「認識と気付きの間には天と地ほどの差があるのです!!!」「つーか恥ずかしいんならその顔を使って表現しろ! ジタバタすんな! スゲー目立ってんぞお前!」「そんな高度な操作をしている余裕なんてありません! これが精一杯です!!!」FS91の激しい狼狽ぶりにタチバナは驚愕を禁じ得なかったが、同時に史上空前の勢いで豊かに感情を表現する無表情な同僚の姿にある種の愉快さを見出してもいた。しかし、そんな彼の余裕も次の瞬間消し飛ばされることになる。
「と、とにかく助けてくれタチバナ! 感情が止まらない! 私は暴走している! よ、抑制薬を……!」
ガバリ、と。FS91は転げ回る勢いそのままタチバナに縋り付いた。
「え……あ……」
顔が……近い。
勢いよく飛び込んできた黒髪がタチバナの頬を叩き、眼前に迫るのは金色の瞳。白いサーフェイス。ユカリ仕込みのコンディショナーの匂い。……一言で言えば情報過多であった。タチバナは己の内側に込み上げるものを知覚するが、何も心配することはなかった。何せどんな感情も恒常化アプリが叩き潰してくれるからで──
〈system:健康上の懸念から、これ以上の沈静化措置は実施できません。気合いと覚悟で乗り切って下さい。Good Luck!〉
「……は?」
役立たずのシステムがほざいた意味不明なアナウンスにタチバナは血の気を失い、そのお陰で図らずも彼の精神の高揚は鎮められた。
え? シベリアン・エクスプレス作戦の時もそんなアナウンス聞いたことなかったんだけど? 今ってあの作戦よりヤベェの? 現代のインパールとか言われたアレより? マジで? ……タチバナの薬漬け一歩手前の脳が、疑問符で埋め尽くされていく。
「いや、いやいやいやいやいやいや! 待て待て待て待て待て待て待て!!! 何だよグッドラックってお前この野郎!!! 人を見捨てようってのかァ!!!」
「タチバナ! 助けて下さい!!! 頭がどうにかなりそうです!!!」
「だぁーっ! 何をどうしろってんだ!!! つーか俺が何をしたってんだ!!!!!」
加速する混沌は、もはや当人達には収集不可能な領域に突入していた。
「……あーあ、やっぱり混沌としてるじゃない」
「……予想通り、いや、予想以上の結末か。何はともあれ、後始末は我々の仕事だろう」
……そこに現れたのは、狼顔の指揮官型サイボーグとイケオジの偵察型サイボーグであった。藁にも縋る状況にあったタチバナは二人の姿を見つけるや、直ぐさま助けを求める。
「……お、お前ら! 丁度良かった! 見ての通りマズい状況だとにかく助けてくれぇ頼む!!!」
「あーはいはい、キューイチはこっちで引き取るから大丈夫よー。……ほらキューイチ、こっちおいでー。女装して男湯に入るよりも暴れ回って目立つ方がよっぽど恥ずかしいわよー」
「何ということだ!!! 何ということだ!!! ということだ!!! ことだ!!!!!」
「あーもう本格的にバグってるわね。これはちょっと骨が折れるわよ……!」
巨漢のサイボーグが美少女を制圧しに掛かる傍目には犯罪的な光景を横目に、イチモンジは放心状態のタチバナに声を掛ける。
「来い、タチバナ。この場はユカリに任せて俺たちは一時離脱するぞ。……お前も色々と、俺に言いたいことがあるのだろう?」
「あ、ああ、そうだな。……そうだ。お前には、聞きてぇことと言いてぇことが山ほどある」
イチモンジはタチバナを少し離れた食堂スペースへと連れて行った。二人はテーブルを囲み、椅子に腰を下ろす。テーブルには食べかけのサンドイッチと空になったラーメンの器が置かれていた。
「色々と心配だったのでな、今日は朝からお前達を尾行していた。終わってみればある程度は想定の範囲内で片付いてくれたのでホッとしているよ。お前も何か頼むか? 今日は俺が奢ってやろう」
「……なあイチモンジ、今回の件、どっからどこまでがお前の仕込みだ?」
「ふむ、どこからどこまでと言われれば、最初から最後までだ。感情恒常化アプリのテストを主たる作戦目標としつつ、平行して"キューイチに現在の客観的評価を理解させる"という作戦目標も達成するべく、今回のオペレーション"ドキドキ☆混浴大作戦!!!(男湯)"を立案した。我ながら入魂の出来だったと言えよう」
イチモンジは、なんてこともないかのようにさらりと言ってのけた。
「……なるほどな、ドキドキしちゃいけねぇ作戦なのに、なんでそんな作戦名なんだってぼんやり思ってはいたが、キューイチにドキドキさせることが目的の作戦だったってことか。……バッカじゃねぇのお前?」
一周回って落ち着いてきたタチバナは、盛大にため息を吐いた。
「アイツに客観的評価を理解させるっつっても、わざわざ男湯に入らせて恥を掻かせることはなかったんじゃねぇのか? アイツの心情やら風紀やら、今回の作戦の被害デカ過ぎんだよ……」
「ふむ、自分が性的に魅力的であると全く認識していない友人がいる以上、まず身に危険を覚えて欲しかったということだ。……これは持論だが、人間は失敗からしか学ばない。学び得ない。特に危機感を持つべき重大な問題に限って顕著にそうだ。マニュアルで学んでも身にならない、納得はするだろうがそれで終わりだ。そのために、今回のシチュエーションを用意した」
イチモンジは、向かいに座るタチバナを真っ直ぐに見遣った。
「我らはキューイチの友人にして年長者だ。制御された失敗を作り出すことで、彼の情操教育に貢献する義務がある。……それに、万一の可能性についても心配する必要はなかった。キューイチは現時点での我が社のステゴロ第一位の実力者で、オマケにお前もついている」
「……俺がアイツに色々と説明してやったのも、お前の計画の内か?」
「ああ、教員役はお前が適任だろうと判断した。相変わらず思考パターンが読みやすくて助かる。この先もそのままのお前で居てくれ」
「余計なお世話だ!」
「何はともあれ、今日のキューイチの成長は望外の成果と言えるだろう。自分の客観的評価を知るのみではなく、性的な恥の概念を正確に理解するところまでたどり着くとは。……イチジクの葉を纏う行為は、知恵によって成された人が人たる最初の行動だ。今日はキューイチにとって、記念すべき日となったと言えるだろう」
「……この、蛇野郎が! ……あークソッ! 何が『知性の湯』だ! ふざけやがってこの……っ!!!」
タチバナは忌々しげに叫んだ。スパコン様の御利益は確かに実在したらしい。そんな彼の様子を見て、イチモンジは犬歯を剥き出しにして笑う。
「さて、タチバナ。作戦のもう一つの目的、お前に課したテストは方はどうだった?」
「……最終的には、失敗だ。投与量上限に引っ掛かってな。最初は押さえ込めてたんだが……」
「ふむ、この短期間で上限に達するほど精神の高揚が確認されたのか? ……なるほどな、興味深い」
あからさまに落ち込むタチバナに対して、イチモンジは顎に手を当てて唸った。
「……タチバナ、テストの結果は初期に設定した条件に基づけば失敗かもしれん。だが、新たな真実を明らかにしたという意味でならば大成功と言える。これは喜ぶべきことだ」
「はぁ? どういうこった? もうキューイチとは程よく距離を取って付き合ってくしかねぇと思ってたんだが……」
その諦念を滲んだ声色に、苦笑が返される。
「脳機能の抑制薬は、投与後もしばらくは濃度が維持され、指定した感情の生成を妨げ続ける。視覚情報からの刺激によって性欲が生成されているのみならば、恒常化アプリは問題なくその感情を抑え込むことができたはずだ。例え、一緒に風呂に入っているというある種の極限環境においてもな」
「……だが、現実はそうはならなかった。そういう話じゃねぇのか?」
「そうだ、そうはならなかった。充分な濃度の抑制薬によって妨げられながらも、それを突破するほどの情動が次々とお前の脳から生成されたのだ。これは視覚情報からの刺激のみに原因するとは考えづらい。より深い、お前自身の内面から生まれる強烈な情動が関わっていると考えるべきだろう」
「……あぁ? つまりどういうこった?」
「……察しの悪い奴だ。つまり、お前がキューイチの美少女スキンを見たのはきっかけに過ぎんということだ。タチバナ、お前が惚れているのはキューイチの外面ではない。内面に対してだ」
「……は?」
「お前はキューイチがあのスキンを着てくる以前から、彼の人格に対して並々ならぬ感情を抱いていたのだろう。だがお前からキューイチへの認識が男、即ち恋愛対象外であったためにその感情が恋愛感情として自覚されることはなかった。それが今回の一件で、キューイチが男であるという前提その物がひっくり返ってしまった。そしてお前は己の持つ感情を強烈に自覚するに至った。恐らくはそういう経緯なのだろう」
「えっと……つまり? え?」
狼狽するタチバナに、イチモンジは結論を突きつけた。
「喜べ、タチバナ。お前はお前が思っているほどふざけた男ではない。一言で言えば、お前のキューイチへの想いは純愛だ」
……2メートル30センチの巨体は、一瞬で凍りついたように動きを止めた。