「こ、婚約者!?」
その日、私は衝撃の事実を知った。どれくらい衝撃的だったかと言えば、夜中なのに素っ頓狂な声をあげちゃうくらい、私にとってはその話はとんでもないものだった。
「まさか知らなかったの?」
私の反応がよほど予想外だったのか、シンシアは驚いて仰け反っている。
「知らないよぅ。何で知ってるの、そんなこと?」
「いや、むしろお前が知らない事の方が驚きだぞ」
シンシアだけじゃなく一緒に飲んでたソフィーまでが意外そうな顔をする。知らないのは私くらいだったのだろうか。
「あの方が、ルイズお嬢様の婚約者……」
お相手はお城に何度か来ている人物で、ルイズお嬢様よりかなり年上の青年だ。確か16歳くらいだろうか。目鼻立ちが整ってるからメイド仲間にはずいぶん人気がある人だけど、私は特に気にしていなかったせいもあってその手の情報に遅れをとっていたのかもしれない。
ともあれ、まだ6歳のルイズお嬢様なのに、すでに将来の道筋がついていることに正直びっくりだ。それがいいことなのかよくないことなのかは判らないだけに、私としてはちょっと複雑。
「まあ、ルイズお嬢様も魔法が不得手だからな。嫁ぎ先については早めに押さえておきたいと思う親心なのだろう」
「そういうのって親心なのかなあ」
「恐らくな。こればかりは親になってみないと私にも本当のところはわからん」
「むう」
複雑な心境が、ますます複雑になっていく。
ルイズお嬢様は、確かに魔法が苦手ではある。でも、天真爛漫で、一所懸命で、本当に可愛らしいお嬢様だ。貴族様の根幹でもある魔法を馬鹿にするつもりはないけど、魔法が使えないことなんか補って余りある魅力をお持ちだと思う。
でも、それは私なりの尺度での見方だというのも判る。まず魔法ありきな貴族社会で、ルイズお嬢様が厳しい思いをされているのは確かだ。
「う~ん、ルイズお嬢様に婚約者……」
「勘違いしちゃダメだよ、ナミ」
呟いた私にシンシアが言う。
「貴族の間だと、婚約は社交辞令みたいな部分もあるんだから、結構簡単に婚約したり破棄したりするんだよ。ルイズお嬢様の婚約の話だって、聞いた範囲だと親同士で盛り上がっただけって話だから」
「そ、そうなんだ」
シンシアの言葉に、少し気持ちが軽くなった。
そんな私の表情に、ソフィーが笑った。
「何だか最近、ルイズお嬢様びいきに磨きがかかってないか?」
「そ、そうかな?」
まあ、そう否定はできないが。
考えれば考えるほど、貴族の社会は難しい。
家同士のつながりのために嫁に行ったり、出戻ったり、婚約したり、破棄したり。そういえば、先日のエレオノールお嬢様の縁談はあっさりダメになったって話だったっけ。何でもエレオノールお嬢様がひどく荒れ模様だったそうで、相手の殿方はべそをかきながら帰って行ったとか。何があったのかは知らないけど、きっとエレオノールお嬢様のお眼鏡には叶わなかったのだろう。ヴァリエールの三姉妹をまとめて背負って立ってくれる殿方。確かに、そんな懐の深い方にお仕えするなら、使用人冥利に尽きると思うんだけど、今回はダメだったようだ。
そんなことを考えながら持ち場に向かい、伺いを立ててから清掃対象の客間のドアを開けた。
お部屋に入ると、意外なことにそこは無人ではなかった。奥のカーテンのところに長身の女性がいるのが見えた。何だか妙に生気がない雰囲気のミリアム女史が、窓辺で静かに遠くの景色を眺めていた。
いつも冷静で凛としたメイド長だけど、何だかおかしい雰囲気だ。
「メイド長?」
おっかなびっくり声をかけると振り向いて、いつもの女史とは思えないくらい弱々しい声で答えた。
「ああ、どうしました?」
驚いたことに、彼女の美貌が見る影もなく弱っていた。まるで悲しいことがあった子供みたいだ。
「どうかしたんですか? 体調悪いんですか?」
「……どうもしませんよ」
「してます。何だか変ですよ。何かあったんですか?」
後になって思えば、本当に不用意な言葉だったと反省している。こういう顔をした女性を、しつこく追求してはいけなかった。私の畳み掛けるような言葉に、必死に取り繕っていたメイド長の表情に罅が入った。
長い睫毛に涙が貯まり、声を殺すようにメイド長は泣き出してしまった。
「ど、どうしたんです、私、変な事言っちゃいましたか」
「なん……なんでも、ありま……」
声を詰まらせ嗚咽を漏らすミリアム女史に、私は心の底から慌ててしまった。何があったんだろう。いや、何があったのかは関係ない。どうしたらいいんだろう、私は。
生まれてから滅多にないほど慌てている私への救いの声は、出し抜けに私の背後から聞こえてきた。
「ナミ」
力のこもった女性の声。振り返ると、そこに家政婦のヴァネッサ女史がいた。相変わらず影みたいに気配がない人だ。
そんな女史が鋭い視線で、でも穏やかな声で私に告げた。
「外に出ていなさい。しばらく誰も入れないように」
それだけ言うと、ヴァネッサ女史は優しくミリアム女史を抱きしめた。その途端、堰を切ったように声を上げて泣き出すメイド長。
その泣き声に追い立てられるように、私は慌てて部屋の外に出た。ドアを閉め、呼吸を整え、大慌てで杖を振ってサイレントの魔法をかけた。
見てはいけないものを見てしまった、という嫌な気持ちがする。
何が起こっているんだろう。
あの心根の強いメイド長が、子供のように泣いていた。
いくつもの考えが頭の中をぐるぐる回ってちっとも考えがまとまらなかった。
人が誰もいない廊下で、私はただ誰も来ないことを祈ってドアを背にして立っていた。
時間にすれば15分くらい。中からドアが開いてヴァネッサ女史が出てきた。私に視線を向けて、静かに言った。
「今日はこの部屋の掃除はしなくて構いません。次の持ち場に向かいなさい」
「判りました」
「それと……」
「はい。誰にも言いません」
「……結構です」
それだけ言うと、ヴァネッサ女史は足音を立てずに歩いて行った。
その日は最低な一日だった。
仕事をしていても、ご飯をいただいていても、メイド長が落とした涙のことばかりを考えていた。
私にとっては、ミリアム女史は憧れの人だ。かっこよくて、気が利いて、たまにお茶目で、そして優しくて。いつだって動じない心の強い人で、私たち若手の失敗も素早いフォローで何度も窮地を救ってくれた人だ。私もシンシアもソフィーも、失敗を救われるたびに、次は失敗するまい、あの人に恥をかかせるようなことはもう二度とすまいと皆で話し合った。私たちの、頼れるお姉さん。それが我らがメイド長ミリアム女史に私が抱いているイメージだった。
でも、今日のミリアム女史は、まるでか弱い女の子のようだった。私が勝手に育ててしまった彼女の像を押し付けているのは判るけど、それを差し引いても泣きじゃくるミリアム女史というのは私にとっては予想外のものだ。
「ナミ?」
ベッドに座って枕を抱え、沈思黙考に陥っていた私にシンシアが声をかけてくる。
「ん~?」
「元気ないね」
「うん……ちょっといろいろあってね」
「何があったの?」
私を気遣って言ってくれているシンシアに、何も言えないのがもどかしい。
「ごめん。言っちゃダメなの」
「ん……そうなんだ……」
それだけで察してくるあたりがシンシアのいいところだと思う。何気にすごく頭がいいんだよね、この子。私がお馬鹿すぎるというのもあるけど。
「ごめんね」
そんな会話をしていると、ドアが鳴った。シンシアがドアを開けると、そこに立っていたのはソフィーだった。
「聞いたか?」
「どうしたの?」
応じるシンシアに、ソフィーは驚くべき事実を口にした。
「メイド長に、縁談が来たらしい」
ヴァリエール公爵家のメイド長ミリアム女史。王都出身の美人さんで、年齢不詳。その不詳というベールの彼方を覗こうとして無事に戻った者はいない。
性格はクールなんだけど、きちんと冗談も通じる面倒見のいい穏やかな人柄の人で、当然だけど仕事もできる。
彼女を知れば知るほど、こんないい女をほったらかしにしているとは世の男共は何をしているんだかと不思議には思っていた。
だから、ある殿方の存在さえなければ、縁談が来れば、ああ、やっとか、ずいぶん世間というのは気がつかないもんだなあと思ったことだろう。
噂というのは風より早い。翌朝、朝食の席はかなり気まずい雰囲気に包まれていた。半ば公認と言っていい相手がいるはずのメイド長の縁談。誰もがその事を知っているだけに、まるで腫れ物に触るよう感じで彼女に接している。
それらのどこか挙動がおかしい人たちに対し、動じることなく丁寧に応じているメイド長。
いつも通りの、落ち着いた声。
いつもどおりに物静かな彼女の表情を見れば見るほど、それが作り物っぽく見えてしまう。
時が経つにつれ、私の中で戸惑いが広がっていく。縁談という大きなお話。そして、昨日泣いていたメイド長。その二つを結ぶものが邪推と言う形で私の中で歪に像を結びそうになる。その作り物の笑顔の裏側で、メイド長の身に物凄い嵐のような何かが押し寄せているような気持ち悪さがあった。
「どうしたの?」
「ん?」
朝ご飯をいただく手が、知らぬ間に止まってしまっていた私にシンシアが首を傾げていた。
「早く食べないと時間なくなるよ?」
「ごめん。そうだね」
「……メイド長の話がショックだったとか?」
「……うん、ちょっとね」
それだけなら、どんなに良かったか。その予感が嫌な形で当たってしまったのは、その日の午後になってからだった。
午後になり、そんな私の想いが伝播するように、ただでさえくすんでいた皆の表情に陰が差し始めた。
当然だ。事情通の誰かがもたらしたメイド長の縁談のお相手の情報が広まるにつれ、誰もが戸惑いを覚えるであろうからだ。
メイド長のお相手というのは、爵位を持った地方の大きな貴族の方なのだが、今回の話は、側室としてもたらされたということらしい。家格を考えればそれでも名誉と言えなくもないけど、相手がメイド長より倍も年上の人で、しかも側室や愛人を二桁も抱える人物となると話は変わってくる。
その話を聞いたとき、一瞬耳を疑ってしまった。まさかメイド長がそんな話を受けるとは思えなかったからだ。私の中で組みあがってしまった歪な像が、嫌になるほど強い輪郭を帯びてしまった。それは決して笑える話なんかじゃない。何故、メイド長はそんな話を前向きに考えようとしているのだろうか。間違ってもお金になびくような人ではないはずなのに。
私は仕事をしながら、ヴァネッサ女史の姿を探した。あの人なら、きっと詳しい事情を知っていると思ったからだ。
彼女を見つけたのは夕方近く。廊下の掃除の時、廊下を静々と歩いているヴァネッサ女史を見つけて、私は慌てて駆け寄った。
「ヴァネッサ女史、ちょっとよろしいでしょうか」
「何ですか、その足取りは」
スカートを翻らせていた私に、ヴァネッサ女史の鋭い声と視線が飛んできた。何故私の周りにはこうも眼力がある人が多いのだろう。負けじとお腹に力を入れて声を出す。
「お、お聞きしたいことがあるんです」
「仕事が終わってからになさい」
「すみません、仕事が手につかないんです。お願いします。興味本位ではありません」
食い下がる私にしばし考えこみ、ヴァネッサ女史は小さくため息をついた。
「……そこが終わったら、私の部屋においでなさい」
手早く作業を済ませて用具を用具置き場に放り込んでから女史のお部屋に入ると、女史は椅子にもたれるように座っていた。
まるで、これから語ることがひどく憂鬱なものであるかのように。
「そこにおかけなさい」
「失礼します」
勧められた椅子に座ると、ヴァネッサ女史はゆっくりと話し出した。
「聞きたいというのは、ミリアムのことですね?」
「はい」
「そうですか」
少し間をおいてヴァネッサ女史が語った言葉は、飛び交う噂話を肯定するだけのものだった。話を聞けば、何か明るい話が聞けるかとも思ったんだけど、女史の話は本当に知っていることをなぞるばかりで。
「私から話せることは、この程度です。満足しましたか?」
「はい、でも……」
「何か?」
「その、何とかならないんでしょうか」
「何とか、とは?」
「メイド長が、本心からそういうことを望んでいるとはどうしても思えないんです。だから、何か力になれることもあるんじゃないかなあ、って」
「出過ぎた真似はおやめなさい」
突きつけられた言葉は、氷のように冷たかった。
「ナミ、貴方は平民でしたね?」
「はい」
「ならば、貴方は今回のことに口を挟むべきではありません」
「ど、どうしてですか?」
「これは貴族と貴族の問題だからです」
「でも、メイド長は私たちの同僚でもあります」
「仕事を離れれば彼女は貴族です。分を弁えなさい」
それは余りにも強い拒絶だ。取り付く島もない。確かに、貴族様のことに私たち平民は口出しは出来ない。そんな無礼がまかり通るようなことはあってはならないことだというのは判る。
「ですが、私も同じ女です。このままではあまりにメイド長が可愛そうで」
「それが出過ぎた考えだと言うのです」
切り捨てるような言葉が、女史から降ってきた。
「小なりとはいえ、あの子も貴族と言ったでしょう。平民に哀れまれる筋はありません。そのようなことを口にすることは許しません。良いですか?」
「……申し訳ありません」
大声で反論を叫びたいのを堪えた。そんな私を、ただ静かにヴァネッサ女史は見つめ、話は終わったと言って私に退室を促してきた。
飲み込みたくない話を無理やり飲み込んだせいか、部屋を辞するとき、握った手が震えるのを感じた。
心がシミだらけだった。
どうにも納得がいかない。夜になって部屋に戻ってもシミは広がるばかりで一向に気分は晴れない。
ベッドの上で唸る私の隣で、シンシアもやっぱり暗い顔をしていた。
「ねえ、シンシア」
「……何?」
「これって、貴族の社会だといいお話になるの?」
私の問いに、シンシアはため息をついた。
「いい話になるのよ。貴族の社会ではね」
そんな会話を何度も反芻しながらシンシアと二人で部屋で悶々としていると、ドアが控えめにノックされた。
開けると、そこにいたのはジャンだった。
「どうしたの、こんな時間に?」
一応このエリアは男子禁制なんだけど。
「遅くに悪い。皆で集まってるんだ。ちょっと顔出してくれないか?」
私とシンシアがホールに入ると、何人かの見知った顔が集まっていた。ソフィーやキッチンスタッフのジャンヌもいる。
男性も数人いるけど、アランはいなかった。
「それで、話というのは?」
口火を切ったソフィーの言葉に、ジャンは言いづらそうに口を開いた。
「メイド長のことだよ」
ジャンが沈んだ面持ちで言った。予想はしていたけど、彼なりに今回の話に憤慨しているようだ。そして、彼女の事情を知ってしまったここにいる全員が、きっとジャンと同じ気持ちなのだろう。
「メイド長、このままだと嫁に行くって話だろ?」
「そのようだな」
「でもさあ……相手はヒヒジジイだって話じゃないか。何だか、違うんじゃないかな、って思うんだよ」
その言葉に皆が頷いた。だが、それに同調しなかった人が二人。それがソフィーとシンシアだった。二人の共通項は、いずれの実家が貴族だということ。そんなソフィーが、場の空気に逆らうように口を開いた。
「それで?」
「それで、って……何とかしたいと思わねえか?」
ジャンの言葉は、私たちの誰もが思っていることだ。でも、そんな意見をソフィーは真っ向から否定した。
「メイド長も大人だ。今回の縁談を受けるということがどういう意味を持つかは判っているだろう」
「そりゃ判るけどさ……」
「判っているのなら、彼女の意思を尊重するべきだということも判るはずだ。安易に口を挟むのには、私は反対だ」
ソフィーが強い口調で言う。その言葉に、カチンときたようにジャンが声のトーンを上げた。
「薄情じゃねえのか、そういうの。お前だって、メイド長の気持ちが誰に向いてるのか知ってるだろう?」
それに対するソフィーの返答は、どこまでも冷静だった。
「メイド長の家も貴族だ。その貴族である彼女が一度決めた事は尊重するべきだと思う」
私は、唇を噛む思いでソフィーの言葉を聞いた。ヴァネッサ女史に手ひどく怒られた後だけに、ソフィーが言うことが正論だということも理解できた。無情なようにも思えても、それはきっと、貴族の社会のルールなのだろうことは私にも察しがついた。
「ちょっといい?」
手を挙げたのはシンシアだ。そして、誰もが思っても口にしなかった言葉を彼女は切り出した。
「アランは、何と?」
それは、本来ならここに居るべき人物の名だ。彼の意見こそがこの場合メイド長の意見の次に尊重されるべきものだというのも確かだと思う。でも、その言葉にジャンは首を振った。
「……黙ったままだよ」
「何も言ってないの?」
「何もね。ひたすらその話題を避けてる感じだ。仲間内で詰め寄っても、自分が口出しする事じゃないって言ってそれ以上何も言おうとしないんだ」
「それじゃ、どうしようもないじゃない」
シンシアが、静かに、そして寂しそうに言った。
言葉が見つからなかった。相思相愛、お似合いの二人、いつごろ華燭の典をあげるのかについては一部で賭けになっているとも聞いている二人なのに、その彼が黙っていることは、正直信じられなかった。
「そうだな。メイド長だけでなく、肝心の彼も沈黙を守るというのであれば、我らにできることはない」
断言するソフィーに反論できる人はいなかった。そう、今のままではどうしようもない。アランの意向も汲まずに、ミリアム女史に破談を迫るようなことはできないことは私にも理解できた。
翌日、お茶配りに中庭の東屋を訪れたとき、呆然と空を見上げるアランがいた。
心がどこかに行ってしまっているような、頼りない雰囲気を漂わせて静かにたたずんでいた。何を考えているのかは、今の状況を知るものならば誰でも察しが付くと思う。
「お茶……持ってきたよ」
「ああ、ありがとう」
いつもよりややぎこちない手つきで受け取り、やはりぎこちなくお茶に口をつける。
少しだけ彼を責めるような私の視線を気にするように。
「ねえ、アラン」
「何?」
「メイド長、結婚しちゃうね」
「そうだね。いい話だと思うよ」
その声は平板で、まるで感情がこもっていないように感じられた。
いい話な訳がない。生木を裂くような、二人にとっては最悪の事態なはずなのに。
「それ、本気で言ってる?」
「……本気だよ」
「アランは、それでいいの?」
私の問いに対する彼の言葉には、どこか自嘲が篭っているように思えた。
「勘当も同然の貧乏貴族の三男の、出る幕じゃないさ」
アランの家もまた、貴族だ。ただ、爵位は準男爵でそんなにお金持ちではないことは私も噂には聞いている。正直、財力について考えると今回の相手とは比較にならない。しかも彼は三男で、絵に傾倒したがために勘当も同然の身の上らしい。
実家は兄弟のものになって将来の収入も見込めないこと、武芸もなければ魔法も人並み、コネもなく、自分自身が生きていくのが精いっぱいだということ。彼の口から、そういった後ろ向きな言葉が綴られる。
「でも……」
食い下がる私に、アランは言った。
「自分のことで精いっぱいの僕に、彼女の家を背負う甲斐性はないんだよ。それなのに、僕を選んでくれなんて、とてもとても……」
「お金だけで考えなくちゃいけないの、そういうことって?」
彼なりに、メイド長のことを考えてくれているのは判る。でも、これを愛情だというのなら、私は大声でそれは違うと叫びたかった。誰かを好きになること、そして誰かを大切に思うことというのは、お金なんかでは計れない崇高なものだと信じたかった。甘いことを言っている自覚はある。でも、気持ちを切り離したそんな考え方がどうしても悲しかった。
でも、それに対する彼の答えは単純で、でも確固たるものだった。
「お互いの気持ちがあればやっていける、っていうのは子供の理屈だよ。何をおいても、糧を得るというのは生きる上で基盤になるものだからね」
私は唇を噛んで、声を荒らげようとした自分を押さえ込んだ。
『メイド長、泣いてたんだよ』
秘密とされているその言葉が、私の口から零れ出そうになるのを何とか堪えた時。
「ナミ」
背後から静かな声が聞こえた。振り返ると、無表情なメイド長が立ってた。
「さぼっていないで仕事をなさい」
「……すみません」
私は一礼して、メイド長に続くように母屋に向かった。二人がついに視線を合わせなかったことが、たまらなく辛かった。
母屋に向かう道すがら、私は思い切って尋ねてみた。
「メイド長」
「何ですか?」
「メイド長、笑っていられますか?」
私の言葉に、メイド長は何も言ってくれなかった。
「嫁いだ先で幸せになれる、って言えますか?」
そんな私の追及に、少し間を置いてからミリアム女史は静かに答えた。
「ナミ、貴方の家は、商家でしたね」
「はい」
「お金に苦労したことは?」
「……ありません」
私の返事に、ミリアム女史は自嘲するように笑う。
「貴族というのはね、言われているほど、いいものではないのですよ」
そう言って、遠い目でミリアム女史は言った。
「このお家のような名家ならともかく、下級の貴族の俸禄というのは、すごく低いんですよ」
微かに震える声で綴られるそれは、私が知らないメイド長のお身内の話だった。
「酷い冬もありました。食べる物がなくて、でもお金もなくて。近くの酒場の残り物を分けてもらったこともありました。焚き付けもないから夜になると手足が凍えて、寒くて眠れなくて。それは辛いものなのですよ。うちは6人家族ですし、母も体が強くありません。今までは戦になれば父はその都度出征していましたが、ひどい怪我をして、今は長く床に伏しているんです」
静かな瞳で語るメイド長。その瞳の中に、冬の湖のような灰色の静けさが漂っていた。
「私も相応のお給金をいただいてはいますが、それだけではお世辞にも余裕があるとは言えないんです。父の治療費も掛かりますし、何より弟たちは食べ盛りです。ひもじい思いは、させたくありません」
それはあまりにも冷たい、拒絶の言葉だった。お金に苦労したことがない人には判らない次元で、彼女は自身の人生の選択をしていると言っている。それは同じ苦労をしたことがない私が踏み込めない、踏み込む資格がない領域だった。
「男子であれば、戦で功名を立てることもできたでしょうが、女の身ではそれもままなりません。いえ、むしろ、こういう婚姻こそが、貴族に生まれた女の戦場とも言えるでしょう。これが貴族の世の倣いなのです。だから、私は喜んで嫁ぐのですよ」
紙のように白くて薄い彼女の笑顔とともに絞り出されたその言葉に、私の中に深い絶望が溢れた。
おじいちゃんは商人だった。それだけに、お金に関しては多くの言葉を私に教えてくれた。
その大切さやありがたさ、あるいは怖さ。でも、そのことを、私は本当の意味では理解していなかったことを知った。メイド長の言葉に、お金の持つ本当の姿が浮き彫りになったような気がした。お金は、味方にも仇にもなる、水のように形を持たない力なのだと。
確かに、私は子供のころからお金のことで苦労したことはなかった。おじいちゃんやお父さんが築き上げたお店の庇護の下で、ぬくぬくと日々のご飯や暖かいベッドを宛がわれてきた。今でこそ自分で働くようにはなっているが、それだってこんな立派な家にお仕えできたのは実家のコネのおかげだ。だから、メイド長の言葉に対し、私は反論を持てなかった。
午後のお仕事をしながら、私は自分の人生の奥行きのなさを噛みしめていた。
「お金、か……」
「何だって?」
窓を磨きながらぽつりとつぶやいた私の言葉を、隣で窓を磨いていたソフィーが拾った。
「お金があれば、メイド長だってこんな縁談、受けなかったんだろうな、って」
「それはあるだろうな。貴族の結婚の大半は、権力と財力を下敷きにするものだしな」
ふと手を止めて、私はひとつ思いついた。
「私の実家から、メイド長の家に援助とかできないかなあ」
自分自身が、決して良い手段だとは肯定できない、いつもなら決して考えるはずがない思いつきだった。その言葉に、ソフィーは眉を顰めた。
「おいおい、何を言っているんだ?」
「私なりに、できることはないかなあ、って思うんだ。私がお世話になった方だし、事情を話せば、お父さんも考えてくれるんじゃないかな、って」
私の言葉に、ソフィーの手が止まった。聞こえてきたのは、滅多に聞かないソフィーの硬質な声だった。
「ナミ、それは違うぞ」
「違う?」
「これは間違ってはいけないことだ。メイド長の家は貴族だ。縁談を取りやめるために平民から施しを受けるというルールは貴族にはない」
「ほ、施しだなんて、そんな」
「お前の気持ちは判っているが、世間はお前の気持ちまでは汲みとってくれん。平民から施しを受けた貴族と言う事実だけが独り歩きするだけだ」
ここでもまた、貴族と平民というルールが立ちはだかってきた。
「……でも」
「それに、考えてもみろ。そんな金を、メイド長が受け取ってくれると思うか? お前が彼女に、一生頭が上がらないような貸しを作りたいと思っているわけでもないのなら、それはやめたほうがいい」
「それでも、それでも私は……」
何かがしたかった。メイド長のために、何かをしてあげたかった。そんな私に、ソフィーは言う。
「金は、怖いものだぞ。金には、人の情すら簡単に狂わせる力がある。メイド長が笑って受け取れるお金じゃない限り、そういうことはするべきではない」
あまりに強烈なダメ出しに、私の心がささくれていく。
「冷たいんだね、そういうところ」
私の口からこぼれた言葉に、ソフィーの表情が一瞬だけ曇った。その様子に、私は知らぬ間に八つ当たりをしていることに気が付いた。友達に尖った言葉を向けた自分が、すごく惨めに思えた。
「……ごめん、言い過ぎだよ、私。そういう事を言いたいんじゃないんだ」
自己嫌悪に陥っておでこを窓枠に押し付ける私に、ソフィーはいつも通りに応えてくれた。
「気にするな。判っている」
黙々と窓を吹きながら、ソフィーは呟くように言う。
「それに、現状をひっくり返すには、決定的に足りていないものがある」
「何?」
「二人の本心だ」
「本心?」
「お前は、二人の気持ちを、どちらか一方でもいい、言葉として聞いたことはあるか?」
「……ない」
お互いを思い合っていることは判るけど、確かに相手が好きだという言葉は聞いたことがなかった。メイド長は何も言っていないし、アランだって頑なに口を閉ざしている。そこに介入するには、あの二人と私たちはそこまで深い人間関係にないとソフィーは言いたいのだと判った。
「せめて言葉を交わし、将来を誓い合ったというのであれば介入のしようもあるのだがな」
「でも、もし相手が好きでもやっていけないってこともあるんでしょ?」
「どういうことだ?」
「お互いの気持ちがあればやっていける、っていうのは子供の理屈、だって」
「何だそれは?」
「アランに言われたの」
私の言葉に、ソフィーもまたため息をついた。
「……大人なんだな、彼は」
「何とかならないかなあ」
「何とかならないから、大人の世界というのは難しいんだろう」
妙に背伸びしたソフィーの言葉が、私には重かった。
嫌なことがある時に限って、月日の流れは早い。
数日が過ぎ、ミリアム女史の縁談がいよいよ具体化し始めた。
休暇を取り、ひとまず王都の実家に行ってから仲介の人物に承諾を正式に伝えるために訪問するとのこと。
夜明けの靄の中、旅支度をしたミリアム女史は静かに馬車に乗ろうとしていた。私服姿のメイド長が、少しだけ痩せたように見えた。
「留守の間を頼みましたよ」
そんなメイド長の言葉に、誰もが暗い顔で黙り込んでしまう。私たちが留守を守る間に、彼女は彼女の人生の選択をしなければならないのだから。私は何とか声を絞り出して話しかけた。
「メイド長……」
「何ですか?」
「いえ、その……」
呼び掛けはしたけど、言いたいことがまとまらず、そのまま黙り込む私の頭に、メイド長が手を置いた。
「何ですか、その顔は。貴方には似合いませんよ」
「……すみません」
すみません、何も言えなくて。
すみません、何もできなくて。
「仕方がない人ですね」
無理に笑うメイド長を見ているだけで、こっちが泣きそうだった。私の髪をくしゃっと撫で、そしてメイド長が静かな声で言う。
「ルイズお嬢様のこと、お願いしますよ」
その言葉を最後に馬車に乗り込み、小さく手を振って王都に向かって旅立っていった。
その日の朝礼は、まるでお葬式の日のように沈んでいた。
最後に見た無理に笑うメイド長の笑顔があまりにも悲しく、皆が会話を忌避するように黙り込んでいる。
でも、気持ちは沈んでいても、お仕事は待ってはくれない。
朝食後、今日の担当である部屋に出向く。よりにもよって、今日の担当は先日メイド長が泣いていた部屋だ。
ドアを開けると、そこに先客がいた。
細身の男性。できれば今は会いたくなかったアランが、静かに窓の外を見つめていた。
「アラン?」
「君か」
振り向いた顔は頬のお肉が落ちて、目の下も真っ黒だった。どれほどの苦悩の日々が彼を苛んだのか、それだけで充分に理解できてしまう。その顔に向かって文句を言いたくても、それを言えるだけのことができなかった自分の不甲斐なさが情けなかった。
「……ごめん、私、貴方に何て言えばいいかわからないや」
私は言葉を選んで言った。彼の心情を考えると、非難の言葉も慰めの言葉も思い浮かばない。
そんな私に、彼の告解のような言葉が届く。
「薄情者、とでも罵ってくれればいいさ」
俯いたまま、静かに漏れる懺悔の声が耳に痛い。
「私には、アランを責められないよ」
「……君は優しいな」
「アランだって、精一杯考えてのことでしょ?」
何かがしてあげたかったのに、何もできなかった無力な私だ。お金の援助も、彼女の背中を押してあげることもできなかった。そんな私が、彼を責めることなんかできない。
しょうがない。そんなすごくずるい言葉が、頭の中で回っていた。
でも、そんな私の言葉でも今の彼には重かったのかもしれない。ややあって、アランの肩が震えだした。男の人が泣くのはみっともないというけど、今の彼には、それだけの理由がある思う。
「泣く資格なんか、僕にはないのにね」
彼なりに、苦悩した果ての結論だったことは判る。
彼が持っていたメイド長のスケッチに込められたものは、絵描きとしての情熱だけではないことは私にも判ったくらいだ。優しく、細やかな愛情。そんな絵を描きながら、自らが夢見ていたであろう理想の未来を、自らの手で摘み取るのにどれほどの苦痛があったかは彼にしか判らないと思う。
ただ、私は彼の言葉を聞き、そして静かに問うた。
「……好きだったんでしょ、メイド長のこと」
アランは静かに頷いた。
「過去形じゃない。今でも好きだ」
「……そう」
ようやく聞けた、彼の本音。
恐らくは、一生心の奥にしまい込まれてしまったであろうその気持ちが、言の葉になって彼の口から漏れ出てきた。
誰かを好きになるという、素敵な気持ち。
無垢で純粋な、誰かを思う気持ち。
もうちょっとだけ早く、メイド長に聞かせてあげたかった、今となっては意味も力もない言葉だ。
でも、無力なはずのその一言の持つ本当の力を、私は理解できていなかった。
アランの悲嘆が満ちた部屋の静寂を破るように、乱暴にドアが開いた。
「ナミ、でかしたぞ」
「ソフィー?」
荒い足取りで入ってきたのはソフィーだった。呆気にとられる私をよそに、荒々しくアランに詰め寄るソフィー。
「やっと白状したな、アラン。今の言葉、確と聞いたぞ」
凛とした声で言い放ち、アランの前に立つ。自分を落ち着けるようにひとつ深呼吸をし、年上の彼に対して諭すように言った。
「今の貴方に、聞かせたい言葉がある」
彼が首を傾げるのも構わず、ソフィーは静かに告げた。
「『山川の末に流るる橡殻も、身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』。ある商人が書いた本の中の一節だ」
その言葉に、私は息を飲んだ。それは、ソフィーに貸したことがある私のおじいちゃんが書いた本にあった言葉だった。
乾坤一擲の大勝負をする時におじいちゃんが口にしていた言葉だと聞いている。
「窮地にあっては一身を賭してこそ活路が開ける、という意味の言葉だ。私は貴方の決断には敬意を払っているつもりだが、メイド長のことを思って身を引くというのなら、それはやめてもらいたい。メイド長の気持ちは誰もが知っている。そして、貴方の気持ちは今はっきりと聞いた。ならば、貴方にはどうあっても頼まねばならないことがある」
そう言って、ソフィーは背筋を伸ばし、優雅な手つきでスカートを抑える。その所作は、どこまでも気品にあふれていた。
そこにいたのは、私の同僚であるメイドではなかった。
「好いた男と添い遂げられることは女の本懐。その男のために手を荒らすのは女の幸せ。悩んだ末に決断するというのなら、彼女が笑ってくれる道を選んで欲しいと思う。故に、この世のすべての女を代表し、モンモランシ家に連なるカマルグ家長女ソフィーが伏して乞う。どうか、我らの姉を救ってくれないだろうか。この通りだ」
そう言って頭を垂れる友達の姿に、私は少なくない衝撃を受けた。
これが、貴族。
初めて目の当たりにする、貴人が示す本物の礼だった。
凛々しく、気高い淑女が振るう、揺るがぬ信念をもって発せられた不可視の魔法が、信念をねじ伏せ、自らの気持ちを裏切り続けたが故に抗う術を持たない青年を追い詰めていく。
まるで、喉元に刃を突きつけられたようにアランの顔が強ばっていた。
「僕は……」
苦悩と戦うように、アランは俯いた。彼自身が子供の理屈だと一蹴した艱難であっても、想いがあればそれすら拒絶の理由にはならないと、他ならぬ貴族の女の子に言われている。無茶な注文だと思う。明日をも知れない境遇に二人で飛び込めと言っているのだから。でも、それすらも女は幸せと感じることができると言われたら、男の人はどうすればいいのだろうか。
彼自身が積み上げた今を正当化するための理由が軋む音が聞こえるようだった。
そして、その強度を失った城壁にとどめを刺しに来たのは、次いで入室してきたシンシアだった。
「ジャンが馬の用意をしてくれています。今ならば、まだ間に合うはず。あとは、貴方次第です」
そう言って、ソフィーの隣に並んで首を垂れるシンシア。
その所作もまた、貴人と呼ぶに相応しい、堂々たるものだった。
「我らの姉のこと、お頼み申します」
突きつけられた、二振りの見えない杖。
凄まじい葛藤が彼を苛んでいるのは判るけど、彼に逃げ場はもうないのだろう。
汗を流し、苦悶の表情を浮かべるアラン。
恐らく、彼は今、自分の未来を複雑なまでに模索しているはずだ。いかなる言葉を浴びても貫いてきた、絵描きの道を捨てることすら選択肢として考えているのだろう。
一人のの女性のために、本心とは全く違う、糧を得るためだけの仕事に就いて生涯を終える。
その決断を、彼は迫られている。
彼を擁護することはできない。どちらにつくかと問われれば、私はメイド長と即答するだろうから。
同時に、彼の最後の壁を突き崩すに足る言葉を私は持っていることを思い出した。
貴人ではない私に、取れる礼はない。ただ、思ったことを口にするしか私の気持ちを伝える術はない。
正面から彼を見つめ、意を決して、私は禁を破った。
「私からも頼むよ。メイド長、泣いてたんだよ。悲しそうに泣いてたんだよ。こんな話、受けたくなんかなかったんだよ」
そうして、あまりにずるく、あまりに無責任で、そしてあまりに残酷な包囲網に、私は加わった。
私の言葉が彼の心に届いたからかどうかは、判らない。
でも、ついに彼は顔を上げた。その表情に、曇りは見えなかった。
「後のことは、よろしく頼む」
それだけ言い捨てると、彼は廊下に飛び出した。
全てが、良い方向に向かって動き出す。その先に、メイド長が笑ってくれる未来があると思いたかった。
でも、そう思ったのは、彼が廊下に足を踏み入れて3歩進んだところまでだった。
立ち塞がるようにそこにいた二人の人物を認め、アランは踏み出しかけた足を止めた。
彼の行く手を阻んだのはヴァネッサ女史と、執事のジェロームさんだった。
「どこに行こうというのですか」
巌のように厳しい表情で、女史は彼に問う。まるで彼がこれから何をしようとしているのか全て判っているかのように。
生まれたばかりの決意だけが寄りどころの彼に降りかかった最初の過酷な試練に、私たちはとっさに目配せした。必要とあらば、立ちふさがる二人への説明を引き受けてでも彼を行かせるつもりだった。
「すみません、失いかけているものを、取り戻しに行きたいと思います」
凛とした、揺るがぬ筋が入った声音でアランは応じる。いつものどこか弱く思えるほど優しい彼とは思えないくらい、力ある声。彼もまた、貴族なのだと私は思った。
「……ミリアムですね」
「はい」
ヴァネッサ女史とアランの視線が交差し、火花が散っているように思えた。何だか、このまま決闘にでもなりそうな重い雰囲気だ。
そんな二人のやり取りに割って入ったのは、隣で聞いていたジェロームさんだった。
「よろしい。ならば、一緒に来なさい」
ヴァネッサ女史と違い、ジェロームさんの表情に険しいものはない。
「ですが……」
「心配は要らぬよ。とにかく、付いて来なさい」
突然の予想外の事態に、私たちは言葉が出ないほど混乱した。同じように気を削がれたアランはジェロームさんにどこかに連れて行かれてしまった。
後には、呆気にとられたような空気が残った。
「……え~、っと……何なの?」
隣で同じように混乱している二人に訊いても、二人揃って首を振るだけだった。そんな私たちに、ヴァネッサ女史のいつもどおりの声が降ってきた。
「貴方たちは仕事に戻りなさい」
「あの、でも……」
「ここから先は私たちに任せておきなさい。さあ、やるべきことを早く済ませなさい」
「は、はい」
何だか訳が判らないまま、その場はお開きになってしまった。
そうは言ってもあんなことの後だ、いきなり仕事に戻れと言われても取るものも手につかない。
こうなると頼りになるのは使用人の情報網だ。持ち場の掃除を10分で済ませ、大急ぎで使用人ホールに向かう。
さすがは私の同僚たち、物見高い連中が多い。現在最も旬の話題だけあって飛び交う情報には不自由しなかった。いくつかのデマはあったものの、彼が連れて行かれた先はさほど間を置かずに判明した。
「奥方様の部屋に?」
次の玄関ホールの清掃担当は運良く私たち3人が担当だったが、シンシアが仕入れてきた情報に、私は思わず声を上げた。
「まさか直々の叱責という訳ではないだろうな?」
「それはないでしょ。お叱りならジェロームさんがあんなこと言うはずないし」
ソフィーの懸念をシンシアが一蹴する。これは私も同意見。でも、何故このタイミングでのお呼び出しなのだろう。
何か、見当もつかないことが起こっているのだろうか。
そんな話をしているとき、廊下の向こうからマントを着た長身の青年が足早に歩いてくるのが見えた。
「アラン!?」
私たちに気づいて顔を上げるが、何だか顔つきがおかしい。鳩が豆鉄砲というか、まるで現状がよく理解できていない様子だ。服装や荷物を見ると、どうやら旅姿という感じだ。
「すまない、急ぐから歩きながらでいいかい?」
そう言いながら歩みを止めない彼に付いて歩きながら質問をぶつける。仕事をほったらかししていることについては、後で素直に怒られることにする。
「どうしたの、その格好?」
「急な話なんだけど、王都に行くことになったんだ」
「王都に?」
その問いに対する彼の答えは、私たちの予想や想像の範囲をはるかに超えたところにあった。
「僕に、芸術アカデミーから招聘の打診があったんだ」
「芸術アカデミー?」
その単語に、私たち三人は同時に声を上げてしまった。
「何かの間違いじゃないかと思ったけど……もう何がどうなっているのやら……」
そう言う彼が手にした封書の蝋封には、やたら立派な印が押されていた。どうやら間違いではないらしい。
芸術アカデミーと言えば、王立魔法研究所なんかと並ぶ王立学士院の一角をなす正規の学術機関だ。多くの場合は王立魔法学院の卒業生がその適正に応じて進むところだけど、彼が言うには相応の人物からの推薦で入ることもできるのだそうだ。
何でも、ある高名な絵師がアランの絵をいたく気に入り、正式に勉強してみる気はないか、と言ってきたのだとか。給費生なので生活費の心配はない。また、個人的に描いた絵は売ることができるそうなのだけど、芸術アカデミーに属するということは宮廷芸術家への道が開けていることを意味するので、将来性を見込んだお金持ちが結構高値で買ってくれるのだそうだ。もちろんこの段階からパトロンが付くことも珍しいことではないようだけど、それとなくジェロームさんが匂わせていたのは、当のヴァリエール公爵家が彼の活動をバックアップする話があったのだとか。
「そ、それじゃ」
もしかしてこれって絵描きとしてはこれ以上の成功はないんじゃないかしら。恐らく、一家の大黒柱として充分な収入は確保できる計算になるのだろう。
アランの顔に、かつてないほどの覇気が満ちていた。
「ああ、なんとかなるかも知れない」
城門のところに行くと、既に見送りの使用人たちがたくさん集まっていた。
彼のために用意された馬に鞍は付けられており、その傍らで見送りの人たち一人一人と言葉を交わすアラン。
最後に、アランが私たちに視線を向けて言った。
「それじゃ、行ってくる」
今から追いかければ、恐らく最初の宿場でメイド長に追いつくだろう。その場にいられないのが、ちょっとだけ残念だ。
「心配はしてないけど、頑張ってね」
シンシアの言葉に、アランは朗らかに笑う。
「お礼を言わせてもらう。こうなったのも、君たちのおかげな気がするよ」
「礼を言うのはまだ早いだろう」
ソフィーが笑ってアランに忠告した。そう、結果はまだ出ていない。喜ぶのは、メイド長の笑顔を見てからだ。
「私たちの姉さんをお願いね」
最後の私の言葉に頷き、彼はジャンが持っていた手綱を受け取って馬上の人となった。
「それじゃ、行ってくる」
足早に城門を走り出ていく彼に、皆が大きな声援を送る。そんな声を帆に受けるようにその後ろ姿はあっという間に小さくなって森の中に消えていった。
メイド長がお城に戻ってきたのは、それから1週間後のことだった。
出迎えた私たちの前に降り立つ、真っ赤になって照れるミリアム女史。その表情には出発の時に見た嫌な気配は微塵もない。照れが混ざってはいるものの、見知った私たちの知っている彼女の表情が戻っていた。
追いついた現場でどんなロマンスがあったのか、聞くのはきっと野暮と言うものなのだろう。
二人がどうなったのか、噂が噂を呼んで収拾がつかなくなりかけた夕食前の時間に、ついにメイド長がいつものメイド服を着てホールに現れた。
事態の説明を求める皆の前で、彼女は丁寧な所作で一礼した。
「いろいろご心配をおかけしました」
でも、私たちが知りたいのは謝罪なんかじゃなくて、この先彼女たちがどうしていくつもりなのかということだった。
「メイド長、先輩はどうしたんですか?」
ストレートなジャンの質問に、メイド長が困った顔で笑う。
「……単刀直入ですね」
「そりゃそうでしょ。納得のいく説明を皆待ってますよ」
「それについてですが……」
メイド長が口ごもった時だった。
「遅くなってすまない」
そんなことを言いながら、旅装束のままのアランがホールに飛び込んできた。彼も今日の戻りだったのか。
「遅いです」
恨みがましいメイド長の声に苦笑いを浮かべ、アランは謝りながら彼女の隣に立った。
「それで、どこまで話したの?」
「皆が納得のいく説明を求められているところです」
「……最初からか」
そう言って頭をかき、アランは彼らを取り巻く現状を語り出した。
自分が芸術アカデミーで絵の勉強をすることになったこと。
メイド長の縁談は先方に断りを入れたこと。
自分は間もなくここを辞めるけど、メイド長は当分は働き続けるということ。
そして、王都で彼らがこなしてきた雑事の話がいくつも続く。
そうなると焦れてくるのが私たちギャラリーだ。誰の顔にも焦れったさが浮き彫りになっていた。
「あ~、もう、そういうのいいですから」
気の短いジャンが手を挙げて話を断ち切った。
「結論から言ってくださいよ。先輩、男として言うべきことは言ったんでしょうね?」
その言葉に、二人の顔がみるみる内に真っ赤になった。
「あ~、その……うん、宿場で、彼女に、その、き、求婚して……」
「それで!?」
噛み付くようなジャンの言葉に、アランはごにょごにょと小さな声でそっと言った。
「……受けてもらえました」
その言葉がもたらしたものは、爆発的な歓喜だった。皆の握手攻めと抱擁攻めに遭い、幸せな二人がもみくちゃにされていく。
それを見ながらじんわりと目元に涙が滲むのを感じていると、不意に肩を叩かれた。
振り向くと、ソフィーとシンシアが笑っていた。
言葉を交わすまでもなく、二人が私に抱きついてくる。
私が奉公に来てからの、恐らく今日が最良の日だろう。
その日に、この二人の友人の隣にいられることが、何よりも誇らしかった。
その夜のホールは物凄い騒ぎになった。
「は~い、キッチンからの差し入れで~す」
夕食が供される時間に、どういうわけかジャンヌを先頭にマイヨールさんたち料理人がたくさんのお料理やお酒を持ってホールに乗り込んできた。
「公爵家からの特別なお計らいだ。皆、心していただけ」
並んだお料理は、新年の降誕祭みたいな豪勢だった。明日はお休みでもないのにいいのだろうか、とちょっとだけ思った。
そうは思うものの、ここまで盛り上がってしまったものはもはや誰にも止められない。
主賓二人ををひな壇に据えて、あっという間の大宴会になってしまった。
途中、ジェロームさんが顔を出したけど『明日に障らないように』といって笑うだけだった。恐らく、今回のお料理の差配は彼の手によるものなのではないかと思う。
お腹いっぱいお料理をいただき、お酒もちょっとだけ飲み、二人の幸せをちょっとだけお裾分けしてもらう夜。
リクエストを受けて会場の端っこでアイスクリンを練りながら、ひな壇に座る二人を見る。
二人揃ってひたすら照れているけど、でも、とても幸せそうに見える。
一時は最悪の事態すら覚悟した二人が、こうして心から笑える未来が掴めたことは、私としても感無量だ。
「は~い、第2陣できましたよ~」
出来上がったアイスクリンをちゃっちゃと器によそって配膳のシンシアに渡す。人数に鑑みると、もう一回くらいは作らないといけないだろう。そう思って卵に手を伸ばした時だった。
ホールの入り口のところから、静かに中の様子を見ているヴァネッサ女史が見えた。
何をしてるのかな、と眺めていると、誰にも気づかれぬようそっと様子を伺ったあとで、彼女は静かに踵を返した。
「……ごめん、ジャンヌ、泡立てお願い」
「どうしたの?」
「ちょっと用事」
「ヴァネッサ女史!」
廊下に飛び出して、去っていこうとする女史を呼び止めた。
「何ですか、その足取りは」
この期に及んでもお小言とは恐れ入るけど、今日ばかりは勘弁して欲しい。無礼講と勝手に決めつけ、一方的に話しかけた。
「ヴァネッサ女史もご一緒にいかがでしょうか? 二人も喜ぶと思います」
私の勧誘に、女史は肩をすくめて答えた。
「いえ、やめておきましょう」
「そんな……」
「いいのです。まだやることがありますし。若い人たちだけでお楽しみなさい」
そう言って去っていこうとするヴァネッサ女史を追う。今回の騒動で、小骨のように引っかかっていることがあったからだ。
「あの、一つ気になっていたんですけど、訊いていいでしょうか?」
「何ですか?」
「芸術アカデミーのお話、何だか変にタイミングが良すぎませんでしたか?」
私の問いに、ヴァネッサ女史は足を止めた。そして、少しだけ間を置いて口を開いた。
「他言無用の話ですが、いいですか?」
「誰にも言いません、と言いたいところなのですが……」
私が彼女に課された禁を破ったことは彼女も知っているだけに、堂々と宣言するのははばかられた。
「あの件ならいいのです。あそこで告げた貴方の判断は間違いではなかったと思っています」
「すみません」
恐縮する私に、ヴァネッサ女史はちょっとだけ笑って言った。
「アランに正式な打診があったのは先月の末ことでした」
先月末って、2週間も前に来てたのか。時期的にはメイド長の縁談の話が出てきたあたりじゃないかしら。
「そ、それ先に言ってあげたら、アランだってもっと早く心を決められたんじゃないですか?」
抗議する私に、ヴァネッサ女史は静かに首を振った。
「奥様のお許しをいただき、私が差し止めました」
「ど、どうしてですか?」
その答えは、正直私の予想の遥か上をいった。
「私にとっては貴方がた女性使用人は娘も同然。後ろ盾が固まってから動き出すような腑抜けた男に大事な娘はやれません」
「ヴァネッサ女史……」
「もしあのまま泣き寝入りするようでしたら酷い目に遭わせるつもりでしたが、貴方たちに蹴飛ばされたとは言え、最後は自分で決断しましたし、まあ、期待点を上乗せして合格と言うことにしておきます。それと、エレオノールお嬢様には貴方たちもよく感謝なさい。お嬢様がお持ちの彼の絵を方々に自慢していたおかげで掴めた好機です」
「あのルイズお嬢様の絵ですか?」
「ええ。何しろ、公爵御夫妻も欲しがったほどの絵でしたから。今回のことについては、それがアランの手柄。残りはミリアム自身の手柄でしょう」
「メイド長のですか?」
「貴方たちがそうであったように、あの子のために行動していた人は結構いたのですよ。あのまま黙っていても、相手の貴族の方から破談の申し入れがあったことでしょう」
「そ、そうだったんですか?」
「女の敵を許せないのは、貴方だけではないのです」
「でも、相手も立派な貴族の方ですよね。どうすればそんな方に……」
そこまで考え、私は一つの可能性に行き着いた。それほどの人物に圧力をかけられる女性に、一人だけ心当たりがあった。
「ま、まさか奥……」
「それは言わぬが花と言うものです」
ついに語らぬヴァネッサ女史の言葉が、雄弁に正解を語っているように思えた。
「この家の大事なメイド長を、まるで遊女を買うように攫っていくことがまかり通ると思われても困るのですよ。表だってはどうにもならなくとも、裏からあれこれ手を回して穏やかに事態を曲げていくやり方もあるのです。貴方も、この機会にそういうものもあることを覚えておくといいでしょう」
「はい、勉強になります」
「それに、周囲がそういう骨を惜しまないでくれたのは、ひとえにあの子の徳のなせるところ。ナミ、貴方も上を目指すのなら、そういうところもしっかりとあの子から盗んでおきなさい」
「上……ですか?」
戸惑う私に、ヴァネッサ女史は答えてはくれなかった。
「さあ、もうお戻りなさい。明日はいつも通りですよ」
それだけ言うと、私を残して、例によって音もなく女史は歩いて行った。
そんな、ちょっとした嵐のような出来事のお話。