園遊会の当日。
お昼からの園遊会なのに、割と早い時間から公爵様ご一家は馬車を仕立ててお城に出発していった。王家と昵懇の公爵家なだけに、早めに入って王様といろいろお話されるのだと思う。先日はご機嫌斜めだったルイズお嬢様も楽しそうに見える。今夜は姫殿下と一緒にお泊りとのことで、あれこれ先の楽しみのことを考えているのだろう。
使用人がずらりと並んでお見送りをする中、がらがらと音を立てて4頭立ての豪奢な馬車が別邸の門から出て行った。その姿が見えなくなり、ようやく私はほっと溜息をついた。
翌日の朝、留守居役のヴァネッサ女史のところに出向くと、待っていたように彼女のデスクの上には革袋が3つ並んでいた。
「有意義にお使いなさい」
お金の入った革袋を受け取り、3人揃って最敬礼だ。
部屋に戻ってお城から持ってきた私服に着替えて、今一度女史のところにご挨拶に伺う。
「よく勉強していらっしゃい。夕餉の時間までには戻るように」
「はい、ありがとうございます」
足取りも軽く、私たちは別邸の裏門から王都の街に繰り出した。
シンシアとソフィーを伴って歩く王都。
たまたまであっても王都に生まれた身なだけに、物珍しそうにあたりを見回す2人を見ていると何となく優越感だ。
「おや、ナミじゃないか」
「こんにちは、久しぶりです」
「よく戻ったねえ」
ブルドンネ街を歩いていると、顔見知りの果物屋さんが私を見つけて声をかけてきた。私が奉公に上がるころはまだ新米の若女将だったけど、今ではなかなか堂に入っている。
「青いリンゴとは珍しいな」
そんな彼女とやり取りをしている私の傍らで、ソフィーは売り物のリンゴに興味津々だ。
「早いうちに採るんだよ。酸味が強いけど、そこがまた美味しいよ」
むう。おばさんの言葉に口の中の水気が増える。
どうしよう、そういうことを言われると買い食いの欲求に苛まれてしまう。甘酸っぱくて美味しいんだよね。
そんなことを思いながらソフィーとシンシアに目配せした時。
「それじゃ、それを4つちょうだいな」
背後からの声に、私たち3人は飛び上がって驚いた。慌てて振り向く私の前に、見知った背の高い女の人が笑いながら立っていた。
美人だけど、左のほっぺたに、大きい古傷が走っている顔。
私にとって、世界で一番付き合いが長い女の人。
「お母さん!」
こみあげてくる嬉しさに私は思わず抱き着いてしまう。そんな私を軽々と受け止め、私の頭を猫可愛がりにくしゃくしゃと撫でてくる。乱暴な手つきは相変わらずだ。
ありゃ、ちょっと太ったかな? 何となくほかほかと暖かい感じがするお母さんのウエストのあたり。湯たんぽとも違う、妙な感じだ。
「あはは、元気にしてたか?」
「元気元気」
先だって手紙を出していたけど、まさか市場で捕まるとは思わなかった。
「なあ、ナミ」
「何?」
ソフィーがどこか怪しい挙動で私に小声で話しかけてきた。
「お前の母君だが、ひょっとしてエリカという名ではないか?」
「あれ、言ったことあったっけ?」
意外な大正解に私は首を傾げた。何で知ってるんだろう?
「やはりそうなのか?」
「そうだよ?」
「……何ということだ」
そう言ってソフィーはちょっとだけ懊悩して、歩調を速めて先を行くお母さんに並んだ。
「ん? 何だい?」
「卒爾ながら、貴殿がかの『氷瀑』殿で?」
ソフィーの言葉にお母さんは一瞬目を丸くして、そして笑った。
「あはは、よくそんな古い名前知ってるねえ」
「やはり」
「馬鹿やってた昔の話よ。今の私は綺麗に足を洗って、王都の商家の女房さ」
お母さんの人となりを知っている私としては、昔馬鹿をやっていたと聞くと酒場で酔っ払って裸踊りでもしたのかと思ってしまうけど、ソフィーの表情はそう穏やかなものではなかった。
後でこの事をソフィー訊いてみると、ソフィーは言葉を濁しながらも答えてくれた。
なんでも、お母さんはその筋では有名な傭兵団のリーダーだったらしい。多くの貴族が戦争になったら真っ先に契約を持ちかける傭兵団の一つで、それを率いていたのがお母さん。その頃の通り名が『氷瀑』と言うのだそうだ。神出鬼没の傭兵団であり、また撤退戦では殿を務めることが多く、そんな展開で無類の強さを誇ったとかどうとか。その指揮官が頬に傷を持つ長身の女メイジ、というのはかなり知られたものだったのだそうだ。
傭兵だったのは知っていたけど、そこまで有名人だという認識は私にはなかった。殺伐とした世界にいたはずのお母さんと、今のお母さんを繋ぐものがイメージできない。私にとってはお父さんにメロメロで、冗談が好きで、ちょっとドジで、肝心なところでちょっとズレてて、でも涙脆くて情に篤い優しいお母さんだ。
久々に見る我が家。
私の生家は、ブルドンネ街の外れにある大きな商家だ。
結構大きなお仕事をしているのでお店の周囲にはいくつかの倉庫が並び、周囲には運搬担当のおじさんたちがたくさん働いている。働いている人の数と様子を見ると、我が家のお仕事は順調らしい。
「ハンス~」
お母さんがお仕事中のおじさんたちの一人に声をかけると、お帳面を持った現場監督風のおじさんが振り向いた。
「へい……やや! お嬢じゃねえですか! お帰りなさいやし!」
素っ頓狂な声をあげるこのおじさんが、うちのお店の番頭さんのハンスさんだ。王都の下町生まれで、歳はお父さんよりちょっと上。昔、ハンスさんのご両親におじいちゃんが力になってあげたことがあったそうで、そのことをすごく恩義に思ってくれたのがこのお仕事を始めるきっかけだったのだそうだ。自分のお仕事にすごく誇りを持っている人で、名前で呼ばれるより『番頭さん』と呼ばれることを喜ぶ。
「ただいま。相変わらず忙しそうね」
「はい、おかげさんで稼がしてもらっとります。むしろ最近じゃ忙し過ぎて、ちっとくらい暇になってくれてもいいんじゃねえかって感じですけどね。今日は帰省ですかい?」
「王都でお仕事なの。あんまりゆっくりはできないんだ」
「ありゃ、そいつぁ残念ですね」
そんな番頭さんが『おう、てめえら、お嬢のお帰りだぞ。御挨拶しろぃ』と声をかけると、倉庫や周囲からわらわらとおじさんたちが出てきて おかえりなさいやしとか、ご無沙汰しておりやすといった、子供のころから聞きなれた口調の挨拶が飛んでくる。私は慣れているけど、おじさんたちは基本的に強面で、ちょっと間違うと怖い筋の人みたいに見えなくもない。それを見るソフィーもシンシアもちょっとほっぺたの辺りをひきつらせながら味のある顔をしていた。もとはお母さんの傭兵団にいた人たちも多いから顔つきがおっかなくてもしょうがないとも思うけど、怒らせなければ怖い人たちじゃないから心配しなくてもいいと思う。
「それより、大将が今朝から落ち着かない様子ですよ。早く顔見せてあげてくだせえ」
母屋に近寄ると、入口のところで番頭さんの言葉通りにそわそわしながら立っている人影が見えた。中肉中背でメガネをかけた、やや細身の大人しそうな男の人。
「あんた~、お客だよ」
どこか嬉しそうなお母さんの言葉に人影が振り向いた。
私を見るなり、メガネの奥の目がぱっと輝いたように見えた。
「ナミ!」
大きな声で私の名前を呼ぶ。
これが私のお父さん。
そんなお父さんに駆け寄ろうとしたら、いきなりお母さんに襟首を掴まれた。
ぐえっと呻きながら何事かと見上げると、お母さんが渋い顔で私に流し目を向けている。何というか、この人も相変わらずだな、もう。
「いいでしょ、ちょっとくらい」
「……ちょっとだけだぞ~?」
「判ってるって」
「本当~?」
「本当だってば」
「よし、行け」
そう言って私の背中を叩くお母さんはもう笑っている。
お父さんが大好きなお母さんは、こうしてしばしばやきもちに根差したいじわるをしてくるから困ってしまう。誰も取ったりしないのに。
「ただいま!」
そう言って飛びつくと、お父さんは両手を広げて私を抱え込んだ。頭をくしゃくしゃと撫でてくるのはお母さんと一緒だ。こういう感情表現については我が一族は割と手加減をしない傾向が強い。
「お帰り。よく帰って来たね」
久しぶりに聞く、お父さんらしい優しげな声音。
何だか本当に帰って来た、って言う気がする。
我が家には、居間の一角に小さな神殿を模した祭壇みたいなものがある。
おじいちゃんが『ゴブツダン』と呼んでいたささやかな祭壇だ。
そこにおかれているのは、おじいちゃんとおばあちゃんが身に着けていた指輪だ。時の流れの中ですり減り、程よくくたびれた感じのお揃いのその指輪は、おじいちゃんがおばあちゃんに贈ったものだと聞いている。
それらに手を合わせ、私は静かに報告をする。
おじいちゃん、おばあちゃん、ただ今戻りました。
「父さん、母さん、ナミが帰ってきましたよ」
私と並んで手を合わせるお父さん。
物静かで穏やかな商会の若旦那という感じでありながら、最近はちょっと貫録がついて来た気がする。身内ながらなかなかの男ぶりだと思う。
「どうだい、公爵家のお仕事は?」
「うまくやれてると思う。いい人ばっかりだから毎日楽しいよ」
「それは良かった。ご飯も美味しく食べられてるかい?」
「う~ん、お父さんの料理には負けるなあ」
これで実はお父さんは料理が上手だ。お母さんが苦手な分、お父さんの細やかな料理が余計引き立ってしまうのが我が家の悲しい現実だったりする。もちろんお母さんの名誉のために言うと、私が生まれる前はお肉を適当に切って直火で焼いて塩を振ったものしか作れなかったお母さんも、おばあちゃんに教わったりして日々精進したおかげで腕を人並み以上のものがある。それでもやはり子供のころからおばあちゃんに仕込まれたお父さんに一日の長があるのは仕方がない。
そう言うと、お父さんはやたら嬉しそうに照れた。
「またそういう調子のいいことを言っちゃって」
「本当だよ」
お父さんは、とても穏やかな人だ。
思い返してみれば、お父さんから怒られたことはあまりない。声を荒げて怒鳴られたことなんか記憶にないくらい。私が要領が良かったというのもあるのかも知れないけど、本当に穏やかな性格のお父さんだと思う。
そんなお父さんも、商談の時は一変するから男の人は不思議だ。
きりりとしまった横顔で、整然と言葉を並べていくお父さんの姿を一度だけ見たことがあるけど、子供の贔屓目を差し引いても滅茶苦茶かっこ良かった。お母さんに出会う前から町内の女の人の間でかなりの人気があったというのも判る気がしたし、お母さんが惚れ込んだのもよく判る。
応接室でお茶とお菓子を出してもらい、ソフィーとシンシアを正式に紹介する。手紙でもちょくちょく報告しているだけに、両陣営とも初対面と言う雰囲気はない。貴族ながら気さくな友人2人の性格もあってのことだと思う。
まるまるくまぐまと話が弾み、おじいちゃんのファンであるソフィーの希望でおじいちゃんの書庫に見学に行った。
「これはすごい……」
個人の持つ書庫としては割と大き目な一室に並んだ書架に、多くの本が収められている。その中の結構な数の本がおじいちゃんが書いたものだ。
「ド、ドラッカー式マネジメントの原本……こっちはマツシタ塾教本、これも原本とは、おお……」
蔵書を見るソフィーの目つきが少々怖い。
油の行商から始めて王都屈指の大店にまで上り詰めたおじいちゃんの書いたものは、いずれも実体験に根差したものなので信頼性が高いのだそうな。
行商からお店を構えて至ること現在、そんなおじいちゃんのお店は、商家と言いながらもその守備範囲は割と広い。
生活必需品の流通や酒造関係、軍隊で必要な様々なものも取り扱っている他、規模は大きくないけど造船や土木部門に食い込んだりもしている。
最近は流通関係にも進出していて、各方面で順調にぼちぼちと利益を上げているのだそうだ。あまり派手にやると貴族様の権益に触れてしまうので、そのさじ加減が難しいとお父さんから教えてもらった。
『ちょっと物足りないくらいがちょうどいい』。おじいちゃんの残した言葉を、今のこのお店は守り続けている。
それでも収益はそれなりに多いそうで、その分の儲けは働く人たちのお給料に還元されるのはもちろん、公設の孤児院や公共事業への出資や寺院への寄付などにも使われている。
お父さんもお母さんもいわゆる俗っぽい贅沢に興味がないようで、着道楽や美食に走ったりすることはない。骨董なんかの蒐集にも興味はないし、別宅なんかも持っていない。甲斐性を考えると愛人の一人や2人くらいはいてもおかしくないお父さんだけど、もしそんなことやったらお母さんがどうなるかわからない、と言うよりわかりすぎるのでそんな命知らずな真似はしないのだろう。まあ、お母さんが大好きなお父さんは他の女性に興味がないみたいだからあり得ない仮定ではある。何しろ、しばしば娘の私が照れてしまうような2人だ、いい加減少しは落ち着いてほしいと思わないでもない。
とは言え、お互いがいてくれれば他に何もいらない、という理想の夫婦の見本が身近にあるというのは、娘としてはいろんな意味で勉強になる。
「写本で良ければ分けてあげられものが幾つかあるけど、持って行くかい?」
「良いのですか!?」
お父さんの言葉に、ソフィーが滅多にないくらい大声を出した。こういうソフィーを見るのは初めてだ。何というか、獲物を狙う肉食獣に似た凄みを漂わせているように思う。ツボに入るとこういう反応をするのか、この子は。
蔵書については一通り網羅しているお父さんと深いレベルの会話を始めるソフィーの様子に、お母さんは一つため息をついた。
「こりゃ長くなりそうだね。お茶を淹れ直すから、私たちは退散しよう」
「あれ、2人っきりにしちゃっていいの?」
ソフィーも立派な女の子なんだけど。
そんな私の軽口に、お母さんは笑って肩をすくめた。
「お前以外はライバルにならないよ」
居間に戻ってお茶をしていると、お母さんとシンシアの共通の話題はどうしても私の事に偏る。そうなると自然と徐々に私の昔話に流れていくから困る。子供の頃の失敗談なんてのは誰にでもあるものなわけだけど、それを友達に漏らされると今後の力関係に影響が出るので勘弁してもらいたい。
そんな中、私はさっき感じたお母さんの違和感が気になっていた。
例えるなら、お母さんの纏う野生の狼のようにしなやかで凛とした雰囲気に、奇妙な柔らかさが混ざっているように感じるのだ。お母さんも年齢的に多少お肉が付くころだとは思うけど、そういうものともまた違う気がする。
そんなことを考えながらそれとなく視線を走らせていると、お母さんがほのかに笑った。
「どうした? 何か変か?」
問われて私は首を振った。
「何でもない」
「何でもないってわけじゃないだろ、そんな何かを探すような目をして」
お見通しだったようなので、私は素直に白状することにした。
「何だか、お母さんの様子が変だな、って。ちょっと雰囲気が柔らかくなった感じがして」
「おいおい、今までそんなにおっかなかったかい?」
「そりゃもちろん痛たた!」
ほっぺたを引っ張られる私を見ていたシンシアが笑う。
「水のメイジ相手じゃ、やっぱり隠せないか。ま、ばれちゃしょうがない。もうちょっと後で話そうと思ったんだけど、いいや。ナミ、手を出しな」
言われるがままに右手を出すと、お母さんはその手を取って、自分のおへそのあたりにくっつけて見せた。
「判る?」
「え……え?」
そこまでされれば私でも判る。
「……あ、赤ちゃん?」
満開の花のように誇らしげに、お母さんが笑う。
「お前の弟だよ~。お目見えは来年の夏ごろだってさ」
頭が真っ白になるような衝撃に、私は口をぱくぱくと動かすしかなかった。
弟、あるいは妹。
私に、弟か妹ができる。
その事実が、呑み込めないほどの大きさの歓喜を伴って私に押し寄せて来た。
私が生まれてから、弟や妹が欲しいとお母さんにねだったことは少なくない。
おじいちゃんやおばあちゃんは『その辺は神様が決めて下さることだよ』と笑って私のおねだりをいなしていたけど、その願いをついに神様が聞いてくれたのだろうか。
おじいちゃんが生きていたら喜びのあまりものすごくヒートアップして派手に振る舞い酒とか始めちゃって、最後には羽目を外しすぎておばあちゃんに怒られたんじゃないかと思う。
待望の、本当に待望の第2子だ。
「すごい……どうしよう。私、お姉ちゃんだよ」
喜びが大きすぎてぎくしゃく動く私を、お母さんは笑って見つめていた。
「あの、もう性別が判っているんですか?」
シンシアの言葉にお母さんは笑う。
「私が決めたの。次は絶対男だってね」
「女の子じゃダメなんですか?」
「当然。この子だけでも強敵なのに、これ以上恋敵が増えたらたまんないわ」
そう言いながら、お母さんは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「やあ、何だか楽しそうだね」
タイミングよくおじいちゃんの書斎から戻ってきたお父さんにお母さんが微笑む。
「ごめ~ん、ナミに嗅ぎつけられちゃった」
「おやおや、もうちょっと内緒にしときたかったね」
お父さんの事だから、生まれた後で『だ~れだ』と言いながら赤ちゃんを私に見せようとでも思っていたのかも知れない。そういう細かいいたずらが好きなところはおじいちゃん似だ。
楽しい時間は、いつだって駆け足だ。
あっという間にお天道様が傾きだし、私たちは別邸に戻らなければならない時間になった。
正直、名残は尽きない。
御奉公と言うことでいくら長く家を空けていても、戻ればそこに私の居場所がある。それが我が家と言うものなのかも知れない。
帰り支度をしているとお店の衆も見送りと言うことでわらわらと集まってきてくれて、番頭さんがどういう指示をしたのか綺麗に整列して『お嬢、行ってらっしゃいやし』と仰々しい挨拶をしてきてお母さんに『うちは堅気の店だよ!』と怒られていた。
「いつも言うことだけど、体に気を付けて。何かあったら手紙を書いてくれよ。いや、何もなくても書いてくれるとうれしいな」
「了解。お父さんも風邪とか気を付けて」
私の頭をくしゃくしゃ撫でるお父さんを抱きしめて、次いでお母さんに向き直る。
「元気な赤ちゃんをよろしくね。私は妹でもいいよ」
「お姉ちゃんがそう言ってるってこの子に伝えておくよ。どっちが生まれても、顔を見に帰ってきなよ」
そう言って出されたお母さんの掌に私の掌を打ち付けて、お互いに笑う。
「それじゃ、行ってきます」
注がれるいくつものを見送りの視線を受けながら、先で待っている同僚2人に私は合流した。
夕暮れの迫る王都をお屋敷に向って3人で歩く。
市は店じまいがあらかた終わっており、道行く人もさほど多くはない。
そんな街並みを歩きながら、本を大事そうに抱えたソフィーが思い出したように呟いた。
「月並みな言葉しか出なくて済まんが、いいご家族だな」
「そうかな」
飾り気のない言葉で自分が大切にしているものを褒められれば、やはり素直にうれしい。
にやける私に、シンシアが合いの手を入れてきた。
「ええ。本当にいい方たち」
そう言って笑うシンシアの表情が、妙に曇って見えた。
「我が家族ながら、癖の強い人たちだと思うんだけどね」
「でも、好きなんでしょ、ご家族の事」
投げかけられた直接的な問いに、私はちょっとだけ照れて答えた。
「まあね」
私の言葉に、シンシアの表情に明確な影が差した。
彼女の中の、ひどく後ろ向きな思考が表面に出たように思えた。
「いいわね……本当に、羨ましい」
そして、蝶の羽音のような微かな声で、彼女は静かに呟いた。
「私は、ナミの家みたいな家庭に生まれたかった」
その言葉に、私もソフィーの言葉を失った。
単語の一つ一つにこめられた、黒い何か。
見れば、感情が読めない、作り物みたいな瞳で私には見えない何かを見ているようなシンシアがそこにいた。
堪え切れない何かが零れ落ちるようなシンシアの言葉が、まるで告解のように聞こえた。
「どうした、何だかちょっと変だぞ?」
聞きとがめたソフィーがシンシアの顔を覗き込む。
「ごめん、気にしないで」
切り替えたように明るい表情をするシンシア。でも、やけにその笑顔が作り物のように思えたのは私だけだろうか。
中央広場の片隅を通過する頃には、晩秋の太陽はそろそろだいぶ傾いてきていた。別邸に着くころには今日のお勤めを終える時間になるだろう。聖堂の鐘が午後5時の鐘を鳴らす。
やや実家に長居をしてしまったこともあり、近道のために表通りを外れて裏通りに入る。屋敷町にはこちらの方が圧倒的に早い。チクトンネ街のような一角だと変なのに絡まれることもあるかも知れないけど、アップタウン寄りのこの辺りの治安は良い。
建屋が密集していてやたら道が入り組んでいてたまに迷子になる人が出たりすると聞くけど、王都の人なら迷ったりはしない。
勝手知ったる自分の庭。そう思ったところに、落とし穴があった。
黄昏時は逢魔が時とも言う。
逢魔が時。それは魔に出逢う時間。
頼んだわけでもないのに、その魔は唐突に私たちのところを訪れた。
ソフィーが不意に視線を周囲に走らせたのは、そんな裏道を歩いている時だった。
「ナミ、この辺りは追剥は出るか?」
滅多に聞かない、彼女の硬質な声。私は首を振った。裏通りの方ならともかく、ブルドンネ街の辺りは治安がいいことで有名だ。
首を振って否定する私に、ソフィーは訝しげな表情を浮かべる。
「ならば、何者であろうな」
ソフィーの言葉に応えるかのように、次の曲がり角の陰から3人の男の人らしい人影が現れた。全身黒ずくめ。顔まで布で覆っているあたり、まともな人ではないというのが判る。
「どなたかは知らぬが、我らはラ・ヴァリエール公爵家にお仕えする使用人である。何かご用であろうか?」
ソフィーの言葉に対して、黒装束たちは言葉では答えなかった。代わりに、衣装の陰から表に出て来たサーベルの鈍い光が、薄暮の中できらりと光った。
自分が息を飲む音が、やけに他人事のように感じられた。
目を細めただけで動じないソフィーの隣で、シンシアが真っ青になって叫んだ。
「2人とも逃げて!」
事の次第は、その瞬間には理解できていなかった。
でも、そんな私の思考とはかけ離れたところで私の体は勝手に2人の袖に手を伸ばし、思い切り引きずるように2人をすぐ脇の路地に引っ張り込んだ。
それがすべての始まり。
逃走に移った私たちと、追い足を踏み出した黒装束の人影。
「誰か~っ! 暴漢です~っ!!」
大声で叫び声を上げて全速力で走りながら、きちんと2人がついてきているかを振り返って確認する。2人は遅れずついて来ていたけど、その後ろに黒装束たちも続いているのが見えた。
足は黒装束たちの方が速いけど、勝算がないわけではない。程なく見えて来たのは、行き止まりの壁だ。
走りながら杖を抜いて、荒い息でルーンを唱える。それだけで後ろの2人にも意図は伝わっているはずだ。
刃物を見せたところを見ると相手はメイジではないだろう。
ふわりと宙に舞って壁を飛び越えた。そのまま空中に逃げ場を求めようとした時だった。
今度は私がソフィーに手を引かれて高度を落とす羽目になった。
がくんと下がった私の体を掠めて、風切り音を立てて飛び去ったものがレンガ造りの建物の壁面に乾いた音を立てて突き刺さった。
短い矢。
その事実に血の気が引いた。連中の中に弩を持った輩がいるらしい。
なんなんだ、こいつらは。
「追剥の類ではないようだな」
着地したソフィーが苦々しげにつぶやくのを聞きながら、私は視線を周囲に走らせて逃走路を探す。
確かに、追剥とは思えない。飛び道具まで用意して待ち伏せをするなんて、まるで殺し屋みたいな連中だ。最初から私たちがメイジだと知っていたと言うのだろうか。
でも、今は考えるより先にやることがある。
「こっち!」
2人を連れたまま、記憶を頼りに建物と建物の間の路地に走りこんだ。目指すのは、衛士さんの詰所だ。私が奉公に出てからの2年間に廃止になっていなければ、この先300メイルほどのところにあるはず。
そんな私の期待を嘲笑うかのように、向かう路地の先に見覚えのある黒装束が現れたのが見えた。その数2人。
何人いるんだ、こいつら。
黒装束の連中に比べて、私たち持てる武器の一つは体の小ささだ。
このあたりの路地は建物が密集していることもあって大人では体を横にしてやっと通れる程度の隙間が路地のように空いているところが多くある。私たちなら全力疾走が可能でも、追っ手はそうはいかないだろう。
細かく角を曲がって足を速める。体力的には私たちは大体同じくらいで、誰かが極端に足が遅かったりしないというのが唯一の救いだ。
全力で逃げながらも、角に至るたびに首をのぞかせて黒装束の姿を確認する。
思ったより人数が多く、まるで包囲するように迫って来ている。
「どうしよう?」
「対決は、最後の手段だな」
ソフィーやシンシアはともかく、攻撃用の魔法については正直私は心得がない。仮に使えたとしても、ここまで敵が多くては精神力が続かないだろう。使えるソフィーやシンシアにしても、相手を害するレベルの強力な魔法ともなれば、打てて2・3発がせいぜいではなかろうか。
今の状況では、悲鳴を上げて助けを呼ぼうにも叫ぶと位置がばれる。助けが来る前に黒装束が集まってきて本懐を遂げられてはたまったものではない。
「逃げの一手でいいよね」
「異存はない。心当たりは?」
「任せなさい」
必死の逃避行ではあるけれど、考えなしに逃げていたわけではない。
私が持つ、もう一つの武器。それは土地観だ。
この辺りは子供のころに遊びまわった私の庭だ。どこにどういう抜け道があるかはまだ覚えている。大人では通れない路地だけではない。子供だから気づける秘密の抜け道や鍵がかかっていないドアなんかも判っている。肩幅や腰回り等の都合で幼少のころに比べれば通り抜けづらい抜け道もあったけど、火事場の何とやらで無理やりくぐることを繰り返す。
そんな手持ちのカードをいくつも使い、追っ手の追跡を必死に躱した。そして、見通しの効かない細い路地を抜けたあたりで、ようやく目的のものが私の視界に入ってきた。
杖を構えて、荒れた息を必死で整えながらそれに向かってレビテーションのルーンを唱える。
私の魔法を受けてふわりと浮いたそれは、路地の片隅に設けられた四角い石造りの格子だ。その下に開いているのは、傾斜した排水口。私たちがやっと通れるくらいの大きさの穴だ。
「下に水路があるから気を付けて」
私の指示に従い、2人が排水口に飛び込んだ。殿として追っ手の姿の有無を見届けてから私も続けて飛び込んで蓋を戻し、ロックの魔法で念を入れた。物陰にある蓋だから、そう簡単に見つかることはないだろう。王都にある多くの排水溝は狭く、大人の肩幅で入れるものは限られている。煙突掃除もそうだけど、こういうところの清掃は丁稚の子供が主に担うことは王都の誰もが知っていることだ。
傾斜した縦穴を滑り落ちること数メイル。傾斜の終わりで木靴を押し付けるように壁に足を踏ん張ってブレーキをかけ、そこから地下のトンネルに綺麗に着地した。
「2人とも大丈夫?」
「……何とかな」
ソフィーが素早くライトのルーンで杖の先に明かりを灯すと、普通の人は見慣れないおかしな景色が見えてきた。
「地下水路か」
ソフィーの言葉の通り、飛び込んだ先は王都の地下を走る地下水路だ。
王都の子供たちは、たまに探検と称してこの地下水路に潜り込んでいろいろ悪さをする。水路のわきには作業用の通路があり、私たちがいるのはその通路。全体的に湿気っぽくて埃っぽいけど下水ではなく川の水のバイパスのための水路だから臭ったりもしないし。
「こっち」
精神力の節約のため、3人で分担してライトを灯しながら地下迷宮のような水路を先に進んだ。