公爵家の片隅で   作:FTR

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第12話【後編】

 警戒しながら歩くこと数十分ほど。

黒装束の連中も流石に追っては来られなかったようで、私たちの足音しか聞こえてこない。ここなら来たら来たで小柄な人しか通れない逃げ道は上にも横にも幾らでもある。

 そんな静かな空間に、徐々に大きな水音が響き始めた。その音源を目指して水路を抜けると、不意に開けた景色にソフィーが感嘆の声を上げた。

 

「これはすごいな」

 

 到着したのは大雨の時に備えた縦横50メイルほどの広場と調整池が合わさったような大きな空間だ。発光性のコケが生えているので、ぼんやりと明るくなっている。そこに何本もの水路が集まっていて、何だか図鑑で見たことのある地底湖のような雰囲気を漂わせていた。一本だけ落差のある水路が落とす流れが滝のように音を立てている。

 空間の中央には20メイル四方の貯水池があり、増水時には周囲の広場スペースが溢れた分を引き受ける構造になっているんだと思う。深さは結構あると思うけど、実際どれくらいあるのかは私は知らない。

 地下水路の工事の基点になる空間でもあるので、感覚としてはちょっとした池のある広場のようだ。

 そんな調整池の縁に沿って走る広い通路を歩きながら記憶を頼りに進むと、石組の壁に設けられた古ぼけた木の扉にたどり着いた。アンロックをかけてノブを捻ると重そうな外見に反して軽い音を立てて扉が開き、5メイル四方ほどの隠し部屋みたいな空間が現れる。

 水密が完璧だから室内に湿気はないけど、それでもちょっとかび臭い空気の中、年季の入った事務作業用の机や椅子などの什器の傍らに私が目指していたものはまだ残っていた。

 宝箱風の大きな木箱。

 アンロックしてそれを開くと、完全防水の箱の中から出て来たのは数枚の毛布と各種の防災用品。そして保存用に固定化の魔法がかかった焼き菓子だ。

 防災用品の中からランプを取り出してつまみを捻る。マジックランプだから火をつける必要はない。 

 

「この箱は?」

 

 魔法を使う必要がなくなったソフィーが杖をしまいながら首を傾げた。

 

「非常用品よ」

 

「非常用品はいいんだが、何故ここにそのようなものが?」

 

 私は笑って種明かしをした。

 

「ここ、私とおじいちゃんの秘密基地だったの」

 

 地下水路の冒険はあまり褒められた遊びではないけれど、こういう悪い遊びはおじいちゃんの得意分野だった。何ちゃらヒロシが洞窟に入る、とか歌いながら嬉しそうに先頭に立って水路冒険を楽しんでいた。

 そんな冒険の中で教えてもらったのがこの部屋だ。私が生まれる前の話だけど、お仕事の関係でおじいちゃんが地下水路の工事に一枚噛んだ時、現場事務所として使っていた部屋と聞いている。今となっては地下水路関係の職人さんと一部の担当のお役人さんくらいしか知る人はいないと思う。

 そういうお仕事がない時はおじいちゃんの密かな隠れ家として機能していた部屋で、私もたまに連れて行ってもらい、ここでお湯を沸かしてお茶を飲んだりして過ごしていた。

 変な虫やネズミが出るから女の子はあまり入りたがらない地下水路に嬉々としてついていく私も大概ではあったけど、当時はそのドキドキ感が楽しくて、しょっちゅうおじいちゃんに連れて行けとせがんだものだ。今でこそ公共の場の部屋を私用で使っちゃっていいのかなあと思ったりもするけど、あの頃は無邪気におじいちゃんの悪だくみの御相伴にあずかっていた。お父さんやお母さん、おばあちゃんにも内緒と言うのがまたスリルがあって楽しかったんだけど、今にして思うと恐らく家の皆にはばれていたんじゃないかと思う。箱に固定化とかかけたのはお母さんだし。この非常用品はそんな関係でここに置いてあったもので、固定化と防水を念入りにかけてあるのでこういう時には役に立つ。できれば役立つ時が来ない方が良かったとは思うけど。

 

 ランプのもとでソフィーが懐中時計を取り出すと、時刻は午後7時を回っていた。外に出れば、街にはもう夜の帳が下りているだろう。

 

「どうしよう。闇に紛れて詰所に行くか、お屋敷に戻れたらいいんだけど」

 

 さすがに屋敷町までつながる水路があるかについてまでは私は知らない。

 

「悩ましいな。逆に、闇に紛れて襲われたらひとたまりもない」

 

 むう、確かに。そうなると選択が難しい。黒装束から察するに、夜は彼らのカテゴリーな気がする。ソフィーはしばし考え込んで、そして唸るように言った。

 

「追っ手の気配は今のところないし、夜が明けるまでここで籠城と言うのが一番適切だと思うがどうだろうか」

 

「お仕事どうしよう」

 

「こういう事態だ、説明して納得してもらうしかないだろう」

 

「それもそうか。それじゃ、腹ごしらえだね」

 

 非常食のクッキーの缶を取り出して蓋を開けようとした時、自分の手が震えているのに気が付いた。手だけじゃない。膝も小刻みに震えている。

 命の危険というものを味わったことは前にもあったけど、明確な害意を持った人間と向き合うのは初めてだった。

 怖かった。あまりに突飛なことが襲ってきたせいで一時保留になっていた感情が急に膨れ上がって来るのを感じる。それは先送りにした恐怖と言う感情が利息を付けて襲い掛かってくるような感じだ。2人がいなかったら、恐らく私は泣き出していたと思う。

 ぐるぐると頭の中をいろんなものが駆け巡り、震えが徐々に大きくなった。

 お父さんやお母さんの事、お店のおじさんたちのこと、メイド仲間をはじめとした職場の皆の事が次々に脳裏に浮かんで消えた。

 もちろん、ルイズお嬢様やカトレアお嬢様、エレオノールお嬢様の事も脳裏をよぎった。

 その時感じたものが何なのかに気付いたのは、ずっと後になってからだ。

 多くの人がそうであるように、私も死ぬことは怖い。

 でも、何故怖いのかを考えると、その答えは人によって様々だと思う。

 そんな人たちの顔が思い浮かんだ時、ふと私なりの答えが見つかったような気がした。

 死ぬということは、自分が消えてしまうと同時に、会いたい人に会えなくなってしまう事なのだと。

 そんな思考の影響で手の震えがさらに加速しそうになった時、肩にソフィーの掌を感じた。

 

「大丈夫だ、ナミ」

 

 諭すような口調で、ソフィーが言った。

 

「私も怖い」 

 

 肩を抑える彼女の手が、私と同じように震えていた。

 

 

 

 

 皆でクッキーを分け合い、ぼそぼそと食べる。固定化がかけてあったから味は変わってないのに、どうにも味気ない気がする。お茶があればもう少し気分はましなのかも知れないけど、さすがにそこまでの用意はない。

 お葬式みたいな沈んだ空気だけが辺りに満ちていた。緊張が緩むと、私と同じように2人にもその反動が出るのだろう。

 

「ごめんなさい」

 

 俯いていたシンシアが、ぽつりと呟いた。

 予想していた反応に、私は視線を上げた。

 急かしはしなかったものの、私もソフィーも、彼女の言葉を待っていたのだと思う。

 

「あいつらの狙いは、多分私なの」

 

 それについては、何となく察しがついてはいた。あの時逃げろと叫んだ彼女には、黒装束の正体に心当たりがあるのだと。

 

「家の関係か?」

 

 ソフィーの言葉にシンシアが頷いた。

 

「2人を巻き込んでしまうなんて、本当にごめんなさい」

 

 確かに、命を狙うならもっとシンプルなやり方が幾らでもあるだろう。往来で徒党を組んで襲い掛かるのはあまりにも下策だということは私にも判る。

 

 陶器のように顔色を白くしたシンシアの口が、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

 彼女の身の上話。

 今まで聞こうと思っても聞けなかった、彼女自身の出自の事だった。

 

「私の父は、ガリアとの国境にある領地の領主なの。母は、その父の愛人だった。もともとは行儀見習いで働いていたところを見初められたのが馴れ初めでね。母は家格の低い家の出だったの」

 

 言葉に詰まった。当主が使用人にお手を付けられるのは珍しい話ではない。それこそどこにでもある話だけど、身近な人から聞くとやはり話の重みが違う。一瞬強張った私の表情を読み取ったのか、シンシアは言葉を続ける。

 

「でも、立場は違っていても父と母はちゃんと愛し合っていたわ。ナミにはあまり馴染のない考え方に聞こえるかもしれないけど、貴族の結婚は政略結婚がほとんどだから、男女問わず浮気や不倫は半ば公認なのよ。愛人の方を深く愛してる人も珍しくないの」

 

 確かに、進んで馴染みたい考え方ではないと思う。居心地の悪い言葉にソフィーに視線を向けると、彼女も苦い顔で頷いた。

 

「貴族の婚姻は、多くの場合は財産を下敷きにした縁故によるものだからな。気持ちが通じ合う者同士が添い遂げようとなれば、愛人になることも仕方がないのが慣習だ」

 

 シンシアの言葉が続く。

 

「父も頑張って一族を説得して回ったけど、最後まで母との婚姻は許してもらえなかったみたい。父には兄弟もいなかったし、結局きちんと家格に合った方と結婚したの。父と正妻さんの間には世継ぎとしてちゃんと男子が生まれたわ。それが私の弟。そんな事情で、領地にある家をあてがわれて、私たちは暮らしていたの。父とはたまにしか会えなかったけど、父は私に弟と同じかそれ以上の愛情を注いでくれたわ。本宅に呼ばれたこともあるのよ。正妻さんとはあまり言葉を交わしたことはないけど、弟とは仲が良かったの。カミーユって言って、凄く顔立ちが綺麗な子なのよ、あの子。体も女の子みたいに華奢な子でね。数えるくらいしか会えなかったし立場的にはあっちの方が上なのに、私の事をとても慕ってくれたわ。小鳥みたいに細くて高い声で『姉上~』って言ってね」

 

 その部分だけ妙に熱がこもるシンシアの声色付の説明に、何となく彼女の厄介な性癖の根っこがちらりと見えた気がした。

 

「そんな暮らしをしていたのだけど、母が亡くなって、父の縁故でヴァリエールの公爵家に奉公に出ることになったの。母方の祖父母は亡くなっていて他に頼れる親族もいなかったから、庶子の身の振り方としては良いお話だった思うわ」

 

 私が言うのもなんだけど、公爵家ほどの家に御奉公に出ていたとあれば、確かに将来的には大きなメリットになる。お嫁さんにもらってくれる人も増えるに違いない。

 そんな私の予想とは違う現実が、シンシアの口から零れ落ちた。

 

「でも、父が私を公爵家に入れたのは、私の身の安全のためだったの」

 

「どういうことだ?」

 

 ソフィーの問いに、シンシアは一度宙を仰いで続ける。

 

「父の一族は、ずいぶん昔から身内同士でどろどろした争いを繰り返してきたの。当代の父もそんな過去のしがらみから逃れられなくて、数年前に隣の領地との中間にある湖の船着き場の利権を巡った衝突が発端で、相手方との関係が決定的に悪くなったの。事は小競り合いにまで発展してしまって犠牲者も出てしまったから、お互いに引けなくなってしまったのよ。その隣の領主というのは、父の叔父に当たる人。そんな近い関係なのに、何で仲良くできないのか」

 

 利権をめぐる一族の内紛や家同士の争いはそう珍しい話じゃない。爵位そのものは土地に付いてくるものだし、継承についても叙爵状の段階で手続きが詳細に定められているけど、財産の継承はそう簡単はいかない。それを巡って醜い争いが生まれることはよくあることだ。こういう争いについては最終的に王家や教会が仲裁に入ることもよくあることだけど、そこに至るまでにしばしば血で血を洗う紛争になることは吟遊詩人の歌にもよく出てくる。対立する両家の男女が惹かれあうなんてのは、悲恋物の定番なくらいだ。

 でも、シンシアの口から零れた話は、そんな甘い話ではなかった。

 

「家がそんなだったから、私たち母子はよく命を狙われたわ。私たちの存在は公然の秘密で誰でも知っていたから、父に精神的なダメージを与えるなら私たちに害をなすのが手っ取り早いって誰でも思うんでしょうね。表だって魔法を使われたことはなかったけど、そんなものよりもっと陰湿なやり方でね。クローゼットの中に毒蛇が放り込んであったこともあったし、家に火をかけられたこともあったわ。飲み物に入っていた毒を飲んじゃって死にかけたこともね。その時、一緒に飲んでしまった母は、解毒が間に合わなくて亡くなったの。父も護衛を付けてくれたりして必死に守ろうとしてくれていたけど、こういうことって完全に防ぐことはできないものみたい」

 

 言葉が出なかった。

 大げさに言っているのなら、まだ救いがある。でも、今の状況を考えれば、彼女の語ったそれらのことは、その静かな口調からまぎれもない事実なのだと判った。

 

「母を失って、父も限界を悟ったんだと思う。母が亡くなってすぐに、私を力のある貴族の家に避難させたの。それが父の友人だったヴァリエール公爵様のところだった。メイドとして働きたい、っていうのは私のわがまま。母からは、自立できるようになれって言い含められてきたから」

 

「すると、あの黒服どもはその大叔父とやらの手の者か」

 

「恐らくね。家からの知らせだと、紛争は王家と有力な貴族が仲介に入ってくれて手打ちになることになったみたい。結果は当家の言い分が全面的に通ったみたいで、相手は煮え湯を飲まされたんだと思う。多分、その腹いせに私を血祭りにあげて溜飲を下げようってことであいつらを差し向けてきたんじゃないかな。ナミもソフィーも命を狙われる心当たりなんかないでしょ?」

 

「確かにないな。だが、やり方としては恐ろしく頭が悪いぞ。露見したら仲介に入った王家や貴族たちの面子に係る。ただでは済まんだろう」

 

「詳しいことは判らないけど、何か裏の事情があるのかも知れない。領地の土地柄を考えると、他国からの働きかけとかもあるのかも知れないし」

 

 シンシアとソフィーのやり取りを聞きながら、私は唇を噛んだ。

 貴族様は、平民から見れば羨望の的だ。平民から貴族になるには神様になるのと同じくらい難しいというのが通説だけど、その天上の人々にも相応の苦労があるのだと今さらながら思い知った気分だった。

 いつかメイド長に『貴族は言われているほどいいものではない』と言われたけど、私の中にあるその言葉が、この上なく現実味を帯び始めた。

 少なくとも、私はこれまで命を狙われることはなかったし、私の存在が誰かの弱点になってその人が苦しむようなこともなかったと思う。シンシアが歩いてきた人生は、そんな茨だらけのひどい道だった。

 

『私の家みたいな家庭に生まれたかった』

 

 そのシンシアの言葉が、胸に刺さった。

 

 

 語るべきことを語り終えたのか、シンシアの表情はやけにさばさばとしたものだった。その表情から見たものは、つかえていたものが取れたような落ち着きと、抗えぬ運命を受け入れてしまったかのような諦観に似た何かだ。

 呼吸を整えたシンシアが、口を開くなりおかしなことを言い始めた。

 

「とにかく、これは私の家の問題。だから、あいつらは私が責任をもって何とかするから、2人はこのままここにいて。最悪でも私を殺せば、貴女たち2人を探し出してまで手にかけたりしないと思う」

 

 平静を装っているように見えても、その仮面の裏にあるものは私たちには悲しいほど判ってしまった。必死に演じるシンシアを前に、私とソフィーは視線を合わせた。

 目と目で通じ合う必要はないくらい、私たちの意見は一致していたと思う。

 

「何を寝ぼけたことを言っておるか、馬鹿者」

 

 ため息をつきながらそう言うや、ソフィーはシンシアの頭をぺしっと引っぱたいた。

 呆気にとられた顔をするシンシアにかける言葉は幾つも思い浮かぶけど、今は言わないでおこう。今のソフィーの打擲以上に意味を持つ言葉を、私は用意できないと思う。

 ここまで来たら一蓮托生。私たちは彼女を見捨てて明日の御飯を美味しくいただけるような間柄じゃない。

 そんな私たちの気持ちが通じてくれたのか、シンシアは静かに泣き始めた。

 

 

 

 聞きなれない音を聞いたのは、シンシアがようやく落ち着きを取り戻しかけた頃だった。

 ちゃかちゃかと石畳を打つリズミカルな音。

 音の方向を見た時、そこに一匹の中型犬が水路から現れるのが見えた。

 

「ありゃ、迷い犬かな?」

 

 私のつぶやきが聞こえたのか、犬がこちらに視線を向けた。仄かな明かりしかない暗闇の中で、犬の瞳が緑色に光った。

 迷い込んだのならお腹が空いているだろう、残ったクッキーでもあげようかと思った私の隣でシンシアが素早くルーンを唱えた。

 杖を振るうや、一瞬で見えない刃が正確に犬の首を刎ねた。首を失い、鮮血をまき散らして呆気なく絶命した犬の体が、朽木のようにぱたりと倒れた。

 

「何するのよ!」

 

 シンシアを非難する私を無視して、ソフィーは死んだ犬の首に近寄った。

 

「見ろ」

 

 冷え冷えとした彼女の声にランプを持って近寄ってみると、血まみれの犬の額にルーン文字が浮いているのが見えた。

 

「……使い魔のルーン?」

 

 それを理解した時、全身から血の気が引いた。

 

「恐らくは索敵だろう。位置がばれたな」

 

 これは予想しなかった。

 あの黒服の中に、魔法使いがいるということか。この犬があの黒装束たちの使い魔であるのなら、匂いを辿って私たちを追跡することもできるだろう。魔法使いの戦いと言うものを理解していなかった私の落ち度だ。

 逃げなければ、と思った時はもう遅かった。

 2人の手を引いて水路に向おうとした時、荒々しい足音が急速に近寄ってくるのが聞こえた。逃げる間もなく、水路から出て来た黒装束の男たち。

 とっさに違う水路に逃げ込もうとした私たちの前に火の玉が飛来して壁に当たり、闇に慣れた私たちの目を焼いた。

 現れた黒装束は、相手は全部で10人くらい。

 いかにも荒事について場馴れした感じを漂わせている連中だった。

 先頭の一人が、これ見よがしに杖を構えていた。

 

 まずい、逃げ場がない。

 ソフィーに目を向けると、ある種の決意が瞳の中に浮かんでいた。彼女が言った『対決』しなければならない時が来たということなのだろう。

 杖を抜いて、私は自分の使える魔法を思い浮かべた。

 攻撃魔法は壊滅、使える魔法はシールドやミストのような牽制魔法くらいがせいぜいで、ソフィーやシンシアみたいな派手な魔法を打ち出すことなんかできない。

 正直、怖い。

 

「おやめなさい」

 

 凛とした声で、シンシアが告げた。

 

「貴方たちの狙いは私でしょう。後ろの2人は無関係です。手出しすることは許しません」

 

 シンシアのそんな言葉にも、黒装束たちは全く動じることはなかった。まるで仕事を淡々とこなすように、前列に並んだ連中が弩を私たちに向って構えた。

 その様子を見るうちに、頭の中の混乱した部分が冷え冷えとした感覚とともに整理されていくのを感じた。

 事ここに至っては、もはや言葉は用をなさない。

 やるべきことは判っている。私はシールド担当で、攻撃担当はソフィーとシンシア。

 嫌だとか怖いとかという感情がこういう場では何の役にも立たないことは理解できているし、勝てるかどうかなんてことは考えていなかった。

 窮地にあってもやるべきことを一切の無駄なく、速やかに実行する。

 生き残れるかどうかは、また別の勘定だ。

 端くれとは言え、栄光あるヴァリエール家の一員としての矜持が私の中にもあるのだと、この時理解した。

 

 

 異変が起こったのは、私がそんな覚悟を決めたその時だった。

 その場で最初に動いたものは矢ではあったけど、それは弩から放たれたものではなかった。

 飛来したのは、風切り音を立てて飛ぶ氷の矢。串のように細い氷の刺突だ。

 それも一本や二本ではない。まるで滝のように何本もの氷の矢が銀光を引きながら地下の空間を走り、前列で弩を構えている黒装束の手と足の甲に突き刺さった。杖を構えたメイジは両手足が針山になるくらい刺さっている。唐突な一撃に、黒装束たちの野太い悲鳴が木霊した。

 一瞬ソフィーの魔法かと思ったけど、当のソフィーのルーンはまだ完成していないし、何より彼女がこんな大掛かりな魔法を使えるなんて聞いていない。ただ突き刺さるだけではなく、そこから徐々に体を侵食するように氷が伸びていく様子を見ると、多分、水・水・風のトライアングルクラスの魔法だろう。

 

「よりによって私の愛娘を狙っちまうとは、運の無い連中だねえ」

 

 声の出所を振り向くと、水路の一本から現れたのは一人の女性メイジ。

 

「お母さん!?」

 

 現れたのは、マントも着ていない、いつも通りの格好のお母さんだった。でも、服装こそ商家のおかみさんそのものだけど、漂わせている気配はドラゴンみたいな物騒なものだった。

 そんなお母さんの背後から、店のおじさんたちが影のように何人も現れて一斉にいかめしい形の銃を構えて残った黒装束たちに狙いを付けた。素人の私が見ても洗練された動きだ。かつて名うての傭兵団だったという彼らの昔日の姿が、その挙動の中に垣間見えた。

 

「さあ、どうする。娘の前では、できりゃ殺しはしたくないんだ。大人しく得物を捨てたら半殺しにまけておいてやるよ」

 

 刃物みたいな視線を突き付けたまま、高らかに宣言するお母さん。

 それが、かつて『氷瀑』と言われたメイジの貫録なのだと後になって思い至った。

 正直、身内ながらおっかない。有無を言わせぬ迫力を持ったその言葉は、完全にこの場の支配者という感じだ。身内じゃなかったら睨まれただけで気絶しちゃいそうだ。

 その迫力に気圧されたのか、残党の数名が観念して剣を捨てた。

 でも数名は往生際が悪かったようで、幾人かがその場で身を翻らせた。背中を向けて逃げ出すのを狙い撃とうとしたおじさんたちを止めたのはお母さん

 逃がしちゃうつもりなのかな、と思うやいなや、逃げ込んだ水路の闇の中から黒装束たちが小石のように吹っ飛ばされて戻ってきた。多分エアハンマーの魔法だと思うけど、凄まじい威力だった。中央の貯水池の上を水きりのように何回かバウンドして、その向こうの壁にぶつかって止まった黒装束たち。息はしているようだけど、みんな手足がおかしな方向に曲がっていた。

 

「うわ、ひどいねえ」

 

 その惨状に、お母さんが顔をしかめた。

 

「あんた、昔はもうちょっとエレガントだったよ。歳には勝てないかい『地獄耳』?」

 

「これでも手加減をしたつもりです」

 

 お母さんの言葉に応えるように、その水路の闇から音もなく人影が現れる。戦装束を身に纏った女性。

 現れたのは我らの家政婦、ヴァネッサ女史だった。

 

「当家の使用人に手を出したのです。本来なら一寸刻みに処すべき大罪。それをこの程度で済ませているのですから感謝して欲しいものです」

 

 そう述べる女史の後ろから黒装束の連中とは違った意匠の黒服を着た面々が現れて、降参した黒装束たちを捕縛していく。見たことはないけれど、多分ヴァリエール家のスタッフなのだと思う。日頃私たちが知らない部分が、公爵家にもあるのだろうと何となく思った。

 でも、そんなヴァネッサ女史たちを睨みつけるお母さんの視線は鋭い。

 

「その割には、その大事な使用人を窮地に立たせてしまう管理体制ってのはいただけないね。しかも、そのうちの一人が私の娘ってのは許し難いよ」

 

「では、どうしますか。あの時の続きを、と言うのなら……私は構いませんよ」

 

 ヴァネッサ女史の言葉と同時に、お母さんの周囲のおじさんたちが一斉に銃を構え直した。銃口が狙っているのはヴァネッサ女史だ。

 私の隣で、ソフィーとシンシアが息を飲んだ。

 そんな中で、冷静だったのは私だけだったかもしれない。お母さんの人となりを知っているが故の安心感が私の中にはあった。

 そんな私の予想の通り、数秒の対峙の後に眼から力を抜いたお母さんは、興味なさそうに杖を下した。

 

「聞いてただろう。娘の前で殺しはしないって」

 

「あの『氷瀑』が丸くなったものですね。老いたのはどちらなのやら」

 

「はん、今度うちの娘を危険に晒したら、その時はその喧嘩買ってやるよ」

 

「いいでしょう。ともあれ、本件については当家の不徳の致すところ。謝罪しましょう。あの者が、よもやここまでの愚策を持ち出してくるとは予想できなかったものですから」

 

 お母さんの言葉に女史は鼻を鳴らして杖を下し、視線を私たちに移した。

 

「落ち着いたら邸宅に戻りなさい」

 

 女史の後姿が闇の中に消えると、ようやくお母さんは一つ息をついて肩の力を抜いた。

 

「まったく悪い子だね。地下水路で遊んじゃダメだって言っただろう」

 

 冗談めかして言いながらお母さんが寄ってきて、私の頭を抱きしめて呟く。

 

「間に合ってよかったよ、この馬鹿」

 

「ごめんなさい」

 

 くしゃくしゃを頭を撫でつけられて、私は小さくつぶやいた。

 

 

 

 水路から梯子を使って街に出ると、夜の街にいくつもの松明が動いていた。

 顔見知りのおじさんたちが寄ってきて、口々に私の無事を喜んでくれる。

 王都の町内会が呼集をかけた自警団の人たちだ。町内会は職種に捉われない横に強い組織で、王都に異変があるとこうして自警活動を開始する。薬屋のピエモンのおじさんが会長で、お父さんもその理事だ。

 

「お嬢っ! よくご無事で!」

 

 声の出所を振り向くと、番頭さんが滂沱たる涙を流してお店のおじさんたちと一緒に走ってくるのが見えた。近寄るや私の手を取って鼻声で安堵の言葉をまくし立てた。

 

 そんな周囲を囲んだ人垣が割れ、現れたのはお父さん。

 静かに私に寄ってくると、ギュッと私を抱きしめてきた。

 言葉はなかった。

 ただ静かに、お父さんが泣いていた。

 これが、私が初めて見るお父さんの泣き顔だった。

 それだけに、こぼれる涙の一滴一滴が、湖一杯の水よりも重く感じられた。

 

「心配かけてごめんなさい」

 

 言葉に詰まり、そう言うのが精いっぱいだった私の頭に、お父さんのものではない手が下りてきて髪をくしゃくしゃと撫でる。

 見上げると、お母さんが優しい笑みを浮かべていた。

 

 

 生まれ故郷トリスタニアにおける私の冒険は、こんな感じに幕を下ろした。

 

 

 

 

 私が別邸に戻ったのは、それから間もなくの事だった。

 間もなくと言っても、既に夜はとっぷりと更けていた。

 シンシアとソフィーと一緒に、まずはヴァネッサ女史のところにお詫びに伺う。

 降りかかった火の粉とは言え、いろいろ不覚を取ったことは事実ではある。そんな私たちに、予想通りにヴァネッサ女史の言葉は厳しかった。

 公爵家に仕える者があの程度の者を返り討ちにできなくてどうするとか、今度から戦闘訓練を義務付けるようにしなくちゃいけませんね、とか。

 正直言っていることは無茶苦茶だと思うけど、女史の言葉だとそれが納得できてしまうから不思議だ。

 

 これは後日に聞いた話だ。

 女史と私のお母さんは、昔からの知り合いだったらしい。

 知り合いと言うよりは、因縁の相手と言うべきだろうか。

 ゲルマニアとの小競り合いの際、公領軍の重鎮として前線に出張っていた女史と、ゲルマニア側に雇われた傭兵団のトップだったお母さん。

 その頃の紛争はゲルマニア側が仕掛けて公領軍が押し返すのがいつものパターンだったのだそうで、その時に殿を務めていたのはいつもお母さんの団だったらしい。何でも退却戦においてはお母さんは名手中の名手だったらしく、先鋒を担当する女史は追撃のたびにあと一歩の所で戦果を取りこぼしていたのだとか。

 そんな因縁の最後の一戦で、ついに捕捉されたお母さんの団は女史の部隊と交戦に及び、お母さんは女史から顔に刃を受け、代わりに女史の使い魔だったグリフォンをお母さんが討ったのだそうだ。

 その後お母さんはお父さんと出会って傭兵稼業から足を洗い、女史も引退して家政婦業に落ち着いているというのが現在の状況。

 当然私の経歴を女史は知っていたはずなんだけど、そのことを聞いてみたら女史はこう言った。

 

『すべては戦場でのこと。こちらも言い分はありますが、それは貴女のお母上も同じでしょう。そこでの恨み辛みを平時に持ち込むこと、ましてその娘である貴女を色眼鏡でみるというのは無粋と言うものです。正々堂々と渡り合った結果の事ですから、不格好なことをしては塚の片隅で眠るあの子に合わせる顔がありません』

 

 戦人と言うのは、そういうものなのかも知れない。

 

 

「とにかく、彼方たちも公爵家からブローチをお預かりしている身なのだということを肝に銘じ、今後はさらに精進なさい」

 

 お話が切れたところで、ヴァネッサ女史はため息をついた。

 

「今夜は遅いですし、小言は明日にしましょう」

 

 むう、これだけ言ってまだ足りないのだろうか。

 無論、そんな感情は顔に出さない。せっかく助かった命は大切にするべきだと思うからだ。

 

「それと、明日はルイズお嬢様のところにもきちんと御挨拶に伺いなさい」

 

 何故か飛び出した名前に、私たちは顔を見合わせた。

 

「貴方たちに何かあったと言い始めたのはルイズお嬢様です。ナミ、貴女が言いつけどおりの時間までに戻らないことはおかしいと」

 

 ルイズお嬢様が、というところに私は絶句した。

 まだ幼いのに、末恐ろしい洞察力だ。

 

「当家のメイドで、時間を守らぬ者はいません。その時には既に手は打ってありましたが、それでもずいぶん強く急かされました。それにしても、私の手の者を動かす前に王都の自警団から連絡が来たことには驚きました。噂には聞いていましたが、大した組織力です」

 

 知らないところでそれだけのものが一斉に動いていたことに正直驚く。

 公爵家においても王都の自治会においても、末端に過ぎない私たちのために多くの人が乗り出してくれていたとは。

 人と言うのは、気づいていないだけで、こうして誰かに守られているのだということをこの時初めて理解できた気がした。

 

 お話が終わりかと思った時、ノックの音がして別邸詰めの先輩が入ってきた。

 当家のメイドに相応しい流れるような動作で女史の元に行き、こそりと一言耳打ちした。

 その言葉を受けて女史は視線をシンシアに固定し、やや声のトーンを落とした。

 

「シンシア、すぐにエレナのところに行って着替なさい。閣下がお呼びです」

 

 私たち全員の顔に困惑が浮かぶ。公爵様直々のお召しとは穏やかではない。でも、女史が仰ったその理由は予想をはるかに超えたものだった。

 

「お父上とご舎弟がお見えです」

 

 その言葉に、シンシアの表情に様々な感情が入り乱れるのが見えた。

 

 

 

「御尊父がお見えとなると、騒動がお耳に届いたか」

 

 女史の部屋を出て使用人詰所に向かう途中、ソフィーの言葉にシンシアの表情は優れない。

 無理はないだろう。シンシアが殺されかけた事情を聞いたのだとしたら、シンシアのお父上の心情は察するに余りある。うちのお父さんなんか泣いちゃったんだし。

 

「多分、それだけじゃないわ」

 

 シンシアの言葉に、私もソフィーも首を傾げた。

 

「違うのか?」

 

 シンシアが頷いた。

 

「手紙が来ててね。近いうちに、顔を見に行きたいって。家の事情が片付きつつあるから、私の事もいろいろ考えてくれていたみたい」

 

 シンシアのお父上、ということは公爵様のご友人。話の流れを考えると、今回の騒動は関係なく、お父上はシンシアに会いに来たのではないだろうか。その事を思うと、今回の私たちの王都行きも、最初からこの親子の再会を目的としたものだったのかも知れないとの思えたりもする。

 

「領地に戻れと?」

 

「それとなく、そういうことが書いてあったわ」

 

 2人の端的なやり取りの意味を、私が真の意味で理解するまでに数秒かかった。 

 それを理解した時、私は掌に嫌な汗をかいた。

 つまり今2人は、彼女が公爵家を離れるかどうかの話をしているらしい。

 そんな話の展開に、私は思考が追い付かなかった。

 

「どうする気だ?」

 

「父の意向次第だけど、私としては長期的な視点で考えて決めて欲しい。今回の事が落ち着いたからと言っても、いつまた同じような騒ぎが起こるか判らないもの。父や弟の近くで暮らせたら幸せだと思うけど、彼らの弱みになるのは嫌なの。でも、外に逃げてもこんなことがあったとなったら、父も強い対応を考えているかも知れない」

 

 心のどこかにつかえていたものが取れた今夜のシンシアは、いつになく素直に自身の胸の内を話してくれている。

 そんなシンシアに、ソフィーは困ったような顔で言った。

 

「すまんが、そのレベルになってしまうと、もはや私は何も言えん。お前が自分にとっての最適解として納得するのなら、私はそれを尊重する。もちろん、私にできることがあるのなら協力は惜しまん。ナミ、お前はどうだ?」

 

 話を振られて、私は無理矢理首の筋肉を動かして頷いた。

 そして、ちょっとだけ強がってシンシアの背中を押すための言葉を絞り出した。

 

「私もソフィーと同じ意見。友達が幸せになれるというのなら、そっちのほうが私も嬉しい……」

 

 必死に編み上げた綺麗ごとを、私は口にする。

 でも、そこまで言葉を紡いだ時、押さえつけていた本心は付け焼刃の重石を跳ね除けて暴れ出してしまった。

 

「でも、できれば私はシンシアと一緒に働きたい。一所懸命お仕事して、夜になったらお酒飲んでおしゃべりして、たまに馬鹿なことやってメイド長に怒られたりしてさ。これからも、そんな風にやっていきたいよ」

 

 止める間もなく、ぽろぽろと本音が口から零れ落ちた。

 シンシアは、ソフィーとともに私にとって最も近しい他人だ。

 同僚であり、仲間であり、仕事上では良い意味でのライバルであり、ルームメイトであり。

 そんな関係を、一言で言い表すなら、きっと『親友』という言葉が相応しいと思う。言葉にすると安っぽくなってしまうけど、私にとっての彼女はそんな存在だ。

 そういう心が通じ合った人が去って行ってしまうかも知れないという現実は、今の私にはどうしようもなく重かった。

 そんな私の言葉に、シンシアが優しく笑った。

 

「私も、今の生活が気に入っているわ。だから、父には素直に胸の内を話すつもり。愛してはいるけど、領地にいたら、きっといつかまた、私は父の重荷になるから」

 

 そんなシンシアの言葉の途中のことだった。 

 

「姉上」

 

 聞き慣れない男性の声が背後から聞こえてきた。

 一斉に振り返ると、そこにシックな御召し物を身に付けた貴公子がいた。

 私もソフィーも一瞬息を飲んだ。

 身長は私よりちょっと上くらい。歳の頃は同じくらいだろうか。線が細く男前な外見はそれはそれで高評価だけど、驚くべきは発している気配だった。その気品は、かなりの力を持った貴族様のそれだ。

 

「カミーユ! 」

 

 そんな貴族様に、輝く笑顔を浮かべてシンシアが駆け寄った。

 正直、びっくりした。

 これがシンシア自慢の弟君か。

 眩いばかりの美少年。

 なるほど、シンシアのネジが何本か緩んでしまうはずだ。

 混乱する私を他所に、駆け寄るシンシアの手を取って、カミーユ氏は辛そうな表情で言葉を紡ぐ。

 

「迎えに来ましたよ、姉上。我らが至らぬばかりに怖い思いをさせてしまいまして、本当に申し訳ありません。でももう心配いりません。これからは僕が絶対に姉上をお守りしますから」

 

 その言葉に、思わず息を飲みそうになった。おかしな音を出さずに済んだのは、これまでのメイドとしての訓練の賜物だ。

 そしてソフィーと目配せして、一礼してシンシアを残して足早にその場を後にした。

 貴人の話し合いの場に許しなく居続けることは、メイドの嗜みとしては許されぬ振る舞いだからだ。

 

 

 

 

 

「やっぱりか」

 

 少し離れたところで、ソフィーがそう言ってため息をついた。

 

「お迎え、だってね」

 

 今度は私のため息まじりの呟きを、ソフィーが拾う。

 

「あちらはその気だということだろう」

 

「お家の揉め事は収まりつつあるって言ってたよね?」

 

「どうかな。仲裁を受けながらあんなことがあったのだ、より大きな揉め事になるのかも知れん。公爵家にしてみても、お預かりしていた令嬢を危機に曝したのだから面子に関わる。事後の後始末はいろいろあると思うぞ。とは言え、シンシアの事に限って言えば微妙かな。情勢は彼女の生家が有利に進んでいるとのことだし、そうなると確かに公爵家に厄介になっている必要性も希薄になってくるだろう。何かあった時には、やはり手が届くところに置いておきたい親心も判らないでもない」

 

「……私には、貴族様の事情は難しくてよく判らないよ」

 

「それが普通だ。こういうことは、好んで味わうべきものはないよ」

 

 ソフィーの分析は冷静なものだった。それだけに、私の気持ちは暗い方に加速していく。

 

 

 ふと気づけば、そこは公爵家の方々の居室のエリアだった。その一室、ルイズお嬢様のお部屋のドアが少し開いているのが見えた。

 ドアの隙間からそっと覗くと、天蓋の下でルイズお嬢様がお休みになっているのが見えた。

 風が入らぬよう、ドアを閉めようとした時、

 

「ナミ?」

 

 囁くような問いかけが、ベッドから聞こえてきた。

 音は立てなかったが、起こしてしまったのだろうか。

 

「お騒がせしてしまいまして申し訳ありません。そのままお休みください」

 

 小声で言い繕っていると、ルイズお嬢様は勢いよく起き上がり、裸足のままドアのところにいる私の所に駆け寄ってきた。

 

「無事だったのね」

 

 ほっとされたかのような、柔らかい笑みを浮かべたルイズお嬢様。この笑顔がまた見られたことが、今は何より嬉しい。

 

「はい。ルイズお嬢様が異変に気づいてくださったと聞きましたが、そのお陰で難を逃れられました」

 

 そう告げると、ルイズお嬢様は目を丸くして驚かれた。

 

「やっぱり悪漢に襲われてたのね」

 

「ええ、駆け付けてくださったヴァネッサ女史がやっつけてくれました」

 

「魔法で?」

 

「はい。一撃で5人を吹き飛ばすご活躍で」

 

「すごい、ちょっと詳しく聞かせなさい!」

 

 一気にボルテージを上げたルイズお嬢様は食いついてきた。

 

「今日はもう遅いので、明日ご報告させていただきます」

 

「ちょっとくらい大丈夫よ」

 

 そう言って食い下がるルイズお嬢様。そんなお嬢様の様子に、脳裏にヴァネッサ女史の言葉が蘇ってきた。

 

『こういう時はきちんとお断りすることも覚えなさい』

 

 むう、ダメなものはダメと言わなければいけないのはこういう時だろう。変に夜更かしをされて奥方様に怒られてしまうのもまずい。

 私はお腹に力を入れて静かに告げた。

 

「……ダメですよ、ルイズお嬢様はもうお休みのお時間です。明日、必ずお話いたしますのでご勘弁を」

 

 珍しくダメを出す私にルイズお嬢様の目がちょっとだけ吊り上りそうになってけど、すぐにそれはいつも通りのポジションに落ち着いた。

 

「そうよね、あんたも大変だったんだし。判ったわ、明日絶対聞かせるのよ」

 

「かしこまりました」

 

 そう言うと、来たときと同じように走ってベッドに戻られるルイズお嬢様。

 安堵してドアを閉めようとした時、

 

「ナミ」

 

 不意に呼び止められて視線を向けると、お布団を被りながらルイズお嬢様が仰った。

 

「無事に帰ってきてくれてよかったわ」

 

 沈んだ心に、ルイズお嬢様のお言葉の暖かさがやけに沁みた。

 

 

 

 騒動の余韻は、私の元を深く静かに訪れてきた。

 翌朝、定刻通りに起き出してた私は、隣のベッドにシンシアの姿がないことに気づいた。泥のように眠っていたので何があっても目が覚めなかった自信はあるけど、きちんとメイクされているベッドには使った様子もない。

 着替えを済ませて使用人が使う食堂に行くと、既に集まっていたスタッフたちの中にも彼女の姿はなかった。

 きちんと身なりを整えたソフィーが先に朝食を頂いているのが見えたので、挨拶を交わして自分の分を持って彼女の隣に着席する。

 

「おはよう。寝られた?」

 

「おはよう。意外なことにぐっすりとな」

 

 パンが二つと野菜が多く入ったスープ。朝食としては充分だし、味もなかなか。でも、そんな朝ごはんを堪能する心境ではなかった。

 

「シンシア見なかった?」

 

 私の問いに、ソフィーが顔を顰めた。

 

「私もさっき聞いた話だが、今朝早くにお父上や弟君と一緒に出て行ったらしい。きちんとした服装で馬車に乗って行ったとこっち勤めの人から教えてもらった」

 

 朝一番に聞くにはあまりに重い情報に、パンをちぎる手が止まってしまった。

 一介のメイドが身なりを整えて貴族様の馬車に乗りこむというのは、良くも悪くも使用人の間では話題に上る。シンシアの生い立ちを知らない人なら興味をそそられるというのも判る。

 

「多分、行き先は御実家の街屋敷だろう。そうなると、しばらくは里帰りになるのかも知れん」

 

「やっぱり……」

 

 予想の範囲内の事ではあったけど、私は言葉が出てこなかった。

 このまま彼女が帰ってこない可能性があるという思考が、自分の中でじわじわと大きくなるのを私は感じていた。

 しかし、忸怩たる思いの私と違い、ソフィーの態度はさばさばしたものだった。

 

「まあ、どういう形であれ、そういうことになったら手紙の一つも来るだろう。命を取られに戻るわけでもあるまい。彼女の決断の報告を待とう」

 

「……本当に帰っちゃうのなら、最後に挨拶くらいしたかったよ」

 

 シンシアは貴族様だ。ソフィーと違い、平民の私とは住んでいる世界が違う。彼女がその立場に戻った時は、私はもう今までのような距離感で接することはできなくなってしまうだろう。

 

「手紙、くれるかな」

 

「そんな浅い付き合いをしてきたつもりはないだろう?」

 

「それはそうだけど」

 

「考えても仕方があるまい。こういうこととなると、もはやすべては天上にお住いの方々の取り分だ。待つより他に、我らがやれることはない」

 

 ソフィーらしい物言いだと思う。貴族のルールを弁えた子なだけに、言っていることはこの上なく正論だ。

 確かに彼女の言うとおり、私にできることは確かに何もなかった。

 

 

 

 翌日、すなわち私たちが王都を離れる日。

 結局、シンシアは別邸に戻って来なかった。女史が何も言わないところを見ると、本当にご領地に戻っているだろう。その里帰り期間の長さを知る術は、私にはない。

 来た時よりも、少しだけ広くなった馬車に揺られた2日間。

 周囲と会話をしながらも、頭の中はどうしても体の一部を失ったような喪失感を感じていた。

 友達と離れるという稀有な経験が、私の中にさざ波を立て続けていた。

 

 2日後、予定通りに何事もなく公爵領に到着した。

 久しぶりのヴァリエールのお城の跳ね橋を渡って母屋に入り、メイド長に報告をした後で自室で荷物を置いてようやく一息ついた。

 今日は休養日をもらっているので旅の後片付け以外は特にやることはない。

 見慣れたはずの自分お部屋だけど、そこがやけに寒々しく感じられた。

 いつも2人だった部屋に、1人きり。

 色褪せた空間と言うのは、もしかしたらこういうのを言うのかも知れない。

 

 そんな部屋の中で、私はふと、『将来』という言葉を思い出した。

 私は公爵家の使用人たちが好きだ。

 一緒に働いている皆と過ごす時間が、とても大切なものだというのは私の偽りのない本心だ。

 だけど、それはいつまでも変わらずそこにあるものではない。

 使用人にも生活があり、それぞれの人生がある以上は入れ替わりがあることは必然だ。一番身近なソフィーやシンシアですら、ずっと一緒に働けるわけではない。

 ぽろり、ぽろりと親しい人がここを去り、私との間に距離ができる日が必ず来る。 

 それがどんなに親しい人であっても、いつか必ず、その時は訪れる。

 月日は巡る。

 おじいちゃんがよく言っていた『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』という言葉のとおり、川の流れのように時というものは私たちの事情などお構いなしにどんどんと流れて行ってしまう。

 本当に、まるで川の流れのようだ。

 それに気づかないふりをしていても、私だけに目こぼししてくれるわけではない。

 鏡台においてある、いつかシンシアと2人で買ったお揃いの櫛を見ながら、私はそう思った。

 

 その夜、ベッドの中でちょっとだけ泣いた。

 

 

 

 

 

 私の事情など一顧だにせず時は流れ、お城に戻ってあっという間に2週間が過ぎた。

 シンシアのことは今なお傷のように私の中にあり、瘡蓋になるどころか膿みだしそうな気配すら漂ってはいるものの、私の状態がどうであれ日々のお仕事が変わるわけではない。お給金をもらっているからには、気分が沈んでいるからと言ってサボるわけにはいかないのは使用人の悲しさ。

 そんな日の午後、ソフィーと組んでお茶を配りに行った時だった。

 

 母屋を出た時、お城の跳ね橋を渡って荷役の馬車の荷台に見えた女の子の姿に、私とソフィーはお茶配りに向かう足を止めた。

 馬車が近づいて来るにつれ、ソフィーの顔が笑顔に変わっていく。きっと、私の顔も同じようなものだったことだろう。

 止まった馬車から降りたのは、荷物を抱えた女の子だ。

 綺麗な金髪。

 そばかすが浮いた愛嬌のある表情。

 もう一度会いたかった女の子が、そこに立っていた。

 

 運命なんてものが本当にあるのかどうかは知らない。

 縁というものだって、実際に形として目にしたことがある人はいないはずだ。

 でもこの時、私は確かにそういうものを差配する存在の後姿を見たような気がした。

 私に、もう少しだけ幸せな時間を過ごすことを許してくれた、大いなる何か。

 言葉にすれば一言で足りるその存在の御意思に、私は心から素直に感謝の念を捧げた。

 晩秋のヴァリエール地方の、ちょっとだけ冬の気配を感じさせる穏やかな日差しの下で、その女の子がただシンプルにこう言った。

 

「ただいま」

 

 その言葉に、私たちが返す言葉もまたシンプルだ。

 ただ一言、私たちは笑ってこう答えた。

 

「お帰り、シンシア」


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