公爵家の片隅で   作:FTR

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最終話

 冬になると、ヴァリエール地方の気温はぐっと低くなる。

 朝起きるとお城や中庭に霜が降りており、遅い朝日に照らされてきらきらと輝いていて見ている分にはとてもきれいだ。でも、働く身としては冬服でも朝一番の冷気は骨身に堪える。それでいて動けば暑くなるからその辺の折り合いが難しい。

 私たちの仕事では朝晩の水仕事が結構厳しくて、あかぎれになる人が増えてくる。

 接客に出るメイドは手が大事なのでそういう作業を免除されているけど、私たち一般のメイドはそうはいかない。井戸水は多少暖かいものの、それを差し引いても刺すような冷たさがもたらすダメージは皆共通の悩みの種だ。

 もちろん辛いのは私たちだけではなく、調理場のジャンヌなんかは水を扱う頻度が高いだけになおさら辛く、職種に相応しいひどい手荒れに悩むことになる。

 そのため、この季節になると自然と私の株が上がることになる。

 ブローチ組で水魔法を使える人は結構少なく、治癒の魔法で手荒れを治せる人は限られてくるからだ。その辺はお互い持ちつ持たれつの使用人同士のやり取り、気前よく応じてあげるのが常だけど、義理堅い人は手土産を持ってきてくれたりするから私の体重は最近少々増加傾向だ。

 

 そんなウィンの月。 

 年の瀬になって来ると、ヴァリエールのお城もにわかに雰囲気がそわそわしたものに変わってくる。

 ハルケギニアで最も大きなお祝い事、それが降臨祭。

 始祖が降臨された日とされるヤラの月の1日から10日間に渡るもので、ブリミル教においては非常に重要なものとされている。

 例年、貴族様は降臨祭期間の初日から2日目くらいまではそれぞれの領地でお過ごしになり、年が明けて3日くらいに宮殿に御挨拶に行くのが慣例になっている。

 有力な貴族様は多くの場合降臨祭の開幕前夜に自領で日をまたぐ祝宴を催され、当公爵家でも当然公爵様主催で行われることになっている。また、これはただお祝いするだけではなく、他の家の御当主がちゃんとそこに御挨拶に来るかどうかでその家との距離を測るという生臭い側面を持っているとも聞いている。

 言ってしまえば公爵家の威光を示すイベントなのだから、準備するこちらもすべてにおいて気が抜けない。

 1年で最大のイベントだけあって物凄くお金がかかるし、お見えになる予定の貴族様の方々も凄い顔ぶれだ。

 私たち使用人は、総動員でその成功をお支えしなければならない。

 降臨祭の祝宴はお庭もその視野に入るのでミスタ・ドラクロワにしてみれば日頃の成果の発表会みたいなものだし、食べ物や飲み物を担当する執事のジェロームさんや料理長のマイヨールさんは言わずもがな、私たちメイド部隊もルームメイクやお掃除で公爵様に恥をかかせぬよう持てる技術を全力で発揮する。

 そう、これは杖によらない戦いなのだ。

 もちろん、日頃から手を抜いたりなんかしていないけど、慣れと言う甘えが出ていないか、今一度確認するという意味で作業が終わったエリアの確認にも熱が入る。

 

 シーツを敷き終わり、細かいところを今一度雑巾で確認拭きする。

 そこから5歩下がって全体を見直し、私は自分の仕事に納得した。廊下に出ると、ちょうどよくそこを歩いていたメイド長に報告する。

 

「3番の客間、終了です。確認お願いします」

 

「ご苦労様」

 

 管理用のボードを片手に室内に入り、周囲を見回すメイド長。緊張の一瞬だ。

 隅々まで見た後で、ポケットからコインを出してベッドの上に落とした。

 ピンと張られたシーツがコインをはじき返し、ようやくメイド長が口を開いた。

 

「いいでしょう。次に向かってください」

 

 よし、一発合格だ。

 

「了解です」

 

 ボードにチョークを走らせているメイド長を他所に用具を抱え、次の部屋を目指して廊下を進む。そんな私の隣にちょうどよく歩いてきたソフィーとシンシアが並んだ。

 

「進捗どう?」

 

 2人に聞くと、同時に頷いた。

 

「問題ない。私はあと2部屋だ」

 

「右に同じ」

 

 う、さすがに早いな。私はあと3部屋あるぞ。スピードを競うのがメイドの仕事じゃないけど、手際の良さというのはやはり求められるスキルだ。何しろヴァリエールのお屋敷は大きいのでお部屋の数ももの凄いだけに、のんびりやっている余裕はない。私もまだまだ修行が足りないらしい。

 

 私と並んで歩くソフィーだけど、先週、そんな彼女に関する慶事について報告があった。

 

 夜の居室で、久々に実家から届いたシャンパンを開けようとした時にその知らせはもたらされた。

 やや視線を泳がせながら、微かに赤みがさす顔でその驚くべき事実を告げたのはソフィーだった。聞かされた私とシンシアは目を丸くするしかない。あまりに唐突で話についていけなかったからだ。

 仕事が終わり、時間が出来た時に私たちの部屋に来たソフィーが告げたそれは、自身の婚約が決まったという報告だった。

 

「急な話ではあるのだが、私としては予想外というわけではないんだ」

 

「ほほー」

 

「詳しく聞かせてくれるんでしょう?」

 

 椅子に座るソフィーに、ぐっと身を乗り出して私とシンシアは問い詰める。抜け駆けした幸せ者をつるし上げる独身裁判みたいな雰囲気なように思えるのは気のせいにしておこう。

 

「実は、その許嫁というのは私の従兄でな」

 

 ソフィーの実家のカマルグ家は大きな家ではない。水の名門の分家のそのまた分家で、長女が行儀見習いに出る辺りからして判ることだけど財力もそんなすごい家ではないらしい。

 そんな彼女の家は、昔から仲が良い同じ分家と一緒にいろいろ事業をやったりしていたとのこと。本家の事業にも参画したりすることもあるみたいだけど、基本的に地元を大事にする土豪みたいな家なのだそうだ。

 ソフィーはそんな家の長女で、その仲が良い分家には数人の男兄弟がいるのだそうだ。家同士の交流があるから、当然だけどソフィーと従兄さんたちとは接点があって、しかもどの従兄さんからも非常に大事にしてもらっていたらしい。

 そんな中で、次男さんとソフィーは非常に仲が良く、周囲にも概ねそれを歓迎していたとのこと。

 そんな二人の事情を汲んだのか、次男さんの魔法学院への進学を機に両家の間で話がとんとん拍子で進んでいき、両者そっちのけで許嫁の縁組を決めたのだそうだ。

 

「何の知らせもなかったの?」

 

「ああ、全くな。気を回してくれたつもりなのかも知れないが、面映ゆくてかなわん」

 

 私の問いにソフィーは肩をすくめた。

 

「それで、ソフィーとしてはどうなの?」

 

「どうとは?」

 

「今の正直な感想よ」

 

 シンシアの言葉に、ソフィーの頬に更に朱が差す。この時点で彼女の気持ちは既に判っているけど、こういうことは直接口にしてもらった方がこちらとしても面白い。幸せ税の税率は高いのだ。

 

「私としては、ありがたいと思う」

 

 顔を赤らめながらもきっぱり言うところが彼女らしい。

 

「縁組については意見が言える立場ではないが、彼ならば私に異存はない」

 

「好きなんだ?」

 

「憎からず想ってきた殿方だ。私としては最良の伴侶だと思う。芯が強くて根が優しく、気の合う人物でな。むしろ私の方が彼に見合うかどうか」

 

「それは心配ないでしょう」

 

 私は頷いて断言した。

 愛嬌はちょっと少なめだけど、歳に似合わないほどしっかりした子だ。良妻賢母と言う視点では、友人の欲目を差し引いてもソフィー以上の優良物件はそうそうないと思う。

 

「そんなわけで、年季が開けたら実家に戻ることになるだろうが、あと2年ほどこちらにお世話になる」

 

 女性の人生の中でも、伴侶をどうするかについては最大の事件と言えると思う。それが上首尾に行くか行かないかで、人生の出来不出来が左右されるといっても過言ではないだろう。

 貴族様ともなると絡み合った様々なしがらみがあって、愛情なんてものはあまり重要な位置づけには置かれていないとも聞く。それはそれとして開き直れればいいのだろうけれど、やはり私も女の端くれ、できることなら相思相愛と言うものを応援したい。

 貴族であるがゆえに手に入れることが非常に難しい種類の幸せを友人が手にしたことは、私にとっても非常に喜ばしいことだ。

 

 

「では、健闘を祈る。ホールで会おう」

 

 おどけた仕草で、そんなソフィーが持ち場に向かっていく。

 

「ナミも頑張ってね」

 

 シンシアは反対側に向かって歩いて行った。

 さて、私も負けちゃいられない。

 

 

 

 

 

 

 降臨祭開幕の前日。

 おじいちゃんがよく『大みそか』と言っていた、1年の最後の日。

 その日は、お城は朝から一種独特な雰囲気に包まれる。

 他家では出仕している人の中にはこの時期に故郷に帰る人もいるそうだけど、ヴァリエール家は1年で最も忙しい日なだけにそういうお休みを取る人はいない。その分しっかりお手当が出るので、むしろ皆はそっちを喜んでいる気配もある。まあ、もらっても新年の飲み代に消えちゃう人も多いみたいだけど。

 

 

 降臨祭前夜の祝宴は、午後からのんびりと始まる。

 午前中の早い時間にはお城のメインホールは準備万端。こういう催しや舞踏会等で使われるお城最大の広さの空間は、塵ひとつないという表現が大げさじゃないほど手入れが行き届いている。調度の並びや食器の輝きも完璧。後はお料理と飲み物を並べるだけだ。

 

 お昼くらいになるとお客様の乗った豪華な馬車が何台も跳ね橋を渡り、正面の車回しにやってくる。ジャンたちフットマン部隊がてきぱきと対応しているのが窓から見えた。

 貴族様の間ではこういう宴に龍籠で乗り付けるのは時間に追われているようで品がないとされているとのことで、やってくるのはみんな馬車だ。確かに、先日の宮殿の園遊会でも公爵様は馬車でお出かけになって行ったっけ。

 馬車ももちろん豪華だけど、引っ張っている馬もみんなかっこいい。たてがみなんか丁寧に処理されているのが私でも判る。馬丁の腕の見せどころだ。

 

 そんな催しにおける私の仕事は、今回は配膳。前回はドアの開け閉めが担当だっただけに、正直すごく緊張している。

 クロークとか連絡要員のようにメイドたちもいろいろ仕事はあるけど、配膳はその中でもなかなか難しい仕事の一つだ。お料理をこぼさず、それでいて貴族の方々のお邪魔にならないようにテーブルにセットしなければならない。食べ終わったり飲み終わったりした食器を下げるのも仕事の内だ。

 でもこれはまだ楽な方で、お酒をトレーに載せて巡回するお仕事になるといよいよ上級の先輩方の出番。

 うっかりこぼし、そこに他家の貴族の方でもいたら下手したら打ち首ものなので、かかるプレッシャーも凄いだろう。いずれは私もああいうのをやる日が来るかもしれないと思うとちょっと気分が重くなってくる。

 

 昼下がりからぼちぼちと始まった宴席は、夕方になるに従って徐々に人数が増えてくる。

 午後5時の鐘の音を合図に、それまでのんびりとした当たり障りのない曲ばかりを演奏していた楽師の方々が、ここからが本番という感じに演奏を相応のものに切り替えた。

 宴席の本格的なスタートはここからだ。場の雰囲気も一気に華やかになってくる。

 こういう場では貴族様たちは昼と夜ではお召し物が変わるので、着替えの度にいったんお部屋にお戻りになって着替えられるので人の流れもひっきりなし。

 そんな感じに人の動きが激しくなる夕方にかけて、お料理もオードブルのようなものから本格的なものにシフトしていく。マイヨールさんたちが腕を振るっただけにすごい御馳走なのは言うまでもない。

 配膳担当はそんなお料理のプレートを抱えて、貴族様たちの間を影のように移動しなければならない。この辺の挙動もメイドの嗜みの一つだ。

 とは言え、流れで仕事をしているだけに、そこに置きたいのにそのテーブルの前で貴族様たちが歓談されていると非常に困ることになる。

 折悪く予定のテーブルの傍らで恰幅のいい貴族様がお二人で歓談中で、綺麗に盛られたフルーツの乗ったプレートを抱えたまま、私は目的地前で足踏みすることになった。

 どうしよう。お話盛り上がってるし、そこそこお酒も入っているようなので口も滑らかみたいだ。

 もちろん割って入ることは許されない。

 一旦厨房に戻ろうかしら、と、そんな感じに立ち往生しかけていた時だった。

 

「御無沙汰しております」

 

 若いけど、どこか渋い不思議な感じの声がして、歓談中の貴族様が振り向かれた。

 

「おお、ジャン=ジャック。久しいな」

 

 そこにいたのは、私も知っている16歳くらいの端正なお兄さんだった。

 ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド氏。

 ルイズお嬢様の婚約者とされている人で、ちょっと影がある感じが印象的だ。

 公爵様にも目をかけられているので、結構頻繁にお城に来られるお兄さん。

 その精悍なワルド卿を見る貴族様の表情が、曇ったものに変わった。

 

「聞いたぞ。父君のこと、残念に思う」

 

「いえ。これも武人の定めなれば、やむなきことでしょう。父も本懐であったと思います」

 

「そうか。何かあれば遠慮なく言ってくるがいい。力を貸そうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

「今後はどうする。領地に留まるのか?」

 

「いえ、魔法衛士隊の門を叩こうかと考えております」

 

 そんな感じにやり取りをしているワルド卿。そのおかげで自然と貴族様の立ち位置が変わって、私は何とかプレートを置くことができた。

 ワルド卿は私の方には視線を向けたりしないけど、もしかしたら助けてくれたのかもしれない。

 

 

 夜になると、さすがに御婦人方の気合の入り方が違ってくる。妍を競うという言葉があるけど、誰もがまるで蝶のように着飾っていて、その場にいるとまるでおとぎの国にいるような気分だ。

 黒いメイド服は何故黒いのかと言えば、それは『使用人は影のようにあるべし』ということらしい。私がああいう格好をしてあの場にいてもいいと言われても、私はきっと今の服の方が落ち着きを感じると思う。性格とか生まれとかあるけど、ああやって女性生来の資質を競うということに、どうしても私は馴染めない気がする。花瓶に丁寧に飾られた花より、何気なく道端に咲く花のほうが私は好きだ。きっとそれが、私のあり方なんじゃないかと思う。

 何より、社交界と言うのは私たち平民にしてみれば雲の上の世界だ。

 貴族の方々が集い、お酒やお料理を楽しみながらいろいろなお話をされる一見賑やかで平和な空間だけど、そこでは本当にいろいろなことが起こる。

 飛び交う噂。

 交差する値踏みの視線。

 恋が生まれたり、思わぬ事実が明らかになったり、稀にはそこで生じた諍いが戦争に発展したりもするんだとか。

 貴族の男の人はそんな政治的なゲームを楽しみ、女の人は蝶のように着飾って美を競う。

 何とも大人の世界だ。私が入り込んだら気づまりで倒れてしまいそうな気がする。

 

 

 

 お料理の減り具合が落ち着き、飲み物の消費量も一段落した頃の事。

 空いた器を下膳しよう思っていた時、ちょいちょいと弱い力で背中を突かれて振り向いた。

 

「ちょっといい?」

 

 そこにいたのはカトレアお嬢様だった。

 おお!と叫びそうになったのを必死に堪えつつ、返事も忘れて見惚れてしまった。

 美しい。

 ドレスアップされたカトレアお嬢様は、反則だ。

 私たちの年頃は、子供というには大人びていて、大人というにはまだ子供という微妙なあたり。

 そんな年頃のカトレアお嬢様の青く瑞々しい美しさをこれでもかと引き出すお召し物、そしてそれを見事に着こなすカトレアお嬢様の前では、着飾った他の貴婦人が霞んで見える。

 肩に纏ったストールが、まるで妖精の薄物のようだ。

 素材がいいからできることだけど、ドレスを選んだ先輩は本当にカトレアお嬢様のことを理解していると思う。見事の一言だ。

 

 何があったのか、そんなカトレアお嬢様に少し離れたところに連れて行かれると、人の耳がないことを確認してからお嬢様は声を落として仰った。

 

「ルイズを見なかった?」

 

「いえ」

 

 その質問には、首を振らざるを得ない。

 この1時間は目が回るような忙しさで、こっちもいっぱいいっぱいだっただけにルイズお嬢様がどうであったかまでは覚えていない。

 

「そう……」

 

 そう言って俯くカトレアお嬢様の表情は冴えない。朗らかな彼女にしては珍しいことだ。

 

「あの」

 

 差し出がましいとは思ったけど、ここは訊いた方がいいと思った。

 

「何かあったのでしょうか?」

 

 意を決して尋ねてみると、カトレアお嬢様は言葉を探すように口を開いた。

 

「さっきあっちの方でね、ちょっと嫌な雰囲気になっちゃったの」

 

「と、申されますと?」

 

「ちょっとお酒が過ぎたお客様が、口を滑らせてしまったみたいなのよ。お付の方々がお部屋にお連れしたからもう大丈夫なんだけど、その場にあの子もいたのよ」

 

「あの、もしかして……」

 

 はっきりとは口に出しづらい言葉をどう言おうか悩んでいると、カトレアお嬢様は私の意を酌んでくれたように頷かれた。

 

「ルイズの魔法のことよ」

 

 

 

 

 

 夜も更けて、宴も後半。

 大ホールの大きな柱時計が、そろそろ新年を告げる時刻を指し示そうかという時間のこと。

 仕事の波が落ち着き始めたのを見計らい、私はメイド長に許可を得てルイズお嬢様を探すために会場を離れた。

 行き先は中庭だ。

 慣れた夜道を歩きながら、自分の中の黒い感情を必死に押さえつける。

 

『ルイズのこと、お願いできないかしら』

 

 こういうことを頼まれることは稀なことではないし、私としても望むところだ。

 でも、そういう積み重ねがあるだけに、私の中には既にルイズお嬢様に対する感情移入と言ってもいいほど浅からぬ思い入れがある。

 ルイズお嬢様は、魔法がお上手ではない。

 それは年齢を重ねるごとに噂となって社交界に広まっている。

 そして、そういうことをこういう場で陰に陽に口にする人がいることも、悲しいけど事実だ。しかもその頻度が、最近高くなってきているような気がする。

 その度に、私はこの黒い感情を押さえつけるのに苦労することになる。

『貴族は魔法をもってして精神をなす』と貴族様方は仰る。魔法は貴族様にとってそれくらい重要なものだということは判る。そういう意味では魔法が不得手なルイズお嬢様を軽んずる人が出てくることも想像できなくもない。

 だが、陰口を叩いたり放言したりする人は、ルイズお嬢様の何を知っているというのだろうか。

 ルイズお嬢様の天真爛漫な人柄も、日頃の血のにじむような頑張りも、何も判っていないのだろう。それなのに。

 その事が我が事のように、いや、それ以上に悔しくて仕方がなかった。

 

 

 程なく到着した、中庭の池。

 岸辺に着いた時、いつもは岸辺に停まっているはずの小舟が、沖合に漕ぎ出されていた。

 青白い月明かりの下で見えるのは、船の上の2つの人影。

 一人は先程見たワルド卿。

 そしてもうお一人、艫の方におられるのはルイズお嬢様だ。

 私が出張るまでもなく、彼がルイズお嬢様の心情をフォローしてくれたのだろうか。

 

 風もなく、冬の水面は鏡のように凪いでいた。

 そのボートの上の会話が、凛とした冬の冷気に乗って聞こえてきた。

 

「大丈夫ですよ、ワルド様」

 

 カトレアお嬢様から伺ったお話からは連想しづらいくらい朗らかな、いつも通りに元気なルイズお嬢様の声だった。

 

「本当に大丈夫なのかな。ああいうことをあけすけに言われて」

 

 ワルド卿の言葉に、ルイズお嬢様は首を振られた。

 

「気にしていません。言いたい方には、言わせておけばいいんです」

 

 あっけらかんと言い切るルイズお嬢様。

 そんな歳に似合わぬ大人びたルイズお嬢様の言葉に、ワルド卿が呆気にとられていた。

 

「ルイズ……君は、強いんだね」

 

 でも、そう褒めたワルド卿に、ルイズお嬢様は今一度首を振られる。

 

「違いますよ、ワルド様。強いんじゃありません。強くなる、途中なんです」

 

 そう言いながら、小舟の上でルイズお嬢様は夜空を見上げられた。月光に、ルイズお嬢様の白いドレスと艶やかな髪が青く映えた。

 

「ねえワルド様、こういうお話を御存知ですか?」

 

 そう前置きして、ルイズお嬢様は静かに語り出した。

 まるで英雄譚を語る語り部のように、厳かに。

 

「ある春に、アヒルが生んだ多くの雛の中に、一羽だけすごくみにくい雛がいたそうです。その雛はみにくいので、すごく周りにいじめられてしまいました。たまらなくなって群れを逃げ出しますが、みにくいので行く先々でもやっぱりいじめられてしまうんです」

 

 語られたのは、みにくいアヒルの雛の寓話。

 私が幾度となくルイズお嬢様に求められて、お話したものだった。

 それをルイズお嬢様が静かに、でも力強く吟じられている。

 

「そうして秋が過ぎて、冬になって、一人ぼっちで葦の繁みで寒さをしのぎながら春を待ちました。そして春が来た時、みにくい雛は、美しい白鳥になったんですって」

 

 自分の気持ちをなだめるように、一言一言を大切なもののように、静かにルイズお嬢様は語られた。歌うように、誇らしげに。

 語り終えたルイズお嬢様は、視線をワルド卿に据えて仰った。

 

「誰だって、最初から強い人はいないと思います。つらいことだって、私だけじゃなくて誰にでもあることだと思います。今は私はまだ子供だし、決して強くはありません。でも、そんな弱い子供だから、強くなるために頑張るんです。嫌なことがあっても、我慢するんです。今はまだアヒルの雛にすぎませんけど、いつか白鳥になりたいと思うんです」

 

 その刹那、私はそこに見えざる何かを見た気がした。

 もしかしたら、それは神意と言うものだったのかも知れない。

 見えたと思ったものは、その時に心のどこかで感じたものは、恐らくそういう類のものだ。

 

「もしかしたら、父さまや母さまみたいな立派なメイジにはなれないかも知れません。ちい姉さまを治してあげられるようになるのにも、もっともっと勉強しなくちゃいけないと思います。でも、諦めちゃダメなんです。それを目指して頑張るんです。誰に何を言われようと、それが私、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの目標なんだと、胸を張っていようと思うんです。だから今の私は、強くなる途中なんです」

 

 静かな、でも高らかな宣言。

 ルイズお嬢様が月に捧げた誓詞のようなその言葉を聞いた時、コトリと、私の中で何かが嵌った音がした。

 その時は、判らなかった。

 気づいたのは、ずっと後になってからのこと。

 それは、まだ幼く、しかし気高い公爵家のお姫様が、私の中で最も大切なものの一つに昇華された音だった。

 

 この小さな姫君と共にあること。

 この気高い貴婦人を終の主としてお仕えしていくこと。

 そして、それが私の人生の容なのだということ。

 それらの思いが、玲瓏な意思となって自分の中にあることが判る。

 

 ブリミル歴6233年。

 

 冬の淡い月明かりの下で、彼方で鳴る鐘の音が新たな1年の始まりを告げたその時、私は静かに思った。

 

 私は、私の人生を見つけられたのだと。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は砂時計のように穏やかに、粛々と流れていく。

 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そしてまた春が来て。

 移ろう季節の中で、私の周囲もまた、少しずつ変わっていった。

 

 年季が明けたソフィーは、照れくさそうに笑いながら故郷に帰って行った。程なく結婚式が行われた旨の手紙が届き、翌年に男の子を生んだ知らせが届いた。その翌年にはまた男子。更にその翌年にまた男子が生まれたとのことで、円満な夫婦仲を羨むよりもどこまで続くのかが心配になってきたりもした。旦那さんが男系の一族なことを素直に継承したのか男子ばかりを生む彼女を一族は褒めちぎっているようだけど、当人は女の子も欲しいらしい。

 

 ミリアム女史は結婚後もしばらく仕事を続けた後で穏やかに引退、今は若奥さんとして家に入っている。困ったときはたまに相談に行ったりもする。既に男の子が1人おり、2人目も間もなくとのことだけど、どうやら怪しげな執筆活動も順調に継続中らしい。公爵家の後援で祝言を上げた旦那さんとの仲は言うまでもなく非常に良好。彼は彼で御城下にアトリエを兼ねた住まいを構えて、順調に絵描きさんとしての社会的な評価を上げているそうだ。

 

 お父さんとお母さんは至って変わらず。弟は無事に生まれて母子ともに健康だ。

 命名、ルカ。ルカが生まれてからと言うもの、お母さんがルカにかかりきりでお父さんはちょっとご機嫌ななめ。帰省した時に抱っこした弟は、身内の贔屓目を差し引いてもなかなかの男前だ。お父さんに似たんだと思う。片言で言われた「おねーたん」の破壊力にはさすがにクラッと来た。お店のおじさんたちも、みんな元気でお仕事を頑張っている。

 お店のことについては、帰省して一度話し合った。

『大丈夫だよ。お前が生きたいように生きなさい。お店の事は心配いらない。今はルカもいてくれるしね』

 お父さんはそう言って笑ってくれた。

 お母さんは黙して語らず。ただ優しく微笑むだけだった。

 本当にごめんなさい。

 

 厨房組ではジャンヌが割とあっさり嫁に行ってしまったのだけど、どういう小技を使ったのか、かっさらっていったのはジャンだった。期待の若手の成長株を持って行かれてしばらくミスタ・マイヨールが非常に荒れていたので事後処理はちゃんとしてもらいたかったと思う。

 

 ミスタ・ドラクロワは80歳になった時に暇乞いをして隠居した。ご家族に囲まれて暮らしており、御城下の家の片隅に小さな薔薇園を育てて楽しんでいる。たまに遊びに行くと、相変わらずいろんなおやつをご馳走してくれる。

 

 ジャンはジャンヌを連れて故郷のタルブに帰って実家の家業を継ぎ、葡萄酒を造っている。流通にあたっては私の実家と取引を始めたと報告があった。たまに今年の新作と言って送ってきてくれるので、夜にシンシアと開けるのが密かな楽しみになっている。

 

 ヴァネッサ女史は相変わらず。と言うより見た目も性格も妖怪のように変化がない。これほどまでに季節の移ろいに影響されない人が他にいるだろうか。『あなたもようやく少しはマシになって来たようですね』とお褒めの言葉をいただくことがあるけど、これは彼女が老いたのか私の腕が本当に上がったのか判断が難しい。

 

 エレオノールお嬢様は、学院を卒業後アカデミーに進まれた。非常に優秀な方なのでお国のためにも大いにその腕を振るっていただきたいと思うのだが、縁談については残念な記録を更新中。お嬢様の審査のハードルでは、ちょっとやそっとのことではクリアできる殿方は現れないのではないのだろうか。月に一度は手紙を書いているのだけど、もっと頻繁にルイズお嬢様やカトレアお嬢様の様子を書いて寄越すようにと催促されている。この方も幾つになっても変わらないと思う。素敵なお姉さんだ。

 

 変わらないと言えばカトレアお嬢様も変わらない。お体が弱いことが変わらないのは残念だけど、それにもめげない彼女のバイタリティは落ち着くことを知らないようだ。迷い込んだ動物や鳥を拾って歩いているせいか、お部屋はだんだん動物の王国みたいになって来ている。たまにお呼び出しを受けて無聊の慰みに何か話すようにと申しつけられるけど、さすがに怖い話のネタも尽きてきて困っているので、そろそろ最後の切り札として『赤い洗面鉢』のお話をしようかと思っている。

 

 

 

 

 

 

 そしてまた、巡り来る春。

 

 その日の朝、私たちは玄関ホールに一斉に整列し、お見送りの隊列を作った。

 晴れてこの春、ルイズお嬢様はトリステイン魔法学院に御入学される。

 初めての外での暮らし。使用人を侍らせることは許されていないので、本当に自立するための就学とも言えるかも知れない。

 そんな私たちの間を、胸を張って堂々と歩かれるルイズお嬢様。

 

「いってらっしゃいませ、ルイズお嬢様」

 

 メイド長を引き継いだエレナ先輩の言葉を合図に、使用人は一斉に首を垂れる。

 

「いってらっしゃいませ、ルイズお嬢様」

 

 幾つもの声が重なり、ルイズお嬢様の門出の場に大きく響いた。

 車回しには、公爵家の家紋が入った豪勢な馬車が既に待機している。

 学院の道程、何事もなく着きますように、と祈っていたら、馬車に乗りこもうとしたルイズお嬢様が急に踵を返された。

 何事かと思ったら、そのままつかつかと玄関ホールに引き返してきて、真っ直ぐに私の前まで歩いて来られた。

 

「ナミ」

 

 まだ私より小さいながらも、すっかり立派な女性に成長されたルイズお嬢様。

 体つきは華奢ながら、背も手足も綺麗にお伸びになっている。奥方様譲りのストロベリーブロンドも、よく手入れされていて艶やかで美しい。どこから見ても立派な淑女だ。

 でも、この眼差しの強さと優しさは、子供の頃のルイズお嬢様のままだ。

 あの頃と変わらない、いや、あの頃よりも更に輝きを増した宝石のような瞳。

 

「はい、何でございましょう」

 

 そう答える私に、自信に満ち溢れた笑顔でルイズお嬢様は仰った。

 

「見てなさい、白鳥になって帰って来るからね」

 

 そのお言葉に、頬が思わず緩んだ。

 

「はい、お帰りをお待ちしております」

 

 私の答えに満足されたように、不敵な笑みを浮かべるルイズお嬢様。 

 

「行ってくるわ」

 

 そう言ってルイズお嬢様は再び馬車に向い、勢いよく乗り込むと、程なく馬車ががらがらと音を立てて走り出した。

 駿馬数頭立ての馬車は快足を飛ばしてあっという間に跳ね橋を渡り、彼方の森の中に見えなくなって行った。

 

 

「行ってしまったわね」

 

 隣に立つシンシアが、小さな声で呟いた。

 この十年で、私の周囲で一番変わったのはこの子だ。

 身長と共に手足がすらりと伸び、そばかすも薄くなった。顔立ちは凛と美しく、唇は朱を指したように赤い。

 もともと素養のあったボディラインは、もはや神の造形の領域に入りつつある見事さだ。

 私を置き去りに、道を往けば皆が振り返るような美女になってしまったシンシア。

 でも縁遠い点では私と一緒だ。シンシアがその気になったらどうにでもできるんだろうけど、まだまだお仕事が楽しいらしい。今は奥方様付きの専属メイドに出世して、磨き抜いたメイドとしての腕を振るっている。

 

「寂しくなるわね」

 

 頷いて呟くと、ちょっとだけ悪戯っぽい顔でシンシアが言う。

 

「心配?」

 

 そんなシンシアの質問に、私は首を振った。

 

「まさか。ルイズお嬢様なら、全校生徒を率いて大きなことを始めても不思議じゃないくらいだもの」

 

「それはあり得そう」

 

「でしょ?」

 

 答えながら、私はおじいちゃんが言っていたルイズお嬢様に対する言葉を思い出していた。

 

 『ヴァリエール公爵様の三女はすごいお方になるぞ。いつか必ずこの国を救うお方になるからな』 

 

 あの頃は何のことかと首を捻るしかなかったけれど、今のルイズお嬢様を見ていると、本当にそれくらいの事はやってのけそうなエネルギーを感じる。

 でも、どうやっておじいちゃんはそういうことを知ったのだろう。

 いくら考えても、その答えは見つからないままだ。

 

 

 

「みんなご苦労様。通常の配置に戻ってください」

 

 エレナ先輩の指示に従い、それぞれが持ち場に散っていく。

 移動は早いが、無駄な足音を立てるメイドは一人もいない。スカートの裾を揺らす者もいない。

 ヴァリエール家のメイドの伝統は、今なお健在だ。

 

「ナミ先輩」

 

 不意に袖を引かれ、見れば後輩3人が半ズボン姿で掃除用具を抱えていた。入って2年目の子たちだ。この年頃の女の子の半ズボン姿と言うのは、傍から見るととても可愛いと思う。

 胸に輝くのは、マントを象ったブローチ。

 まだちょっと似合っていないそのブローチが、やけに眩しく見えた。

 今の私は、エレナ先輩の脇を固めるメイド長補佐。

 名目上、この子たちは私の可愛い部下だ。

 

「ここのシャンデリアの掃除の順番なんですけど、外周からやった方がいいんでしょうか」

 

「そうね、基本的にそれでいいけど、ランプを外すのにちょっとしたコツがあるのよ。ちょっと着替えてくるから待ってなさい。お手本見せてあげる」

 

 

 今日もまた、そんな穏やかな一日が過ぎていく。

 

 

 

 巡る季節の中で、少しずつ移ろう様々な何か。

 

 止まることを知らない万象の流れの中の、人と人の間。

 

 そこは、友だちがいて、仲間がいて、ちょっとお転婆さんな姫君たちもいて。

 お互いがお互いを支え合うことを知っている、そんな人達がいる場所。

 

 そこが私と、私の心の居場所。

 私が、そこで時を刻んでいくと決めた場所だ。

 

 そこでこれからも静かに、そして穏やかに、誇り高い公爵家の方々と、賑々しくも頼もしい私に係る皆の幸せを祈っていこうと思う。

 

 

 風と水と緑が溢れるヴァリエール地方の、その中央に聳える白亜のお城。

 

 

 

 

 

 そんな公爵家の片隅で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公爵家の片隅で 完


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