ウマ娘 Meteor Oscillates Between 作:別れました
初の重賞、G3マーメイドステークス。
阪神レース場の天気は快晴。バ場は前日から未明にかけての雨の影響もあり、稍重と発表された。稍重のバ場でどう走るか、それだけを考えるべきなのは頭ではわかっていた。
しかし、初めての重賞、阪神競馬場までの新幹線の匂いからくる酔い、イクシーとのこと、それらひとつひとつが調子を狂わせるのに十分なものだった。
思考が纏まらないまま、時間のみが進む。時間の経過はやり場のない感情を焦りへと成長させていく。焦りは冷静さだけを正確に削ぎ落していった。
控室にある時計、その秒を刻む音が何かの足音に聞こえてくる。段々と近づいてくる音の主は影として私の前に現れた。私にしか見えない黒い靄で覆われた影は、こちらを見て何かを言っている。
わたしは貴方じゃない。貴方はわたしになれない。 影はそう言って消えた。
間もなくアナウンスが鳴って私はパドックへと向かった。控室からパドックに着くまでの間、私は影の言葉を反芻していた。あの言葉の意味は何なのだろうか。少なくとも良い意味ではないだろうことは予想がつく。
パドックにて枠順に行われるアピールも後半に差し掛かっている。私は緊張からくる吐き気を堪えながらステージに上がった。好奇の目にさらされるこの場でミスをする訳にはいかない、けれど笑顔を作る余裕もなかった。
時折、パドックへ向けられるレンズから刺し込まれる太陽が酷く不快に感じた。
その怒りは太陽に向けてなのかカメラマンへ向けてなのか、それともカメラへ向けてなのか、そのすべてか、或いは他か。そんなものはなんだっていい。持ち合わせている不安をぶつける相手が欲しかった。
ふと、マチルダとの会話が記憶の中を走り抜ける。マチルダは強くなるのだと言っていた。あの時、私が自身の言葉に違和感を覚えた理由が今になってようやく理解できた。マチルダが強くなる必要などなかったのではないか。
彼女の決意を否定したい訳ではない。もし、ひとりひとりが彼女に一欠片ずつの悪意を向けなければ決意をする必要さえなかったんじゃないか。
1つのダイヤモンドを磨く、ただそれだけの為に多くのダイヤモンドを消費する。そこに競技性を見出した人間にも、娯楽として享受し消費する人間にも、嫌気がさした。
全て終わってしまえばいいのに。
日ごろは何とも思わない体操着が今日はやけに重く感じる。
いつもより濃い空の青、太陽が地面を暖めて蒸し暑い。ゲートの中は影になっていて身体の芯はひんやりと寒い。
狭く息苦しいゲートが一斉に開く。
練習の成果もあって位置取りは順調に進み、前から4番目の好位置に着いた。しばらく様子見をしていると、2ハロンに差し掛かる位置で異常に気が付いた。あまりにも疲れが早い。ここでようやく先頭がハイペースであることに気が付いた。
付いていくことで頭がいっぱいだった私はまんまと引っ掛かり、ペース配分など考えもせずに濡れたバ場と坂に多くの体力を使っていた。
第1、第2コーナー、向正面としばらく平坦なコースが続く。最後の坂に備えることを意識するとこれ以上の加速も出来ない。集団から離れないペースで走ろうとしたが、後団の追い上げもあり、そのままじりじりと順位を下げていき第4コーナーに入るころには7位になっていた。
第4コーナーを抜けて直線に入る。次第に大きくなる歓声が私の背中を押す。ここで加速できれば巻き返せる距離だ。幸い、他の選手も外に広がっていて内ラチ側の直線が空いていた。
行ける。
ラストスパートをかけようとしたその時、靄に包まれた影が現れた。
貴方はわたしになれない。
影は私の走りを邪魔するように視界に現れる。それを無視して走り続けるも脚の回転を上げられないまま溺れるように必死に走った。
身体の重さだけではない。踏み込んでも上手く反発しない。下を見ると前の選手達の走った跡が作り出したぬかるみに足をとられていた。
一周1600mの阪神レース場。マーメイドステークスは2000m。
つまり、最後の400mは最初に位置を争った場所なのである。
失念などではない。今初めてそれを知った。他の選手が最終コーナー後に外側に広がったように見えたのはコースの被りを避けたのではない。状態の悪いバ場を嫌っての行動だったのだ。コース選びには知識と経験の差が出る。
今から誰も踏んでいない外側まで移動するにはリスクが大きすぎる。歓声によって足音が掻き消された状態で外側に出るのは後ろの選手の進路妨害にもなりうる。このまま走る他ない。
荒れたバ場の影響を抑えるため、他の選手の踏み込みが少ない部分を探して蹴り上げた。まばらな歩幅ゆえにフォームはぐちゃぐちゃで、とても見せられたものではない。
視界に入る選手の数がどんどん増えていく。私はゆっくりと沈んでいき泡となって消えた。ゴール板を通過したのは13番目だった。
「あはははっ……」
涙よりも先に自虐的な笑いが出る。もう少しマシな結果を出せるという楽観的な想像は見事なまでに打ち砕かれた。
ライブ終わりの更衣室で、トレーナーへ着替えが長引くと嘘の連絡を入れた後、ロッカーの前でうずくまって泣いた。レースで負けた悔しさもあったが、それはきっと引き金に過ぎない。積もりに積もった感情が大粒の涙となってなだれていった。
お気に入り等ありがとうございます。
次回更新は10月11日までに体調が治れば11日、治らなければ18日とさせていただきます。