ウマ娘 Meteor Oscillates Between 作:別れました
希望、特になし。バ場や距離の項目にそう書かれてあった。
自分が担当するウマ娘には、一応希望のバ場や距離を聞くようにしている。
実際、希望と適性の一致は決して多くはない。それでも聞こうとするのは、彼女たちの為か、自分の為か、あるいはその両方か。
なんでもいい。
よく口走ってしまう言葉。
別段、気を遣って発する訳ではなく、自分としては本当になんでも良いのだ。実はひそかなこだわりがあって相手がそれに気付いてくれるか試している。なんてことはない。本当になんでも良い。というよりは何かに執着するほどの拘りがなかったのかもしれない。
トレーナーは昔付き合っていた相手によく指摘された記憶がふと蘇って少し反省した。
何かがある筈だ。と言いたくもなるが、それを言える立場でないということは重々承知している。だけどその上で、なんでもいいを見極めなくてはならなかった。こういうものは他人に案を出されて初めて自覚的になることも少なくない。
聞き方を変えてみようと、出たい大会はあるかとか、憧れの選手はいるのかとか、幾つかの方法でアプローチしてみたものの、音として返って来ることも、空の色をした長い髪がなびくこともなかった。琥珀色の双眸は物の価値を見定めるかのようにこちらをじっとみつめている。
コミュニケーションというより尋問に近いこれは時の流れを引き延ばす。
十代半ばのウマ娘とは昔から関わることが多いトレーナーではあったが、これといったテンプレートのような正解が存在するわけでもない。ただなんとなく傾向はある。憧れのウマ娘がいるだとか特定地域や地元への恩返しなどが割合の半分を占める。残りはとんとん拍子でここまで来たとか、なんとなくでやっているなどの理由もあるのだが大抵続かない。前者の半分だって大人が理由を聞きたがるからそう答えただけの子もいて純粋な比較は難しい。
しばらくの沈黙を遮るように響いた声は彼女の腹の虫だった。もう12時が過ぎようとしているので無理もない。
いい時間だしお昼にしようと言うと、赤面する彼女の耳が僅かに動き、はいと小さな返事が聞こえる。この空気から逃げ出したかったトレーナーからすると非常にありがたかった。
◇
2人はちょっとした世間話をしながら、近くの雑居ビルの一階にあるラーメン屋へと向かう。
春も中頃だと言うのに、それにふさわしくない冷たい風が頬に当たる。
何かが起こる時というのは、決まって記憶に残りやすい環境になっているものだ。
むしろその逆で何かが起きた日の天気や空気を鮮明に記憶しているだけなのかもしれない。ちょうどあの日もこんな風が吹いていて、時折、雲が日差しを遮っていたとトレーナーは思いにふける。
寂れた雑居ビルの中にあるラーメン屋は10人入れるかどうかといった広さで、カウンター席のスツールは座面が少し破けて黄色いスポンジが露わになっている。
「コンビ結成記念ってことで好きなだけ食べていいよ」
テーブル席に座り、2人は醤油ラーメンのセットを頼む。
外が寒いせいか、今日は一段と温かいスープが身体に染み渡る。とろとろのチャーシューを頬張り、麺を啜る。この一瞬だけは全てを忘れられる気がした。
「ここのラーメン屋さん、トレーナーさんはよく来るんですか?」
「うん、週2か3で。前に担当してた子に教えて貰ってね」
「その子、結構食べるタイプでした?」
「あぁ…なんでわかるの?」
「う〜ん…勘?ですかね?」
「勘かぁ…大切かもね、勘も」
その後も、前の担当の話やトレセン周辺の話、地元の話といった他愛のない会話をして店を後にする。帰り際に見た会計伝票に書かれた数字にトレーナーは驚きを隠せなかった。
店を出て少し歩いたところで2人は信号につかまる。この赤い色は普段なら煩わしいとさえ感じるが、帰ってからもう一度あの空間を体験するのかと思うとありがたかった。もっとも、時間稼ぎにもならないような微かな時間であることに変わりはない。
戻ったら何を言おうか、いっそ走らせて適性を見るべきなのか、逡巡していると彼女が口を開く。
「私、決めました」
隣を歩く彼女は、空を見つめて静かに、けれど力強く呟いた。
1拍置いて瞳だけをこちらへと向ける。
「芝の中距離」
その一瞬、全ての存在が霞んで見えた。
信号機の音、車の排気ガスの匂い、彼女の吐くうっすらと白い息。思い出したかのように日常がどっと押し寄せる。
呆気にとられていると、彼女は慌てて「に、します」と付け加えた。
「信号!青になってますよ!」
「……あぁ、今行く」
何かが起こる時というのは、決まって———
「戻ったら練習メニュー組まないとね」
「はい!」
2人は来た時よりも気持ち早足にトレセン学園へと向かって歩いた。