ウマ娘 Meteor Oscillates Between 作:別れました
練習が始まって2週間と少し。今日はランニングマシンを使ったトレーニングだった。
「このランニングマシン、白い線を引いておいたから、そこを踏むことを意識して走って。横断歩道と同じで白いところ以外踏んだら落ちて死ぬから」
「……はい…」
たまにトレーナーは意味のわからない事を言う。そういう時は反射的に返事をしてしまうけど、後になって、もしかするとアレは突っ込んだり笑ったりするべきだったのかもしれないと考えてしまう。
「おつかれ、今日はこれで終わり」
時計の長針は半分しか回っていない。まだ走れると伝えてもやんわりと断られる。
思い返せば今日に至るまで一度もトレーナーの前でちゃんと走ったことがない。
もしかすると基礎練習を見て私がどんなウマ娘かを知ってしまったのかもしれない。
聞き分けの悪い奴だと思われてしまうと、契約が無くなる可能性もあるのでしつこく言うつもりもなかった。
私は結局、選ばれる側に過ぎないのだ。
◇
寮へ帰った後もずっと思考に囚われ続ける。考え始めると忽ち不安が夜を蝕んだ。
気が付くとカーテンの色が朝日でほんのりと明るくなっていた。太陽に慈悲はなく、降り注ぐ光は鉄のように冷たい。
ろくに眠れないまま、朝を迎えてしまう。
誰かが押さえ付けているかと思うほど廊下へ続く扉が重い。廊下へ出ると今度は吐き気に襲われる。身体が拒絶しているのをひしひしと感じる。
この学園に来て暫くはこんな調子だったことを今の今までなぜ忘れていたのだろう。
授業なんて全く耳に入らない。西から東へと音の流れる空間に、みんなが同じ向きで座って、シャーペンの芯をカリカリと削る。この奇妙な空間で数時間をぼうっと消費した。
放課後、重たい脚でトレーナーのいるプレハブ小屋へと向かう。なにを言われるか、なんと言おうかずっと考えていた。考えたものの結局思いつかずにここまで来た。
正直トレーナーの顔を見ずに帰りたかったけれど、今まで真面目を売りにしてきたせいでサボり方がわからなかった。
小屋の扉を少し開けてそっと覗こうとしたが、立て付けの悪い扉はそれを許さない。キィィと鳴る高めの音を聞き逃さなかったトレーナーとわずかな隙間を通して目が合ってしまう。
「いや入りなよ」
10秒に満たない睨み合いの末にトレーナーは困惑しながら言った。
中に入るとトレーナーは何かを企んでいるような笑みを浮かべて、こちらにスマホを差し出す。
「見てこれ、自分の姿勢をリアルタイムで確認出来るアプリ。昨日の練習見てたら思い付いて作って貰ったんだけど…………実はまだ完成してなくて…明日までには完成すると思うから、悪いけど今日は部屋でストレッチだけしといてくれる?埋め合わせは…そうだなぁ…何でも1つ言うことを聞いてあげる…とかでどう?」
随分と楽しそうに話す感じからしてこの話は本当なのだろう。ならば昨日そうだと言ってくれたら、こんなに不安にならなかったのに。と言いたくはあるが勝手に杞憂して怒り出せるほど自分勝手にはなれそうもない。
杞憂はだいたい的中せずに終わる。そんなことはわかっている。それでも考えずにはいられないのが私なのだ。
「じゃあ、してほしいこと…考えておきますね」
「うん、また明日」
どうやらまだ明日はあるらしい。
困惑と安堵からか、隠していた疲れと眠気が押し寄せる。
鏡が見たい。闇鍋にコクを求めるほどの度胸などなく、存在するのはほんの少しの恐怖と好奇心だけであった。
プレハブ小屋をあとにしてふらつく足で寮へと向かう。寮へ着くまでの間、まとまらない思考でトレーナーの発言を反芻していた。
何でも1つ言うことを聞いてあげる。一生に一度のお願いのようなある種のお約束のような意味合いなのだろうか。
それとも本当に何かを叶えてくれるのだとしたら……私は何を願うのだろう。
ぼやぼやと考えながら自室へ辿り着くと、昨日から張りっぱなしの糸が切れたかのごとく部屋の入り口で倒れるようにして眠った。珍しく夢を見ない夜だった。