法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
殺したはずだった。
頭の開いた、というリグラーダの言葉を、もう一度理解する。
不意打ちが利かない。
あの女魔法使いに不意などない。常に絶え間なく脳が覚醒している。
とても深く集中している時、周囲の動きが異様なほどよく見え、先読みさえできるような感覚がある。
あれを四六時中続けることができれば理想的だが、そんなことは人間には不可能。
女魔法使いビッテスはそれをしている。頭がおかしい、狂人。
集落廃墟近くで隠れて様子を見ていたが、ゼラの目に仕掛けるタイミングが全く見つけられなかった。
何をしても当たるイメージがない。
今思えばリグラーダも同じだったのだろう。殺せるイメージが全くなかった。
リグラーダの不意打ちのダガーを躱し、近距離で放たれた短矢を握り潰したのを見て理解した。
ゆるみきった表情を浮かべながら、死合いの最中の剣聖のごとき異常な集中力。
それが常時。四六時中。頭がおかしい狂人。化け物。
まともに戦って殺せる生き物ではない。
消耗戦……何度も魔法を使わせてすり減らせば殺せるだろうが、そんな手数を用意できない。
その前にこちらが潰され、数を減らされ、届かない。
ただの院仕隊の副長というのではない。ファニアが言っていたようにエクピキ教団の私兵影潰しのメンバー。おそらくは幹部級。
エクピキを狂信する暗殺者。
噂だけならゼラも聞いている。神の寵愛を受けた戦士のように言う話もあった。
エクピキの治癒はまさに神の奇跡。およそ助からないような傷でも癒すと聞く。貴族でも傾倒する者は少なくないし、寄付も多い。
金が集まれば人も集まる。またさらに金が動く。肥大化していく金の亡者の集団。
ただ金銭欲だけで成り立っているわけでもない。治癒の奇跡で救われた者がまた忠実な信徒となって信仰を広げていく。
集落でジルボンの治癒を受けた者も言っていた。
傷は痛いのだけれど、治癒の光は奇妙な悦楽をもたらすと。母猫に傷を舐められる子猫のよう、とも。
ザイドロスの傷を、ビッテスが舐めた。
これだと思った。
彼女はエクピキの狂った信徒。神の寵愛に酔う狂信者。ビッテスが大事と思うものがそこにある。
ザイドロスを巻き込む位置から、凶悪な魔法を放った。
避けられない。ビッテスはゼラの思惑通りに砂礫の竜巻に飲まれ絶命した。はずだった。
頭が開いた女。
仮に肉体が無事でも痛みと衝撃で心臓が止まるはず。筋肉が痙攣して呼吸もできないはず。
ザイドロスを背中に庇い、体を千切られながら治癒を受けて。
肉を摩り下ろされる中でも、あの狂った女は悦楽に身を任せていたのか。
ゼラの……およそまともな人間の思考を超えた生き物なのだと、遅れて理解する。
信仰に狂った女魔法使い。星光のビッテス。
あの女、生と死の狭間で悦楽の頂に達していたのか。そんな話、昔の魔法書で読んだことがあった。
◆ ◇ ◆
人を殺したいと思ったのは、初めてだ。
かっとなって荒々しい気持ちになったことはある。誰だってあるだろう。
そういうものとは違う。もっとはっきり明確に。
殺したい。
殺さなきゃいけない。
この刃で、この手で、邪悪の色で塗り固められた目の前の女を殺す。殺す。
今の自分の精神状態が普通ではない自覚もある。不思議なほど冷ややかに感じる。
「信徒ビッテス、時間はありませんよ」
「はい、アパティ様」
どちらにとっても時間はない。
長引けば炎と煙がここを満たし、焼死するか窒息するか。
アユミチだけならこいつらと刺し違えてもいい。しかしカヨウとカハロは……
「奇跡の薬師アユミチ、でしたか。最後にひとつ提案です」
アパティと呼ばれた小柄な神官がこの期に及んで何かのたまう。
突っぱねようと思ったが、今さら何を言うのか気になった。
「……なんだ?」
「我らに協力するのであれば、命は保証しましょう。その子供たちも」
「……」
「いかなる死病を癒すその奇跡、失わせるのは惜しい。捨て森がこの有様でも、あなたは人々の救済になる」
「なにを……あぁ」
まだ残っていた違和感の正体に気づいて頬が緩んだ。
思わず涙が浮いてしまい、左目を指で拭った。
「そうか……ありがとうな、リグラーダ」
彼らは知らないのだ。
アユミチの血が薬の材料になると知らない。
リグラーダは約束を守ってくれた。誰にも話さなかった。ビッテスにも、この神官どもにも。
血が材料になると知っていたなら、最初からアユミチの身柄を確保するだけでよかった。力づくで。
意識を奪い、自由を奪い、魔法や何かの手段でただ生かして血を絞り続ければ目的は果たせる。
彼らはそれを知らない。
アユミチの知識と協力が必要。そう考えたから無理やりではなく手段を講じて取り込もうとした。
逃げた住民も、カヨウやカハロたちも、アユミチに言うことを聞かせる人質として利用価値がある。
素直にアユミチが協力するのならよし。そうでないのなら。
リグラーダが守ってくれたから。
あらためて彼女に感謝と敬意を。
「お前らはリグラーダを殺した」
「不幸なことです」
「ゼラは? ムンジィは?」
「抵抗しなければもちろん、何もしません」
「はっ、嘘つけよ」
下らない。
愚にもつかないとはまさにこのこと。
「ゼラの偽物まで用意して騙そうとしていおいて……あんたの二枚舌、アニラービー以下だな」
「クソ虫より卑しい小僧が
二枚舌から連想した、アニラービーの割れて
穏やかに語り掛けていた小柄なアパティが怒声と共に光を放った。下げていた両手の指の隙間から光が溢れる。
「殺しなさいビッテス!」
「はい、アパティさま」
「させねえよ!」
ムンジィが投げつける。
荷物を置けばムンジィだって荒事が不得手ではない。ここ二か月の経験で言えば一般人とは段違い。
ノクサが以前、一年間毎日死ぬ気で打ち込めば身に着くと言ったように、生死を分ける現場に居合わせ、目にして対処してきたムンジィも今は
たぶんノクサの力などなしで普通に戦ったらアユミチより強い。
「つまらぬ抵抗でござ――んっ!?」
ビッテスに向けてムンジィが投げつけた無数の
その中に、口を解かれた小さな袋がまぎれていた。
振り払ったザイドロス、一緒にいたアパティとビッテスにも降り掛かる。
捨て森で、イーペンが作ってくれていた粉袋。
野盗に襲われた時、相手の顔に吹きかけて涙やくしゃみを引き起こしていた催涙スプレーのような粉。
獣などに襲われた時の用心にムンジィが持っていた。
イーペンたちは無事だろうか。こいつらに捕まっていなければ、皆まだ森の中を迷いながら逃げているかもしれない。
振り払った粉が飛び散った。
「ぬうぅ」
「は、べほっ、んくっはっ」
つまらない抵抗。
それが作ってくれるわずかな時間が勝機になる。
ザイドロスに顔を向けたビッテスは粉を浴び、顔を背けたアパティは忌々しそうに呻いた。
「ここで!」
左手に備えた小弓。小さなボウガンと言った方が近い。
弦は重く、慣れていないアユミチが戦闘中につがえることはできない。
その一発を、下を向いたアパティに向けて放った。肩を貫いた。
◆ ◇ ◆