法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
アニラービー。
悪戯が過ぎて舌を焼かれ、天馬に食われた悪神。
天馬に食われた悪神が世界に残っているとしたら、糞だ。
糞になってまで世界にこびりつく見苦しい悪神アニラービー。
そんな有り様でなお甦りを求めて蠢くなど、どこまでも卑しくあさましい。
かつて魔獣ヘレボルゼと呼ばれていたその一部が溢れ、焼かれた町。
町ごと焼かれたというのは少し違った。
よく燃えることは研究により知られていた。だから増殖が手に負えなくなった時に猛烈な劫火の魔法が放たれた。
その温度が鋼をも軽く溶かすほどに届いた時。
町は白い輝きに飲まれ、吹き飛んだ。
堆肥小屋が破裂するように、町丸ごと消し飛んだ。
◆ ◇ ◆
喉を這い上る嫉妬のごとき炎の力が込められた黄色の貴石。
あれはゼラに向けられた力。だからゼラにはよく見えた。アユミチには全く見えていなくとも。
アユミチを死なせない。
最後の力を振り絞って守りの魔法を唱え、間に合った。
汚臭を振りまく女の魔法からアユミチを守り抜いた。
法衣の男たちと共に逃げ去っていく気配。
アパティ、ザイドロス。あの法衣の紋様と名前からしてエクピキ教団最高幹部の太光師二人。
前線に出る立場ではないはずだけれど、それだけアユミチの存在を重大事と捉えたのだろう。
あのような異常者の集り、退けることができただけでも幸いか。
「
大事な人。
ゼラの価値観とは色々違う行動規範で無茶をする。
心の針が指す方向がとても真面目。人の道から外れないことを第一に。
「……」
落ちていたダガーを拾い彼の腰の鞘に納めた。
リグラーダの遺品。
頬を撫でる。
さっき聞いた。ゼラではない女の頬に口づけをしたと。ゼラとは異なるタイプの綺麗な顔立ちの女。リグラーダ。ファニアとも別の女に。
動揺しなかったことはない。驚いたし、少しだけ胸に棘が刺さった。
頬に。ほっぺに。
キスをしてくれたと言ったのは、きっとゼラへのせめてもの意地悪だったのだろう。
でもアユミチへの誠意で、頬にくれたと続けた。
それだけで満足げに目を閉じたリグラーダの心を思い、ゼラの胸の棘は消えた。
少し何かが違っていれば、アユミチの愛情はリグラーダに向けられたかもしれない。
頬の口づけを思い出にエクピキ教団を裏切り、アユミチを助ける道を選んで死んだ。リグラーダに閉ざす扉はない。
そういう人なのだ、アユミチは。
何でもない小さな優しさを伝えてくれる。
たいそうな何かより何でもないような言葉が暖かくて、とても嬉しい。
ゼラを点魔鋲から救った時も、それを誇るでもなくゼラの身を心配していた。辛くないか、何か必要なものがあるか。
集落で困っている人がいるから戻る。落ち着いたらまた来るから無理せず待っていて。
体目当てという様子でもなく、礼を求めるでもなく。
本当の神の使徒なのだろう。
同じ男に恋して死んだ女。
気持ちがわかる。だから許した。
キスの話の小さな仕返しも許す。友になれたかもしれない人。
リグラーダがいなかったなら、きっとゼラもアユミチも敵の手に落ちていた。感謝を――
「なに……」
異様な気配にゼラが気づいたのと、アユミチの顔色が変わったのはほぼ同時。
敵とこちらを遮ったゼラの岩壁が光を帯びている。
それだけではない。今いる大地も輝き始め、光が広がり――
「これは……いけません」
危険。
敵の魔法……ではない。これは違う。この力は異質。
「アユミチ……」
「ゼラ、すぐに逃げろ」
体を起こし、泣きそうな顔で言うのだけれど。
「旦那、こいつはいったい」
ムンジィも戸惑い、子供たちが不安げに周りを見回す。
見たこともない異常事態。
「あの女の魔法ではありません。これは……アニラービーの力……」
理解したのは手遅れになってから。
手遅れと言うのなら最初から手遅れだったのだ。あの女魔法使いがこの森に来た時点で。
そう、敵は事前に知っていたのか。
奥の手があると言っていた。
アニラービーと戦った時、あの黄色の貴石で何かの魔法を使おうとして、使いたくない奥の手だと。
制御できない力だからできる限り強固な防御を頼みたいと協力の依頼があった。制御できないのは魔法の力のことではない。
アニラービーの体に火を点ければどうなるのか。制御ができない。
今そのアニラービーの体はどうなっている?
雨に溶けて、この捨て森の大地に染み渡った。
地中で本体と繋がっていた虚穴周辺にもたっぷりと。見渡す限り全ての大地に広がっていく光。輝き。
「ゼラ、君だけでも逃げろ!」
「いえ……」
「頼む、君を愛しているから……だから!」
「アユミチ……」
逃げ場などない。
あったところで、ようやく得た本当のあなたを失って生きる世界なんてない。
ゼラの魔法は大地に大きく依存する。
アニラービーとの戦いの時であれば、足を着く大地がゼラの力になっただろう。
その大地が今は凶器。絶望をもたらす死の劇薬。
「私はもう死を呼ぶ花嫁ではない。そうでしょう?」
「ゼラ……君は、俺の大切な……」
「はい、
愛する彼の呼ぶ声に頷いて、微笑んで。
最後に唇を重ねた。
◆ ◇ ◆
かすかに触れた唇が輝きに飲まれていく。
銀色の輝きに。
「ぜ……ら……?」
『……』
彼女の声は、もうアユミチの耳には届かなくて。
広げた両手も銀色の波のように、泡粒のように。
アユミチを包み込んだ。
ゼラが自分の服の上からなぞった八千代刷毛が、彼女の体に魔法の言葉を刻み付けて、千切れていく服の下にもその文字が浮かぶ。
「嬢ちゃん、坊主!」
ムンジィの苦しそうな声と共にアユミチの背に押し付けられる小さな体。ふたつ。
宙に浮きながらアユミチを包むゼラの……ゼラだった銀色の粒々の中に子供二人が。
「へ……へっ、たのんます、だん……」
ムンジィの手はその銀の粒をわずかに掠めて、振り向いたアユミチの目には苦笑いのムンジィの顔が一瞬だけ。
光に飲まれ、掻き消えた。
その向こうのリグラーダたちの亡骸も光の中で散り散りに消えて。
「あ、あ……」
森が消し飛ぶ瞬間が、アユミチの脳に焼き付けられた。
◆ ◇ ◆
どれくらいの時間。
わからない。脳が焼き切れて全てが瞬間瞬間にしか感じられなかった。
だけど、カヨウとカハロが何度も呼びかけていたことはわかる。耳には入っていた。だから一瞬ということはないのだろう。
真っ白な世界は何日も続いた。破裂して終わりではなかった。
終わらないでほしかった。
だって、この光が消えたら、アユミチを包んでくれているこの魔法も消えてしまう。それだけはなぜだかはっきりと理解していた。
膝を着いたまま自分たちを抱き包む銀の粒々ひとつひとつを目で追い、何もできずに。
時折、カヨウとカハクがアユミチの口に何かを注いだ。
酒瓶の口。
カハロが持っていたのだろう。大事なものだから、と。
レーマ様の酒瓶は普通の力では割れない。盾がわりにと持たせた気もする。
森を焼き尽くす白い光。
それが終わる時、ゼラが残してくれた最後の魔法も消える。消えてしまう。終わらないで。終わらないで。終わらないでくれ永遠に。
帰る場所を失う。居場所を失くす。愛する人と別れる。
それがどれほどの絶望なのか。
アユミチは本当の意味で知らなかったのだと知った。思い知った。思い知らされた。
「あ……なん、で……あ、あ……」
森を焼き尽くす炎に、心が焼けただれていくのを感じた。
ぷすぷすと、みんなの為に、ゼラのためにファニアのために選んだ服が
『……アユミチ』
ゼラの声じゃない。
ノクサの声。やめて、お願いだから言わないで。
何でもするから。お前に全部の寿命を捧げるから、言わないで下さい。言わないで下さい。
『もう……消えるわ』
「いやだ……いやだ……いやだ、頼む……お願いだから。ノクサ、助けて……助けてくれ……助けてください……」
『……ごめん』
ぷつりと。
スイッチを切ったみたいに。
森を覆っていた白い光が消えて。
消えてしまった。
アユミチの大事なものは、一番大切にしようと誓ったものは、永遠に失われた。
◆ ◇ ◆