法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
苦手な方に先にお伝えします。
「どうしたね、遠慮せず食べたまえ」
「っ……」
歯をがちがち鳴らし肩を縮こまらせる少年に、対面に座る細身の男は静かに笑いかけた。
青白い部屋で、間の長テーブルには贅を尽くした食事が並べられている。
少年――十二歳だったか――が見たこともないだろう豪奢な食卓。
「アグノア君、だったかな? マナーなど気にすることはない。私は宗教上の理由でこの手を食事に使えないのでね」
「こちらをどうぞ、エヴェニス様」
左右に控える半裸の女たちが、エヴェニスの視線を追いながら美しい指で食べ物を拾い上げ、主の口元に運ぶ。
太光師の他で二人しかいない、両手に聖印を焼きつけた貴人。陽輝卿エヴェニス・ディアホラ。
エクピキの指をいただく両手は食事には使わない。淫らに清めた女の指を使う。
部屋の片側に張られた巨大なガラス窓は、これもまた値段をつけられるものではない。
透明なガラスは高価で、大きなものを作って運ぼうとすれば途中で割れる。この場所で魔法を用いて作成された巨大水槽。
西港ディサイでもっとも堅牢な城塞の一室。この部屋と水槽を挟んだ反対にアグノアの家族がいるはず。コスタス・マクリアスたちと共に。
「見たまえアグノア君。海の獣などゆっくり見る機会などないだろう」
「ぅ……は、ぃ……」
がくがくと震えながらちらちらと、青い光が差し込む水槽の方に目を向ける少年の怯えように、女たちも薄っすらと笑う。
年若い少年が、小便を漏らしそうなほど怖がる姿。
これから食われる小鳥のような姿に愉悦を覚えるのはエヴェニスだけでもない。
誰だってそちら側に立ちたくはない。
青緑色に見える水の中で、飛び交うようにうねりながら泳ぐ数頭の影。
人間よりやや大きく、水掻きと鉤爪のついた手とヒレのような尻尾を動かしていったりきたり。一匹がこちら側まで近づいて口を開けると、赤黒い口の中で三重に並んだ牙がびっしりと。
あれで獲物の肉を食いちぎり飲み込む。
地上の生き物で例えるなら、凶暴な大トカゲと肉食のイタチを掛け合わせたような生き物。サヴァサゴニと呼ばれている海獣だ。
短いが手足がある。水中ほど得意ではないが地上でも活動できる。
長距離を泳ぐのは得意ではなく卵は地上で産む。非常に危険な獣だが、それゆえに地上の卵を大昔に駆除されたので人間の生活圏にはいない。
無人島などに残るそれらを集め、飼いならしているのがマクリアス家。
「大海魔カルマリィの落とし子サヴァサゴニ。聞いたことくらいはあるだろう? 大した知能はない。誰が飼い主かもわかっていない愚かな獣だが……」
古くからなぜそんな呼び方をされているのか。襲われた者が溺れながら叫んだ様子が名前になったのではないか。
ざぼ、と上から響いた水音を耳にしてそんなことを考える。
「っ」
ガラス越しに聞こえるより先に、凶獣たちはその音に反応している。
上から降ってきた肉塊。餌。
一番大きな塊に向けて一斉に食らいついていくサヴァサゴニの群れと、水槽の上から垂れてくるような赤い煙。血煙。
新鮮な肉だったのだろう。そのはずだ。
「君の父上、ダスカープ氏は実に忠実だったのだろう。職責に忠実な人間に私は敬意を表する。残念ながらその忠心の向かう先が右流伯閣下ではなかったようだが」
「そんな……父さんは、そんな……」
「鬼巫か、あるいは左潮伯エクソト家だったのか。十二のネロ陛下ということはあるまい。ダスカープ氏がディサイに居を構えたのはネロ陛下が産まれるより前……君の姉スィーマが産まれるより前のことなのだからね」
状況の変化は波のように広がり周辺に影響を及ぼす。
死病の治癒の噂。逆に持ち込まれた死病。その根源の掃討に伴い、天を焦がすほどの裂光。
ディサイの町も大きく荒れ、その中で違和感のある動きをする者が出てくる。
この状況で外部との連絡を取ろうとするのは、もちろん一大事なのだから安否など伝えたいこともあるだろう。
それでも手紙を書く者など限られる。読み書きできない人間の方が多い。
二度に分けて、いつもと変わらない報せを送ったのがダスカープ。
王都の商売相手に向けて、いつも通りの手紙を。
検閲の中にいた影潰しがそれを不審に思い、エヴェニスに報告を上げた。
これだけ妙な事態だったのだから、いつもと違っている方が自然だったのに。二度続けて、というのも何かの暗号だったのかもしれない。
密偵の類と思って過去を調べてみれば、そつなく善良な一市民のようで、またそれも不審。
こうなれば別に白か黒かはどちらでもいい。家族ごと捕らえて尋問。吐けばよし。仮に潔白だったとしても帰す必要もない。
妻は元々ディサイの生まれ。過去にダスカープとの接点はないのに、彼がディサイに来て一年も経たずに結婚している。当時を知る人間の話では、ダスカープが熱心に贈り物などをしたのだとか。
ダスカープが町に馴染む為の工作としての結婚だったと考えた方が自然だろう。十五年もの歳月潜伏していたのはよほどの忠誠心だ。己の人生を捨ててまで。
誰の命令で何をしていたのか問い質す。
ただ尋問するのなら【指】持ちのエヴェニスの方が適任だろうが、コスタスがアントニーにやらせると言った。
当主になるのなら汚い仕事のやり方も覚える必要がある。アントニーはまだまだ経験不足だ。
ダスカープ本人と妻、娘は向こう側に。
肉親の安否がわからない不安も尋問にはよい。末子のアグノアだけエヴェニスが預かった。
「獣の食事を眺めさせているだけではもてなしにならないな。お前たち、アグノア君に
「はい、エヴェニス猊下」
水槽の上の方、水面近くで何かの肉塊を争うように食らうサヴァサゴニを震えて見ている少年アグノの口元に、半裸の女が汁の滴る肉を運ぶ。
少年とて美女は嫌いではないはず。捕らえられ家族から離された状況で楽しめるわけもないが。
「食べなさい。生きるのに糧は必要だよ」
「ぁ……あ、ぅ……」
がくがくと無様に開いた口に、美女の指ごと肉切れが押し込まれ、少年の舌まで撫でるように舐めるように指が出し入れされた。
反対の手を少年の頬に添え、引き抜いた手と合わせて怯える彼の顎を押して、引いて。
咀嚼もできない老人に介添えするように、優しくアグノアの口の中の肉を噛みほぐさせる。
「さあ、こちらも」
別の女が、両手を皿にして真っ赤な葡萄酒をアグノアの顔の上から唇に垂らす。
汚い口を半開きにして、極上の葡萄酒を注がれるアグノアにエヴェニスは頷いた。
「ああ、そうだよ。アグノア君がちゃんと食べているのを見れば母君も安心だろう」
「か、は……っぐ、ん……」
肉と葡萄酒を嚥下したアグノアと目が合い、エヴェニスはその視線を水槽のガラスの端に促した。
ちょうど上からゆっくりと振ってくる赤い霧のヴェールと共に。
長い髪を漂わせながら降りてきた女の首が、最後に見開かれた目玉が、ガラス越しに息子の姿を映して沈んでいった。
ぶつり、と。
意識が飛んでしまった少年が椅子ごと倒れ、そのズボンに染みが広がっていく。
長テーブルの対面で臭いがエヴェニスに届かないのは幸い。
「ふむ」
生かして帰す必要もない少年だが、あまりにみじめな醜態に考えが変わった。
「すぐに父親も流れてくるだろう。別れも言えないのは不憫だ。起こしてあげなさい」
「はい、エヴェニス猊下」
「それと」
エクピキの光に染まった女たちは忠実で従順。
選りすぐりの美女の使い道は多い。
「アグノア君の男も、起こしてあげなさい」
「エヴェニス猊下の仰せのままに、悦んで」
「ふふっ」
泣いて悦ぶ少年を眺めながらの食事も悪くなかろう。
抗えぬ快楽と絶望で少年がどんな顔をするのか。
新たにエヴェニスの補佐に入った美女の谷間から零れる葡萄酒を舐め、その尻に【指】をなぞらせた。
◆ ◇ ◆