法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「……よぉ」
「海では世話になりましたね、アルゴ・ノーツ副長」
ホスバルドルではこれほど豪奢な邸宅はほとんど見ない。
大きさだけならずっと広いものはいくらでもあるが、使われている美麗なガラス窓、魔法道具の照明、絨毯、調度品。全てが高級品だ。
透明度の高いガラスはそれだけでも高級。その一枚一枚が人の背丈よりずっと大きく、縁取りの細工もきめ細かい。
割られたガラスをもったいないと思ってしまう貧乏性に苦笑いが漏れた。
ノアカッセは一軍を預かる将。高級品を見定める程度の教養はある。
壊され、焦げ付き、いったいどれだけの財産が失われたのだろうと他人事ながらに不安を覚えた。
ホスバルドル国の海将ノアカッセと、用心棒のメムナーン。
暴動で壊され略奪された後のディアホラ家邸宅に来たのは、彼らに会うためだ。
「それに、奴隷海将。ジナミナ殿」
「……」
「あんま近づいてくれんなよ、ノア。船の上じゃなくてもそいつのおっかなさは変わらんぞ」
「わかっているよ、メムナーン」
包帯でぐるぐる巻きの右腕で脂汗を掻いているアルゴ・ノーツと、その横で無言で傷だらけの拳を握る少女。
メムナーンは一流の戦士だが、ジナミナは一流を超える異常者の領域。
負傷しているとしても油断などできない。むしろ凶暴さが増しているかもしれない。
「けれど、我々は敵じゃない。でしょう、ノーツ殿」
「そうだった、か」
「約束通り、あなたの船は沈めませんでした。と言っても、逃げる彼らを追うほどの戦力はありませんでしたが」
「言わなくてもいいんじゃねえか、それは」
ノアカッセの正直な言葉にメムナーンが呆れ半分に首を振る。
脂汗を浮かべていたアルゴは深く息を吐いて、それからはっと笑った。
「……礼を言っとくか。まあ俺の言うことを聞かねえ悪ガキばっかりの船だから沈めてもらってもよかったかもな」
「ジナミナの船」
「そうだった。じゃあ素直にありがとうございます、だ」
「礼には及びません」
ディサイから逃げていく奴隷海将の船を見逃して正解だった。
ジナミナが、手負いのせいか特にぴりぴりしていたジナミナが、握った拳を
ディサイの港、行政区、主要な倉庫などを押さえた今、奴隷海将と命のやり取りをしても何の益もない。
武勲として討ち取りたいと考える者もいるかもしれないが、メムナーンに言わせれば割りに合わないというところだろう。
ノアカッセとしても、以前の海戦でやったことをもう一度できる自信がない。戦わずに済むならそれでいい。
「一晩明けて恐慌状態は静まりましたが、また何がきっかけで火が付くか。我々も力ずくでねじ伏せるまでの余力はありません」
「嘘でも、逆らう奴は皆殺しだって言ってやればいいんじゃないか」
「住民も含めて町の価値です。以前の支配者よりも好かれるよう振る舞った方が得でしょう」
トローメの軍を降し、町の支配権を手に入れた。
とはいっても、ただ占拠しただけでは意味がない。
住民の支持を得て、トローメの国軍が来ても迎え撃てる基盤を作らねば無意味。
アルゴ・ノーツとの協力、裏取引。反体制派の反乱決行の利用など。
おかげで非常に簡単に制圧できたのはいいが、本当に大変なのはこれからだ。
「あなたは放逐されたとはいえディアホラ家の血縁。家との不仲は町でもそれなりに知られているとのことですが」
「若い奴は知らないだろうさ」
「住民への声明に協力して下さい。マクリアス家、ディアホラ家の支配は終わりだと」
ジナミナにはよくわからなかったのか、見上げる少女にアルゴは苦笑いしながら無事な方の手で頭を撫でる。
町を占拠した他国の軍勢の話を住民が素直に聞き入れるとは思わない。
ディサイで生まれ育った者。なおかつディアホラ家ゆかりのアルゴ・ノーツの言葉なら、多少は受け入れやすいだろう。
勝利側が旧体制の血族、旧王や王子を表に立てて民を懐柔するのはどこでもやるセオリーだ。
「このクソな家の終わりを俺が宣言するってのはいいんだけどよ……て、くそ……」
「アルゴ」
分厚い包帯の下の腕はかなりの重傷らしい。
脂汗も時折歪む顔も演技ではない。
「このザマじゃ、あんたらに拷問されて言わされてるって見えるんじゃねえか。声も張れねえ」
「医者は……」
「トローメは医術が遅れてるんだぜ、ノア。エクピキ教のお偉方のおかげで」
「……そうでしたね」
メムナーンに言われて、自分の常識で考えていることに気づいた。
医療技術の遅れというよりは、エクピキ教が医療を独占する為に町医者などが極端に少ない。
ホスバルドルの半分どころか五分の一程度だとか。技術も知識も不足。
「複雑骨折ですか。解熱剤に痛み止め、抗炎症薬もあった方がいい。船医を呼びます」
「手間かけて悪いな」
「いえ、エクピキの異常な治癒など受けたくない気持ちはわかります」
「俺のはただの家庭の事情っつーか意地なんだが……異常な治癒、ね。あんたの言う通りだ」
ランプシーを奉じるホスバルドルで生まれ育ったノアカッセからすれば、痛みを快楽に変えて癒すなどというエクピキの治癒術は異常でしかない。
慣れれば癖になり、抜け出せなくなるとか。
異常者。変態。正体不明の不気味な術。
実証実験と理屈で効果が判明している医術や薬学とはまるで違う。
魔法の治癒もあるにはあるが、ホスバルドルのそれは痛みを伴う。なんなら激痛を感じながら治す。本来の傷の痛みが消え去るわけではない。
どうしようもない重傷であれば、痛み止めと合わせて魔法の治癒を。そんなところだ。
「アルゴ、いたい?」
「ああ、そりゃあな……なあ、あんた」
「ノアカッセです。ええ、もちろんお嬢様の手も手当てさせていただきましょう」
医者を呼ぶならジナミナの手当てもしよう。
彼女を味方にできるのなら、非常に強力な手札になる。
恩を売れる時に恩を売る。怪我をしてくれていてよかった。
いや、このジナミナでさえひどい手傷を負わされるほど、エクピキ教団の高位司祭は異常なのだ。
おそらく中央にはエヴェニス以上の難敵がいる。異様な力を持つ太光師が。
「治ってもこっちに拳向けてくんなよ、頼むから」
「ん? ん」
「わかってんのかねえ……」
メムナーンのぼやきに肩をすくめて、あらためて屋敷を見渡した。
立派な建物。だけれど中身はぼろぼろ。
こうして占拠したトローメの要衝ディサイの町も同じく。
住民の何割かは逃げ出し、占領軍であるノアカッセたちホスバルドル軍も完全支配できるまでの戦力ではない。
本国からの増援は、ノアカッセの手柄を
願わくば、トローメの首脳陣もホスバルドル同様に意見がまとまらず、ちぐはぐな対応をしてくれるといいのだが。
局地戦での勝利が戦局を決定づけるものではないと、書物では知っていたつもりだがあらためて実感し、苦笑いと溜息しか浮かんでこなかった。
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