法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「まぼロし! まやカし!」
手を広げて狂喜の声をあげるパテシーイを横目に、ギネイカは猛烈な勢いでアユミチに襲い掛かった。
過剰に溜めた踏み足は、怒張した筋肉を傷めつける。その痛みすら快楽。愉悦。
ギネイカの脳を異常なレベルで興奮させ、夕闇の中でもはっきりとアユミチを知覚させてくれる。
「いかガわジぃっ!?」
――ずぶぉむっ!
重い音が響いたが、ギネイカの意識はそちらに向かない。
視界に捉えていたはずのアユミチの姿が一瞬で消えた。
「っ!」
ギネイカに気づいて後ずさろうとした一瞬の挙動の後、土埃を上げてその場から飛び去った。
これが尾行時に見失わせた技か。
バッタや、あるいはノミのような一瞬の跳躍。
人の目で追いきれるものではない。そもそも人間がそんな動きをするとは想像もしていない。
下賤な虫ケラのごとき存在だからできるのだろう。
「そこだ」
跳ねる直前の動作は見えていた。
土埃も、どちらに跳んだかごまかすことはない。
今の跳躍を何度続けられるか知らないが、集中を研ぎ澄ませたギネイカなら捕まえられる。
――どっどどっごぉぉ!
「おぁっ!?」
「ひゃあぁっ!」
「神さまお助けを! ご慈悲をぉ!」
さらに地鳴りと群衆の悲鳴が続くが、アユミチに集中しているギネイカの頭は完全にそれらを無視する。
逃げたアユミチの姿を――
――ぱりぃぃん……
決して大きな音ではなかった。
群衆の声や地鳴りの方が大きかったのに、ガラスの割れる音が無理やりギネイカの耳から脳に捻じ込まれるように。
咄嗟に割れた音を探そうと目が追った。
どこだ、どこから?
迷った瞳がパテシーイの姿を映す。
廃教会前の通りで両手を広げたまま、笑ったまま、胸を蹄の形に陥没させて仰向けに倒れるパテシーイの姿を。
「は……ぱて……」
大の字に倒れたパテシーイの上に、通り過ぎて戻ってきた戦馬車がどすどすと音を立てながら被さり、姿を隠す。
その車輪がパテシーイの腕を踏み、重みで引きちぎった。
「まぼ、ろ……し……?」
天馬の戦馬車の幻術を使うのは既に知られていた。
捨て森での報告にもあったし、同じものと思われる幻術が西港ディサイでも使用されたと報告されている。
しかし、その幻がパテシーイを潰し、殺した。
太光師オルミにさえ戦闘ではエクピキ教団最強の座を争うと言わせたパテシーイを。
小娘は幻術使いではないのか。
仮に攻撃的な魔法を使えたとしても、パテシーイを一撃で絶命させるほどの魔法など使える人間など星光のビッテスと同格。
おそらく鬼巫アハラマでも単独では不可能。花札との合わせが必要になるはず。
「……」
情報と違う。
聞いている情報と決定的に違うものがあった。
「あ、あ……」
外の群衆は、周辺住民もエクピキの信徒も区別なく、無事な者たちは一様に膝を着き手を合わせている。
二頭の天馬が引く黄金の戦馬車。
そこに堂々と立つうっすらと光を放つ赤髪の女神の姿を目にしては、畏敬に震えて立っていられず。
「め、が……」
ギネイカが震えたことなど、いつ以来だろうか。
影潰しとして教育されてからは、痛みも快楽となり、生きる不安も何も全て教団の示す道で消え去った。
考える必要もなく、恐れることもなくなり、心の安寧と充足を得たギネイカには、胸の奥からこみ上げる感情が何なのかもうわからなかった。
ただ迷い、戸惑い、周りを見回す。
かんざしを握る小娘と、少女を守ろうと不格好な体でギネイカと対峙する陽灯小司。その仲間の貧民たち。
そして、左手の小弓――スリングショットか――を低く構えた殺すべきアユミチの姿を見つけて、
「あ」
思い出した。
彼の抜いたダガー、そしてその小弓の持ち主を。
「豆挽き風車の」
ぼすっと、腹に衝撃を受けた。
体を貫く衝撃と、そこから広がる熱い感触。
「りぐら……だ……」
共に影潰しの訓練を受けていた優秀な同僚。ギネイカとは年も近い。
ビッテスに気に入られ、魔獣の素材から作られた小弓をもらい受けていた。
以前に同じ任務についたことがある。
――何を見ている?
――あぁ、大した話じゃない。
王都の外郭、城壁の外にも人は住んでいる。
都の中には住めないが、都の住民に物を売って生計を立てている人々だ。
――私が生まれた家だ。
――孤児ではなかったのか?
――売られたんだ。珍しい話でもない。
彼女は特に感傷もない様子で足を進めた。
――粉挽きの家に何人も子はいらない。
――そういうものか?
――食うに困る年もある。小綺麗な娘なら売りやすい。
ビッテスは彼女の才能よりも外見を好いていたというのは影潰しの間でも言われていた。
綺麗な顔立ちの娘だったのは事実だろう。
――売られてからの方が食事はマシになった。
――そういうものか。
――そんなもんさ。
トローメでよく栽培される豆を乾燥させ粉に挽いて加工する。
凶作や何かで収入が不安定なことも当然ある。
夕日に照らされる建物には、粉挽き用の風車がゆっくりと回っていた。
――どうした、行くぞ。
足を止めたギネイカを振り返る彼女に、ギネイカは聞かなかった。
帰りたいと思わないのか、と。
エクピキの為に尽くすより幸福なことなどない。
ただ、ギネイカには生家がなかったから、疑問に思っただけ。
けれどその疑問は、疑念は、なぜだか十年近く過ぎた今も心の片隅に引っかかっていて。
「あぁ……」
千切れたパテシーイの手と、それを見下ろす女神を見て理解する。
この【指】がギネイカを救ったことなどなかった。支配し、掻きまわすだけの異物。
「いたい……いたい、な……」
自分の腹を貫く熱に涙が溢れて思い出した。
これが痛みだったと。
◆ ◇ ◆
「やった、か……?」
およそ言ってはいけないセリフのひとつだろうと、口から洩れてから失言に気づく。
今さら口を閉ざすが意味はない。
「……」
ギネイカは口から血を垂らし、だらりと全ての力を失っていた。
瞳孔などで判断する知識はアユミチにはないが、生きていない。死んだ。
最後にリグラーダの名前を
とどめを差した武器がリグラーダの形見だと気づいたのだと思う。
影潰し同士、知り合いだったとしても不思議はない。だからと言って味方にできたなどとは思わないが。
「あいつは……」
「女神様の馬車に正面からぶつかっていました」
戦闘が終わった空気を感じてカヨウがアユミチの傍に戻ってくる。
ギネイカに気を取られたアユミチはパテシーイがどうなったのかよくわかっていない。
無事ではなさそうな倒れ方をしていたのはちらっと目に入ったけれど。
パテシーイが何をしようとしていたのか理解できないが、彼は天馬の
後ろに控えていた信徒や陽灯司も、続く戦馬車になぎ倒されて何人かは死んだようだ。
群衆や兵士たちは空から降ってくる戦馬車に恐れおののき離れていたので被害はない。
『幻術だと思ったみたいね』
「そう……そうか」
ノクサに言われてみて、頭の中で反芻してから理解する。
なるほど、情報が回っていたのがパテシーイの不幸だったのだ。
これまで何度か使ったカヨウの幻術がここに来て罠になった。
意図したわけではないけれど、想定通りという顔をしたら天才軍師っぽいだろうか。少しだけ欲が出る。
天馬の速度は高速車両くらいには速いが、見ていて避けられないほどではない。
実際に兵士や群衆は車線上から逃げている。
ディサイの城塞中庭のように限られた状況でなければ、迫りくる戦馬車を避けられた。
しかしパテシーイは迎え撃つような構えを見せた。
天馬の幻術を使うと聞いていて、ならその幻術を打ち破ろうと思ったらしい。
負けず嫌いな性分だったのかもしれない。
「ぶ、がふぇっ……べ……」
「まだ生きていますね」
天馬に蹴られ、車輪で左手を引き千切られてもまだパテシーイの息があった。
というか、ショック死のように止まっていたパテシーイが息を吹き返したようだ。
アユミチがやってないフラグを立てたせいかもしれない。
カヨウの淡々とした声音が、なんだかアユミチを責めているようにも聞こえる。
「カヨウ、そんなもの見なくていい」
「生きているなら言っておきたいことがあったので」
潰れて死にかけているパテシーイに近づくカヨウと、それを追うアユミチ。
カヨウがあまりにはっきりと意思表示するので、圧を感じて止められなかった。
他の人々は膝を着いたまま、女神の姿とアユミチ達を見比べ、しかし何とも動けない。
「ご、ぶ……ぶふぇっ、あ……?」
仰向けにぶっ倒れ、天を仰いだまま血反吐を吐くパテシーイ。
その目は今だ爛々と天の星々を反射して輝いている。
自分の身に何が起きたのか理解できていないよう。
「聞こえていますか?」
「は……は、は……」
「どうせ聞こえてもまともに聞く人ではなさそうなんで構いませんけど」
淡々と、冷淡に。
「ふ、ぐ……いも、ど……さン?」
カヨウの声が、狂喜一色だったパテシーイを現実に引き戻す。
星の輝きに見開かれていたパテシーイが目玉を動かし、カヨウを見て
胸が潰れているのだ。意識が戻ればさぞ苦しかろう。
「は、はっ! ぶふっ、へ……アなたァ、の……兄ヨリ、ワたァしが……」
「前に言っていましたね。頼もしいお兄ちゃんだから私が付き従っている。女は頼れる人に心寄せるとか、そんなことを」
ディサイの難民を引き取りにいった時にそんな会話をしていたと思う。
アユミチに頼り甲斐などないのに、居心地の悪い会話だった。
実際にその時に拾った女は、難民となった夫よりも新しい主人を選んだ。苦い記憶。
「あの時はわかりますなんて言いましたけど」
「ワが【指】で、アなたァ……ぜふぇ……の、救イまショ、ぶぼっ……」
「もうその指もないくせに? 何もできない、情けない人ですよね」
カヨウが何を言いたいのかわからず、つい聞いてしまう。
冷たい声だけれどとても楽しそうだ。
怖くて口を挟めない。
「全然、違います」
「……」
「あなたの言っていることは全然当たっていません。見当違いもいいところです」
「ナ……ん?」
「お兄ちゃんが頼もしい人だから好きだなんて、まるで違うって言ってるんです。言いたかったんです」
バカな子ですね、とでも言いそうな顔でパテシーイを見下ろすカヨウ。
「私は、アユミチお兄ちゃんの情けなくて頼りないところが大好きなので」
「は……?」
「ハ……?」
間抜けな声を返す男二人。
「格好悪いんですよ、お兄ちゃん。でも私はそういうお兄ちゃんが大好きなんです。わかりますか? わかりませんよね。女がみんなあなたの思う通りだとでも? 女の何がわかったつもりだったんです? ねえ?」
続けるカヨウは薄っすらと笑みを浮かべて、月明かりで異様なほどに美しい。
「あんまりひどい考え違いをしていてバカみたいだったので、どうしても言っておきたかったんです。わかったような顔をして男女を語っていたあなたが、本当に滑稽で呆れましたって」
頼もしいアユミチではなくて。
情けない、カッコ悪いアユミチが好きだと。
そんなことを言うために?
疑問に思うが、カヨウの心に引っかかっていたしこりだったらしい。
「どうです、あんなに上機嫌に、大っぴらに、恥ずかしげもなく語っていたことが大間違いだったって聞いて」
「ワた……し……ワ……」
「ね、パテシーイ」
囁くように名前を呼んだ。
「ひどいピエロです。惨めですね、パテシーイ」
「……ぐ、ぶぇふっ……ぶ、ぅ……」
パテシーイの目は最後にぐるぐると回ってから、だらりと力を失って落ちた。
「……」
「すみません。アユミチさんを悪く言われて私も黙っていたくなかったので」
死んだパテシーイに興味を失ったように振り返ったカヨウが、アユミチを見上げてにっこりと笑った。
憑き物が落ちたようにさっぱりとした笑顔で。
「さあ、女神様がお待ちです。アユミチさん」
「……そう、だな」
偉そうに尊大に色々と言ってくれたパテシーイに、アユミチだって内心では腹が立っていた。
実際、言い返せずに飲み込んだこともある。
それを聞いていたカヨウが、アユミチの代わりに言い返してくれたのか。
お兄ちゃんは頼もしくなんかない、と。
『あんまり深く考えない方がいいと思うよ』
「……そう、だな」
パテシーイがどんな心境で死んだのか。決して穏やかな心持ではなかっただろう。
この男が重ねてきた所業を思えば、あのまま息を引き取るよりは報いになったのではないか。
『頼りなくて恰好悪くても大好きだって。前向きに考えたらいいんじゃない』
ノクサは前向きだな。
やれやれと満月を仰いで深く溜息を吐いた。
◆ ◇ ◆