法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて   作:大洲やとこ

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6-8.負価値

 

 どうだっていい。

 世の中、たいていのことはどうだっていいことばっかり。

 誰が死んだとか殺されたとか、別にどうだっていい。

 

 大事なのは自分だけ。

 自分だけはいつでも気持ちよく生きていたい。

 だって気持ちいいのは好きだもの。

 それがないなら生きている意味なんてない。

 それがあるなら、永遠に生きていたい。ずっとずっと気持ちいいままでいたい。

 

 

 自分は他の誰かより強い。

 強いことを誇りに思うこともなかった。ただ自分より弱い人を見るのは気持ちいい。

 好き勝手が許され、誰にも気を遣う必要がない。

 エクピキはビッテスの全てを許し、与えてくれる。

 光と快楽に満たされる毎日。毎日。影潰しになってから二十年を過ぎてもずっと。

 エクピキの光はビッテスの体を最高の時のまま保ち、肌艶は影潰しになった頃と変わらないまま。

 死ぬまで快楽を許される。

 同じような者は他にいないから、きっとビッテスは特別なのだろう。

 

 戯れに一般の男や女とまぐわうこともある。

 その物足りなさが、またいっそうエクピキへの感謝を教えてくれる。

 エクピキこそが至高。

 世の多くの者はこの幸せを知ることもなく死んでいく。

 とても哀れ。

 とっても惨め。

 気持ちいい。すごく気持ちいい。

 

 

 エクピキの貴さを知りもせず唾を吐く者がいる。

 捕らえ、死なぬように苦しむように痛みを与え続けて、家族友人も同じようにして、それからエクピキの奇跡を与えた。

 そうすると誰もがエクピキの貴さを知り、身に刻み、遅まきながら這いつくばって感謝の涙を流す。

 もちろん遅いのだけれど。

 痛みと快楽の判別を忘れ、自ら喜んで心臓に杭を刺して笑いながら死ぬ。

 若い女ならば他の用途もある。罪人でも子を残せるのだからエクピキの慈悲は深い。

 

 人の心が磨り潰されるのを見るのは好きだ。肉体的な快楽とは違う愉悦。

 生意気なことを言っていた者が、反転して媚びへつらい己の言葉を翻すのもいい。

 人の心など簡単に変えられる。

 痛みには抗えない。

 快楽には抗えない。

 誰だってそう。ビッテスだってそうなのだから。

 

 

 稀にいる。

 家族や恋人を人質にしても、自身をどれだけ苦しめられても、岩石のように頑なに言説を変えない人間が。

 狂っている。

 頭がおかしい。

 ビッテスもそう言われることがあるけれど、ビッテスからすればそういう人間の方が狂っているとしか思えない。

 

 お前の家族も恋人も殺されるのに。

 自分だって体中から汁を絞り出すほど苦しんでいるのに。

 頭がおかしい。

 

 いや、違うのか。

 そういう人間もまた、他人のことなどどうでもいいと感じているのかも。

 ビッテスと同じように、家族でも恋人でもしょせんは他人だから。だからどうなっても関係ない。自分の気持ちだけを貫いて生きることが気持ちいいのだ。

 ああ、ビッテスと同じ人種。

 

 気持ち悪い。

 

 全然気持ちよくない。

 なんでそんな人間がいるのだろう。ああ、気持ち悪い。

 だって特別でもなんでもないものが、おかしな勘違いを真実みたいに思い込んで特別に振る舞うなんて、とっても歪でズレていて滑稽で気持ち悪い。

 

 ビッテスじゃないのに、つまらない矮小な存在のくせに、エクピキの特別なビッテスと同じように振る舞うなんて。

 そんな生き方が許されるわけがない。ビッテスじゃないのだもの。

 

 

 消そう。

 そういうのは気持ち悪いし間違っているから、潰していこう。

 エクピキの光の道に影を差す異物。

 

 取り押さえていた意味の分からない男の形をした汚物。

 ビッテスの誇りを穢し輝きに泥を塗っていった女、あれがこの世に残していった糞尿。

 

「もういいです」

 

 ビッテスの心に塗りつけていった吐しゃ物の記憶を拭い去るよう命じたのに、それもできない。

 尻を拭く紙にもならない。

 

 せめて連れていた小娘がザイドロスの【指】に導かれ、エクピキ復活の母になるのなら。それだけは世界の役に立ったと考えよう。

 次なる主光は真なる主光エクピキ。

 エクピキが降臨すればビッテスは真の永遠を得られる。永遠の快楽を。

 

 だからもういい。

 この糞はここで消してしまう。

 

 ビッテスの指に命を奪う力を込める。

 やっぱりつまらないもの。ビッテスが思うよりとても軽く、想像以上にあっさりと。

 

 ばちゅっ……

 

 何かが途切れる音がして、男は消えた。

 世界から消えた。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

 

「貴様、斑徂症に……?」

 

 くだらぬ。

 何を言っておるのか。

 一瞬でもエクピキの奇跡の光を体に流し込まれた女だ。快楽で頭がおかしくなったのかもしれん。

 戦乙女のように讃えられていたが、案外と快楽には不慣れか。初心な処女かもしれない。

 

「ふん」

 

 瞳に怯えが見える。

 鬼巫の花札ファニア・イア・イオルテの凛々しい双眸が不安に揺れる。

 そういえばこの娘、死病に罹患して王都を追放されたのだったか。

 どんな錯覚を見ているのか知らないが、その不安げな顔は実によい。オルミを見上げる目はそれでいい。

 

「何を言い出すかと――」

 

 ぼりぼりと腹を掻く。

 数日前、ファニアの剣で切り付けられた腹の傷はもうない。

 ないが、わずかにかゆい。

 かゆさが増したような気もする。ああ、まさにファニアが手に落ちると見えて記憶が疼くのか。

 

「……?」

 

 股もかゆい。

 つい先ほどファニアの剣の切っ先に引っかかりぶち切られたオルミの股間。男の象徴。

 今まで経験したことのない痛みだった。治癒の快楽と合わせて全身から汗が噴き出た。

 

「あ?」

 

 噴き出た汗が頭から顎に垂れ、法衣の袖で拭う。

 汗と、血と、瘡蓋(かさぶた)に引っ付いた肉がべっとりと……?

 

 

「なん……だ……?」

 

 確かに先ほど頭と耳にも傷つけられたが、もう治した。

 なのに、今また剥がしたような疼痛(とうつう)と瘡蓋、そして耳を伝う新しい血。

 手で掻けば、瘡蓋の剥がれた肉に爪が刺さり、痛みを覚える。

 

「……こんな、死病……死病だと……なんだ! これはなんっ!?」

 

 ファニアに傷つけられ治した箇所に瘡蓋が湧いて出る。

 新しい皮膚のあちこちに赤黒い斑点が浮き、かゆみがオルミの肌から頭に這いまわる。

 

「斑徂症だとぉ! この儂がっ俺が!」

 

 エクピキの【指】を授かって以来、死は遠いものになった。

 両手に【指】をいただき、いよいよオルミは不死身の存在に近づいた。

 世の塵芥(ちりあくた)生命(いのち)とは別格のものになったのだ。

 

 そんなオルミでも、死病に冒されても無事かどうかはわからなかった。

 試すことはできない。少なくとも片手の【指】の陽灯司は死病で死んだ例がある。

 おそらく真に不死身なのは主光ゲニーメのみ。

 

 

 人は、手に入れたものを失うことをひどく恐れ、嫌う。

 財がなかった時には気に留めなかったのに、いざ財産を手に入れれば失いたくない。失うのは損だと恐れる。

 恋人ができれば恋人を。

 権力を握ればその権力を手放すことを恐れ、怯え、守ろうとする。

 

 財産も権力も全てが手に入る太光師の座にあって、両手の【指】があればそれらを失うことはまずありえない。

 安心して他人を虐げてきた。他人から何でも奪い、踏みにじり、楽しんできた。

 そんなオルミの時を奪うのが死だ。

 オルミが手に入れた絶頂の時を終わらせるもの。死は太光師にとって最も忌避するものだった。

 

 だけれども。

 あまりに遠くにある死を、自分の死を、近くに感じることがない。

 他人は死ぬ。自分には関係ない。

 そう考え、頭から抜け落ちていた死が迫っている。

 引っ掻いた爪の隙間にじゅくじゅくと蠢く赤黒い血肉を見て、オルミ自身の血肉を目にして、ようやく実感する。

 

 死は、オルミのすぐ隣にもあったのだと。

 オルミの足元にも、いつもあるのだと。

 影のように。

 

 

「ああぁ! 薄汚れた淫売が俺を騙したかぁ!」

 

 ファニアに斬られたところから発症している。

 この汚れた女は斑徂症で追い出されたのだ。その汚れた血を、女の血を、娼婦のようにオルミの栄光の肉体に注ぎ込んだに違いない。

 ファニアの淫らな汁を鍛え上げたオルミの肉体に。

 だから斑徂症を発症した。

 

「どこまでも卑劣な女めが!」

 

 死病を戦いの手段にするとは見下げ果てた奴。

 過去にエクピキ教団でも使うことはあった。だとしても、オルミに対して病を感染させるなど卑怯極まりない。

 

(こす)い真似をしてくれた! この俺の」

 

 赤黒い血肉を掴んだ自分の拳を見て、握り直す。

 ファニアの血で洗い流す……いや、それこそ病の元か。

 

 開戦前、同じ手でコスタス・マクリアスの腹を抉ってやったことを思い出す。

 エクピキ教がディサイを裏切っただのと喚いていたが、敗戦で頭がおかしくなっていたのだろう。

 それでも正面からオルミに襲い掛かって死んだあの男はまだマシだ。

 死病の毒を使ってオルミを陥れるなど、人として許されるわけがない。

 

 

「許さんぞ! 絶対に許さん! ああぁぁ!」

 

 怒りで言葉が出てこない。

 とにかく、ああファニアの使っていた剣だ。あれは死病の毒が塗られている。

 

 本来なら発症後のオルミが気にする必要もなかったはずだが、怒りと混乱で優先順位を判断できない。

 一番の脅威はその直剣だと考えて、そこらに落とした剣を探して首を回し、ファニアから目を逸らした。

 

「っ」

 

 オルミの斜め後ろに落ちていた直剣を見つけ、しかしファニアの方は先にそれを知っている。

 オルミの手が届くより先に、疾風のようにファニアがすり抜けて剣を拾った。

 

「このっ痴れ者が!」

「黙れ」

 

 駆け抜けた先で剣を構え直したファニアに、オルミの足が止まる。

 ぬらりと血が(したた)る刃。死の刃。

 気持ちが怯んだ。

 

 

「今までの罪の報いだろう。エクピキ教」

 

 名を呼ばない。

 オルミの名を呼ばず、まるでその他大勢のうちのひとつのように。

 

「俺が罪だと? この太光師オルミが、罪などあるかぁ!」

 

 吠える。

 吠えてから、はっと気づく。

 

「薬師だ! ああ! 北府に薬師がおる! ビッテスが俺の為に捕らえてくるのだ、ああ!」

「……そうか」

 

 死んだと思われていた捨て森の薬師が生きている。

 オルミの斑徂症は治せる。死ぬことはない。

 まさにエクピキの導きに違いない。オルミに必要なものが揃う。

 

 

「父上が言った通りオルミは死なない! そうだよ父上、俺は死なない! あはぁっ! この女は、お前の首は薬師に届けてや――」

「――」

 

 死なないようにと願い、鍛え、手に入れた鋼のごとき肉体。

 エクピキの奇跡の光を(みなぎ)らせて、両手を広げて飛びかかった。

 鬼巫の花札ファニア・イア・イオルテの力では、この奇跡を打ち破りオルミの巨体を押し返すことなどできない。

 とっ捕まえて首をねじり切り、その口にオルミのモノをぶち込んでから鬼巫と薬師に届けてやる。

 

「お前の汚い手など必要ない」

「あ……?」

 

 奇跡の肉体。

 鋼のごときオルミの体。

 その耳と頭に錆のように浮き上がる赤黒い瘡蓋(かさぶた)から、ファニアが振り下ろした刃がずるりと滑り込んだ。

 

 

「えびゅ……」

 

 美しい一閃。

 病を手段に使う女のくせに、曇りのない見事な剣閃が通り抜ける。

 オルミの耳の上から入り、喉と頸椎を通って右の肺を両断して脇腹を通り過ぎた。

 

 

「明日を生きるな、下郎」

「べ……ふぇ……?」

 

 ずるぅぅっと、オルミの巨体が剣閃に沿ってふたつに分かれ、斜めにずれながら地面に崩れ落ちた。

 大量の血を大地に零しながら

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

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