法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて   作:大洲やとこ

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6-10.届かない手

 

 消えた。

 この世から消えた。

 不快なものが、この世から、存在が消えた。

 

「は?」

 

 確かに掴んでいたはずなのに。

 この手で(くび)り殺そうと、今まさにそうしようとしていたのに。

 消えた。

 

「は?」

 

 自分の喉から漏れた声にすら理解できない。

 消えた。

 存在も、感触も、その体温も消えた。

 いなくなった。

 

「な」

 

 何が起きたのか理解できない。

 ビッテスは知っている。彼が人間技とは思えないような爆発的な力を発揮することを知っている。

 だが、常人離れしたその力も完全無欠ではないことも知っている。

 あくまで人間離れしているだけ。神の奇跡のような力ではない。

 ビッテスの手を振りほどくだけの力を発揮するかもしれないと思っていたが、それとは違う。

 

「きえ……?」

 

 何が起きたのかわからない。

 ビッテスが認識できないことなどない。

 背後から放たれた矢の軌道も、耳近くを飛び回る羽虫も、体内で放たれる精も。目耳の届く限りでビッテスが認識できないことなどない。

 

 なのに、見失った。

 何が起きたのか信じられず、瞬間(ほう)ける。

 

 

「――あつ⁉」

 

 腿の辺りに焼けた木でも押し当てられたような痛みを察知し、ぱっと払いのけた。

 と同時に、雪の上に投げ出された。

 なんだ、見えない。見えない何か……いや、全く知覚できない神の奇跡のような力だ。

 

「いま」

 

 消える瞬間に耳に聞こえた音はなんだ?

 糸を弾くような音。

 弦のような――

 

「リグラーダさん?」

 

 そうだ、あの音はリグラーダの使う特殊な小弓の音に似ていた。

 彼の左手首にそれがあった。リグラーダの形見のように携えて。

 あれは魔獣の素材を元に作られた特殊な小弓。小さいけれど強力で、あれで首を射貫かれたりすればビッテスだって無事では済まない。

 

 でも今、耳に届いた音はどこから? 周囲から?

 アユミチではなくて誰かが、まさか死んだはずのリグラーダが?

 

「どこ――」

 

 アユミチ一人など恐れるに足りない。

 押さえ込んでしまえば逃げられもしない。彼の特殊な力でも、ビッテスの拘束を振り切れるものではないはずだったのに。

 完全に想像の外の能力だと認識して、その力が何なのか一瞬で思考を巡らす。

 

 

 空間転移。

 神のごとき力だけれど、そういう次元の現象だ。完全に拘束していたところから消え失せるなんて。

 その直前に響いた、ビッテスの耳に残る気になる音。弦の響きのようなものは、その奇跡の発現か?

 

「なんで! どうしようもないくせにぃっ!」

 

 悪あがきしたところでアユミチに何ができるのか。

 何にもできない。

 もう彼にできることなんてない。叶えられることなんてない。

 

「あなたには何もできっこない! なんにも残らない!」

 

 周囲に全神経を巡らせながら笑ってみせる。

 空間転移で遠くに逃げてしまったのなら手の打ちようがないけれど。

 きっとまだ近くにいる。近くにいれば彼はビッテスの言葉を無視できない。

 

 

「あなたのカヨウは娼婦より淫らな女になる! 誰にでも股を開くでしょうねぇ!」

「ファニアは兵たちの便所に、それも喜んでくれますよぉ!」

「反乱軍は奴隷に! エクピキに背く者はみぃんな」

 

 ズバシャァァ‼

 

 耐えきれなかったのだろう。

 そのまま逃げればアユミチだけは逃げ延びられただろうに、ビッテスに向けて雪が――大量の雪が、粉々の雪煙となって視界を埋め尽くすように襲ってきた。

 

 ――あはぁ♪

 

 捨て森で、あの糞女が使った砂塵の魔法に似ている。

 致命的に違うのは、雪煙にはビッテスの肉を削ぎ落すような力はないこと。

 そう、あの砂嵐の屈辱があったから、アユミチが用意した軍を雪崩に飲み込ませたのだ。

 ザイドロスの幻惑で進軍方向を誘導して、ちょっとした力で飲み込まれやすい場所に誘い込んで。

 あの女にもらった辱めは全て返す。あれの死は確信しているから、生き残ったアユミチとカヨウに返す。やり返す。

 

 

「そこですかぁ?」

 

 巨人が蹴り上げたような雪煙の中でも、ビッテスにはわかる。

 そこにアユミチがいる。

 そして、いるなら次の手は――

 

 

「ひ」

 

 今度は、音が聞こえなかった。

 存在が認識できない。

 アユミチの行動が見えない。だけど。

 

「あ?」

 

 左の乳房に突き刺さった。

 リグラーダが小弓につがえて放つ杭のような短矢が、ビッテスの柔らかな乳房に。

 心臓に向かって。

 

 

「あはっ」

 

 アユミチの居場所も行動も見えなかったけれど。

 自分の肌に触れたものならわかる。

 

 心臓に突き刺さる前に、強く乳房に食い込んだその矢を握った。

 

「触りたいならいいんですよぉ、アユミチくん」

 

 雪煙の向こうに影が見えた。

 短弓を放った姿勢の青年の影。

 

「わたしの胸もあつくなっちゃいましたぁ」

 

 何をどうやったのかは知らない。

 けれど、アユミチの千載一遇の好機を握り潰したのは、彼の悔しそうな顔が雄弁に教えてくれた。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

 

『届いたよ!』

 

 かちり、と。

 ビッテスに囚われながら、もがいて手繰(たぐ)り寄せた首飾りのスイッチを押した。

 

 数秒間だけ、世界から認識されなくなる魔法道具。

 一日に一度しか使えないそれを、今この時に。

 

「がはっ」

 

 ねじり切られそうだった喉から息を吐きだし、首飾りを手に握らせてくれたノクサに視線で伝える。

 ビッテスがアユミチを見失ったとしても、押さえ込まれていることは変わらない。

 喉を捻り潰されるのは避けられた。ビッテスは驚愕で戸惑っている。

 

『わかった』

「っ――」

 

 右手の指先がビッテスの足に触れている。

 ノクサの力を借りて、わずかに触れるその一か所を猛烈に掻く。引っ掻く。

 

「あつ!?」

 

 コンマ一秒で三百回以上の摩擦だ。

 原始的な火起こしの摩擦熱の要領でビッテスの服を焦がし、予期せぬ痛みでビッテスの拘束が緩んだ。

 大ダメージではないが、無視できるものでもない。

 反射的にアユミチの手を払いのけたビッテスだが、アユミチの存在を認識できない。

 

 レーマ様の魔法道具の効果は間違いない。

 姿を消す効果ではない。

 認識されない。世界から存在が消えたかのように認識されない。

 力の緩んだビッテスの拘束から抜け出し、突き飛ばした。

 

 

「なんで! どうしようもないくせにぃっ!」

 

 アユミチから突き放されたビッテスが喚く。

 

「あなたには何もできっこない! なんにも残らない!」

 

 さっきも言われた。

 アユミチには何もできないと絶望を促す言葉を。

 確かにアユミチは無力で情けない。事実だ。

 だけど、ほんの少しだけ違うことを知っている。だから諦めずにもがくことができた。

 

「あなたのカヨウは娼婦より淫らな女になる! 誰にでも股を開くでしょうねぇ!」

「ファニアは兵たちの便所に、それも喜んでくれますよぉ!」

「反乱軍は奴隷に! エクピキに背く者はみぃんな」

 

 バカな女だ。

 つまり、殺さないということ。

 カヨウもファニアも悲惨な目に遭わせるつもりはないが、クズに汚されたから無価値になるとでも?

 アユミチにとって彼女らの存在はそんなものではない。

 仮に心を喪失して自分で生きることもままならなくなるのなら、アユミチが生涯をかけて支えるだけ。

 

 早く助けに行きたい。行かなければならない。

 焦る気持ちはどうしようもなく掻き立てられるけれど、それこそビッテスの言う通り。アユミチにできることなんて高が知れているのだ。

 今、できることは。

 

 

「いちいち下品なんだよ!」

 

 認識されず、聞こえていないだろうが言い返した。

 

「俺のお人形さんじゃないんだ!」

 

 立ち上がりながら雪やらなんやらを握り込みながら足を振り上げた。

 ファニアもカヨウもアユミチの言いなりの人形ではない。アユミチなんかよりよほどしっかりした、頼もしい女の子だ。

 むざむざビッテスやエクピキ教の目論見に落ちるようなタマじゃない。

 

『いいこと言うじゃない』

「ノクサ!」

 

 周囲にビリビリした殺気を散らしながら警戒するビッテスに、足元の雪を思い切り蹴り上げた。

 ノクサの力を借りて、爆発的な雪煙が巻き起こる。

 続けて、間髪を入れず――

 

「そこだ」

 

 見失っていても、雪を蹴り上げた中心にアユミチがいることはわかるだろう。

 こちらを向いたビッテスの影に、リグラーダの小弓を放った。

 

 

「あはっ」

 

 ビッテスの胸に、心臓に、何かに誘われるように突き刺さる。

 どれだけ練習してもアユミチにリグラーダほどの腕はない。だけど、会心の一撃だと思った。

 これで殺せる。

 仇を討てると思ったのに。

 

「触りたいならいいんですよぉ、アユミチくん」

 

 面の皮と同じくらい厚い胸の脂肪のせいか。

 

「わたしの胸もあつくなっちゃいましたぁ」

 

 心臓に届く前に、肉の途中で、短い矢を握って止めた。

 ノクサの力を借りるアユミチも常人離れした動作をするが、それとは別種の人間離れした超反応。

 ただ反応というだけではなく、雪煙と同時に攻撃が来ると直感していたのか。戦闘経験もこの世界でトップクラスでアユミチとは比較にならない。

 

 

「くっ」

 

 アユミチの手で仇を討てる千載一遇のチャンスだったのに。

 悔しさで声が漏れる。

 血濡れた右手と、反対の手には赤い宝石が輝いた。

 

「見ィつけた」

 

 いつか砂塵を浴びて筋線維をむき出しにして(わら)った顔。

 今は、白く張り付いた雪化粧の下でその頬が嬉しそうに歪む。

 

『アユミチ、伏せて!』

 

 赤い宝石の輝きに照らされる笑顔に対し、アユミチが取れる手段は他になかった。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

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