法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
デフィロはアユミチについて行かなかった。
女神降臨の夜に女神様の下にも行かなかった。
そのことについてデフィロが責められることはなかった。
ただもう一度だけ、女神様のところに行く気になったら言ってくれと言われて、その後は特になかった。
北府ヴォラスは静かに冬の終わりを迎えようとしている。
常駐の兵士だけでなく、町や近隣の村の戦える男は王都に進軍した。
東港アナトーリの左潮伯カッダ・マノスの檄文を受け、王弟ニーモ……正統トローメ国王ニーモの軍として。
戦争のことはデフィロにはわからない。
ただ、エクピキ教を打倒するという目的はわかっている。
反発力だとアユミチが言っていた。
強い支配、強権に対して、押さえつけられていたものがやり返す。
トローメ国内でエクピキ教はとても強大で、長く上に立ってきた。
その反動が今の動乱。
エクピキ教を滅ぼせば全てがうまくいくというわけではない、と。
こともあろうにアユミチが言っていた。
デフィロと二人だけの時に。
アユミチは女神レーマ・ルジアの使徒だろうに、そんなことを言うのか。
なんなら、レーマ・ルジア様が全部を支配したらめちゃくちゃになるとまで言うのだ。
不思議で、わけがわからなくて、でもなんだかそうなんだろうなと納得した。
誰も完璧な存在なんてない。
それぞれ良いところ、悪いところがあって、積み重なっていく。
神様でさえそう。だから世界はまとまらない。
デフィロには、エクピキ教以外のものも見てほしいと言われた。
今まで見てきたものと違うかもしれないけれど、違うから悪いのではない。
もっと多くを見てほしい。感じて、自分で考えてほしいと。
まだデフィロは何を知らないのか、何がわからないのかわからない。何も知らない。
だから北府に残り、廃教会に残った。
「……司祭様?」
「おっおお? いや、あー……驚かすでない」
夜遅く。
暖炉の火の前で、一人左手をじっと見つめていた。
陽灯小司ジルボン。太っていて、顎より首の方が太くて、全体的に三角形な体格の司祭。
「すみません」
「よいでおじゃる……麻呂が呆けておったのじゃ」
ジルボン師の立場はよくわからない。
元は間違いなくエクピキ教の司祭だったはずだが、今はエクピキへの信仰ではなくアユミチに尽くしている。
既にエクピキの司祭ではないと本人が言っていた。
左手の【指】は残っているが、本来刻まれるべき徳はない。
徳を重ねるごとに濃く広がっていく黒い紋様。
「あの……すみませんでした」
謝った。
機会がなく、謝れずにいた。
……いや、気が重くて機会を作らなかったというのが正しい。
「なんでおじゃる?」
「前に……最初にお会いした時、僕はあなたに失礼なことを言いました。すみませんでした」
「ああ」
ジルボン師がゆっくり手招きするので、その隣に座る。
暖炉の火に照らされる丸い顔。お世辞にも恰好がいいとは言えない。
父エヴェニス・ディアホラはすらりとしていて、比べても仕方がないが見栄えは良かった。
「そのことであれば、礼を言いたいくらいでおじゃる」
「そんな……」
「麻呂の
ぼんやり眺めていた左手をデフィロに広げて見せた。
手の平にへそのような穴があり、そこから肌色の異なる指が少しだけ頭を覗かせている。
エクピキの【指】だが、デフィロの父エヴェニスよりも小さいように感じた。
それが司祭としての格なのか。
「【指】を授かり、刻まれる紋様が増すのを誇りに思っておった。アユミチに会いしばらくしてから、紋様が薄く消えていったのじゃ」
「……」
「気づいた時は不安じゃった。【指】が失われ、麻呂の価値がなくなるのではないかと」
「そんなことは……」
ない、とは言えない。
【指】の奇跡、治癒術は極めて有用な能力だ。
それがあるからエクピキの司祭は尊ばれ、トローメを牛耳るだけの権勢を築いた。
失われれば、ジルボン師の扱いがどうなるか。他人からどう見られるか。
「幸い人を癒す力は消えず、ほっとしたのでおじゃるよ」
やんわりと笑うジルボン師は本当に安心した様子で、自嘲や皮肉ではない笑顔にデフィロも安堵を覚えた。
話していて安心する。
そういう資質はデフィロが知る陽灯司とは違う。
「しかし、今でもつい見てしまうのでおじゃるよ。どこかに紋様が残っておるのではないかなどと」
「どうしてですか?」
「ふむぅ……やはり、あれがエクピキへの……人々の感謝のしるしのように思っておったからのぅ」
消えてしまったけれど、どこかに残っていないか。
ずっと誇りに思っていたしるしだ。なくなってお終いという気持ちにはならないのかもしれない。
ジルボン師は長くそれを心の拠り所にしていたのだろうし。
「それで夜更けに御覧になられていたのですか?」
「皆に見られては恰好悪いじゃろう。うじうじと情けない」
なるほど。
そういう心の陰をデフィロがぬけぬけと指摘し言い放った。
今のデフィロとすればただ申し訳なく思うばかりだが、ジルボン師にとっては心のつかえが取れたような気分だったのか。
「ジルボン師は……あなたは、【指】がなくてもすごい人です。僕は尊敬します」
「はっ、世辞はよすでおじゃるよ」
ぐにゃあっと顔を歪ませてデフィロをたしなめるけれど、とても嬉しそうだ。
なんというか、本当に。正直な人。
笑いながらもう一度手を見て、デフィロにも見せる。
「ほれ、ここじゃ。薄っすら小さく見えんか?」
「本当だ、少しだけ……これは?」
【指】の左上、ジルボン師の薬指との間に少しだけ黒ずみみたいなものが見える。
だけど、たぶんほくろだ。
「ほくろかもしれんと思うんじゃが」
「きっと違いますよ」
「うぅむ……ほくろでごじゃらぬか?」
「違いますよ」
デフィロは思ったのだ。
この人が僕を安心させてくれるように、僕もこの人の心を安んじたい。
そういうことができれば、きっとデフィロも、【指】などなくても誰かに必要とされる人間になれるだろうと。
そうなりたいと思って笑顔を返した。
◆ ◇ ◆
両手を左右に広げて。
蕾のような体を開いて。
小娘の小さな指が触れる。ザイドロスの偉大な【指】に触れて、指を絡めた。
可愛らしい指の股の間に長く節くれだった指を割って入らせて、指の股の奥まで繋がり合う。
ぼわっとした光が娘の手のひらを温めると、その肉の内側を流れる血潮がせわしなく行き来した。
どくん、どくっ……ぎゅっみゅりゅっ……娘の内側の鼓動が強く高鳴るのを肌で感じる。
瞳は蕩け、頬を緩ませ、花色の唇はわずかに開いてその口腔の濡れた内壁を覗かせた。
今にも蜜が零れそうな顔で、ゆるぅく。
「そう、受け入れるのでございますよ姫様。あなた様は尊い姫君でございますから」
「わたし、は……」
屈んで、左右に広げて繋がる手をさらにゆっくりと広げる。
【指】に吸い付いて離れない温かく小さな手と、すっかり力を失った少女の身体。
失われた王家の姫が、フォティゾの娘が、ザイドロスの手を取り月のように美しい顔をザイドロスの顔に寄せた。
ザイドロスとて、最初から【指】をいただいていたわけではない。
【指】がなかった頃、片方だけだった頃から。
多くの者の心を揺さぶり、潰し、溶かしてきた。
【指】を得てからはそれが容易くなったものの、研いてきた技を捨てはしなかった。
不安を呼び、隙間に潜り込み、揺らす。
普通の者より長い指はエクピキがザイドロスに与えてくれた天性。
見開くとぎょろりとした目玉も。
囚われた者、痛みで苦しむ者は扱いやすい。
年若い者はこれもまたよい。
警戒心が強い処女などは、一度内側に入り込んでしまうと今度は進んで自らを委ねてくる。
救いを得たと理解し、甘え、甘え、甘える。
男に騙され娼館で働く女がいつまでも減らないのもわかる。
一度そうなってしまえば、もう判断はできないのだ。
ザイドロスの長い指、常人より多い節は、人の心を不安にさせて隙間を生むのを得意としていた。
そして、嘘よりも事実の方が心の扉を開けやすい。
言葉と指とで心を開かせる。
ザイドロスがこじ開けるのではなくて、向こうから。姫様の方から。
ほんのちょっと、もうちょっとだけ。
ザイドロス様の言葉を聞きたい。
少しだけ隙間を開いて、こっそり覗き見るつもりで。
カヨウの中に入れた。ザイドロスの舌から漏れる言葉を。
揺れる指を見ながら。
自分にとって都合がいい、悪くない、受け入れてもいい言葉を中に入れた。
まだぼんやりとしているカヨウの瞳にザイドロスの顔がぼんやり映る。
仕上げを植え付ける。
捻じ込む。
人を操る時の最後の一押しは、衝撃だ。
多くの人間を扇動する為に、酩酊させ、肯定させ、最後に強い言葉で心の髄に焼き付ける手法と同じ。
「よぉくごらんなさいませ」
「は……い……ざいどろすさま……」
すでに出来上がっているカヨウに抗う術はない。
ザイドロスへの信頼は、親愛は、情愛に染まる。
何をしても快楽にしかならないのだ。これからの衝撃と共にそれを体で覚え、その全てを許す。
そして手に入る。フォティゾの姫はザイドロスとの間に真のエクピキを生む母となる。
「カヨウ様、カヨウ姫様」
「はい……ざいどろすさま」
「開きなさい!」
口を。
目を。
その美しい瞳にザイドロスのぎょろりとした目玉の輝きを映せば、永遠に逃れることはできない。
「は……」
ザイドロスの舌に熱く熱い体温がねっとりと流れ込んだ。
――ちょうど、刻限です。
◆ ◇ ◆
冷たい声が響く。
何かに操られたかのように熱のない、冷淡な声音。
「ちょうど、刻限です」
焼けただれ、腐れおちるような肌。
何かの病。あるいは呪い。それとももっとおぞましい悪夢のように。
ぎょろりと剥きだされたザイドロスの目玉に映り込む。
頭の髄に流し込まれる。不吉で不浄、肥溜めよりも汚らわしいそれらがザイドロスの中に流し込まれ、腐るように舌が落ちた。
両手に握っていた美しい手は、雪を潰すように粉々に。
「
腐った死体の口から流し込まれた言葉で、ザイドロスの舌の断面が熱く焼けただれた。
◆ ◇ ◆