法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「思いやり、だと?」
腹立たしい。
実に腹立たしい。
生温いミルクのような彼の言葉に震えるほどの怒りを覚えた。
「アニラービーのあの様を見てなお出てくる言葉がそれか!」
激昂し、激憤し、雷鳴のごとき声を轟かせた。
声が豪槍となり大地に突き刺さり、彼の背筋もぴんと伸びる。
「優しさ、慈しみ! あやふやなものを信じた挙げ句にあの様だ! 光は陰り我らは欠け、世界は歪み
「そうだとしても」
「道が必要なのだ、正しき一本の道が」
昔から彼は甘ったれだった。
支えたるレーマルジアを失いかけて、さらにその甘さに拍車がかかったか。
「情けないやつ。貴様もアニラービーと同じく人の心に染まったか。次はまさしく永遠に失うぞ。お前の」
「やめろ……」
「レーマルジアを取り戻したいのならば! 道はひとつ! 全て正しき道に」
何が優しい世界だ。
和に満ち笑い声の絶えない世界だと、生温く白濁したミルクのごとき世界にレーマルジアは戻らない。
どこまでも透き通る世界を創る。
そうしてようやくレーマルジアは戻ることができるのだ。
彼女を永遠に失わぬ為に。
「お前にレーマルジアは救えない。彼女の指がお前に触れることはない」
歪みは正さねばならない。
ねじれた運命は透き通った世界をまた歪ませる。
沈まぬ太陽が照らす曇らぬ世界で、レーマルジアを迎えよう。
◆ ◇ ◆
愚かしい。
愚かしい。
誰も彼もが愚かしい。
異変につられ、敗戦に
実に愚かしい。
理想を求め、恨みを抱き、あるいは次の利得を得ようと。
引いて見ればよくわかる。
熱病に浮かされ踊る人々。
己もかつてはそこにいた。
色褪せた。
金銀珠玉は全て灰色に。
美女も美食も何もかも色のない空虚なものと変わった。
向こうが変わったのではない。
自分の目が、心が、それらに何も意味を見つけられなくなっただけ。
空しいとはこういうことか。
時が戻らぬのなら、せめて。
懐かしい色に向かって死にたいのだ。
――お父様。
――お父様。
――ほら、綺麗でしょう。お父様。
「ああ」
お前が作ってくれた花冠。
あの花の名を聞いてきたよ。
私は何も知らなかったのだな。
全てお前が教えてくれた。だから――
◆ ◇ ◆
「もうすぐ、だな」
静か。
外に喧騒の気配はあるけれど、まるで鏡の向こうの別世界のように遠くに感じた。
ただ、静か。
「苦労をかける。お前にはずっと」
「私の心は陛下のもの。お気遣いは不要です」
いつもと変わらない。
何も変わらない。
イドラ・ディドラーはきっと明日も、明後日も。ネロがいなくとも変わらないのだろうと思うと少しだけ救われる気がした。
安心する。
「イドラ……ありがとう、イドラ」
「仰いますな」
「お前こそが僕がこの世にいた証だ。お前は僕を忘れはしない。そう信じられる僕は幸せなのだ」
心から、疑いなく信じられる者がいる幸福。
誰もが得られるものではあるまい。
まして一国の王ともなれば、そのような相手を作る機会すらなかったかもしれない。
父王クムスに対して、ネロ個人としては様々な葛藤はあるけれど、異邦の忠臣を遺してくれたことには感謝しかない。
「左潮伯や他の者を恨むな。全ては約束通り」
「……」
「僕は恨んでいない。僕が選んだことだ」
「……はい」
イドラがネロをどれだけ思ってくれているか、痛いほどわかる。
だからこそ、ほんの少しの心配もある。
「むしろ約束を破るのは僕の方だ。ニーモは僕を恨むかもしれないな」
「そのようなことは」
「怖いんだ」
笑う。
グラスの中の赤い液体が震えた。
「顔を合わせれば何を言ってしまうか……僕は……」
「ネロ様……」
「叉波王は僕を選ばなかった。あの日、自分で決めたことを守れない……」
「五年も前の、まだ八つの時のお言葉です。変わってもよろしい。私はネロ様の――」
「そう命じてしまいそうで、怖いんだ」
グラスを握り直し、首を振る。
全てをひっくり返してしまいそうな自分と、全てをひっくり返せてしまう友に。
「もしお前が僕のことを許してくれるなら」
「全て」
「僕の弱さを、許してくれ」
ニーモは気の優しい弟だ。
その優しさは柔く、頭を二つに分けた国の土台にはもろすぎる。
二つに分かれてからでは、イドラはきっと向こうの支えにはなり得ない。
次は、逃れようなく二つに割れ、トローメはばらばらに千切れていく。
「僕は王で、兄なんだ。そうありたい」
グラスを
◆ ◇ ◆
おのれ、おのれ。
口惜しい。
手札は抑えた。
時を得た。
だというのに、思いもよらぬところから邪魔立てされた。
封じられた。
エクピキを宿す主光ゲニーメを討滅する絶好機を、影の中に封じられたままむざむざ過ごす。
「ラハ様」
何も見えぬ影の中、繋いだ指に伝わる鼓動。
花札が揃い、手札を揃えて、最後の瞬間を逃さぬよう影に潜んだというのに。
その影から出られない。
鬼巫アハラマ、先代鬼巫ヨハルハ。そして黒のマベラの悔やみきれぬ失策。
状況の波に動揺を抑えきれないレフカースならば無理もなかったが、マベラも平静ではなかったか。
花札全員で影に潜る瞬間に、よもや――
「タシモ・ティッダーンめが……」
侮っていた。見くびっていた。
貴族院議長などと言っても肥え太っただけの豚。
しかし、腐っても古い血を継ぐ貴族。アハラマも知らぬ魔法で封じ込められた。
「息果てるまでここで、か」
エクピキを討滅しスカーア復活を目の前にして、まんまと。
口惜しい。口惜しい。
まともに戦えば負ける絶対に相手ではない。
完全に気配を殺す為に表への干渉ができぬ影の中という状況でなければ。
敵はエクピキ教団だけではない。
貴族の中にはエクピキと繋がる者も多くいたのはわかっていたはず。
見誤り、誤断したアハラマたちに打つ手はない。
外に協力者などいない。北の隠れ里から誰かが来てくれることもない。
「……ここまで来て、このような」
奇跡を願うしかないのか。
運を天に任せ、誰かがここを開け放ってくれるのを待つしかないというのか。
誰が、いったい誰が――
◆ ◇ ◆