法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「イドラ・ディドラー!」
鬼巫たちは動かない。
今ほどの攻防でのダメージもあれば攻め手にも欠ける。しかし虎視眈々と。
この状況で薬師が大声を出したからと言ってイドラの注意を引くことはない。
戦場に立つような男ではない。何の間違いで持ち上げられこの場にまで来てしまったのか。
イドラとしても動きづらい。
エクピキの【指】はまだネロに完全に宿っていない。
ネロの腹から伸びる【指】の輝きはまだ弱く、またネロの体に伸びていく光の根も半ばに満たない。
時間が必要なのだろう。イドラから動いて隙を作れば、鬼巫たちとてそれを見逃すほど愚鈍ではあるまい。
守って戦うことに慣れてしまっているところもある。
「聞いてくれ、イドラ・ディドラー」
「……」
取るに足らない男。凡庸な。
それが何を
「あんたの大事なその子を助けられなくて、すまない」
「……」
「ごめん」
どうでもいい、が。
「お前に、何が……」
「その子の……ネロの為に、話をしよう」
どうでもいい相手だが、苛立ちは感じる。
お前にネロ様の何がわかるというのか。
「話さなきゃわからないことばかりだ。だから、話をしよう」
「今さら……」
この期に及んで何を話すというのか。
既に道は決した。
イドラが選んだネロの生きる道を認められないのなら、ぶつかる他に何もない。
互いの信じる道を進む為には勝つ以外にないのだ。
無力な男には喋る程度しかできない。弱く
「抗う力もない者が何を言おうとも――」
「その抗うことができない子の為に戦ってんだろうが、あんたも!」
黙れ、と。遮られた言葉が続かなかった。
今イドラが塞ごうとした薬師の口は……
「話さなきゃわかんないだろ、その子の気持ちだって」
「お前はネロ様ではない」
「俺にも助けたい子供がいた」
貴様のことなど知るか。興味もない。
助けられなかったのだろう、力がなくて。
イドラは違う。無力な薬師とは違う。
神の力を奪い、ネロが生きる道を切り開く力がある。イドラにしかできない。
「助けられなかったのに、言ってくれたんだ。俺に。ありがとうって」
「……」
「全然幸せな人生じゃなかった。だけど、きっと……生まれてよかったと思ってくれたんだ」
だからなんだ、珍しくもない。
まともに生きる道も選べず、苦しむばかりの人生。
そんなもの世界のどこにでもありふれている。溢れかえっている。
「ネロにとって……その子にとって、あんたが救いだったんだ」
「そうだ」
その通り、イドラだけがネロを救うことができる。
他の誰にもできない。だから。
「そのあんたが、ネロを蔑ろに、その子の気持ちを踏みにじってるのを見て。黙ってられるかよ」
踏みにじる?
ネロの命を、ネロの時間を踏みにじってきたのはこの国で、この世界で、神々であり人々だ。
余計なものがなければネロは自分の為に生きられた。
イドラはネロに絡みつく悪意や呪いめいた願いを切り捨てる。
どこまでもネロを苦しめるだけの重荷。そんなもの、全ていらない。必要ないのだ。ネロにとってお前たちは。
「人は生まれを選べない。捨て森の子供たちだって、ネロだって……イドラ、あんただってそうだっただろ?」
「……」
「でも、それも含めてその人だ。俺もあんたも、つらいことも理不尽なことも全部合わせて人間なんだ」
「王に生まれたから死なねばならん理由があるか!」
「じゃあ貧民に生まれたから死んで当然だっていうのか! 違うだろ!」
なんだ、この男は。
王と庶民を同列に語る狂人か。
貧民の子供など……
「そんな――」
そんなもの死んだところでどうでもいい、と。
喉が詰まるように言葉が詰まった。
理不尽に子供が死ぬことを肯定するのは、ネロの死を認めるような気がして。
口に出してしまうと、それが……自分自身や周囲に染みつき、浸食してくるような得体の知れない気分の悪さ。
「……だがお前は」
それでも、黙って聞き入れたくはない。
イドラよりずっと弱く情けない男の話など、寸分たりとも認めたくはない。
「お前には守れなかった。それだけだ」
「あんたは守らなかった。イドラ・ディドラー」
「なに……」
ほんのわずか、イドラの
鬼巫たちから目を離すことはないが、少しだけ。
「あんたはその子の願いを……ネロの願いも、王の命令も守らなかった」
「……」
「それは、あんたの弱さだ。イドラ・ディドラー」
弱さ?
イドラの、世界最強の王の盾の弱さだと?
そんなものはない。
鬼巫が花札を揃えて挑んでも打ち払い、主の為であれば神たるエクピキの力さえも奪う。
できないことなどない。
迷いも甘さも全て捨てた。ここにいるのはただネロ一人の為に存在する王の盾。
「あんたが耐えられなかったんだ。悲しみから逃げた」
「きさま……」
ぎり、と。歯が鳴る。
視線も、鬼巫から一瞬だけ薬師に動いた。
言うに事欠いて、この舞台で端役すら務まらない程度の男が。
「俺も、あんたと同じだ。背負いきれない悲しみは誰にだってある」
「俺は、逃げてなどいない。ネロ様を死なせはしない」
「もう死んだんだ……その子は、もう」
「生きている。命があるうちに俺が――」
「エクピキになるんだ、もうネロじゃない」
何を根拠に。
お前ごときが何を知っていると……知っているという、のか?
――もう、ネロじゃ、ない?
目線が彷徨い、ネロの腹に根付く【指】と、符を握る花札。北府の兵士たちと少女に陽灯司長カシキに、薬師の肩に止まる黒蝶は光を吸い込むような闇色の羽で。
「……ネロ様は死なない」
「神の重さに潰れる前に」
「ネロ様は俺が守る!」
「お前が守るべきなのは!」
なんだ。
何を言うのか聞きたいと思ってしまった。
お前は何を知っている?
「その子の気持ちと尊厳だ。言ってたんだろ」
「なにを――」
「いい兄でいたいって。かっこいい兄貴になりたいって!」
「それがなんだと言う!」
「あんたみたいになりたいって言ってたんだろうが!」
………………?
「イドラ・ディドラー、あんたみたいに……芯が通った男になりたいって言ってたんじゃないか。俺だって、あんたみたいになりたいよ。迷ったり曲がったりしない、いつ見ても背筋の伸びたかっこいい男に……」
「おれ、は……」
「弟に、兄貴はイドラみたいに強くて真っ直ぐな男だったって見せたかったんだ。ネロはあんたに憧れていただけだ」
先王クムスを守れなかった。
慣れぬ船上で暗殺者の不意打ちなどの言い訳をしたことはない。
ただ託されたネロは絶対に守る。そう誓いを立てて貫いてきた。
ネロの目に、イドラがどう映っていたのかなど考えたことはない。
「おれの……」
「あんたは強い。強すぎて、力のない人間からどう見えるかわからないんだろうさ」
「……」
「あんたみたいに格好よくなりたい。一度決めたことを曲げず迷わずやり抜いて、あんたに認めてほしい。イドラ・ディドラーみたいな兄貴になりたい。だからネロは、怖くてもつらくても食いしばって進んだんだ」
「そんな、ばかな……」
「逃げればよかったんだ。投げ出せばよかったんだ、国王の責任なんか」
「……」
先王クムスから受け継いだ国王の責務を、そのように。
ああ、違う。
イドラは、ずっと恨んでいたのだ。
ネロに課せられた王家の呪縛を。そんなものを遺していったクムスを。
恨んでいた。
憎んでいた。
俺なら、イドラなら、ネロにこんな顔をさせない。
クムスより俺の方がネロにとってかけがえのない存在になるのだと、余計に頑なに。
イドラは背かない。
ネロに背かない。イドラだけはクムスの味方として何一つぶれず、違わず。
迷いなく貫くイドラの姿が、ネロにとって呪いになっていたというのか。
足を止められない。道を変えられない。
それではまるで……
「薬師、アユミチ……」
弱く惨めな、今この場で役立つような力を持たぬ情けない男。
大した力もなく、運命やら状況に流されてここにいるだけの人間。ネロやニーモも同じような。
「ならば……お前ならば、どうしたと……どうすれば、よかったと……」
「……今のその顔を、見せてやればよかったんだ」
己の顔は見えない。
己の立ち姿を見えぬように、今イドラがどんな顔をしているのかなどわからない。
「あんたのその顔を見て、あんたがどれだけ弱いか知っていたなら……たぶん、ネロも考え直しただろ。だって」
「……」
「だって、さ。優しい子だったんだろ。弟の為に盾になるような優しい子だ」
「あ……」
そうか。
そうだ。
そうだったのだ。
イドラが揺らげばネロが危うい。イドラは王の盾。
そして、ネロが揺れればその影響はニーモの身を危うくする。
ネロは、イドラに
ただの子供にそうさせたのは、イドラへのあこがれ。
ネロと話したこともない薬師風情がわかることを、ずっと傍にいてわからなかったこの愚者にあこがれて。
取り返しのつかない愚行に手を染め、言い負かされて泣きそうになっているようなこの弱者にあこがれて。
弱く、惨めで、情けない。
悔しくて、悔しくて。
「……イドラ。お前の行いは僕が許す。僕が」
「ニーモ殿下……」
優しい子だ。
ネロの弟。ネロが守ろうとしたただ一人の。
「お気持ちはありがたく」
かすかに首を振り、申し出を辞す。
今さら許しを得られるはずはない。イドラ自身が許せない。
「薬師アユミチよ」
認める。
「お前が正しい」
「そういうわけじゃ……」
「お前がネロ様の傍にいたのなら……俺ではなく、お前ならよかったのだろう」
自分のことしか見えていなかったイドラではわからなかった。
アユミチは弱く、弱いからこそ見えるものがある。
イドラでなくアユミチがネロの傍にいれば、ネロは最悪の道を選ばなかったに違いない。
「あんたが捨て森にいたら、俺よりずっとたくさんの人を助けられた」
「お前は……いい奴、だな」
羨ましい。
心からそう思う。
イドラとはまるで違う人間で、これほど愚かで救いようのないイドラの心情まで労ろうと。
女神の使いということだったか。
聖職者などエクピキ教団の印象ばかりだったが、本来神の使いとはこういうものなのかもしれない。
「ネロがエクピキになる前に……」
「……あぁ」
妬ましい。
「そうか」
これが嫉妬か。
「イドラ、ネロを……」
「ネロ様の傍にいたのは、俺だ」
ネロに根付いた【指】からの光で、
「お前ではない、薬師アユミチ」
「……イドラ・ディドラー」
「ネロ様が……この子が、ネロが、エクピキになるまでと言うのなら」
道は決している。
イドラはアユミチではない。イドラは既に選び、ネロの命と共に進んでいる。
「俺はネロを守る! 何を敵にしたとしてもだ!」
「イドラぁ!」
アユミチの咆哮と殺意の嵐が大聖堂に溢れた。
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