法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
世界に必要ないものはいっぱいある。
いっぱい、いっぱい。
どうでもいいもの。なくなっていいもの。
人間だってそう。
自分しか自分を必要としない。本当の意味で必要な他人なんていない。
代替えがきく。
上司でも部下でも、親兄弟でも友人でも。恋人だってそう。
同じだけ自分に有用なら代わりが利く。
前のよりもっと有用なら取り替えた方がいい。
だってそうでしょう。
望みをいっぱい叶えてくれて、すごくすごく気持ちよくさせてくれる主がいるならそれが幸せ。
今の主より上がいるなら、そっちの方がいい。
神様はその最上位。それ以上はいない。
二十年くらい前だったろうか。
いいところの娘が顔を怪我して教団を頼ってきたのだと聞いた。
貴族にとって娘は商品程度の扱い。大した問題にもならないだろう。なったところで教団に逆らえるはずもなし。
当時の太光師が気に入ったとかで光にどっぷりと漬けこんだ。
上位の貴族の娘。
魔法の力もそれなりに見込まれてビッテスに指導を託された。
ビッテスと違ってずいぶんと恵まれた生まれだったらしい。
頭が狂っても、言動の端々にそんな甘い、甘ったるい、幸せめいたものが見えた。
ビッテスの神経を逆なでする娘だった。
だから。
治癒を欲しがっても欲しがっても与えず、死ぬまで狂わせた。
任務中の死亡なんて珍しくもない。
まさかその娘を、大貴族が必死に取り戻そうとしているなんて思いもせずに。
たかが娘くらい、また作ればいいじゃない。
たかだか人間くらい、また産ませればいいじゃない。
何か特別なの?
代わりが利かないような、神様みたいな特別なの?
あぁ、死なせてよかった。
そんな奇妙なもの、生きていたらビッテスが不快だもの。
ビッテスは死なない。
死なないで、永遠にエクピキの悦びを得て生き続ける。
本当に特別なものは輝いているもの。こんな娘なんかじゃない。
貴族に生まれただけでしょう、この娘は。
ビッテスは……
特別だから、死なない。死なないのに。
「死……」
死ぬ、の?
なくなる? ビッテスが世界からなくなる?
「や……」
つまらない男に殺される。
意味もなく、理由もなく、あんな名もない男に殺されるなんて。そんなの許せない。
手から、零れてしまった。
掴んだはずの、王様からいただいた綺麗な貴石の粒が、全部こぼれてしまった。
もう、ビッテスの手には何もない。
「あ……?」
倒れたビッテスの瞳に映るもの。
少しだけ、ほんのり明るく光を反射する。
泣き顔。
男の、老人の泣き顔。
「お、……とう、さま……」
そうだ。
あの娘は確かそう呼んでいた。
トローメの大貴族のことを、そんな風に。
「あぁ……」
男も死ぬ。
ビッテスも死ぬ。ここで。
だけど。
男の目に映っているのはビッテスじゃない。
とうの昔に死んだはずの、特別でもなんでもない娘の顔。
「や……なくな、る……」
何にもなくなる。
誰もビッテスのことを見ていない。
アユミチも、ビッテスを殺した男も、誰も。
エクピキも、遠く。
「おとう、さま……」
せめてその目にビッテスを映して。
わたしが、あなたの娘の代わりになるから。
だからビッテスを見て。
わたしを、見てよぉ……
◆ ◇ ◆
イドラとファニアでは明確に実力の差がある。
研鑽では埋めきれない差があると認める。
認めた上で、勝つ。
アユミチに託されたのだ。任されたのだ。この決着を。
だから敗北はない。
不思議と、できないという感覚がなかった。
むしろできる、やれて当然というような。
正面から対峙して、イドラ・ディドラーという戦士の強大さは計り知れないものだと実感しているのに。
手にする見事な矛戟は、伝説の武具
さらにエクピキの治癒の恩恵まで享受している状態。
卑怯と言いたくば言えということだったが、ここまでくると面白いほどバカバカしい。
勝てるわけがない。
誰もがそう言うだろう。
だからこそ意味がある。
奇跡の薬師アユミチの伴侶として、彼の剣として。
これ以上の敵は望むべくもあるまい。
卑怯とは言うまい。
国王ネロが、少年の腕ほどの【指】を腹から生やしている。
飛び込んできた瞬間は、この場の状況が全くわからなかった。
何がどうなっていて、誰がアユミチの敵なのか。味方なのか。
鬼巫アハラマと戦っていたのがイドラ・ディドラー。
そのイドラを倒すことをアユミチに任されたのだから、今は他のことは考えない。
星光のビッテスもいるけれど。
他を気にして生き延びられるほどイドラは生易しい相手ではない。
アユミチの為に、そして鬼巫アハラマの為にも、イドラを倒す。それ以外のことは全て頭から切り捨てた。
ファニアがすべきことはひとつ。
イドラを倒す。
相手が悪人か善人かは関係ない。剣として主命を果たす。
イドラだけを認識して、他は全て遠くに。
呼吸、重心、視線。その筋肉の軋みまで感じる。
「ま――」
揺れた。
巨岩のごとき圧力で不動と感じたイドラが、
二度あることではあるまい。
「はぁぁぁっ!」
迷わなかった。
格下のファニアが迷って届くはずがない。
真横に振り抜いた剣は、わずかに遅れた矛戟の柄を薙ぎ、イドラには届かず。硬質な金属音を響かせファニアの右に抜ける。
しかし反応が遅れたイドラは押し込まれ、かかとに重心がかかった。
「はっ!」
振り抜いた剣が返る。右手一本。
「遅い!」
遅くはない。
ファニアの剣閃は、およそ世界の剣聖の一撃と劣らぬ速さ。
イドラがそれを上回るだけ。
やや仰け反りながらも
「っ⁉」
「ふ!」
即座に折れた剣を手放し、手刀でイドラの胸を貫こうと――
「させん!」
搗ち上げた矛戟の返りも、ファニアより速い。
振り下ろされた戟がファニアの右手を斬り飛ばした。
「あァっ!」
腕は二本ある。
折れた剣を手放したけれど、折れるとわかっていたから。
だから、右手から離れたそれを左手で掴んでいた。
仰け反った体勢で捨てた剣の行方までは見ていなかったイドラに、左手の折れた直剣の断面が突き刺さった。
「ぐっむぅ!」
おそらくイドラは最初の一合でファニアの剣を誤認した。
異常に硬度の高い金属だと。
鋼の頑丈さはその粘り、柔軟性と剛性にある。
しかしファニアは先に病毒を嫌って刃を炙った。硬さは増したが柔軟さが損なわれ、これ以上の戦いに耐えるものではなくなっていた。
元より妙に頑丈だったのは、これがアニラービーを斬ったという事実が剣を強くしていたのだ。
「俺は――」
脇腹から上に、肺近くまで
かかとにさらに力を込め、傷を
「ネロの!」
イドラの意志と力を受け、雷光の力を。
「ネロは俺の全て!」
イドラの筋肉が異常なほど痙攣してファニアの剣を止めた。
噛みつくように。
「俺の命だ!」
「いや」
本当に残念だ。
この男が弱っていなければ、本当の戦士の頂を見ることができただろうと。
そんなことを言っている状況ではないのに、ファニアは心からそう思う。
「お前は主命に背いた」
右手を引く。
綺麗な断面の骨。
持っていた剣よりも鋭利に斬られた。痛みすら感じない。
「残念だよ、イドラ」
ファニアの右腕がイドラの左胸に突き刺さった。
◆ ◇ ◆
「……が、ば」
雷光よりも速かった。
ファニアの一撃が。
「な、ぜ……」
代わりに使えば死ぬ。
「そんなものに頼らなければ」
「……」
「お前の一撃は雷光よりも速かったのに」
なぜ。
なぜ、ファニアに遅れたのか。
イドラの方が強かったのに。その答え。
「傷を癒せるせいで無理な体勢で応じた。仕切り直せばよかったものを」
「は……」
「それと、三つ」
右の肺に折れた直剣が突き刺さり、左の胸にはファニアの右手が突き刺さったまま。
そうか、そうかと。
聞いて、得心して。
「主命に背いたお前と主命をいただいた私では、覚悟が違う」
「……」
「お前が弱さに負けていなければ、私は勝てなかったさ」
ずるり、と。
血濡れた右手が抜かれた。
「……?」
ファニアの手が、指先まである。
切り捨てたはずの右手は、床に転がったまま。
「治癒、の……?」
エクピキの治癒がファニアに与えられたのか?
まさかネロが、イドラではなくファニアを認めたというのかと。
「勝手でしたが」
そうではなかった。
ファニアの後ろから光を放った者がいた。
「役に立てた、なら……」
「陽灯司長……カシキ?」
ファニアも気づいていなかったらしい。
イドラの血に濡れた自分の右手を不思議そうに眺めてから、斜め後ろから光を放ったカシキにちらりと目をやった。
「薬師殿に……どうか」
カシキの顔には死相が浮かんでいる。
経緯はわからないが、【指】持ちがエクピキに逆らった末路なのかもしれない。
ファニアを癒し、助けた。
敗れた。
ネロの盾として負けてはならぬはずのイドラが。
両肺が潰れている。
時間をもらえれば治癒の力で治るとしても、まともに動けるまで待ってはくれまい。
「最後に……」
最後に、ネロの顔を。
謝りたい。
許されるはずもないが、それでも。
「ネロさ、ま……ネロ……」
振り向く。
言うことをきかない体を無理やり曲げて、ネロに向き直り。
「……?」
先ほどまでビッテスがいた辺りになるのか。
そこに立つのは薬師に襲い掛かったビッテスではない。
「ネロ、さまを――っ!」
「イドラ!」
動けば、自分の動きで命が尽きるだろうとはわかっていた。
それでもいい。
目の前でネロを殺させはしない。
もう一度
「やらせん!」
無表情な幼女だったはず。
だが、イドラの最後の一撃で貫かれるそれは、満ち足りた聖母のごときほほえみを浮かべたまま――
そうだ。
ファニアが現れる前に周囲を見た時に感じた違和感。
少女のいる場所だけ何か歪んでいるような。
まさかそれが、死にかけたイドラの目にネロの居場所を見誤らせるなど。
◆ ◇ ◆
ムンジィが来てくれて気が抜けていたわけではない。
アユミチはしょせんは人間だ。
腹に深々と膝を叩き込まれた後で、すぐさま動けるはずはない。
まともに体が動かない。
それでもムンジィの言葉に答え、反対でファニアがイドラに勝利したのを確認して。
終わった、と。
そう思ったとしても誰が責められるのか。
「ネロ、さまを――っ!」
「イドラ!」
イドラが唸り声を上げ、ファニアが叫び。
その向かう先を見れば、何かが揺れる。揺らぐ。霞のように。
ビッテスの放った針で霧散した時の何かと似ている。
もっと濃く、何か。歪み。
滅ぼす手立てを失った邪神に、英雄が命を代償にして振るう神槍を突き刺したら?
その英雄は邪神を守ろうとしているのに。
では、見誤らせたら?
邪神の放つ光まで歪めるのは簡単ではあるまい。
どれだけ優れた幻術使いだとしても、すぐ傍に、一緒に貫かれるくらい近くにいなければ。
「か――」
呼ぶことも敵わない。
鋭い穂先がその幻影を貫いた。
◆ ◇ ◆