法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
鬼巫の里が世界の全てだった。
里の外にも世界は広がっていると知ってはいたが、見たことも感じたこともない世界などないも同じ。
手が届く範囲だけが世界の全てだった。
次代の鬼巫として生まれた。
半月の夜に交わった女のどちらかが身籠る。
まれに、双方が身籠り、満月の夜と新月の夜にそれぞれの子を産む。
別の腹から生まれるのだから姉妹ではない。マベラとアハラマはそういう関係だった。
鬼巫の里は山をいくつか数えるほどの広さがある。
余人は立ち入れない。女神スカーアの御力で守られている。
里の住民は今は六千を超える。里が始まった頃は百と少しだったとも聞く。
スカーアの言葉に従い、皆が互いを大事にするよう親愛を深め親密に与え合い分かち合ってきた。
外部から招き入れた女たちもスカーアの恩寵を授かり里の一員となっていったと言う。
女だけの隠れ里。
里を出るまでは男を見ることはなく、異国の生き物としてそういうものがあるという程度の認識。
実際に里を出て、男の多さに面食らい、彼らからの視線にさらされるまでは、嫌悪も何もなかった。
外の女たちはよくもまあこんな生き物に唯々諾々と従うものだと、憐れみと呆れを覚えた。
アハラマは次代の鬼巫として育てられた。
厳しい修練なども課されたが、甘やかされることも同じほどあった。
姉代わりにつけられたクロロテッサはアハラマのわがままに何でも応えてくれたし、早くから甘い蜜のような夜も教えてくれた。
半月の夜ではなくとも、女同士お互いの半月のように欠けた丸みを重ねて、押し当てて、体温を交換する。
肌を重ねて、お互いの熱がじんわりと溶け合い伝わっていくと、心が安らぐ。
敵ではない。傷つけあわない。心地よい関係。
里の女たちは古くからそうやって親密な蜜月を巡らせ、里を守ってきた。
だからアハラマも里で目に付いた者がいれば求め、求められた女もアハラマに応えてくれた。
里の者はみなアハラマの大事な者たち。
アハラマもまた里に愛される。
女神スカーアが作ったこの里が世界の全てだった。
キュアナの憂いが目に止まった。
命を捧げる誓いまでしてくれたキュアナなのに、何かから己を守るようにぎゅっと肩をすくめて。
痛い思いをさせてしまっただろうかと。
そんな顔をさせていたくはない。
キュアナもアハラマの大事なものの一人。
自分がわがままで勝手だという自覚はあり、清廉なキュアナにできるだけ丁寧に理由を尋ねた。
アハラマにできることならする。女神スカーアが与えてくれたように、キュアナにも安堵と幸せを与えたい。
キュアナの口からコッキノへの想いを聞いて、聞かせてもらって嬉しかった。
次からは一緒に呼ぶ。
初めてキュアナがコッキノと唇を重ねた時、その目から零れた涙をアハラマが拭った。
レフカースはいつもかちこちだ。
何か粗相がないか、間違えていないか失敗しないかといつも首筋をこわばらせている。
実に可愛らしい。
ついからかってしまう。
クロロテッサはアハラマをどこまでも甘やかす。
泣き言や愚痴も包み込んでくれるし、時には彼女を傷つけるようなことさえ許してくれる。
爪痕を、噛み跡を、首に赤く指の形が残るようなことさえ。
荒々しい苛立ちも含めて飲み込んでくれる。姉のような存在。
マベラは少し複雑だ。
アハラマのことをどう思うのか、不満はないのか。
そんなものない、むしろ気楽だと言う。
一度、レフカースと半月の夜に求め合ったことがあった。禁じられていたのに若気の至り。
珍しく守女たちに叱られた。責任感の欠如、軽率だと。これではもう勝手な行いは許せないとまで言われてしまう。
マベラが庇ってくれた。アハラマではなく自分がレフカースを騙して誑かしたなどと言って。
嘘だと知れたはずだが、叱責の場はうやむやになり解放された。
――大丈夫。主様の顔で悪戯はしている。
澄まし顔で言ったのは冗談でもなかったらしい。
見知らぬ娘が知らぬうちにアハラマと親密になっていたのは、どうやらその悪戯のせい。
――まるっきり嘘じゃない。だから平気。
聞いていたレフカースが何度か瞬きを繰り返してから、マベラの顔を見て耳まで真っ赤にした。
なるほど。まるっと嘘ではなかったか。
両手を握って怒りを訴えるレフカースと、とぼけた様子で顔を逸らすマベラ。
五色の花札はアハラマの宝だ。
アハラマの世界の全てだった。
次代の鬼巫が生まれない。
アハラマの次が。
遅れているだけなのか、別の理由か。
わからぬ。わからぬまま、先代ヨハルハを引き継ぎ鬼巫としてトローメ王宮に出た。
聞いてはいたが、外の世界はひどく汚れていて息苦しかった。
毒気が満ちる外界。
里とは違う好奇、好色の視線。
隠れ里を守る為とはいえ辟易するお勤めだ。
数は、里とは比べ物にならない。
もし仮に真正面から敵対すれば隠れ里とて危うい。エクピキやそれ以外の何かででも隠れ里の守りが暴かれ、蹂躙されてしまう可能性もある。
国の協力者として里とスカーアを守る。
同時にエクピキの動きを見張る。
北府ヴォラスとより友好的な関係を築くのも隠れ里を守る為の手段。
五色のうちひとつは欠けていると見せるのは、従来からの習わしだった。
隠形を駆使して影武者を用意する。何かと有用だ。
息苦しい外界で巫気を必要とする弱点を隠すのにも使える。
足りない一枚の花弁を求める、という名目もある。
最近は少なくなったが、過去には積極的に里に新しい女を迎えていたともいう。
アハラマの目に留まる女がいれば、だが。
見つけた。
鮮烈で凛々しい女。ファニア・イア・イオルテ。
腐った臭気に満ちる世界で、かすかに
アハラマの世界になかったもの。
外の世界で見つけた、アハラマが自分の目で見つけた花。
ほしくなり、手に入れたくて、性急だと花札たちが諫める言葉も聞かずに声をかけた。
正解だったと思う。
間違いだったとは思わない。
息苦しい外の世界でやっかいな務めを果たしているのだ。
ひとつくらい、己の手に収める花弁くらい好きにさせてほしい。
クロロテッサは頷いてくれたがレフカースとキュアナは不服そうで、マベラはどちらでも構わないと。コッキノは、自分の方が頼りになると口を尖らせていた。
ファニアは、里の女とは違った。
現状、巫気に無関係な彼女は夜伽をする必要はないのだが、アハラマたちが肌を重ね唇を交わすと聞いてあからさまに動揺していた。
初々しく可愛かった。
その反応が新鮮に映り、無理には誘わない。
ファニアの方から言ってきてくれるのを待つのも悪くない。
他の花札たちの視線も、よそ者に譲りたくないという棘があり、強引なことはやめた。
手の内にあるのだから焦ることもない。ゆっくりとアハラマの色に染まってくれれば。時間の問題にも思えた。
時間があれば、きっとそうなっただろう。
猶予があれば、花札たちの棘も丸くなだらかに、ファニアも望んでアハラマに身も心も委ねてくれただろう。
鬼巫が望むからと身を委ねたキュアナのことを、少し苦く思っていたこともある。
外の世界の見知らぬ花。
触れたいけれどためらう。そんな時を愉しみたかったのかもしれない。里ではない時間だったから。
「ファニア!」
一度失ったから。
アハラマの手落ちで死病に冒され失った花。大切にしようと思っていたのに。
「ならぬ、下がれ!」
「いけませんラハ様!」
戻らぬと言った。
別の道を進むと決心していたけれど。
しかし、命を救われた相手に剣を捧げるというのならば、その身を委ねるというのならば。
なら、アハラマでもいいではないか。
アハラマだってそれになれる。
「妾は」
絶対に敵わぬ敵を前にして、なぜ逃げようとしないのか。
ここで待つのがあの男との約束だとでも言うのか。あるいは、巻き込まれた幼女や女占い師を守らねばならんとでも。
「おぬしを死なせはせん! 二度と!」
トローメ王国首都イオドキッサに出現した絶望に向かうファニアの背を追った。
◆ ◇ ◆
「ここで待ってりゃ会えるって……すまねえ、旦那……」
何があったのか。
数日の間に廃墟と化した王都の端で、ムンジィは力なく項垂れていた。
座り込み、無力さに打ちひしがれた姿で。
「中で待ちましょうって言ったのだけれど」
近くの壊れかけの建物からアスパーサが出てきた。目を覚ましたプレヴラの手を引いて。
廃墟。
確かに戦争の中心地ではあった王都だけれど、おかしい。
外周を守る城壁も、その中の建物も、意味もなくむちゃくちゃに壊されている。
破壊されている。
「なにが……」
ようやく辿り着いたアユミチには全く理解ができない。
戦争は終わり、全て片付いたのではなかったのか。
その後に仲間割れだとか、あるいはネロ派の軍との大規模な衝突が発生したのか。
いや、おかしい。
仮にそうだとしても、町を無秩序に暴力的に破壊して回るなんてそんな理由がどこにある。
敵対する宗教などで相手側の文化を全て破壊するなどあるかもしれないが、先日までの戦闘は内戦だ。
治めるべき都市を、ぐちゃぐちゃに破壊して何が得られる。
「こんな、目茶苦茶」
城壁は、当たり前だが頑丈だ。殴ったり蹴ったりして壊れるようなものではない。
攻城兵器のようなものを使えば壊せるだろうが、だとしても相当な労力。
その上、町の中までぐちゃぐちゃに。
石材、木材の建物がぶち壊され掻きまわされたような。
巨大なブルドーザーでも走り回らせたみたいに。
「ファニアは……どこに……?」
「すまねえ! 俺ぁ自分が情けねえ! 心底、くそっ……すまねえ旦那」
「……」
地面に手を着き額を擦りつけるムンジィの姿には既視感がある。
初めて会った時に。
「ファニアの姐さん……姐さんは、俺らを庇って……」
「なんだって言うんだ!」
「
――都は死病と魔獣で滅んだ。
「どでかい大サソリが出やがったんだ! ファニアの姐さんは王蠍にやられちまった!」
「おう……渇きの、王蠍……?」
ばかな。
あれは倒した。禁域でアユミチが殺した。死骸だってあった。
「間違いねえ、王蠍だ……俺ぁ見た……見間違いじゃあねえ……」
他の誰かではない。ムンジィの目を疑うことはできず、言葉を失った。
◆ ◇ ◆